化け物アニメ映画ランキング 6

あにこれの全ユーザーがアニメ映画の化け物成分を投票してランキングにしました!
ランキングはあにこれのすごいAIが自動で毎日更新!はたして2024年06月02日の時点で一番の化け物アニメ映画は何なのでしょうか?
早速見ていきましょう!

90.5 1 化け物アニメランキング1位
もののけ姫(アニメ映画)

1997年7月12日
★★★★★ 4.2 (2048)
13291人が棚に入れました
エミシの隠れ里に住む少年アシタカは、村を襲った「タタリガミ」に呪いをかけられる。ただ死を待つより、己の運命を「曇りなき眼」で見定めるため、はるか西方の地を目指して旅立つ。そこでアシタカが見たものは、森を切り拓いて鉄を作るタタラの民とその長エボシ、森を守る山犬一族、そして山犬と生きる人間の少女サンであった。アシタカはその狭間で、自分が呪われた理由を知る。やがて、森を守ろうとする動物たちと、その長「シシ神」を殺そうとする人間達の壮絶な戦いが始まる。

声優・キャラクター
松田洋治、石田ゆり子、田中裕子、上條恒彦、西村雅彦、島本須美、小林薫
ネタバレ

イシカワ(辻斬り) さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0

宮崎駿監督の海外向け作品

もののけ姫
ストーリー
森や山が世俗から離れた神の領域として信仰されていた遠い過去。
宮﨑駿監督は、武士や農民といった焦点として当たりやすい人々ではなく、先住民や漂流民、業病を抱えた者など、歴史の表舞台に立たない人々に着眼した。主人公の一人であるアシタカもまた、天皇と対立して住んでいた土地を追われた蝦夷(以降エミシと表記)という古い民族の者であり、いずれは追いやられている部族を背負っていかねばならない立場にある青年だ。まだ実権を握っていた天皇や武士といった体制側と対立したために、歴史の影となり、まともに注目されないまま埋もれていた人々の物語でもあるのだ。
そのような時代背景の中で、事件は起きる。
縄文的村落で暮らしていたエミシの一族の前に突如として現れた得体の知れない存在。それは山のような体を揺さぶり、辺り構わず突進する抑えがたき猪の祟り神だった。堪えられる精神の限界を超え、憎悪と憤怒が噴き出し、全身にある穴という穴から黒い感情が実体化していた。肉眼で視えるそれは多数の触手となって、巨躯を覆って黒い生き物のようにうねる。そして周囲の人々が近づけば触手は絡みついて自由を奪う。
アシタカは村落の危機を救うため、祟り神を鎮めようと説得するがしくじる。しくじったせいで村の者達は窮地に陥り、見かねたアシタカはついに弓で祟り神を射殺してしまう。その瞬間、祟り神の呪いを腕に受けたアシタカは、大きな弾丸が祟り神の遺体から出てきたのを目撃。村落に持ち帰り、年長の者達に意見を乞うた。
老婆は告げる。古き神が祟り神に変じたのだ、このままでは呪いに体が蝕まれ、取り憑かれて死ぬと。
「曇りなき眼(まなこ)で見定める」
アシタカは、弾丸を手がかりに、なぜこのような事態になったのかを曇りなき眼で見定めるため、真実を探求すべく神々が棲むという森へ、ヤックルという獣の背に乗り独り旅だっていった。

4つの視点から成り立つ構成
1つ目は、エミシの一族であるアシタカの視点だ。他の主な登場人物も、象徴的な存在として描かれている。

2.国崩しを望む女性、烏帽子御前(エボシゴゼン)
烏帽子御前という美女は、戦乱の世によって行き場を失い、弱者の立場に陥り身売りされていた女達を買い取り、タタラ場の製鉄で資金を得ていた。初期投資の予算はあったのだろうが、この時代にあって机上の空論ではない経営理念を持った実力派の人物である。
さらには女人が入ると鉄が汚れるという理由から踏み入れることが許されないタタラ場の製鉄の仕事に、率先して身売りされていた女達を起用した。既成観念に縛られない人物ともいえるだろう。男尊女卑の国にあって、女性自らがリーダーとして立つ。国という既成概念ですら崩してしまおうという考えすらある、新興勢力の頭目である。青銅製の兵器が一般的であったころから、鉄製品が現れる時代の変遷もこの物語では描かれているのだ。

3.人間の権力者とその手先
天皇たる帝(ミカド)とジコ坊
森に住むシシガミは、業病を癒やす薬になるとか、不老不死になるとかいう噂から、その首を望んでいる。また、タタラ場の製鉄所に目をつけている。非人頭であり師匠連でもあるジコ防を動かし、密偵として森へと差し向ける。ジコ坊は唐傘連という特殊な組織を配下に連れており、烏帽子御前に接近。森へと唐傘連を放ち、暗躍する。

最後の勢力
4.もののけ姫と古き森に棲む動物神たち
もののけ姫というタイトルどおり、アシタカの向かった先の森には古き動物神が棲んでいた。針葉樹林の豊富な屋久島を視察してイメージを得たという森。森や自然は絵として美しいが、演劇の舞台装置のようなものではなく、作品を支えるテーマの一つといってよいだろう。岩山ですら苔の緑に覆われ、巨木が聳え立ち、鬱蒼と生え茂る木樹は天を隠し、葉の隙間から漏れ出る陽光は神秘的な光を大地に落としている。

人と自然とのかかわり合いを描いてきた宮崎駿監督だが、これまでの自然と人の調和、協調路線を主人公に課すのではなかった。

もののけ姫であるサンはナウシカとは異なり、人との調和など求めていない。完全に自然側に即して生きている。何より、森を荒らす人々に攻撃的で容認しない態度だ。人間側もまた一方的に、地中にある鉄を奪うために森を荒らす。ナウシカのように王蟲やトルメキアのクシャナと対話を試みたりすることもない。対話のない双方激しい憎しみと怒りがあり、侮蔑を隠すこともない。これは過去のヒロイン像、さらにいえば、宮﨑駿監督の理想像を自らくつがえしてみせた、理想ではない造形のヒロイン像である。過去、宮﨑駿監督は周囲から、理想像的すぎる、世の中に存在していないかのようなヒロインを描きすぎるといったバッシングに立たされていた。いってみれば、風の谷のナウシカや未来少年コナンのラナ、天空の城ラピュタのシータなどといったお嬢様、男性から見た理想像的なヒロイン像にNOをつきつけられたのである。
その中で、新しいヒロイン像を模索し、魔女の宅急便のキキのような、過ぎたる理想像ではない、女性から見ても共感されるぐらい身近なヒロイン像を描いてみせていた。そして今回、理想像ではなく、といってもただの現実的なヒロインでもない、第三のヒロイン像を確立させた。勇猛果敢で人に攻撃的、調和など用いぬ、アシタカに出会った際にも睨みつけるような一瞥を送るなど、人から好かれやすいようなヒロインとはまったく別ものといってよいものとなっている。視聴者に媚びを売ることなく、自らが要求されたものに妥協することもないヒロイン像、厳しい試練を宮﨑駿監督は自らに課したのだろう。

『人の業を受け入れるのは、もののけ姫であるサンではなく、タタラ場の烏帽子御前』

風の谷のナウシカでは、人の業の象徴である、腕が石になってしまう病を得た老人が、トルメキア軍のクシャナに対していう。
城オジたち「あんたも姫様じゃろうが、儂らの姫様とだいぶ違うの。(手を差し出しつつ)この手を見てくだされ。ジル様と同じ病じゃ。あと半年もすれば石と同じになっちまう。じゃが、儂らの姫様は、この手を好きだというてくれる。働き者の綺麗な手だというてくれましたわい」
これは主人公のヒロイン像を確立させるに値する一つのファクターといってよい。
{netabare}烏帽子御前が猪神を石火矢(火縄銃)で撃ったことに対してアシタカは批難する。呪われた右腕は烏帽子御前を殺そうとするが、烏帽子御前は平然と構えている。{/netabare}
石火矢(火縄銃)づくりのおさはアシタカに陳情する。
「お若い方、私も呪われた身ゆえ、あなたの怒りや悲しみはよっくわかる。わかるが、どうかその人を殺さないでおくれ。その人は、儂らを人として扱ってくださった。たった一人の人だ。儂らの病を恐れず、儂の腐った肉を洗い、布を巻いてくれた。生きることは、まことに苦しくつらい。世を呪い、人を呪い、それでも生きたい、どうか、愚かな儂に免じて」
人の業を受け入れるような、若き指導者としてのヒロイン像を宮崎駿監督はサンに与えなかったのだ。
これは過去作品の、自らの訴えそのものを、自らで否定したに等しい行いだ。それは自然と人間の調和を訴えてきた作品の否定でもある。この物語は、調和を目指していない。人によっては、宮﨑駿作品の理想をキレイ事だという人もいるだろう。これまでの作品の定義を自らで覆して発表するのは、挑戦的な行為ともいえる。
{netabare}古き風習を打ち破り、国ですら既成概念として崩そうと望む烏帽子御前。これまであったものの破壊によって、新たなものを打ち立てるという思想は、もののけ姫や森の神々にも向けられており、思想的な相違から双方が戦うことになるのだ。{/netabare}

本来物いわぬ動物たち
意思表示がはっきりしない彼らがもし人の言葉を解し訴えるとしたらどうなるのか。
山犬であるモロという名の神のセリフが明確に語っている。
「おのれ人間めっ!」
このセリフを聞いたとき、筆者は、やってくれたな、と思ったのである。筆者自身、かなり宗教学的な分野の本を趣味レベルで読んでいる。そのため、宗門の属する人間の思考形態が一般人より脳内で鮮明化できているという自負がある。
神という存在は、人間の行いによって、罰も与えれば、崇めて神のいう言葉に耳を傾け、いう通りにすれば救いもするという理屈である。しかし、現実的な視点で見れば、宗教指導者、実質的な権限者にとって都合の良い教えになっている。さらにいえば神は人間の都合の良いこと以外はしないような考えがある。
もし、鳥や魚にとっての神がいて、人間が鳥や魚を大量虐殺したのなら、その罪を贖わせるために罰を与えるだろう。創造主といっておきながら、極度に人間偏重な考えでしかない。万物の創造主なら、他の生物に対しても当然愛情も親しみもあるだろう。それが、人間ばかり都合の良い教義がまかり通るのは、神の正体が、信者の願望からくる理想像そのものでしかなく、それ以上でもそれ以下でもないからではないのか。
その人間に都合の良いはずの神が、おのれ人間めっ!と言い放つのである。人間に都合の良い神でなくても別段不思議でもなんでもないはずだ。人間は基本的に自分のことしか考えない側面がある。その偏った信仰と、その信仰という名の願望によって生まれてきた神とその教えに鋭い一撃を放った。そのように直感した。
生まれ変わっても一番功徳を積んだら人間に生まれ変わる。だから人間こそ一番権利があると説く宗教もある。最初に説いた指導者はそのようなことを口にしていなかったとしても、次第に変質し、自分に都合が良いように変わっていく。宮﨑駿自身も口にしていたが、仏教が正しく伝わらなかったからこそ、繁栄したところがある、というような意見があったという。
アメリカ辺りではキリスト教の勢力から、もののけ姫上映の停止を求める強い要請があったことも事実である。宮﨑駿監督は、魔女の宅急便でも同じく、キリスト教にとって悪という概念である魔女を主人公の作品作りをした。ある意味真っ向からの対決姿勢にでさえみえる。
宮﨑駿監督の風の谷のナウシカや他の作品との類似点は多い、キャラクターの人間関係、主人公と対峙するのは女性指導者と中年の男性配下。自然と人間の環形を問う形式。ボーイ・ミーツ・ガールの男女の主人公。宮﨑駿監督作品をよく知る人にとっては、整理して焼き直しした作品に思える人もいるだろう。ただ、筆者の視点からすると、海外向け作品としては、初めてのメジャーデビューに近いものだと認識している。
きちんと仕切りなおして、集大成としての作品作りにして、海外へのメッセージとしたのではないだろうか。
キリスト教では、創造主たる神がすべてを創りだしており、その神の信徒であるのなら、他の生き物は神と自分たち人間のためにあってよい、いってしまえば、信徒は神の代理人として、権利を譲渡され世の中の生き物だろうが資源だろうが自由に使う権利があるという考えが古来まかり通っていた。近代となって、はじめてエコロジーや自然環境を考える人々が出現してきたが、神によって創りだされた自然は、神の代理人たる信徒の利用する権利があって当然としか考えてこなかった面がある。絶滅危惧種が増え続け、人間の行動によって絶滅しても、神によって許される、それが当然という考えがあったという論文の記述を複数の歴史的書物で見かけた。筆者も同意である。その一辺倒な思想に否を突きつけたようにしか、筆者にはみえなかった。
これは海外向けに作った作品として、明確な意思表示があったというところが、筆者の独断と偏見だ。その自然側にいる、神の子としているもののけ姫。神の子という言い方をすれば、イエスが挙げられるが、まったく別アプローチによって、神の子と神話を描き出している。

『物語のロジックとしての整合性を捨て、メッセージ性を優先する姿勢』

最初のシーンである村落で、助けられた少女、カヤはアシタカを慕って、黒曜石の小刀をお守りとして渡すのだが、それをもののけ姫であるサンに渡してしまう。普通に考えるのならば、慕っている女性からの贈り物を、他の女性に心の表れとして贈ってしまうというのは、倫理的に問題があるところだろう。
物語のロジックとして考えるのならば、整合性がない、なんのためにあのシーンはあったのか、物語の骨子、シナリオのプロットとしては無駄な部分ではないかという指摘があっても不思議ではない。
しかし、宮崎駿監督の作品はロジックよりメッセージ性のほうが優先されている。製作過程においても、ある時いきなり、なんの予定もなかったキャラクターが登場してしまうこともよくあるという。予定を組んで制作に入るのは、放映時間の制限内で物語を完成させる上で当然の行為だが、宮崎駿という人はシナリオをいきあたりばったりで作ることもあったという。そのせいで、先が読めない展開となりやすく、却って視聴者は、わからないがゆえの興味が沸く。いってしまえば、どうなるのかわからないからこそ、手に汗握る展開も出てくるのだろう。うまくできなかった時の高いリスクと引き換えにした面白さであり、誰にでも、はいそうですかといってできるものでもない。行き当たりばったりで作ると、たいていは骨子がうまくできあがらず、頭と終わりだけがはっきりしている、いわばミミズのようにクネクネするだけの作品となり、キャラが立たないのと同じく、シナリオが立たない。シナリオとしてうまく成立しにくいのだ。同じやり方で、シナリオが成立できてしまう辺りが、駿監督の特異性といってもいい。
ただこのやり方を踏襲したアニメゲド戦記は、原作が理論性と整合性を突き詰め、計算づくで極めてロジック的に作られていた。それを捨てたせいでシナリオはある意味破綻してしまった。その意味でいえば、もののけ姫よりナウシカの方がロジック的に整合性の優れたシナリオといってよいだろう。

サンとアシタカが最後にいうセリフこそ、自然と人間との調和や協調路線ではない、シビアで現実的な立ち位置を示している。
{netabare}
サン「アシタカは好きだ。だが人間を許すことはできない」
アシタカ「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう。会いに行くよ、ヤックルに乗って」
アシタカが黒曜石の小刀を手渡す意味を理論的に考えようとするのならば、一応できなくもない。タタラ場で暮らすと口にすることによって、エミシの里に戻らないことを宣言することになる。そこまで考えると、もう小刀を手渡した時からエミシの里に戻らないことを決意していたことになる。
共に生きよう、とは、どちらかが滅んでもかまわないということではなく、お互い死ぬまで戦う必要がないということなのだろう。だが二人で同じ屋根の下、夫婦になって暮らそうという意味ではない。
{/netabare}
単なるボーイ・ミーツ・ガールではなく、離れて暮らすという距離感が、自然と人間との距離感の暗喩として使われているラストだというのが、筆者の結論だ。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 18
ネタバレ

Tuna560 さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

『もののけ姫』作品紹介と総評+考察「宮崎駿の自然観②」

こちらも言わずと知れた宮崎駿監督の代表作の一つ。
そして、私にとってのNo.1ジブリ作品です。

(あらすじ)
エミシの隠れ里に住む少年アシタカは、村を襲った「タタリ神」に死の呪いをかけられる。ただ死を待つより、己の運命を見定めるため、はるか西方の地を目指して旅立つ。
そこでアシタカが見たものは、山林を開拓して鉄を作るタタラの民とその長エボシ御前、森を守る山犬一族、そして山犬として生きる人間の少女サンであった。アシタカはその狭間で、自分が呪われた理由を知る。やがて、森を守ろうとするもののけたちと、もののけの長「シシ神」を殺そうとする人間の壮絶な戦いが始まる。(wikipedia参照)

この作品までのジブリ作品は西洋風ファンタジーか現代日本を舞台にしたものが多かったのですが、本作はそれまでの世界観とは一線を画す”純和風”なものとなっています。この世界観は私にとっても新鮮に感じ、またこの作品に引き込まれた第一要因でもあります。

作画に関しても非の打ち所がないように思います。特に、”シシ神の森”の自然描写は非常に素晴らしい。
森の中を見渡した俯瞰風景から苔や草木のアップの描写まできめ細やかに描かれ、美しくもあり神秘的でもある自然が表現されています。劇場で観たときは本当に「その森の中に迷い込んだのではないか?」という感覚に陥った事を、今でもよく覚えています。

作品のテーマが複数並立している事も本作の特徴ですかね。そのなかでも、『風の谷のナウシカ』でも描かれた「人間と自然の共生」、そして「神秘主義と合理主義の対立」という2つのテーマにとても惹かれました。
本作では各キャラの思想・立場がある程度細分化され、その衝突や対立をメインに描かれています。
簡単に分けるとすれば、下記になりますね。
 ・自然との共生を重んじる(アシタカ/エミシの村)
 ・自然そのもの(サン/シシ神の森)
 ・発展の為には自然をも搾取(エボシ御前/タタラ場)

では、ここからは『風の谷のナウシカ』のレビューでも述べた”自然観”を絡めながら、特に”エボシ御前/タタラ場”の視点でこの2つのテーマを掘り下げながら考察していきたいと思います。考察テーマは「合理主義による自然観の変容」です。


{netabare}・合理主義と自然観
まず始めに「合理主義とは何か?」について簡単に説明をします。
”合理主義”というのは、”感覚や経験よりも、理性や論理を元に認識を行う”態度の事です。主に哲学の分野で発達し、後の近代科学の発展に多大な影響を与えた主義でもあります。哲学と近代科学を並列して記す事に疑問を感じる方もいると思いますが、実はこの2つは密接に関わっているのです。

ここでいう哲学は”西洋哲学”の事を指します。哲学と言えば「人間を考える学問」という認識が強いかと思いますが、中世ヨーロッパの哲学は”神(唯一絶対神)”を考える学問でした。そして、”神の痕跡”を探す為に神が創ったとされる”人間や自然”を観察対象とし、偉大な神の摂理を紐解こうとしたのです。そこで成立したのが”合理主義”です。感覚的に信じられていた”神”を物理的・論理的に証明しようとしたのです。しかし、皮肉にも証明されたのは”神”ではなく”物理的原理”でした。

具体例を挙げるとすれば、イギリスの哲学者アイザック・ニュートンでしょう。彼は”観察出来る物事の因果関係を示すという哲学”の解釈を展開し、万有引力の法則を提示しました。月と地球の動きを観察しその法則を導き出したのです。証明されたのはやはり”物理的原理”でした。そして、彼のこの解釈方法が近代科学(科学的合理主義)を発展させたのです。

合理主義に根ざした哲学が近代科学の発展を導いたのですが、その元を振り返れば”神を知る為に人間や自然を客観的に観察する”ことが原因だと言えます。それすなわち、その根底には”西洋的自然観”が存在したと言う事が出来ます。つまり、”西洋的自然観→哲学(合理主義)→近代科学(科学的合理主義)”の順に派生したと考える事が出来ますね。これが”合理主義と自然観”の関係です。


・『もののけ姫』の中に見られる合理主義
ここまで読んで「純和風な『もののけ姫』に西洋的な思想の成り立ちの話がどう関係するのか?」とお思いの方もいるかと思いますが、あながち関係のない話でもありません。本作中の重要なアイテムとして西洋近代文明を象徴する物が登場しているからです。それは「石火矢(鉄砲)」です。(作中では「明からの伝来物」という説明がありましたが、その性質は合理主義を具現化した物として描かれています。)

まず物語の発端としては、石火矢に撃たれた”タタリ神”がエミシの村を襲う所から始まります。”タタリ神”は元々は猪神で山を守る主神でしたが、製鉄に必要な薪を求め森林破壊をしていたエボシ御前(タタラ集)と対立し、石火矢の前に破れたのでした。石火矢の登場により国内の人間と自然の勢力均衡が大幅に変わり、生態系の破壊を可能にしたのです。

エボシ御前は石火矢により強大な理想国家を造る事を目的としていたのですが、それに必要な鉄を量産する為には多大な自然資源が必要だったのです。山を崩し、森林を破壊すると勿論”自然(神)”の怒りを買う事になります。しかし、”自然を屈服させる力”を得たエボシ御前は、自らの目標の為に”神”を討伐する道を選ぶのです。

つまり、エボシ御前が得た力とは”合理主義によって生まれた近代科学”、彼女が目標としていたのは”近代国家”の建立だったのです。したがって、本作では”近代人と古来の日本人”との対立がメインに描かれていたのだと私は考えました。


・何故「日本」が舞台なのか?
では、本作も『風の谷のナウシカ』と同様に「”日本的自然観と西洋的自然観”の比較が描かれているのか?」と思いがちですが、実は少し違います。なぜなら”西洋的自然観”は本作では描かれていないからです。

本作の舞台は日本ですので、人と人が対立するのは勿論日本人同士になります。登場人物が全員日本人であれば、西洋的自然観は必然的に登場しません。では、何が描かれているか?それは、考察テーマにも挙げた「自然観の変容」だと思います。

近代科学を手に入れ、近代国家の建立を目指したエボシ御前とタタラ集は、神と崇めていたはずの自然に対し破壊行為や討伐を行いました。しかし、これは”西洋的自然観”の為ではなく”近代科学(科学的合理主義)”のためです。もともと備わっていた”日本的自然観”に”科学技術や合理主義”といった近代文明が組み込まれ、いわゆる”ハイブリッド型自然観”へと変容したのだと考えられます。

実は、この”ハイブリット型自然観”は、近現代の日本人の自然観と同じものだと言えます。日本の近代化に拍車が掛かったのは明治維新後ですが、維新で活躍した志士に多大な影響を与えた佐久間象山の言葉を記した『語録』にこんな言葉があります。「東洋の道徳、西洋の芸」。つまり、日本人の道徳はそのままに、西洋の技術だけを取り込んで近代化を成そうというものです。結果、日本は日本的観念はそのままに近代化を果たしたのです。

”古来の日本的自然観”と”ハイブリッド型自然観”の対立。これを描く為に舞台を日本にしたのではないかと思います。


・私が感じた宮崎監督からのメッセージ
『風の谷のナウシカ』のレビューでも述べましたが、宮崎監督が根ざしているのは”日本的自然観”です。もっと言えば、照葉樹林文化論によって確立された”森林文化”に根ざしているので、”古来の日本的自然観”の立場の方だと言えます。

本作で”古来の日本的自然観”と”ハイブリッド型自然観”の対立を描いたのだとすれば、勿論前者を訴えかけると思われます。しかし、劇中でアシタカがサンに投げかけた最後のセリフを聞いて、違うメッセージがあるのではないかと感じました。

「共に生きよう」
このセリフを最後に持って来た事に意味があると思いました。

サンはシシ神の森で、アシタカはタタラ場で。それぞれ違った価値観や自然観を持った環境で”共に生きよう”と投げかけたのです。どちらかを選んで暮らすのではなく、お互いの根ざした観念を失くさないように別々に暮らす事を選んだのではないでしょうか。”自分とは違う”からといって矯正を強いるのではなく、多様な価値観や自然観を持った者同士であっても”共生する術がある”という事を伝えたかったのではないかと感じました。

これは、そっくりそのまま現代の日本人にも当てはまるセリフに思います。
現代の日本人の大半は”ハイブリッド型の自然観”の基で育ったと思いますが、元を正せば”古来の自然観”も持ち合わせているのです。その2つの自然観と”共に生きてほしい”というメッセージが込められていたのではないでしょうか。

”矯正”ではなく”共生”。響きは同じですが、意味はこんなにも違うのですね。


さて、実はもう1作宮崎監督の自然観が伺える作品が残っております。
今度はその作品で”人間と自然”との関わり方について考察していきたいと思います。(続く){/netabare}

(記述:3/12)

投稿 : 2024/06/01
♥ : 47

コンビーフ さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

もののけ姫への個人的見解

【良い点】

・ストーリー展開
・安定のジブリ作画
・アシタカせっき
・サン
・世界観

【悪い点】

・終盤のテンポ
・アシタカの行動


ストーリーを簡単にまとめると、

昔の戦に敗れたアシタカの一族はひっそりと森に暮らしていました。ある日、森の様子がおかしいと知らされたアシタカは、見張り櫓に登って、爺と森を観察していました。すると、中からモジャングが現れ、ホモォのように走り出しました。。いろいろあって、モジャングの呪いを受けたアシタカは、もう永くはありません。そこで、一族の巫女(なのにババア)は言いました。

「西へ行ってこい。どうにかなるよ」

村を出たアシタカは、西へと向かうのだった……



登場人物

アシタカ
本作の主人公。エミシの村の青年。現代のヘタレ主人公とは大違いに素晴らしい、ある一点を除いて。年は17歳。

ヤックル
本作のヒロイン。大っきなカモシカ。可愛いし、頭いい

サン
本作の準ヒロイン。可愛い。声優がビックリ。年は15歳。人間くさいと言っておきながら、ビーフジャーキーを口移しするツンデレ。

エボシ
本作の悪キャラ。たたら場をまとめると女主人。モロナイス!と思った人は数知れず。

ゴンザ
ギャグ要員。千と千尋の神隠しに首だけ再登場。

ジコボウ
エボシと同じくウザいキャラ。最初はいい奴と思ったのに……

モロ
大っきなワンワン。「黙れ小僧! お前にサンが救えるか!」でおなじみ。サンのお母さん的存在。でも中の人のせいべt……

カヤ
アシタカの許嫁、だった女の子。萌え豚には人気。別れの際、「自分の想いはいつまでもあなたに」と限りない愛を込めた玉の小刀をアシタカに渡すが、その小刀をアシタカは……どちらにせよ、かわいそうな女の子。年は13〜4歳。

ヒイ様
村の巫女ババア。声優がビックリ。



物語のテーマは森と人との共生でしょう。「生きろ」と散々テロップなどがありますが、自分一人で生きていくことを言っているわけではないと思います。最終的に、この結論へと向かうはずです。

ストーリー自体、素晴らしいと言えるかはわかりません。小さいころナウシカと同じくらい好きでしたが、今改めて見ると本当に素晴らしいのかな? と首を傾げてしまいます。
作画は素晴らしいです。さすが金かけただけあるって感じです。
音楽も、とくにアシタカせっき(序盤で流れるあれ)を筆頭に、素晴らしいものばかりです。さすがジブリ、久石譲。

さて、この作品についてはいろいろな見解があると思います。ただ、私から言えることは、あなたが見たものが全て、です。人の考えはそれぞれなので、こだわってもしょうがないですね。

ただ私が言いたいのは、アシタカとサンのこれからです。
恋愛脳なら気になるでしょう。あの場面で、サンは森で、アシタカはたたら場で生きることを誓いました。そして、アシタカはヤックルに乗ってサンに会いに行くとも……

サンはあれから、傷ついた森とその生き物たちを助けながら生きていったでしょう。まあ山犬の一族は本来、森とシシガミを守る存在なので、そうなるのは必然かと思います。ただ、サンは人間と関わっていったかというと話は別になるかもしれません。
アシタカとの和解、たたら場の連中と決着が着いたとはいえ、世界は広いはずです。たたら場が隣国に襲われたように他にも国や村はあるでしょう。私たちの世界が文明にまみれたたように、やがて森も削られていくのかもしれません。サンはその森を守るため、生涯を捧げていくと思います。
アシタカはたたら場の復興と、サンの住む森を守るため、引き続き頑張ることでしょう。これは、宮崎駿さんもおっしゃたようです。

ただ、アシタカとサンがこの後、頻繁に会ったかどうかと言われると悩みます。あの場面で、アシタカはヤックルに乗ってサン会いに行くと言いました。森が目と鼻の先にあるのにも関わらず、です。いつでも会えるなら、そんなことは言わない気がします。アシタカもサンも結局、自分たちの住む世界を守るためその生涯を奔走することになったのでしょうか。となると、二人が会えたのはもっと後になるのかもしれません。



まあ、そんな深いこと考えず見るのが当たり前です。あの後はアシタカサン仲良く暮らして、子供も作ったと考えればハッピーになるはずです。
個人的には、アシタカが一度村に戻って、カヤを向かいに行く的なやつでもいいですね。まあ、ないと思いますが。

つらづらと駄文になってしまいましたが、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 4

76.5 2 化け物アニメランキング2位
空の境界 第一章 俯瞰風景[フカンフウケイ](アニメ映画)

2007年12月1日
★★★★★ 4.1 (1104)
6344人が棚に入れました
落下する少女の夢、俯瞰を断つ直死の眼 連続する少女たちの飛び降り自殺。現場はすべて、かつては街のシンボルタワー、今では廃墟と化した巫条ビル。屋上には浮遊する「霧絵」がいた…。\nそして事件が5件を数えた頃、万物の生の綻びと死線を視る能力「直死の魔眼」を持つ両儀式が謎に挑む。

声優・キャラクター
坂本真綾、鈴村健一、本田貴子、藤村歩、田中理恵
ネタバレ

入杵(イリキ) さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

空の境界の序章 空の境界の作風を実感! 俯瞰の視界、浮遊と飛行とは・・・

「空の境界」は奈須きのこによる、同人誌に掲載された長編伝奇小説である。全7章で構成され、本作は第一章「俯瞰風景」が映像化された。「そらのきょうかい」でも「くうのきょうかい」でもなく、「からのきょうかい」なのでお間違えの無い様に。略称は「らっきょ」。

「空の境界」は奈須きのこの小説だが、奈須きのこと武内崇の所属する同人サークル(現在は有限会社Noteのブランド)「TYPE MOON」の作品に「月姫」、「Fateシリーズ」などがあり、「空の境界」と世界観を共有している。奈須氏によると「微妙にズレた平行世界」とのこと。

劇場版「空の境界」は圧倒的な映像美、迫力満点の戦闘シーンと、難解且つ素晴らしい世界観を、原作小説を忠実に再現し映像化したufotableの力作である。
本作のメインテーマは「境界」である。相反する二つのものに関するメッセージが緻密に組み込まれている。
その各々に対する矛盾もまたテーマの一つだ。
奈須氏の命の重さ、禁忌を主題とした本作の完成度には脱帽するばかりである。
「生」と「死」、「殺人」と「殺戮」などについて考察するわけだが、テーマがこれであるから必然的にグロテスクな描写がある(しかも美しかったり)。
また、難解な言葉(辞書的意味では用いない)や、時系列のシャッフルにより、物語の理解はやや困難である。
しかし、この時系列シャッフルこそが「ミステリ」における叙述トッリクとして作用しているのである。
決して時系列の通りに見てはいけない(2度目からはご自由に)他にも、原作にはなかった「色分け」が行われている点も魅力的だ。式の服の色や、月の色なども見てみると楽しい。
全7章に渡って展開される両義式と黒桐幹也の関係も素晴らしい。
設定はここで説明するとつまらないので、作品を視聴することをお勧めしたい(丸投げであるが(笑))
副題のThe Garden of sinnersは直訳すると「罪人の庭」と言う意味。sinには(宗教・道徳上の)罪という意味があり、guiltの(法律上の)罪とは区別される。
Theの次のGardenが大文字であることから、これはギリシアの人生の目的を心の平静(アタラクシア)に見出した精神快楽主義のエピクロス学派を意味する。よってThe Garden of sinnersは快楽主義に溺れた道徳的罪人という意訳が適切ではないか。



第一章の本作は「空の境界」の時系列で、全7章のうち4番目にあたる作品だ。本作の視聴だけでは、物語の全体像はおろか基本設定すら見えてこない。なぜならこの第一章は、奈須作品を視聴する視聴者の「ふるい」としての機能を有しているからである。その為、独特の世界観・台詞回し・時間軸を十二分に表現した作品に仕上がっている。よって一章を視聴して視聴を断念する方もいることだろう。しかし、私は五章の矛盾螺旋が一番好きなので、一章で断念されるのは残念。
副題のThanatosについて、Thanatoは精神医学用語で死亡恐怖症という意味。

考察←観る前に見ない様に。
{netabare}

時系列:4/8
1998年9月
両儀式:18歳 職業:高校生(サボりがち)
黒桐幹也:18歳 職業:大学中退 伽藍の堂に勤務

原作との相違:中(原作の補填による尺の増量が主)
原作との尺の比 73P:50min=1:1(1分当たり1.46P)
(一番原作との尺の長さの比が合致していると判断される2章の比を基準:1とする)
(原作の頁数は講談社文庫を用いる)

・「俯瞰」について
私達の認識出来る世界は肌で感じ取れる程度のものでしかなく、人間は自身の周りにあるものでしか安心出来ない。地図で自分の位置を知っていても、それは単なる知識に過ぎない。
高所から世界を俯瞰したとき、自身は狭い世界しか認識できないが、実際は狭い世界は、俯瞰の視界から展望出来る広い世界の一部である。
この時に、認識の内に、世界の隔たりが出来、ズレが生じて、「遠い」という衝動(突然襲い掛かる暴力のような認識)を得る。
自分が体感できる狭い世界より、自分が見ている広い世界のほうを「住んでいる世界」と認識することが出来ず、知識としての理性と経験としての実感が摩擦し、意識の混乱が起こる。しかしそれは一時的なもので、まともな認識のプロテクト(理性や知識)があれば、無意識下で制御出来て、地上に戻れば正常に戻る。だが不安定な状態にあるとき、意識の混乱から逃げ出したいという気持ち(或いは世界の同一性を実感する為に落ちてみたいという気持ち)へ向かってしまうのだ。(谷に行って底を覗きたくなる感じにも共通する意識かもしれない)

橙子「視界とは眼球が捉える映像でなく、脳が理解する映像だ。私達の視界は私達の常識によって守られているから・・・」
という台詞は、カントの認識論を彷彿させた。
認識は感性(受動的な知覚を担う)と悟性(感性と共同して認識を行う。概念把握)のア・プリオリ(経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念)により成り立つ、という哲学である。
眼球が捉えた映像は、私達の脳内で、常識に合致した「モノ」として認識される(常識に合致しないモノは、お化けや幽霊などの怪奇現象として処理されたりする)。

「俯瞰」については情報化社会のメタファーと認識すると分かり易い。
私は震度6強の地震を経験し、被災者として日々を送ったことがある。自身の周りも被災し、認識出来る世界で災害が起こった。しかし、2011年の東日本大震災での津波の映像を見たとき、私はそれが現実に起こっているんだと知識ではわかっているものの、それを実感することは不可能であった。
「遠い」東北の地で起こったことを自分の住む世界と同じ世界であると認識することは困難だ。そこで無意識下で自身の住む世界と被災地を別の世界と認識してしまうのだ。

・「浮遊と飛行」について
自身と世界、理想と現実のズレを認識した人間は、その乖離に苦悩し、生きる目的を失ったときに、それから逃れようとする。これが「逃走」だ。
浮遊と飛行は「逃走」するための手段である。
目的のない逃走を浮遊、目的のある逃走を飛行と呼ぶ。
「浮遊」(例え:羽ばたかない蝶)は、自己の現在置かれた不遇の状態を甘んじて受け入れ、受動的であることである。
今回の霧絵の場合は、理想と現実の乖離に耐え、生きる目的も無いままに、受動的に死を受け入れることである(詰まるところ、自然死、病死)。
此れには、生きる目的が無いにも関わらず、死ぬまで生きるという無意味さを受け入れる勇気、死ぬまでの毎日を生き抜き、刻一刻と迫る死を待つ勇気が必要だ。
「飛行」(例え:羽ばたく蝶)は、自己の現在置かれた不遇の状態を打破する、或いは暫定的に打ち消す(紛らわせる)、或いは解放される為に、”能動的”であることである。
今回の霧絵の場合は、その乖離に耐えず、生きる目的が無いから、能動的に死を受け入れる。(詰まるところ、自殺(しかも他人に自己の死を強調))
人間は、無意識下で、日々のストレスから逃れる為に、夢を介して、この飛行を行っている場合があるらしい(夢とは欲求の捌け口である為)。

「飛行」による自殺について、幹也曰く「極論だけど甘えなんだと思う。当事者にはどうしようもなく逃げたい時もあるだろう。それは否定できないし、反論もできない。だって僕も弱い人間だから」。


・なぜ彼女ら8人の自殺が「事故」と表現出来るのかについて
巫条霧絵は手に入れた霊体で、自分と同じように逃避行動をしている仲間を見つけて、友達になろうとした。「生きる目的」や「生の実感」がきちんと有るものの、夢の中で「飛行」(前項参照)をしていた少女は、霊体の巫条霧絵に介入され、夢の中の無意識下の飛行を、霧絵の能力である強い「暗示」に依って意識するに至った。
彼女達は夢の中だからこそ、飛行出来て、尚且つ、無意識下の為、自身が飛行出来たことには気付かない。しかし、一端意識してしまうと、理性が利かなくなるほどの強い衝動を得てしまうのだ。自分は現実に飛行出来たのだから、当然次も飛行出来る筈だと。
ここでの飛行には、逃避行動に於ける「飛行」と、俯瞰の視界から展望する世界を自己の居住する世界と同一視する為の飛行という二つの意味が含まれているのではないか。
そして、彼女達は、霧絵と同質の存在(つまり霊体)となった。
巫条ビルは時空が捻れており、本来死んでいない少女の幽霊も確認出来た。これは巫条ビルの上空は、巫条霧絵の現出した俯瞰風景の内部だからだろう。少女達は霧絵の暗示により精神に異常を来たし(具体的には、現実に人間単体での飛行(=能動的な現実逃避)が可能であるという脅迫のような逃れられない衝動)少女達は自己の意思とは表現出来ない自殺をすることになった。
よって、彼女達は夢の下での「飛行」中に精神に干渉され、「ボディジャック」状態で自殺したことになる。よってこれは彼女達の意志による故意の自殺に該当しない。より事故と表現出来る。


・黒桐幹也が寝ていた理由について
幹也は独自に一連の自殺を調査しており、結果として霧絵にたどり着いた。しかし、霧絵の幹也を死ぬまでの付き添いとしたい、「浮遊」から逃れる手段として、彼が欲しいという強い想い(暗示)から、昏睡状態に陥ってしまう。式が固定電話に録音された幹也のメッセージを恋しがっていたことや、ふいに巫条ビルに赴き、落下してきた少女に「幹也!」と叫んだのも、幹也が霧絵に魅入られた少女の様に「飛行」、つまり霧絵の下で自殺したものと勘違いした為である。橙子の延命努力により数週間昏睡していながら、リハビリもせずに復活した。


・式が巫条ビルに駆けて行って自殺した少女に「黒桐」と叫んだ理由について
前項での説明通り、幹也は霧絵による昏睡状態に陥っていた。自殺した少女は霧絵の暗示によって意識下での飛行が可能であるとの強迫観念より跳んでおり、また、これは霧絵の人恋しさによるものである為、黒桐も同様に跳ぶ可能性があった。式は電話で幹也の声を聴き、胸騒ぎがして巫条ビルに赴いた為、少女を黒桐と勘違いした。


・式の義手について
式の義手については第三章痛覚残留で明らかになり、何故式が巫条ビルの幽霊に操られた義手を止められたのかは、第四章伽藍の洞で分かる。式がビルからの跳躍の後に、片手で着地出来たのもこの義手のお陰であり、式の義手は霊体を掴むことが出来るので、巫条ビルの幽霊の首を掴むことが出来た。


・巫条霧絵の俯瞰風景について
巫条霧絵は{netabare}荒耶宗蓮によって{/netabare}、病院の外が見晴らせる階の窓のある病室で、家族も居らず、一人で何年間も、不治の病によって不自由な生活を強いられていた。彼女は病室から展望出来る外の世界をずっと憎んでいた。自分は不自由なのと対照的に外の世界の住人は自由だからだ。彼女は外をずっと眺めている内に、外界への憎悪と羨望による呪詛から、病室周辺の風景を脳内に取り込み、同時に盲いることに依って、強力な能力を得た。
彼女の視界は空中にあり、彼女の精神・肉体が存在する器とは別に、彼女の視界の存在する場所に、荒耶宗蓮によって二つ目の器・巫条ビルの幽霊を与えられた。

空を飛ぶという行為は、空の果てを目指す行為である。空の果てには、自分が逃避しなくて住むような世界(=生の実感や生きる目的のある世界、或いは死への恐怖が無い世界)があるのかもしれない。霧絵は黒桐の首尾一貫とした揺るぎ無い人間性に憧れ、また、「生の実感」を他者に供給する人物として、空の果てに自分を導いてくれることを望んだ。
(この空自体も隠喩と解釈することも十二分に可能だ)

霧絵「わたしは生に執着していて、生きたまま飛びたかったの。彼とならそれが出来たはずだから」

霧絵「あの人、子供なのよ。いつでも空をみてる。いつでもまっすぐにしている。だからその気になれば、どこへだって飛んでいけるんだわ。そう――わたしは、彼に連れて行ってほしかった」

巫条ビルの幽霊は、巫条霧絵の二つ目の身体だったので、彼女は一度死を経験しながらも、生きながらえるに至った。病室の霧絵を見限って出来た、巫条ビルの幽霊と病室の巫条霧絵との間の境界は空(ソラ)の境界とも呼べるかもしれない。


・巫条霧絵について
{netabare}巫条霧絵の起源は「虚無」。荒耶宗蓮は両儀式と相反する能力者をつくる為、彼女に長年の夢と悪夢を同時に与え続け、「死に依存して浮遊する二重身体者」にさせたのだ。
前述の通り、式の入院していた病院に霧絵も入院していたのだが、式が橙子に会う前、橙子の前任医師は荒耶宗蓮だった。霧絵の病室の病室代や管理費は荒耶が払っており、身寄りの無くなった彼女をずっと保護していた。{/netabare}
巫条家は混血の大敵である四家系「浅神」「巫浄」「両儀」「七夜」の一つである「巫浄」の傍系であり、盲いることにより特別な力(呪詛)を手にいれる。巫浄家の人間は強力な暗示能力も持っており、暗示によって相手を支配することが出来る。式の右手が勝手に動いたのも、「堕ちろ」という暗示も、これで説明出来る。
{netabare}彼女は、両儀式、浅上藤乃と同様に起源に「虚無」を持ち、特別な家系故に、特別な力を発現した。
「陰陽太極図」で式が一つの肉体に二つの人格を持つ二重存在者なのに対し、彼女は二つの肉体に一つの人格を持つ二重身体者である。
彼女も浅上藤乃と同様に荒耶宗蓮の「根源の渦」である「 」への到達という最終目標の為に両儀式と接触する駒となった。{/netabare}
幹也(そして、僕はさっきまでの夢を思い出した。蝶は最後には墜落してしまった。彼女は、僕についてこようとしなければ、もっと優雅に飛べたのではないか。そう、浮遊するようにはばたくのなら、もっと長く飛べていたはずだ。けれど飛ぶという事をしっていた蝶は、浮遊する自身の軽さに耐えられなかった。だから飛んだ。浮くのをやめて)

黒桐が霧絵に眠らされている間に見た「ゆっくりと浮遊する蝶が一羽あり、そこに蜻蛉が現れ、蝶は蜻蛉に追いつく為に羽ばたいたが、遂には堕ちた」という夢は、身体中に腫瘍があり、余命幾ばくも無い霧絵(=蝶)が「浮遊」している所に、生きる望みである幹也(=蜻蛉)が現れて、霧絵は幹也に「気付いて欲しい」と、後を追うも、結局気付いてもらえず、「飛行」してしまったという隠喩であろう。
{netabare}尚、四章伽藍の洞で両儀式が入院していた病院に巫条霧絵も入院しており、霧絵は、式の元に何年も通い詰めていた幹也を目撃していた。{/netabare}彼女は恋人という生きる目的、死ぬまで付き添ってくれる人が居ないことを悔やみ、同時に幹也を、自分を救ってくれる人物として望むようになる。式に「落ちろ」と暗示として連呼したのは、彼女が幹也という依り所を持っていて、羨望していたからだろう。彼女は式に殺された時に感じた「生の実感」を、もう一度味わう為に、「飛行」という逃避行動を一度採ってしまったことによる開放感をもう一度味わう為に、自分が死に至らしめてしまった少女達への自責の念から逃れる為に、巫条ビルからの転落死を選択した。


・「oblivious」について
obliviousは英語で「~を忘れて」「(没頭して)~に気付かないで」という意味の形容詞。名詞はoblivionで忘却という意味。巫条霧絵をイメージして奈須きのこ監修の下、梶浦由記によって作詞・作曲された。4章を視聴すると分かるが{netabare}巫条霧絵は両儀式の入院する病院に入院していた経験があり、そこに小まめに見舞いに来ていた黒桐幹也と出会うのである。{/netabare}「本当は空を飛べると知っていたから 羽ばたくときが怖くて風を忘れた」という歌詞も、本作を視聴すれば意味がわかるだろう。巫条霧絵の静かな恋について上手く纏められている。


・「俯瞰風景」という作品について
巫条霧絵は祈祷(本性は呪詛)を生業とした古い家系の末裔で、重い病気に掛かり何年も病室から地上を俯瞰し、空を見上げていた。彼女は意識が途絶えるくらいまで外を見つめ、外を憎み、恐れた。彼女は継続して世界を「俯瞰」することにより、周辺の風景を脳内に取り込み、二つ目の器である巫条ビルの幽霊を手に入れた。{netabare}与えたのは荒耶宗蓮。{/netabare}巫条ビルの幽霊、巫条霧絵の意識体は、夢の中で「飛行」を行っていた少女達に近づき、「飛行」が可能なことを意識させた。そして彼女達は飛び、当然の如く落ちたのだ。巫条霧絵は、黒桐幹也を拠り所とし、生きたまま「飛行」することを望んだ。しかし、黒桐幹也を拠り所として必要としていた両義式により巫条ビルの幽霊は殺されてしまう。彼女は、罪の無い少女達を殺してしまった自責の念と、幽霊である自身(二つ目の器)の心臓を貫かれた時に感じた圧倒的なまでの死への奔流と生への鼓動をもう一度味わう為に、
あらんかぎりの死をぶつけて生の喜びを感じる為に、巫条ビルの俯瞰から転落死するのだった。
巫条霧絵は「浮遊」することが出来ていたのだが、黒桐幹也に追いつこうとすることで「飛行」という手段を選んでしまったのだ。しかし飛行を選んだ彼女は死んだ後も雲の上を目指し空に落ちるように飛行するはめになる。


・名言(原作より抜粋)

橙子「君の俯瞰風景がどちらであるかは、君自身が決めることだ。だがもし君が罪の意識でどちらかを選ぶのなら、それは間違いだぞ。我々は背負った罪によって道を選ぶのではなく、選んだ道で罪を背負うべきだからだ」

幹也(いくら正しくて立派でも、死を選ぶのは愚かなんだ。僕らは、たぶん、どんなに無様で間違っていても、その過ちを正す為に生き抜かないといけない。生き抜いて自分の行いの結末を受け入れなくてはいけない。)

式「幹也、今日は泊まれ」

橙子「自殺に理由はない。たんに、今日は飛べなかったんだろう」
{/netabare}

感想

最後の式の「幹也、今日は泊まれ」は良かった。式のクーデレっぷりが最高である。また、私も昔、高いところから高速で落下する夢をよく見た。あれは無意識下の飛行だったのだろうか・・・



この一章は、視聴者に世界観を何と無く掴ませながら、しっかり今後の伏線を十分に張って終わっている。原作の長々とした文を簡潔に短く纏め、視聴者に分かり易く(全部観た後二回目観ると分かる)展開している。

本作は考察のし甲斐があり、非常に面白い。また現代人への処方箋のような役割を果たし、私達にカタルシスを与える。

私は全章視聴後原作を購読したが、読み応えがあって大変面白い。アニメを観た人は補足の為にも、お勧めしたい。
未視聴の方は、是非挑戦していただきたい作品である。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 55
ネタバレ

てけ さんの感想・評価

★★★★★ 4.4

圧倒的なクオリティの映像と音楽で描くポエム

原作未読。
全8章からなる物語の1章目。約50分。

まずは「空の境界(からのきょうかい)」シリーズに共通することを紹介します。

圧倒的な映像美と、ダイナミックな動き。
映画的なカメラワークが使われ、画面全体に立体感が溢れています。

その中に隠れる、独特な色使い。
蒼に対する橙、赤に対する緑。
色で言うと正反対、補色関係にある光の使い方が特徴。

この表現は「相反する二つのもの」というメッセージを表しています。
これに加えて「生と死」「殺人」という非日常なテーマを扱っている作品です。

そして、バトルシーンもありますが、どれも圧巻。
作画・演出を担当しているのは、Fate/Zeroを作ったufotable。
その会社が、映画用に力の入ったクオリティで描いています。

また、梶浦由記が作曲し、Kalafinaが歌うエンディングテーマはどれも素晴らしく、内容にも深くリンクしています。
まったくハズレがないと言ってもいいほどです。

キャラクターたちも魅力的です。
メインキャラクターは以下。

・両儀式(りょうぎしき)
・黒桐幹也(こくとうみきや)
・黒桐鮮花(こくとうあざか)
・蒼崎橙子(あおざきとうこ)

この名前にも実は意味があるのですが、それは内容を追っていくと分かってきます。


なお、「空の境界」は、時系列が特殊です。

正しい時系列では、
2章→4章→3章→1章→5章→6章→7章→8章

詳しくは、
{netabare}
2章(1995年9月)
4章(1998年6月)
3章(1998年7月)
1章(1998年9月)
5章(1998年11月)
6章(1999年1月)
7章(1999年2月)
8章(1999年3月)
{/netabare}

そのため、1章だけを観ても状況が掴めません。
それに加えて、難解で抽象的なストーリーや台詞。
同じ言葉をさまざまな別の言葉で言い換えていたり、辞書に載っている意味とは違う意味で用いたりしています。
一つ一つ紐解いていく必要がある、「言葉のあやとり」のような会話です。

また、その映像美がある意味「壁」を作っています。
「死」や「殺人」を扱っているため、死体や血しぶきの表現がリアルで、グロテスクです。
苦手な人には辛いかもしれません。

この1章が、このシリーズ全体を観られるかどうかの「境界線」になっていると思います。
その境界線をまたぐことができたなら、終章まで楽しめると思います。


ここからは考察です。

俯瞰風景 → ココ
殺人考察(前) → http://www.anikore.jp/review/450923/
痛覚残留 → http://www.anikore.jp/review/452086/
伽藍の洞 → http://www.anikore.jp/review/452849/
矛盾螺旋 → http://www.anikore.jp/review/456943/
忘却録音 → http://www.anikore.jp/review/466298/
殺人考察(後) → http://www.anikore.jp/review/491929/
空の境界 → http://www.anikore.jp/review/491992/


【1章「俯瞰風景」の考察】
{netabare}
1998年9月の話。

EDテーマは「oblivious」
「~に気付かないで」という意味。


「狭い空間」とは「現実」を表しており、「広い空間」とは「理想」を表しています。

「俯瞰」、つまり、客観的な視点で見たときに、理想と現実の間の距離を感じてしまう。
それが「遠い」という感情を呼び起こし、「逃げ出したい」という気持ちに繋がっていきます。

ビルから投身自殺した少女たち。
橙子「彼女たちは、本当は死ぬつもりはなかった」
「逃走」していた彼女たち。
「浮遊」していたが、暗示をかけられ「境界」を乗り越えて、「飛行」という手段を選んでしまった。

では、「逃走」「浮遊」「飛行」とは何か?

式「地に足が付いていない。飛んでいるのか?浮いているのか?」
橙子「逃走には2種類ある」
幹也「トンボを追いかける蝶々の夢を見た」

この3つのセリフにヒントが隠されています。
「逃走」は2つに分けられます。

1つは「浮遊」
・目的のない逃走
・永久に続けなければいけない勇気

浮遊するように羽ばたく蝶々に例えられています。
目の前の辛い現実から目を背けず、現状に耐え続けること。


もう1つは「飛行」
・目的のある逃走
・一時の勇気

トンボを一生懸命に追いかける蝶々に例えられています。
自分の弱さに耐えきれなくなったとき、人は「飛行」を選ぶ。
つまり「死」という、幹也に言わせれば「極論だけど甘え。けれど、否定できないし、反論もできない」選択肢です。
トンボを追いかけた蝶々がやがて力尽き、地上に墜落してしまうように。

これには、
トンボ=黒桐幹也
蝶々=巫条霧絵
という現実の関係を表す、もう1つの意味も含まれています。

橙子「我々は、背負った罪によって道を選ぶのではなく、選んだ道によって罪を背負うべきだ」
橙子はそう言いましたが、巫条霧絵は、自らの罪に耐えきれず、また、1度経験した「死」に魅了されたこともあり、ビルからの飛び降り自殺という「飛行」を選びました。

空(そら)に浮かぶ、空(そら)を飛ぶ、その2つの境界線。
それを上から眺めた俯瞰風景を知ってしまったがゆえの行動。

「飛行」という方法に気付かなければ、選ばなかったはずなのに……。


なぜこのようなことになったのかは、後の章で分かってきます。
{/netabare}

投稿 : 2024/06/01
♥ : 56

. さんの感想・評価

★★★★★ 4.3

ひたぎさんより怖い女、”両儀 式” あんた怖すぎだよ・・・。

(内容について)
本作品は面白い作品ですが、人を選ぶかも知れませんね。

第一章 俯瞰風景
第二章 殺人考察(前)
第三章痛覚残留
第四章 伽藍の洞
第五章 矛盾螺旋
第六章 忘却録音
第七章 殺人考察(後)
「空の境界」は全7作品で構成されます。BD-BOXだと、他に「終章」(後述)と「Remix -Gate of seventh heaven-」、「全七章の軌跡」が収録されています。
本レビューでは、全七作品についてまとめてコメントさせていただきますね。


本作は死をテーマにした作品です。殺人という行為を通して生・死についての意味を表現しているのかな。
作品中、殺人シーンや戦闘シーンでは血しぶきドピュドピュ、手や足があっちゃこっちゃ状態で、そういうのが弱い人は余り見ない方が良いカモです(でもR指定は無いので、一応規制範囲内の描写みたいですね)。


原作は長編小説で、原作をご存じ無い方だと本作品は少しとっつきづらく感じてしまうかも知れません。理由は作品を一章から見ても設定や背景について説明されない為、人によっては置いてきぼり感を感じてしまう可能性があります。でも二章、三章・・・と観つづけていくと、時系列こそ前後してしまう時はありますが、ちゃんと設定・背景について説明があります。なのでそこまで見続けるモチベーションを維持出来るのであれば、この作品の物語としての完成度にきっと驚いてしまう事と思いますよ。


キャラクタの作画についてですが、ちょっと賛否両論あるかも知れません。メインヒロインの両儀 式さんですが、設定上中性的な顔立ちとされている為、好みによっては男性からも女性からも好かれない可能性があります。正直私的にもあんまり好きな顔では無いです。


さて両儀 式さん。ちまたでは化物語主人公の”ひたぎ”さんが危ない女としてあげられていますが、両儀 式さんの危なさはそれ以上!ともかくヤバイ、マズイ、怖ひ・・・。
まぁでもこのお方、とっても強いんです。剣術も達人級ですし、体術も相当なもの。この方が怒ると、目がピカーって光って襲い来る敵をバッタバッタとなぎ倒す。う~んカッコよす。
そんな訳で、本作品の見所はなんと言っても派手な戦闘シーンでしょう。戦闘が始まると、タイミングドンピシャ(あ、当たり前ですね)でメチャクチャカッコ良い音楽が掛かって場を盛り上げます。特にカッコ良いのが四章の病室でのシーン、それと五章の最終決戦シーン。これはも~鳥肌ものですよ、本当に! ここだけでも良いから(オイ)絶対観てね!


前述しました通り、最初は物語の設定や背景が解らずに戸惑うかも知れません。また難解な定義説明シーンがちょっと多いかな。でもそれで観るのを止めてしまうのはもったいない作品ですので、先ずは最初の1回は純粋に戦闘シーンのカッコ良さを満喫して下さい。次にもう1回観れる機会があるなら、今度はじっくりと物語の構成を楽しんで下さい。とても良く出来たお話で有るという事を解っていただけると思います。(作品冒頭からちゃんと伏線が張られている事などに気がつくと、きっと関心しちゃいますよ)


あ、そうそうBD-BOXに収録されている「終章」ですが、全編対話シーンだけで構成されます。観ると物語の終わりを締めくくるに相応しい内容が語られますが、観なければ観ないで支障の無い内容です。なのでストリーミング配信等の手段で観られる方は、無理をしてまで観る内容では無いかと思います。


(BD-BOXの事を少しだけ)
Blu-ray Disc Box版にて鑑賞しました。どうでも良いことですが、これ箱がでかすぎ。本棚に収まらない・・・。あんまり萌えるキャラでは無いので、”ビジュアルブックとかはいらないから小さくしてね”と個人的には思いました。画質は相当綺麗ですね、細かい点まで描写されていて文句なし。サウンドも5.1chサラウンド対応していますので大きな音で聴けば迫力満点です。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 20

70.3 3 化け物アニメランキング3位
バケモノの子(アニメ映画)

2015年7月11日
★★★★☆ 3.8 (638)
4209人が棚に入れました
原作・脚本 細田守監督。


舞台となるのは、人間界のほか、動物のようなバケモノが住む「渋天街」が存在する世界。

人間界「渋谷」から「渋天街」に迷い込んだ一人ぼっちの少年が、強いけれど身勝手なために孤独だったクマのようなバケモノの剣士・熊徹と出会うことで物語が展開する。

少年は熊徹の弟子になり、九太という名前を与えられ、彼と共に修行や冒険の日々を送ることになる。


声優・キャラクター
役所広司、宮﨑あおい、染谷将太、広瀬すず、山路和弘、宮野真守、山口勝平、長塚圭史、麻生久美子、黒木華、諸星すみれ、大野百花、津川雅彦、リリー・フランキー、大泉洋
ネタバレ

れんげ さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

【ネタバレ無し】熊徹と共に吠えろ!!

2015年7月より劇場公開
本編119分


【前置き】

細田守監督の長編映画第4弾。
(ONE PIECEの映画を除くと。)
「時をかける少女」の頃は、原作を上手くアレンジし名作に仕上げた監督の手腕が高く評価されておりましたが、「サマーウォーズ」以降、その評判は一般層をも巻き込むカタチで大きくなり、今やポスト宮崎駿とすら呼ばれるまでとなり、その観客動員数も他のオリジナルアニメとは一線を画すレベルとなりました。
それに従い、批評する側の目線も高くなったり、偏った意見も多くなっていった印象を受けました。

私的には、監督の作品はどれも大好きです。
大手を振って褒められるかどうかはともかくとして。
なので、評判が上がるのは勿論嬉しいのですが、批評の中には闇雲な感情論による悪態でなくしっかり的を得ている意見も多くあり、色んな意見から新たな視点を得る機会に恵まれたことに楽しさも覚えました。


前置きが長くなりましたが、そんな監督の第4作目。
普段はあまり映画館へは足を運ばないのですが、知名度の高い細田監督の作品だけは評判が出尽くす前に見ておきたいと思い、前作品らと同様に出向いて来ました。



【あらすじ】

人間界「渋谷」とバケモノ界「渋天街(じゅうてんがい)」という、通常交わることのない二つの世界。
ある日、とある事情から渋谷で途方にくれていた少年「蓮(れん)」は、渋天街の熊のような風貌のバケモノ「熊徹(くまてつ)」と出会います。

蓮は、熊徹から強くなるため弟子になるよう説得され、渋天街で「九太(きゅうた)」という名を貰い、日々修行に明け暮れるのでした。

8年後、成長した九太は偶然渋谷へ戻ってしまうのですが、そこで高校生の「楓(かえで)」から新しい世界や価値観を吸収することで、自身の生きるべき世界を模索するようになります。

そんな中、両世界を巻き込む事件が起こるのです…………。



【(劇場公開中なのでネタバレ無しで)語ってみる】

監督の他作品と比べて、本作はどこが優れていたか。
それは、この少年漫画的なシナリオからくる『熱さ』にあると、私は思いました。
サマーウォーズでもあった、「キングカズマVS人工知能ラブマシーン」の徒手空拳の格闘シーンが好きな人なら、本作でもまず燃えられるでしょう。
徒手空拳の格闘技だけでなく、本作はバケモノ達(と言っても怪獣ではなく熊男や猪男のような人型)による格闘技で、非常に力任せであり泥臭いところもあるのですが、迫力は満点でした。
作画は前作同様、映画であることを差し引いてもしっかり描ききれており、そこから上記のような魅せるシーンの更なる力の入れようは視聴者を大いに湧かせてくれます。
約2時間とアニメ映画としては少々長い部類ですが、私は一度も退屈させられるようなことはありませんでした。


ただ、映画のテーマとしては少々監督の引き出しが少ないと感じてしまったのも正直な話。
本作は、異種間を含めた「親子の絆」を描いた作品。
それこそ、前作「おおかみこどもの雨と雪」でもそうでしたし、広く家族と捉えれば「サマーウォーズ」でもそうでした。
細かく分ければ「おおかみこども」は完全に親の視点である為、本作とはまた少しテイストも対象となる年齢層も違うのですが、端から見れば一緒である時点で、多くの視聴者に既視感を与えてしまう点は残念です。
加えて、「熊男」「狼男」というのもまた、ニアミスしてると言わざるをえません。
舞台設定こそ監督の作品の中では新しい「渋天街」も、それこそ他作品で言えば見慣れた世界観であり、新鮮味には欠けてしまいましたね。


キャラクターに関しても、主人公の「九太」は、幼少時代は横着な熊徹のもとで子供なりに必死に学ぼうとする(加えてコミカルな)様に心打たれ愛着を持てたのですが、8年後のスマートになった青年「九太」は少々魅力に欠けました。
なんと言うか、見た目も含めて格好良過ぎたんですよね。
これは、前作でも主演声優を務めた「宮崎あおいさん(幼少期の九太)」と「染谷将太さん(青年期の九太)」とのキャリアの差も大きかったのかもしれませんが。
彼の見せ場のシーンも、そこに至るまでの過程や肝心の敵が少々腑に落ちなくて、首を傾げながらということもありましたしね。

何より、九太の師匠である『熊徹』が非常にキャラ立ちしている為、主人公の九太の活躍が、どうしても霞んでしまうんですよね。
私的には、青年九太が頑張るどのシーンよりも、熊徹が無骨に挑みかかる格闘シーンのほうに目を奪われてしまいました。

まず「役所広司さん」の演技が抜群に良いんです。
声をヘンに作っているわけではなく、でも役所広司さんの地声とも少し違う、まさに「熊徹」というキャラクターを自身で作り上げて演じ切った感じでした。
横柄で、人の話を聞かず、短気で、ぶっきらぼう。
そして、たった一人で自身を鍛え抜いて、自分の力で強くなった…、…強くなってしまった熊徹。
そんな男が、世界の違う人間の子供に目をかけ、なんだかんだで必死に育て上げていく様。
泣くには至りませんでしたが、やっぱり心に訴えるものがありましたよ。

この作品の評価は、この熊徹が好きになれるかどうかが大きな分かれ目となると思いますね。
私は、こういう男臭くて人情的なヤツ大好きなんです。
弟子になりたいかと言われれば、それはまた別の話なんですけどね……(笑)

勿論、魅力的なバケモノは熊徹だけでありません。
やはり見た目もインパクトのあるバケモノ達が中心となるのですが、中でもその熊徹の元で九太に目をかける豚顔の僧侶『百秋坊(ひゃくしゅうぼう)』は魅力的でした。
度々の彼の諭しがあってこそ、九太も…そして熊徹も、道を違えず成長出来たんでしょうね。
視聴後に声優さんが「リリー・フランキーさん」だと知りましたが、とても落ち着いて演じられていて、あの声だからこそここまで好感を持てるキャラになったんだと感じました。


主題歌であるMr.Childrenの『Starting Over』も非常に作品に合っている名曲でした。
いつぞや、ONE PIECEの主題歌を担当された時の曲は個人的に好きではなかったのですが、今回は自分にとっても大当たりでした。
このレビューも、この曲を何度もリピートしながら作りました。
聴くと自然と作品の良いシーンがフラッシュバックする、そんな1曲でしたね。



【総評】

映画館で見る価値があったかと言われれば、私的には十分ありました。
ただ、やはり初見且つ映画館というインパクトも含めて、評価が上乗せされた感はあるので、そういう意味では少し抑え気味な評価となるかもしれません。
まだ前評判の無かった「サマーウォーズ」を公開初日に映画館で見た時のインパクトと比べると、視聴後のテンションはかなり違いましたし。

ですが、やはりシナリオからも分かる通り王道ながらしっかり見せ場のある熱い作品なので、ファミリー層を中心にまた興行収入としては成功の作品となるでしょう。
勿論、変に偏り過ぎでなければ大人も十分楽しめる内容ですので。
私は同じ作品を映画館で二度見ることはまずないので、また足を運ぶことはないでしょうけど、早くBlu-rayでもう一度見直したいです。


ただ、やはり次回作以降の引き出しには不安を感じさせるものであったことは確かです。
アニオタ界隈では「ショタ好き」「ケモナー」等の名誉?なレッテルを貼られている細田監督。
そこが真実かどうかはさておき…この監督は、しっかりと面白いところが分かっていて且つ視聴者の目線にも立てる、そして「ショタ」等の偏った需要を上手く一般層向けに紛れさせ商業作品へと仕上げるセンスを持つ、数少ない実力のある監督だと私は思っています。

と言うわけで、次回作は
『ブッキラボウな男+そんな彼を慕うロリ少女』
という私の大好きな設定を是非、一般層にも受けるような作品へと昇華させ仕上げていただきたい。

……最後の一文は忘れて下さい。

読んでいただきありがとうございました。

◆一番好きなキャラクター◆
『熊徹(くまてつ)』声 - 役所広司さん


◇一番可愛いキャラクター◇
『チコ』声 - 諸星すみれさん



以下、声優を務めた「広瀬すずさん」について。
(低俗な文章を含みますので、〆ます。)
{netabare}
本作のヒロイン「楓」を務めたのは、女子高校生ながら話題の女優『広瀬すずさん』。

とある番組での、悪質に切り取られたかのような彼女の言動が世間の反感を買い、謝罪騒ぎにまで発展したのをご存じの方もいるでしょう。

そう言えば以前にも彼女は、「明星一平ちゃん夜店の焼きそば」のCMで、一部言動が誤解を招くとして差し替えとなる騒ぎも起こりましたね。
これも謝罪騒動同様、私的には少々解せなかったんですよね。

全く………、


『ぶっちゅ~~~~~~~~~~、全部出たと?』


という言動の、一体どこに誤解を招く要素があったと言うのでしょうか。

しっかり口をすぼめ(ソースを)絞り出す様の、一体どこに何の誤解が生じていたのでしょうか。

広瀬すずさんには、これからも逆境に負けず作中の「楓」と同様に、自身の信ずる道を邁進していって欲しいものです。




………………………………ふぅ。

シュッシュ、フキフキ
{/netabare}

投稿 : 2024/06/01
♥ : 27
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ぺー さんの感想・評価

★★★★☆ 3.9

“新冒険活劇”の意味は分からずじまいでしたが・・・

2018.08.11記


「時をかける少女」に続き「未来のミライ」公開記念で地上波で放送していたのを鑑賞。
細田監督作品は「おおかみこどもの雨と雪」「時をかける少女」に続き3作目の鑑賞となります。


今日も渋谷駅周辺は外国人で溢れ、きょろきょろしながら歩いたり、めいめい写真を撮ったりして楽しんでますね。これだけ多くの作品で取り扱われる街ですからなんの聖地巡礼かはさっぱりわかりません。ハチ公前交差点は都会の雰囲気を描写できる上、空間を広めにとれるため引きのカットをいろんなアングルから撮れることが作り手にとって魅力なんじゃないかと勝手に思ってます。

で、その渋谷の街とその渋谷に隣接する異世界「渋天街」が舞台のお話です。
お約束のハチ公交差点前もしっかり出てきますので、渋谷ファンは要チェックです。


家族関係で闇落ちしている少年“蓮”の視点から物語は始まります。夜の渋谷を走り回ったりするのですが、この時の背景しかり通行人の描写、防犯カメラを使った数枚のカットなどの工夫はさすが劇場版といえる作画です。ひょうんなことから迷い込んだ渋天街もプチ千と○尋の幻想的な作りだったりと導入はバッチリでした。ただプチ神隠し感が出たことで、否が応でもポスト宮○駿を無駄に意識させちゃったかもしれないのは余計だったかも。

物語は、作品タイトルやポスターの絵柄からバケモノ(熊徹)と蓮(または九太)の親子関係または師弟関係を軸とした展開が予想され、実質その通り進んでいきます。ただそこに焦点を絞り過ぎると中盤以降の追加要素に混乱してしまうかもしれません。《詰め込み過ぎだよん》という評はしかりで、父子愛というメインテーマを補足するための追加要素がわかりづらいです。父子関係に加え蓮の成長も描こうとしてますので尺を考えればギリギリ、劇場版の宿命とはいえ、多くを観客の解釈に委ねてます。


じゃあ自分はどうだったかというと、、、普通におもしろかったです。
ただもうちょい脚本はわかりやすく出来なかったかと注文はあります。
テーマは普遍的なものを扱ってますので、その一点突破で感動するかもしれない佳作と良作の中間と言っていいでしょう。


熊徹はいい味出してました。大正生まれか昭和一桁世代の佇まいです。イメージは星一徹(大正)か銭形のとっつぁん(昭和一桁)あたりでしょうか。頑固親父かと思いきや猪王山から子供のようと指摘されてる通り、がきんちょのようでもあります。このへんのイメージはLEONっぽい気もします。子供(っぽい大人)と子供の組み合わせもなんとなくLEON。


なにかと評判の悪いリアル俳優が声優を務める劇場作品の例に漏れず、本作もそうなのですが、全く違和感のない方がお一人いたと思います。
うさぎの宗師さま役津川雅彦さんです。 
{netabare}「お前という奴は迷いなど微塵もない眼をしおってぇ」{/netabare}
合掌…


細田作品のおおかみこどもの雨と雪では母子の愛を、本作では父子の愛ということになるんでしょうが、なかなか難しいのかもしれませんね。母と子の組み合わせが物語を作りやすいのかもしれません。であれば父と子の関係を扱った本作は意欲作ということでいいんだと思います。

{netabare}「君は俺と同じだよ。バケモノに育てられたバケモノの子だ」{/netabare}
蓮が初めて言葉にして父親と認めた瞬間、親父冥利に尽きるなと感じた瞬間でした。目の前で言われるかいなくなってから言われるか、男にとってはどうでもいいことかも。
多少のご都合展開は目を瞑って親父の自分が自己投影できたので評価が甘くなったことは認めよう(笑)


ちょっと気になったところはネタバレで隠します。

■白鯨の処理
{netabare}蓮と楓を繋いだメルヴィル著の『白鯨』。たしか船長さんが船もろとも鯨と運命を共にした話だったことは覚えていて、本編では一郎太が鯨に化けたあたりから嫌な予感しかしなかったのですが。。。
{/netabare}

以下ほぼ私見かつ妄想です。

■楓の役割って
{netabare}主人公と同年代の女の子だからといってヒロインではありません。九太が蓮に、彼が人間界に戻るための触媒と思えばたぶんすっきりします。
序盤、多々良と百秋坊が触媒となって蓮と熊徹を結びます。楓はもともと蓮が持っていた好奇心を現実世界に落とし込む存在として役割を果たします。
途中から出てきたのもあって恋愛要素を前面に出すと話がぼやけるため、あのくらいの按配で良かったことでしょう。{/netabare}

■女よ、GOMEN
{netabare}虎徹への弟子入り直後、剣士としての成長きっかけとなったのは母の幻影「なりきる。なったつもりで」の一言。宗師さま巡りを経て『大事なことは自分で見つける』と気づきがありました。これまで他人のせい、自分の殻に閉じこもっていた蓮が一皮むけるために母は必要でした。
楓もそう。8年ぶりに人間界に戻ってきた蓮は楓がいなければ路頭に迷って野垂れ死にしてたかもしれません。一郎太とのバトルでも早まって差し違えて終わってたかも。
父子愛がテーマの作品で、といいつつも結局女がいなければ何もできないのが男だったりするような。こうゆうこと言うのは女性に言わせれば男の甘えだそうです。{/netabare}



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2019.01.19追記
《配点を修正》


「おおかみこどもの雨と雪」で母子の愛、本作は父子の愛。
私は昭和の人間なので、父と子ってペラペラ話し合う印象が薄く、その延長線上、エンタメとして成立しづらいのでは?と邪推。
「クレイマークレイマー」のようなのも良いが、頑固一徹親父とその息子の物語をこの時代にこそ観たいとぞ思う。そういう意味で本作は及第点です。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 40
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ろき夫 さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

ぼくはケモノもオッサンもすきなので熊鉄のこと可愛いとおもいました(まる)

月曜メンズデーの夜に行きましたが客の少なさにビビりました。
3週連続細田作品地上波放送で、宣伝にも力入ってるのに……。
先が不安になりましたが、平日の夜だし、単に山形がアニメ過疎地ということ、なんですかね。

ケモナー細田の真骨頂!!
バケモノの造形が可愛らしく、現代的です。
どっちかというと人間に近い。もののけ姫のそれとは大違いです。
まさしくケモナーが好む、ケモナーのための映画といっていいでしょう。

本作を見て一番に感じることは、広い意味で男の子が好きそうな映画だな、ということ。
(話と関係ないのですが、「おとこのこ」を変換したら普通に「男の娘」というワードが真っ先に出てきたw 打ったの初めてなのに。なんという時代……)

主人公の男の子が、熊鉄というバケモノに出会うところからはじまり、ともに成長していくお話で、子供の目線、子を育てる男親の目線、どちらからも楽しめるんじゃないかと思います。
今までの細田作品では珍しいくらい激しいアクションシーンが多いのもポイントです。
個人的には、どっちの目線にも共感できたなと思います。
熊鉄の乱暴でぶっきらぼうな接し方が、自分の父親と似ているせいかもしれません。
だんだん、顔まで父親に似て見えるもんだから不思議。バケモノにもかかわらず、です。
でも、それくらいリアリティのあるキャラクターだったと思います。
熊鉄を演じた役所公司さんの演技が素晴らしかった、というのも大きいですね。
違和感なさ過ぎてエンドロールまで気が付きませんでした。
「ああ、俺の父親もこんな感じだったよな……」なんて、少し懐かし気持ちに。

先週「おおかみこども」が放送していましたが、それと比較するのも面白いですね。
熊鉄と花のキャラクター性の違いは、父親と母親の子どもへの接し方のスタンスの違い、とも言えそうです。
本作パンフレットの細田監督インタビューでは、
「最近、うちに男の子が生まれまして。父親として何ができるかなって、考えたんです。」
と、綴られており、作品には男親としての理想がやはり込められているんだな、と感じました。
確かに、父親だったら男の子が生まれたら、一緒に体を鍛えたり男としての強さを教えてあげたいって気持ちになるかもw

前作に比べると、キャラクターのセリフでメッセージ性となる部分をはっきり伝えるから分かりやすい。
その分かりやすさに徹しているぶん、想像の余地が少なく、物足りなさを若干感じるところが欠点。
なので、ふわふわした映画の余韻を好む人には不満があるかもしれません。説明不足の部分もあります。
が、それでも完成度は高く、この作品の評価はほぼ好みの問題になるんじゃないかと感じています。
お涙頂戴なくカラッとしていて、後味爽やかで笑いがある作品は個人的には大好きです。

見ているだけで高揚感を得られる、しっかりと作られた王道ファンタジー映画は本当に久しぶりです。
宮崎駿が引退したらしたで次世代の監督が良い作品を作ってくれる……。素晴らしいですね。
会社は違えどバトンは受け渡されていくものなのかな、と感慨深くさえあります。
この幸福な循環がずっと続くといいですね。


P.S. バケモノの子展行きたいです。一郎彦の帽子欲しいです(大人サイズ)。2015/7/17

【追記】
{netabare}
ひとつ気になったのは、ケモノらしさについてです。
作中、「ニオイ」に触れられませんでした。ケモノ臭いだとか、人間臭いだとか。バケモノとは言っても、獣人なんできっとケモノ臭がすると思うんです。

バケモノの子を見て後、もののけ姫が無性に見たくなって見てみると、その部分において明らかに違います。
バケモノの子に出てくるケモノたちは臭いも無ければ、見た目以外ほとんど人間と違いが無い。
文明も発達しており、異国風と思わせといて玉かけご飯を普通に食うくらい、生活にも違いが無い。
もしかしたら、生活型が日本人と同じで無臭になってしまった・・・という裏設定が(!)
なんて妄想したりw
熊とか、体臭すごいですし、ニオイの演出も加わるとより面白くなってたんじゃないかと感じました。
九太が人間界に戻ったときに、九太に染みついたケモノ臭さに楓が鼻をつまむシーンとか見たかったんですけどね(笑)
でもニオイに突っ込むと、一郎彦の正体がすぐばれてしまい話がややこしくなるから、なんて事情が見え隠れするのであえて入れなかったのかなー、なんて勘ぐったりしてw

仮に、ニオイがあったら熊鉄のオヤジらしさに、より一層リアルさがあったのかもしれない。
一方で、ニオイなど生臭い要素をなくしたことが、マスコット的な愛らしいオヤジキャラの演出に一役買っているんだろうなとも思うので、結局この作品には「無臭」のバケモノが正解だったんでしょうね。
熊鉄のことを「可愛い」と感じる背景に、実はニオイも深く関係してるんじゃないかと、一人納得しましたw
{/netabare}

投稿 : 2024/06/01
♥ : 9

61.6 4 化け物アニメランキング4位
劇場版 BLOOD-C The Last Dark(アニメ映画)

2012年7月7日
★★★★☆ 3.5 (256)
1167人が棚に入れました
古くから湖への信仰が残る風光明美な町にある浮島神社。そんな浮島神社の巫女 更衣小夜(きさらぎ さや)は、神主である父親 更衣唯芳(きさらぎ ただよし)と二人暮らしをしている。小夜は 私立・三荊(さんばら)学園に通う高校2年生で普段はクラスメイト達との学園生活をめいいっぱい楽しんでいるのだが、一方で、父の命を受け ある「務め」を果たしていた。それは、『古きもの』と呼ばれる、人を遥かに凌ぐ力を持ち、人を喰らうモノを狩ること——。『古きもの』を唯一倒すことができる小夜は、人を『古きもの』から守るため、大好きな父親のため、浮島神社に伝わるという御神刀を手に独り、戦う。果たして小夜に待ち受ける運命とは!?
ネタバレ

おなべ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.9

復讐と愛憎の物語(レビュー超改変版)

スローテンポの内容、やり過ぎなグロ描写、最終回のどんでん返し等に賛否両論(否の方が圧倒的)だった「BLOOD-C」の劇場版作品。あにこれでは劇場版も評判が芳しくないようですね。テレビ版に懲りずに映画館にまで観に行った口ですが、いやはや…またも「BLOOD-C」には楽しませてもらいました。


テレビ版は黒幕を後一歩で取り逃がした所で終了し、劇場版は黒幕と遂に対峙します。舞台は田舎からCLAMPお墨付きの東京に、季節も夏から冬に変わっています。作風だけではなく制作スタッフもテレビ版と異なっています。

脚本はBLOODシリーズにお馴染みの藤咲淳一さん、監督は水島努さんに変わり塩谷直義さん。
名前だけ聞くと「え〜と…」と思いましたが、「このアニメOPがかっこいい」の一例でよく挙げられるBLOOD+の3クール目OP(曲はUVERworld「Colors of the Heart」)の絵コンテや演出を手掛けた方だったそうで。意外とBLOODシリーズに関わり深い若手監督です。これは…きっと今回もシャレオツに仕上がった作品になっているに違いない!!そんな期待をして公開当時ワクワクしていましたね。


以下様々な観点からレビューをしていきます。


・すげぇ作画
まず第一に注目したいのは、作画の質がテレビ版に加えて格段に向上しています。特に背景美術が素晴らしいことこの上なし。東京の冬景色からは寒さまで伝わってきます。初代BLOODのリスペクトとも言える冒頭の地下鉄の描写も緊迫感があります。リアルな東京の町並みが良く再現出来ていました。


・ふつくしいキャラデザ
Production I.Gの最終兵器と言われている(らしい)黄瀬和哉氏の小夜のキャラデザが美し過ぎて惚れ惚れします。眼鏡がないだけでこんなに小夜は違うんだねえ…。
CLAMPのキャラ原案も、テレビ版より比較的リアル頭身に近づけたそうです。本作では肉付きがしっかりしたキャラデザになっていました。これなら刀振り回しても違和感はない、はず。


・一本調子でないカメラワーク
作画云々言いましたが、個人的に劇場版「BLOOD-C」で最も評価したいのはカメラワークです。テレビ版では一歩引いたような客観的視点が非常に多く、臨場感のない戦闘シーンにはヤキモキしたもんでしたが、こちらでは真逆の痺れる戦闘シーン目白押しです。冒頭8分の目紛しい戦闘が良い例でしょう(逆にこの8分が凄過ぎて、後の戦闘は物足りなくなってしまうかも)。縦横無尽に動くので、酔わないようにご注意下さい。
戦闘シーンだけではなく、会話シーンも然り。各キャラが話す度に画面が切り替わる事はあまりなく、カメラの長回しで演技を見せています。最近やたらめったらチャッちさを感じるカット演出が多い作品の中、本作では平面的な演出は一切せず、きっちり丁寧な演出で会話シーンを見せてくれたのが好印象でした。

あんまり誉め称えるだけだと怪しい業者に見えそうなので、そろそろツッコミ所も交えて挙げていきます。


・「さやー(棒」が気になる
アニメに事欠かせない声優さんの話題に切り替えます。本作のオリジナルキャラでもありヒロインでもある「柊真奈」っていうキャラに、何でか分からんけど朝ドラ「あまちゃん」でご存知の方も多い橋本愛をキャスティングしてます。
予告編CMで水樹奈々の演技が気になった方も多々いらっしゃいましたが、橋本愛が結構な大根演技を本編で喰らわせてくれる為、左程気にならなくなっていきます。脇を固めるのが実力派声優さんばかりなので、かなり浮いてしまっています。「さやー(棒」と叫ぶ声が耳にこびり付きました。
ただ、やる気が感じられない棒読みでは決してなく、声質そのものは綺麗だと思ったので、今後の橋本愛の演技力の向上に期待したいです。


・小夜のキャラが変わり過ぎている
いやね、鼻歌口ずさんでばかりいたお気楽天然系キャラが、いきなり無愛想で無口なキャラに変わってたらそりゃ違和感は拭えません。テレビ版の小夜とは正反対のキャラになっているので、テレビ版を見ていた方は本作の小夜の性質を受けいられるか否やで、印象が大きく変わりそうです(キャラが変わった理由はちゃんとあります)。
また、本作では小夜の過去や真相には追求しません。彼女が何を思っているか明確な心理描写も少ないです。小夜の事をもっと知りたかった方には残念だったと思います(ただ、自分のことを多くは口にしないものの微妙な表情の変化から、少なからず心情を読み取れます。)
私は劇場版の小夜の寡黙なキャラが直ぐに好きになれたので、別段違和感はなかったです。水樹奈々の演技もこちらの方が合っている気がしました。


・黒幕との絡みが少ない
一番の欠点がこれかなあと。黒幕の親族が劇中で関わってくるんですが、そいつの話題は別にどーでもいいんです。こっちは小夜とアイツの絡みが早いところ見たいのに、終盤まで真っ向から対峙しないので、無駄なシーンが多く感じてしまいます。
お世辞にもフォロー出来ない最大のツッコミ所は
{netabare}ハリウッド映画級のハッキング万能性能力です。”塔”の本拠地を見つける手立ては、もっと順序立てて出来ないものかと。ハッカー有能過ぎぃ! {/netabare}
小夜とヒロインの交流の方が圧倒的に多いです。この2人の絡みに面白みを感じるか感じないかで、本作を駄作か良作か分離すると思います。
{netabare} しかし、真奈と小夜の掛け合いは中々面白い。小夜は最初ぶっきらぼうで、無視もするんですが、犬みたいに引っ付いて来る真奈に悪い気がしないのか、次第に心を開いていきます。中盤で古きものとの戦闘シーン、今まで真奈のことを「お前」呼ばわりしていた小夜が始めて真奈を名前で呼んで身を犠牲にして守るシーンは燃えた。小夜がツンからデレに変わっていく過程がとてもわかりやすく描かれています。百合?百合だろうがいいものはいいんです。文人よりも真奈との絡みの方が結構楽しめました。{/netabare}
そして黒幕の目的がわかりにくい。明確な動機ではないので、もうほんと何がしたいんだよ、あんた…となってしまう方も多そうです。
{netabare} 小夜を心底愛していたが故の文人の行動理由は、個人的にはアリでした。でも、意味が分からんという意見も納得出来ます。やはり文人と小夜の掛け合いももっと時間を取ってほしかったです。
小夜の心情描写が少ないないですが、復讐の鬼には成り切れず、迷いや情けを時折見せる人間臭いキャラクターは逸脱だったと思います。蔵人さんから「君も文人を殺したいのは同じだろう?」とか言われた後の微妙な表情が特に(水樹奈々さんの「ん…」と唸るような演技も良かったです)。小夜は憎しみを持ちつつも心の何処かでは文人の事を理解しようとしていたのかもしれませんね。
自分の心情をベラベラ喋ることはせずに、表情や行間で感情を読む映画的な要素は大いに評価したいです。{/netabare}


・結局CLAMPじゃねーか!
これを見ると「BLOOD-C」の"C"って結局CLAMPの"C"じゃねーか!という事になります。ファンサービスなのかもしれませんが、個人的には自重してほしかった…。考え直すと黒幕の目的もCLAMPらしい動機です。




・他色々・総評
復讐モノとして名義を立てていますが、クエンティン・タランティーノ監督のようなスカッとするスタンスとは全く異なります。その上脚本は結構荒々しいので、ツッコミ所も目紛しくあります。冒頭8分は非常に引き込まれるのですが、それ以降山場が中々来ないので肩透かしくらっちゃう方もいそうです。そして終盤の辺りの駆け足具合が目に余ります。
そんなやっつけ部分が何ともB級アクション映画っぽいです。滅茶苦茶なカオス描写はないので、テレビ版が好きだった方は物足りないかもしれません。グロ描写もテレビ級を期待するのはやめましょう。

でも、作品からは制作者が何でもいいから印象に残るよう見てもらおうとする意気込みが感じられました。だから多少の荒っぽさもある意味微笑ましいというか、ま、細かい事はいっか〜アクション格好良かったし!と私は思ってしまいました。とても不思議。それは小夜のキャラクターを好きになれたからかもしれません。

「BLOOD-C」はBLOODシリーズの汚名をそそいだ超駄作なんてよく言われていますが、こうして楽しんだもんもいます。世間的には失敗作だったのかもしれませんが、私にとっては大いに楽しめた価値のある作品です。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 17
ネタバレ

シス子 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.5

晩酌の肴に・・・「食べる」のではなく「喰う」アニメ作品

テレビアニメ版を観てから視聴しました

お話はテレビ版からの続きとなっています

舞台は東京
とある田舎町で「古きもの」とよばれる化け物と戦っていた
女の子の「さや」ちゃんが
自分を騙していた謎の男の子「ふみと」くんに復讐するというお話


印象的だったのは
さやちゃんのキャラ・・・
天然でドジっ娘だったさやちゃんが
まったくの別人と化してしまってます

とてもシリアスで怖い

{netabare}「私に・・・喰われたいのか?」{/netabare}
登場していきなりこのセリフ
ぶゎっと鳥肌が立ちました

テレビ版でも「古きもの」と戦うときのさやちゃんはこんな感じだったので
変わったというより
激しい怒りのため
怖いときのキャラに固まった
という見方のほうが正しいのかもしれませんね

まあ
テレビ版と比べたらお話や他のキャラの雰囲気が
とてもシリアスな感じになったからなのでしょうが
個人的には
イケメンキャラが少なくなってしまっていることも
大きな要因のひとつだと思えてなりません(ちょっと残念)
このシチュで天然ドジっ娘キャラは痛すぎますからね

一方で
バトルのときのグロさは相変わらずです

というか
テレビ版にも増して
血しぶきの激しさ
流血の量がぱない

これ
元の体の容量を超えてるんじゃね?
って思うくらいの量の血が出てきます

でも
テレビ版でなにかしらの問題があったのでしょうか
切られたり血が出る部分が映しだされるのは
専ら古きものの惨殺シーンで
"人間"に対する残虐なシーンは圧倒的に少なくなっています


さて
お話のほうですが
テレビ版は主人公の「さやちゃん」と「古きもの」が
戦うことに特化したようなお話だったのに対して
こちらは
ちゃんと構成されたストーリーになってましたね

登場人物や組織などの設定はしっかりしていて
お話のなかでの絡みもうまく考えられています

テレビ版でのエピソードもちょっとだけ盛り込まれたりしているのですが
お話が単純だったため
あまり本作のお話に影響を与えないような感じのシーンばかり

ぶっちゃけ
テレビ版は見なくても十分"堪能"できると思います


でも
多くの謎を残したままで
劇場版へと引き継がれたこの作品

コレだけ
厚みのある設定を施して
各々のキャラをいかにも意味ありげに立たせておいて
結局分かったのは

{netabare}喋る犬のカラクリ{/netabare}と

今までのドタバタ劇って結局
{netabare}ふみとくんがさやちゃんに
「ちゅー」をしたかったから?{/netabare}
ということだけ・・・

問題のシーンを見たとき
飲んでたチューハイを
思いっきり噴き出してしまいましたよ(ToT
{netabare}「ちゅー」だけに・・・^^!{/netabare}

できれば最後はお話をかっこよく締めて欲しかった・・・


余談ですが
テレビ版と本作を通して
とても多くの流血やグロいシーンが描写されたこの作品
Hぃシーンも含めて
画像処理はちゃんと施されているのですが
それでも
普通に問題ありそうで残虐な映像がとても多く映し出されてます
(ちなみにDVD、BDは画像処理が入っていません)

そのことについてはネット上で物議を醸していたのも事実です

流血のシーンについては
本作品製作サイドからは見解が出ていて
オーバーな描写の方が逆に現実感が薄れるから・・・
という考えでこのような演出になったらしいです

芸術的な観点からの解釈だと思うのですが
やっぱり
やりすぎっていう感じは否めません

一方で倫理的な観点からなのか
本作(劇場版)では人の死の描写については少なくなっているようで
その辺は考慮されていたみたいですが・・・

なんにせよ
問題は
"観る側"の受け止め方によるところが大きいと思います

ちなみに私は躊躇なく観ることができましたよ^^

さらに余談ではありますが
恥ずかしながら
本作品
{netabare}私は晩御飯(お刺身)を食べながら観てました^^!{/netabare}

投稿 : 2024/06/01
♥ : 15
ネタバレ

ユニバーサルスタイル さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

BLOOD-Cの集大成。Cの意味するものとは?

※このレビューはかなり主観的な解釈による、ネタ的文章です。
 決して参考にはしないでください。



TV版を見てから随分間が空いてしまったのは、TV版でいまいち何がやりたかったのか理解できなかったからです。
でも、やっとこさ劇場版を見て分かりました。
これはつまり、
{netabare}
「アニメでハリウッドぐらいに豪華なB級・・・いやC級アクション映画を作ろうぜ!」ってことだったんだよ!!
{/netabare}

TVアニメだと時間と予算の制約があって規模を縮小せざるを得なかったんですね。だから盛り上がりに欠けてしまい、狙いも見えづらかった。
あの強いんだか弱いんだか分からない古きもの、茶番劇を繰り広げるキャラクター、壮絶(?)なラスト・・・それら違和感は全てこの映画を見れば解決します。


今回は舞台を孤島から都会に変え、登場するキャラクターもより現代的な設定に。
いかにもな軽いノリの若者たちがメインで緊迫感はほぼ皆無でした。
{netabare}
在り合わせな感じの設定が良いですね。とりあえずハッキングとかハッカーとか入れとけ!みたいな魂胆は潔いです。
やられるために出てきたようなキャラが多くて、そこらへんはTV版と共通していました。
{/netabare}


相も変わらずだったのは展開の唐突さ。
「古きもの」の登場やその戦闘だけでなく、小夜と真奈たち(映画オリキャラ)の織りなす人間ドラマもかなりスピーディで、共感する隙もありませんでした。
{netabare}
唐突に自分の過去を語り始める真奈。必要以上に真奈にべったりの月ちゃん。そして相変わらず自分語りの激しい文人さん。
古きものでは、九頭とかいう男が口からゲロンと飛び出たシーンや蔵人が巨大生物として登場するシーンは○。

突然挿入されるお色気シーンや、ラストを後日談で締めるお約束も良い感じです。
{/netabare}

真奈、というキャラを演じている橋本愛さんの演技もこのアニメに華を添えていたと思います。
{netabare}
無論、B級的な意味で。ああいう棒演技のヒロインはベタだな~と思いつつ見てました。
最初はイライラしてましたが、お風呂に入るお色気シーンで許せました!おっぱいが大きければ大概の欠点には目を瞑れます。小夜ちゃんも相変わらず豊乳で満足。
{/netabare}


アクション映画として迫力あるシーンは欠かせません。そこで、クライマックスで巨大な敵と対峙します。それにしても・・・・
{netabare}
デカすぎる!! あれじゃ完全に怪獣ですよ!(笑)
いやむしろあの怪獣風味の古きものこそ、この映画の象徴だったんだと思ってます。
{/netabare}


TV版だと作画が崩れることも多かった反面、この映画では全編に渡って高水準の作画でした。
ただ、ヌルヌルとしたスタイリッシュでダイナミックな作画のせいでわずかに漂っていた幽玄さや妖気は完全に失せてしまったように思います。
{netabare}
ある意味で初代BLOODと同じ方向性のスタイリッシュさも持ち合わせていると思います。内容は完全に異なるものになっていますが。タイトルのLastも掛けているつもりだったのかも。
{/netabare}



今まで書いたのは批判ではないです。おそらくスタッフも狙ってこのような映画に仕上げたのだと思っています。
そして、このようなB級映画は割と好みなので(高得点は上げられませんが)悪くないと思います。

こう、見終わった後の脱力感というか拍子抜けする感覚を味わいたい方にお勧めします。あとグロ表現に耐性のある方に限ります。












真面目に褒めると水樹奈々さんの主題歌での歌声と、小夜を演じる美声が素晴らしかったです。後は、、、序盤のワクワク感、でしょうか。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 10

62.6 5 化け物アニメランキング5位
劇場版 NARUTO-ナルト- ブラッド・プリズン(アニメ映画)

2011年7月30日
★★★★☆ 3.7 (112)
593人が棚に入れました
雲隠れの里の長である雷影暗殺未遂と、霧隠れと岩隠れの上忍を殺害した罪に問われたナルトは、ブラッド・プリズンといわれる罪人収監所・鬼灯城(ほおずきじょう)に投獄される。城の主「無為(むい)」が操る最強の禁固術により力を奪われるこの場所で、何者かに命を狙われるナルト。無実を証明すべく、事件の真相を追うナルトと仲間たちの戦いが始まる。

いかろーす さんの感想・評価

★★★★☆ 3.8

安定した面白さ

TV版のこれまでの経歴、劇場版7作品目だけあってかなりの安定感ですね。これも普通に面白かったです。特にエンディングで使われた遊助の曲がかなり気に入りました。

ただ少し物足りなかったような気もします。本編自体が108分と少々短めなこともあり、展開が早かったですね。何かもうひとつエピソードなり何なりと入れてもよかったのではないかと思います。

作画に毎回気を使ってるので今回も良かったです。同時上映された短編も楽しめました。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 8

tinzei さんの感想・評価

★★★☆☆ 3.0

もうちょい評価高くてもよくね

少なくとも今までのナルト(疾風伝)映画よりは面白い
ナルト以外のレギュラーキャラは最後の方しか出てこない、でも面白いかったからいいや。
でも四人組についての詳しい描写がなく、素顔も一人だけしかわからなかったのが少々気がかり、別にモブではないのだから素顔と最初の敵との描写はもっと詳しく描いて欲しかった。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 0

daruma さんの感想・評価

★★★☆☆ 2.9

NARUTOに合っていない気が・・・

 期待して映画館で観ましたが、少し物足りなかったように感じました。
 原作を担当されている方が有名な作家さんらしいですが、いまいち「NARUTO」の世界のよさを出し切れていなかったように思います。「NARUTO」の映画としてではなく全く別のアニメ映画として観てみたいストーリーでした。
 

投稿 : 2024/06/01
♥ : 1

69.0 6 化け物アニメランキング6位
獣兵衛忍風帖(アニメ映画)

1993年6月5日
★★★★☆ 3.9 (70)
287人が棚に入れました
江戸時代前期、下田村に広まった疫病の原因を解明すべく望月藩家老は召し抱えの忍びを村に潜入させる。しかし、彼らは待ちかまえていた忍び軍団・鬼門八人衆の手によって全滅させられてしまう。その中でただ一人生き残ったくの一・陽炎を救ったのは、偶然その場に居合わせたはぐれ忍び・牙神獣兵衛だった…。

声優・キャラクター
山寺宏一、篠原恵美、青野武、阪脩、郷里大輔、永井一郎、大友龍三郎、大森章督、高島雅羅、森功至、屋良有作、若本規夫、関俊彦、勝生真沙子、野本礼三、菅原淳一、鈴木勝美、森山周一郎

Dkn さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

ジャパニーズ忍者の印象を広めた傑作“Ninja Scroll”

山田風太郎の『忍法帖』シリーズの影響が大きくある本作。

“あにこれ”的に言うと「バジリスク~甲賀忍法帖~」ですね。

監督の“川尻善昭”さん世代は、いわゆる忍者モノが流行った時代でした。

それまで原作があるアニメを作って来た監督が、強く影響を受けた自身を構築するもので作品を作りたいと思った時期だったといいます。その為これまでの川尻作品よりも色濃く“らしさ”が出た作品になっています。

ちなみに代表作は『妖獣都市』『獣兵衛忍風帖』『バンパイアハンターD』『アニマトリックス』など

アニメクリエイターのオリジナル作品は影響を受けたものが同ジャンル(映像作品)にあることが多く、どうしてもどこかで観たようなアニメになってしまったり、シーン先行の映像的なこだわりだけが表面に出てしまっているものが多く、多少この「獣兵衛忍風帖」にもあったりします。(登場人物や忍者のイメージ自体は山田風太郎作品や、横山光輝の「伊賀の影丸」等の忍者漫画の影響なのですけどね)

ですがストーリーはテンポが良く主題も分かり易く作られていて、マニアックになり過ぎていません。映像としての魅せ方も凝っていて、ストレスになりにくい作りをしているところが素晴らしいですね。

日本よりも海外で爆発的に売れたのは、忍者モノに慣れ親しんだ日本人だと既視感を与えてしまうからかもしれません。後に、獣兵衛忍風帖の海外表記“Ninja Scroll”を観た海外の映画監督などに多大な影響を与えたといいます。日本でも多々この作品に似たものを見ます。単作としてではなく、歴史の1ページとして見られるようになってしまったのは残念です。

私の世代ならいざしらず、今見るなら伊賀と甲賀の対抗戦という構図と、登場人物の因縁や恋愛模様を組み合わせ、脚本のお手本とも言えるようなカタルシスを作り上げている山田風太郎原作。かつ、それをスタイリッシュに表現した漫画化。そして理解度の高いアニメ化と、三段階を経て生み出された「バジリスク~甲賀忍法帖~」を圧倒的にススメます。

勝手な推測なのですけど、バジリスクの作者“せがわまさき”さん。あの方は自作品に獣兵衛忍風帖のデザインをかなり踏襲してる気がするんですよね。まあ、それは卵が先か鶏が先かの問題になりますけど(笑)勿論ここからだけでなく、今までの忍者モノを組み合わせながらやったのだと思います。どこかにインタビューとか無いかな?


言うまでもなく、私はこの獣兵衛忍風帖が好きです。

この作品にしか無い表現やアイディアが沢山あるので、興味をもった方は鑑賞するのもオツですよ。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 15

ワドルディ隊員 さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0

敵キャラの存在感が濃いハードボイルド系忍者アニメ

このアニメ映画は、川尻善昭氏が原作、脚本、監督を務めた
時代劇作品である。
北米では知名度が高く、50万本近く売れる程の人気を誇っている。

あらすじを一行で言い表すと、抜け忍として生活している主人公の
獣兵衛が、途中で仲間となる甲賀組くのいち陽炎らと共に、
鬼門八人衆という忍軍団のボスとして君臨している、
過去に倒したはずの宿敵、弦馬に再度戦いを挑むというもの。

この作品がいいなと感じたところは、非常にレベルの高い作画だ。
特に、戦闘シーンは目を見張るものがある。
その他の部分でも気合が入っており、緊張感を上手く活かせていると思う。

個性的な敵役が多いのも大きなポイント。
特に印象に残っているのは、序盤に出てきた鉄斎というキャラクターだ。
風貌だけでなく、残虐な性格を持ち合わせている人物である。
敵を引きちぎった後、その腕から直接血を吸引している姿を見て
明らかに危険な奴だと実感した。私としては、ラスボスより
この巨体の方がボスキャラの貫禄があると感じる。

他の川尻作品でも感じていたのだが、テンポのよい点は
群を抜いていると思う。変にだれることなく進んでいくため、
テンポ重視の方なら特に問題なく
見れることだろう。

反対に、ストーリー展開は抜きんでたものではない。
良くも悪くも普通なのだ。主人公側のキャラクター達は、
そこまで印象に残らないしね。強いて言うなら、
あのご老人がかなりスケベな爺さんだという所か。
とはいっても、物語を陰ながら引っ張っていく
陰の立役者としての役割が大きいので、この作品には
欠かせない存在だと思う。

個性的な敵キャラが多いとは言ったのだが、パワーバランス
が悪いのか一部の敵キャラを除き、かなり冷遇されている
ように感じる。ぶっちゃけ、弦馬と鉄斎以外の人物は
全くと言ってもいいほどに印象がないのだ。
ただのマスコットにしか見えない人物もいたし。

まあ、尺が足りなかったのかもしれないが。それならいっその事
八人衆ではなく、五人衆か四人衆位の規模に抑えるべきだったのでは?
そうすれば、それぞれの戦闘シーンをじっくり描けていたのに…。
勿体ない。

ちなみに、過激描写やエロシーンが存在する。流石に顔面変形や
内臓破裂はないものの、流血シーンは普通にあるのである程度の
耐性は持っておいた方が良い。

忍者ものの作品が好きな方なら、一度視聴してみてはどうだろうか。
個人的には、良作だと思う。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 7

ゴミクズ さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

『獣兵衛忍風帖』の原作者は川尻善昭氏

本作について「山田風太郎原作」と書いているレビューがあるが、間違っている。
本作『獣兵衛忍風帖』は川尻善昭氏が原作・脚本・キャラクター原案・監督のオリジナル作品(出典:スタジオ雄『プラスマッドハウス 2 川尻善昭』キネマ旬報社,2008)。

問題のレビューから引用。

 「まあ、山田風太郎原作なだけあって濃い、エロい、グロいの三拍子。」

出典:たわし(冨岡)「『忍者アニメ』といったらこれ」あにこれβ(https://www.anikore.jp/review/1782784/)2020-09-23,閲覧日 2020-09-26.

このレビューを書いた人は、レビュー投稿する前に事実確認する癖をつけた方がよい。誤情報を書かれるのは単純に迷惑。

川尻善昭氏が原作の『獣兵衛忍風帖』は山田風太郎オマージュの作品なので、当該レビュアーは思い込みから山田風太郎原作だと勘違いしたままレビューを書いたのだろう。


『獣兵衛忍風帖』は大好きな作品なので、誤情報に基いて本作が評価されるのは面白いものではない。


ついでに指摘すると、2020年9月26日現在『獣兵衛忍風帖』のページで使用されているサムネイル画像は間違っている。表示されている画像は『獣兵衛忍風帖 龍宝玉篇』のもので『獣兵衛忍風帖』のものではない。
あにこれβ「獣兵衛忍風帖」(https://www.anikore.jp/anime/3499/) 閲覧日 2020-09-26.


てきとーすぎるでしょこのサイト(笑)。
作品や制作者へのリスペクトが感じられない。


感想
面白いので何度も観ている。趣味が合いそうな人には視聴を勧めることもある(誰にでも勧めるわけではない)。少ない枚数で効果的に見せる技術が素晴らしい。主人公がかっこいい(笑)。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 1
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