恋愛でオリジナルアニメーションなアニメ映画ランキング 8

あにこれの全ユーザーがアニメ映画の恋愛でオリジナルアニメーションな成分を投票してランキングにしました!
ランキングはあにこれのすごいAIが自動で毎日更新!はたして2025年02月03日の時点で一番の恋愛でオリジナルアニメーションなアニメ映画は何なのでしょうか?
早速見ていきましょう!

83.0 1 恋愛でオリジナルアニメーションなアニメランキング1位
たまこラブストーリー(アニメ映画)

2014年4月26日
★★★★★ 4.1 (1247)
6625人が棚に入れました
少女は、知らなかった。

将来、当たり前のように家業をついて、ずっとこの場所で
このままでいられるんじゃないかって、無意識のうちに感じていた。
そうであればいいと、願っていた。

けれど、幼なじみも友達も、少しずつ変わって行く。
少しずつ大人になっていく。
家族がいて、商店街の人たちがいて、変わらないものと変わっていくもの。

高校3年生の春。
そんなことを思い始めた少女は恋をする。

北白川たまこは、知らなかった。
それは、「宇宙の入り口」に立ったような感覚。

そして少女は、一歩を踏み出す。

たまこ、むけました。

声優・キャラクター
洲崎綾、田丸篤志、金子有希、長妻樹里、山下百合恵、日高里菜、藤原啓治、日笠陽子、西村知道、立木文彦、ゆきのさつき、小野大輔、辻谷耕史、津久井教生、岩男潤子、渡辺久美子、家中宏、成田剣、川原慶久、山下大輝、野坂尚也
ネタバレ

mio♡美桜 さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

想いを伝える細い糸…

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企画・原作・アニメーション制作 - 京都アニメーション
監督 - 山田尚子
脚本 - 吉田玲子
キャラクターデザイン・総作画監督 - 堀口悠紀子
絵コンテ - 山田尚子
演出 - 山田尚子、小川太一、河浪栄作、山村卓也
作画監督 - 堀口悠紀子、丸木宣明、引山佳代
美術監督 - 田峰育子
色彩設計 - 竹田明代
撮影監督 - 山本倫
設定 - 秋竹斉一
音響監督 - 鶴岡陽太
音楽 - 片岡知子、マニュアル・オブ・エラーズ
音楽プロデューサー - 中村伸一、山口優
編集 - 重村建吾
製作 - うさぎ山商店街
公開 - 2014年4月26日
上映時間 - 83分

(以上Wikipediaより引用)

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〜Tamako Love Story〜
「たまこラブストーリー」

もうタイトルから想像するだけで、心がキュンとなる
くらいの響きです。

前作「たまこまーけっと」をご存知の方ならあの純真無垢
なたまちゃんにラブがついちゃう。
なんだか嬉しいような寂しいような…
相手は誰?
と思いつつも思い浮かぶのは1人だけ…

1人の少女が恋する事への驚きと葛藤、そして喜びを
感じながら、1人の女性へと成長していく一歩手前の
過程を描いた、とても優しい愛おしさと切なさが感じ
られる作品でした。
そして思春期ならではの性への関心や友情が繊細な心情描写と
ともに優しいタッチで描かれています。

掛け値なしの純愛物語。
京都アニメーションが贈る83分間。
青春の輝きをどうぞ感じて下さい。


【mio's café】
視聴済みの方限定ですよぉ♪
美味しいお餅ありますΩ~ 

{netabare}
作品冒頭から登場する1つの林檎。

もち蔵が何気にコロコロしてて、最後にカウンターから
ぽろりと落ちる林檎。

何だか意味深な物語の始まり方でしたね。

今回は、お喋りなMr.鳥さん「デラちゃん」の登場は
ほとんど無く(最後の方でワンカットだけ、
あっ!デラちゃん!って思ったら消えちゃった…)、
たまこともち蔵を中心にお話が進みます。

そしてたまこともち蔵の恋のお話に絡めて、周りの人々も
成長していくお話しでもあったと思います。

物語序盤の方から、かんなちゃんの登場も多くて
相変わらずのシュールさに、ここは私的に嬉しい演出
でした。
いつの間にかバトン部員に「部長」って呼ばれているし…
実際部長では無いんですが、凄いですね、あの説得力。

「お餅だけを丸めて青春を終える気ですか、
たまちゃん‼」

「お餅は一生丸められますが、我々バトン部の青春は
今だけなんですよーー!たまちゃん‼」

やっぱりかんなちゃん、謎のカリスマ性あります。

みどりちゃんはいつも通り、たまこが大切な存在。
少しだけもち蔵に意地悪な事を言ったりするけれど、
私的には大事なたまこにもち蔵がどれだ本気でたまこの
事を好きなのか、あるいは自分から見て相応しい存在
なのか、彼女なりに試しているようにも見えました。
ただ、邪魔するだけでは無くて。

私はかんなちゃんとみどりちゃん、この2人の存在が
たまこラブストーリーでの大きなキーマンの1つ
だったとも思います。
そして物語の終盤ではこの2人にも大きな変化と絆が
生まれます。

そんなこんなで、お話しは進みますがやっぱり私的にも
最大の関心事は、

「もち蔵、いつ告るん?」

ていう事でした。興味津々。
でも、ドキドキ…

中々踏ん切りのつかないもち蔵。
うなされる様な毎日。寝ても覚めても

たまこ…たまこ…たまこ…

流石にたまこまーけっとよりも好きのグレードが
ワンランクアップしてますね。

わかるよ!もち蔵の気持ち。ましてや幼馴染み。
いつもの生活の中にたまこが普通にいるんだもん。
どうしたらいいのか分からなくなるよね。

そんなもち蔵にみどりちゃんがちょいアシスト。
ここもちょっと、みどりちゃん的にはもち蔵を
試している感じみたいだったけど、結果的にもち蔵に
告白するきっかけを与えた形になりました。

夕暮れの河原にたたずむたまこともち蔵。

作画的にもとても素敵なシーンです。
黄昏時の空にキラキラ輝く水面。
背景の美しさはもちろんですけど、やっぱり
堀口悠紀子さんデザインの横顔は大好きです。

幼い頃2人でよく遊んだ飛び石の上でたまこが
おもちを大好きな理由を語ります。

「あのさ、おもちってさ、ちっこいのに色んな人を
幸せに するんだよね。」

「柔らかくてさ、白くって、優しくって、
いい匂いがしてさぁ、あったかいんだもんなぁ。」

たまこにとっておもちはお母さんのイメージだったん
です。だから大好きで大好きでたまらないんです。
商店街と同じでかけがえの無いものなんですね。

川に落ちそうになるたまこの手首を握りしめるもち蔵。
たまこに東京の大学に行くと告げます。
たまこの潤んだ瞳の横顔、凄いです、いいですね。

そして、

「俺、たまこが好きだ!
めちゃくちゃ好きだ!だから…」

言っちゃた…

もち蔵には早く告白して欲しかったけれど、
実際、この一線を越えた言葉を聞いたら私まで
何かが壊れた、何か大きな物を失った様な気が
しちゃいました。

「ドーン!」って感じ?

「かたじけねぇ…かたじけねぇ…」

たまこのこのセリフ。私までビックリです。
そこまで、動揺するとは思ってなかったので…

でもいつもたまこの生活の中にいたもち蔵。
普通に家族の様に思っていたもち蔵。
そんなもち蔵からの「好きだ。」の言葉。
しかも、「めちゃくちゃ好きだ。」なんだもん。
たまこには今までの世界が見えなくなるのも
当然だったかもしれません。

「あっし、先に失礼するでござんす。」

これは重症ですね。

それからというものは、たまこまでもち蔵を意識して
しまう毎日。
お家のお手伝いも、バトンの練習もままならない毎日。

ここで、このお話のキーワードの1つは「キャッチ」
って言葉なんだなぁって思いました。

かんなちゃんがバトンをキャッチ出来ないたまこに言った

「磁石入りグローブを作るのです。バトンにも磁石を
くっ付ける。あら不思議、引き付け合うS極とN極。」

「どうしようもなく引き付け合うのです。」

多分、かんなちゃん的には深い意味は無かったと
思うんですけど(いや、彼女の事ならあり得るのかな?)
その話を聞いていた、たまことみどりちゃんの
(特にみどりちゃん)の表情が凄く意味深でした。

そして度々、出てきます林檎。
林檎と言えばニュートンの万有引力の法則。
引き付け合うんですね。どうしようもなく。

ここで私がちょっと思い出したお話がアダムとイブの
食べた禁断の果実「林檎」でした。
(あれは林檎では無かったと言う説もありますが、
ここは一応、林檎ということで。)

かなりうろ覚えなのですが、蛇にそそのかされて
林檎を食べてしまったアダムとイブが楽園を追放され、
それまで無かった恥じらいという感情を覚えて、
イチヂクの葉っぱでそれぞれの性器を隠してしまう
というお話しです。

そしてアダムの食べた林檎は喉仏に、イブの食べた林檎
は乳房になったと。

成長期、男性は喉仏がふくらみ、女性は乳房がふくらみ
ます。そして恥じらいを覚えます。

このお話の序盤でもたまこが急にお尻やおっぱい
のおもちを作ると言い出して、みどりやかんなのお尻を
触ったり、うさ湯でボインの女性と自分の胸を見比べて
もの哀しげな顔になったりしています。
そしてもち蔵に対しても恥じらいを見せる様になりました。

この辺り、たまこには無縁だと思われていた女性としての
性的な成長過程も柔らかいニュアンスで表現してるの
かなぁとも思ったりしました。

だから1つの林檎が登場する事で色んな事が想像出来ます。

英語のことわざで
「You are the apple of my eye」
という言葉があります。

日本語で言えば「目の中に入れても痛くないくらい
可愛い」という言葉に該当するのかな。

もち蔵にとってたまこは色んな意味で林檎だったの
かもしれません。
だからお話の冒頭で林檎をコロコロしてたのかなぁって。

そしてもう1つ私が感じたのは、たまこともち蔵の
ラブストーリーを通して周りのみんなも一緒に
成長した事でした。

中でも終盤のかんなちゃんとみどりちゃんのやりとりには
心を打たれました。

嘘をついてまでたまこをもち蔵の元へ送り出した
みどりちゃん。
1人残った教室にやって来ましたかんなちゃん。

このあとの2人の会話がとても素敵でした。

かんな「策士ですな。でも、そういうの好きですよ。」

「今ちょっといい顔してますよ。」

みどり「サンキュっ!かんなっ!」

かんな「ねぇみどちゃん。私も高いとこ登って
みますかね。」

もう、何とも言えないくらい2人の間の言葉以上の物が
伝わってきて、つい涙が出ました。

大好きなたまこの幸せを願って送り出したみどりちゃん。
1歩成長しました。
そんなみどりちゃんを見て、自分も前に進むもうと思った
かんなちゃん。
木に登った時のかんなちゃんの顔がとても素敵でした。
登った時の景色、今まで見たこと無い景色だったのかも
しれません。

この作品を見て私が感じたのは人を好きになるという
事は当たり前かもしれないけれど、とても切ない事
なんだって事。
好きになる方も、好きになられる方も。

何処かに私が置き忘れてきた思い出かもしれません。

そして「ちはやふる」を見て出会った私の好きな
一つの和歌が思い出されました。

しのぶれど 色に出でにけり わが恋(こひ)は
     ものや思ふと 人の問ふまで

歌意:
私の恋心は誰にも知られない様にと心に決めて
耐え忍んできたのに、とうとうこらえきれず
顔に出てしまっているみたいです。
何か物思いでもあるのですかと人が尋ねてくるほどに。

という隠せば隠すほど表情に表れてしまう悩ましい恋心
を表現した歌です。

たまこともち蔵を見ていたら、凄くこの歌が心に
染みてきました。

最後の駅のホームでのシーンはもうなんと言ったら
いいのか分からないくらい、純愛の美しさが表現
された演出だったと思います。

今まで何度もキャッチ出来なかった糸電話。
その糸電話を見事キャッチしてからの、

「もち蔵、大好き!どうぞ!」

たまこらしい最後の言葉でした。

このあと、私にはたまこの

「やっと…やっとね…キャッチ出来たよ。
糸電話ともち蔵の気持ち‼︎」

という言葉も聞こえた様な気がしました。
いえ、確実に聞こえました。

それにしても、もち蔵泣き過ぎ…
でも、そういうもち蔵、私も好きです。
嬉しすぎるもんね!私まで…涙出ちゃうよ…

子供が大人になっていくのは嬉しいけれど寂しい気も
します。
それは作品を通して、豆大さんや吾平さん夫妻から
凄く感じました。
お互いの両親はわかっていたけれど、黙って見守って
くれてました。
でも、みんな色んな事があって今、ここにいるんです。
これから、たまこともち蔵も色んな経験をしていきます。

これから先の2人を見てみたい気もするけれど、

それは、やぶ蛇でしょうか…

〜Tamako Love Story〜
「たまこラブストーリー」

本当に出会えて良かった作品でした。
2人の幸せを祈って…



【主要登場人物・出演者】

北白川たまこ - (CV:洲崎綾)
大路もち蔵 - (CV:田丸篤志)
常盤みどり - (CV:金子有希)
牧野かんな - (CV:長妻樹里)
朝霧史織 - (CV:山下百合恵)


【主題歌】

主題歌「プリンシプル」
作詞 - 愛鈴 ⁄ 作曲 - 藤本功一 ⁄ 編曲 - 谷口尚久
歌 - 洲崎綾

オープニング曲「KOI NO UTA」
作詞 - 北白川豆大 ⁄ 作曲 - ダイナマイトビーンズ
歌 - 北白川豆大

エンディング曲「こいのうた」
作詞 - 北白川豆大 ⁄ 作曲 - ダイナマイトビーンズ
歌 - 北白川たまこ


【劇中曲】

「恋の歌」
作詞 - 北白川豆大 / 作曲・歌 - ダイナマイトビーンズ
「Excerpts from "The Return Of The Drowing
Witch"(Part1 - Part9)」
作曲・編曲・演奏 - Hogweed

「qum Daiwtiigyam」
作詞 - Gunung Bangep / 作曲 - Ro ga-nang / 歌 Daniels

「豆大さんへ」
作詞・作曲・歌 - ひなこ

「上を向いて歩こう」
作曲 - 中村八大 / 編曲 - 片岡知子
{/netabare}

投稿 : 2025/02/01
♥ : 96
ネタバレ

ユニバーサルスタイル さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

恋愛も、友情も、成長も、全ては日常の産物

2014/06/27 鑑賞四回目、レビュー更新

もしこの映画を題名だけでステレオタイプな恋愛映画のイメージで敬遠している方がいたら、一旦その考えを捨て去ってとにかく見てほしいです。

「たまこまーけっと」で作り上げた日常の世界を上から恋愛模様で塗り変えていったのではなく、元あった日常に丁寧に恋愛の色を加えていった。

日常系アニメで成功を収めた京アニだからこそ出来た日常系ラブストーリーです。

※ただ一口に日常系と言っても「らき☆すた」のような日常四コマ系、話に連続性がなくキャラクターの掛け合いだけで成立する類のものと、「けいおん!」や「たまこまーけっと」のような作品は異なる意味合いを持っていると思います。

後者では作中時間が経過しながらキャラクターが成長し、物語に変化あっての日常が表れているので、同じ日常でもそこから生じる現実感に差があります。

あらすじ
{netabare}
高校三年生―誰もが新しい進路に向かって歩み出すとき。

うさぎ山商店街に住む、大路もち蔵(おおじもちぞう)もそういった時期に差し掛かっていた。
自分の中では既に進むべき道が決まっていた彼だったが、心残りが一つだけあった。
それは生まれたときから知っている幼なじみ、北白川たまこのこと。

実はいつからかもち蔵はたまこに恋をしていた。
そしていつその想いを伝えるか踏ん切りが付かないでいた。

そんなある日、あることがきっかけでもち蔵はたまこに告白する絶好の機会を得る。
もち蔵は無事告白できるのか、もし告白できた場合たまこはそれにどう応えるのだろうか。




一方、たまこも卒業後の進路は決定していた。
しかしその決心に迷いがない訳ではなかった。

もち蔵や周りの友達のように自分の将来を見据えての進路ではなく、漫然とした進路の歩み方に不安を覚え一人悩んでいた。

高校卒業を目前に控え、たまこは色々な経験をすることになる。
そうした経験が彼女をどのように変えていくのか。

もち蔵とたまこを中心にした、少年少女の思春期を描くストーリー。
{/netabare}


最初「たまこまーけっと」が映画化すると聞いたとき、(日常系が受けなかったからラブコメかー)とか(また映画化商法かー)みたいな、ネガティブな意見の方が多かった気がします。

自分も、今までのイメージとがらりと変えて同じキャラを使った別物のようなラブストーリーを想像していました。

しかし山田監督が目指したのは、日常アニメからの‘脱却’ではなくより日常に迫った日常アニメの‘昇華’だったのではないかと思います。


何故なら、普通ラブストーリーといえば一に恋愛・二に恋愛、登場人物にとって最も重要な恋煩いを物語の軸に置いて話が進んでいくものですが、
この映画では恋愛している少女を日常の世界から切り離したりせず、あくまで日常の中に同居する一つの要素として扱っているからです。


ラブストーリーのための恋愛、ではなく日々の生活(実家の手伝い・学業・部活等)を過ごしながら感じている恋愛―当然ながら四六時中恋愛のことばかり考えていたとしても現実それだけに専念することは叶わないわけで、その意味では最も本質的な恋愛を描いていると言えます。


学校での休憩時間や放課後に友達と集まって、将来の話だったり恋愛の話をする。学校から帰って寝るまでの間に自分の部屋で、昼間話したことを思い悩んでみる。
いかにも学生らしい、こうした日常の過ごし方がリアルで良かったです。

<追記>
また単にたまこともち蔵の二人の話ではなく、みどり・かんな・史織の三人娘たちもそれぞれの未来に向けて(大なり小なり)成長していくことが見られ、青春色を強めていたのではないかと思います。
[個人的なキャラの成長度]
史織>もち蔵>たまこ>みどり>かんな>あんこ

{netabare}
史織はこの中で一番成長したのではないかと思います。
内気で引っ込み思案だった彼女は、誰の目にも触れない間に自分から殻を破って飛び出していく決心をしていました。ただ視聴者にさえその成長の過程を見せてくれなかったのは残念です。


次に大きく成長したのはもち蔵。たまこよりもち蔵の方が一つ上のステージへ登って大人びています。
彼がたまこに想いを伝えたのは、未練よりも覚悟の現れであると感じました。たまこに想いを馳せながらも決して依存するつもりはなく、むしろ一人でもやっていける強い意志が見られました。


たまこは、自分の中で意識していなかったまたは意識しないようにしていた感情をやっと認識しそれに向き合った。
そして行動に移すことが出来た点で成長があったと言えます。しかしまだ完全に自立は果たせていない、もち蔵に依存している未熟な部分は残っていました。


みどりはたまこへの依存からやっと少し抜け出すことができたといった所でしょうか。
最初自分はみどりがもち蔵に突っ掛かるのは恋心故にだと思っていたのですが、どうやら逆にたまこを取られる嫉妬心から来る行動だったらしく、まだ友達離れの段階だったのですね。
最も大人に見えるみどりがむしろ一番子供らしいというのが面白いところです。


かんなはみどりやたまこの成長を目の当たりにして、それでは自分も、と自身の障害を一つ乗り越えました。
周りの人から見れば(この中のメンバーで見れば)、ほんの小さな一歩ですが、これも立派な成長でしょう。


あんこに関しては劇中あまり出番が描かれませんでしたが、たまことの自宅でのやり取りからやはり彼女なりの成長があったのだろうと推察できます。
大きくなること、変わっていくことに対して前向きに向き合っています。彼女は元々大人びているので成長の度合いとしては最小だろうと判断しました。
{/netabare}


新海誠監督の作品のように、ストーリーの進行速度と登場人物の感情の移り変わりの速度を上手くシンクロさせ、ゆっくりと進んでいく日常の中で徐々に芽生えていく恋心を表現するのは容易いことではありません。
{netabare}
もち蔵に告白されてから、たまこは今まで気付かなかっただけで身近に(商店街の中に)あふれている人々の営みを初めて意識し、過去に自分がもち蔵に失意のドン底から助けられたことを思い出し、またかつて自分の母も同じ経験(豆大に告白され思わず逃げ出す)をしていたことを知り、自分の気持ちと向き合っていきます。
この過程がしっかりしているから、視聴者もすんなりと共感することが出来るんですね。
{/netabare}


それからアニメ映画の中にはTVアニメの拡大版・数話分の内容を凝縮したようなものが多いと感じていましたが、たまこに限ってはちゃんと映画としてのセオリー・手法を取り入れて一つの映画として成立していました。

思うに、場面の切り替え・繋ぎの部分でその工夫がなされていて、ブツ切りにならずに一つ一つのシーンが全体で調和していると思いました。


今までの日常系アニメで実践してきた、登場人物の会話や内面に生まれる絶妙な‘間’も遺憾なく発揮されていました。

たとえば二人の女の子が隣り合ってごく普通の会話をしている光景。何も特別なことはないのにスクリーンに釘付けになってしまうのは、ほんのわずかな無言の時間・無音の空間によって空気が張り詰めるような緊張感を生むからでしょう。


主に女性キャラの仕草や表情、性格などの描写に女性的な感性を強く感じるのも恋愛ものとして効果的でした。

TVアニメのときよりも大胆に赤裸々に描かれている女の子達。その中でも特にたまこの変化が顕著でした。

自分が今どうしたい・この先どうなりたいか悩んで悶えている姿や、自分の本音を素直に打ち明ける姿が新鮮でした。

TVのときはあまりに浮世離れしていて身近な存在ではなかったので、やっとヒロインとして物語に登場してくれたか、という思いです。

その証拠に
{netabare}
EDムービーはTV版のED「ねぐせ」と同じフィルム風の映像で、流れている曲がたまこの歌う「恋の歌」。主題歌のプリンシプルも良いですけど何よりこのEDが吹っ切れた感じで素晴らしかったです。
冒頭では母ひなこの真似っこに過ぎなかったものが、最後はさながらダイナマイトビーンズのような情熱的な熱唱。この変化が良い!
{/netabare}


色々と自分なりに思ったこと・考えたことを手当たり次第に書き連ねてみました。

今回の映画は、非常に少女漫画的な乙女の‘純情さ’と懐かしの青春映画的な‘青臭さ’が共存していて、幅広い層に向けて支持されるだろうと予想されます。
至高の日常系恋愛アニメまたは日常系アニメの一つの到達点としてもっともっと高い評価を受けてほしいと思います。

投稿 : 2025/02/01
♥ : 48
ネタバレ

ostrich さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0

「手前」「予感」から「確信」「覚悟」へ

山田尚子監督作品を一通り鑑賞してから、本作を再見した。
私の見立てに過ぎないが、監督の作家性が本格的に発揮されたのは、本作からだと思う。

彼女は日常の中のスリリングな瞬間を描くのが本当にうまい。もう少し具体的に言えば、なんでもない日常を丹念に描きつつ、その中に潜み、日常を壊す可能性をはらんだ個人の感情を掬いとることに情熱を傾けているように思える。
他の映像作品を例にとるなら古き良き日本映画的な作風とも言えるだろう。本作の冒頭で「松竹映画」のロゴがモノクロで映されるのは象徴的だ。私はそれほど「古き良き日本映画」を観ているわけではないのだが、これが小津安二郎や山田洋二へのオマージュだということはわかる。

その視点で思い返せば、彼女の作家性は「けいおん」シリーズや「マーケット」でも、時々、発揮されてはいた。
ただ、どちらの作品も「変わらない日常」に着地する前提があるので、決定的な変化は最後まで起きない。その手前、あるいは、その継続の予感に止めているのだ。もちろん、この選択は両作品を魅力的にしている要因でもあるのだが、現時点から振り返れば、「映画作家としての山田尚子」には足枷でもあったように思う。

その足枷を本格的に外したのが、本作だ。

すでに本サイトの優秀なレビュアーの方が指摘していることでもあるが、本作は「変わっていく日常」を描いている。もう少し、きつい言葉を使うと、日常を壊す可能性をはらんだ個人の感情が表出して、日常そのものを決定的に変えていく様を描いているのだ。
そして、この過程が緻密に計算された構成と、繊細で慎重なセリフ回しによって描かれるため、大きな事件はほとんど起こらないにもかかわらず、非常にスリリングな印象となる。これが前2作品と決定的に異なる点だ。

これが端的に表れているキャラクターは、みどりだ。
本作における「日常を壊す可能性をはらんだ個人の感情」とは、主には、たまこともち蔵と恋愛感情なのだが、その表出にはみどりの恋愛感情が大いに関わっている。
実はメインキャラクターの中で、初めてはっきりと他者に対して、感情を表出させるのは、主人公2人ではなく、みどりなのだ。もちろん、ストレートな愛情表現ではなく、もち蔵に対する「いじわる」としてだが、恋愛感情というのはそれも含めてのものだ。
ありふれた作品なら、みどりは自分の感情をコントロールして、2人を応援するところかもしれないが、本作は違う。逆にみどりのコントロールしようとしても出来なかった感情が、2人の状況を変化させる。結果、作品全般を通じて、みどりの行動には常に緊張感が伴うことになる。ただでさえ、繊細な主人公2人の関係が、みどりの行動でどうなってしまうのか、というスリリングさが生まれるわけだ。シナリオ用語的に言えば、狂言回しにもなっている。

これらのことは、映画「聲の形」を観た方なら、ピンとくるものがあるんじゃないだろうか。そう、おそらく、みどりは「聲の形」の植野の原型だ。もちろん、「聲の形」は原作付き作品なので、原型というのは正確さに欠けるのだけど、少なくとも、本作を経過したことで、植野を描くことができた、ということは言えると思う。
また、「リズと青い鳥」の優子あたりも「主人公たちに影響を与える、優しき敵対者」という位置づけにおいて、みどりと共通している。「リズ」における希美、優子、夏紀が語り合うシーンの緊張感は、本作のみどりに関するエピソードが原型になっているとみることも出来るだろう。
いずれにせよ、山田監督にとっては、本作でみどりを描き切ったことが、作家性を確立する重要な契機になったと思う。

    *     *     *

さて、山田監督の後続作品に触れたついでに、それらの作品と本作の全般的な比較もしてみたい。

後続作品から振り返ると、本作は「変わっていく日常」を描いてはいるものの、最終的にはそれほど変化なく物語が終わっているようにも見える。
たとえば、もち蔵が上京してからのたまことの関係については、一切触れていない。それどころか、もち蔵の上京自体、確定事項ではないのだ。その他のキャラクターの「その後」も、セリフの中で「将来のこと」として、語られているだけで、少なくとも、キャラクターたちの位置づけにはほとんど変化がない。

この辺りは前2作品を引きずっているとも言えるが、主人公たちが「変化を確信して、それを受け入れる覚悟をした」という内面の変化は確実にあるし、そここそを描きたかったのかもしれない。少なくとも、これまでは「手前」や「予感」で止めていたところが「確信」「覚悟」まで踏み込んで描いた作品ということは言える。

そして、山田監督は、次作「聲の形」で、「変わっていく日常」どころか、変わって壊れてしまった日常を再生させる物語(しかも、再生させようとしている間にまた壊れる展開もある物語)を描くことになる。
「聲の形」は山田監督の(現状の)代表作、かつ、最大のヒット作でもあるので、ここで作家性が現出したという見立てもあり得るとは思うのだが、全作品を通して観れば、少しづつ段階を踏んだうえで、「聲の形」に至っていることがよく分かる。
中でも本作は、作家性を確立した作品として、「けいおん」から始まるユートピアを出ていく過程の作品として、非常に重要だと思う。

※蛇足

本稿では、山田監督の作家性の展開について書いてきたのだが、彼女の「けいおん」から不変の作家性というか演出法である「間接表現」の巧みさについても書いておきたい。

これは今更、私が語るまでもないことだけれど、山田監督はキャラクターの心情をセリフだけに頼らず、モノや、キャラクターの行動や、風景描写などによって間接的に描くのがとてもうまい。

本作でいえば、{netabare}
たとえば、「糸電話」や「バトン」に関するエピソードだ。
もち蔵が「(たまこは)投げても、100回に1回しか受け取れない」という糸電話は、まさに2人の関係を象徴しているし、バトンはたまこの「受け取りたいけど受け取れない」もどかしさを端的に表している。{/netabare}
そして、その変化によって物語を語っていくわけだが、これがセリフ以上のエモーションを引き起こす。

その最たるものは言うまでもなくラストシーンなのだが、{netabare}私としては、ここで、たまこがもち蔵にする回答(セリフ)は、不要だとさえ思っている。あそこはもう、たまこが糸電話を受け取った時点で決着がついているよ。{/netabare}
そのくらい、山田監督の間接表現は雄弁なのだ。

投稿 : 2025/02/01
♥ : 15

86.1 2 恋愛でオリジナルアニメーションなアニメランキング2位
言の葉の庭(アニメ映画)

2013年5月31日
★★★★★ 4.1 (2005)
9544人が棚に入れました
靴職人を目指す高校生・タカオは、雨の朝は学校をさぼり、日本庭園で靴のスケッチを描いている。そこで出会った、謎めいた年上の女性・ユキノ。やがて二人は約束もないまま雨の日だけの逢瀬を重ねるようになり、心を通わせていくが、梅雨は明けようとしていた­…。

声優・キャラクター
入野自由、花澤香菜

ラ ム ネ さんの感想・評価

★★★★★ 4.8

ふたりの号泣は"魔法"なのだ。

 この世界には文字という考えができる前、話し言葉という概念があった。文字を持たなかった時代の日本語は「大和言葉」とも呼ばれ、万葉の時代に日本人は、大陸から渡った漢字を自分達の言葉である大和言葉の発音に当てはめていった。例えば「春」は「波流」と綴り「菫」は「須美礼」としていた。「雨」は「阿米」で、「心」は「許己呂」としていた。現在の「春」「菫」「雨」「心」と文字が固定される以前は、活き活きとした絵画性とも言える情景がその表記に宿っていたのだ。  そして万葉期に「恋愛」という概念は存在しなかった。先の時代に西洋から輸入された言葉である為であり、曾ての日本人は「恋愛」と呼べるほどの相手を愛する自由はなく、相手を想う悲しさを強調したものであった。そこにあるものは「恋」ともつかず、唯「孤悲」であり、孤独な悲しさ、孤独に誰かを”希求”するしかない感情が、遠い祖先の時代に存在したのだ。
 時に、丁寧に大切な言葉を遣うそのとき、私は一本の樹木になった気分になる。枝葉がのびて空の領域を狭め、葉の靄が立ち込め、太陽は遠く葉っぱの縁を煌めかせ、風に唆されて、言葉が舞い降り、心のどこかに落ちる。それがやがて堆積してゆき、時にあふれ、時にこぼれ、時になだれ、時にしゃくられ、時にまかれて、時につたったり、時にうおうさおうしたりして、時に積もったまま下の方から記憶に枯れる。言葉が旅をする。思えば、言葉は「言の葉」と書く。その庭では、匿名のひととひととが交互に木ノ葉を交換している。互いに何かを打ち明けて、後にその何かは互いの”希求”していたものとなる。その何かが、透明な手を差し出して片方の歩く手伝いをしてくれる。そんな「言の葉」のゆき交う「庭」。
 それが新海誠監督のアニメーション映画「言の葉の庭」の惹句、「”愛”よりも昔、”孤悲”の物語」という言葉から思ったことだった。

 六月。「子どもの頃、空はもっと、ずっと近かった。だから空の匂いを連れてきてくれる雨は好きで、雨の朝はよく、地下鉄には乗り換えずに改札を出る」雨音が跳ねる朝。そんな日には午前中だけ高校の授業を休み、秋月孝雄は雨雲の下に身を置いて、都内の自然公園に靴のスケッチを書きに行く。雨の日の公園は人影はなく、一人になるには丁度よかった。その日、いつもそこでスケッチを書く日本庭園のある東屋へ行くと、そこで一人の女性・ユキノと出逢う。彼女の手には文庫本が、傍らにはビールとチョコレートが置いてある。ジャンルが掴めない。孝雄はそう思う。「(朝からビールって)・・」 しかし孝雄はそのどことなく神秘的なユキノの顔に見覚えがあった。「あの、どこかで逢いました?」問うと彼女は一度、いいえと言葉を返して、その後”何か”に気づいて、逢ってるかもと言い、そのままの別れ際に、一篇の短歌を孝雄につぶやいて去っていった。 やがて、ふたりは約束もないまま雨の日の朝の東屋で逢瀬を重ねるようになり、次第に心を通わせていく。居場所を見失ってしまったというユキノに、彼女がもっと歩きたくなるような靴を作ろうと願う孝雄。 六月の梅雨空のように物憂げに、揺れうごく互いの想いをよそに梅雨は明けようとしている。

 「天気が悪い」と私たちは雨雲に言葉を投掛ける。しかし秋月孝雄は、或いは雪野由香里はそう想わない。夜、眠る前、朝、瞼を開く瞬間、気がつけば雨を祈っている。外気を隔てたガラス戸の向こうで雨音が聞こえると、「雨だ」と言葉と微笑を零して布団を剥いだ。ふたりは降下する雨雲の下に身を任せるのだ。
 芸術作品である。上映開始とともに、私は客席から身を乗り出してしまった。「デジタル時代の映像文学」とはよく謳ったものだ。どこかで私にアニメの一種の真価というものを定義させたのだ。
 繊細のタッチの細密画がスクリーンから客席へと溢れんばかりに、瞬間的な映像で流れ続けている感覚。鮮烈なビジュアル表現と、独自の感性と選ばれた言葉たちによってあたかも小説を読んでいるような物語に、むきだした心が雨に打たれた。高音のピアニズムが背景にとけこんでゆく。何にしてもスクリーンで絵画が動いているのだから。そしてその絵画の額縁の中には、寂しさや切なさも歓喜の瞬間までもが抽出されている。湿度まで感じるかのような雨は背景と化さずに、地雨、霧雨、夕立、土砂降り、通り雨、と曾てから言い表しも表情も変わってきたそれらが、エピソードとして物語り、例えばふたりを東屋に閉じ込める。煙のように立ちこめる新緑の色彩までもが、人物の陰影を映している。梅雨の色彩が景情や心情を匂い立たせる。その峻烈な光の描写は観る者を取り込んで迷わせる魅力があった。その光を映画館でもう一度、叶うかも分からない小明な夢を言わせる。
 身近にあるものほど、時折、その美しさに人は感嘆する。売店で購入したパンフレットはもはや美しい画集だった。思えば劇中、どの場面を一時停止をしても、それは全て技巧を凝らした絵となっていた。「自然は豊かにして複雑なもので、だからこそ魅力的で美しい」と新海誠は語る。人は誰でも自然観を魅力的に捉える瞳を持っているが、彼の目は一段飛ばして感受の力に満ちている。 ”詩で唄うバラの美しさは、本物のバラの美しさに劣る”そんな言葉がある。風景画家はその風景を美しいと思うから絵を描くのだ。そして描かれた絵は、実際の風景の美しさに劣る。詩ではバラの香りは感じれなく、重さを計ることも、唇の先に置く事もできず、文字の上のバラは私に何かを説くだけである。絵も、実際にその時の風や音や光を身に刻むことはできず、限りなく似せて私に空想をもたらすだけである。「言の葉の庭」は新海監督の目に映る世界を、最新の映像技術の技巧的な表現によって捉えることができる。しかも視聴者からすれば、アニメが美しいのか現実が美しいのか曖昧になって一瞬分らなくなる。
 だからか、作中の品物が異様に欲しくなったりする。鉛筆、マグカップ、トンカチ、アイロン、スプーン、蛇口、ドアノブと鍵、そんな数え切れない些細な品物が欲しくてたまらなくなる。しかし、ホームセンターにそんな美しい蛇口なんて売ってない。「もっと輝くはずだ・・」そう言って自宅の蛇口を磨いてみたりしたが、どうやら蛇口には限度があるらしい。パンフレットで同じことを言っていた加藤新太が語るように、それは理想郷の蛇口なのだ。額縁の中にしか発見できない蛇口なのだ。加えて「言の葉の庭」というタイトルの本を書店で見かけたならば、棚から抜き出して読み始めていただろう。蛇口にもタイトルにもそれだけ惹かれる魅力がある。

 絵画性に富んだ映像に対して、言葉も丁寧に彩られている。梅雨に買った一冊の小説から、翼の骨格のように空想され、翼の羽毛のように連想されたかの物語は、あたかも抒情詩を唄っているかのようで、限りなく美しみを憶える。言葉が物語を展開するなど当たり前だが、その当たり前に深い表現をうみだしている。過去の同監督作「秒速5センチメートル」も同じく抒情的な美しいモノローグであり、タカキがアカリを、アカリがタカキを、強く理解していたからこそ、心の場所を知り、ふたりは事情から距離を置いて別れ、やがて喪失へ向かう――相手の心を知り、それからの――物語だが、「言の葉の庭」の場合、出逢ってから続く、それからの――相手の心を知るまでの時間の――物語なのだ。孝雄には「まるで世界の秘密そのものみたいに見える」どことなく神秘的な雪野がいる。どれだけ近くにいてもその人の世界は、相手に踏み込まないことには――互いに向き合いその関わった時間の中でしか、知ることができない。そんなふたりが、雨の庭という限定された場所で言葉を交えて、孝雄は「世界の秘密」を知らなくてはならなく(雪野は自分のことを話さずに、傘の下で自分の世界を孝雄に隠している)、雪野は一途に靴職人を目指す孝雄を知り、負のサイクルから外れて、歩きだす選択をしなくてはいけない。
 梅雨の雨の朝。晴れの日を囲むふたりの何かが雨によって遮られ、雨の庭にふたりの逢瀬は重なり、同時に言葉も折り重なる。やがてふたりは、「夜、眠る前、朝、瞼を開ける瞬間。気づけば雨を願っている」

~未試聴の方は以下の文がネタバレとなるのでご注意ください~

 雪野由香里が秋月孝雄と出逢った時に呟く短歌。万葉集。飛鳥時代の歌集の二篇。
「雷神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」
稲妻が空気を引き裂き、遠い雷鳴に、地面を揺らし、黒く重い雲が垂れ篭め、雨も降りなさい。あなたがうちに泊めるように。 最後の一句まで自然表現で畳み掛けられて、最後に種を明かし、恋歌だという事がわかり、そこまでの情念の迫力に圧倒される。雷神は鳴神と呼称し、元訳では「少し響みて…」は「光とよみて…雨さ降れや…君は留らむ」であった。「とよみて」は「響く」という意味であり、ここで「光が響く」とし、遠い雷鳴と稲妻が想起される。教師と生徒というふたりの立場に雪野が気づき、自分が古典の教師だと感づかせる為の、遊び心が籠る咄嗟の短歌の謎掛けに雪野の知性が垣間見える。恋心の想いを詠い合う相聞歌の短歌なのだが、時間が経つにつれ意味が浸透していくことになる。
 雪野が呟く遠景で、短歌と同じように光が大気を切り裂いて、遠い雷鳴が谺する。孝雄には神秘的に見える。
やがて梅雨の空模様は表情を見せなくなり、雨の庭のふたりの逢瀬はなくなった。”孤悲”が現れる。孝雄は梅雨が明けてから、バイトに忙しくして心を通わせていた場所に行けない。孤独にモノローグに抒情的に相手を希求する想いが、交えない。そんなある時、孝雄は雪野からの謎掛けの短歌の意味を教科書で発見する。恋心を謡い合う相聞歌。雪野が呟いた短歌から生まれる物語には続きがある。それはふたりの続きを示唆する。
「雷神の 少し響みて 降らずとも われは留らむ 妹し留めば」
稲妻が空気を引き裂き、遠い雷鳴に、地面を揺らし、雨が降らなくても、貴女が引き留めるなら、私はここに留まろう。 女性の短歌に対するこの男性の返し歌は、中途まで同じく続け、例え雨が降らなく私が去って行けても、あなたが言えば私は傍にいよう、と綺麗に言葉を返している。 雨でなくとも彼女はそこにいる。モノローグがダイアローグへと移り変わる――。

 秋月孝雄は一五歳にして人間性が大人びて見えるのは何故か。彼は幼い頃に家庭から父親が離れ、兄と共に母子家庭で育った。母親は仕事やら恋人やらで家を留守にすることが多く、いい加減な人なので、彼は家事をこなし年上の女性から可愛がられる性格となった。そして彼は靴職人を目指している。靴を家族団欒の思い出がインサートされていたことから、彼にとって「靴」とは「家族の幸せ」の象徴であるが故、靴職人を目標にする節があった。人は夢を持つと、見えなかった自分の道順が明瞭となってまた一段成長が早くなる。靴職人のバイトを(料理ができるから中華料理店なのか)始めて、大人と会話を交える事で、口調が大人びる。  様々な人生を知ることで、人間性が鋭くなっていく。 こんな所だろうか。ありえる話だ。加えて言うと、人の年齢で大人か子どもかなど判断はできない。社会人でも学生気分で身勝手に混乱を招く人もいるし、小3で既に中学生の勉強を始め哲学的な本に関心を得ている人もいるのですから。「一五歳でこんな奴いない」そう言う人はいるでしょう。恐らく殆どの人が男性と推測(笑)人は経験で成長します。秋月孝雄は経験を早く積んだからこその精神年齢の高さ(恋愛経験除く)だと思います。例えば、overな話で、戦時下の苦労を伴う環境に育った子どもの成長は精神的に早く成長するという。それは脳を発達させないといけない状況下に存在する為で、生物における潜在的な対応意識の本能と言える。戦時中でなくとも、人の成長は状況や経験によって案外簡単に変わるのです。
 脱線して、なぜ恐らく殆どの人を男性と推測したか。例えて、一本道を映しただけの写真集があるとする。霧の獣道、熱帯雨林の途切れた道、砂漠の轍、地平線まで一直線の舗装路。男性は評価する。「このアングルが良い」「この光の差し込む感じが良い」女性は人生と繋ぐ。「この道、私の人生みたいだわ」「こんな道に憧れる」 も一つ例えて、悲しい意味深な終幕の西洋映画がある。男性は関心する。「なるほど、そんなオチか」「納得。良作だ」女性は涙を伝える。男性は物事を思い、考えて、受け取る。女性は物事を思い、そのまま、受け取る。男性は考えて”しまう”節がある。「靴職人を志す一五歳?現実味がない」「ありえない」女性は受け入れる節がある。「・・・」。男性はとある幸福を前に、一度で肯定しちゃったりする節がある。女性はとある幸福を前に、幾度もその幸福を確かめようとする節がある。味のないガムのような日々を、呑み込んで終わりか、吐き出して始めからか。 まあ例外も多数。女みたいな男もいるし、男みたいな女もいる。しかしそれでも、根本的なところでそんな何かが違うのだ。
「バカ野郎、あんな一五歳みたことないぜ。それに雪野が孝雄の高校の教師だったって展開も」「いいじゃないそれぐらい」そんな会話が聞こえてくる・・(笑)  はい脱線終了ぉー。殆ど推敲せずに思った事そのまま書いてるんですみませんね。あっちなみにどうでもいいかもしれないけど俺、男なんではいぃ(笑)
 (アニメーションの見方が変わる作品の一つだ。現代アニメを知らない人は感覚が変わるだろう。「アニメはジブリ」「アニメはヲタク」「アニメは子ども」「いまさら大人がみるもんじゃない」アニメ好きの私達からすれば、それは偏見だぁ!!・・そんな人へどうでしょう(笑) 偏見が固っ苦しい人は、まあ川にでも流しておいてですね^^;)

 秋月孝雄は雨の日、午前1限目の授業を休み学校へ遅刻する。「おまえ何時だと思ってんだよ」遅れて席に着いた途端、馬鹿にした口調でクラスの同級生が孝雄の肩を叩く。「呼び出された理由は分かってるな」職員質で伊藤が生徒の規律を守る目的で告げる。その同級生は孝雄を理解不能と断定する。”何を思って学校を休むのか” ”学校への通学は普通だろ” “高校生活をなめすぎなんだよ”或いはそうとう嫌悪な奴なら”学校を休む奴は社会のクズだ”と、でも思っている(笑)。靴職人は高校でなれません。「晴れの日は酷く子ども地味た場所にいる気がして、ただ焦る」孝雄が、社会人で自立した雪野へ少しでも早く近づこうと、「自分がただの一五のガキであるということ」を認識しつつ、そこから抜け出したい焦る気持ちが分かる。彼は自分が向きたい方角に向いているだけなのだ。高校に求めるものが少ないのである。


 断片的に叙述すれば、この物語は、「秒速5センチメートル」の出逢いから始まり、惹かれ合い、孤独に悲しみ、喜び、歪み、なだれる言葉に号泣して、未完結する。
・・――思わぬ再会を経て、返し歌の短歌を告げて、心で歓喜し、「今が一番幸せかもしれない」とふたりのモノローグが交わって、ふたりは物語の主人公になる。しかし、雪野は、「俺、ユキノさんのことが好きみたいです」と言った十二歳年下の孝雄を、大人として突き放さなくてはならない。同じ言葉を潜めていたであろう彼女。単純に彼の人生を願って。「あの東屋で、ひとりで歩く練習をしていたの。靴がなくても」突き放す言葉には十分だった。「あれから私、嘘ばっかり」ここでまた彼女は嘘をつく。孝雄に自分のことを黙ってはいたけれど、嘘を吐くのは初めてなのか。雪野は来週、四国へ仕事場を移す。孝雄が一生去っていく。自分の言葉に歪む。 結局、嘘は突き通せなかった。
  “この世に魔法があるなら、それはきっと、誰かを理解し、何かを共有しようとする努力の中にある”「ビフォア・サンライズ」という会話劇を思わせる恋愛映画にそんな言葉がある。ラストシーンのふたりの涙は”魔法”なのだ。ふたりの孤独な抒情詩はその人生の大切な断片として物語を彩る。
 そして未完結する。人生の断片の彩りを描写して、続きはハッピーエンドもバットエンドも描かれない。人の空想の思うままに漂わせる。四国に行った雪野と孝雄は文通を交え、途絶えるかもしれない。物理的な距離は心の距離を遠ざけ、電話を途切れさせ手紙がポストに入らなくなるというのは、人間関係に付き物だ。雪野は「梅雨が終わってほしくなかった」「幸せかもしれない」「救われていた」と言っているが、今後、孝雄にはっきり「好き」と言うかはわからない。「もっと遠くまで歩けるようになったら、会いに行こう」と孝雄は言うが、それも分らない。恋人とはならないかも知れない。逆もあるかもしれない。ハッピー&バットなんて存在しない結末を辿ることもある。魔法も薄れやがてカボチャになるように、喪失するならそれでいいのだ。人生に彩りを与える思い出として心に残しておいてもかまわないだろう。ふたりはそれぞれの人生を生きる。そして何かの偶然で出会ったなら、話し始めればいい。どちらかが幸せを持っているなら、「秒速5センチメートル」になるだけだ。言葉は、時に積もったまま下の方から記憶に枯れるが、ふたりが約束のない雨の庭で交わした言葉は記憶に根付いて生涯を共にするはずだ。美しい記憶は人生を温める。それも結果的には美しいのだ。

 4.11に発売される「小説・言の葉の庭」。想像に任せていた話しが楽しみなところもあり、文章化せず不明瞭のままでもよかったのにと思うところもあります。それでも孝雄と同年の私は、経験薄からか、物語の行方に一縷の望みがあってしまうのです。そしてまた同年であるからこそ、主観的ながら、手が届くかもわからない彼の想いに惹かれ、共感を経て、評価が高ぶったことは否めないのです。


第一段落、公式ホームページ参考、加筆。
あらすじ、空白後 公式のあらすじ文、引用。
2013.8.4「デジタル時代の映像文学って本当共感」レビュー投稿。
2014.3.4「ふたりの号泣は”魔法”なのだ。」レビュー更新。

投稿 : 2025/02/01
♥ : 36
ネタバレ

Yulily さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

【新海監督の新作予告を観たら、行きたくなってしまいました…聖地訪問の日記追加】

雨が降る日には、空を眺めながら....
ふと、思い出すことがあるの....
二人は逢えているのかな?
なんてね...
それくらい強くわたしの心に残る作品だったということなのでしょうか...

雨の日の庭園での二人の男女のしのび逢い。輝かしい青春のひととき...

まだ何も知らない
仕事も歳も抱えた悩みも
名前さえも....
それなのに、どうしようもなく惹かれてしまう・・

そんな経験、私にもあるかもしれません

都会の喧騒から少しだけ離れ、穏やかに流れる時間を肌で感じられる自然にあふれた場所

こんな青々とした緑の中で深呼吸したらどんなに気持良いことでしょう!!試してみたくはなりませんか?
ここは、二人の秘密の場所 ...

雨降る午前。約束を交わさずともこの場所で逢い、心を通わせていく。

限りある時を惜しむかのよう
いけないと分かっていてもそれに心惹かれてしまう

二人の間にそんな少し危険な大人の恋、そんな香りを感じて

言葉のどんな力であっても、とても語りきれない部分で結びつく
人と人は、どうしてそれほどまでに惹かれ合うのでしょう...

いつのまにか想っていて
理由というのはいつも事後の話、人間だからこそ湧き出るこの気持ちは言葉では表現できません。

記憶に焼き付いた「雨」
1つ1つの描写が繊細に描かれています。
雨に濡れた新緑がしっとりした景観を生み出し、雨雫も相まってこの緑が美しい。
雨音はもちろん
葉に落ちる雨の音がとても心地良い
その全てが画面の中で調和して様々な趣きを醸し出しています。
「言の葉の庭」
恋愛や人生を感じさせ感動が胸に押し寄せる50分でした。

※ネタバレは一切ありませんが聖地訪問のため閉じます。
【2015年6月14日(日) 新宿御苑】
{netabare}
こだわりを感じる映像美に誘われ舞台を訪れました。
この日は雨ではなく曇り時々晴れ

新宿門を潜り木々に囲まれた園内の道を歩く
木漏れ日を浴びながらの散策。
そこはまさに映像で見た言の葉の庭が広がる...

二人がいた場所から水のある庭を望む。
まぶしいくらいの緑。床にも緑色が映っているくらいに。
アニメーションで見た景色が現実と重なった瞬間の高揚感がわたしを包む...感動です♡

そして世界観を演出するあのピアノが聴こえてきそうな...
揺れる二人の心模様を表現する素敵な音がね♪

園内で特に目を引いたのは華やかな紫陽花(あじさい)早朝に少しだけ降った雨に濡れた花がとてもきれい。

もし雨が降っていたのなら緑がめぐみの雨を喜んでいるかのようにもっとキラキラと輝いて見えたのかなぁ?

沢山歩いた後の食事は新宿門を出てすぐにある『礼華(らいか)』。(予約していました)
テラス席は笹のグリーンカーテン
心地よい風を感じながら美味しい食事に楽しい会話をして・・・私、こういう過ごし方が大好きです♡

今度は雨が降った時かな。。季節によって様々な顔を見せてくれる新宿御苑。また訪れたいです。{/netabare}

【2016年3月2日(水) 新宿御苑】
{netabare}
あたたかく、やわらかな春の包み込むような陽射しがとても心地よい午後…
うららかな春の陽気に誘われて

仕事の空き時間を利用してなのですが
言の葉の庭の聖地 新宿御苑にお散歩へ来ちゃいました♪

新宿門を潜り、入園券をかざし「ピッ」という音とともにゲートが開き、 言の葉の庭へと足を踏み入れました。
こんな気持ちよい天気だと、考えることは皆さん同じ…でしょ?
園内は沢山のヒトが訪れていました。

春の訪れを告げるように 白、やさしいピンク、濃いピンクなど さまざまな色のウメが咲き、はっとするようなキレイな春色に胸が弾みます。

そして嬉しいサプライズも・・
寒桜という種類のサクラが1~2分咲き程度ですが咲いていたのです。
やっぱりサクラって特別なんです♡

作品の中にも出てくる橋を渡っていると、キラキラ輝く水面を気持ちよさそうにスーッと泳ぐ鴨、鯉も口をパクパク(かわいい~♪)
こんな、心ほぐれる水辺の風景に出会います。

ほどなくして二人がいた秘密のあのベンチの場所に到着。
ベンチから後ろを振り返ると大木があり「染井吉野」の札が付いていました。
もう少しすると、この場所は満開の桜で彩られるのでしょうか…
季節を変えて訪れるたび違った魅力に気づける言の葉の庭は素敵な場所です。

散歩の最中に思わず寄り道したくなる
「サクラクレープ季節限定」の看板
サクラの誘惑には、、勝てませんでした*^^*♪
皆に、桜クーヘンとサクラこんぺいとうも買って…
春のスイーツをおすそわけです♡

季節の花を眺めながらお散歩すると 心があたたかく満たされます。写真におさめたくなる春もいっぱい**
散歩したからこそ感じられた この幸せ…
つい、みなさんに春色との出会いを報告したくなってしまいました

最後に…
ここまで読んでくれたヒト…いつもでっかいありがとうです…♡

・・END
{/netabare}

【2016年4月7日(木) 新宿御苑】
{netabare}
雨の日が舞台となった「新宿御苑」

都心とは思えない広大な庭園、豊かな緑と花を眺めながら清々しい空気を目一杯浴びることが出来る場所

そしてあの二人の笑いや、涙、そんな想いを心で感じることが出来てしまうような…
私は言の葉の庭と呼んでいます。

前回訪問から約1ヶ月がたちました。
映像美に誘われ舞台を訪れるのは3度目となります。
そして雨の日に足を踏み入れるのは今回が初めて…
「どんな景色に出会えるのかな?」と少しだけ心が高鳴ります。

お気に入りの傘とともに散策はスタート♪

お花見もラストシーズンのせい?…なのでしょうか
雨がシトシトと降る中でも傘を差しながら多くの人が訪れていました。

入り口でいただいた園内マップがカラフルで思わず友達が見ているのを覗きこんでしまいました・・・

「マップがね…春色なんです♪」

前回のものとは異なる春バージョン。春を彩るお花の紹介の写真がホントにとっても鮮やかで心が踊ります。
それに夢中になっておしゃべり、ふと気が付くと
目の前にはピンク色に包まれた庭園が広がっていたのです。
枝一杯に咲き誇る花に目を奪われてしまいました…

あの橋からの眺めはまるで絵画を見ているみたいで
春の色彩が水辺を華やかに彩っていました。

そしてようやくたどり着いた秘密のベンチのあの場所
そこには嬉しいビックリが・・

木々の緑の中で、たった一本だけの可憐なピンクの染井吉野
まるで目印のように「ここだよ~♪」と言わんばかりです♡

この場所を覆い しなるように咲いている様…それはまるで桜のカーテン**

桜のカーテン越しに見た言の葉の庭
吹きぬける風に、桜が香ります
花びらが乱れ散り、水面がいっぱいになって揺れていました…
幻想的で神々しく
ため息がこぼれてしまうような美しさ

雨の日の言の葉の庭
木々の隙間からこぼれ落ちてくるしずくさえもなんだか嬉しく思えてしまって…
雨に濡れた緑の美しさ、しずくを沢山に含んだ植物はいつもより彩り鮮やかにそしてきらきらと輝いて心を癒すのです。

「来年は晴れた日に来たいよね…?」

桜の下の芝生で、お弁当を広げたら楽しそうーー♪
売店のお弁当を見ながらそんな会話をしました。

美しく咲き誇る桜のトンネルを歩きながら帰り道へと向かいます

出口の向かいの入り口では警備員さんの手荷物検査

ふと下に目をやると、透明なコンテナに没収されたアルコールの瓶や缶が(あの銘柄かな?)!!…
もしかして言の葉の庭のファンなのかな?
ここは、アルコール類の持ち込みは禁止なのでご注意下さい♪

春の雨を心地よく感じられた、美しい言の葉の庭の中での休日でした♪
覗いてくれた方…ありがとうでした♡
{/netabare}

【新宿御苑がピカチュウの森に…聖地訪問の日記追加】
{netabare}
本日より東京は梅雨明けしましたね!
本格的な夏の到来です。

約4ヶ月ぶりに訪れた新宿御苑の言の葉の庭

私が訪れた時はまだ梅雨明けしていませんでした。

お昼前から少し雨がポツリポツリと降りだしていて

『空の匂いを連れてきてくれる雨は好きだ』
そんな劇中のタカオの言葉をピアノの音と共に思い出していました

新宿門を潜り抜け 言の葉の庭へと足を踏み入れました!

って、それにしても平日なのに この異常な人の多さは..?
実は御苑に訪れていた皆さんの多くのお目当てはポケモンGO。
どうやらここが「ピカチュウの森」 になっている様なのです。
(私はゲーム分からないヒトです)

たまに、ヒトの携帯画面をチラ~見

園内を散策しながら「ピカチュウゲットだぜ~♡?」をしていました♪

雨でも楽しい観光をしたい欲張りさんにはこのスポットオススメですね!

言の葉の庭の聖地を巡れて、おまけにピカチュウまで手に入れることが出来ちゃうのですから…♪

春色から(前回来場)夏バージョンへと変わった園内マップを手にして

緑豊かな園内を気持ちの赴くままに散策

春に訪れたときよりも木々が生い茂り

並木の緑のトンネルが気持ちいいー

「あれ?」
どうやら傘をささなくても ここにいるときは雨粒は落ちてこないみたい♪

都会の真ん中なのに あたりに人工的な音は全くなくて

セミが鳴く声と木々のさざめきに包まれて心地よいのです。

そうですね、
別の世界に迷いこんだ…みたい

そこへ、人懐こいスズメさんが、、
「チュン チュン…」近いーー

どうやらスズメさんの夫婦みたい?
見ているとホントに仲が良さそうで
微笑ましいのです♡
(隠し撮りして…ごめんね)

そして池の前には劇中で何度か映しだされた緑のモミジを発見!

これまでは紅葉したモミジにしか目がいかなかったのですが

雨の雫をいっぱいに含んだ青々としたモミジをこの庭園で見つけた時はそれは嬉しくて
・・心が踊りました


そして到着。
二人の秘密の場所は
相変わらず人気スポットで

常に誰かが あのベンチを狙っているようなので
着席することは諦めました。

ベンチの場所から水面に雨が描き出す輪
ぶつかり合う波紋
「あっ、こんな映像あったなぁ…」なんて思い出していました。

爽やかな風を感じながら散策
その途中にまた気になったのは
「内藤とうがらしクレープ」の看板
売店にて270円(中身はアイス)

春に訪れた時は「桜クレープ」でした

ここでしか味わえない限定にはつい惹かれてしまいます。
最近あにこれのポロムちゃんと変わったアイスのお話で盛り上がっていたので
とうがらし だなんて私、気になります(笑)

迷わず購入!
座れる場所を探して歩いていると
庭園の中央にある3本の巨木に惹かれます。
「ユリノキ」と札がありました。
この庭園でひときわ目を引く存在感。
生命力溢れるその姿は神秘的でパワーをもらえちゃいます。
この木の下のベンチに座って

友人と半分ずつ。
私「んっ、ちょいピリリ…甘~♪」
友人「癖になるかも?」

雨でひんやりとした庭園
涼やかな景色がそこかしこに広がります。

食べたり、休んだり、散歩したりそんな心ほぐれる散策

ゆっくりとした時間の流れで癒してくれます。

いつもと違った時間を過ごせて
何度来ても
また来たくなる場所でした。

~大切な思い出を刻む写真も沢山撮れましたよ~

楽しい1日♪

今回も、覗いてくれた方…
いつもありがとうです…♡
{/netabare}

新【2019年6月22日(土)新宿御苑】
{netabare}
新海監督の新作『天気の子』予告観ました!
美しく繊細な色彩で描かれた空、雲、雨
彩り鮮やかにそしてきらきらと輝く新海ワールド

それを見たら思わず行きたくなってしまったんです…

私が向かったのは、この作品の舞台にもなった新宿御苑。
作中の季節と同じ初夏です。
朝から降り注いだ雨は特有の霞がかったような
空気を作っていました。

雨に濡れた新緑はさらに緑が映えて幻想的
色に深みがました瑞々しい緑の葉
雫をいっぱいに含んだ緑はやっぱり美しい。

ふと目の前の巨木に触れてみた、
森と木の息づかいを肌に感じながら
木と自分の呼吸を合わせる。

心が穏やかになるように感じるの


今日の東京は突然強いザーっと雨が降りましたね。
あちこちに大きな水たまりができてしまうし、
横殴りの雨に行く手を阻まれながらあの場所に
向かうのが本当に大変でした。

そう、そこは二人の秘密の場所、東屋。

言の葉の庭の一番メインの場所なので、
いつも沢山の人で賑わっているのですが、
今日は誰もいないのです。

この特別な空間を独り占めするのは初めてなんです。

主人公たちと同じベンチに座ってみると
特別な気持ちになって心がワクワクしてしまいました♪


その後、園内のあちこちを散策していたら、
水色、紫色、桃色など色とりどりの
かわいらしい紫陽花に出会いました。

咲き始めなのかな…やさしい水色の初々しい花びら。
雨粒の雫がついていてとっても綺麗なんです。

途中にカフェスペースがある
中央休憩所に立ち寄りました。

併設している売店に自然の竹で作ったしおりが並んでいて、
その中に東屋が挿絵になっているしおりを発見しちゃいました
これがなんと『言の葉』のしおりと
名付けられていてとっても嬉しくなりました!

『どうしよう、ちょと欲しいなあ…』なんて


ここのテラスは緑に囲まれた癒しの空間

やさしいママさんの挽きたてのコーヒーが
とても美味しくてホッとあたたまりました♪

季節ならではの花々を楽しめたし、
時々足を運んでしまう理由がいっぱい!
また訪れようと思います。

見て触れて楽しんだ1日の日記ですが
読んでくれた方…ありがとう♡

最後になりますが新海監督の描く新作『天気の子』
息をのむほどに美しい映像に期待が膨らむばかりです。
{/netabare}

投稿 : 2025/02/01
♥ : 183
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.6

あちらを立てれば、こちらが立たず

あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。

 初見でした。45分ほどのショートフィルムです。
 新海監督作品は、秒速・星を追う子ども・ほしのこえに続く4作目になります。
 相変わらず背景はきれいなのですが、私の採点基準では、背景は物語評価に影響を与えないので、とりあえず、横に置いておきます。
 結論から言うと、良いところと悪いところが混濁してました。採点してみたら視聴後の印象以上に減点箇所が多い。短編ゆえに、悪いところも目立ってしまいました。

<総論編>

エンディングその後:{netabare}
 エンディングは、やや期待を込めて描かれていましたが、二つの観点からこの恋は実らないのではないのかなぁと思っています。

 一つ目は、未熟さ。
 まずはタカオの未熟さ。高校生という以前に、とても未熟な人物として描かれていたように思います。未熟だからダメということはもちろんないのですが、タカオではこの恋を実らせることが出来ないように思えました。やや感覚的ですかね。人物像は後述にて補完します。
 ユキノの未熟さっていうのも原因に挙がるんですが、こちらも後述。
 未熟な二人だから失恋確定、と言い切るのも少し乱暴ですかね。個人的には結構大きなウエイトを占めているんですけど。まぁ私の感想ということで。

 二つ目は、「行人」。ユキノが読んでいた本ですね。上はおまけでこっちが本命です。ユキノが本をプレゼントするシーンもありますし、、わけもなくこの本を写したと考える方が異常ですので、ちょっとだけその意図を読み取ってみます。で、行人からどのシーンを選ぶかというと、やっぱり雨の描写があるところだと思います。実際に読んでいたシーンは分かりませんけどね。
 「行人」では、主人公のお兄さんが自分のお嫁さんと弟(主人公)の不倫を疑っているわけです。弟は反発しますが、お兄さんはこの二人を、お嫁さんの本音を探るための日帰り旅行に行かせます。その旅行中に突然「嵐」が起こってしまい、仕方なく二人は一泊して帰ることにしました。その後の話は皆さんにお任せします。
 旅行の日に注目すると、「雨」が降って「雨宿り」、そしてそこで起こる「一夜のドラマ」があるわけです。弟と義理のお姉さんの間で恋愛感情はなかったはずですが、義理のお姉さんが心情を吐露するその夜の描写は、悩ましげだったように記憶しています。
 「言の葉の庭」に投影してみると、弟と義理のお姉さんの関係は、タカオとユキノの年齢差や生徒と教師という関係に転換できるように思えるのです。一夜ではなく、ワンシーズンでしたけどね。大雨の日だけをピックアップするなら、「雨宿り」としてユキノの家に行きますし、結構重なります。「行人」と同じように心情を吐露するのだけれど、やっぱり恋愛には至らないのかな、と思いました。

 アイテムを使ったエンディングの示唆というのは、良かったと思います。もう1冊本が出てくるのですが、こちらは確認できずでした。何かあるのかもしれませんが、確認できないレベルなので重要度は下がると思います。{/netabare}

タカオ:{netabare}
 母親が家に居着いていないせいか、母親に執着しているんですよね。靴職人の夢も母親が発端ですし、少年期から引きずっているというのはなかなか際どい感じがあります。母親に関するセリフからは親離れしてそうですが、行動は執着している、と言動に不一致が見られるわけです。そしてそれが無自覚だというのもなかなか…。

 この執着が恋愛に形を変えて母親からユキノに移るわけですが、タカオはユキノに神秘性を見ていたと思うのですよ。謎めいた女性、ミステリアスなどと言ってもいいです。それに輪をかけているのが万葉の歌ですね。分からないものを知りたくなる感覚は、お兄さんとの会話からも窺えます

 バイトや靴作りを通して夢に打ち込む姿も描かれていますが、これは母親とユキノに執着した上での現実逃避に見えました。成績が悪かったり、ケンカしたり。短歌のことをお兄さんには聞けるけど、学校の先生には聞けなかったり。夢に打ち込みたいなら学校を辞めれば済むだけなのに、無駄と言いながら通い続ける。

 マザコンとまで言い切るつもりもないですけど、十分な社会性や行動力はないですね。高校生っぽいと言えばそうなんですが、年上の社会人女性を捕まえられるほどのバイタリティは感じられません。未熟な人だと思います。お兄さんに靴をあげていたら印象も少しは変わったんですけどね。{/netabare}

ユキノ:{netabare}
 未熟な夢追い人タカオに対して、こちらは現実的な未熟な人といった感じです。なんだか良い人に描かれているようにも見えるのですが、描写を拾っていくと必ずしもそうとも思えませんよね。

 ユキノが元彼に電話をしていたタイミングは夜でした。元彼でも同僚なら、緊急でない業務連絡は普通昼間に入れると思うんですよ。それなのにユキノは夜に電話している。別の女性の存在を知らなかったとしても、わざわざ夜に業務連絡をしている時点で、精神的な甘えがあったと思います。つまり、他人への依存度が高い人というイメージ。高校生のタカオにも依存が見えます。

 ユキノに起こった学校でのトラブルっていうのは、虚言によるものなので、確かに非はないんですけどね。教員間の恋愛発覚が騒がれていたなら、つまり、自分が直接的な当事者だったら、非がなくとも被害者面はしていられなかったと思います。彼女の逃避はいくつか描かれていますが、社会性としては薄氷を踏むものだと感じました。精神的なショックを受けるなというのも酷な話なので、そうは言いませんが、一般的な社会人と比べるに、彼女は十分に未熟だと思います。そもそも彼女に十分な社会性が備わっていたら、自分の学校の生徒に思わせぶりな態度を取ることなく、恋愛には発展しなかったわけですし。というわけで、ユキノはタカオよりは社会に生きているけど、まだまだ未熟な人だなと思いました。未熟だからこそかわいく見えるのかもしれませんけどね。

 ちょっと話は変わりますが、食事はユキノの心理状態を表すアイテムとして上手く機能していたと思います。タカオが家を出る前のシーンでは、コーヒーを飲んで伏し目になっていました。。他の映画なら「一息ついて」と形容したくなるところですが、味覚障害を踏まえると「味がしなくて」ということなのでしょうね。{/netabare}


<各論編>
 良かったところも悪かったところも適当に書いていきます。

タカオとユキノの出会い:{netabare}
 出会いのシーンは良かったです。二人とも動きが止まるんですが、動き出しのタイミングがほぼ一致していました。この二人の親和性が、これからドラマが始まるな、という期待感を増してくれました。ほんとはピッタリ一致してると良かったんですけどね。でも、わざとずらしたのかもしれないとも思っています。バッドエンドの布石としてですね。{/netabare}

ユキノの元彼の部屋にいた人:{netabare}
 最有力は、元彼の部屋にいた人が結婚相手で、ユキノが不倫していたというパターン。こちらは結構妥当性があります。飲酒禁止の看板が出てきますが、ユキノはビールを飲んでいます。これはルールの枠の外にいる人物という表現で、不倫と一致するんですね。
 次点で、結婚相手ではなく新恋人のパターン。現実的には自然ですし、行人を踏まえても不倫はなかったと考えることが出来ます。ただ、こちらだと飲酒禁止の看板が何の意味があったか分からなくなりますよね。味覚障害はそもそもビールとチョコレートの組み合わせが必須というわけではないですし、禁止されているところでビールを飲んでいる理由にはなりません。つまり、飲酒禁止とビールという二つのアイテムが浮いてしまうんです。

 いずれにしろ、前者か後者かで描写力への評価が180度変わります。前者なら良いで後者は悪い。
 看板が出てくるのは、オープニングと、ケンカの後のオープニングをなぞったシーンです。つまり、物語の節目となる重要なシーンで2回です。この看板がユキノの人物描写に影響しないとなると、ただあったからそのまま描いただけとなってしまい、描写力としては疑問が残ります。元彼はともかく、その相手というのは、テーマにも世界観にも大した影響を与えませんから、含みを持たせる意味なんて皆無です。味覚障害に関連するビールの方がよほど重要ですよね。元彼に結婚指輪の有無を描いておけば解決する程度の問題なのに、それを描かなかった。
 解釈に幅を持たせたというよりは、描き忘れたような印象を持ってしまいました。結論は分かりませんが、不満だけが残りました。{/netabare}

違和感のある描写:{netabare}
 気持ち悪い描写がいくつかありますよね。
 一つ目は、靴を脱いで素足をさらすところ。夏の?雨の日に?靴を脱いで?他人に触らせる???まったく意味が分かりませんね。触らせる方も触る方も気持ち悪いです。この作品における性的な表現ですからなおさら気を使って欲しかったです。

 二つ目は、ユキノの家のシーン。制服が濡れてしまったタカオは私服を着てますよね。誰の?他人の?まさか元彼の???意味不明です。着る方も着せる方もどうかしてます。
 それとも、ユキノの服のサイズがたまたま合った?ズボンも?あの雨でシャツだけ濡れてズボンは濡れていなかった?好きな人の服を着れて幸せ…?もう何が何やら。

 三つ目は、気持ち悪いのじゃなくて謎の描写。料理ができないユキノが、難易度の高い男性用シャツのアイロンがけをしていました。家事に対する一貫性のない描写がリサーチ不足を感じました。アイロンかけたけど下手でしたって描写も欲しかったかな。乾いてないはこれの表現じゃないしね。
 ストーリーに直接影響はしないかもしれませんが、観察力には欠けていましたね。{/netabare}

<総評>

 独白から始まって、主体が移っていったタイミングで、「まさか秒速と同じ構成?」と不安になりましたが、結果論から言えばその心配は不要でした。きちんと構成はアレンジしてきています。ただ、細部の描写力に不満が残るのは相変わらずでした。テーマも歩き始める人を描くのに靴職人ですからね。正直安易すぎて驚きを隠せません。

 全体的には分かるんだけど、細部に不満という意味では、ほしのこえと同じです。でも、ほしのこえとは大きく違うところがあります。ほしのこえは、ごっそりそぎ落とされたメッセージがあって、それが物語に厚みを加えていました。言の葉では、結構説明しているためにその辺の厚みはなくなったように思います。つまり、全体観が弱まっている。万葉の歌とか行人とか、一部のアイテムは機能していますが、機能していないアイテムや謎の描写も結構多い。雨の技術力は上昇していたと思いましたが、表現力としては減退していたように思えました。

 独白にも困りました。独白で解説するのではなく、映像で表現してほしいですね。このレビューでは人物像に触れていますが、セリフではなく、描写から拾っても十分解釈できるレベルにあると思います。新海監督の人物描写は以前より良くなっていました。でも、そこに過去の作品と同じ独白が入るから蛇足っぽく見えるんですね。人物描写の精度が上がってきているのならば、独白は捨ててもいいのではないでしょうか。心情を描く作品で、独白による心情垂れ流しというのはあまり評価できません。

 ただ、独白を機能させる方向性というのも確かにあるんです。タカオの独白、つまりタカオが見るユキノ像と現実のユキノのギャップを見せている可能性ですね。かわいいユキノに反して、ユキノの部屋は汚かったですしね。ただ、この作品はユキノの説明は厚いんです。汚い部屋もユキノの人物像そのものではなく、精神疾患につながります。消したメッセージを探すための対比の片割れが見えてこない。そのせいで独白の機能が中途半端になって、ちぐはぐ感が出ていました。

 山場はちょっと笑ってしまいました。私の好きな描き方ではないですが、好みに合わないというだけで表現として否定するものではないですね。減点はしていません。

 星を追う子どものレビューで、他の監督作品をオマージュするほどの力量はないというようなことを書いたと思います。この作品では、人物描写は向上してましたが、一つの作品の完成度としてみるとまだまだだったかなと思います。そもそも短編にもかかわらず、突っ込みどころのあるシーンが多すぎました。

対象年齢等:
 思春期以上ですかね。心情部分で気に入る人は多いかもしれません。感情で作品が見れる人は楽しめると思います。

投稿 : 2025/02/01
♥ : 24

87.0 3 恋愛でオリジナルアニメーションなアニメランキング3位
秒速5センチメートル(アニメ映画)

2007年3月3日
★★★★☆ 3.9 (3996)
18484人が棚に入れました
東京の小学生・遠野貴樹と篠原明里はお互いに対する「他人には分らない特別な想い」を抱えていた。しかし小学校卒業と同時に明里は栃木へ転校してしまい、それきり会うことが無くなってしまう。貴樹が中学に入学して半年が経過した夏のある日、栃木の明里から手紙が届く。それをきっかけに、文通を重ねるようになる2人。しかしその年の冬に、今度は貴樹が鹿児島へ転校することが決まった。鹿児島と栃木では絶望的に遠い。「もう二度と会えなくなるかもしれない…」そう思った貴樹は、明里に会いに行く決意をする。

声優・キャラクター
水橋研二、近藤好美、尾上綾華、花村怜美
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.5

中身はある?ない?

 レビュー内容を全改訂しました。これに伴い前回レビューは削除しています。
 細かな話は後回しにして、まずはストーリーと象徴物から述べます。

秒速のストーリー:{netabare}
 秒速は、一言で言えば再出発の話だと思います。これは、第三話から分かります。
 今カノと別れ、仕事も辞め、さてどうしようか、となってしまった。そんなときに、自分を縛っていた「過去」に再び出会い、その「過去」を振り切ることで「さぁ頑張ろう!」になる、というお話。この前向きな姿勢が表れているのが、最後のタカキの笑顔なんだと思います。

 「秒速は恋愛映画である」という指摘自体は正しいものですが、「恋愛だけを射程としている」とまで限定してはいけないような気がします。秒速がアカリとの「恋愛の話」ならばもちろんバッドエンドですが、これだと最後の笑顔の説明が付きませんからね。
 秒速を「再出発の話」として整理することで、最後の笑顔も含めてストーリー全体が合理性を持つのだと思います。視聴者が感じる喪失感はともかくとして、描かれていた結論は前向きなものだと感じました。

 全体の構成としてはこんな感じ。
 第一話では、過去への執着の原因が描かれた。第二話では、過去に縛られているタカキの停滞が描かれた。第三話では、過去に執着していたために今失うものが描かれて、「さぁ頑張ろう!」になる。
 第二話が第三者からの視点で描かれていることを除けば、シンプルな三段型の構成だと思います。
{/netabare}

象徴物①電車:{netabare}
 電車が最初に登場するのは、第一話冒頭の踏切のシーンです。アカリが「来年も一緒に桜、見れるといいね」と言ったタイミングで、二人の間を電車が横切る。同じ状況が再現されているのが第三話の冒頭(とエンディング)です。タカキの「振り向けば」という展開から、また両者の間を電車が横切る。
 電車が輸送車に形を変えて現れるのが第二話です。輸送車は、タカキとカナエの前方を横切る。

 「タカキとアカリの『間』を横切る電車」と「タカキとカナエの『前方』を横切る輸送車」という違いがありますが、どちらも使われ方としては同じものです。
 道路というのは、作劇上は主人公の進行方向(未来)を意味しますから、そこを横切る電車や輸送車というのは、主人公の進行を邪魔するものという意味を持ちます。つまり、秒速における電車や輸送車というのは、「望む未来に対する阻害要因」として描かれているのです。各話のいずれもが残念な結末を迎えるのは、そのフラグとして阻害要因が象徴的に置かれていたからに他なりません。

 一応、「間」と「前方」という横切り方の違いにも触れておきます。
 第一話では、タカキとアカリの共感が描かれています。共感を得た者同士を引き裂くわけですから、「二人の間」を電車が横切ることになります。
 第二話では、タカキに告白したいカナエが描かれています。タカキとカナエは共感には至っておらず、共感に向けて関係を前進させたいカナエの願望があるのみです。ですから、その前進を遮るように「二人の前方」を輸送車が横切るのです。
 細かな違いはありますが、「望む未来に対する阻害要因」としては電車も輸送車も描かれ方は一緒です。
{/netabare}

象徴物②鳥(とロケット):{netabare}
 続いて、鳥について。まずは最初に鳥が登場するシーンの確認から。
 第一話でタカキの引っ越しが決まった後、タカキがアカリに会いに行く算段を付けているシーンがあります。タカキが路線図をなぞっているところに、アカリのセリフ「電車に乗って会いに行ける距離ではなくなってしまう…」が入ります。この後に鳥が初登場します。この鳥は、東京を出発し、夜空を経由して栃木まで到達します。
 この「路線図→電車はムリ→鳥」という流れから、電車と鳥が対比されていることが分かります。阻害要因である電車を越えて、空を飛んでいくものが鳥だということです。つまり、鳥は「飛んでいけたら」というタカキの願望(や逃避)を象徴するものとして描かれているのです。

 また、電車と鳥の関係から、「現実である地上」と「理想である空」の対比が成立します。ですが、秒速の構造はこれで終わりではありません。空の先には、宇宙が位置付けられています。
 第二話では、タカキの夢の世界が登場します。この夢の世界において、タカキとアカリが一緒に見ているのは、空ではなくその先にある宇宙です。この時点では、タカキとアカリは何年もの間連絡を取っていませんから、二人の乖離はほぼ決定的です。タカキの引っ越しによりさらに疎遠が拡大し、「理想である空」すらも一緒見られる状況ではなくなってしまったのです。だから、「理想である空」の先である「叶わぬ夢である宇宙」を見ている。

 では、「理想である空」を「叶わぬ夢である宇宙」に変えてしまった原因は何なのか? それが、タカキの引っ越しと引っ越し先にあったロケットです。タカキは、種子島に引っ越したことで電車の呪縛からは逃れました。ですが、そこは鳥では届かぬ距離だったのです。また、種子島には、新たな阻害要因である輸送車がありました。タカキに「叶わぬ夢である宇宙」を実感させたのは、この輸送車の中にあったロケットでした。これにより、タカキは孤独感を強めていきます。

※鳥についての補足
 この最初に登場する鳥はアカゲラだそうです。アカゲラについて、ウィキペディアにはこう書いてあります。
「日本では北海道に亜種エゾアカゲラが、本州、四国に亜種アカゲラが留鳥として周年生息する。四国での生息数はきわめて少ない。九州以南には分布しない。」
 東京や栃木には生息できるけど、九州の南方に位置する種子島には生息できない、と読めます。つまり、東京―栃木間の橋渡しは出来るけど、種子島―栃木間の橋渡しは出来ないのです。このことが「理想である空」でのつながりを断たせ、ロケットの登場と「叶わぬ夢である宇宙」を引き込んだ、ということなのでしょう。
 意味もなくアカゲラを選んだわけではない、と私は思います。
{/netabare}

 ここまでがいつも通りのレビューですが、個人的には前提やおまけくらいに考えています。ここから先は批判的な内容が続くのですが、批判に終始すると「ちゃんと見てないだろ!」という反論が起こりかねません。ですから、それを回避するために「この程度には見ていますよ」という線引きをしただけです。本題はここから。

ざっくりした話から:{netabare}
 秒速の感想を読むと、多数の「感動した派」と少数の「中身がない派」に大別されるように思います。私の中ではこの二つは背反するものではありませんから、個人的には「感動したけど中身がない派」を採っています。
 で、私が主張する中身の無さというのは、ストーリーの無さではありません。そもそも心情を描く作品では大したストーリーは必要ありませんし、秒速のストーリーは比較的まとまっていると私は思っています。中身がないのは、心象表現の方です。

 上述した象徴物には、根本的な違いがあります。
 電車というのは、ストーリー上の象徴物です。道路と関連させることで、この先の展開がどうなるのか、というストーリー展開を示唆する役割を負っています。
 一方で、鳥というのは、心象表現上の象徴物です。電車に阻害されたタカキがそれに対してどう思っているのか、という心情が乗っています。ロケットもこちらですね。

 結論から言うと、ストーリー上の象徴物である電車は機能していました。ですが、鳥とロケットは機能していません。正確に言うのなら、鳥を失敗したせいでロケットも機能しなかったのです。そのために、電車を使ったストーリーはまとまっているけど、心象表現が失敗している、になるのです。

 勘違いして欲しくないのですが、私は「心情がダメ」とは言っていません。「心象表現がダメ」です。
 心情というのは、「うれしい」のことです。心象表現とは、「うれしいことが分かるように表現すること」です。全く違う内容ですから、混同しないようにお願いします。作品の良し悪しを決定づけるのは、後者の方です。
 ここから進めていくのは、秒速の心情は分かるけど、その表現がお粗末だという話です。多方面から指摘するつもりではありますが、まずは象徴物を片付け、その後に独白と背景について述べます。

電車再び:{netabare}
 電車はこの作品ではかなり機能していると述べましたが、電車の使われ方に文句がないのか、というとあります。作品への評価ではなく、新海監督自体への評価を下げました。

 道路を使った演出というのは比較的定番のものではありますが、定番だからダメ!などというつもりはありません。
 そうではなくて、秒速の前の作品である「ほしのこえ」でも全く同じ使い方をしているからダメなのです。「ほしのこえ」においても、別れの前には電車を通過させています。「阻害要因を、同じ道路と電車を使って、二作品連続」というところに「またかよ」というガッカリ感を感じてしまいました。端的に言うと、新海監督の表現の幅の狭さを感じたということです。もう少しアレンジを加えるべきだったと思います。
{/netabare}

鳥再び:{netabare}
 鳥は登場回数が多すぎました。象徴物というのは要所で使えばいいのです。フラグで一回、締めで一回。これで十分に機能します。意味を徐々に限定したり別の視点を見せたりする場合にのみ、複数回使えばいいのです。
 電車演出は、第一話の「分かたれたタカキとアカリ」というフラグが、第二話の「同行するタカキとカナエ」に変化して、第三話でまた「分かたれたタカキとアカリ」で締める、という「フラグ→変化→締め」の流れがスムーズだったからこそ機能していたと言えるのです。
 一方で、鳥はあまり必要でないところでもバサバサと飛んでいました。初回の登場時には、「電車と鳥を対比させたいんだな」と素直に受け取れたのですが、その後の登場回数があまりにも多いために、最終的には鳥自体の持つ象徴性がほぼ霧散してしまいました。

 視聴者への説明の仕方も悪いです。第一話で登場した鳥がアカゲラである意味はあったと思います。その意味を継続させるためには、「東京―栃木間(第一話)は飛べる」ということと「種子島―栃木間(第二話)は飛べない」ということの違いをはっきり見せ続けなければなりません。
 視聴者は、第一話で登場した鳥を「アカゲラである」とはまず見抜けません。「九州以南では生息できない」なんて以ての外です。「第一話でアカゲラが飛び、第二話で別の鳥が飛んだ」とは解釈できず、「第一話でも第二話でも鳥が飛んだ」と解釈するのが精いっぱいだと思います。
 視聴者が見抜けないことを前提として、次善の策を打つべきでした。第二話では一切鳥を飛ばさないか、鳥を飛ばすのならきちんとカメラで抜いて、アカゲラとは違うことを分かるようにするか。ですが、実際には何らかの鳥が飛び、それがアカゲラかどうかを確認する術がありません。アカゲラの持つ象徴性を台無しにしています。視聴者への配慮に乏しく、挙句に象徴性を毀損しているのは、いかがなものかと思います。
{/netabare}

ロケット再び:{netabare}
 そして、鳥の扱いの悪さがロケットにも響いています。
①タカキとアカリが東京にいた頃は、「現実である地上」(=徒歩)でつながっている。
②アカリが栃木に引っ越してからは、「現実である地上」が電車に阻害されてしまい、鳥を介して「理想である空」でつながることになる。
③タカキが種子島に引っ越してからは、「理想である空」よりも更に離れてしまい、ロケットを介して「叶わぬ夢である宇宙」でしかつながれなくなってしまう。
 という流れですよね。①②が第一話で、③が第二話。この流れ、すなわち、「地上→空→宇宙」と「電車→鳥→ロケット」の構成(「対面→手紙→送れないメール」も関係しているのかもしれません)については文句はありませんし、私は良かったと思っています。
 でも、ですよ。ここまで整理をしてしまえば「なるほど!」と思うかもしれませんが、ここまで整理をするのが容易ではないのです。②の鳥の扱いが雑すぎるために、「①→②」で一旦切れてしまうのです。

 新海監督が想定していたのは、次のような構成だと思われます。
 「①→②→③」という流れを作った上で第二話を締める。第三話の冒頭で、第一話をリフレインさせる電車を入れて、もう一度①の「現実である地上」に戻す。でも、新たな①からは②→③と進行させずに、そのループを否定する。①と新たな①の進行先が異なることを見せることで、停滞が再出発へと変化をし、最後は笑顔で終わる。

 ですが、鳥が全編を通して登場してしまったために、同じく全話に登場する電車(と輸送車)とのリンクを強めてしまい、「タカキが①と②(現実と理想)の間で揺れ動いている」という印象を積み重ねてしまいました。そのために、③が浮いているように見える。

 ③までスムーズにつながないと、カナエの心情は補完できません。カナエは第二話のラストで「トウノ君は私を見ていないんだと気付いた」と言っています。これがカナエとタカキを分かつ決定要因ですね。なぜカナエがこう思ってしまったのかというと、タカキと一緒にロケットの発射を見た際に、タカキが「叶わぬ夢である宇宙」しか見ていないことに気付いてしまったから、ですよね。タカキが「現実である地上」を見ていないから、現実(地上)で一緒に歩くカナエは気持ちを伝える意味を見出せなくなってしまったのです。カナエの心情は多分に③に依存しています。

 ③を機能させるためには、鳥が電車とロケットをつなぐ単なるステップとして描かれなければなりません。あくまでもステップですから、鳥の主張が強くなりすぎてはダメなのです。にもかかわらず、バサバサと飛ばしてしまった。
 鳥は電車と違って、シチュエーションに縛られずに気軽に飛ばすことが出来ます。尺の都合か表現のつもりかは分かりませんが、だからと言って飛ばし過ぎて作品を毀損するのなら本末転倒だと思います。

 また、私は「①→②→③」の流れが機能していた、という意見を受け入れる気にはなりません。
 このレビューに先だって、ロケットに関してどのような解釈があるのかを調べてみましたが、そのどれもがタカキの独白を投影させた単独解釈でした。単独解釈自体がダメということはもちろんありませんが、単独解釈だけで終えてしまうと、「なぜ種子島なのか」「なぜ飛行機ではなくロケットなのか」「なぜあのタイミングで飛ばす必要があるのか」などの作品内における位置づけが欠落してしまいます。
 新海監督は、気まぐれで種子島に引っ越しをさせ、気まぐれでロケットを描き、気まぐれで第二話の終わりで飛ばしたわけではないはずです。もしそうだったのなら三流監督ですが、新海監督はそこまでアホな監督ではありません。
 種子島はロケットを宇宙へ飛ばすために必要な舞台であり、そこに電車がないことも理解していた。だから、電車とロケットに象徴性を持たせ、その両者の間を鳥でつないだのでしょう。ここから、「地上→空→宇宙」という構成でストーリーを作り上げたのだと思います。

 でも、この流れを視聴者には読み取ってもらえませんでした。鳥で失敗してしまったためにロケットへのつがなりを見せられず、ロケットが単独解釈ばかりになってしまったのだと思われます。
 監督がきちんと論理的に作って、それでも視聴者が読み取れないのなら、それは視聴者側の問題です。ですが、そもそも論理の構築に疑義があるのなら、それは監督側の問題だと思います。
{/netabare}

独白:{netabare}
 心情は、何かが起こった時に変化します。ぼーっと座っているときには心情の変化は起こらず、何らかのきっかけで心情が動く。このきっかけには、事故のような大きなものから会話のような小さなものまでを含みます。
 秒速というのは、このきっかけが極端に少ない作品です。事故もなければ、会話も少ない。そのため、心情の変化というものはほとんど描かれていません。だから悪い、というのではなくて、そういう特性を持っているということ。
 で、この変化の無さを埋めているのが、登場人物たちの独白です。

 私は、基本的には独白というものをほとんど評価していません。なぜなら、独白というのは心象表現ではなく心情そのものだからです。言葉の選び方がどうであれ、「電車が止まって悲しかった」と言わせてしまうと、「悲しいことが表現されている」のではなくて、「悲しい」なんです。
 登場人物が悲しんでいることを視聴者に分からせるためには、悲しいエピソードを用意したり、悲しんでいる姿を描いたりすればいいだけです。「友人が死んだ」「涙を流した」、これで悲しいことは十分に伝わります。ここに「友人が死んで悲しいのです」なんて独白を入れるのはバカバカしいとすら思います。
 第二話でのロケットを見送るタカキとカナエの心情は、ロケットさえ機能していれば独白がなくとも伝わります。タカキが「叶わぬ夢」を見て、カナエはそんなタカキを見てしまう。これで十分です。

 ですから、独白を多用する作品に対しては、「心情は表せてはいるが、心象表現はされていない」という判断をすることになります。一般の作品は、独白による心情の垂れ流しを避けるために、心象表現に力を入れているのです。でも、秒速は独白がなければ意味が伝わらない描写ばかりです。挙句に、秒速の独白は抑揚のない単調なセリフです。ここにも表現は見受けられません。
{/netabare}

背景:{netabare}
 背景による心象表現というのは、ほぼ主観に依拠します。夏は開放的、雨は憂鬱、夕暮れはノスタルジーなどが成立するのは、客観ではなく主観です。また、背景は説明するのが難しいために、セリフや象徴物ほど明確なメッセージを伝えることは出来ません。それにもかかわらず、背景表現は多くの作品で機能しています。なぜなのか?
 それは、背景表現が主観を越えて、監督側と視聴者側の共通観念として成立しているからだと思います。説明されなくても、雨を降らせれば視聴者は憂鬱だと分かってくれる。
 でも、新海監督は、この共通観念へのチャレンジを見せています。「ほしのこえ」でも「言の葉の庭」でも、晴れているときが憂鬱な現実で、雨が降っているときに希望ある理想を描いていました。私はこの姿勢を高く評価しています。

 ですが、秒速ではこのチャレンジ精神が見えにくい。雨に代わる候補としては桜がありますが、桜自体が「出会いと別れ」や「始まりと終わり」という両面性を持つために、共通観念を覆すのが難しい。また、鳥と同じく多頻度で登場するために、象徴物としての意味を限定するのも困難でした。鳥と同じ間違えを起こしています。

 もう一つ懸念を感じたことがあって、それは背景が綺麗だったこと。綺麗であり続けたこと。
 「あらしのよるに」という児童向け作品があります。この作品の背景は、野原での日常風景は淡い線で、生死のかかった雪山でのシーンは刺々しい線で描かれていました。これは心情ともリンクした「表現」であったと思います。
 CGの技術的なことは分かりませんが、秒速がゴースト(光源から出るキラキラした像)やフレア(画面をボヤっとさせる光)を多用するなど、光の描写に注力していたことは分かります。光と影の対比にも相当気を使っていたのも分かります。ですが、綺麗であり続けることは、美しさを描けた反面、単調さにもつながってしまったのではないかと感じました。
 単調であるということは、裏を返せば強調がないということです。単なるつなぎのシーンも山場もエンディングも、全てが同じように美しい。強調すべきシーンを引き立てるために、もう少しメリハリをつけた方が良かったと思います。
{/netabare}{/netabare}

おわりにかえて:{netabare}
 私は、「中身がない派」にも少々の懸念を感じていて、それは「中身がないことを積極的に説明してくれない」ということです。ですが、それは仕方のないことだとは承知しています。「ないこと」を証明するためには、「あるとはどういうことなのか」を列挙して、その全てに該当しないことを証明しなければなりません。いわゆる「悪魔の証明」と同じ構造ですから、ほぼ不可能な事柄です。「中身がない派」の苦労も分かるというものです。

 最後に、「なぜ感動してしまうのか」に対する見解を述べておきます。
 この作品は、「心情はあるけど、心象表現がない」「キャラクターはいるけど、個性がない」という骨子だけの状態だと思います。「枠線はあるけど、塗られてはいない」というぬり絵のようなものですね。
 作り手からの色指定が不十分なために、視聴者はどんどん自分の好きな色を塗っていってしまう。そして、自分の好きな色で仕上げてしまうから、「感動した!」となるのだと思います。そして、自分のぬり絵自慢になってしまう。
 「タカキはアカリを振り切っているのか」「振り切ったのならいつなのか」などに対する意見がまちまちなのは、「自分の作品」になっているからだと思います。宇宙の説明がヘタだったからこんなことになるのです。
 私は、感情的にも構造的にも作品を見ますから「感動したけど中身がない派」を採っていますけど、構造的に見れる人は「早く色を塗れよ」と感じたままに終わってしまう。だから「中身がない!」になるんだと思います。

 秒速がすべての表現を排除して、視聴者の主観に委ねた作品だったのなら、それはそれで評価の仕様もあるのですが、この作品は「やりたいこと」が透けて見えるし、それに「失敗したこと」まで伝わってしまう。新海監督は、まだまだ発展途上の監督だと思います。「言の葉の庭」では幾分改善したところもありますが、まだ及第点ではありません。ポスト宮崎駿を冠するのは、まだムリです。別に私は信者でもアンチでもないですから、頑張ってほしいとは思いますけどね。

 マンガや小説をオススメする声もありましたが、こればっかりは新海監督がかわいそうだと思いました。映画だけでは説明できてないって突きつけているようなものですからね。マンガや小説をオススメしている人ほどこの作品を称賛しているというのは、何とも皮肉なものだと感じました。{/netabare}

投稿 : 2025/02/01
♥ : 21

ラ ム ネ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.6

壁画と空白。

 初見から三年ほど経って、本作への感情の微熱もだいぶ冷めてきたので、全文改正をしてみました。前よりはいろいろ見えてきた、というのもあります。前回のレビューは底の方に隠しています(隠すのやめました、恥ずかしいし)。人は変遷を続けるのに、作品は変わらずそこにあるので、改めてみると、なんか大人になったなという気がします。初めて見たときは感情の拒絶反応が出ましたから。それはおいおい別題で書くとして、散文はここまで。…結局、散文的になったか…。


*監督の狙い。…構想の考察。

 新海誠監督は、自分の作品に一貫するテーマが「喪失」だと言っていますが、その「なくなった」という喪失の光景の前後には、「何かがあった」「なくなったのでまたつくっていこう(生きよう)」が用意されています。一話が、「何かがあった」。二話が「でも、なくなった」。三話が「…なくなったのでまたつくっていこう」と単純に三分割してみました。本作は話しが終わる毎に、次の話に見る側が心を引かれるようになっています。そうして映像にあやかった心が導かれるのは三話です、つまり結論は喪失の後にある心の回復、「秒速五センチメートル」は「回復」の物語です。
 主人公の貴樹は、何を喪失し、何を回復するのか。まず「明里との恋愛」は回復されません、回復されない、それなのに貴樹には救いがある、その点から見て、大切なところが恋愛だけではないことが見て取れます。恋愛は、「秒速」においては象徴的出来事であり、しかし大切な核ではない、それ”だけ”ではないんです。三話で会社を辞めた理由を、「かつての思いが失われていることに気がついて」と貴樹は独白しますが、失っているのは「恋」よりそれ以前にある「純粋さ」です。ただ恋を喪失するのではなく、純粋を喪失してその中で恋まで失うのです。
 年少に見られるような純粋の喪失については、詩で言うと谷川俊太郎の「かなしみ」とか、洋文で言えばカポーティの「遠い声遠い部屋」が私は思い出されます。カポーティについてですが、彼の著作本が劇中に意味ありげにわざわざ描写されています。本作三話の「山崎まさよし+パラパラ」のなかで、高校時代?の明里が駅のプラットフォームで持っているのですが、文庫版の「草と竪琴」という本です。「草の竪琴」は「遠い声遠い部屋」から続く二作目であり、少年から青年への移行期にある主人公の不安を自伝的に活写したものです。監督は、これをオマージュしようとしたのではないか、と考えています。つまり、移行期に失われた純粋の欠乏感と、その回復を。
 一話の各所に、年少期によく見られるような純粋さを表すシーンがあります。たとえば導入にある「桜の花の落ちるスピードってさ」「ひと晩で三十億年分読んじゃった」「アノマロカリス!」などです。それが純粋さの記憶として三話のラストあたりで回帰します。
 かつての明里との恋は貴樹にとって、世俗を離れた、「あの頃の純粋さ」を象徴的に示す出来事でした。あくまで「明里という少女の記憶」=「純粋の象徴」なのです。
 三話で貴樹が、恋人と別れ(それをきっかけに?)、人生を自覚し、過去の「純粋」と対照し、その喪失に気づき、今ある退廃した生活を捨て、仕事を辞め、新生活をスタートさせる。自室での仕事の合間に、 桜を見に過去の思い出の道を散策し(記憶の逍遥)、そのときにこそ「純粋さの象徴」である「明里」とすれ違う(向こうも振り向きかけるわけだから当人とする)。でも彼女は「少女」ではなく「大人」になっていて、時間は経ってしまっている(桜並木道沿いの公園の木々が切られたように、…貴樹はここでも微笑む)。・・・一話で原体験、二話で過去への執着と停滞、三話で現実を容認して回復、貴樹の微笑みは現実容認の表現になります。
 微笑みの意味が、恋愛にあるとすれば、それは皮肉的で、人生はうまく行かないという慰めになるかもしれないが、監督の狙いはそうじゃありません。
それが私の見た流れです。彼女がそこに”いるかいないか”は、救済とは何の関係もないのです。そもそも、貴樹はもう自らの力で救済されてしまっていて(自立的救済)、彼女が現れることで救済になるなんてことはなく(依存的救済)、すでに良い思い出、懐旧の念、延長があろうとなかろうと、よいわけです。自分は自分、彼女は彼女、「純粋さの象徴の”今”」に出会えた、それだけで奇跡だ、そして彼女は彼女の人生を生きている、自分も生きねば、それでいいわけです。
 純粋さについては「花とアリス殺人事件」でも少しだけ書きました。
 以上が、構想と考えます。

    *   *

 構想を見てきました。それには感動します。しかし、この監督の構想(イメージ)に視聴者はしっかりと導かれているのか。難しいところです。それは監督が伝えきれてないのか、観客が読み切れてないのか、どっちなのか。
 跳んだら着地しなくてはなりません。同じように、物語に飛び込んだら、どこかまともなところに着地させられ、物語の幕も閉じられます。「いつもの現実」飛び込む→幻想体験→着地「ちがう現実」、というのが流れです。児童文学や宮崎アニメにはその構造が見やすいです。そういう風に、芸術は「作品の自己化」を行います。影響を与えるのです。
 「秒速」での監督の狙いは、「執着の開放、純粋さの回復→再出発(生きよう)」でした。狙いがその通り伝われば、「作品の自己化」によって、構想が観客に宿る、はずでした。
 しかし現実そうはなっていないのです。「内容がある/内容がない」「感動する/感動しない」と感想は二極化しています。私は、「鬱派(感動した)」少数→「称揚派(感動した)」多数→「けだるい派(内容ない)」少数→現在(感動するけど内容ない)と、本作への感想が変わっています。…そしてどの派にも、多くは監督の狙った通りの「作品の自己化」が内在することなく、多分に「自己の作品化」があるばかりです。
 押し広げて見ていきます。


*鬱派と称揚派とけだるい派を経て。

 ほぼ私の体験談です。初見で感情的な拒絶反応が出ました。三年か二年前のことです。思春期で何かを実行する勇気を挫いてしまった人が、哲学や文学的なところに根差す光景はよくよく見られますが、芸術や学問の幻想体験による「作品の自己化」によって、気力を回復し、勇気を回復しようとする逃避族の意識的試みです。ですから、芸術家には現実逃れをする病みっぽいところがあるわけです。要するに、はじめは鬱屈派でした。私はてっきり、これは「恋愛の回復」の物語で、すなわち結びつきハッピーエンドだと勘違いし、やってきた意味不明なバットエンド(なんか微笑んで去っちゃうし…) によって、宙にあった妄想を地上の現実まで突き落とされた、という流れだったと思います。「純粋の回復」という観点から見ると、微笑みが快いものに見えるのですが、この場合、貴樹の微笑みが人生への皮肉に見えてしまいました。全身が鬱的にだるくなり、細胞が重い砂のように心をひきずります。それこそ、自立や回復というお話なのに、より落されたという残念な話です。
 結論…何かにもたれようとする依存的な人格が、不条理な現実を逃れてアニメや文学といった虚構によって自らを満たそうとし(恒常性の補完)、貴樹のような純粋回帰(自分に立ち返る!)を経験していなかったので、願望の強さも手伝ってか、「秒速」を「純粋回復」ではなく「恋愛回復」である、そうでないと救われない!と思いたがえ、「踏切」にて地上に叩き落された。以上が、鬱派の精神分析です。
 それから、大人な人に参考になるような意見を求め、「明里は自分の人生を生き、それを察した貴樹が微笑む」という意見によって、「貴樹の微笑み」への理解が生まれ、鬱派から称揚派に転身することになります。美しい恋のアニメ、と感動して称賛するのです。私は経験測による共感ではなく、理解による共感をしました。理解した時点で、すでに作品は私に影響していた、内在化していたと言えます(作品の自己化)。監督の狙い通りの内在化、作品の自己化とはちょっと違いますが。監督の狙いは「自分に立ち返って前を向こう(再出発)」でした。
 やがて私に時間の経過によって「内在化された作品の(恋物語としての)印象」に慣れが進行します。飽き始めるのです。感情の微熱も冷めて来て、冷静になります。すると、感情を分離されたので、理性的に見られ始めました。そこで、「ん?」と気が付きます。全体がとても曖昧に見えはじめたのです。考えてみれば、なんでこうなのか、よくわからない部分が多い。ちゃんと作られてないんじゃないか?と感じ始めたのです。そうして見るのも嫌になってきました。こうして、けだるい派に属したわけです。けだるい派は感情を分離できる理性的な性格の人たちです。三通り体験しました。
 願いを裏切られた鬱派、恋愛喪失(誤)や純粋回帰(正)に感動した称揚派、冷めたけだるい派、それらを経てわかったのが「秒速は恋物語だ」と思っている自分の勘違いです。ただを非情な現実を突きつけるものではないのです。‥‥確認すると、純粋さを喪失して恋まで失ったが、いま純粋さを回復して、すると恋の相手が現れ、でも時間までは回復しなかった、それでもいい、歩いていこう‥‥そういう構想だと気づきました。ハッピーエンドを予想した「恋の回復」という内在化は、恋より下位にある「純粋さの回復」として新たに再内在化したのです。つまり、恋としてはハッピーエンドでないが、純粋さとしてはハッピーエンドだ、だから貴樹の微笑みは「前を向こう」だということです。


*余白と空白。

 本作には多くの「うやむや」があるように思えます。曖昧さ、空白とも呼べます。それが監督の意図的に作られたものである、つまり空白ではなく余白であるなら納得できるのですが、どうも余白でもないのです。緻密な表現がなされていると観客はスクリーンに放心します。宮崎アニメなどは、感情的にそうなります。入りこんでしまえるのです。しかし、構造やその表現に抜け目がある、作品を流れる感情の吹き溜まり的な、空白、曖昧さができると、そこに観客は、自らを投影します。表現があると放心し、表現がないと投影して、幻想の現実感を補うのです。物語の整合性、統一性を保持しようとする試みです。文学などでも、言及しないことによって、読者に主観的な想像をさせて、余韻を生む手法がありますが、それにたとえられます。余白と放心、空白と投影の営みは、そのすべてが「自己の作品化」に該当します。
 「秒速」のそれ(一見曖昧に思えてならないところ)は、監督の意識的な余白(技巧によるもの)なのか無意識的な空白(技巧によらないもの)なのか。やはり後者です。ただ、「空白」ではなく、語感としては「うやむや」に近いと思います。
 余白にも空白にも観客は投影する、描かれないものを察して補おうとします。しかし、余白は表現の技巧であり、生まれさせたもの、空白(うやむや)は、生まれてしまったデタラメです。詰まるところ、余白には感情移入し、空白には自己投影するのです。余白には物語の前提がありますが、空白は前提がありません、突発的なもので、ただの作り手の失敗です。前提が用意されていれば、余白があっても、観客は物語の上でその描かれない部分を察することができます。しかし、空白には前提が用意されていないので、観客は主観的に、時に都合的解釈によって、作品に個人的な上書き、色塗りをしてしまいます。
 たとえば、ラストの踏切シーンで、明里が去ってしまうことについて、明里ばかりに共感のまなざしを向ける人がいますが、それはつまり「明里は婚約したのだし自らの幸せを守ろうとして立ち去った、過去の恋より今の愛が大切なのだ」と考えることです。しかしそれは、たしかに真相に近いのかも知れませんが、倦怠期の夫婦が自己肯定するための解釈にも思えます(アイロニカルなユーモア!笑)。あと例えば、ダメな「慰め」になるパターンなどもありますか。
 エヴァは「自己啓発セミナー」と呼ばれますが(大塚英志)、語呂合わせゲームをしてみれば、秒速は「自己投影アルバム」です。
 監督の狙い?であるラストシーンの"希望的着地"に導くには、観客に"希望的観測"を与えるだけの体験をさせなければなりません。体験されるようなつくりになっているのか、それとも物語を読めない視聴者がにぶいのか、それを言論するのに作品構造の欠損を列挙しなくちゃならないわけだ。ああ。なるほど。んー。
 とにかくここで留めておきたいのは、作品構想が「作品の自己化(純粋回帰!)」を目指しているのに、視聴者の多くは「自己の作品化(例、恋愛喪失)」に導いてしまっている。オタクだろうがなかろうが、現実的な人格だろうがなかろうが関係なく、勘違いする人が多いわけです。それも簡潔な、とてもシンプルな結論なのに。その失敗の原因が「うやむや」にあるのではないかということです。


    *    *

>纏め。半分自分用メモで、機会あれば洗錬します。このレビュー、自分の勉強用として
も書いています。その垂れ流しです。
放心=「作品の自己化」→緻密な構想表現 投影=「自己の作品化」→漠然な構想表現。
・秒速は「作品の自己化」を目指した作品であるのに、その多くは「自己の作品化」になっている(のではないか?)。
・・鬱派→人間性未熟(作品構想にある感情の未経験者)→物語を「純粋の回復」(自立的要素)ではなく「恋愛の回復」と勘違い→(明里がそこにいてほしい!)依存的救済を求める(自己投影)→願望に裏切られて鬱にさいなまれる。
・・称揚派→比較的人間性あり(作品構想にある感情の経験者)→構想感情で鑑賞し、構想表現は無視、または自己投影して穴埋め。
・・けだるい派→理性の人(指揮者ムジクスと演奏者カントルの論理で言う前者)→構想表現を鑑賞、構想感情は踏まえても興味なし。或いは、監督の構想に飽きた。「描くほどのことか?」。
ったくなにを書いているんだか。


*構想と表現の上滑り。
 本作は構想が表現を上滑りしている空回りしたものです。作品に流れる感情と、それを支える比喩表現、構造、その組み合わせ、統一性、整合性、それらに長けていて有名なのが宮崎アニメです。「千と千尋の神隠し」が巧みだと思います、だから子どもにも(鋭い感性に)人気が高い。まず構想があり、それの表し方がある。物事は、言葉以前のところにあるから、言葉以前のところで言い表さないと鑑賞側に伝えきれない。感情も言葉以前にある。感情は抽象的、悲しいときに「悲しい」とは言わない。だから、比喩で表現する。文学は文字によって、修飾的な表現になる。映像の比喩は、より具体化が可能。比喩の現象化、物体化されたものが、抽象ではなく(二次元的)、構想の象徴表現(三次元)、である。

・各話の構造。…一時間の物語を三分するのは、構想的に悪かった(ぼやける)。
「一話」…純粋がある、明里に会える(秒速5センチ、身近)、桜の朝、田園。
「二話」…純粋がなくなっていく、明里会えない(時速5キロ、乖離)、黄昏、離島。
「三話前半」‥純粋喪失、会うことを忘れた(1000回メールをして1センチ、喪失)、夜、都市。
「三話後半」‥気づいて純粋回復、明里会えた(秒速5センチ、容認)、桜の朝。
電車(二人を隔てるもの、結びつけるもの)、種子島(電車でいけない、孤独感、隔離された)、ロケット、鳥(?)、弓道(届かない思いの表現) 、ロケット輸送車 (二人を遮るもの)、
二話の海岸に二人がいて朝日を見ている幻想(願望?)、その朝日を的に見立てて弓を放った(?)、ロケットは、もう思いが届かないという意味での宇宙? 三話の「山崎まさよし+パラパラ」は簡略化、要約?あんなのができるのはストーリー構成が甘いからでは?
 色々ありますけど、安易だと思えてしまいます。構想と表現、感情と構造は、一体物として機能します。しかし、目的がわかっているのに、手段がわからないような、構想が率直すぎて、表現が安易である、安易であるのに、目的の手段・構想の表現として機能しない。機能してないから、突発的に不可解的に象徴表現が表面に出てしまう。構想を描くはずの表現が、構想の邪魔をしている、邪魔というか、単にわかりづらい。それに、一時間の物語を三話分割して、「ある」「ない」「もどる」と続き、それほど魅せる劇もなく、やはり構想は率直で、これはしっかりと放心させてほしい作品であるのに、曖昧さが隠せない、不足感が見え見えてしまう。残念な点です。「描くほどのことか?」という、けだるい派もわかります。
 しかしハッピーエンドを掲げずに、前向きな姿勢を描き、それを観客に体験させようとするのは、とても気に入っている構想です。自分に立ち返れない人が多い世の中でこそ機能する、世代的(なのか?)作品ではありますが。


*監督の実在推察。

 監督は作品について「バンドエイドみたいなものでいい」と言われていましたが、要するに「慰めとしての作品」、虚構による現実の欠乏感の補償、観客の自慰に使われていい、ということでしょう?うーん。それを映画監督が言ってしまっていいのだろうか。いやーまあそういう使われ方もあり?酒や鎮痛剤と同じ?
 なぜ、なんども同じようなテーマ、パターンがなされるのだろう。人に見せるよりも自分が見たいものが優先されるのか。一貫されるテーマと言われる「喪失」にしか、深い原体験を見出せなかったのか。しかも喪失というのは、とても世代的で、文学的だ。歴史的で、哲学的なのではない。だから一時代の流行に過ぎない。いや、もしや、私の評価基準が高すぎるのかも知れない。
 最新作「君の名は」の予告を見て思いましたが、「またか」という感じで、表現が変わらないので、「飽き」「けだるさ」を感じてしまいました。見て見ないとわかりませんが、過去作品の前提を以てしても未だうきうきしているのは、性的退行世代の願望を抱えた人なのでは。ここまで批判する権限は私にあるのか?ごめんなさい。
 表現が狭い、狭く、深めていく。深めるので普遍性には構想が触れる。でも、やはり狭いことに変わりはないのです。それが、新海監督が「世代的」であるという理由です。このままでは、ただの流行に過ぎません。
 綺麗な壁画、それは監督の作品が二次元的であることの表れではないでしょうか。そういう意味で、小説の方が読みやすかった。いつか、三次元の奥ゆかしい広々とした作品を期待します。ああ、またこんな終わり方に…。そんなことをつぶやく私は確信犯か?失礼しました。失礼しましたと言いながらデリートしないのだから、確信犯確定だ。許してくれるな。眠いぞちくしょう。2016/05/07

2013/10/3「結局、誰とでも一生同じ場所で生きることは叶わないのだ。人は、こうやって喪失に慣れなくてはいけないのである。」二度目の投稿。→称揚派の時。サンキュー23。
2016/05/07「壁画と空白」改正。

投稿 : 2025/02/01
♥ : 33
ネタバレ

Ballantine さんの感想・評価

★★★★★ 4.4

究極の未練(全部書換

一回目見た時がかなり前でうろ覚えでしかなかったので修正。
それとあれ?こんなアニメだっけ?とまさかこんなに感覚が変わるとは思わなかった…
いや寧ろ前の評価で合っていたのかもしれないようなうーん。


まさにこのアニメにぴったりな言葉は究極の未練。
1話2話3話と年月が飛んでいる分あれこれ妄想の余地がある分ずるい。
色々な解釈が取れるのではなかろうか?


※見る人によっては恐らく嫌なアニメになりかねないと思われます。ネガティブ思考で恋多き人は見ない方がいいかも?
逆じポジティブで恋多き人にはお勧めかも?うーん人に勧めるには実に難しい。

っがわかった!気付いた!これを見て欲しい人はあれだ。
別れたばかりの恋人。別れたばかりの夫婦。別れてから、失っからこそ初めてわかる大切さ。ここですよここ!そういう事ですね。こういう人たちへ是非ともお勧めしたいです。
過去は取り戻せないんですよ!今しかない頑張れ!
幸せな未来を手に入れる為に今だけ我慢すればいいんだそうだがんばってくれーって事で後は皆様にお任せします。


感想
{netabare}今と昔どっちが良いのだろう?(駄文感想
なんかもやもやしてた思いがあるのは今の社会とこういう携帯もネットも無い時代。
果たしてどちらがイイ時代なのだろうか?
昔のこういう時代では手紙という手段か家電位でしか連絡が取り合えなかったであろう。
俺の世代はこのぎりぎりの境目位だったかな。大体物語位とそんな変わらなかったような気がする。
小さい頃は手紙程度だったがいつ頃だったか携帯やPHSが普及し始めていたっけ。
こうやって離れ離れになってしまった関係を維持するには今の時代のほうがいいのだろう。
しかしこれ裏を返せば浮気し放題でもあるんだよね。
相手側の情報が全然わからないしいつ何処にいるかもわからない。
連絡取ろうにも取りようがない。

が、現代の社会だとそうもいかないわけで。
いつだって連絡の取れるものがあるのだから。
何かやましいことが無ければいつだって連絡が取れるしってもまぁ仕事中じゃあれだけど。
何処だって出会える時代でもある。
離れていても心はつながっていることは昔よりは簡単だ。
電車が止まっても連絡が取れるし、心のすれ違いも昔よりは和らぐだろう。
しかしそこには罠があり、昔はなかなか会えなかったり連絡が取れない分長々と綴って考えて考えての日々の出来事や思いを深く書いて伝え合える。まぁ文章力の問題もあるが…
今は簡単にいつでもメールが出来ていつでも話せる事が出来てしまう分内容は薄っぺらくなっていく。
「おはよう」「おはよ」
「今何してんの?」「カラオケ」
「私のこと好き?」「好き」
「じゃ誰と行ってるの?」「友達ー」
「男?女?」「どっちでもいいだろー」
「私のこと嫌いなの?」「なんでそうなるんだよ」
まぁ大体この辺から喧嘩だよね。
俺は携帯を初めて持った頃はこんな感じだった。
いつしか電話ばっかしか使わなくなったが。
メールだとなんかしらの思いが、伝わらないだのちょっとした事ですれ違いが起きてくる。
電話だってそうだ。いつだって話せるけどそれは相手の顔を見て話せない分信用度は落ち不安になりすれ違いや勘違いが発生する。
人間関係も薄っぺらくなってくる。


今の時代ではさらに出会いのツールが山のようにある。最近の流行りはLINEだったりするわけだけど。
ネットで言えばスカイプだのメッセンジャーだの出会いのツールは沢山ある。
SNSやブログ。ソーシャルゲームやオンラインゲーム。
出会い系ツールなんて要らない位に出会いの場は無限に広がっているのだ。
その分こっちはこっちで浮気もしやすいし出会いも増えている。
浮気の点ではそうそう変わらないのかもしれないな。
いやまだ連絡取れるだけましか?うーんでも幾らでも偽装は可能だけどまぁバレやすい時代ではあるか。
しかしこれだけ出会いが増えてしまうと今度結婚した時が怖い。
結婚相手が沢山の人といつでも何処でも繋がることが出来てしまうわけで。
結婚には不向きな時代かもしれない。いや彼女にしたっていい男が欲しいと幾らでも探し放題なわけで。
もうこうなってくると人間関係すら薄っぺらくなってくる。無縁社会?近所づきあいも無い?もうさぁ今の彼氏や彼女と駄目なら他の子と付き合えばいーじゃーんってのが当たり前でしょ?知らんけどw少なくとも俺らの時はそっちのが多数派だった。良い男見つける為にキープ君いたって悪く無いでしょ?みたいな。
これ程希薄な人間関係があっていいのだろうか?
友人関係より恋人関係の方が下になってないか?
本当にそれでいいのだろうか?軽い付き合いでいいのか?
俺はリスクを考えたら明らかにおかしい社会だと思う。
男が下に見られている社会なんじゃなかろうか…
処女だと恥ずかしいって思っちゃう時代なんでしょ?
付き合うのは結婚したいが為じゃなく良い男見つける為なんでしょ?
別に間違ってるとは言わないが信用出来ないな。
好きな男とやるんでしょ?結婚したい男とするわけじゃないんでしょ?
結婚相手にはならないよね。
料理も出来なければ火事炊事も出来ないんじゃどうにもならない。
果たしてこれで男に結婚するメリットがあるのが甚だ疑問だ。
そうじゃない女性へは申し訳ありません。別に女性を叩いているわけではないのであしからず。


うーん。どっちの方がメリットあるのかなぁ…
なんだかわからないけど昔の方がいいような気がしてくる不思議。
ただの懐古厨なのかもしれない。
結論…は出ないw駄目だこりゃw書いてみて頭のなかが整理できるかと思ったけど酔っぱらいは駄目でしたとさ。
そのうちまた考えてみようかな。そんな不毛な思考を。ずっと昔から悩むこの考えをいつかスッキリさせたいな。


絶対に未練が残るタイプと自分のことを推察していたので未練が残らないように絶対に別れた女との思い出は、全て写真から何から整理するタイプで意図的に思い出す事もしないようにしてた。
いつしか自動的に思い出すこともなくなり誰に過去の女の事を聞かれても話さなくなっていた。
昔は自慢ばっかしていたが…
そのせいで忘れっぽくてもう思い出そうとしても逆に思い出せなくなり、あぁなんかあったような位でしか思い出せない事ばっかだったりしていたが、映画や青春物見てるとふぅっと思い出す時がある。もう見ている物語なんかそっちのけであぁこんな事あったっけとか…
ってかこんなおっさんになってから近頃やたら思い出すようになってきたのは歳のせいだろうか?
寧ろ昔の傷が癒えたからこそ思い出すようになったのかもしれない。

ただ、恋をした事のある人ならば誰しもが経験した事のある思い。
昔付き合っていた人との離れていく思いや付き合っている時の感覚。
会わない遭えない人間程遠くなっていき気持ちが薄くなってしまうんだよね。
自然と気持ちが離れていってしまう。
個人的に1年連絡しない人間は携帯整理してたな。仕事とかは関係ないが。

そして気持ちが離れたり会えなくなってしまうと新しい環境で新しい出会いが始まってしまう。
人間とは視野の狭い生き物である事を痛感させられてしまう。
実に狭い。
自分の周りだけが生きている世界で、自分がいるという事の認識は周りの人間がいる事で自分がいると実感出来る。
常に自分と一緒にいてくれる人だけが自分という認識をさせてくれる。
「とうのくん、これ以上私に優しくしないで」
っと言った瞬間ミサイルは打ち上がった。これはまさに恋心の爆発を暗喩しているのではなかろうか?
そしてケリがついた瞬間だったのではなかろうか?
ってかここで2話と3話の間に何が合ったかわからないのがまた色々想像させる所でもある。
実にズルい。

かなえは寝とる気は無かったから、好きだったからこそ身を引いたのではなかろうか?

まぁ最後は本当に未練の塊みたいなもんだよね。
このアニメは人の分だけ色々な解釈が出来る面白いアニメでもあると思う。
あんな恋をしたっけ。こんな恋をしたっけ。
そう、あの時あの場所でこうしていたらきっと人生変わっていたのでは無かろうか?
今頃何が起きていたのだろう?そんな思いを思い出を巡らせれば巡らせるほど辛いことはない。
これ程自分が惨めになるアニメも無い。
いやいい思い出もきっとあるだろうが俺は基本ネガティブだしもう何思い出しても嫌な思い出ばっかしか出ない。
なんだろう映画のアルマゲドンの最後のような走馬灯のような感覚で涙がこみ上げてくる。
共感出来るような事がある人ほど、恋多き人ほど想像力の高い人程きっとこみ上げてくるものはあると思う。
しかし俺みたいに思い出を封印している人もいるだろう。そんな人には泣けないかもしれないが。
そして最後の思わせっぷりな踏切でのすれ違い。
実に切ない物語。

ここからの妄想の余地を残してる所も実にズルい。
例えば不倫関係になってしまう√。
はたまた結婚が破談になり踏切でまた出会ってしまった二人からの新しい始まり√。
踏切でお互いがやっぱりと走り寄ってからまた連絡先を交換してしまう未来。

しかしこの中で唯一許せるのはこのまますれ違う事だろう。
人の女や男を寝とるような行為だけは本当にしてほしくない。
なので終わり方としては最高なのではなかろうか?

見てよかったかと言うとハッキリ言って見なくて良かった。好きか嫌いかで言えば大嫌いだ。
何故なら思い出したくない過去ばかり思い出してしまったからである。
良い思い出も嫌な思い出も今となってはどっちでもそんなに変わらないが、本当に青春の頃の思い出なんて思い出して良い事なんて無い。未練だけが募るだけだ。そんな未練が募ってしまって元カノの家にでも押しかける奴が現れたらならその子を不幸にするような自体だって発生してしまうかもしれない。
あまりその点では評価されて欲しくない作品です。
え?結婚?してません。結婚しててもこういうのだけは絶対に見たくないし彼氏彼女がいても絶対見たくない。過去の人間思い出して未練が募ってしまったらどうすんだよ。辛いだけだろ。っと言いつつ涙がジワジワ出ちゃいました。
やっぱ見なきゃよかった…


未練が募ってもその過去の思い出をバネに成長しろ?いやいや人間誰しもそんなに強い人間ではないのですよ…
恋愛すればする程すっかり凹んで恋愛なんてする気なくなっちゃいましたよ。


タイトルの秒速5センチメートルは何を表すか?
別れるまでのスピードですよ。いやいや冗談です。
個人的な解釈としては秒速5センチメートルでさくらの花びらが落ちるスピードだけれども、人と人との距離感なんじゃないかな?お互いが丁度いい距離感とも置き換えられるのではなかろうか?監督の意図はどうあれ勝手にこう解釈しました。


しかしこれだけ人の心を揺さぶって感動させてくれるアニメも無いので評価は高めです。ってかベクトルが違う意味で実に素晴らしい作品である事は間違いないが、二度と見ないようにするためにも感想を記しておきたいと思う。{/netabare}

投稿 : 2025/02/01
♥ : 39

78.6 4 恋愛でオリジナルアニメーションなアニメランキング4位
心が叫びたがってるんだ。(アニメ映画)

2015年9月19日
★★★★☆ 4.0 (1205)
6306人が棚に入れました
監督 長井龍雪
脚本 岡田麿里
キャラクターデザイン 田中将賀
制作 A-1 Pictures
青春群像劇 第2弾 劇場版完全新作オリジナルアニメーション 

幼い頃、何気なく発した言葉によって、家族がバラバラになってしまった少女・成瀬順。
そして突然現れた“玉子の妖精”に、二度と人を傷つけないようお喋りを封印され、言葉を発するとお腹が痛くなるという呪いをかけられる。それ以来トラウマを抱え、心も閉ざし、唯一のコミュニケーション手段は、携帯メールのみとなってしまった。高校2年生になった順はある日、担任から「地域ふれあい交流会」の実行委員に任命される。一緒に任命されたのは、全く接点のない3人のクラスメイト。本音を言わない、やる気のない少年・坂上拓実、甲子園を期待されながらヒジの故障で挫折した元エース・田崎大樹、恋に悩むチアリーダー部の優等生・仁藤菜月。彼らもそれぞれ心に傷を持っていた。

声優・キャラクター
水瀬いのり、内山昂輝、雨宮天、細谷佳正、藤原啓治、吉田羊
ネタバレ

素塔 さんの感想・評価

★★★★★ 4.5

始まりの言葉

言葉は誰かを傷つける。

このフレーズによって
すでに私たちは作品の世界に引き込まれている。

純粋で、ストレートであるがゆえに
傷つきやすい思春期の心の
その傷や痛みさえも美しく見せるものが青春だとすれば
青春という特権的な時間の中にのみ現れる
尖鋭化された、純粋な言葉へと
すでに定位はなされている。
言語一般に解消するのは誤りであると思う。

この作品で言葉は、テーマというよりはむしろ
もっと具体的な、マクロ的な機能を担って現れているようだ。
特に注目したいのは、ストーリーの展開の軸となる次の二つ、
「傷つける言葉」と「本当の言葉」。
これらを物語の展開に即して辿っていきたい。
そこには当然、この作品の主題も絡んでくるはずである。



{netabare}
「傷つける言葉」が現れるのは、物語の発端。
それが、ヒロインの成瀬順と田崎大樹とを結ぶ接点となる。

この二人は、反転させた相似図形のように
順は、メンタルな傷によるフィジカルな痛みを
田崎は、フィジカルな傷によるメンタルな痛みを抱えて
自分の殻に閉じこもって周囲から孤立している。

田崎は無神経かつ暴力的な言葉で順を傷つける。
その彼が、後輩の言葉で逆に傷つけられた時
「言葉は人を傷つける」ことを順が言語化する。
田崎にとってそれは、世界が一変するほどの衝撃だった。

田崎の「謝罪」から物語は動き出す。
彼の変化は、「傷つける言葉」を経験して
他者というものの存在を初めて意識したことによる。
はじめは拓実の苗字さえ知らなかった彼が
クラスの一人一人の個性に共感を示せるほど
今では周囲との関係の中に融和しているのである。

言葉を前景として展開されていく
この作品の中心主題とは、「関係の危機と回復」
そう捉えてよいのではないだろうか。
関係の危機に際して二人がとった対照的な態度が
このあとの展開の鍵となっているように思う。

順の場合、原因となった言葉を封印することで
不幸を回避しようとして、結果的に関係を遠ざける。
このネガティブな論法を、田崎はポジティブな行動で打ち破る。
彼は、言葉による関係の回復を証明してみせた。
それが彼の「謝罪」の意味である。

最初に田崎が殻を破り、関係の世界に踏み出した。
だから、本番直前に失踪という形でクラスの仲間を裏切り
順がふたたび関係の危機に陥った時、彼女のために
再起へのチャンスを懇願し、的確に方向性を示して
クラスの空気を一瞬で変えることができた。
田崎は先に進み、順が自分に追いつくのを待っている。



「本当の言葉」が現れるのは、物語の最終盤
順と坂上拓実との間に交わされる対話の中である。

拓実が失踪した順を探し当てた場所は
「すべての事のはじまり」の場所である
今は廃墟となった、山の上のお城(ラブホテル)だった。
不幸が繰り返された結果、原点に回帰して
すべての根源を断ち切りたいという無意識の願望が
おそらく順をここに誘ったのだろう。

二人の間に交わされる対話は、物語の最重要場面だが
短い時間の中に内面の動きが極度に凝縮されているため
観る側の解釈による補足がどうしても必要になる。
例えば、関係という補助線を引きつつ
二人の言葉を糸口に、経過を注視していくと
順と拓実との間で「本当の言葉」が交わされ、連鎖的に
二人の心に劇的な変化が生じてゆく過程が見えてくる。


まず、順から拓実へ。

無残な廃墟と化したホテルの部屋は
順の心の内部を象徴するものだろう。
童話風なステンドグラスの窓は、はじめは薄暗く
対話が進行するにつれて、徐々に明るい光が差し込んでくる。
宗教的な空間を想起させるこの場所で
彼女の魂の再生が行われることを暗示している。

絶望に駆られ、すべてを呪詛する順に
拓実は、「本当の言葉」を聞かせてくれ、とせまる。
順が怒りに任せて叩きつけた罵倒の言葉は
確かに「本当の言葉」だったかも知れないが
あっという間に種切れになった。
物語の少女とは違い、現実の彼女は
言葉で誰かを傷つけたことは一度もなかったからだ。

自分のおしゃべりが原因で家族が崩壊したという
あまりにも不幸な体験が再現しないよう
痛みを伴う強烈な自己暗示をかけて言葉を封印した。
その際、誰かを傷つけてしまうから、という
単純化した論理を用いて自分を戒めてきたのだろう。

その順を「傷つける言葉」へ誘導することで
意図せずして拓実が行ったことは
対話によって患者をトラウマの根源に導いていく
精神分析の治療法を想起させるものだ。
ただし、治癒は一方的なものではなく、相互的に進行する。
先に変化が生じたのは、拓実の方だった。


拓実から順へ。

順は、拓実の名前を繰り返して三度、呼んだ。
その時、思いがけず拓実の目から涙がこぼれ落ちた。
この呼びかけが、彼の心の一番奥深くにまで届いたのは
それが順の「本当の言葉」だったからだろう。

彼が順に打ち明けたのは、心に澱んだ虚しさだった。
自分には誰かに伝えたいことが失われてしまっている。
伝えたいことがない、という空虚感は
裏返せば、他者との関係の希薄さを意味している。
つまり、彼もまた順と同じように
心の殻に閉じこもってしまっていた。

伝えたいことで満ちあふれる順の心の躍動に触れ
何より、関係を諦めない順を通して
自分が渇望していたものを知ることができた。
本当の言葉を伝えることとは、言葉を介して相手を受け入れ
自らも相手に受け入れられようとする、関係への願いである。

いま、それが実現していた。
猛烈な勢いで罵倒されてもうれしかった。
名前を呼ばれた時には
空虚だった自分の存在が満たされる気がした。
そして彼の中に、伝えるべき本当の言葉が生まれた。
お前に会えてよかった、という感謝。
これが、ようやく拓実が伝えられた「本当の言葉」だった。


ふたたび、順から拓実へ。

拓実のストレートな心情の吐露が
すべての原点にまで遡って、順の中の固定観念を
転倒させることに成功する。

私のおかげ? 私のせいじゃなくて?

この時、順のトラウマの原因が、父親の言い放った
「お前のせいだ」という言葉だったことが明らかになり
自らにかけてきた、卵の呪縛から解き放たれる。
殻が破れた瞬間に見えてきたものはやはり
これまで育んできた仲間たちとの関係だった。
だから、彼女の中に感謝と後悔が自然に湧いてくる。
「みんな」が待っている場所へ行く。その決意とともに
物語は一気にフィナーレへと加速する。

その前にあと一つ、伝えなければならない
「本当の言葉」が順には残されていた。
それを伝え終えたあとの表情には、傷心よりもむしろ
自分に対して一つの決着をつけられた清々しさが勝っていて
順が生まれ変わったことを強く印象づける。
失恋は終わりではなく始まりとなった。
彼女は新しい世界へ踏み出していく。



フィナーレでは「言葉」は前景から退き
代わって「歌」が、順が踏み出した新しい「世界」の
メッセージを高らかに歌い上げる。

ここに、雀犬氏のレビューから一文を引用させて頂こう。

「この映画で最後に見せたかったものは
 自分の殻を破り外の世界に飛び出した成瀬順に対する
「新しい世界からの祝福」だと思われる。」

これは、ラストの田崎の告白に関してのご指摘だが
この卓見はフィナーレの全体にまで敷衍することができる。


思い返せば、ミュージカルの発端にあったものは
順がケータイで紡いだ物語と、拓実のピアノとの二つ。
そのいずれもが、閉ざされた内部に封印されてきた想いを
外の世界へ向けて解き放とうとするものだった。
それが周囲の多種多様な心を取り込んで、膨れ上がり
一つの作品にまで結晶する。

ラストの全員合唱のシーンにオーバーラップする
日常の片隅の、さりげない情景の数々。
日々繰り返される、何気ない
そしてかけがえのない「日常」の愛おしさ。
彼らの過ごしてきた日々が集約されている
誰もいない教室を写した一カットにはいつも胸を打たれる。

明らかにここには、「世界」の意味するものが
具体的なイメージとして重ねられている。それは
一人一人の内面の「小さな世界」を包みながら
同心円状に、クラス、学園、地域へと広がっていく
コミュニティと呼ばれる、古くて新しい私たちの「世界」だ。

集団のエネルギーの総和である、ミュージカル。
無数の関係の集積として成立する、コミュニティ。
アナロジーで結ばれたその二つの場が向かい合い
同一の空間を形成するのが、この作品のクライマックスである。
そして、物語の最大の焦点であった順と母の和解は
二人がそれぞれ、一方の場所からお互いを見出し
言葉を介さずに理解しあうという、象徴的な描き方がなされている。

個々人の葛藤が、共同性の中に止揚されるこの図式は
祝祭というものの本質的な機能に即している。したがってそれは
個と集団との対立のない、調和的な世界であって
甘さとして指摘できる部分だが、こうした批評的な掘り下げは
本作にはあまり似つかわしくないようにも思う。
「あの花」とは異なる、これがこの作品の独自性なのである。

青春のリアルな感触を伴った本作の魅力は
逆説的だが、一種のユートピア性にあるのではないだろうか。
同じ印象をかつて自分は、「耳をすませば」から受けた。
私たちの日常と隣り合った、いわば親密なユートピア。
アニメーションはこれを志向し、私たちもそれを憧憬する。
アニメがもたらす幸福感の源の一つが、確かにここにはある。
{/netabare}



言葉は誰かを傷つける。

そのことにまた傷つき、立ち止まり、それでもなお
「本当の言葉」を交わしあいながら、彼らは前へ進んでいく。

危機に瀕した関係を回復する「謝罪」も
相手を肯定し、関係を深化させる「感謝」も
新たな関係への願いである「告白」も
彼らの言葉は、ありったけの真情をこめた叫びのように
未知の可能性に向かって発せられる。

だから、青春の言葉はいつでも
「始まりの言葉」なのだ。


(初投稿 : 2020/08/02)

投稿 : 2025/02/01
♥ : 23
ネタバレ

ぽ~か~ふぇいす さんの感想・評価

★★★★★ 4.8

音楽を題材にしたアニメにはずれ無し!

初日舞台挨拶付上映を観てきました
それほど期待していなかったのですが
素晴らしい映画でした!

あの花スタッフが贈るなんたらかんたら~
みたいな宣伝をひたすら続けていたので
あの花がそこまで好きになれなかった身としては
「あの花スタッフが贈る」はキャッチコピーとしてむしろマイナス

『あの花』は後頭部を鈍器で殴って「ほら、目から涙が出ただろう?」みたいなやり方をしていた
というのはつい先日のインタビューで長井監督自身の発言ですが
まさに言い得て妙だと思いました

あの花は{netabare}1話がピークだったというか
女装のあたりで物語から振り落とされて
それ以降登場人物にほとんど感情移入できずに
テンションはどんどん下がっていって
最後は醒めきったまま作業的に消化
そして興奮して盛り上がっている方々に
「これで泣けない奴は人間として終わってる」とまで言われ
疎外感をたっぷり感じながら
遠巻きに眺めている感じでした{/netabare}

しかしこの映画は自ら鈍器で殴られに劇場に来ていた人たちには
若干火力が足りなかったかもしれません
4人の主人公たちがそれぞれに抱える悩みを
じっくり掘り下げて書いているので
青春映画特有の古傷をチクチクと針でつつかれるような痛みなら
ぎっしりと詰まっているのですが
こういう青春映画の良さって
現役バリバリで青春真っただ中の人には
あんまりピンとこないかもしれません

そもそも4人の抱えている問題は
{netabare}過去に起こしてしまった取り返しがつかない過ちに起因します
田崎の問題だけは他の部員との軋轢という意味では現在進行形ですが
怪我で大会を棒に振るという変えられない過去に端を発している点では彼も同じようなもの
年月がたっていなかった分最も早くそれと向き合うことができたともいえましょう
他の3人は古傷が心の中にしこりになって残っていたものを
すこしずつ吐き出して前に進んでいく物語なわけです
そうなるとどうしても古傷をたくさん抱えている大人の方が
こういった作品と向き合った時に
心の奥底まで物語が浸透しやすいんじゃないでしょうか{/netabare}

私が作中で一番印象に残ったシーンは
{netabare}廃墟で二人が対峙するシーン
あのシーンの拓実は本当に格好良かったですね
ミュージカルと平行して進む会話の中で
順の告白はきっぱり断りつつ絶望の淵から救い出す
その二つはなかなか両立できたもんじゃないですよ

それまでの拓実がしていたように
相手を傷つけない言葉だけを選んで会話するのは
一切の会話ができない順に比べて生活に支障が少ないだけで
本質的なところはたいして変わりません
たしかに言葉は人を傷つける
でも言葉は人を傷つけるだけではない
逆に言葉にしないことが人を傷つけることもある
たとえ相手を傷つけることになったとしても
自分の本当の気持ちを相手にぶつける勇気
その覚悟と誠意のこもった言葉が
順の殻を破り刺さったのでしょうね

そこからラストまでのヒロインダブルキャストのミュージカルがはじまり
悲愴のメロディにのった「心が叫びだす」と
OverTheRainbowを基調とした「あなたの名前叫ぶよ」のクロス・メロディまで
本当に完璧な仕上がりでした{/netabare}

物語を満点からわずかに減点したのは
最後のシーンがあまりに唐突過ぎたからです
あの締め方自体は決して嫌いじゃないというか
すごく良い終り方だと思いますが
ちょっとそこまでの描写が足りていませんでした

{netabare}思い返してみれば
最初は順のことを小馬鹿にしていた田崎が
徐々に順のことをリスペクトしていく描写は
ところどころに有ったのは分かります
たしかにそういう伏線めいたものは感じられましたが
それ以上に初期に仁藤に言い寄る田崎の印象が強くて
それが消えていくような描写が見当たらなかったのが問題かな
穿った見方をすれば、坂上たちが付き合い始めて脈なしになったから
代用品として順を選んだようにも見えてしまいます
そしてその節操の無さが妻子持ちながらお城に通う順の父とかぶるというか・・・

ここからは憶測ですが
たぶんこれは演出家の考えが足りないわけではありません
むしろそこでサプライズを起こしたいから
敢えてミスリードを残し、そこに繋がる描写を最小限にしてあるのです
どうしてそう思うのか?簡単なことです

それがマリーの常套手段だから

全体のバランスとか細かい整合性よりも
唐突に吹き出す感情のインパクトを重視するのが彼女の流儀
それがぴたりと噛み合うと傑作が生まれるわけですが
空回りしていることのほうがずっと多い印象
だから私は彼女の実力はある程度評価していますけど
はっきり言ってあんまり好きな脚本家じゃないですね
今回みたいな完全オリジナルならまだ許せるけど
続編ものとか原作付とか他の人が積み上げてきた土俵で
何もかもぶち壊すのは本当にヤメテ!{/netabare}

音楽に関してはミュージカルが題材なだけに
当然かなり力が入っています

ミュージカル部分の担当はクラムボンのミト
ショウバイロッカーにとってはラボムンクのミトミトンですねw
日本人になじみの深いミュージカル曲を選出し
それを劇中劇としてまとめ上げました

もう一人の劇伴作家は横山克
最近だと君嘘の音楽を担当されていた方で
私はあれでファンになったのですが
今回の作品でも物語をカラフルに彩る
心地よい音楽に仕上がっています

この二人の仕事は非の打ち所がありません
それでも音楽に満点をつけられなかったのは
エンディングの存在が原因

のぎさかなんとかはあんまりよく知らないので何とも言えませんが
秋元康って日本を代表するヒットメーカーなんですよね?
詩の内容は多少映画の内容を意識してはいるんですが
むしろそれが却ってマイナスです
それまでスクリーンに映し出されていた濃厚な人間ドラマと
そこに内容をがっちりリンクさせたミュージカル
それらすべてを引き継いで締めるにはあまりにも薄っぺらく
取ってつけたような物語とのリンクは蛇足の一言に尽きます
これならばまだ方向性を変えて
真っ向勝負を避けたほうまだマシだったでしょう

例えるならリレー競技で
全員一丸となって必死に走ってきたのに
トップでバトンを受けたアンカーが
余裕こいて軽く流してたら
なんか最後抜かちゃいれました
みたいなものすごい興醒め感です

声優に関しては全く文句ありませんでした
特に水瀬さんの声にならないうめき声と
はまり役すぎるほどの内山君が素晴らしかった
それから順の母親役の吉田羊さん
話題作りのためにTVや映画で活躍する有名人をキャスティングして
散々な出来だった作品をいくつも観てきました
乃木坂同様不協和音にならなければいいと心配していましたが
こちらは全くの杞憂に終わりました
やはり一流の女優さんは声だけの演技であっても
その実力がはっきり見て取れるものなんですね

作画も全体的にすごく良かったと思います
特に言葉を発することができない順の心情を
水瀬さんのうめき声とともに見事に表現していた表情芸は素晴らしかったし
途中の携帯を使ったLineっぽい演出も面白かったです

ついでに言っておくとこのアニメも西武線アニメなので
西武線の電車がちょいちょい出てくるのは想定内だったのですが
なんと今回は西武バスも出てきます!
地元民以外からすればなんのこっちゃ?って話なんですが
毎日家のすぐ前を通ってるのと同系のバスが出てくると
なんか無意味にテンションあがりますねw

音楽を題材にしたアニメ作品で
過去のトラウマを乗り越えて成長していく青春群像劇
A-1Pictuers制作でプロデューサーはアニプレ斉藤P
劇伴には横山克、要所で流れるベートーベン
そしてやけに主張の激しい小道具として使われる西武線(笑)
水瀬いのりも瀬戸小春役ででてましたし
このアニメ実はかなり君嘘と共通項が多いです
ひょっとするとあの花ファンだけじゃなくて
君嘘ファンにもおすすめしていい作品かもしれません

全体としてはかなりレベルの高いところでまとまっていたと思います
時間を見つけてもう一回見に行きたいですね

おまけ

舞台挨拶でキャストの方々が
是非サントラを買って帰ってください!
何て言うもんだから買って帰ろうとしたら売り切れ・・・
まぁそりゃあんな風に言われりゃみんな買おうとするし
私らの回は挨拶付上映2回目だから1回目の客が買って帰って終わりだわな

仕方なく家に帰ってから通販で購入したのですが
アニプレの通販特典でセルフライナーノーツがついてきました
映画パンフにあったミトさんの話をさらに膨らませた感じの内容で
版権の問題で没になった曲なども含む
ミュージカル選曲案(第一稿)もついてました
これは、会場で買わないで通販にして良かったかもしれないw

投稿 : 2025/02/01
♥ : 37
ネタバレ

takarock さんの感想・評価

★★★★☆ 3.8

Shout at the Devil

あれは確か私が中学2年の時、
放課後にクラス全員で校内行事の合唱コンクールの練習をしていた時の話だ。
やる気もあまり感じられず、どことなく気怠い空気が蔓延していた。
そんな中、ある女子生徒の一声が教室中に響き渡った。
「みんな、もっとちゃんとやろうよ!! コンクールまでもう時間ないんだよ!!
私はこのクラスのみんなと一緒に精一杯やりたいよ!!」
女子生徒はその場で泣き崩れてしまう。
それを目の当たりにした野球部の男子生徒が
「そうだよ!みんなもっと声出るだろ!!本気でやろうぜ!!」と
女子生徒の訴えに呼応するように叫びだした。
その後クラス中で嗚咽をもらすという空気になっていったわけだが、
そんな中、私は
「おいおい、こいつら青春ドラマの見過ぎだろ・・何の茶番劇だよ・・」と
一人その場を冷静に観察していたというまさに外道!!w(リアル中二病とも言う)
そんな私が「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」(あの花)
を観て感動などできるはずもなく、
クライマックスシーンは、はっきり言ってドン引きしていました。
ええ、そうです。私はそういう人なんです!!

本作は「あの花」のメインスタッフが再び集結して作られた作品です。
そうと分かっていながら何故視聴した?という話なんですけど、
評判も上々でしたし、
制作側も「あの花はちょっと露骨過ぎた」的なことを発信していたようなので、
それならばと思って視聴してみました。

では、ここからはネタバレありで本作を語っていきます。


{netabare}まず、結論から言うと、
王道の学園青春アニメ(映画)としての出来はかなりよかったと思います。
「あの花」よりもこちらの方が断然好みでしたし、
感動して泣いてしまったというのもよく分かります。
私もぐっときたシーンはいくつもありました。

けど・・・けれどもなんですよ!
まぁそれは一先ず置いておきましょう。

幼年期あれだけおしゃべりだった主人公成瀬順が、
高校生になるとろくに声も発しず、携帯等の文字のやり取りしかできないような状態に・・
そこまで変わるものなのかとも一瞬思いましたが、
そうなるには充分な説得力(トラウマ)があったと思います。

成瀬順から言葉を奪ったのが「玉子(の妖精)」なら、
再び声を取り戻すきっかけとなるのが「王子」。
「玉子」と「王子」・・・似て非なるもの、表裏一体、アンビバレントな、
というのは意識して作られていたのかもしれませんね。
言葉というのは毒にも薬にもなり得るものですし、
「せい」でなく「おかげ」なんてことも本作中で語られていましたしね。
本作のミュージカル中には、
マッシュアップ(2つ以上の曲から片方はボーカルトラック、もう片方は伴奏トラックを取り出して
それらをもともとあった曲のようにミックスし重ねて一つにした音楽の手法)
が取り上げられていましたけど、これもそこら辺に掛かっているのかな?
まぁ小難しい考察は他の方に任せますw
あとは、ベタだけど玉子の殻を破ってとか、玉子を様々なメタファーとして用いていましたね。

まぁ、とどのつまり本作は、主人公成瀬順が再び声を取り戻す再生の物語なんですけど、
普段接点のない者達が集まって、一つの目標に向かっていくというのは、
やっぱりキュンキュンときめいてしまいますねw
その距離感と緊張感の演出は本当に素晴らしかったと思います。

はい、ではここからは、けど・・・けれどもの部分の話をしますよ。

声を失った少女、そしてミュージカルと
私は本作の中盤くらいからクライマックスシーンをある程度もう想定していました。
それはどんなものかというと、ミュージカルの劇中、
成瀬順の母親も見ている中で成瀬順が唐突に叫び出すんです。
そう、それこそ私の中二時代の合唱コンクールの練習時のあの女子生徒のように。
舞台裏のクラスメイトが「ねぇ、こんな台詞あったっけ?」なんて狼狽する中で、
少女はこれまで溜めに溜めてきた鬱屈した心情を魂の咆哮によって吐き出すのです。
「私が言葉を発してしまったせいで多くの人を不幸にしてしまったから・・・
だから・・・私は自分なんて存在しない方がいいって思っていたけど・・・
けれども私は、私はここにいる!ここにいるよ!!」
そして、拓実を一瞥した後に、
「あなたが、あなたが教えてくれた!想いは声にしないと伝わらないって!
あなたは私の王子様じゃないかもしれないけど・・・
けど・・それでも私はあなたが好き!!」
こんな展開なら私はおそらく号泣してましたw

ベタだけど、こっちは泣く準備ができていたからそういうのを期待していたのに、
それなのに・・・なんだあれ?
すべての始まりである今は潰れたお城(ラブホ)という舞台にあまり文句はないですけど、
(まったくないわけではない)
脇が臭いだの、ピアノが弾けるからってモテると思うなよとか、
それとあの女も同罪だ!ああいうのが一番たちが悪い!とかさぁ・・
マリーさん脚本得意の女子特有のドロドロの本音ってやつなのでしょうか?
その後の拓実への告白シーンはよかったですけど、
その告白の前の生々しい心の叫びというのは絶対必要なんですよ。
自分のおしゃべりによって家庭を壊してしまった後悔、これまで抑圧してきた感情、辛い想い、
成瀬順にはもっともっと叫ぶことがあるだろ。
それなのに、成瀬順の心の叫びを、
恋の嫉妬からくる罵詈雑言に矮小化してしまっているような・・
あれがしゃべれなくなってしまう程のトラウマを抱えた成瀬順の本当の魂の咆哮なのか?
とかなりの物足りなさを感じました。
それに、拓実のリアクション。「うん、、うん、、、」
とひたすら頷いている(成瀬順を肯定している)のにも「なんだかなー」という気持ちに。
これまでは成瀬順が言葉を発することによって不幸が訪れる、
つまり、人間関係が壊れてしまい、成瀬順は否定されてしまっていた訳ですけど、
拓実はひたすら肯定してくれます。そういう対比の場面だと思いますが、
でも、拓実もかなり複雑な家庭環境でしたよね?
だったら、「自分ばかりが特別だと思い込んでるんじゃねーよ!」くらい言って欲しかった。
お互いが本音を言い合い、それでもその関係は壊れない(肯定される)。
それが成瀬順の救いとなり、過去のトラウマからの解放、本当に声を取り戻す。
その流れで告白っていうのを期待していたんですけどね。
これは本作を視聴中に常に頭の中によぎっていたことなんですけど、
皆が皆、成瀬順を甘やかせ過ぎのように思えました。
劇中のキャラってことだけじゃなく、そもそもシナリオレベルでね。
最後の田崎が成瀬順に告白って場面でもそれは思いましたよ。
これは救済的な措置かな?なんてね。
ご都合主義とかじゃなく、やっぱり甘やかせ過ぎっていうのがしっくりくるかな。

私としては、ミュージカルの本番前にトラウマの発端となった舞台(ラブホ)で
拓実とのやり取りがあり、
ここでのやり取りは劇中のような罵詈雑言をぶつける、いや、ぶつけ合ってほしかったですけど、
とにかく、そこで成瀬順は声を取り戻す。
そして、ミュージカル本番に見に来ている母親の前で、拓実の前で、
成瀬順が本当に叫びたがってることを、熱い魂の咆哮をって展開の方がよかったかなと。
ミュージカルの劇と成瀬順と拓実のやり取りをリンクさせる見せ方は上手いとは思いますけど、
流れとしてね。

若かりし頃というのは、満たされないことが多いでしょう。
私も年中欲求不満で、エネルギーを持て余していましたw
私の場合、カラオケで発散していたんですけど、
2~3人で行って、ほぼ毎日6時間超えは当たり前、パンツ一丁で浴びるように酒を飲み、
ひたすら叫びまくるという、まさにクレイジーそのものw
でもそうでもしなきゃさ、
自分だけが不幸なんじゃないかって、他人が羨ましくてしょうがないって、
いろいろやってらんねーぜ!って心境だったんですw
今思えば己の卑屈さや器の小ささに忸怩たる思いを禁じ得ないのですが、
でも、成瀬順よ、お前は違うんだろ? 
あの程度の心の叫びなら、それこそカラオケでも行って発散すればいい。
ただ、そんなものは俺の心には響かない。
心が叫びたがってるんだったら、もっと本気でかかってこいやぁぁぁ!!!{/netabare}

投稿 : 2025/02/01
♥ : 54

65.8 5 恋愛でオリジナルアニメーションなアニメランキング5位
あした世界が終わるとしても(アニメ映画)

2019年1月25日
★★★★☆ 3.4 (90)
359人が棚に入れました
幼いころに母を亡くして以来、心を閉ざしがちな真。彼をずっと見守ってきた、幼なじみの琴莉。高校三年の今、ようやく一歩を踏み出そうとしたふたりの前に突然、もうひとつの日本から、もうひとりの「僕」が現れる――。

声優・キャラクター
梶裕貴、内田真礼、中島ヨシキ、千本木彩花、悠木碧、水瀬いのり
ネタバレ

nyaro さんの感想・評価

★★☆☆☆ 2.0

設定の為の設定、お話の為のお話で中身が無いうえにCGかあ

 SFはサイエンスを意識しすぎると発想が委縮してしまうので、ファンタジーや荒唐無稽な設定であっても、物語に理屈と整合性がありできればテーマ、驚き、センスなど何を描きたいのかが明確なら立派なSFだと思っています。タイムリープとか超能力がいい例です。

 本作の設定部分ですね。 {netabare}設定自体は鏡面世界のようなイメージで昔は太陽系の裏を回るもう1つの地球があって自分とそっくりな人間が…みたいな感じの作品があったと思います。それはいいでしょう。

 ただ、命のリンクですね。「二ノ国」なの?とまず嫌な予感がします。しかも一つの国は荒廃した内戦状態でここも似てますね。で片方で死んだらもう片方も死んで、それが突然死って…突然死がそんな理由で起こって世界が成立するわけないです。
 ある日突然突然死が認知されるのも変だし、そもそも死因のトップが突然死になるはずです。だって、片方の国のあらゆる死が全部こっちの世界の突然死になるんだから。

 これでは作中の地球の状況が現実の我々の世界から地続きじゃなくなってしまいます。これはSFの味わいとしていただけませんん。何よりもこれは設定から発生する「現象」であってここが荒唐無稽ではいけません。ここを考えるのがサイエンスフィクションです。

 で、実は戻す方法があるんだと言葉だけで説明されたり、敵キャラがわざわざ弱点を作ってくれたり。そもそも敵の動機も目標も非常にあいまいなので、その戦いそのものにまったく感情移入できません。で、話はやっぱり「二ノ国」そのものでしたね。どうしてあの作品の模倣をするかなあ?しかもドラマ的にはもっと薄いというか… {/netabare}

 しかも、この設定に基づくドラマに内容がないうえに、ロボット科学が並行して発達しています。この理屈が世界観の設定から導かれないといけません。本作はバトルを見せたかったからくっつけた設定でしかないです。

 じゃあ、ヒューマンドラマとしての恋愛に乗っかれるのか、という話です。いやお前らもう付き合っちゃえよ状態から始まります。デートして上手くいくかもと思ったら…ですね。いや、それは説明じゃん。はじめの30秒で見せてよ…いや、初めからそれでスタートすればいいじゃん、というレベルのドラマという名の茶番です。この恋愛劇の薄さは「永遠の831」というもう一つの類似例を思い出したりしました。

 CGですね。技術的には悪くない水準なのですが、SF、バトル表現としてはともかく、ヒューマンドラマをやらせるにはちょっと厳しいですね。中途半端にレベルが高いだけに帰って不快感に繋がっている気もします。CGならではの魅力が感じられません。

 ということで、設定と大きなストーリーは「二ノ国」でラブストーリーの部分は「永遠の831」という感じの作品です。設定の為の設定、お話の為のお話、CGの為のCGで中身は…ほぼゼロです。
 正直、なぜこういうのが作られのか不思議になるレベルで、私の主観的印象は「駄作」でした。

投稿 : 2025/02/01
♥ : 3

ホロムギ さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0

注意!これはSFバトルアニメです。

調べたところ、本作はHuluオリジナルアニメ『ソウタイセカイ』をベースにして、世界観とその延長線上で起こるドラマだそうです。
主要人物などが同じらしいですが、続編というわけではなく、『あした世界が終るとしても』だけで完結しています。キャラの関係性が変わっていたりするようですが、大まかな内容は似ているようです。
本作だけ見ても問題はありません。



ではレビューです☆
青春ラブストーリーだと思って見始めました。

私みたいな人のために公式ページイントロダクションから一部抜粋。

【幼いころに母を亡くして以来、心を閉ざしがちな真。彼をずっと見守ってきた、幼なじみの琴莉。高校三年の今、ようやく一歩を踏み出そうとしたふたりの前に突然、もうひとつの日本から、もうひとりの「僕」が現れる――。】

前情報を一切知ることなく見始めて、始まった3Dアニメーション。
3Dのラブストーリーに感情移入できるかなと不安でしたが、そんな不安は必要がないことがすぐにわかります。
突然襲われる主人公。ぬるぬると動く戦闘シーン。
思ってたのと違うなーと感じましたが、バトルものなら3Dでもいいかと気持ちを切り替えました。勝手に勘違いした私が悪い。これはSFバトルアニメなんだ。

今調べたところ、モーションキャプチャーを用いて普通の手書きアニメなら動かないような髪や服、視線など細やかな動きが描かれているそうです。
この繊細な動きは慣れておらず、違和感を感じる方も多いと思いますので好みは別れそうですね。
アフレコでも息遣いやリアクションを多く入れているそうなのですが、個人的には日常パートにそこまでの繊細さは必要ないかなーと思います。どちらかといえば私も違和感を感じるほうなのかもしれませんね。
10年先にはこれが普通になってきている気もします。

3Dで描くバトルシーンは非常に綺麗だと感じました。
そんな戦闘シーンはキャラがアップで描かれることが多いように感じました。キャラが3Dでアップのため、迫力があるかと聞かれれば首をひねります。しかし、手書きアニメなら、火花や斬撃で手元まで描かれないようなところも、本作では指先までしっかり描かれており、キャラの息遣いが強く感じられるのです。


キャラはレムがとても可愛く・・・
間違えました。ミコです!声優が同じで、キャラのデザイン、雰囲気、双子、と共通点が多く、人気アニメを思い出すこと必至ではありますが、レムではなくミコです!
最初のころの服装が可愛かったと思います。
最後の方、なぜ着替えさせたのだパパさん!!!


物語は。。。
まぁ、近未来SFバトルです。
ちょっとぶっ飛んでるし、よくわからないところも多いですが、目をつぶって下さい。このアニメはキャラ重視です!!
最後のオチはちょっと納得がいきませんでした。



総評。
これは3Dキャラアニメだから!物語は二の次だから!
オチとか考えるな!ご都合主義で構わないじゃないか!
まぁそんな感じです。

投稿 : 2025/02/01
♥ : 4

雀犬 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.5

世界と中二病は終わらない

2019年1月公開のアニメ映画。
Huluで公開された『ソウタイセカイ』という作品を
ブラッシュアップして劇場アニメにしたもの。

本作はスマートCGアニメーションで制作されているのだけど、
要はフジ系列の+Ultra枠の「revisions」「INGRESS」とルックは同じ。
制作・監督は「INGRESS」と同じで
「revisions」を観ているとこの映画のCMが流れてくる。
3Dは動きの速いシーンは綺麗なんだけど、
そうではない場面ではフワついた動きが気になるんだよね。
まぁ発展中の技術ということで仕方ないのかな。

で、映画の内容ですが、公式サイトにはあまり説明はなく
2つの日本を舞台にしたアクション・ラブストーリーとしか書いてなくて
「こういう内容だとは思わなかった!」という意外性が楽しい作品だろうから
ちょっと書きづらいんだよな。

まぁ、はっきり言ってしまうとB級パニック映画の類です。
幼なじみの高校生男女の日常をニマニマ眺めるシーンから始まり、
微妙に不穏な空気を感じつつ、いい雰囲気の場面で超展開が起こり、
古谷徹のナレーションで「ここで解説しよう!」とばかりに
中二病全開の世界観説明が行われる。
この時点で多くの人が「この映画はヤべエ!」と感じるであろう。

そこからは、中学生の黒歴史ノートを
そのままCGアニメーションにしたような怒涛の展開となる。

特にラストは「THE適当」という感じで、ある意味面白い。
作品タイトルをど~んとスクリーンに大写しにして
スタッフロールが流れれば、
どう解決したのか全然説明がなくても終わりなのだから仕方ないな。
投げ槍な終わり方に反して
あいみょんの主題歌が普通にいい曲なのがジワジワくる。

と、ここまでディスっておいてなんだけど
B級映画は好物だからそれほど不満はないです。
終始半笑いで楽しく観させていただきました。
水瀬いのりさんが双子の妹キャラで好演していたので
彼女のファン(特にReゼロのレム好き)は観に行く価値があるかも。

でも感動の青春ストーリーなんかを期待していた方は
「俺はあいみょんの曲を聴くために、
1800円払って劇場に来たんじゃねえゾ!」
と怒りに肩を震わせて映画館を出ることになったかもしれない。

それにしても、
20年以上たってまだ新世紀エヴァンゲリオンのオマージュをやってる
アニメ業界は大丈夫かぁ?

投稿 : 2025/02/01
♥ : 25

70.3 6 恋愛でオリジナルアニメーションなアニメランキング6位
ANEMONE / 交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション(アニメ映画)

2018年11月10日
★★★★☆ 3.8 (86)
433人が棚に入れました
まだ幼かったあの日。
父はアネモネを残して戦いに赴き、そして帰ってこなかった。
アネモネの小さな胸に深く残る後悔。彼女の心を支えたのは、ぬいぐるみのガリバーとAIコンシェルジュ・ドミニキッズ。
7年が経過し、アネモネは父が散った戦場――東京にいた。
アネモネは実験部隊アシッドが実行する作戦の要として、人類の敵「7番目のエウレカ=エウレカセブン」と戦わなくてはならないのだ。
エウレカセブンにより追い詰められた人類は、もはやアネモネに希望を託すしかなかった。
そしてアネモネは、エウレカセブンの内部へとダイブする――。

声優・キャラクター
小清水亜美、名塚佳織、三瓶由布子、山崎樹範、沢海陽子、山口由里子、銀河万丈、三木眞一郎、内田夕夜、辻谷耕史、玉野るな
ネタバレ

TAKARU1996 さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

少女の夢の終わり、迷える子羊が見た光

この歳になると、作品を見て驚くと言う事が中々出来なくなってきます。
これまで観た、読んだ、聴いた、体感したモノに左右されて、日常生活の中で「驚き」を感じると言う事は滅法少なくなってきました。
そんな退屈な日々を終始送っている私ですが……


久しぶりに映画館で仰天致しました。


この映画、端的に言って「凄い」です。
凄いとしか言いようがありません。
「観客を圧倒させる新しい物語を作ってやる!!」と言う製作側の熱意が一身に感じられます。
『交響詩篇エウレカセブン』と言うシリーズ自体、過去作のシーンを取り入れてはいても、決してそれ頼みにはしていなかった。
そんな事実を今回、『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』を観て実感した次第でした。
人気だったシーンの二番煎じ
再構成でお茶を濁す、はたまた劣化になるアニメもとにかく多い。
昨今、決して否定出来ない事実と言えましょう。
しかし、本作にはそれらが全くありません。
特に、世間的に上記のような存在と思われていた前作『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』に、ここまで新しき意図が隠されていた事を知れたのが、私としてはとにかく嬉しかったのです。

取り敢えず、観ていない方は今すぐ映画館に行った方が良い。
過去作品を観て来た人程、生じる「衝撃」が本作にはあります。
私はこれまでの作品「ほぼ」好き(例外が1つだけありますが、ここで話す内容ではありませんね)
と断言出来る程の「全肯定信者」ですが、過去作品を観て来た人程「衝撃」があるのですよ、本作は。
特に、過去作で何かしら不満に思うモノがあった方には、その見方がかなり変わる内容でしょう。
もしかすると、そういった方は本作でかなり救われるかもしれません。
何かしら「エウレカセブン」に触れてきた人には、是非とも観て欲しい映画だと強く感じました。


まだご覧になっていない方への忠言

私は前作も楽しんで観る事の出来た人間ですが、『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』は『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』が期待外れだった人程、楽しめる作品です。
前作はPLAY BACK/FORWARDを駆使した、初見の方には決して観やすくない構成でしたが、実を言うと、あれには明確な意図があります。
あそこまで複雑に前後した意味、『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』を観ると解るでしょう。


『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』は世界観をこれまでとガラッと変えてきました。
スカブコーラルの世界におけるボーイミーツガールを期待していた人からしたら、東京における脅威との戦いは肩透かしも良い所でしょう。
しかし実を言うと、それにも意図があります。
敢えて世界観を全く違うものとした意味、『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』を観ると解るでしょう。

③『交響詩篇エウレカセブン』はProject EUREKAとして、様々に物語を展開してきました。
アニメ、映画、漫画、小説等で語られた彼等の物語、中には自分の好みに合わないと感じた作品もある事でしょう。
安心して下さい、そんな不満を抱いていた方は軒並み救済されます。
『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』を観ると解るでしょう。


この映画を観る前には出来るだけ、本作以前の作品を体感しておいた方が宜しいかと思われます。
取り敢えず、本編『交響詩篇エウレカセブン』と劇場版『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』の視聴、そして漫画版『交響詩篇エウレカセブン』は予め読んでおくと、一部場面で悶死する程の衝撃を食らうでしょう。
しかし、必ず観なければいけないと言う訳ではありません。
本作だけでも十二分に満足できる出来でしょう。
あ、でも『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』は観ておいた方が良いです。


そして最後に、観終わった際は何故本作が『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』なのか?
何故『ハイエボリューション2』ではないのか?
ちょっと頭の隅に考えておく事を推奨します。





ここからは、まだ観ていない方は絶対読まないで下さい。
致命的なネタバレがあり、本作における「衝撃」を劇場で体感したい人は、この先を読まない事を強くオススメします。





いいですか?





では、更に数行空けてからカスタムタグ込みで語ると致します。





{netabare}
-----------------------------------------
…わたしは
わたしはあなたのいるこの世界を守りたかった
あなたがいなくなった世界に何の意味があるの?

『交響詩篇エウレカセブン ニュー・オーダー』エウレカの台詞より抜粋
-----------------------------------------
はい、正しくその通りでした。
彼女は、彼のいなくなった世界に意味を見出せていませんでした。
生きる事に意味を感じられなくなった彼女は、彼を取り戻す事だけに意味を求め続けました。
何度も、何度も、PLAY BACK/FORWARDを繰り返して……

大好きな人が生きている世界を夢の中で構築し続け、その度に何度も彼は死んでいきました。
TV版、漫画版、小説版、ゲーム版、劇場版『ポケットが虹でいっぱい』、続編『エウレカセブンAO』、新劇場版『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』
生きている世界を生み出しても、絶対に彼女の前からいなくなってしまう絶望
結局、夢は夢でしかなかったのです。
どう足掻いても、彼は死んでいく。
どんなに頑張っても、彼は息絶える。
彼――レントンは死んでしまうのでした。


「物語」と言うモノは「視点」によって如何様にも変化を遂げるモノです。
藤子・F・不二雄先生の短編で「裏町裏通り名画館」と言う作品がございますが、アネモネと共にダイブしていく中で、私は自然とその内容を想起しておりました。
誰を主人公とするか?
誰からの視点で物語を紡ぐか?
「物語」とは言わば、無限に生み出す事の出来る創造物です。
その変化によって見方は変わるし、解釈も変わる。
本作『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』も、その事を強く伝えてきた作品でした。

今回の主人公は「アネモネ」
彼女の視点から物語が綴られています。
アネモネが「エウレカセブン」内に精神を送ると、見えてきたのは正しく過去作品の映像
襲ってくるニルヴァーシュを何度も、何度もやっつける彼女
襲われたコックピットからは何度も、何度も負けていく少女の姿が見えました。
そして、その度に、彼女は叫ぶのです。

「レントン!!!」

アネモネは疑問を抱きます。
レントンとは誰だろう?
どうしてあそこまで悲しく叫ぶんだろう?
そんなモヤモヤとした感情を尻目に、彼女は人類を救う為「エウレカセブン」の中へ何度もダイブし、ニルヴァーシュを殺し続けます。

結局、アネモネが観ていた映像と言うのは全て、エウレカが生み出した過去作品の「夢」に他ありません。
死んでしまったレントンを取り戻す為に、エウレカは何度も何度も夢を見て、過去を繰り返して、彼を救う事の出来る世界を探し続けていたのです。
しかし、どうあっても彼は救えない。


彼女――アネモネが邪魔をする。


だから、エウレカは恨みと悲しみの慟哭を繰り返すのでした。
TV版のアネモネのように。

いやはや、唖然とするしかないでしょう、これは。
エウレカとアネモネの立ち位置が『交響詩篇エウレカセブン』と一気に逆転している!?
観ていたこちらも驚愕の一途です。
まあ、正確に言えば『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』でも、彼女達はTV版と正反対のキャラクター構造でしたが、本作はそれを更に衝撃的に上乗せした展開となっています。
エウレカがあそこまで「アネモネ」になるのかと感じた際には、私の心は切なさで張り裂けそうになりました。
彼がいなくなってしまったから、彼女もこうなってしまった訳で。
しかし、そのせいで20億人以上の人間が死んでしまった訳で。
その中には、アネモネの父親「石井賢」も含まれている訳で。
彼女達が互いに相手へ恨みを抱くのも、当然の話と言うモノなのです。
誰も救われません。
皆が皆、可哀想

しかし、そこで本シリーズが最初から伝えてきた事を改めて打ち立てたのがやっぱり「エウレカセブン」だと切に感じます。
互いの想いを否定せず、手を取り合って温かい息吹を作り出すシーンがそこにありました。
今回は、アネモネの方がエウレカに寄り添う形で……
第2の「バレエ・メカニック」を、私は此処に見つけたのです。
-----------------------------------------
「生きていたい。気付かなきゃよかった、こんな気持ち」

「生きて良いんだよ。生きちゃいけないなんて誰も言ってないんだよ」

「だって苦しいの! あの人がどこにもいないの! そんなの、そんなの……」

「きっと伝わるよ!」

『交響詩篇エウレカセブン』第48話「バレエ・メカニック」一部シーンより抜粋
-----------------------------------------

はっきり申し上げるに、12年経ってここまで「冒険」をしているアニメ映画と言うのは、私も観た事がありません。
「TV版と同じようにすれば、視聴者のウケも良いだろうし、例え劣化といわれたって、同じような展開をなぞれば良いでしょ!!」
新作として出す作品は、上記のような妥協が見え隠れするのが本当に多い。
正直、フロンティア・スピリットを持っていないそんな作品には、うんざりする事ばかりの始末でした。
しかし、本作を作っているスタッフは違います。
決して同じ世界観や展開でお茶を濁さず、新しい「物語」を創り続けています。
『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』のPLAY BACK/FORWARDが死んでしまったレントンを取り戻す、エウレカの戦いの証明だったと言うのは思わず鳥肌が立ちました。
それは、決して「ハイエボリューション」と言う進化を無駄にしていない証拠でもあったから。
あれだけ酷評されていた前作を全く無駄にしていない「愛」
元を正せば、過去作品自体も全く無駄にしていない「愛」
そして、それらを踏まえた上で新しい『エウレカセブン』を見せてくれる「愛」
そう、本作もまたファンの間で賛否両論となる映画でしょうが、間違いなく「愛」に溢れた作品なのです。

新しき設定も増えています。
きちんと観なければ意味不明な展開も目白押し
何だこれは!?と憤慨する方もいらっしゃるかもしれません、好き過ぎる方は特に。
ある意味「夢」に固執し過ぎてしまう「夢追人」は絶対に楽しめない作品です。

しかし、そういった方はこれまで何を観て来たのかを、私は考えてみたくなります。
『交響詩篇エウレカセブン』を観て、一体何を学んだのかを問いかけたくなります。
あの作品で伝えられてきた事の1つには、変化に対する受容と肯定も含まれていた筈です。
エウレカは自らが変わっていく事に戸惑い、反発し、激昂し、落胆し、不安定になりながらも、最後には自分が変わった事を素直に喜ぶ事が出来ました。
アネモネもまた、自覚出来ていなかった変化に終盤で気が付き、自分の素直な気持ちを見つめ直して、結果として生まれた感情を自然に吐露出来ました。
彼女達は確かに変化を遂げましたが、しかしそれでも、その変移を肯定する事が出来たのです。

そして『エウレカセブン』の素晴らしい所は、例え変化を遂げていたとしても、根底自体はまるで変わっていないと言う事
エウレカだけを終始考え、想い、愛し続けたレントンのように、その根っこはまるで「変化」していないのです。
本作もまた、それが十二分に理解出来た産物でした。
エウレカの、レントンに対する真っ直ぐな愛
アネモネの、父親やドミニクに対する一途な感情
甘酸っぱい想いとか、恥ずかしくなる感情とか、悲しくなる気持ちとか、悔しくなる心とか、悶え殺してくる程の感動や興奮、葛藤や悲痛
TV版でずっと感じていた「思い」も、本作には容量充分に詰まっています。

「進化」とは、言ってしまえば「変化」の類語
新しき設定や世界観等、変化した概念もあるでしょう。
しかし、それを「進化」として、スタッフ達が紡ぎだす新しき物語として受け入れた先に、変化していない根底を見出す事が出来るのだと思います。
前作はレントンからエウレカへの熱き想い
本作はそれに対する返答とアネモネが齎した付加価値
変わっていないモノは確かに描かれています。
それを見出せるかどうかは等しく、貴方様の観方に懸かっていると言えましょう。

ただ、言ってしまえば本作はまだまだ「本番」じゃない。
全体の「幕間」に過ぎません。
『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』が続編の「2」を冠していないのは、これが「アネモネ」の物語であると同時に、ここで一気に「新世界」へ引きずり込む意図があったからでしょう。
だとしたら「進化」の続きは一体何処に辿り着くのか?
『ハイエボリューション1』の続編「One World One Future」か、それとは全く異なったエウレカの物語か?
どちらにしても「夢」を凌駕した最高の「現実」を、彼女には見せてあげて欲しい。
その為には、彼の存在が必須
『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』はレントンとエウレカが紡ぐ「2」番目の進化まで……
彼等と波に乗り続けようと思えた「進化過程」です。
{/netabare}





貴方にとって「エウレカセブン」とは何ですか?
何が備わっていれば、貴方の思う「エウレカセブン」になりますか?
回答を既に得ている私は、最後のエウレカが紡ぐ、最高の物語まで、彼等と波に乗り続けます。
取り敢えず今、スタッフの皆さんに言える一言

「愛と衝撃と、進化を与えてくれてありがとう」

レントンのように、最後まで思いっきり駆け抜けて下さい。
私も、最後まで思いっきり駆け抜けますから。

投稿 : 2025/02/01
♥ : 7

けみかけ さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

全シリーズ全作品全肯定!全シリーズ全作品全肯定!!全シリーズ全作品全肯定!!!

近未来の東京に突如として出現した未知の存在、七番目のエウレカ=エウレカセブン
強烈な毒素を放ち、謎の巨人ニルバーシュXで73の国と26億人を虐殺したその猛威を振るう
現代兵器では太刀打ちできないその存在に唯一対抗出来る手段として、人類に託された望みはただ1つ
わずか14歳の少女、石井・風花・アネモネをエウレカセブン内に電送、ダイブさせるのだ
7年前、実の父をエウレカセブンへのダイブで亡くしたアネモネは、そのトラウマと戦いながらも戦果をあげる
だが、ダイブした先の世界で出会った青緑色の髪の少女のことが気がかりになっていた…


『交響詩篇エウレカセブン』のリブート劇場版である『ハイエボリューション』3部作の2作目…ですが↑のあらすじを読んでいただくと分かるのですがぶっちゃけ【『ハイエボ1』は観なくていいです!】
世界観が完全にリセットされてるので今作だけで十分完成された映画になっているのでホント、『ハイエボ1』観てないから『ANEMONE』はやめとこ、とか【絶対に損してるのでやめてください!】


いや、厳密には『ハイエボ1』の中で話が分岐しており、実は今作に登場する“闇堕ちしてしまったエウレカ”の世界線と“ラストシーンに登場するレントン”の世界線は『ハイエボ1』の中で分岐してるので、今作をご覧になったあとで気になった方は『ハイエボ1』をチェックすればそれで十分補完出来るはずです


さて『ハイエボ』3部作ですが過去のエウレカセブンシリーズの映像を使った総集編…と思いきや当時の映像の中にいるはずの無い人物が違和感無く描き足されていたり、設定そのものがだいぶ変わっていたりと、どうやら過去作との直接的な繋がりは無いように観られていました


しかし今作で石井・風花・アネモネちゃんの暮らす世界からダイブインする、という形で過去作映像流用の世界が内宇宙として描かれます
これが今もなお“シリーズの聖典”として祀り上げられるTVシリーズ版『交響詩篇エウレカセブン』だけでなく、劇場版『ポケットが虹でいっぱい』や続編TVシリーズ『エウレカセブンAO』も含めて描かれるんです
もっと細かく観るとゲーム版やコミカライズ版も出てくるのでチェックしてみてください(笑)


劇中の中盤まではこれら過去作映像流用世界を否定していく形でアネモネちゃんは勝利を収めていきます
劇中では「偽りの神が作ったゴミの山」とか「ゴミ掃除」とまで言われてますw
しかしクライマックスでアネモネちゃんはエウレカセブンの中枢的存在であるエウレカがこれら過去作映像流用世界を「とある理由」で作り出してしまったことを“許す”のです


【これはつまりエウレカセブンシリーズ全てを“許す”ってことなんです!】


思えばエウレカセブンシリーズはファンを裏切り続けてきました
『ポケ虹』『AO』『ハイエボ1』…とにかくコアなファンであるほどオリジナルのTVシリーズの感動がひとしおに高く、故に蛇足で駄作な続編が増えていくことに一種のアレルギーの様になった人も少なくないでしょう
「エウレカセブンに続編なんかイラネェから!原点こそ原理だから!」とね
オイラがそうですから!w


だけどそんなシリーズ達の存在を“全て許した”のが今作です!
あまりにもこれまでのシリーズ達とはかけ離れた世界観を理解するだけで頭いっぱいになってしまうかもしれませんが、エウレカセブンシリーズに思い入れがある人ほどこの映画は好きになれること間違いありません!
とりあえずオイラは2回観ましたがなんとかしてもう1回観たいと思ってますw


過去作映像流用の部分では、あえて“アスペクト比”を当時のままにしてあるのでそれがスマホ画面→アナログTV→映画レターボックス→地上波デジタルなどと変化していくところにも注目して欲しいです
これはアネモネちゃんが真実に近づく事で変化していってることに気付くと思います!


アネモネちゃんの初陣であの「Tiger Track」が流れるのも素晴らしいですね
『ハイエボ1』の時、結局エウレカセブンシリーズの思い出って曲とセットになってるから曲の差し替えはよくないな…って思ってたんですよ
それがまさかあんなところで「Tiger Track」が流れるとはw
不意打ちにも程がありますw
それとクライマックスでも“凄い1曲”が流れます!!!
この曲は過去作で挿入歌だったというわけではありませんが、“あのネ申回”のサブタイの元ネタとなった楽曲です!
もう劇場で失禁しそうwなくらいはわわわ!!!ってなりましたよね
ニクい演出、いやエモい演出ですわ


そして『エウレカ』といえばロボ作画、ボンズといえばロボ作画、なワケですが今作ではあえて作画的な観どころのクライマックスとは別にグラフィニカによる3DCGで描かれるクライマックスがあり、2段階のクライマックスとなっております
これはもう世界観把握でいっぱいになった頭を破裂させるような展開でアッケに取られてしまうかもしれませんw
それがまた“映画らしくて”好きですね~
とにかく何回観ても「良い、好き」と言えるスルメの様な味わい深い作品なので、少しでもエウレカセブンシリーズに思い入れのある人は絶対に観た方がいいです!!!


最後になりましたが「Tiger Track」を手掛けたDJ KAGAMIことKAGAMIさんが2010年に、『ハイエボ1』までデューイ・ノヴァク役を務められた声優の辻谷耕史さんが今作収録期間中に、それぞれ急逝されています
謹んでご冥福をお祈りすると共に、エウレカセブンというシリーズの一端を氏らの素晴らしいお仕事で担っていただけたことに感謝の意を一ファンの身として表したいと思います

投稿 : 2025/02/01
♥ : 10

Ka-ZZ(★) さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

「世界か、愛する人か―ひとりぼっちの少女たちの、究極の選択」。

この作品は、交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション全3部作のうち、第2部に相当します。
本編では正直アネモネは決して幸せと言えるキャラでは無かったので、逆転の展開を期待しながら視聴を始めました。


まだ幼かったあの日。
父、ケン は幼いアネモネを残して戦いに赴き、そして帰ってこなかった。
ちゃんとお別れを言うことができなかったアネモネの小さな胸に深く残る後悔。

7年が経過した。アネモネは父が散った戦場――東京にいた。
人類の敵、7番目のエウレカ=エウレカセブンと戦うための組織・アシッドの一員として、
アネモネには人類の希望が託されていた。
そして、アネモネはエウレカセブンの中へとその精神を送り込む。

アネモネがエウレカセブンの中で出会ったのは、ドミニクという青年と、エウレカという青緑の髪をした少女。
この出会いは何を意味するのか。そして、見え隠れするレントンという名の少年の姿。

アシッドに囚われていた謎の男・デューイは予言する。
「お前たちが見ているエウレカセブンはエウレカセブンではない。
偽りの神が創っては破棄した無数の不要な世界。いわばゴミの山だ」

アネモネとエウレカが出会った時、全ての真実が明らかとなり、新たな世界の扉が開く――。


公式HPのSTORYを引用させて頂きました。

視聴したらきっと皆さん気付くと思います。
もう過去作の設定云々を気にしている場合じゃなくなっていることを…

本作の主人公はアネモネ…
ですが、彼女にはもう一つの顔があるんです。
彼女は、石井風花という日本で暮らす女の子なんです。

東京に住む女の子がどうやってエウレカやレントンのいる世界に行くのか…
序盤からいきなり頭の中に?マークが浮かぶことになるのですが、視聴を進めるとちゃんとその謎も明らかになります。
エウレカの世界にアネモネが行く方法…結構画期的だと思いますよ^^

それと間違えてはいけないのが、この物語で万人に周知されている「エウレカ」は、私たちの知っている名塚佳織さん演じるエウレカでは無いということ…

この世界におけるエウレカは、世界各地で増殖し続けるスカブなんです。
そしてとうとう日本に7番目のスカブがやってきました。
7番目のスカブだから「エウレカセブン」と呼称されていましたけれど…

現実世界の「エウレカ」は物理攻撃の効かない存在…
そんなエウレカを撃退するため、アネモネも所属する国連の戦略部隊アシッドは、「ある特別な方法」を駆使しながら世界中のエウレカと対峙しているんです。

アネモネ…
いつも頭痛に悩まされ、大量の鎮静剤が欠かせなかった彼女…
エウレカと何かと比較され続け、激しい憎悪を剥き出しにしていた彼女…
ようやく自分の気持ちに気付いて大粒の涙をボロボロ流す彼女…
本編のアネモネに対する私の印象はこんなところです。

本作品での彼女は大量の鎮静剤が必要なわけでも、エウレカに憎悪を燃やすこともありません。
ですが、公式HPのSTORYに記載されている通り幼いころに最愛の父を亡くしていたので、寂し気な表情を見せていたり、一人でポツンと考え事をしていることが多い感じ…
決して自ら積極的に誰かと交友を深めようとすることはありませんでした。

物語が進み、やがてアネモネは究極の選択を迫られることになります。
もう周囲を顧みず、自分の事ばかり優先することなんてできません。
だって悲しみに沈む沢山の人の顔を見てきたから…
自分たちに向けられた視線に対する意味も分からない訳じゃないから…
これだけ色々周りが見えているにも関わらず選べない選択肢…
彼女がどう決断するのか…本作品の見どころだと思います。

この辺りまで視聴するとだいぶこの作品が面白く感じられると思います。
物語の内容も第1部との繋がりが見られるようになりますので…

そして終盤…
これで大団円でも良かったのでは…?
という展開が待ち受けていましたが、それは単なる通過点でしかありませんでした。
ここまで視聴すれば、何となくですが第3部の着地点は想像できると思います。
ですが、第3部の物語にアネモネがどう絡んでくるのかは気になるところです。

上映時間95分の物語でした。
第1部だけでこのシリーズを評価しなくて正解だったと思います。
第2部で格段に面白くなりましたし、アネモネとエウレカとの絡みは泣けるポイントが満載ですし、何より前作まで視聴を続けてきた人へのサービスカットも見れましたし…

第3部の上映は2021年とのことです。
今度はどんな物語が展開されるのか楽しみにしています。

投稿 : 2025/02/01
♥ : 14

65.9 7 恋愛でオリジナルアニメーションなアニメランキング7位
劇場版 フリクリ プログレ(アニメ映画)

2018年9月28日
★★★★☆ 3.6 (54)
254人が棚に入れました
「すっごくさぁ。欲しいものがあるんだよ」 深紅の翼を追って〝女〟は空に消えた――。 時はめぐり、星々を盗み取るほどの力はいま、少女の夢のなかで目覚めようとしている。 「ベスパに乗った女に気をつけろ!」 アイロンの吐き出す煙たちこめる街――ヘッドフォンの少女・ヒドミが轢かれた夜、 クラスメイトの少年・井出の額から巨大ロボットが出現した! 〝特別なことなんてない日常〟が終わりを叫び、ついにあの女が帰ってくる!

声優・キャラクター
林原めぐみ、沢城みゆき、水瀬いのり、福山潤、村中知、中澤まさとも、黒沢ともよ、井上喜久子、大倉孝二、菅生隆之、浦山迅、鈴木れい子
ネタバレ

きつねりす さんの感想・評価

★★★★★ 4.3

考えすぎず、身を任せて楽しめばOK

「分からないから面白くない」という感想で片付けたくないので、色々と考えながら個人的な感想を。
まず見終わって思ったのは「どういうことなんだ!」ということ。時間が進むにつれてガーっとスピードは上がっていくけど、受け手として追いついていけてないな、という感じ。結末としては{netabare}ヒドミと井出くんがそれぞれの思いに正直になるというところで{/netabare}シンプルなものなのだけれど、そこに行きつくまでの過程が絡まりあっていたりして、「ここでこのキャラが繋がってるわけね!」という部分もあれば「このキャラはここで出てくる必要があるのか?」と思う部分もありました。でもとにかく終盤は怒涛の展開が続くのでこれの処理が追い付かない。映画館を出てパンフレットを見ながら考えをまとめようとしてみても、インタビューで声優さんが「内容はわからない」的発言をしている(笑)。演じている人でさえそうなのだから、見た人が同じゴールに入っていく必要はないのかな、と思うと自分の正直な感性で楽しめばいいんだ、という気持ちになり何か急にスッとしました。水瀬いのりさんの言葉に救われた。

まず言わせてもらいたいのは、ピロウズの音楽がこれまでで一番ハマっていたということ。6話分それぞれに監督が就いていて、大筋の流れや設定は決まっていたとはいえ、それぞれに画面の使い方や描写の方法、キャラの躍動感などの個性があり、まさにアンソロジー的形式ではあります。そんな多様性が感じられる中、どの担当回でもピロウズの音楽が刺さりました。「フリクリを見ていた側」としての立場から「フリクリを作る側」の立場に立った時に、やっぱりこの物語に根付くロック・ミュージック=the pillowsという構図がそれぞれの監督さんの中にしっかりとあったのだろうと感じさせる愛のようなものを感じました。予告編でも流れていた「Thank you,my twilight」、主題歌「Spiky Seeds」、OVA版でもバトルシーンで使われていた「LAST DINOSAUR」といった3曲は特に良かったです。このシーンではやっぱりこの曲だよね!という共感、この世界観ではドンピシャな音楽だなという発見など、今作は音楽面は非常に満足しました。アルバム買います。

話の本筋について。
{netabare}OVA版では「愛」、オルタナでは「友情」というところに最後のトリガーがあるとするなら、今回のプログレは「家族」かなと思いました。帰ってこない父親を待つ母親とこれからも一緒に暮らしていくという「居場所」ができたことによって最後の井出くんへの思いを伝えきれたのかな、と思います。ヒドミ自身はクールでいながら人間らしい感情的な部分も兼ね備えていて、徐々にその片鱗は内側から外側へと出ていくのですが、ヒドミの母親と心の内を交わし、「自分も成長していく」ということを受け入れて自分の思いを伝えられるようになったのかな、と思います。一度見ただけではちょっと追いきれなかったですが、大体そういう筋だと解釈しました。3章から出てくるアイコとマスラオの関係というのもやはり娘と父親という家族で、モチに捕らえられたマスラオが次の希望を娘に託すというのもひとつの家族の形なのかな、と思いました。(自分を買い取るとかそこらへんの描写がよく分かんなかったですが)
また、異性を思う気持ちというのももう一つのテーマだと思います。ハル子がアトムスクを追い求めて手に入れようと躍起になるのも、森がレンタル彼女という形で寄り添う相手を求めようとするのも、マルコが天真爛漫なヒドミに純粋な恋をするのも全部いろんな愛の形。報われなかったり、ちょっと報われたりと達成の程度はそれぞれながら、なかなか上手くもいかないってところまでひっくるめて青春は難しいんだぜ、と教えてくれる作品だな、と思います。中心にいるヒドミと井出くんの恋愛は成就したみたいですが、それぞれが思いに気付く瞬間や、その思いを持て余したりする光景、素直に向き合うシーンといった感情の部分を丁寧に描いてきて辿り着いたゴール、という感じで好感が持てました。見た目ややっていることはハチャメチャで、そこはフリクリらしいといえばらしいですね(笑)。{/netabare}

3つの作品をここ1ヵ月足らずで見てきて、勢いの中に若いゆえの心の葛藤や迷いを描いた作品なんだな、とつくづく思いました。全てを分かったような立場で主人公たちの世界に乗り込んでくる「ハル子」という異分子で日常がかき乱され、いい迷惑と思いながらも、自分の奥に眠っている感情を呼び起こされるという構図。しかし当のハル子自身も本当に追い求めるものにはまだ辿り着けていないという、人生あがいてナンボのもんじゃい!といった作風が大人になった世代にも若い人たちにも刺さるのかな、と思いました。それに加えて大人っぽいピロウズのロックとかギター、バイク、ロボットといった男心をくすぐるアイテムの数々。劇場に足を運んだときはお客さん全員男だったのでああ、納得、と。

これを見ているときは心は少年時代に戻って世界に浸れるっていう意味では、日々疲れた現実からの逃避行にはもってこいの作品だと思います。いい作品に巡り合えました!

投稿 : 2025/02/01
♥ : 4

二足歩行したくない さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

フリクリらしいフリクリ

フリクリ劇場版2作目。
海外ではなぜか本作の方が先に公開されていたそうです。
オルタナ同様、劇場版作品ですが、内容は普通に6話分のアニメをOP\EDチョッパって連続して再生しているような感じになっています。
オルタナとは内容的に繋がっておらず、オルタナはオルタナで、プログレはプログレで別のストーリーとなります。

最初から最後まで真面目にみていたのですが、全く流れが理解できませんでした。
オルタナは4人の女子高生が笑いあり涙ありで成長する青春ドラマでしたが、本作は恋愛モノで家族ドラマ的なものが始まったと思ったら、ゾンビだったりロボだったりでギターを武器にバトルをしたり、しっちゃかめっちゃかで、「ふんふんなるほどほー、いやさっぱりわからん」という内容でした。

主人公は無口で猫耳ヘッドフォンを常時つけている女子高生「ヒドミ」。
彼女がジンユと名乗る自称宇宙捜査官に轢き殺されそうになるところからストーリーは始まります。
それとは別に学校の教師が顔の皮をベリベリ向いたら下からもう1人の自称宇宙捜査官ラハルが現れて、生徒たちをハーメルンの笛吹き男のように先導します。
そんな折にヒドミは、同級生の「井出交」を意識し始めるのですが、そしたらN.Oが発動してジンユとラハルがバトルを始めてピロウズのメロディが鳴り響くという展開です。

うーん、わからん。

ググるとフリクリの有識者がOVAとの関連を含めて教えてくれる解説サイトがいくつかあるので、ストーリーについてはそちらを参照するのが近道ですが、私的にはフリクリは"Don't think feel"なので、なんだかよく分からないけどたーのしー作品だと思いました。
なお、OVAもですが、見終えたら内容はだいたい忘れてしまいました。それでいいのだ。いいのか?

わかりやすい反面フリクリらしさが削がれたオルタナと違い、わかりやすさを捨ててフリクリらしさを取ったような内容でした。
ネットの評価はプログレに軍杯が上がっているように感じますが、人によって評価は分かれると思います。
まあOVAから劇場版公開まで現役でアニメを見続けてるというのは、結構拗らせている層な気がしますし、OVAの潮流をくんだプログレが好まれるのもわかる気がします。
なお、私的には両方ともそれぞれの良さがあると感じました。
OVAの先行視聴は必須では無いです。
OVAはまた別のストーリーという感じですね。
ただ、見ておいた方がより楽しめると思うので、劇場版より前にOVAをみておくのがおすすめです。

投稿 : 2025/02/01
♥ : 1

フィリップ さんの感想・評価

★★★★★ 4.3

大豆ラブストーリー

2000年に制作された『フリクリ』の正統派続編。
6人の監督たちが1話ずつを担当し、
自分たちの個性を押し出しながら
1本の映画としてまとめた画期的な作品。
6人それぞれが制作を同時進行させていたこともあるのか、
作画はかなりバラつきがあるが、
(もちろん、ワザとという部分もある)
それがこの作品の面白さでもあった。

猫耳ヘッドフォンを付けて、
外部をほぼシャットアウトする少女。
貧しさのなかに身を置きながら、
スクラップ工場で働く少年。
ふたりの少年少女が出会い、
ふたりの宇宙人が現れることで、物語は大きく動いていく。

アトムスクを追うラハル、それと止めようとするジンユ、
父の帰りを待つ雲雀弄(ひばじり)ヒナエとヒドミ、
ヒドミのことが気になる井出交とふたりの友人、
OVA登場のアマラオの息子マスラオ、その娘アイコなど、
それぞれの登場人物たちが、心に何かを抱えたまま
世界的な危機に翻弄されていく。

キャラの動きや豊かな表情、挑戦的な作風が
とても楽しいのは、OVA版に近いものがある。
特に4話の「ラリルレ」と5話の「フルプラ」の回の
はっちゃけぶりは、これぞフリクリだという
斬新で見ごたえのある映像を楽しませてくれた。
末澤慧監督が担当した5話は作画の表現も
かなり意表を突いたものだ。
漫画の誌面を表現した部分では、
『ホットロード』を意識しているという。
末澤慧監督は次回作があるなら観てみたい。
そして、主人公の林原めぐみ、水瀬いのりを中心とした
声優陣も存分に上手さを見せてくれていた。

ただ、今回の作品は6名のアニメーターたちが監督となって
できることをやったという形になっていたことが原因なのか、
ストーリーの落とし込みや全体のアイデアという部分では、
カタルシスを感じることができなかった。
最終的には4組の男女が織りなす
ラブストーリーになってしまっているというか、
まぁ、そもそもが東京ラブストーリーだと思えば、
それほど違和感もないのかもしれないが…
物語の根幹のようなものがもう少しはっきりしていれば、
OVA版を超えるだけのポテンシャルがあったと思う。

観る者の心に訴えかけてくる表現が
散りばめられている意欲作だとはいえるだろう。
(2018年11月2日初投稿)

投稿 : 2025/02/01
♥ : 38

63.8 8 恋愛でオリジナルアニメーションなアニメランキング8位
劇場版 フリクリ オルタナ(アニメ映画)

2018年9月7日
★★★★☆ 3.4 (60)
235人が棚に入れました
モヤついている高校生・河本カナ。嵐のごとく登場するハル子。その時カナの額にお花が生えた! 煙を吐きがら街をぶっ潰すアイロン。毎日が、毎日毎日続いていくと思っていた・・・。力を手に入れたカナはアイロンをぶっ飛ばせるのか!?

声優・キャラクター
新谷真弓、美山加恋、吉田有里、飯田里穂、田村睦心、小西克幸、永塚拓馬、鈴木崚汰、伊藤美紀、真坂真帆、森功至、松谷彼哉、青山穣
ネタバレ

フィリップ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.7

17歳の叫び

アニメーション製作Production I.G×NUT×REVOROOT
監督:上村泰、副監督:鈴木清崇、脚本:岩井秀人
キャラクター原案:貞本義行、キャラクターデザイン:高橋裕一

何がフリクリなのか分からない。
2000年製作のOVAフリクリの監督である
鶴巻和哉から発せられた言葉だ。
それだけフリクリという作品には、
多様性があるということだろう。
音楽、作画、パロディ、ロボット、SF、青春などなど、
渾然一体となってさまざまな要素が盛り込まれていることが、
ひとつの特徴といえるかもしれない。

舞台は何の変哲もない田舎町。
ごく普通の女子高生、河本カナ(カナブン)は辺田友美(ペッツ)、
矢島聖(ヒジリー)、本山満(モッさん)という
3人の友達といつも一緒。
秘密基地「ハム館」を拠点に、楽しい学生生活を送っていた。
しかし、彼女たちの前にハルハラ ハル子が現れて、
日常は大きく変化していく。

街にできた大型ショッピングセンター、
カナブンのバイト先の蕎麦屋で
男がいつも同じ月見そばを注文することも
ひとつの象徴だろう。日本初の女性総理大臣は
国民に何かを隠して計画を進めている。
激動の予感を漂わせながら、カナブンの日常は過ぎていく。

女子高生たちは日々の暮らしを満喫している。
ヒジリーは大人ぶって年上の恋人と付き合っている。
モッさんは進路を決めて自分の力で夢に向かって邁進している。
カナブンはある男子が気になり始める。
ペッツは高村薫の『照柿』を読みながら、
幼馴染のカナブンを特別な存在として意識し、秘密を抱えている。

日本での公開はこちらが先だったが、
『フリクリ プログレ』の製作が決まったあとに
オルタナの製作が開始されたため、
プログレの内容とは、違う形でのやり方が求められていたという。
つまり、プログレのほうが正当派の続編であって、
こちらは、あくまで番外編。本編とは少し外れた内容になっている。

そして、違いをどこで出すかということで、
女子高生の日常を描いた青春ストーリーに
ハル子が絡んでくるという展開になっている。

正直なことを言うと、この話であったなら
『フリクリ』である必要性はほとんどない。
女子高生の青春ストーリーが中心にあって、
ハル子や世界観が重なってくる。
そのため、ハル子のポリシーというか哲学が
ずれているように感じてしまう。
監督がこの作品で重視したのは、
「女子高生のリアル」だとインタビューで語っている。

監督の上村泰はガイナックス時代に『トップをねらえ2!』の
設定制作補助を務めたところからキャリアをスタートさせ、
その後もいわば鶴巻和哉の下で仕事を覚えた人物。
鶴巻和哉のやり方をつぶさに見てきたため、
フリクリの監督としてはうってつけの人物だったのだ。
そして、脚本は舞台作家で演出家でもある岩井秀人を起用。
これは鶴巻和哉が昔のインタビューで語っていたことだが、
フリクリを考案していたときには、色々な舞台を頻繁に見に行っていて、
演出は舞台の手法にかなり影響されたそうだ。
アイロン型の工場やギターを武器のように
使用するというような小道具の使い方は確かに舞台っぽい。
そういう面も踏まえた抜擢だったことが想像できる。
上村泰監督はフリクリのファンだと語っており、
その結果、完成したのが、この『フリクリ オルタナ』なのだ。

ここで、冒頭の鶴巻和哉のコメントが浮かぶのだが、
どれだけ近くにいても何が正しいのかは、分からないのだろう。
特に、このフリクリという作品には、
当時の時代性やガイナックスの社風が色濃く反映されている。
そういう意味では、このフリクリも「アリ」なのだとは思った。

物語の核をなすのは、主人公カナブンとペッツの話となる。
彼女たちの関係性が、この世界の命運を決定づけるキーとなっていく。
{netabare} 女子高生の叫びが世界に関係していくというのは面白いが、 {/netabare}
この作品は良くも悪くもOVA版『フリクリ』を意識しすぎているのが
マイナス方面に働いてしまっている。
それと、この2人を話の中心にするなら、
もう少しそれぞれの想いを前面に出したほうが良かったと思う。
ほかの2人のエピソードを削ってでも、
こっちに持ってくるべきだったのではないかと感じてしまった。

個人的なフリクリという作品に対するイメージは、
「バットを振り切る」ことが重要で、
色々なことに縛られていない自由度が最大の魅力だと思っている。
しかし、この作品では女子高生のドラマを
丁寧に描いていくこと以外では、
ほぼ前作の方向性をなぞっただけという印象は拭えない。
プログレの方向性があったにせよ、
もう少し前作に縛られない部分もあったほうが良かった。

また、この監督は音楽に対して、
あまりにも無頓着すぎるのではないだろうか。
ピロウズの曲が流れているところで、
キャラクターが歌い出すシーンがあるのだ。
どうしてこういうことをやって良しとしたのかは理解できなかった。
理由はあるのだろうが、これは百パーセントあり得ない演出だろう。

それぞれのドラマはよく作りこんでいて、
完成度が高いだけに色々と惜しい作品だったと思う。
ピロウズの曲自体は相変わらず聴かせてくれる。
(2019年10月20日初投稿)

投稿 : 2025/02/01
♥ : 41
ネタバレ

ねごしエイタ さんの感想・評価

★★★★★ 4.5

いつまでもこのままでいたい!・・・・ そう思ったって良いと思うです。

   久々の初日、初回上映で見れたです。
 かなぶんを中心としたペッツ、ヒジリー、モッさんの仲良し4人組の日常、非日常をそれぞれの視点に描かれたお話だったです。かなぶんと出会ってかなぶんの能力に気づいた、お姉さん自称なのか?宇宙捜査官ハル子が、やたらちょっかいを出してくる展開です。長い上映時間だったです。

 かなぶん、ハル子やたら目立ってたです。敵なのか侵略者だかわからない、突然出てくる機械生物とハル子が戦うです。宇宙だか火星の話が、何の関係があるやら出てくるです。

 4人でバカやって騒ぎつるむ日常は、ありがちな女子高生なでしょうか?です。4人で興味本位に共同制作して作るロケットは、楽しかったと思うです。

 4人それぞれに互いに、何も知らない事情が描かれていたところも見所です。心配なのか?役に立ちたいと思うのか?ハル子の行動に注目です。
 大人だかの恋のことだったり、進路で自分でつかむために進む夢だったり、同年代の恋する気持ちはどういうものか?だったです。自分が思ってきた変わらないでほしいと思う毎日は、友達にしてみればどうだったか?を破天荒に描かれていたです。

 常にハル子が中心にいるようで、絡むハル子の大胆かついたずらにも見える行動があったです。ハル子は、何をしたいのか?あまり私には理解できなかったところがあるです、

 全体を通して、かなぶんが望むいつも変わらない毎日は、自分としてもそんな気持ちは持っていたいと思うです。かな分が望んでいても、一番の親友は実は、どうなのか?、つらい現実も見せられたです。{netabare}最後の方で、人は年を取る、周りの風景も変わる、そんな中でも笑顔は変えないでいいとか言ってたようなセリフは、共感できるものがあるです。{/netabare}

 かなぶんが思うように、いつまでも4人仲良くしていきたいと思うのは、決して悪くない人として当然の願いであると考えるです。このお話は、そんな自分が望まなくても変わるもの、変えてはいけないものを訴えてもいるように見えたです。そこが、面白みなのかもしれないです。「これでいいのか?」な終わり方だったけど・・・・・・・・です。

投稿 : 2025/02/01
♥ : 6

やまだ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.4

反対の反対

ガイナックスのトンデモオシャレアニメ。かと思いきやガワをマネた別物。
本家がトンデモ過ぎてムリってな方はちょうどいい塩梅なのかもしれない。
オルタナっていうだけあって別物。難易度調整版ってことなのかな。

フリクリ本家より間違って先に見てしまった。聞いていた本家の評判の要素は確かに感じたんだけど、ピロウズは好みの問題としてやたらと言葉遊びが鼻につくしなんかいちいち掛け合いが間延びしてるし映像表現と作劇のバランスが悪い印象。80年代のドタバタマンガをアニメにしてみました風なガワだけど中身は今どきの量産アニメレベルの凡庸さがプンプンでそこまで有難がるようなものかね、と思ったら、違う作品だった(笑)。


オルタナティヴって単語はメインストリームから外れた別の可能性みたいな意味だと思うけど、そもそも本家のフリクリ自体がそうなんだからそこからさらにまたハズしてどうすんのって感じ。もともと本流から遠ざける意味で使われるはずの言葉なのに本流に戻すベクトルなのはどうなのか。プログレとのゴロ合わせとピロウズがオルタナティヴロックって言われてたからってだけなんでしょうけど。ここでのオルタナはイージーとかライトって意味になってる。そんなものにいちいち拘って言葉狩りしてもしょうがないけど、本家と比べてしまえば過去の遺産を食いつぶすだけの作品にしか見えません。

ピロウズに関しては嫌いな人は主張し過ぎって感じるかもしれないですが、YouTubeの動画配信で自分の好きな音楽流すのと同じようなもんでしょう。聴かせたくて流してんだからうるさくて当然。初めてマトモに聴いたけどこれは熱狂的な信者がいるのも解る。良質なルーツを感じます。KENZI&THE TRIPSは聴いてたけどこっちは当時は信者がウザかったので聴いてなかった。当時は拗らせてましたからやたら持ち上げられると引いちゃうのです。

フリクリとしてどうなのかとかはどうでもよくてドヤ感しか感じません。
本家観てみたら評判との相違が一気に解消されました。
全然違いますやんってなったのでこっちは撤退。これから本家観ます。

投稿 : 2025/02/01
♥ : 6
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