スタジオジブリで田舎なアニメ映画ランキング 5

あにこれの全ユーザーがアニメ映画のスタジオジブリで田舎な成分を投票してランキングにしました!
ランキングはあにこれのすごいAIが自動で毎日更新!はたして2024年11月05日の時点で一番のスタジオジブリで田舎なアニメ映画は何なのでしょうか?
早速見ていきましょう!

87.7 1 スタジオジブリで田舎なアニメランキング1位
千と千尋の神隠し(アニメ映画)

2001年7月20日
★★★★☆ 4.0 (1804)
12233人が棚に入れました
10歳の少女、荻野千尋(おぎの ちひろ)はごく普通の女の子。夏のある日、両親と千尋は引越し先の町に向かう途中で森の中に迷い込み、そこで奇妙なトンネルを見つける。嫌な予感がした千尋は両親に「帰ろう」と縋るが、両親は好奇心からトンネルの中へと足を進めてしまう。仕方なく後を追いかける千尋。

出口の先に広がっていたのは、広大な草原の丘だった。地平線の向こうには冷たい青空が広がり、地面には古い家が埋まっていて瓦屋根が並んでいる。先へ進むと、誰もいないひっそりとした町があり、そこには食欲をそそる匂いが漂っていた。匂いをたどった両親は店を見つけ、断りもなしに勝手にそこに並ぶ見たこともない料理を食べ始めてしまう。それらの料理は神々の食物であったために両親は呪いを掛けられ、豚になってしまう。一人残された千尋はこの世界で出会った謎の少年ハクの助けで、両親を助けようと決心する。

声優・キャラクター
柊瑠美、入野自由、夏木マリ、内藤剛志、沢口靖子、上條恒彦、小野武彦、我修院達也、はやし・こば、神木隆之介、菅原文太、玉井夕海、大泉洋
ネタバレ

Progress さんの感想・評価

★★★★★ 4.6

【リバイバル上映】千と千尋の神隠し レビュー

レビュー、最近書いてないなあ…
なんて思いながら、Youtubeをずっと見てたり、有名な最新ゲームタイトルをプレイしてみたりで過ごしていました。

幸い私の住んでいる地区は外出自粛要請も出ていないため、四連休の思い出作りに入ったショッピングモールの映画館で、6月26日からジブリのリバイバル上映がたまたまやっている事を知り、30分ほど時間を潰して入場。ここ1クール程度のアニメ作品に関してまるでレビューを書いていなかったため、インパクトのある作品で意欲を高めようという気持ちがありました。

客層は20代後半から30代あたりが多いように見えましたね。カップル率も高く、最新の映画を見るよりは懐かしいハズレでないとわかる作品を見たかったのでしょうか?
最近映画館に足を運んでいなかったので知らなかったのですが、この状況下という事もあり、予約では席は一席ずつ間隔を開けて空席にしているような状況でした。そのため、両隣には人がいないため、かなり快適な視聴でしたね。

開始1分前にもなると、二時間弱の時間を使って別の事をしながら視聴もできない映画館での視聴にノリで入っちゃったけど、途中で飽きないかなあ…なんて思っていましたが。

全然そんなことありませんでした。めっちゃ面白かった。

過去の自分のレビューも思い出しながら視聴し、雰囲気が記憶に残るなんて書いちゃったけど、どこまで論理的に詰めているんだろうなあとちょっとハラハラしながら見ていたんですが、新たに新解釈を得るところもあったし、今作品の裏話的情報を得ていたためにすることのできた新しい目線での楽しみ方。そういった事もあり一度も眠気が来ることなく脳が7、8割回転する状態でラストまで見終えられました。

まず、事前に得ていた情報で、本作品に出てくる油屋(千尋が働く場所)に特定のモデルはないという事を知っていたのですが、本作では油屋がどれだけ日本的なのか?という所に視点がいきました。
登場する神々や油屋の従業員達の身なりは、実に日本的です。例外なのは湯婆婆であり、彼女は魔女という、非常に西洋的な要素を含んでおり、最上階の湯婆婆のフロアは、西洋的な造りになっています。
なぜ日本的な要素で油屋を統一せずに湯婆婆という西洋的要素とミックスさせたのか?は気になるところではありますね。
最上階について先に触れてしまいましたが、油屋の至る所にある西洋的要素について、見ていきます。
まず、エレベーター。あれだけの構造物を階段で登るのは無理ですよね。リンの口からも、エレベーターという言葉は出ています。
次に、電車。油屋の中を通っているわけではないですが、この神々の世界でも科学の発展はしているようです。ただ、利用者な少なく、行ったきり帰りの便がない電車らしいですが。いや、一方通行の電車ってどんな構造になっているんだろう。

こういった西洋化、もしくは機械化した要素を見るに、油屋が神々の世界の日常の風景というわけではなく、神々の世界の中でも日本的な要素を感じられる娯楽施設、テーマパーク的な場所であるように見えましたね。

さて、次の新しい視点は千尋というヒロインがキャバクラで働く女の子から着想を得たという情報からの視点。
この情報は、鈴木敏夫『仕事道楽 新版』等に綴られています。
油屋という厳しい仕事場に、人との付き合いが苦手な千尋が投げ込まれ、千尋が自ら変わっていく物語として見ていくと、千尋の変化を感じれるかと思います。
千尋の状態が大きく変わったのは、刑務所…ではなく豚小屋に入れられた親の姿を見た後、ハクからもらったまじないを掛けたおにぎりを食べた際ですね。
このシーンから先は、変った千尋の元気な姿を描いていきますね。

カオナシについても、今回新しい人物像が浮かび上がりました。
カオナシは千尋に油屋に入れてもらった礼をしようと、必要以上の薬湯の札であったり、砂金をあげたりします。
カオナシは、価値のあるものをあげれば喜んで貰えるという考えで千尋にプレゼントしますが、千尋は喜ぶどころか受け取ってもくれない。
これは、外面を繕い砂金をもらう油屋の従業員と違って、油屋に染まっていない千尋だからこそ、カオナシにとって必要な対話を行えたのだと思います。外面を繕った人との対話によって物をあげれば誰でも喜ぶんだというカオナシの間違った考え方を、千尋が意図せず正したという物語に見えましたね。極論、金で交換すればなんでも手に入るんだという考え方を批判する形に見えて、個人的にもすこし刺さるシーンでしたね。
千尋と対峙しカオナシは、千尋に生まれや出身の事を聞かれ、「ヤメロ」「寂しい」といったルーツに対する拒否感を示しています。
ここで気になったのは、カオナシの人物像です。「寂しい」という感情のセリフであったりとか、対話能力の低さから、孤独で人と話さず、喋るのはコンビニの店員くらいの存在なんだろうと思いました。油屋という繕った人達に騙される世界で、カオナシが狂ったように欲望を吐き出してしまう構図になっています。また、「私が欲しいものはあなた(カオナシ)にはだせない」という千の言葉から、カオナシという存在に千は個人を見出す純粋さを持ちながらも、カオナシの期待には応えないという純粋さゆえの個人の否定をしており、仮初の存在価値を否定されたカオナシは怒ってしまいます。
そんなカオナシに対して、銭婆の住む沼の底に行こうとする千尋は、センに対してこのような言葉を残しています「あの人はここ(油屋)にいないほうが良いんだよ」。
これは、カオナシという純粋で人との対話方法を知らない存在が、油屋の笑顔を繕った人々と対話して、金でなんでも手に入るという間違った対話方法を身に着けてしまうという事を千尋は感じているのかもしれないですね。


さて、ここからは終盤の物語について。銭婆婆の家での出来事。
ここで、物語として必要なのか大きな疑問が湧くイベントがあります。
なぜ銭婆は時間を割いてまで魔法を使わず髪留めを作ったか?
銭婆の作った髪留めには坊やカラス、カオナシが頑張って作った糸が編み込まれています。
銭婆は、魔法で作っても意味がないという言葉を残していますね。
これはみんなで頑張って作ったから思い入れのある物になる、という意味でしょうか?それは一面的には肯定で、カオナシにとっては、今まで人にプレゼントするものが、盗んだものであったりとかまがい物の砂金であったりとか、自身の背丈以上の物を贈ろうとしていました。しかし、今回に関しては時間に限りのある中、自身が労働し、そしてそれで作った物をプレゼントすることで、千からはありがとうという感謝の言葉を受けています。カオナシにとってのいい方向での成功体験であり、カオナシの物語としてはここで完結かなと考えました。
しかしこれでは、カオナシの為に作ったように聞こえます。手作業で作った理由としてもまだまだ弱い。

ここからは推測がかなり混じります。
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髪留めを手作業で作った理由について。
魔法という物を考えたとき、髪留めは魔法で作ったら大変なことになっていた可能性があるかもしれないという疑念が思い浮かびました。
八百万の世界を抜けたら、魔法が解けるのではないか?
千尋がハクに別れを告げ、後ろを振り返らず、帰り道を辿る感動的なラストシーン。
決して振り返ってはいけないよ、とハクに念を押されていたため、千尋は振り返りませんでした。
でも待ってください、もし帰る途中で髪留めが切れてしまったら?振り返っちゃいますよね。
そんなタイミングで偶然髪留めが切れることないと思うでしょう。でも、魔法が現実の世界に戻る時に切れるとしたら?
では、油屋の世界の魔法が現実の世界に行くと切れるという証拠あるんでしょうか?
まず一つ目。序盤の千尋が透明化すること。現実の世界の物は、油屋のある世界(八百万の世界)では存在できないんですよね。
つまり、この現象から行くと逆の現象、八百万の世界から現実の世界に行く際には魔法などの現象が消えてしまうのではないでしょうか。
二つ目。湯婆婆の部屋でセンが契約したとき、散らかった部屋でテーブルライトスタンドの傾きだけ湯婆婆は魔法ではなく手で直しています。
これは、魔法が干渉できない物を暗示しているのではないでしょうか。その上で千尋が入ったトンネルが魔法が干渉できないものだとすると、そこで髪留めの魔法が切れてしまう恐れがあった。

三つ目。呪い(まじない)あるいは魔法について。本作品の呪いはなにか?
本作品で呪いをかけられている者たちは複数名います。千尋は名前を奪われて支配されるという呪いをかけられています。このまじないを解く方法はなにか。真実を見抜くことです。
豚の中から親を見つけるシーン。あれは親の呪いを解くのではなく、千尋の呪いを解くシーンです。事実、彼女が真実を見抜いたとき、千尋の契約書が破棄されます。
そしてこのシーンで湯婆婆の言った「この世界の理」は4つ目の理由によって明らかにされます。

4つ目。まじないは解かねば帰れない。これはハクの呪いから考えられます。ハクは、千尋が帰る前に私はそちら側(川の向こう)には行けない、だが湯婆婆と話をして弟子を辞めたらそちらに行くと言っています。つまり、まじないを解かねば帰れないというルールが八百万の神々の世界にはあった。ハクも、名前は取り戻したが、湯婆婆との子弟の契約が残っているから帰れないということだと考えられます。
とすると、提唱した説とは別の説で、魔法(まじない)がかかっていたら帰れないことを銭婆は知っていたため、髪留めを手作業で作ったことが考えられます。



何故髪留めをお守りとして送ったか…については、論理的理由ではなく、感情的な理由であってほしいですね。

この作品でいう名前の意味について。簡単に書きます。
名前を忘れると、帰り方を忘れる。つまり、自分が何者であるか忘れるという事です。自分が何者か忘れたのがハクです。
そして、真名をしっかりと覚えていた千尋は自分が何者か覚えていたため、自分のルーツである親が豚の中にいるか見破れたという説もあるかもしれません。


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さて、私は映像面についてもしっかり触れていきたいと思うのですが、すこし感性が枯れたせいか、少なめになりそうです。
まず、久しぶりにジブリをスクリーンで見た感想について。
自宅では用意できない様な大きな画面で見ると、やはり小さな仕掛けについても気付くことが出来ますね。千尋が木の階段が壊れて走り落ちる序盤のシーン、壊れた木の板の釘が抜けかかっている事に気付くことが出来ました。
一番大きいメリットは、やはり水彩画の背景における微妙な色合いの表現を、細かく観察できることですね。雨が降った後、油屋から見る海の風景は、日中から日没まで、美しさが変わっていきます。テレビでは味わえない風景を広さと色合いの繊細さを感じることが出来ると思います。


小ネタとしてどうしても言いたいシーンがあります。エレベーターで一緒になった大根の神様。かの御方は船で神々が油屋に到着するシーンから最後の豚を見分けるシーンまでいるのですが、この方、実はめっちゃ紳士ですよね。

エレベーターで千尋と一緒になった時、彼は目的の階に到着しても降りるのをやめて、一旦最上階まで千尋と一緒に上がってるんですね。
これはもし千尋が従業員等に見つかってしまいそうになった時に、自分を壁にして逃がしてあげようという配慮ではないでしょうか?
こういった心遣いを気付けるようになったのは、個人的にはちょっと嬉しかったですね。

さて、今回の視聴のまとめです。
感想としてはかなり物語を掘り下げる形になってしまったんですが、やはり映像の凄さがなければこれほど深く入り込めることはないと思います。かといって、美しさを追求しているのではなく、ジブリは五感を呼び起こす映像づくりが凄いと感じましたね。それは、風のうなりであったり、ガラス窓の振動であったり、風に吹かれる髪のうっとおしさであったりなど。よく言われるのは飯が美味しそうという事ですが、やはり、匂いや味を感じさせるような絵作りがうまいと感じます。
個人的に今回とびきり好きだったのは、海になった地上の夜景をセンと千尋が風を感じながら眺めるシーンですね。月明かりの暖かさ、遠い町への期待のようなものも感じられてとても良かったです。
リバイバル上映、いつまでやっているかはわかりませんが、ナウシカやトトロもやっているそうなので、近日また行きたいですね。


金曜ロードショーで視聴した際の感想はこちら↓

映画館で見たときは、一つ一つのシーンの雰囲気にのまれたんですが、どうも、テレビで見るとあれっ?あんまり入り込めないな、という感じでした。

今回の視聴では、初視聴時に感じた「雰囲気」に対する感情を思い出しながら、「懐かしいな」と思いながら視聴。
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まず、親が飯を食べ出すシーンですが、千尋は親の言葉を聞かずに食べない。自分も、知らない土地や知らない店に親に連れられて行った時に、強い恐怖感や拒否感を感じました。子供特有の知らないものに対する拒否感は皆感じているのでしょうか。

次、夕暮れから町並みに明かりが灯り、河原まで走るシーン。豚姿の親の気持ち悪さで恐怖感や孤独感がましていき、影のような人に気味の悪い物を覚えます。あの川原でうずくまっているとき、恐ろしいけど明るい町と、そこから逃げるように来た静かな川原から、動きたくないような、帰りたいような、そんな気持ちにさせてくれます。

中盤についても少し。顔ナシの印象。最初はその笑顔のお面で佇む姿に気味の悪さを感じます。千尋に気に入られようと湯の札(札という面白い設定にも引き込まれます)を一杯持ってきたり、カエルをひと飲みするその姿にどんどん恐怖が募っていきます。最初は大人しそうなのに、どんどん凶暴になっていくその姿に、気味の悪さと恐ろしさを感じる、見ているひとを物語に引き込んでいく魅力を持っているキャラクターですね。

とまあ、好きなシーンやキャラクターは色々あるのですが、一番のシーンは、電車から見える風景のシーン。浅い海の遠くに見える街には何があるんだろうという期待感、海にポツンとあるあの家に何故か心惹かれる感覚、やがて夕暮れになって明かりのついた家々を遠くにみたときの心の騒ぎ。じっと電車の中で座っている千尋たちをよそに、影の人たちは荷物をおろし、電車を降りていく。あのときの取り残されたような孤独感と静寂がなにか心地いい。

最初と最後に出てくるトンネルの前のベンチがおいてあるあの建物の時が止まったような静けさが大好きです。
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【総評】
物語性よりも、圧倒的世界観、雰囲気を感じることで、この作品が凄いと思えるのではないでしょうか。
序盤は雰囲気による恐怖感に飲まれ、中盤は華やかさによる楽しさがあり、後半は喧騒の後の静寂が心地良い。

ストーリーはあまり気にならなかったのですが、圧倒的な雰囲気が記憶に残った作品でした。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 47
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.9

思い出の作品ではないけれど、思い入れのある作品

あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。

 2時間くらい。3回か4回くらいは見ていると思います。

 先日トトロを視聴して、その流れでポニョも見て、で、ポニョのレビューを書こうと思っていたのですが、上手くまとまらなかったのでこちらに逃げてきました。千と千尋は有名な作品ですから、重箱の隅をつつくようなレビューを書くつもりはありません。むしろ書きたいのは重箱について、ですかね。

 千と千尋は少女の冒険譚ですから、魔女宅に近い作品と言えます。魔女宅は、魔女という異質な少女が普通の都会へ行く話。千と千尋は、普通の少女が異質な世界へ行く話。アプローチは逆で、テーマは同じというやつですね。


異世界のモチーフ:{netabare}
 千と千尋では異世界が描かれていますが、ここまで露骨に描かれているジブリ作品は珍しい気がします。

 千尋は「トンネル」を通って異世界に行き、「川」を渡って物語の舞台へと到達します。で、帰りも「トンネル」を通って帰ってくる。その帰り際に、ハクから「振り向いちゃいけないよ」と言われます。

 これと同じ構造の物語があります。ギリシャ神話のオルフェウスの話です。千と千尋とオルフェウスの類似性に関しては、あまり異論のないところだと思われます。
 オルフェウスは、亡くなってしまった妻を取り戻しに冥界へと赴きます。「洞窟」を通って、「三途の川」を渡り、冥王ハーデスの元へたどり着きます。そこでハーデスから妻を連れ帰ることを許されますが、その際に元の世界へ帰るまでは「振り返ってはいけない」と言われます。そしてまた、「洞窟」を通って元の世界を目指します。

 異世界の往路と復路に加え、禁止のルールまでが一緒です。経緯は違いますが、連れ帰るという目的も一緒。日本神話のイザナギの話も同じような流れを持っていますが、「川」の存在を踏まえるとギリシャ神話の方が近そうですね。トンネルを抜け川を越えた先は、冥界に等しいものだったと言えます。

 なお、宮崎駿作品でギリシャ神話の引用がされるのはこれが初めてではありません。漫画版ナウシカの第1巻で、「ナウシカは、ギリシヤの叙事詩オデュッセイアに登場するパイアキアの王女の名前である」と監督自身が述べています。ナウシカもギリシャ神話の出身でした。
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神隠し:{netabare}
 千尋は、冥界、実質的には死の世界に行っていたことになります。千尋は死んじゃったの?という問いについての回答がこのレビューの主題なんですが、それについては後々述べることとして、まずは死の世界と現世の距離感について確認しておきます。

 宗教的には、死生観を含めて、死を考えることが非常に重要な要素になります。そのため、死の世界を現世とは隔離されたものとみるのが一般的です。私たちが死の世界と言うときは、このような隔離された世界の感覚で話していることが多いのではないでしょうか。

 ただ、神話の世界においては、死の世界はもっと近くにあるものです。オルフェウスやイザナギのように、洞窟を通れば冥界や黄泉の国へ行けてしまう。さすがに「ちょっとそこまで」という気分で行けるものではないのでしょうが、隔離された世界ではなく、つながった世界なんです。死の世界なんて言うよりも「あっちの世界」くらいが丁度いい。

 すぐそこにある世界、でもこことは異なる世界。そんな微妙な距離感を持つ「あっちの世界」での冒険を、宮崎駿監督は「神隠し」と表現したんだと思います。
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特別ルール:{netabare}
 こんなに近い「あっちの世界」。「こっちの世界」と一体どこが違うのか。それが特別ルールですね。

 最も重要なのが禁忌(タブー)です。「振り返ってはならない」と言われたオルフェウス、「見てはいけない」と言われたイザナギ、浦島太郎を「あっちの世界」の話とするなら「開けてはならない」になります。千と千尋では、前述の通りに、唐突な「振り向いちゃいけないよ」がありました。理由の不要なルールなんです。

 千と千尋には、他にもたくさんのルールがありました。ハクやリン、カマジイ辺りはいろいろと千尋に教えてくれていました。千尋が両親と帰るためにも、ルールに従う必要がありましたし、こればかりはユバーバでもどうにもなりませんでした。ユバーバは「こんな誓いを立てるんじゃなかった」と言ってましたから、ユバーバが誓いを立てる先、上位の存在がいることも窺えます。
{/netabare}

食事①:{netabare}
 次に重要そうなのは食べ物に関するルールでしょうか。「あっちの世界」の食べ物を食べると「あっちの世界」の住人になってしまいます。ギリシャ神話ならザクロの実ですね。

 千尋が食事をするシーンは全部で3回あります。ハクからもらった赤い何かと、ハクからもらったおにぎりと、リンから分けられた大きな饅頭のようなものです。千尋は「あっちの世界」の住人になってしまったのか、という仔細を述べる前に、引用元のギリシャ神話を確認しておきます。
 
 ギリシャ神話でザクロの実を食べたのはペルセポネという女神様です。彼女は冥界に連れ去られてしまいました。そこで、ハーデスに差し出されたザクロの実の中身12粒のうち、4粒を食べてしまうんですね。そのせいで1年(12ヶ月)のうちの4ヶ月を冥界で過ごさなければならなくなってしまいました。残りの8ヶ月は「こっちの世界」に帰って来れていますけどね。

 ちなみに、これに激怒したのがペルセポネのお母さんであるデメテル。豊穣の女神様なんですけど、ペルセポネのいない4カ月の間は地上に実りをもたらすのを止めました。これが冬の起源。ペルセポネが帰ってくると春が始まるわけですから、ペルセポネは春の女神様です。冥王ハーデスの妻なのに春の女神様。私にはすごく違和感があるのですが、やはり神話においては「あっちの世界」は近いもののようです。
{/netabare}

食事②:{netabare}
 千尋は「あっちの世界」の食べ物を食べて、「あっちの世界」の住人になってしまったのでしょうか。帰って来るのはペルセポネと同様に問題なさそうですけどね。では、千尋が食べた3つの食べ物を確認してみます。

 まずは、ハクからもらった赤い何か。これがいきなりの大問題です。
 この赤い何かが何であるのかは明らかにされていませんが、おそらくザクロの実の中身を暗示したものだと思います。気になる方は作中の赤い何かとザクロの実の中身を比べて、その類似性を確認してみるといいかもしれません。すごく良く似ています。ハクは、千尋が消えかけているときにこれを食べさせています。千尋が消えてしまわないように、つまり、「あっちの世界」に馴染むために食べさせていますから、千尋は「あっちの世界」の食べ物を口にしてしまったのです。

 神話を前提にするなら、ザクロの実の中身を1粒食べた千尋は、毎年1ヶ月は「あっちの世界」ツアーに行かなければならなくなってしまいます。さすがにこれは大問題ですから、何かしらこれを解決する方法が採られていたはずです。
 おそらく、「12粒のうちの1粒」ではなく、「ただの1粒」だったから問題なかったのではないかと思われます。ここが神話と違うところですし、これなら毎年ではなく、1回だけ「あっちの世界」に1ヶ月間滞在すれば問題なし、という結論でも許されそうですね。
 千尋がどのくらいの期間「あっちの世界」に居たかは明らかにされていませんが、作中の月の満ち欠け(※)が一巡してそうなので、少なくとも1ヶ月はいたようです。もちろん「こっちの世界」の時間は別問題。

(※)千と千尋の月の描写
 月は作中で3回出てきます。①オクサレ様が帰る時の満月、②沼の底駅の上限の月、③ハクに乗って帰る時の大きめの上限の月。②から③は満月に向かっています。①のもう少し前から物語が始まるので、満月手前から満月を経由して満月手前までが滞在期間。これで1ヶ月ですね。

 次に、ハクから貰ったおにぎり。
 おにぎりは、事情を知っているハクが「まじないをかけた」ものだと言っています。「あっちの世界」の住人にならないためのまじないでしょうから、おそらく問題ないのでしょう。赤い何かにもまじないがかけられていたと考えたくもなるのですが、その可能性はないでしょうね。千尋が消えてしまいますから。

 最後に、リンから貰った大きな饅頭のようなもの。
 リンは事情をある程度は知っているものの、まじないの類は使えそうにないので際どい感じがあります。ただ、千尋は直前に苦団子を口に含んでいました。苦団子の効果は吐き出させるというものでしたから、実質的には食べていなかったといったところでしょう。こちらも問題はなさそうです。

 お父さんとお母さんの食事が原因でもありますし、千尋の食事のシーンにはかなり気を使っていたのが窺えます。
{/netabare}

死んだ??:{netabare}
 では、千尋は死んでいたのかについて。
 「あっちの世界」が描かれると、条件反射のように「死んだ!」と考えたくなってしまうのですが、もちろん死んでいません。以上で述べてきたように、日本っぽさのあふれる千と千尋の世界は、ギリシャ神話が大きく影響しているのが分かると思います。どちらも神様がたくさんいますから、その関連性の高さに目を付けたのかもしれません。で、千尋の生死もこれらの影響を受けていると見ていいはずです。

 オルフェウスは、生きたまま冥府に辿りつき、生きたまま帰ってきます。千尋も生きたまま行って、生きたまま帰ってきた。これで良いんだと思います。死の世界を描くことと、実際に死ぬことは、やっぱり違うんです。
{/netabare}

エンディング:{netabare}
 千尋が無事に生きていたことが分かったところで、この物語のトンネルを抜けた後について言及しておきます。

 オルフェウスは「振り返ってはいけない」と言われたのに振り返ってしまった。禁忌を犯した彼は、無事に「こっちの世界」に帰って来れたものの、妻を連れて帰ることは出来ませんでした。禁忌を犯すと何かを失ってしまうのです。

 千尋は成長できたのか、というと、残念ながら出来ませんでした。正確に言うのなら、「あっちの世界」では成長できたものの、「こっちの世界」への影響はなかったんです。行きと帰りの両方で描かれるお母さんにすがる様とお母さんの同じセリフは、千尋が成長できなかったことを描いていていました。
 ですが、千尋は無事に禁忌を犯すことなく、帰ってくることが出来ました。つまり、オルフェウスと違って何かを得ることが出来たのです。それが最後に光るゼニーバからもらった髪留め。

 ゼニーバは「一度あったことは忘れないものさ、思い出せないだけで」と言っていました。これはハクの名前を思い出せることを述べたものですが、それだけではなく、この千と千尋の世界全体に係る言葉、テーマを象徴する言葉だったんだと思います。千尋にも思い出せなくとも忘れない何かが残ったのでしょうね。
 子供は忘れてしまうかもしれないけど、思い出作りは大切だよってメッセージですかね。
{/netabare}

おまけ:{netabare}
 おまけその①。ハクに対して「八つ裂き」という言葉がぶつけられます。これもギリシャ神話がらみだと思います。オルフェウスの末路が八つ裂きですから。
 とはいえ、ハクの末路が八つ裂きだとは思いませんけどね。件のセリフは、覚悟を問うたものであるというのが理由の一つ。もう一つの理由は、千と千尋がオルフェウスのifストーリーだからです。千尋が神話を覆したのと同様に、ハクも覆す側だったという方がしっくり来ます。そもそもオルフェウス役は千尋ですしね。

 おまけその②。今度は風俗がらみの話。
 千尋の腹痛が描かれていますよね。これは生理を象徴したものだと思います。千尋は腹痛の後に、オクサレ様のお世話をしています。床掃除をしていた見習いの千尋が、腹痛を契機として一人前になったということです。
 「宮崎駿監督は、性を隠し過ぎる!」なんて指摘もありますよね。まぁ、おっしゃる通りで(笑)
{/netabare}

 神話の引用が多かったし、外観にしか触れなかったため、文章量の割には薄っぺらな内容になってしまいましたね。千と千尋のレビューでは全く違う内容を書こうと思っていたんですが、以前トトロのレビューで書いた「死を描くことと実際に死ぬことは違う」ってことの具体化で使ってしまった、というオチです。ご勘弁を。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 19
ネタバレ

ぺし さんの感想・評価

★★★★★ 4.3

トンネルの向こうは、不思議の街でした。

たぶん見たことない人の方が少ないと思うので、あらすじはあにこれのをご覧下さい♪

ジブリの中では3番目に好きな作品です。ただ好き嫌いを除いて評価すれば、手書きのアニメーションに置ける最高傑作だと思います。粗が見当たらない。日本興行収入第1位の作品というのも納得がいきます。


中途半端で物語に入り込めないという方も居ますが、そもそもジブリ作品というのはあまり説明をしないので、見る側に多分に解釈の余地が与えられています。
なので完全な答えを求める方には向かないかもしれません。あと、説教臭くてジブリアニメは嫌いだって人もいますね。(自分は好きですが…。)

ジブリ作品と言えば風刺って言う人も多いです。特にこの作品にはそれが顕著に表されてる気がします。そこで、個人的にここ風刺だなぁと思った所を書いていきたいと思います。

{netabare}
・千尋のお母さんの冷たさ
見ててこの人なんか千尋に冷たいなぁと思ったことありませんか? これは現代社会(2001年当時ではあるが…)の一種の母親像だと思う。共働きで独立心が強く、「子供だから」という理由で何でも許されるのを嫌い、子供にも自立心を求める。また、千尋のお母さんは、化粧や出で立ちが割りと派手。「母親」というよりも「女」というイメージが先行する。←これは母親になるという覚悟が足りないままに子供を産んだ結果、虐待や育児放棄をしてしまう事への風刺に見える。

・父親の自分勝手さ
これはたぶん見てれば分かるんですけど、家族の安全も考えずに興味本位で舗装されていない道を突き進む所なんかは凄く自分勝手ですよね(-_-;)
これも家族とはどうあるべきかっていう風刺に思えます。…だからこの2人ブタにされちゃいましたよね(゜ロ゜;

・湯婆婆の坊への接し方
周囲の事は全く意に介さず、自分の子供だけを特別に扱う。これでもかと甘やかして束縛する。←過保護や過干渉への風刺。これだけ大事にしているのに、湯婆婆は姿を変えられた坊に気づけませんでした。子供の何を見ていたのでしょうか? 「千尋と坊」「千尋の親と湯婆婆」そんな対比にも見えます。時には厳しく、時には優しく…厳しさと優しさのバランスを上手く取れると悲しい事件も減るのかも(*_*)

・オクサレ神
最初出てきた時は、カエルが気絶し、リンの持っていたご飯が一瞬で腐るほど、汚い神様として出てきました。ですがその正体は水の神様。←これは水質汚染への風刺だと思いました。
{/netabare}

見る人によって色んな解釈がある今作。ここからは私個人の解釈を書きたいと思います。
{netabare}
・千尋が湯婆婆に渡された契約書に名前を書くシーン
気付いている人も沢山いると思います。実はこの時千尋は自分の字を間違えて書くんです。「荻野千尋」の「荻」の 火を犬と書いてしまいます。←これは自分の名前を忘れると支配されるこの世界において既に初期症状が出ていたんじゃないかなぁと思います。

・千尋の靴
これはあんまり他に言う人がいないので、自分の勘違いかもしれません。釜爺の所に居るススワタリ(まっくろくろすけみたいなヤツ)が、千尋の靴に群がったり、靴を運んだりするシーン。←これは、千尋が川(ハクの現実世界の姿)に靴を落としたって話した時の伏線だったんじゃないかと思いました。何気無いシーンなのに意外と長く映っていた気がします。

・カオナシとは何か
これは良く言われているけど、人間のお金に対する欲望そのものという解釈。
その証拠にお金の欲望に負けた人間は皆カオナシに喰われてしまった。千尋にも砂金を渡そうとするけど断られる。←これは千尋を試したんじゃないかと思いました。

・列車
銭婆の家に向かう為に千尋達が乗った列車。死者をあの世へ送り届けるための乗り物だという説があります。それが理由なのかこの列車には行きしかありません。

また、途中にある駅に寂しそうに佇む少女の姿があります。これは死んだ兄の帰りを待つ節子なんではないか?と思いました。そう考えるとこの列車が死者を運んでいるという事に説得力が出てきますね。

さらに列車の中にいる人はほとんどが黒く透けていました。これは自殺してしまった人なんじゃないかなと思いました。明日への希望を見出だせず死んでしまったから黒く透けている。←こじつけかもしれないですけど(-_-;)
〈追記〉釜爺が「昔は帰りの電車もあったのじゃが…」的な事を言っていたらしいので、また違う解釈があるのかもしれません♪

・トンネルの色
行きは真っ赤な色をしていたのですが、帰りは普通のトンネルになっています。この時、車の回りの草木も行きの時と比べて不自然に生い茂っているように見えます。←これはたぶんですけど、帰りの景色が本来の姿だったんだと思います。最初にここに来た時点で向こうの世界に引き寄せられていたから、赤いトンネルに見えたのかなと。

・銭婆の一言
千尋達が銭婆の家に来た時。「私達は2人で1つなのにねぇ…どうにも気が合わなくて」みたいな事を言っています(記憶が曖昧ですが)。ここで自分が思った事は、湯婆婆と銭婆は元々1人だったんじゃないかと。←だってただの双子がそんなこと言うのかなぁと。そもそもこの2人の争点になっているのが、この世界のルールを決めるための印鑑です。

湯婆婆は本当は元の1人に戻りたい。その方がこの世界における自分の力が強くなるから。けどもし1人に戻った時、自分の自我が消えてしまうかもしれない。その為にあの印鑑を欲した。けれど、銭婆はせっかく2人に別れたのだから1人には戻りたくない。だから印鑑を渡したくなかった。

この解釈は自分の妄想に近いです(笑) 他の部分に比べて説得力も薄いので、深読みし過ぎな感じもします(--;)
{/netabare}


個人的に気になった点
{netabare}
千尋のいる部屋に龍の姿になったハクが逃げ込み、千尋が閉める戸に無数の式神が突き刺さるシーン。←これ、ハリーポッター賢者の石に出てくる鍵鳥が、無数に扉に突き刺さるシーンに凄く似ている。あまりにも似ているので、どちらかが影響を受けたんじゃないか?と勘ぐっちゃいました(笑)

あと、銭婆と湯婆婆の名前を合わせると、銭湯になります。やっぱ元は1人だったんじゃないかな(^-^;
{/netabare}


ここまで色々書いてきましたけど、あくまで推測、空想の域を出ないので、見る人によって感じ方は沢山あると思います。でも、製作側の意図した事を少しでも汲み取れたていたら良いなぁと感じています(*^^*)

レビューを書くに至って、色々調べたんですが、なるべく自分の言葉で書いたつもりです。ここ違うだろ、自分はこう思うなって、メッセージくれたりすると嬉しいですね(*^^*)

長文、乱文失礼しました\(__)
最後まで見てくれた方は本当にありがとうごさいました!!

投稿 : 2024/11/02
♥ : 53

88.1 2 スタジオジブリで田舎なアニメランキング2位
となりのトトロ(アニメ映画)

1988年4月16日
★★★★☆ 4.0 (1645)
11328人が棚に入れました
小学3年生のサツキと5歳になるメイは、お父さんと一緒に都会から田舎の一軒屋にと引っ越してきた。それは退院が近い入院中のお母さんを、空気のきれいな家で迎えるためだった。近くの農家の少年カンタに「オバケ屋敷!」と脅かされたが、事実、その家で最初に二人を迎えたのは、“ススワタリ"というオバケだった。ある日、メイは庭で2匹の不思議な生き物に出会った。それはトトロというオバケで、メイが後をつけると森の奥では、さらに大きなトトロが眠っていた。そして、メイは大喜びで、サツキとお父さんにトトロと会ったことを話して聞かせるのだった。

声優・キャラクター
日髙のり子、坂本千夏、雨傘利幸、糸井重里、島本須美、北林谷栄、高木均
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.8

久々に

 何回目の視聴かは分かりません。90分弱の作品。
 久々に甥っ子と視聴したんですが、改めてすごい作品だなと思いました。作品自体のすごさももちろんあるのですが、何よりも国民的な思い出の作品になってしまっていることがすごい。私が見ても面白いし、園児が見ても楽しめる。素直にすごいな、と思いました。
 まぁひたすらネコバスのシーンをリピートさせられて、正直辟易したんですけどね…。


引っ越し:{netabare}
 トトロの引っ越しの特徴は、家族が欠けた状態であることと、都会から田舎に引っ越していることです。

 何度も繰り返し見ているために、お母さんが入院中であることは前提みたいに捉えてしまうのですが、作中でこれが明らかにされるのは開始後20分ごろでした。仮に初見だとすると、お母さんは既に亡くなっているのかな、という感覚で引っ越しのシーンを見ることになると思います。楽しげな家族の引っ越しシーンでありながら、家族の重要な要素が欠けている様が描かれています。

 都会から田舎への引っ越しであることはセリフとしては明らかにされていませんが、描写からは明らかです。サツキのファッションは他の同級生たちよりもずいぶんおしゃれですし、お弁当の内容も電話などの時代背景から想像されるものよりもずっとカラフルですからね。自然に触れて喜んでいるのも都会出身だからこそだと思います。都会で育っていることは間違いないでしょう。で、この都会から田舎へというのは、トトロのいないところからトトロのいるところへ、ということでもあります。


 同じ世界観で引っ越しが描かれる作品は他にもあって、それは魔女宅。アプローチは逆です。
 欠けている家族を描いているのではなくて、家族から欠ける側を描いています。キキは仲睦まじい両親の元から離れていく側です。
 都会から田舎への引っ越しではなくて、田舎から都会への引っ越しをしています。魔法の薬やホウキで空を飛ぶキキを友人たちが見送ることなど、田舎では魔法が日常の中で受け入れられています。一方、都会では魔法は認知もされていません。つまり、魔法のあるところから魔法の無いところへの引っ越しです。

 家族仲が良好であったり、トトロや魔法などの都会にないものが田舎にはあったり、どちらの作品も世界観としては共通しているのですが、アプローチとしては真逆なんだと思います。
 トトロの直後の作品が魔女宅ですから、当時の宮崎駿監督の世界に対する認識が垣間見えます。テーマの一つである田舎にあるものの重要性を、同じ世界観を表と裏の両面から見ることで描いていました。


 この構造がガラッと変わる引っ越しがあります。それが千と千尋。
 家族の全員で引っ越しをしているにも関わらず、楽しげな様子はありません。都会と田舎という対比の中でドラマが用意されているのではなく、ドラマが起こるのは異世界になってしまいます。
 都会と田舎の対比がされない以上、引っ越しではなく旅行でも話は進められたと思うのですが、あえて引っ越しから始めたことで、上で挙げた2作品との対比を作っていたように思えます。都会と田舎で対比が出来るような時代ではなくなってしまったということなのかもしれません。
{/netabare}

不在への振る舞い:{netabare}
 トトロの物語にはワクワクするような楽しいシーンが多いのですが、トラブルのシーンも結構多いですよね。作中で起こる大きめのトラブルをまとめるとこんな感じ。

 庭にいたはずのメイが行方不明。お父さんが帰ってこない。
 学校に来てしまうメイ。お母さんが死ぬかもしれない。

 共通点は誰かが不在であることへの振る舞いであると思うんです。上で書いた引っ越しも、母親不在における家族の振る舞いとして捉えられます。もちろん究極的な不在は、最後に出てくる「死」です。その前までの不在は、最後に出てくる「死」へのステップとして描かれていたように感じます。

 家族の不在に対するメイの振る舞いは、とても分かりやすいです。
 サツキが学校に行ってしまっても、お父さんが近くにいれば何も問題はありません。ですが、お父さんまでいないとなると耐えられないんです。サツキを追って学校まで来てしまいます。お父さんの帰りが遅くてもサツキといれば耐えられる、というのも同様です。そばにいる家族が必要なのであって、近所のおばあちゃんではダメなのです。

 では、サツキはどうなのかというと、メイよりは高いところで不在への耐性があります。
 サツキは家族の中で母親の役割を十二分に果たしています。家事をしたり、メイの面倒を見たり。これらのシーンは何度も繰り返し遡及され、かなり強調されています。メイほど幼くはないのです。
 ですが、如何にサツキが母親の役割を全う出来ていたとしても、現実の母親の死の保険にはなり得ませんでした。サツキは単なる不在には耐えられます。しかし、母親の役割を持つサツキですらも、現実の母親の死という究極的な不在には耐えられませんでした。サツキほど自立をしていても、子供にとって親の代替は存在しないんだ、ということです。

 この家族観を大きなスケールで捉えたものが社会的なコミュニティです。父親が不在であっても、サツキとメイを救う手はコミュニティには存在しているのです。これが前項で述べた「田舎にあるもの」へとつながっていきます。トトロの存在自体は「田舎にあるもの」を象徴化させたものですが、トトロの存在を消してこの作品を見たとしても、「田舎にあるもの」の重要性はゆるぎないものだったと感じました。

 しばしばトトロにはテーマがないとか中身がないなんて言われたりしますが、そこまで言うほどストーリー偏重ではないように思えます。
{/netabare}

雑記:{netabare}
 トトロの上映時間を調べるためにググったら、都市伝説がかなり上の方の検索結果に出てきたので驚きました。公式で否定されているとかそういうことはどうでも良くて、それ以前にこの意見が出て来ること自体にも、かつそれが広く認知されてしまうことにも違和感を覚えます。

 そもそも死をテーマとして描く作品で、実際に人を死なせる必要など皆無です。死は象徴的に描けばいいのであって、実際に誰かを殺すこととは次元の違う話だと思います。象徴物としてや構造的(境界的)に死を描いた作品はたくさんありますし、そのような作品では、何が死を担っているのか、境界のどちら側にいるのか、というのが重要なのであって、やはり実際の死とはリンクしていないように思えます。
 都市伝説のネタ的な面白さには同意しますけどね。久々に読んだのでの面白かったです(笑)
{/netabare}

投稿 : 2024/11/02
♥ : 12

みかみ(みみかき) さんの感想・評価

★★★★★ 4.1

リアルな雨のよる(追記:鈴木さんのこと。あるいはパヤオのこと)

昨年、中日新聞がテレビ欄の紹介文で、
「少女は2匹の不思議な生き物を執念深く追う」
という紹介をしたことで、話題になったりしたな…というどうでもいいネタを思い出したりしましたが、それはさておき、



「子供向けアニメ」とされていますが、実際には必ずしも、子供向けアニメではないように思っています。というのも、わたしが子供のころは、地味な話なのでけっこう退屈で……もっとラピュタとかドラゴンボールみたいな、わーっと、元気なおとこのこが大活躍するようなはなしがいいわぁ、と思っていました。こんなリアルな雨の夜の描写とか…なんか怖いこと思い出すし、あんまりたのしくないわぁ…
 とか。思っていましたよ。



 で、逆に、年をある程度とってからみると、このリアルな夜の描写とかが逆にいかにすぐれているのか、とかということをまざまざと思い知るわけです。とんでもなく、よくできている…!
 わたしは、トトロと魔女宅は、子供のころと大人になってからで評価が逆転したのですが、そういうお子さんだった人ってほかにはいないものなのでしょうか。

■追記:パヤオの口の悪さをめぐって

 (これは、トトロじゃなくてもよかったのだけど、とりあえず、ここに書いておく)

 パヤオは、しかし、こういうものを作る人でありながら、一方で非常に口がわるい、という話がある。っていうか、口が悪い。
 たとえば、手塚治虫御大の追悼本のなかで、手塚をボロクソに批判する、という所業をパヤオはやって遂げている。はっきりといって、パヤオはある意味でイカれている。おいおい、お前、言いたいことはわかるけど、大丈夫かよって、ちょっと心配になる。
 でも、まあ、ある程度、大規模なオペレーションが必要な映画・アニメ・ゲームなどのコンテンツ制作においては、ディレクター/監督の役割をはたす人は、たいがいイッちゃってる。ある人は「強靭なメンタル系」と言っていたが、ストレス耐性があるとかって人は要するに、イッちゃってるんですよ。ほとんど。
 わたしの知る限り、イッちゃってない人は、たいがい「あっ、自分には大規模開発は無理だわ…」ということを悟って、1作か、2作をつくったところで、強力なオペレーションが必要とされる大規模開発からはフェイドアウトしていく。
 なんで、イッちゃってる必要があるか、というと「無理な要求」を通す必要が何度も生じるからだ。無理な要求、をスタッフに求めるときに、それを言うことのできる強靭なメンタル・タフネス。そして、それによって恨みを買っても耐えることのできる鈍感さ。それがイッちゃってる、ということの強みだ。

 で、ただ、イッちゃってる人は本人一人だけだと、あまり仕事がうまく回らない。だって、周囲が振り回されるだけだからね。「なんなの、あいつ。すごいのはわかるけど、あの言い方はなんなの?」と周囲はストレスをためる。イッちゃってる天才は「なんで、うちのスタッフどもは、この程度のことが理解できないのか…!!!!!!」とストレスをためる。天才には当然みえている孤独な複雑系。それが、周囲の人間には見えていない。
 なので、絶対に、右腕となる調整役の人が必要になる。パヤオの場合は、やっぱみんな言ってるけど、鈴木敏夫の存在はやはり非常にでかいよね。鈴木さんの立ち回りのうまさや、パヤオと周囲との関係の調整能力がなければ、ぜったいに巨才・パヤオは成立してなかったろうと思う。
 「一発屋」系の天才の人って世の中にけっこういるけれど、そういう人って多くの場合、信頼できる右腕と出会えてないんだよね。だからこそ、一発屋、で終わってしまう。巨大な才能を安定的に出していくための、体制にめぐまれない。これはとてもとても惜しいことだ。本人もものすごいストレスを抱えるし、周りの人もものすごいストレスをかかえる。そういう現場を見ていると、わたしも人ごとでない気がする。

 パヤオが、鈴木さんを通じて仕事を非常にうまくできるようになってきた、80年代。トトロみたいな作品もつくれて、本当にパヤオは、幸せなやつだなぁ、としみじみ思う。
 わたしは、パヤオもすごいと思うけど、鈴木さん、本当にすごいと思う。こういう、イッちゃってる系の人の対応をするのって、本気で疲れるというか、大変だもの。
 相手が目上だったりしたら、なおさら、ぜったいに無理だよね。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 14

ピピン林檎 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.4

スタジオジブリ制作アニメ22作品 《一括評価》

※個人的な暫定評価&まとめページです。
※なお、『風の谷のナウシカ』(トップクラフト制作)等、ジブリ以外の制作スタジオの作品は含みません。

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 作品名           (放送・公開時期) (監督)  興行収入  個人評価
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天空の城ラピュタ        (1986年)(駿)    11.6億円 ☆ 3.8
となりのトトロ/火垂るの墓   (1988年)(駿)/(高) 11.7億円 ×/× 3.4/3.2 ※同時上映
魔女の宅急便          (1989年)(駿)    36.5億円 ★★ 4.5
おもひでぽろぽろ        (1991年)(高)    31.8億円 ★ 4.2
紅の豚             (1992年)(駿)     47.6億円 ★★ 4.5
海がきこえる          (1993年)(望)    ※TV放送     ★ 4.1 
平成狸合戦ぽんぽこ       (1994年)(高)     44.7億円 × 3..4
耳をすませば/On Your Mark (1995年)(近)/(駿)  31.5億円 ★/× 4.4/3.1 ※同時上映
もののけ姫           (1997年)(駿)    193億円  ★ 4.0 *興収3位
ホーホケキョ となりの山田くん (1999年)(高)    15.6億円 × 3.1
千と千尋の神隠し        (2001年)(駿)    304億円  ☆ 3.9 *興収1位
猫の恩返し           (2002年)(森)     64.6億円 ☆ 3.6
ハウルの動く城         (2004年)(駿)     196億円  ☆ 3.8 *興収2位
ゲド戦記            (2006年)(吾)      76.5億円 × 3.3
崖の上のポニョ         (2008年)(駿)     155億円  × 3.2 *興収4位
借りぐらしのアリエッティ    (2010年)(米)      92.5億円 × 3.4
コクリコ坂から         (2011年)(吾)      44.6億円 ★ 4.2
風立ちぬ            (2013年)(駿)     120億円  ★★ 4.5 *興収5位
かぐや姫の物語         (2013年)(高)    24.7億円 ★ 4.3
思い出のマーニー        (2014年)(米)    35.3億円 ☆ 3.9
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★★★(神作)0、★★(優秀作)3、★(良作)6、☆(凡作)5、×(駄作)8 計22作品 (平均) 3.8


◇関連レビュー

※(駿)宮崎駿監督作品 → 『天空の城ラピュタ』 で一括評価 (計13作品、平均評価3.9)
※(高)高畑勲監督作品 → 『火垂るの墓』 で一括評価 (計5作品、平均評価3.6)
※(米)(吾)(望)(近)(森)...その他の監督作品 → 『耳をすませば』 で一括評価 (計7作品、平均評価3.8)

投稿 : 2024/11/02
♥ : 17

70.7 3 スタジオジブリで田舎なアニメランキング3位
平成狸合戦ぽんぽこ(アニメ映画)

1994年7月16日
★★★★☆ 3.6 (519)
3333人が棚に入れました
東京・多摩丘陵。のんびりひそかに暮らしていたタヌキたちは、ある時、エサ場をめぐって縄張り争いを起こす。原因は人間による宅地造成のため、エサ場が減ってしまったから。このままでは住む土地さえ失くなってしまうと、タヌキたちは開発阻止を目論み、科学の発達した人間たちに対抗するため先祖伝来の″化け学″を復興させることとなった。化け学の特訓が始まる一方、四国や佐渡に住むという伝説の長老たちへも援軍を頼む使者が向けられた。かくして人間たちが露とも知らぬ所でタヌキたちは勝手に蜂起した。

声優・キャラクター
野々村真、石田ゆり子、三木のり平、清川虹子、泉谷しげる、芦屋雁之助、村田雄浩、林家正蔵
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

第四の壁

 高畑勲監督による子供向けの映画ですね。二時間くらい。

 ストーリーの展開はすごく良かったです。これは、ナレーションのおかげでしょうね。「ぽんぽこ」は、普通に作ったら二時間では到底収まらない分量だと思います。でも、ナレーションを使って場面と場面をつなぐことで、大幅な圧縮が可能になっていました。また、見どころの多いところを中心につないでいくことで、エンタメ性の増大にも寄与していたと思います。落語調のナレーションも、この作品の雰囲気とよく合っていました。
 キャラの動きも良かったですね。たくさんの動物を動かすのは大変だったとは思いますけど、妥協していた箇所は見受けられませんでした。この辺の妥協の無さは高畑勲監督っぽさが出ていますかね。

 あと、高畑勲監督は、人間社会に対抗して敗北していくタヌキたちに、自分たちの学生運動などを重ね合わせていたっぽいですよね。それっぽい描写が、機動隊との対峙シーンなどに見られました。
 個人的には、インタビューやらブログやらツイッターやらで政治的な主張をしている映画監督を見ると、「作品内で語れや、この○○が!」と考えてしまう質なので、作品内で主張している分にはとやかく言う気はありません。映画自体が歴史的にプロパガンダであったり反プロパガンダであったり、ってところもありますからね。「アリス」のレビューで、主人公無双でもハーレムでも現実逃避でも原作者の好きにやったらいいよって書いているんですけど、それと同じです。原作者の趣味嗜好はもちろん、思想だって作品の質を左右しませんから、好きにやったらいいと思います。外観をもって批判するのは、ルパンを見て「泥棒だからダメ」と言うのと同じくらいナンセンスだと考えています。
 ただ、原作者の思想が透けて見えたり前面に出て来ていたりすると、やっぱり説教臭くなるんですよね。また、現実の思想が介入してくるせいで、フィクションとしてのめり込めなくなってしまう。大人向け映画ならまだしも、子供向け映画ならもうちょっとマイルドでも良かったかな、と思います。

 で、この辺の相乗効果が変な方向に現れてしまったようにも感じました。頻発するナレーションとリアルすぎるほどのリアルさ、そして、全編に漂う説教臭さ。これらのせいで、現代ファンタジーでありながらも、ドキュメンタリーに片足を突っ込んでいるようにも思えました。そこは少し残念なところ。
 でもまぁ、そうは思うものの、子供と大人で作品の解釈が変わるとか、子供にとっては娯楽作品でも大人とっては社会風刺であるとか、そういう二面性を持たせた作品を作るのはジブリのお家芸ですからね。この作品が子供向けに作られているのは確かでしょうし、子供にとって娯楽作品として成立している以上、批判する気はないですけどね。

 で、この作品を見たのは半年くらい前のことで、高畑勲監督作品のレビューを書くなら最初は「かぐや姫」がいいかなぁなんて思い放置していたんですけど、ふと思い出すきっかけがありました。
 先日、友人と食事をしているときに、今年の大河ドラマの「真田丸」が面白いよ、と言われました。私は見ていなかったので話題に乗ってあげられなかったんですけど、三谷幸喜監督が手掛けているらしいですね。
 そんなわけでの「ぽんぽこ」レビューです。


第四の壁:{netabare}
 第四の壁っていう言葉があります。
 もともとは演劇用語で、「舞台と観客を隔てている想像上の透明な壁」という意味で使われます。舞台上のストーリーと客席にいる観客には一切の関係性がありませんから、その間には見えない壁があるよねってことです。今では演劇だけではなくて、映画などでも使われています。平たく言ったら、「フィクションと現実の境界となる壁」ということです。

 ウィキペディアを参照すると、
 第四の壁は、フィクションと観客の間にある不信の停止(※)の一部である(※不信の停止:観客はフィクションを見ている間は「こんなことは実際には起こらない」などという無粋な突っ込みを抑えること)。
 通常、観客は第四の壁の存在を意識することなく受け入れており、あたかも現実の出来事を観察しているかのように劇を楽しんでいる。第四の壁の存在は、フィクションにおいて最も良く確立された約束事の一つである
 と、説明されています。

 私たち視聴者はフィクションを当然のようにフィクションとして見ていますから、この第四の壁は常に存在している、と言えます。ですが、しばしば演出として(意図的に)「ここに第四の壁があるぞ!」と明示されることがあります。
 例えば、舞台上の役者が、観客に見られていることに気づいてしまうとか、観客とコミュニケーションを取ってしまうとかですね。これにより観客は、第四の壁を意識してしまい(フィクションであることに疑いを持ってしまい)、同時にフィクションと現実の境界が破られてしまうのです。このメタ的な演出を「第四の壁を破る」と言います。

 映像で確認したい方はこちら↓をどうぞ。
 <https://www.youtube.com/watch?v=JLAaUvsKljc>
 視聴者とコミュニケーションを取ってしまう演出は、0:15~0:40、2:30~3:15あたり。
 作品世界が映画であることを明示してしまう演出は、4:30~4:54、5:00~5:45あたり。
 第四の壁を破って映画というフィクション性を壊している点ではどちらも一緒です。
{/netabare}

おまけ①アニメにおける「第四の壁を破る」演出:{netabare}
 アニメでも「第四の壁を破る」演出が使われることがあります。

 私が一番印象に残っているのは、「のんのんびより」第一期の最終回ですね。{netabare}
 エンディングテーマが流れ始める、文字通り最後のところです。カメラを背にして遠ざかっていくメインキャラ4名が、突如としてカメラに振り向いて、視聴者に向かって手を振る、という演出が入っています。フィクション内のキャラクターたちが、本来一切の関係性を持たない視聴者に対してアクションを起こしたわけですから、典型的な「第四の壁を破る」演出ですよね。これにはすごく驚きました。

 「のんのんびより」は「日常もの」の作品ではありますけど、私たちは現実の日常としては見ていませんよね。あくまでもフィクションの日常として楽しんでいます。これが、第四の壁の存在を前提とした見方です。
 でも、最後の最後になって、私たちが認識している第四の壁は彼女たちにとっては存在していなかった、ということが明かされてしまいました。「のんのんびより」には終始無言を貫くお兄ちゃんというキャラがいましたけど、私たちの存在はそれに限りなく近かったんですね。話もせず、ストーリーにも影響を与えないけれど、近くでずっと見ている存在。
 彼女たちが第四の壁を破ることで、私たち視聴者とこの作品の在り方が変わってしまいますよね。フィクションの日常であったものが、現実の日常に転換されてしまうんです。あのまま振り向かずに遠ざかってくれれば、それは単なる「アニメのキャラとのお別れ」に過ぎないんですけど、第四の壁がなくなってしまうと「現実の友人とのお別れ」に比肩してしまうんですね。これにより、「もう会えなくなる」という寂しさを増幅させる効果が、とてもよく出ていました。

 ニコニコで見つけた件のシーン。ホントはもう数秒前から欲しかった。
 如何に効果的な演出だったのかが、コメントから伝わってきます、かね?(笑)
 ホントはコメントなしのが欲しかったんですけど、残念ながら見つけられませんでした。
 <http://www.nicovideo.jp/watch/sm22644446>
{/netabare}{/netabare}

ぽんぽこ:{netabare}
 「ぽんぽこ」でも、「第四の壁を破る」演出が使われています。「のんのんびより」と同じく、エンディングで直接的にコミュニケーションを取る演出方法です。具体的には、ショウキチが「タヌキが消えたって言うけど、確かに姿を消せるタヌキもいるんだけど、ほかの動物はどうなの? 姿を消せるの?」みたいなことを視聴者に語り掛けてきます。視聴者(現実世界の人たち)が殺したんでしょ?という皮肉ですね。
 この視聴者に対する問いかけ(という名の皮肉)というのは、高畑勲監督の基本スタイルですよね。高畑勲監督は主題に対して何らかの意見を持っていて、その主張を混ぜながら、視聴者に対してどう思っているの?と問いかけてくる。これを、作品と視聴者を対比させる構成でやっています。

 「火垂るの墓」がいい例で、オープニングとエンディングは、視聴者に対する語りになっています。{netabare}
 オープニングは「僕は死んだ」というセリフだったかと思います。「死にそう」の場合はその時点での主観的な視点ですけど、「死んだ」の場合は死んだあと、すなわち、未来からの客観的な視点ですよね。
 未来からの客観的な視点というのは、まさしく視聴者の視点と同じですから、視聴者と同じ位置に立って視聴者に対して語る、というのをオープニングでやっているんです。

 エンディングはこれです↓。まずは、この動画の2:20くらいのところからラストまでをじっくり見てください。
 <https://www.youtube.com/watch?v=Dn-saPIsrd0>
 2:34からの数秒間はカメラ目線になっていますよね。目が合っているような気がして、少しドキッとします。第四の壁を破ったかどうかのギリギリのラインですけど、カメラ(視聴者)を意識しているのは確実です。そして、その後はビル立ち並ぶ未来の街(私たちにとっての現実の街)に視線を移します。ここからも、過去のフィクションに存在している主人公が、未来の現実に存在している私たちを意識している、というのが伝わってきます。
 つまり、視聴者に語り掛けるオープニングに始まり、視聴者に語り掛けるエンディングで終わっているんです。
{/netabare}

 「ぽんぽこ」も、この構成を使っています。
 オープニングでは、タヌキは現実の動物としての姿を取っています。このタヌキを丸いレンズで撮るように演出して、そこにタヌキのナレーションを入れています。タヌキを見ている私たちへのタヌキからの語りですね。キャラクターが現実にいる視聴者と同じ位置に立って視聴者に対して語るというのは、「火垂るの墓」と同じです。
 エンディングが、「第四の壁を破る」演出です。上記のショウキチのセリフを入れて、作品の総括をメッセージとして伝えています。また、この後は、タヌキたちの踊る森からビル立ち並ぶ私たちの街へと変わります。私たちにとっての現実の街で作品を締める、というのも「火垂るの墓」と同じです。

 「火垂るの墓」も「ぽんぽこ」も、構成が全く同じだってことは分かりますよね。オープニングとエンディングでは現実世界の視聴者に対する語りをしておいて、その間にフィクションとしての本編を置く、という構成です。フィクションと現実を作品内で対比させることで、主人公たちの境遇と私たちの境遇を対比的に見ているんですね。この対比をもって、両作品では、「あなたたちの繁栄は、私たちの犠牲のもとに成立しているんだよ」という痛烈な皮肉をしています。
 この「フィクションと現実の対比的な関係を作品内に作り出して、視聴者に対する問いかけ(という名の皮肉)を行う」というのが、高畑勲監督の基本スタイルなんだと思います。

 で、「火垂るの墓」と「ぽんぽこ」のエンディングでの演出方法には、ほんの少しですけど違いがありますよね。カメラを見つめるだけで第四の壁を破ったのかどうか微妙な「火垂るの墓」と、カメラに話しかけることで明確に第四の壁を破ることとなった「ぽんぽこ」。この差は、単純に子供への意識の差だと私は思います。

 「火垂るの墓」は、子供向け映画という意識はあまりなかったんだと思います。だから、見つめる程度で終えて、別に分かりにくくても良かった。数秒カメラを見つめる程度の演出では、その意図は子供には伝わらないと思います。それを分かっていて、それでも子供向けではないからいいや、大人にだけ皮肉が伝わればいいや、と判断したのでしょう。上記のエンディングで、{netabare}セイタは見つめてくるけど、セツコは寝たまま、{/netabare}というところにもこれが表れているのかもしれません。

 でも、「ぽんぽこ」は、子供向けの娯楽映画として作ろうっていうのが大前提にあったんだと思います。子供向けの娯楽映画として、何よりも分かりやすさを優先したかった。だから、直接語り掛けるという「第四の壁を破る」演出を選んだんだと思います。直接語り掛けちゃえば、子供にだって分かりますからね。そして、何を優先的に伝えるかを考えたときに、高畑勲監督個人の思想よりは、子供にも身近であろう「自然を守ろうね」にしたのでしょう。

 なお、「ぽんぽこ」が視聴者への問いかけ(という名の皮肉)のために作られていたことが、ナレーションによっても分かるようになっています。最終盤において、ショウキチの語りが途中から古今亭志ん朝のナレーションに代わるところがあるんですけど、これによって、今までのナレーションがすべてショウキチの語りであったことが判明します。最終盤に来て初めて、視聴者はずっとショウキチに語り掛けられていたことを知るのです。


 高畑勲監督の作品は、構成はかなりかっちりしているんですよね。少なくとも私個人は、宮崎駿監督よりはかっちりしていると思っています。ただ、構成はかっちりであるものの、中身は文学的というか文芸的というかそういう感じが強いですよね。説明が迂回的、と言ってもいいです。まぁ、読み取りが難しくて、分かりにくいってことです。直接悪口を言うのではなくて、皮肉として言うところにもそれが表れていますよね。しかも、エンタメ性も高くないですから、見る人をすごく選ぶような気がします。
 でも、「ぽんぽこ」に関しては、子供向けの意識が強く働いたこともあってエンタメ性が高くなっていますし、それでいて構成のかっちり感は失われていないですし、主義思想という作家性も出ています。これらが高い次元でまとまった、すごくいい作品だと思います。子供のころに見ただけだなって人は、ぜひ大人の視点で見直してみてください。
{/netabare}

おまけ②カメラを使った「第四の壁を破る」演出:{netabare}
 「第四の壁を破る」演出が、カメラによって行われることもあります。本来意識されていないはずのカメラの存在を視聴者に認識される、という手法です。カメラの存在が認識されると、そこにカメラが置いてある(=そこに撮影者がいる)となりますから、第四の壁は自然と破られてしまいます。
 「クロスロード」のレビューで、「この作品はカメラで撮影しているよ!」演出について書いたんですけど、あれも「第四の壁を破る」演出の一つです。レンズ効果によって、性能的なカメラの存在がアピールされています。
 新海監督はメタ的にこの演出を使っているわけではないですけどね。レンズ効果を使って画面内のキラキラ感を最大化しているだけだと思います。

 ここではその話ではなくて、物理的に干渉されたカメラの存在アピールの話をします。例えば、落ちてきた雨粒がカメラのレンズに当たるとか、跳ね返った泥がカメラのレンズに当たるとかですね。何かがレンズに付着することで、透明なはずの第四の壁を目視できるようになってしまいます。

 アニメでも、こういう演出は多いですよね。一番最近見たものだと、「甲鉄城のカバネリ」の第9話です。
 詳しい内容はここでは述べず、カバネリのレビューに譲ります。
{/netabare}


雑記:{netabare}
 また横断的な書き方になってしまいましたね。申し訳ないです。
 なんとこのレビューで登場したアニメ作品は、ぽんぽこ!火垂るの墓!のんのんびより!カバネリ!の4作品。このアニメ4作品に加えて、実写映画にまでリンクを貼る始末! 単発映画のレビューのはずなのに、目も当てられません。すみっこでこっそりやるシリーズへの並列すらためらわれるレベルです。

 一応、第四の壁じゃなくてぽんぽこが話題の中心なんだよって偽装するために、ぽんぽこをど真ん中に配置するという構成に変えてみたんですけど、うまく機能しましたかね? 微妙かな?
 カバネリを別レビューに飛ばしたのは、短くするためっていうのもあるんですけど、「ぽんぽこ!火垂るの墓!のんのんびより!カバネリ!を使ってレビューを書きました」だと意味が分からなくても、ここからカバネリさえ除外しちゃえば意外と通じるかもしれないな、と思ったからでもあります。

 まぁ、裏話はともかくとして、冒頭述べた三谷幸喜監督について。
 三谷幸喜監督はいろいろと手掛けていますですけど、彼が脚本を務めた「古畑任三郎」という作品があります。映画じゃなくて、ドラマですけどね。今見ても面白い作品だと思います。
 この作品では、視聴者が犯行の一部始終を目撃できるようにストーリーが進行していきます。「名探偵コナン」のような「刑事側も視聴者側も犯人を知らない」というスタイルではなくて、「刑事側は犯人を知らないけれど、視聴者側は犯人を知っている」というスタイルです。視聴者が主人公である刑事に自己投影するのではなくて、視聴者が刑事の捜査をあくまでも客観的に見ていくように作られているってことです。
 で、この作品の謎解きパートの直前に、「第四の壁を破る」演出が使われているんです。いきなりドラマが停止して、背景も暗転して、この中で主人公の古畑任三郎にだけスポットライトが当たって、それで視聴者に話しかけてくる。客観的に進行するストーリーと「第四の壁を破る」演出は、とてもマッチしていますよね。

 酔っぱらった頭で三谷幸喜監督の作品を考えていて、それでこの「古畑任三郎」にたどり着いたんですけど、アニメで第四の壁を破っている作品はなんだろ?と気になったんです。そこで、のんのんびよりに白羽の矢を立てたはいいものの、もう枠を使っちゃってたんですね。それならってことで、ぽんぽこを引っ張り出すことにしました。第四の壁やのんのんびよりありきのぽんぽこだったってことですね。
 で、第四の壁を度外視して高畑勲監督論をやるなら、大人しく火垂るの墓から入るべきだとは思います。構成を中心に書けますからね。それを分かってはいるんですけど、どうにも見返す気が起きないんですよね。年の離れた妹が、というシチュエーションが個人的になかなか辛くてね。それゆえのぽんぽこってのもあったりします。

 気が向いたらカバネリの方もどうぞ。
 うっかり迷い込む人を避けるために、ネタバレありタイトルなしで投稿しますけど、内容は動画を使って演出を見ていくだけです。ストーリーには触れませんので、ネタバレ嫌いや未視聴の方でも大丈夫です。たぶん。
{/netabare}

投稿 : 2024/11/02
♥ : 10
ネタバレ

とまときんぎょ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.8

ちゃんと娯楽

映画館で観て以来通して観た事はありませんでした。
「ぽんぽこ」や「火垂るの墓」や「おもひでぽろぽろ」…力がある作品だけれど、何度も観てはいませんでした。
田舎や自然は大好きですが。この社会的メッセージが含まれる作品たちに愛着を持ってしまったとして、「コレは説教くさい、だから自然派は…」というザックリした見方をされた時に、自分は反論出来ない気がして。

「アイツ正しいこと言ってるのはわかるけど、説教くさくね?」と囁かれる優等生のクラスメイトを「そうかな…」とチラ見して「まあ私と特に親しい訳じゃないし…」と深く関わらないが如くでした。



久しぶりに通して観てみました。
狸達がどうなってゆくのかがあらかじめわかっているので、途中途中のぬか喜びや空騒ぎが、とても胸に痛く、ドキドキしながら観ていました。
しかし。
相変わらず人間は自然を壊し続けて酷い。地形のもつ質や循環を無視した開発、森林の適切な活用が出来ていないための荒廃、だから未曾有の災害も尽きないのだろうか。
…等々という真面目な視点は勿論再確認できたのですが、

それ以上に…
あー!この狸達みたいに!!
思いっきり何かに打ち込みたい!!
謳歌したい!!
むくわれなくったって、乗せられたって、やり切りたーい!!
時にアホみたいに喜怒哀楽に乗って騒ぎ、そして呑気にやっぱり踊り騒ぎたい!!
という、「思いっきり」の変幻自在な心地良いエネルギーをタンマリ浴びた気持ちになりました。ちゃんと娯楽でした。
狸いいなあ。

そして、人間社会で生き抜くようになった化け狸のように、それらしくいるために疲れている人や、何とかかんとかうまくやってるよ〜って人もいるんだろうな…なんて考えたりして。


優等生だけど、作品中に叩き込まれた“みんなで全力投球しようぜ!”って勢い(と狸独特の間抜けさ呑気さ)は中々観てて気持ちがいいものでした。

狸の敗因は、人間を楽しませてしまったことな気がします。狸自身も化けることが好きで楽しくて、プロジェクトに夢中になって。
{netabare}人間を怖がらせて出ていかせるためなら、あんなに楽しいバリェーションは要らなかったのでは…^^;
狸には食物連鎖の頂点にいる人間の「恐怖」がイマイチ理解できなかったのかな。
途中出てきた団地のパレード中の、大波に団地が飲まれる幻想が一番怖いような。
前半に作品中で人間がチラホラ死亡してますが、後半の狸の死亡数と比べたら極小だからいいのかなんなのか。{/netabare}
そんな狸達は仲間の弔い中も、真剣にシンミリしようしとてても、喪の形式自体になんだか浮かれてきてしまうのが、スゲーなと思いました。打たれない。やはりシリアスになり切れない狸らの恐怖の薄さが敗因かなー。


人間の自然や動物に対する愚かさが突き刺さる点では「河童のクゥと夏休み」が勝りますね。
私は自然好きなので、もっとみんな自然好きになってしまえばいいのに(特に田舎の人ほどもっと)、とは常々思いますが。
別に茅葺屋根の家に住んでかまどでご飯炊くべきとは言わないけど、ゴミをポイ捨てしないとか、日常生活で使うものが何から出来ているのか考えてみるとか、除草剤撒かないとか…いかん説教くさくなっちまう…

夏も終わりだけど、狸気分で秋はじめの生活に入ろうと思えました。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 35
ネタバレ

ヲリノコトリ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.7

ジブリベスト10のためのレビュー

【あらすじ】
多摩ニュータウン計画の推進とともに住む場所を失っていく狸たち。ぽんぽこ31年秋からぽんぽこ34年にかけての狸たちの奮闘を描く。

【成分表】
笑い★★★☆☆ ゆる★★★☆☆
恋愛★☆☆☆☆ 感動★★★☆☆
頭脳★☆☆☆☆ 深い★★★☆☆

【ジャンル】
ジブリ9作目(1994)、狸、都市開発、笑い

【こういう人におすすめ】
私イチオシ。「観たことない」と言っても割とびっくりされないジブリ作品。

【あにこれ評価(おおよそ)】
69.4点。あにこれ点数順では第13位。

【個人的評価】
何回考えなおしてもこれが私の中でジブリ1位になってしまう。不思議。
『自分のお気に入り』『おすすめしたい作品』

【他なんか書きたかったこと】
 ルパンベスト10を作った流れでジブリベスト10とコナン映画ベスト10に挑戦中。一般人でも分かるアニメ映画シリーズのベスト10があれば、私自身を理解してもらいやすいかなあと。

 ジブリ作品に共通するテーマとして「水の表現」と「対立」と「内包」があるというのをどっかで聞いた気がします。まあ水なんて2時間分のお話作ったらどっかで絶対出てくるし、対立と内包なんて曖昧な言い方したらなにかしら無理やりこじつけることは可能だと思いますが、その辺を踏まえてみてみるといいかもしれません。

 ↓以下一言くらいの感想
{netabare}
 おそらく、ジブリ黄金時代中盤の中だるみと認識されている作品。
 監督も宮崎駿監督ではなく高畑勲監督で、これ(1994)と、同じく宮崎駿監督が加わっていない「海がきこえる(1993)」の2作品が、「紅の豚(1992)」と「耳をすませば(1995)」という大作に挟まれている。
 ジブリとしても実験の時期だったことが推測される。

 この作品の内容にも「会話しているかのようなナレーション」、「ファミコン画面に似せたビット絵の説明シーン」、「神様の街づくりや巨大なショベルカーが山を削るなどの比喩的なシーン」など、随所に実験的なシーンが見られる。

 が、そんなことはどうでもよく、私の中のベストジブリ。

 何度も「マイノリティー気取ってんじゃねえぞ俺!」と自問しましたが、「紅の豚」と「もののけ姫」がどうしてもこれに勝てなかった(笑) そしてストーリーを振り返ってみて、私が好きな要素の集合体であることに気づく。

 ジブリ作品の中では例外的にゆるく、笑いに頼ったストーリー展開、そして真面目を装いながら笑いを誘うナレーション、全体から流れる実験的な空気、ジブリ品質の作画、ファンタジーでありながら妙に現実に即した展開、しかし最終的に「来るべくして来るバッドエンド」。
 「四畳半神話大系」や「秒速5センチメートル」をお気に入りの代表に挙げ、主食が「きらら枠」な私は、好きになるべくしてこの作品を好きになったわけです。

 これもレンタルで小学校上がるか上がらないかの頃に見た気がするので、九九も知らないガキンチョの頃から、今と同じような趣味嗜好だったようです。三つ子の魂百までとはよく言ったものです。
{/netabare}

投稿 : 2024/11/02
♥ : 15

64.8 4 スタジオジブリで田舎なアニメランキング4位
崖の上のポニョ(アニメ映画)

2008年7月19日
★★★★☆ 3.5 (649)
3085人が棚に入れました
海沿いの街を舞台に、「人間になりたい」と願うさかなの子・ポニョと5歳児の少年・宗介の物語である。
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.9

擁護派です!(既視聴向け)

 3回目かな。100分くらい。
 私にとってはかなり好きな作品なんですが、一般的には酷評されているようですね。ちょっと悲しい…。擁護派の立場から、「ポニョ」のストーリーをまとめていきたいと思います。
 想定外に長くなってしまったので、お暇なときにでもどうぞ。


なんで分かりづらい?:{netabare}
 「ポニョ」は子供向けというイメージが先行しすぎて、「トトロ」と同じカテゴリーに置いている人も多いと思うんですが、それはあくまでも視聴年齢という枠組みにおいてだけ成立するものだと思います。
 「ポニョ」は、表向きは「魚が人間になる話」なんですけど、後半のほとんどの時間は「魔法による世界の変革」に費やされていますよね。つまり、世界の変革に触れる作品、というのが本質なんだと思います。この視点で見ると、「トトロ」よりも「ナウシカ」や「もののけ姫」の系譜に連なるものだと思います(詳細は後述)。

 子供は表向きの話を見ていればいいのですが、それ以外の人は当然世界に何が起こっているのかを探ります。ですが、ここの分かりづらさに「ポニョ」が酷評される原因の一端があるように思えます。具体的には、世界の変革に対する主人公たちの振る舞いです。

 ナウシカやアシタカは、その世界の変革に際して、自身の立ち位置を明確にしていますよね。ナウシカは命を賛美し、アシタカは曇りなき眼を標榜します。これが世界の変革と呼応して物語が展開していきます。つまり、主人公たちの行動と世界の動きが連動するので、話が分かりやすい。

 ですが、ポニョやソウスケは、ナウシカやアシタカと異なり、その変革に対するスタンスを明らかにしません。二人の目的は、「会いたい」「守りたい」と局所的なのです。ポニョの無自覚な魔法により世界が混乱しているにも係らず、彼らは傍観者にすらならないんです。世界の変革に多くの時間を割きながら、主人公たちを見ていても、変革の方向性は一向に分からない。
 「ポニョ」において、その行く末を思案しているのは大人たちです。フジモトやグランマンマーレやリサですね。ですが、彼らの不安や確信は、その中身までは明らかにされません。つまり、大人たちを追っても世界の行く末を察することは出来ないんです。挙句に、その行く末をポニョやソウスケに託してしまうから、ますます分からなくなってしまう。

 結局のところ、登場人物たちは何も語ってはくれないんです。セリフに映像を併せて考えるしか解決策がない。セリフに気を取られて映像解釈をおろそかにすると、「ポニョ」の話は分からん、となってしまうんだと思います。

 ちなみに、世界の変革に対して主人公のスタンスが明らかにされない作品が、「ポニョ」以外にもう一つあります。それは「ポニョ」の次作である「風立ちぬ」。戦争という変革に際して、二郎は世界がどうなるかなんて気にもしません。ただただ美しいものを愛でていたいだけ。世界の行く末を思案する大人たちの存在すら希薄になっています。
 「風立ちぬ」は、世界の変革よりも人物描写が主題になっているんですが、人物描写自体が映像描写の中に隠れてしまいます。「ポニョ」と同じくセリフばかりを追っていると、分からん、となってしまう作品でした。

 ちなみに、映像的な描写自体は過去作からずっとあったものです。ただ、主人公と連動しないために、見過ごすと分からないレベルになってしまったのが、この「ポニョ」と「風立ちぬ」なんだと思います。どちらも分かりづらいために賛否両論になってしまいました。
 このような主人公の特殊なスタンスは、この2作品独自のものだと思います。一歩引いた主人公が二作連続で作られていますので、宮崎駿監督のスタンス自体が変わっていったと考えるのが良さそうですね。
{/netabare}

ポニョ(金魚?人面魚?):{netabare}
 ポニョは明らかに金魚には見えないのですが、金魚であると言われ続けます。で、こちらが金魚であることをしぶしぶ受け入れると、途端に「人面魚!」と言われてしまいます。あまりの衝撃に「ファンタジーじゃないの!?」と思ってしまうのではないでしょうか。

 ただ、ここはあまり深く考えなくてもいいのです。ファンタジー要素を受け入れる側と受け入れない側が、作中にも存在することを描いていただけです。簡単に言うと、魔女宅の魔法と同じです。田舎では受け入れられて、都会では受け入れられない。このギャップが、地理的な部分に属するのではなく、個人に属しているのが「ポニョ」の世界です。

 ポニョが金魚であることを受け入れた人々は、グランマンマーレをも受け入れています。受け入れなかったトキは、グランマンマーレをも受け入れません。これらの対比が存在することが伝われば、とりあえずは問題のないところです。トキの特殊性が伝わればなお良し、くらいのものです。
{/netabare}

ポニョの世界観(三段階の構造):{netabare}
 この作品は、セオリー通りに世界観の説明から始まっています。
 先入観としては、海と陸で対比があるのかな、と考えると思います。海のシーンはCMでもお馴染みでしたし、タイトルは「崖の上」のポニョですからね。海(特に夜の海)というのは、彼岸というか死の世界というか、ここではない世界の象徴にも使われますから、海と陸の対比という先入観を持ってしまう。これ自体の否定はされていないんですが、若干の修正がオープニングで行われます。

 オープニングで描かれているのは、次の構造です。
 ポニョたちの領域である深海、ゴミのある浅瀬、人の領域である陸地。
 陸地の先にある崖の上まで含めると四段階の構造なんですが、とりあえずは三段階で話を進めます。浅瀬は海の側に入れたくもなりますが、ゴミにまみれた人に浸食された部分ですから、中間的な領域としてどちらにも含めないのが正しいように思います。
 で、この構造というのは、他の宮崎駿作品で既に使われているものです。それは「ナウシカ」。
 自然の領域である腐海の深層、毒のある腐海の表層、人の領域である陸地。

 「ポニョ」と「ナウシカ」のどちらも、深層は人の住まわぬ浄化された領域で、陸地が人の領域、中間層は両者がせめぎ合う領域です。海か森かの違いはありますけど、基本的な構造の部分は酷似しているのが分かると思います。両者とも非人間側の氾濫ともいうべき、大海嘯が起こることまで一致していますよね。

 で、この三段階の構造を、作中で一番表現しているのがポニョです。
 魚と半魚人と人間。どれか一つの形態にとらわれずに、コロコロと姿かたちを変えていました。半魚人の形態は、足が出てから手が出るとか、目が離れて口が大きくなる感じとかが、カエルのように見えます。デボン紀というは、両生類が出現した時期ですし、両生類には水陸両用のイメージがあります。魚と人間の中間である半魚人の形態は、海と陸の中間という部分が強調されていたのだと思います。
 もう一つ挙げておきます。ポニョは海の深層出身で、浅瀬を経由してソウスケのもとにやって来ます。そして、水道水に入れられます。海の生き物で、しかも海がすぐ近くにあるのにも係らず、あんなにジャブジャブと水道水を掛けられるので少し驚きますよね。これも三段階の構造を説明するための描写のように感じました。海の深層の水を出て、浅瀬の水を経て、人工の水に触れた、ということですね。
{/netabare}

ポニョの魔法:{netabare}
 ポニョは人間になりたいと願います。この願いは魔法の力に頼らねば達成できないものでした。ポニョは、魔法の力を使って人間になります。ですが、期せずして、世界のバランスまでもが壊れてしまいました。魚が人間になる方法は、世界のバランスを壊す魔法でしか達成できなかったのでしょう。リサの言う「変えられない運命」を変えるものです。
 ただ、ポニョに世界のバランスを壊す意図があったわけではありません。人間になろうとして世界のバランスを壊すことを選んだのではなく、人間になったらたまたま世界のバランスが壊れてしまった、というだけです。
 世界のバランスが崩されたことにより、月と地球が接近してしまいます。月が接近してくると海面が上昇します。満潮と同じの原理ですね。そして、空に月が、地表に海がある世界が誕生します。

 この月と海の世界について考えてみます。
 海は分かりやすいですね。フジモトの集めた「命の力」が海に放たれたわけですから、生命の海・原初の海が誕生したということです。これはカンブリア紀という言葉につながります。海の世界であるカンブリア紀は、カンブリア大爆発という生命の爆発があった時期です。実際には力が足りず、デボン紀までしか戻りませんでした。

 月については、公式HPに「昔から、女性の象徴であるといわれています」と書いてあります。これは、太陽を男性とみて、月を女性と見る(やや西洋的な?)考え方ですね。moonの語源とか、月の女神アルテミスを述べたものだと思います。グランマンマーレもその初登場時に、海面に写る月へと融合していきます。
 これにより、「海に母性、空に母性」で母性に包まれた世界が誕生します。この世界の創造の原因となったポニョがソウスケとキスをすることで、魔法の力の喪失、父性の獲得、そして世界の再生となるのだと思います。

 ちなみに、月は男性となることもあります。日本では太陽神アマテラスが女性で、月の神ツクヨミが男性ですからね。個人的には、太陽は、強さの象徴である男性よりも、命の象徴である女性の方がしっくりきます。それもあってか、私は「海に母性、空に父性で、再生準備完了」と整理していました。これがポニョとソウスケに投影されて、男女のキスで再生スタートという流れですね。まぁ間違ってましたけど…。
{/netabare}

大津波後の世界(四段階の構造):{netabare}
 大津波後の世界について考えていきたいのですが、まずは過去作の整理をしておきます。

 漫画版「ナウシカ」のエンディングは、自然や命をないがしろにした人類は滅んじゃうかもよ、というものでした。確たる希望に薄く、滅びの色が濃いのが特徴です。

 これが「もののけ姫」では少し変化しています。
 サンは「アシタカは好きだ。でも人間を許すことは出来ない」と言っていましたよね。人類という種族自体は許されませんでしたが、ごくわずかな個人に近いレベルだけは自然側が受け入れてくれました。その上で、「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう」という擬制的な共生が結論になりました。そして、この結論を出したアシタカをエボシが受け入れます。双方が譲歩することで、自然の世界を五分五分で分け合うのではなく、ちょっと間借りする形で人類の居場所が許されました。

 いずれにも共通するのは、この世界が本来は自然のものだということです。<自然=生>を基本とし、人間が自然に敵対してしまうことから<人間=死>となります。これが「ナウシカ」での人間滅べというメッセージです。ただ、人間が自然の一部であることを思い出せば、<人間=死>の中に「生」が許されます。これが「もののけ姫」の結論ですね。つまり、三段階の構造の先には四段階目があるのです。

 これは「ポニョ」の世界でも確認できます。それが陸地の先にある高台です。ソウスケたちの住む崖の上の家は、電気・水道・ガスというインフラが、他から独立していることが説明されています。つまり、低地に頼らずとも生きていける場所です。それゆえに、みんなの希望の光を放つ家となります。
 作中では描かれていませんが、大津波によって多くの人が亡くなっている可能性は高いです。ですが、それで人間を全滅させようとしていたのではなく、一部の人々を救うための高台がきちんと用意されているのです。町を水没させることで人間の領域と中間層を自然の側にし、<人間=死>の上に四段階目の「生」を浮かび上がらせたのです。

 まとめるとこんな感じです。
 「ナウシカ」:三段階のせめぎ合い→大海嘯による中間・人間領域の自然化→人類滅亡?。
 「もののけ姫」:三段階のせめぎ合い→シシ神様の花咲による中間・人間領域の自然化→四段階目誕生。
 「ポニョ」:三段階のせめぎ合い→大津波による中間・人間領域の自然化→四段階目誕生→????。
 「ポニョ」では、「ナウシカ」と「もののけ姫」の中心(バトルと自然化)ががっつり省略されているのです。四段階目のその先をどうするのか、ってのが「ポニョ」の主題なのです。
{/netabare}

トンネルの先の世界:{netabare}
 他のサイトの考察には、「大津波で人間は全滅した。トンネルの先は死後の世界だ。ソウスケたちは死んでいる」というものが散見されます。この考察は、この世界を生の世界と捉えて、トンネルを異世界の入り口とし、トンネルの先を死の世界と考えているのでしょう。人間を主体として、その生死で世界を見るような作品においては、この考え方はおおむね正しいものです。

 ですが、いつでも正しいわけではありませんよね。宮崎駿監督が自然と人間を描くときには、この世界に生を異世界に死を見るのではなく、この世界を自然と人間に分けて、生と死のせめぎ合いとして見ています。トンネルの前後に生と死を置くのではなく、トンネルの前に、既に生と死が存在しているのです。「ポニョ」の大津波や「ナウシカ」の大海嘯は人間を滅ぼし得るものですが、自然にとっては再生の儀式なんです。人間だけが主体ではないですよね。

 宮崎駿監督は、水没後の船に乗っている人々は生きている、と明言していました。船には、波が高まった時にリサカーの通過を阻止しようとする、ドックの作業員の二人が乗っています。彼らについて、「彼らのように頑張っている人間が生きていることを、子供にも分かるようにしなくてはいけない。子供はそれを敏感に感じ取るから」と語り、彼らを船に乗せました。四段階目に属するアシタカやソウスケのような人物は、他にもまだいるってことです。

 トンネルが異世界の入り口だというのは正しいと思います。トンネルだけではなく、大穴や井戸など、先の見えない暗く長い通路は、異世界の入り口という意味を持つことが多いです。そこを越えた先が異世界です。路地裏とその行き止まりの扉も同じ効果を持ちます。ポニョとソウスケは、トンネルの向こう側へと到達しました。

 では、生と死が既に描かれている「ポニョ」において、トンネルの先とは何だったのでしょうか。
 それは、生と死を超越した世界、グランマンマーレの支配する世界です。グランマンマーレについて、宮崎駿監督は「海の神」だと言っていました。また、「どれくらい生きているのか分からないが、ちょっとやそっと死んだくらいでは気にもしない」みたいなことも言っていました。長い年月を通じて、多くの生と死に触れて来たからこそ、局所的な死など気にならないのでしょう。「もののけ姫」のシシ神様と同じですね。個々の死など些末なことなのです。人がたくさん死んだとしても、「素敵な海」の一言で終えてしまうのです。抱えているスケール自体が違うのです。

 ポニョの魔法の力は無尽蔵ではありません。使うたびに半魚人に戻ったり、眠くなったりしてしまうのです。トンネルに近づくと、魔法の力を使わなくとも眠たくなってしまいます。
 ポニョはトンネルに至って「ここ嫌い」と言っています。トンネルの先には、ポニョの魔法が通用しないグランマンマーレがいるからです。ポニョは人間でありたいために、魔法の力を失いたくありません。それゆえにトンネルを嫌うのです。事実、トンネルの通過中に半魚人に戻り、トンネルを抜けると魚に戻ってしまいました。

 なお、この作品に死のモチーフが多いというのは同感です。ただ、死んでいるから死のモチーフを置いているというのは違うと思いますけどね。影を描くためには光が必要だ、正義を描くためには悪が必要だ、というのと同じように、キラキラした生を描くためには、色濃い死を描かねばならないのです。
{/netabare}

エンディングと世界の行く末:{netabare}
 ポニョの魔法により、世界は大混乱してしまいました。そして、子供たちの尻拭いをするのは大人たちの役割です。

 フジモトは、強制的にポニョを魚に戻し、魔法の力を奪うことで世界に安定をもたらそうとしました。しかし、ポニョに不自由な生を続けさせることを否定し、子供たちに世界の行く末を託そうとしたのがグランマンマーレです。
 人間になるか、泡となって死んでしまうか。人間になれば魔法の力がなくなると説明されていますので、泡になってしまうと魔法が解除されなず、人間は破滅へと向かってしまうのでしょう。生死にこだわらないグランマンマーレだからこそ出せる解決策です。
 おそらく、グランマンマーレとリサの間で交わされていたのは、この合意だと思います。世界の行く末を託せるほどに自分の子供を信用しているかどうか、といったところでしょうね。フジモトやグランマンマーレの力で世界をもとに戻すのではなく、未来に向かう子供たちの力に大人たちは賭けたのです。そして、結果は大団円でした。

 私はこのエンディングを見たとき、宮崎駿監督の思想がまた変化した!と驚きました。前述の通り、今までは「ナウシカ」のほぼ人類滅亡エンド、「もののけ姫」のごく一部許容エンドだったんです。子供の可能性を見せる作品はたくさんありましたが、自然と人間の対比の中では、可能性を持つ子供を主役に置きませんでした。

 そしてこの「ポニョ」です。世界が滅ぶかどうか、人類の行く末は子供たちに委ねてしまおうじゃないか、となったんです。子供のように異種族を素直に受け入れられる気持ちがあるのなら、未来はきっとあるんだよ、です。子供を介して人類への許容が広がりました。宮崎駿監督が本来求めていたのは、人間のいない自然に満ちた世界、フジモトの目指した海だけの世界です。これを脇に追いやってしまいました。
 これってすごい変化ですよね。老齢に至って、過去に固執せずに、さらにその先を見せるというのはすごいことだと思います。でもまぁ、人類への破滅願望は基礎にあるわけですけどね…。

 私は、宮崎駿監督ほど悲観論者ではありません。未来?なんとかなるなる!と言ってしまうタイプです。宮崎駿監督の天才性は絶賛しているんですけど、思想の部分では相容れないところも多いんです。
 私がポニョが好きな理由は、この譲歩が見られたことも少なからずあるのかもしれませんね。でもまぁ、人類への破滅願望は基礎にあるわけですけどね…(2度目)。
{/netabare}

おまけ:{netabare}
 もし「ポニョ」を見る機会があれば、ポニョやソウスケが大事なものを手放すタイミングにも注目してみてください。

 ソウスケにとっての大事なものとは、船と帽子です。これはポニョやリサを守るという覚悟や決意の象徴です。これを手放すのが、いつで、なぜなのか、見逃さないようにしましょう。

 ポニョの大事なものはバケツですね。これが必要なくなるのは1回だけのはずです。
 これ以外にもポニョのお気に入りはたくさんあります。そして、気に入ったものは抱えてしまい、手放そうとはしないのがポニョなんです。そんなポニョが、誰かのために自分の物を渡してあげるシーンがあります。ポニョの成長が見れる貴重なシーンです。
 点灯したライトもお気に入りなんですが、これはおそらく金色だからだと思います。金色は魔法の色、命の色、人間になれる色だからでしょう。ライトを手放すのはハチミツのためでした。ハチミツも金色です。
{/netabare}

 私は「ポニョ」を見たときに集大成だと感じました。宮崎駿監督の人生の集大成は「風立ちぬ」だと思いますが、「ナウシカ」から始まった自然と人間の物語は、この「ポニョ」が集大成なんだと思います。子供のウォーキングを眺めるだけの作品なんかじゃありませんよね。
 作品の魅力を伝えられたかは分かりませんが、この作品を気に入ってくれる方が少しでも増えると嬉しいです。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 11
ネタバレ

takarock さんの感想・評価

★★★★☆ 3.9

ポニョの世界、宮崎駿の世界

しばし「素直な気持ちで視聴すれば」ということを耳にすることがある。
しかし、どうもこれは「細かいことを論うような視聴をしないで」
という意味合いが強いようにも思えます。
これのどこが「素直」なのだろうか?
作品内のディテールや整合性におかしな点があれば気になるものですし、
矛盾点があれば「何故?」と思うのは私にとっては当然のことであり、
それらを敢えて度外視するような観方は極めて不自然な視聴姿勢だと思っています。

「子供のような素直な気持ちで」なんて言われた日にはいよいよ以って胡散臭く聞こえます。
大人はこれまでの経験則や理屈から「何でそうなる?」と問い掛けるに対して、
子供はその好奇心から容赦なく「何で?何で?」と問い掛けるではありませんか。
それで返答に困った大人はこんな逃げ口上を言うのです。
「大人になれば分かるよ」と。

そういう意味で言えば、臭いものには蓋をしてなんてことをしない子供というのは、
作り手たちにとっては、大人よりも遥かに怖いお客さんなのかもしれません。
そして、宮崎駿監督はその怖さを誰よりも知っている監督なのだと思います。

私は本作「崖の上のポニョ」をそれこそ「素直な気持ちで視聴すれば」の
元来の意味であろう「あるがままに受け止める」という視聴姿勢を取りました。
良い所は良い、駄目な所は駄目と言い、
分からない箇所や矛盾点には容赦なく「何で?何で?」と問い掛ける。
というか、これはいつも通りの私の視聴スタイルです。

そのようにして本作を観終えたわけですが、
本作の感想をどう表現していいのか非常に悩ましいものがありました。
「良い話だったと思う・・・しかし・・・」
素直におもしろかったと言わせてくれない
喉に刺さった小骨のような違和感が残りました。

このレビューでは、
本作の長編ドキュメンタリー「ポニョはこうして生まれた。 ~宮崎駿の思考過程~」
での宮崎駿監督の言葉を拝借しながら
私が感じた違和感の正体、
そしてポニョとはどのような作品なのか、
さらには宮崎駿監督の人物像に迫っていきたいと思います。
ここからはネタバレありです。


{netabare} 「そもそもポニョって何なのさ?」

海を泳ぐ金魚のような姿をした妖精?
最初はなんとなくそう捉えていましたが、ポニョを拾った宗介は「金魚」と言い切っている。
母親のリサもそのことについて特に気に留める様子もなく、受容しているように見える。
人間には金魚に見えるということ?
ところが、どこかひねくれた性格のトキさんはポニョを見て
「人面魚だ」と視聴者の声を代弁してしまいますw
もうこうなるとポニョをどういうスタンスから捉えていいのか訳が分からなくなってきますw
本作では他にもいくつもの不可思議なポイントがありますが、
このシーンが、私が本作に対して違和感を感じることになるトリガーとなるシーンでした。

あと、カルキ(塩素)抜きしてない水道水に金魚を入れてはいけませんw
本作の影響で一体何人の子供がバケツの中の水道水に縁日でとってきた金魚を放おって、
一体何匹の金魚が犠牲になってしまったのか考えてはいけないのかもしれませんが、
リサ「宗介~水道水に金魚を入れたらダメだからね~」
宗介「ポニョは特別だから大丈夫だよ」ってやり取りを挿れた方がよかったと思います。
金魚さんたちの為にも!!w


「違和感を感じるのはシーンだけでなくストーリー構造そのものも」

本作のクライマックスシーンはどこかと言えば、ポニョが宗介の元へやってくるシーンでしょう。
アニメーション本来の魅力である動きで魅せるということをとことん追求した
まるで生き物のようにうねりを上げる波の描写はもう圧巻でした。
リサの乱暴な運転もそうですが、疾走感というのを序盤から意識していたように思えます。
何故に危険を顧みずわざわざ自宅まで戻ったのかというのはこの際不問にしますw

さて、ポニョ到来がクライマックスシーンならば、
その後の話は些か蛇足だったという意見もあると思いますが、
宮崎駿監督は劈頭から掉尾までの話をきっちりと決めてストーリーを作るというやり方をしていません。
宮崎駿監督曰く
「人物を配置し、まるで方程式に当てはめていくかのような話の作り方は
脳みその表層面で作ったもの。 
混沌とした領域(脳みその中)の中身が出てくる。 それが才能のひらめき」

「最初のプランが瓦解した時に映画作りが始まる。
予定(最初のプラン)は脳みその表側で作るもの。だから浅はか」

時代によって変化するものですが、売れる為のロジックというのはあるもので、
現在ではそれをそのまま当てはめたような作品が蔓延っています。
俗に言うテンプレアニメなんてものがそうなのでしょうが、
宮崎駿監督はおそらくそれを嫌うでしょう。
でもそんなことを言えるのは数々の成功を収めてきた宮崎駿監督だからでしょ?
と思うかもしれませんが、そうではないでしょう。
成功を収めてきた者はその成功例をトレースしたくなるものですが、宮崎駿監督はそれを拒否します。
宮崎駿監督曰く
「前やったものと同じことをやるんだったらそれを見ててくれればいいんですよね。
それはできないんですよ。やりたくもないし。
そうするとやっぱり今までやってなかったことに踏み込んでいかざるを得ない」

これまで数々の名作を残してきたことは今の自分を支えてはくれない。
飽くなき探究心と挑戦精神こそが宮崎駿イズムだと感じずにはいられませんでした。

宮崎駿監督曰く
「いっぱい見すぎてるからね 今のお客さんは。
だからすぐにああ、あれだなとかそういうゲームのように当てるのが好きな奴がいるんですよ。
こうなると思ったとかさ。
すぐそういうことを得意気に言う人がいるでしょ。それ悔しいじゃんね。
そういう連中が自分の予想が当たらなくなるとブツブツ言うんだよ。 分かんないとかさ」

ひたすら消費されていく作品、
そしてレビューなぞ書いて得意気にすべてを理解したような気になっている視聴者。
私ですw 本当にごめんなさい。

このような風潮に対するアンチテーゼとして作られた側面もあるのではないか?
それも考えられなくはないですが、一方で宮崎駿監督はこうも言います。
「分からないけど面白いっていうのが一番いいなと思って。
分からないからつまらないを作っちゃうとこれはヤバいなって。
子供たちは分かるんです。 論理で生きてないから。
珍しいことやっているんじゃなくて面白くなきゃダメなんです。
手間がかかったからっていいわけじゃないんだ」

ただのアンチテーゼでは商売にならない。面白くなければ意味がない。
宮崎駿監督の苦悩、そして矜持がその言葉の中に詰まっています。
紋切り型のストーリーテリングに囚われない野放図な作り方、
故に理屈で読み解こうとしてもどこか違和感が残るのは当然といえば当然なのかもしれません。
「良い話だったと思う・・・しかし・・・」
この初見時の私の感想は宮崎駿監督からすればまさに想定の範囲内ということなのでしょう。


「宮崎駿監督の自然観」

これはもう宮崎駿監督の作品を語る上で外せないポイントです。
代表作が「風の谷のナウシカ」と「もののけ姫」でしょう。
年を経るごとに宮崎駿監督の自然観というのも若干変化していってますが、
その作品では、学術的にどのような立脚点なのかを探るというのも有意義な考察だと思います。

さて、本作における宮崎駿監督の自然観とはどのようなものなのでしょう。
宮崎駿監督はこう語ります。
「これはさ、大人の世界で言うと大災害なんだけど子供たちにとっては大冒険なんだよね。
僕は大冒険のほうで作りたいの。
地震があったとか大水が出たとかって時に、
津波があったとか どうやったらそれが防げたのかとか
そういう論調だけで語っているけど
どうもこの地球っていうのは人間が考えている以上のスケールで動いているんだよ。
動いている時期にあたるとね そういうこと起こるんだよ。
それに対する哲学を持っていた方がいい。
別にそれで悲惨さが薄まるとかそういうことでなくてね。
何かそういうスタンスのものがあるんだよ。
自分たちがあまりにも人工的に何とかなるんじゃないかって
いうことばかりを20世紀になって思うようになったんだろうけどね。
どうにもならんものはどうにもならんのにね」

言うまでもなく、本作は2011年の東日本大震災以前に制作されたものです。
震災を経た今では宮崎駿監督の言葉は非常に考えさせられるものがあります。
そして、私が目を引いたのは
「大人の世界で言うと大災害なんだけど子供たちにとっては大冒険」というくだりです。
大災害とまでは言わずとも、
積雪や台風といった自然現象でも大人にとっては基本的に百害あって一利なしなんですよね。
通勤電車のダイアの乱れで済むならまだしも、
下手をしたら住居や車の損壊で
諭吉が泡のように消えていく修繕費用とろくなことがありません。
でもそんなこととは無関係な子供にとってはワクワクするような非日常なのかもしれません。
さすがに大災害に直面した時にそんなことを感じる余裕はないでしょうけどね。
少し話が逸れましたが、
本作においては水が溢れてしまった世界を災害というネガティブな捉え方をするのではなく、
人々は逞しく順応し、水の中には古代生物もいて生命で満ち満ちているというような
非常にポジティブな捉え方がなされ描かれています。
そして、宗介とポニョにとっては格好の冒険舞台ということになります。
この水が溢れた世界をポジティブに捉えるというのが従来の常識を打ち破る
宮崎駿監督の挑戦精神なのです。
これを不謹慎だと言い切ってしまうのはあまりに安易です。
絶対的なマイナスのレッテルを貼られている題材に対して違う捉え方をするというのは
新しい世界を切り開こうとする創作活動では必要になってくることがあるわけです。
それが不謹慎かどうかの判断は表面上だけを掬うのでなく、
製作者の意図を汲み取ることが求められるのではないでしょうか。


「トンネルの向こう側の世界」

本作で最も分かりにくいのがこの終盤のシーンだと思います。
クラゲドームに覆われた世界はグランマンマーレの世界です。
これはドキュメンタリーで宮崎駿監督も言及しています。
グランマンマーレの強い魔力が及んでいる世界なので
ポニョの魔力は急速に減退し、眠くなってしまうというわけです。
そしてひまわりの家の老人たちは車椅子を捨て元気に走り回っています。
まさに摩訶不思議な世界ですね。
本作には、このクラゲドームに覆われた世界=死後の世界という有名な説が存在します。
確かにトンネルの入り口のお地蔵様など
そういったことを臭わすような描写や演出は至るところで散見されるのですが、
それはこれからポニョが人間として生きていくこと、
すなわち「生」との対比であり、「生」を強調する為の装置だと私は捉えています。

宮崎駿監督曰く
「二人だけで完結するのではなく、周りの人たちが二人を応援する形で大団円を迎える。
5歳の子どもたちが自分たちだけで解決する必要はない。
大人がちゃんと賢くなきゃ駄目だ」

水が溢れてしまった世界というのは、もはやバランスを保てなくなった現代社会、
いや、もっと広義の意味で現在我々が生きている世界と捉えた場合、
破滅の世界に取り残されたアダムとイヴでは駄目なんです。
本作のモチーフは「誰も不幸にならない人魚姫」ということですが、
ポニョが人間になってめでたしめでたしというだけでは駄目なんです。
大人たちに見守られ、
大人たちが二人を応援する形での大団円こそが真のハッピーエンドなのだという
宮崎駿監督の強い想いを感じました。
これからの世界(未来)を宗介とポニョ(子供たち)に託したということなのかもしれません。


さて、長々と語ってきましたが最後に。
引退作となる次作「風立ちぬ」が宮崎駿監督「自身」の集大成だとしたら、
本作はこれまで連綿と続いてきた宮崎駿監督「ジブリ作品」の集大成だと私は思いました。
あの大団円がそれを物語っています。

本作が賛否両論なのも知っています。
「宮崎駿監督は衰えた」なんて言われていることもです。
作業量という点ではそうなのかもしれませんが、
この人の脳の中にあるビジュアルイメージ、発想力、
あらゆることに興味を示す好奇心、観察眼、
1人だけでもアニメ制作をできるのではないかいう技術力、
これまでの経験や知識など、どれをとっても今でも規格外だと思います。
はっきり言ってしまうと、「スタジオジブリ」は宮崎駿監督がいなければ
成り立たないのではと思ってしまいますね。
実際に宮崎駿監督引退後に映画制作部門を解体というニュースが報じられましたが、
それも当然の流れなのかもしれません。
ただ、宮崎駿監督は長編映画からは引退されていますが、ジブリ美術館用に
短編「毛虫のボロ」を3DCGで製作中とのことです。
これは非常に明るいニュースだと思います。
齢70を超え、今なお新しいことに取り組む飽くなき探究心と挑戦精神こそが
宮崎駿監督の何よりも優れている才能なのかもしれませんね。{/netabare}

投稿 : 2024/11/02
♥ : 46

薄雪草 さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

子どもの領分

ここまで子どもの領分に全振りした作品を、私は寡聞にして知らない。
宗介とポニョの領分。
それは二人の眼差しにだけ映る心象風景。
たがいに共感しあい、共有をかさねた世界観が、ふんだんに描かれている。

それは、大人のもつ世界観とは全く違うもの。
鑑賞するなら、博識も青二才も、むしろ邪魔にさえ思える。
宮崎駿氏は、千と千尋の世代をさらに遡って、幼児期の子どものために作ったのだと思う。

もしも、私が宗介の時代に戻ることができたら「目にはたしかにあんなふうに見えていた。それを疑うなんてことは1ミリもなかった。いつまでも永遠に続くものと思っていた。」と、あらためて驚く。
何が驚くって、寡聞少見にて、知見がちっとも広がっていないままであることと、私自身の想像力が、段ちにおめでたく窄まってしまっていることにだ。

だいたいのことは、ポンコツ頭で切り分けてしまうのがいつもの悪い癖になっている。
もちろん、大人ぶった振る舞いで収まるうちなら、子どもじみたトラブルは起きないはずである。

しかしどうなんだろう。
本作を見るたびに、私は真逆のことを感じてしまう。
目の前のリアルな世界のなんと寂しげなことだろうかと。

実は、ポニョの世界観に登場しないものがある。
それは "貨幣への価値観" だ。
通常、モノの価値は貨幣に置き換えられるし、想像力は硬貨と札束へと押し込められる。
ということは、彼らはそれに拘束されない自由な発想を "まだ持ち合わせている" ことにあらためて気付かされる。

宗介とポニョは、やがて社会での苛烈な競争や、労働の中身と貨幣の価値を知ることになるだろう。
だけれど、そのほんの一歩手前で、世界はそもそも多様性に満ち満ちていること、共生する目的も手段も、話し合いで整えられることを、主体者として身をもって覚えるのだ。

それを導くのが、リサであり、グランマンマーレである。
本作の特徴は、子どもにとっての身近な決まりごとが、男性性ではなく女性性に決定権を持つ者として描かれていることだ。

グランマンマーレと宗介との会話に、印象的な部分がある。
彼女が宗介に問うた主旨は「ポニョは、魚で、半魚人でもある。それでもいいの?」だったと思う。

宗介は「いいよ!」と即答するのだが、一見すると、宗介のポニョへの認識が、カタチとして同じ人間であるからという言葉であろう。
しかし、このやりとりは、人類が、数億年の変遷をどう受け止め、多様性をどのように認めるかという普遍的な期待を描いているとも言える。

幼児へのこの問いかけは、そのまま大人の自己認識の深層に向かっていく。
例えば、半魚人の奇妙に見える造形は、謂わば生命がたどって来た道すじの一過を演出するものでもあるのだから、好き嫌いに判断するものでもない。

本作への批判に少なからず見られるそうした反応は、言うなら生命進化への不明、系統発生への浅慮とも言えよう。

翻って、宗介もポニョも、日常に占める父の存在はとても小さく描かれる。
宗介には、わざわざセーラー帽を被って大人ぶるお作法を演出し、電磁波という利器にて遠方の父とようやくつながるシマツである。

ポニョに至っては、日々を狭い水槽に閉じ込め、彼女のやんちゃをあやしげな魔法術式で抑え込んでいる。
これなど、日本の子育てに置かれている男性性への自嘲なのか憐れみのようにも見える。

そうは言っても、男性性のストレングスが、今の世界をリードし、創造し、弱者を支配しているのは事実である。
そのなかでも最も顕著な特性は、何あろう "核による大量殺戮兵器の存在" がそれを証明している。

宇宙に二つとないこの青い惑星を、何十回、何百回と死に追いやるボタンを握っているのは、他ならぬ男性性の意識にあることは疑いようがない。

普段は "ミテミヌフリ" をして浮上してこないこの事実が、宗介とポニョの物語の背景を読み解くカギになる。
二人の視点から、現実への評価をどのように見やれば良いかが分かろうものだし、そろそろ判らなければならない。

デボン紀の魚たちと、老人のデイサービスとが同居する世界を、2人の視点が示している。
そこには、核兵器の御守りは要らないし、作意的な亡霊たちの絵本も必要ないはずだ。

私たちは、かりそめにも平和と思い込み、自己満足に完結させているこの時代を認めあって生きているけれど、宗介やポニョの世界観とはほど遠い。
しかしながら、この刹那から受ける多様な圧迫は、実はたかだか1万年の歴史に過ぎないことも事実と知っておこう。

人の精神性は、知らなければ、知ろうとしなければ、知らずと人生を浪費してしまう日常に慣れきっている。
それは本当の賢さと言えることなのか、それともヤバめの愚かさと言えなくもないことなのか。

ポニョが、崖の上まで登ったのは、宗介の "知ろうとする当意即妙と臨機応変" にあった。
二人の邂逅によって開かれたのは、多様性や共存性への入り口としてであり、同時に、作品が知ろしめす人類知としてのベクトルでもある。

本作の持つ感受性への振り幅の大きさは、そこから得られる解釈もまたそれぞれに落ち着くという楽しみ方もある。
その切り取り方は、上下左右に広くあり、奥行きも浅く深くあるだろう。
そして、時代を動かしてきた宮崎駿氏のメッセージを感じとれるなら、なお素晴らしいと思い入っている。


キービジュアルに見せているポニョのあどけない表情とその仕草は、地上人類への浮き立つような期待と不安、人間世界への揺るがぬ信頼と選択を重ねてあわせて、宗助に向けている。

それは、どちらかというと、今までの大人の心を揺さぶってきた物語ではなく、無垢なる子どもたちのための、しかも、地球生命への深い愛着と強い責任感とを託しておきたいとする、宮崎氏の祈りの目線でもある。

そう私は捉えているのです。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 10

67.8 5 スタジオジブリで田舎なアニメランキング5位
おもひでぽろぽろ(アニメ映画)

1991年7月20日
★★★★☆ 3.5 (340)
1746人が棚に入れました
東京の会社に勤めるタエ子は東京生まれの東京育ち。27歳のある日、結婚した姉の縁で、姉の夫の親類の家に2度目の居候をしに出かける。山形へ向かう夜汽車の中、東京育ちで田舎を持つことにあこがれた小学生時代を思い出し、山形の風景の中で小学5年の自分が溢れ出す。

声優・キャラクター
今井美樹、柳葉敏郎、本名陽子、伊藤正博、寺田路恵、増田裕生、山下容莉枝、三野輪有紀、北川智恵子

◎TARGET さんの感想・評価

★★★★☆ 3.9

この作品は大人にならないと良さがわからないってことを、今日知った

❏総評

 高畑勲監督。1991年作。

 ジャンルは昭和ノスタルジー

 設定では主人公は1956年生まれとなっているので、
 2013年現在57歳ぐらいの人が若かった時代のお話。

 ネタバレしない程度に簡単にあらすじ

 東京でOLをしている岡島タエ子。彼女は代々東京育ちの家系なので
 田舎というものに憧れていた。そして彼女は休暇を取って汽車で
 山形へ向かうのだった。

 彼女は小学校時代田舎に憧れていた自分を思い出し、そこから
 子供の頃の記憶が次々と溢れだす。

 彼女は田舎で何を感じ取り、子供の頃の記憶から何を思うのか…


❏大人になってから見て欲しい唯一のジブリ作品

 子供の頃見た時は、主人公に感情移入できなかったので
 まったく印象に残らず、ふ~んって感じだったのだが、

 だいぶ人生経験を積んでから見てみると脇役も含め、
 全ての登場人物の気持ちが手に取るように分かるので、
 作品に深みが増し、評価が格段にアップ事は確かである。

 だから子供は見ちゃダメw
 最低でも主人公の年齢27歳は超えてから見るぐらいがオススメ

 そもそも私と主人公の世代が違うので、作品内の価値観全てに共感
 できるとは言いかねるが、昔はこうだったんだなと思いながら
 すーっと感情移入できちゃう作品。


❏昭和の親は厳しく、子供は我慢強い

 昔のお父さんって、あんな感じなんだろうか。もし今あんな親父が居たら
 子供に反感買っちゃうかもしれないけど、少なくとも当時の家庭には
 秩序があるよう見えるし、それはそれで良かったのかもしれない。

 また、子供たちも今の子に比べて我慢強いような雰囲気がある。

 こういうのって昔は良かったとかって美化されることもあるんだけど、
 昔の子供は今の子供に比べると、悪く言えば抑圧されていたわけで、
 どっちが正解ってのは難しい所である。

 個人的には現代の方が好き。

 昔より自由があるし、
 大人への主張も許されてるし、
 大人からの体罰も無くなったし

 でもトレードオフで秩序が無くなってしまったけどね。

 まぁバランスが大事ってことで。


❏しわイラネ。笑うとババァに。

 顔の表情をリアルに出すために、この作品は先に声優の録音を済ませ、
 絵を言葉に合わせていく作り方をしたそうだ。

 その際、頬骨の動きを表現するために顔に線をつけてるだけど
 27歳の岡島タエ子の顔が一気に40代ぐらいの見た目になる。

 その後のジブリアニメには、この老けジワは登場していないので
 よっぽど不評だったのだと思われる。


❏最後に

 この作品は大人にならないと良さがわからないってことを、今日知った。

 昭和ノスタルジーが苦手な私でも普通に見れた。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 3

しまっちゃうおじ さんの感想・評価

★★★★★ 4.8

時を経て

子供の頃に幾度と無く視聴しています。

私の実家はクソ田舎です。小学校からも離れていて家の近くに友達の家は無

く、学校から帰ると金曜ロードショーを録画したビデオをテープが切れるほ

ど何度も繰り返し見ていました。父が録画していてくれていたのでほとんど

がジブリとルパン、アクション系の洋画でした。セリフなんかもほとんど覚

えていました(笑)その中にもちろんこの作品も入っていました。

当時、キャラクターのほうれい線が大嫌いだったのを今でも覚えています。

主人公のキャラクターデザインも全然可愛くなくてジブリの中で1位2位を争

う嫌いな作品でした。だけど、ギバちゃんが何故かツボにはまって腹を抱え

て大笑いしてました。夜も布団の中で思い出して1人で笑っていたのを覚えて

います。客観的に当時の自分を思うと「子供のくせにギバちゃんの良さがわ

かっていたのか」と少し感心してしまいます(笑)

何ヶ月か前にやっぱり金曜ロードショーで放送されていて、「久しぶりに見

てみるかー」なんて軽い気持ちで視聴しました。




「なにこれ・・・最高じゃん。」




と、ジブリの凄さを思い出してしまいました。


現代(大人の妙子)で起こる出来事が「あの時は」と小学5年生の自分と照ら

しあわせて、今と昔を交互に移し替えながら物語が進んでいきます。

小学五年生の自分が今の自分に何を伝えようと、おもひでとして出てくるの

か、自問自答し答えはわかっているのにその答えから目を反らしているよう

に感じます。人間臭さがいい味を出しています。

そして、最後の「おもひでを置いていく」と思わせるカットは胸に来るもの

があります。


ジブリの作品の中でも「大人向け」と評価はいまいちですけど、今だからこ

そ評価できる作品だと思います。

「あの時」だけを切り取って日常モノとして「妙子の日常」なんてあったら

面白そうなんて思うのは私だけでしょうか?妙子と妙子を取り巻く登場人物

は個性があっていい物語になると思います。特に妙子をないがしろにするま

ん中の姉と人生を達観していそうな祖母の一言、貫禄があるのに娘に甘い父

が良いキャラクター過ぎます。

今まではジブリ作品の中でも下から数えたほうが早い順位でしたが、今回一

気に急上昇しました。「千と千尋の神隠し」以降ジブリは観なくなってしま

いましたが

「ジブリってほんっとに良いものですね」

「あの頃は」なんて言いたくはありませんがこの頃のジブリはホントに良い

と思います。


「妙子の日常」はマジで観てみたい。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 7

ようす さんの感想・評価

★★★★☆ 3.6

「小学5年生、それは女の子が一つ階段を昇って成長するためのさなぎの季節なのかもしれない。」

最近だと「かぐや姫の物語」でよく名前を聞いた高畑勲監督。

1991年公開のジブリ作品です。

大人向けの作品。大人の人が、昔の自分を懐かしむ作品。

私はとても気に入りました^^


●ストーリー
岡島タエ子は、東京で働く27歳のOL。

小学生の頃から田舎にあこがれていたタエ子は、姉の夫の縁で山形の農家に居候に出かける。

小学5年生の思い出があふれ出し、昔の自分とともに山形へ旅立つ。


大きなテーマは「小学5年生の思い出」「農家」「田舎」かな。

見ながら自分も小学生の時のことをたくさん思い出して温かい気持ちになりました。

小学5年生って自分にとってもたくさんの思い出があって、とても大好きで大切な時期でした。

何度あのころに戻りたいと思ったことか(笑)

友だちも、恋も、クラスでのいやがらせも、男と女の微妙な距離も、未来への迷いのない気持ちも…。

そのすべてが繊細に表現されていたように思います。

タエ子ちゃんの子どものころの時代背景は、ミニスカートだったり、スカートめくりの流行だったり、ひょっこりひょうたん島だったり。

テレビに映っているひょっこりひょうたん島のBGMとタエ子ちゃんの心情がリンクするところは素直に「うまい描写だなー。」と感心しました。


●名言
この作品には名言が多いなあと思いました。

レビューのタイトルもそうだし、タエ子ちゃんが分数の割り算について話すところも私はとても気に入っています。

大人向けの作品だと最初に言いましたが、子どもたちが見ても共感して、ほっとできるセリフがちりばめられているように感じました。


●エンドロール
主題歌は「愛は花、君はその種子」。

あま~い感じの歌です。この曲知ってたけど、この作品の主題歌なのは知らなかった。

甘い曲と一緒に流れるエンドロールに…涙がぽろぽろ…(TT)

過去を懐かしむ本編から、未来へつなげる。

小学5年生=さなぎ
27歳の自分=さなぎ

だからこそ、27歳のタエ子ちゃんは同じさなぎだった小学5年生のことをたくさん思い出したのかな。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 20
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