オリジナルアニメーションで泣けるなアニメ映画ランキング 8

あにこれの全ユーザーがアニメ映画のオリジナルアニメーションで泣けるな成分を投票してランキングにしました!
ランキングはあにこれのすごいAIが自動で毎日更新!はたして2024年07月07日の時点で一番のオリジナルアニメーションで泣けるなアニメ映画は何なのでしょうか?
早速見ていきましょう!

89.0 1 オリジナルアニメーションで泣けるなアニメランキング1位
さよならの朝に約束の花をかざろう(アニメ映画)

2018年2月24日
★★★★★ 4.2 (658)
3503人が棚に入れました
一人ぼっちが 一人ぼっちと出会った

出会いと別れが紡ぐ永遠の一瞬

少女はその時 愛にふれた

『あの花』『ここさけ』の岡田麿里、初監督作品。

声優・キャラクター
石見舞菜香、入野自由、茅野愛衣、梶裕貴、沢城みゆき、細谷佳正、佐藤利奈、日笠陽子、久野美咲、杉田智和、平田広明
ネタバレ

oneandonly さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

時の流れが織りなす母子の愛と別れの物語

世界観:9
ストーリー:8
リアリティ:9
キャラクター:8
情感:10
合計:44

【あらすじ】
人里離れた土地に住み、ヒビオルと呼ばれる布に日々の出来事を織り込みながら静かに暮らすイオルフの民。10代半ばで外見の成長が止まり数百年の寿命を持つ彼らは、“別れの一族”と呼ばれ、生ける伝説とされていた。
両親のいないイオルフの少女マキアは、仲間に囲まれた穏やかな日々を過ごしながらも、どこかで“ひとりぼっち”を感じていた。そんな彼らの日々は、一瞬で崩れ去る。イオルフの長寿の血を求め、レナトと呼ばれる古の獣に跨りメザーテ軍が攻め込んできたのだ。
虚ろな心で暗い森をさまようマキア。そこで呼び寄せられるように出会ったのは、親を亡くしたばかりの“ひとりぼっち”の赤ん坊だった。少年へと成長していくエリアル。時が経っても少女のままのマキア。同じ季節に、異なる時の流れ。変化する時代の中で、色合いを変えていく二人の絆――。
ひとりぼっちがひとりぼっちと出会い紡ぎ出される、かけがえのない時間の物語。
(公式サイトより抜粋)

【視聴経緯】
特に好きなシリーズとかではなかったものの、あにこれでの評価が良かったので劇場まで足を運んできました。もう少し後ならリズと青い鳥が観れたのにと思ったタイミングでしたが(あまり自由が利かないので)、結果的には本作を劇場で観ることができて本当に良かったです。

【未視聴者に向けて】
個人的にもこの評価点は劇場版の尺での最高値ですし、滅多に超えない4.7のハードルを越えているので、私の評価点に概ね共感を持たれている方は、おそらくは楽しめると思います。なので、特に先入観を入れることも必要なく見ることをおすすめしたいと思います。

【ネタバレなしでいくつか見どころや注意点を教えてほしい方に向けて】
(ネタバレはありませんが、何も情報はいらないという方のために閉じておきます)。
{netabare}作画の水準が非常に高いのがまずは見どころです。ヒビオルの塔の内装、様々なシーンの空と雲や、雪景色、煙の出ている町の風景、などが特に印象に残っています。

映画の2時間の間に、たまに飛び飛びで時が流れます。テロップなどはないので、言葉等で気づく必要があります。国家間の戦争等も描かれますが、中心は主人公マキアと縁あって育てることとなったエリアルとの母と子の愛情、人間関係の変遷がむしろ中心として描かれているのが一番の見どころです。

女性のほうが感動できるかもしれないと思うのと、男女共通で、それなりに人生経験のある大人のほうが感動できると思います。

劇場版となると、観客を笑わすコメディが入ることがありますが、本作は皆無。ひたすらシリアスなので、シリアスが苦手な方は楽しめないかもしれません。

注意点としては、若干、専門用語があります。ヒビオルが代表例でしょうか、織物のことと思って見ていると、違った表現をされたりします。織物にメッセージのようなものを記録できるようで、それが広めの言葉として使われることがあるように思いました。イオルフは主人公の種族(エルフ的な)、レナトは竜のことです。

また、最初は、マキア以外のイオルフのキャラの見分けがつきにくくて混乱するかもしれません。紛らわしいのはレイリア、長老、クリムの3人でしょうか。長老は序盤以降は出てきませんので、女性はレイリア、男性がクリムと思えば多分大丈夫かと。{/netabare}

【ネタバレを含む感想】(視聴した方のみどうぞ)
{netabare}
本作の表面上のテーマはプラスティック・メモリーズに近いように思いました。プラメモはギフティア(人間そっくりのロボット)の寿命のほうが短く、ギフティアとの間で思い出を作る意味があるのか、というテーマでしたが、本作は主人公のほうが何百年の寿命を持つイオルフであり、別れの一族と呼ばれ、人を愛せば本当の独りになるという教えに背いて、人間を愛することに意味があるのか、という話と捉えれば、その類似性がわかると思います。

プラメモは設定が甘すぎで、作品としては泣けるラブコメ萌えアニメ(私はお気に入りですが)といった感じでしたが、本作は壮大なファンタジー世界で重厚さがありました。時代としては中世~近代をモデルとしつつ、大きな破綻は見当たらず、無理なく世界に入っていけました。

ちょうど、今シーズン(2018冬)ではヴァイオレット・エヴァーガーデンが放映されていますが、京アニの大作と比較しても、作画面でも劣っていないどころか、個々の画では上回っていますし、戦争の表現とキャラクターの乗せ方はこちらのほうが自然で成功しています。

外見の成長が止まる(老いない)という点も、声優の声や演技を変えなくて良い、主人公の外見の美しさを維持できるという面で非常に優れた設定と言えるでしょう。

ストーリーは、2時間映画で描き切るにはそもそも大きな物語なので、若干駆け足になったところや、最終盤の東京マグニチュードを想起させる回想シーンは少し強調しすぎだったように思いました。時の流れを使った表現は、P.A.WORKSの得意技で、もちろん良いシーンではあったのですが。

それから、リアリティ面にも響いたのが、レイリアの飛び降りシーン。ようやく我が子と対面して、直前では子供を抱きたいと言ってクリムを拒絶していたこともあったのに、なぜスルーなんだと。竜に助けられたのも見ていた時には全く偶然と思いましたしね。後から考えると、レイリアは「あなたたちのことはヒビオルに織らない」と生きることを前提の発言をしているので、レイリアにはマキアが竜で助けにきてくれたのが見えていたと解釈するのでしょうね。それでも、竜に乗れる保証はない状況で飛び降りれるレイリアは凄すぎです。

母子の愛情は、母からの無償の愛にも感動しましたが、子の側のその受け取り方、成長に応じた関係性の変化なども心情描写とともに細やかに描かれていました。お互いの思いの行き違いで、エリアルは、マキアのことを母親とは思っていないなどと言って、家から出ていってしまいます。そして、仕事に就き、結婚もして父親になるというところで二人は再会。

マキアが何て呼ばれてもいいと言った後の、エリアルが「母さん!」と叫ぶシーンは、本作屈指の名場面だったと思います。母親でいることを貫いてきたマキアにとって、本来は嬉しい言葉ですが、相手は父親になった大の大人。子離れをしなければならないと思ったのか、複雑な表情をして別れを選びます。

情感面の話、実は中盤まではそこまで盛り上がりがありませんでした(ほっこりの状態が長かったのですが、その時点でも近くの男が泣いている様子で、今の泣きポイントだったの? と思っていました←後から考えると2回目とかだったのかも)。しかし、終盤は怒涛の追い上げで、結果的には久しぶりに涙腺崩壊しました。

エリアルの死期に立ち会ったマキアは、いまだ妖精のような美しさで神々しかったです。生活感もしっかり感じさせる地に足をついた物語でしたが、最後に神話になったような、充足感に満ちた作品に映りました。

タイトルの約束の花はタンポポで、タンポポの花言葉には「真心の愛」などあるのですが、綿毛は「別離」。別れは、現在の場所から巣立っていく人に贈る前向きな言葉にもなります。マキアの最後のシーンの言葉にも表れていましたが、別れを力強く肯定することがこの作品のメッセージと受け取りました。

岡田麿里氏の初監督作品というのも話題でしたね。同氏が脚本を手掛けた作品では、あの花、ここさけ、(全話でなければ、)とらドラ!、さくら荘、絶園のテンペスト、凪あす、花咲くいろは、など見てきていますが、個人評価を調べてみると、3.8~4.5と凡作はゼロ、並作すらほとんど出さない優良クリエイターさんです。スタッフに恵まれたことももちろんあるでしょうが、いきなりこのレベルの作品を送り出してくるとは…。今後のご活躍を期待しています。{/netabare}

【ネタバレを含む感想2】(2回目鑑賞後)
{netabare}同じ映画を2度も劇場で見たのは初めてです。自身で高評価をつけながら、調整すべきか考えていたのと、1度ではわからない場所があったので。

情報を何も入れずに見た初回と比べると、かなり理解できました。疑問点や新たな発見について、箇条書きにしてみます。

<なぜレイリアはダイブしたのか>
{netabare}初見時の一番の疑問点でした。直前まで、子供に執着を感じさせる発言をしていたので。
まず、ダイブ直前にマキアが「レイリア、跳んで!」と叫んでいて、建物と思える白壁に大きな影が動く描写がありました。レイリアがそれを確認できていたかはまだよくわかりませんでしたが、それに気づいていて、死のうと思って跳んだわけではないのでしょう。

一瞬のうちにメドメルと別れを選んだ理由は容易に消化できるものではないですが、成長の早さを見て、既に子供の成長過程において、自分の存在が意味を持っていない(ヒビオルに織られていない)ことを悟ったということでしょうか。事実、メドメルは母が飛び去っても泣きもしなかった、そういう関係性になってしまっていたわけで、自分だけが一方的に子供に依存する関係になりたくないと思ったのではないでしょうか。

「私のことは忘れて! 私も忘れるから」と気丈な発言をしながら、レナトの上では忘れられるわけないというマキアの言葉に涙する形で締められていましたから。{/netabare}

<イオルフの一族はどうなったのか、レイリア以外の捕らえられた女性は?>
{netabare}レイリアとマキア以外の女性がどうなったのかは描かれていません。

メザーテ軍が襲撃時に「抵抗するならいっそ切り捨てて構わない」と言っているので、抵抗して殺された者も多数いたのではないかと思います。連れ去られた他のイオルフたちは、あえて描かなかったのだと思います。

エンドロール後に一枚絵で、滅んでいないことを示していました。{/netabare}

<クリムについて>
{netabare}本作で一番救われないキャラクターがクリムでしょう。しかし、時の流れがあらゆる関係性を変えていく本作において、その変化に抗った存在として仕方のない結末でした。初見時にはマキアに恨み節を吐いたり、レイリアと心中しようとしたりする、仲間とは思えないキャラでしたが、2回目では、彼があらゆる手で恋人を奪還しようとしていて(別の作品であれば、イオルフの正義のヒーローとして描かれたでしょう)、美しい悲劇に同情します。{/netabare}

<シーンが飛び飛びでわかりにくい>
{netabare}2回見るとほとんど違和感がなくなりました。初見時はマキアを連れ去ったのが誰なのかわかりませんでしたが、クリムでしたね。でも、そこからマキアの髪を切るまで何をしていたのかはいまだによくわかっていませんが。

初回で全て理解するのは難しいのは減点要素ですが、劇場の尺まで徹底的に無駄を削ったのも、芸術性を重視する私にとっては良かったです。必要なシーンは描けていたと思うので。{/netabare}

<バロウが長老の子どもである説について>
{netabare}「外の世界で出会いに触れたなら、誰も愛してはいけない、愛すれば、本当のひとりになってしまう」とマキアに話していた長老。イオルフの掟だと思っていましたが、レイリアかクリムの言葉では、よく長老が言っていたことという表現だったと思います。

そして、イオルフの集落にいなかったイオルフであるバロウ。彼はマキアのことを知っていて、その後、メザーテでマキアのことを助けてくれ、ラシーヌと呼ぼうとした後に長老と言い直したり、最後にも登場します。

そこで、バロウは長老の子どもという説があります。直接的に描かれている場所はありませんが、裏設定としてその可能性は十分にあると思います。長老の愛した人は悲劇に遭い、子供もイオルフの集落に受け入れられなかったことを想像すると、より深い物語性を感じられます。{/netabare}

<マキアとエリアルの恋愛感情について>
{netabare}これも、人によって全く捉え方が違うようです。私は両者とも恋愛感情に至らなかったと思っています。酔っぱらったエリアルがキスをせがむシーンはありましたが、子どもの頃にしていたのはおでこのキスなので。お互いにお互いの関係性がよくわからなくなってきていたことの表れのひとつと捉えています。{/netabare}

他にも、ラングやイゾル視点でも心情描写がされていたり、2回見ても満足できる作品でした。{/netabare}

(参考評価推移:5.0→5.1)
(2018.3劇場にて鑑賞)

<2018.7.28追記>
遅ればせながら、上海国際映画祭におけるアニメーション最優秀作品賞(金爵奨)の受賞、おめでとうございます!

本作は円盤購入を考えていますが、10月26日発売とのこと。結構引っ張りますね…。
映画のパンフレットがすぐに売り切れになってしまい、後日、P.A.WORKSのネットショップで追加販売されたようですが、私が気づいた時(数日で)には完売とどっぷり嵌ったファンが多数いるようで。かく言う私もその一人でして、円盤購入(縮刷版劇場パンフレット)でゲットしようかなと思っています。

<2019.1.9追記>
2018作品ランキングの1位にした作品で、レンタル開始後に視聴された方の評価を見るに過大評価だったかなと思ったりもしましたが(私は作品の芸術性を評価しているので、物語が完成された作品(短いほうが有利)が点数は高くなりやすい)、やっぱり本作は大好きでして。115分でこれだけのものが創作されたこと、マリーをはじめ制作陣に感服です。

テーマはわかりやすいし、ストーリーも言葉にすれば単純で、ラストがどうなるかもすぐに予測できるものです。しかし、登場人物の人間関係の変化や、マキアとレイリアの対比等を巧みに使った設定があり、演出も全体的に素晴らしいです。

心情描写の好きな方や、シリアスな作品が好きな方におすすめ。私は感動をウリに宣伝するつもりがありません。{netabare}最終盤の回想シーン{/netabare}により涙を強要してくる作品と言われる節がありますが、そんなところは付随的な部分で。

例えば、{netabare}幼児のエリアルに当たってしまい(育児における悩みあるあるです。もぞもぞ虫遊びの使い方も良かった)、出て行ったエリアルを探して見つかった時の安堵(大雨で水嵩が増した水路を映すシーンでマキアの恐怖を共感){/netabare}といった場面だけでも込み上げるものがあります。

初見の方の多くは{netabare}レイリアのダイブが理解不能となっていそうですが、自分が思い続けてきた子の中に、自分が存在しないことがわかる場面なんて容易に想像できないし、仮にあれが身投げであったとしても、説明できなくはないかなと。{/netabare}

ファンタジーが舞台ながら、人間にとって普遍的なもの(「愛」が当てはまると思いますが、尊く重たいもの)を扱っていて考えさせられつつ、視聴後に心が洗われるような作品。いや、あまり視聴のハードルを高めたくないので、むしろ感動できるよ!と軽く薦めるべきなのか(笑)

本作は視聴者が少ないのが残念でもったいないので。

<2019.1.28追記>
今回は、購入していた円盤を最近視聴したことに加え、以下のレビューを読んで思うところがあったので追記します。既に視聴している方は参考に読まれてはいかがかと思います。

「ナナメ読みには最適の日々」
⇒http://ishimori-t.hatenablog.com/entry/2018/03/16/085105

{netabare}私が理解したところを大まかに言うと、本作は「物語についての物語」であり、物語の語り手であるイオルフが語られる側の人間と関りを持つ構造になっている、というレビューなのですが、結構説明できていて、こんな見方があるのかと唸ってしまいました。

本作は物語を創る職業である脚本家の岡田麿里氏が、全てを出してほしいと言われて監督を志願し、創り上げた作品です。物語の語り手を暗に登場させている可能性はあり得ますし、作者は世界の生みの親ですから、それが親子の関係により描かれるのは自然です。ついでに、クリエイター側に共感できる私が惹かれた理由の説明にもなっています。

まず、ヒビオルについて。本作は色々と独創的なモチーフがあって、流し見しようものならすぐについていけなくなる危険があるのですが(このわかりにくさが評価を下げる一因となっている)、その最たるものがヒビオルです。これを削らず、ネーミングも一般的にせず、物語で何度も登場させ、エンドロールでヒビオルを織るシーンを流した作者の意図は考えられるべきでしょう。

ヒビオルは単なる美しい布というだけではなく、言葉を織り込むことができます。縦糸は流れゆく月日(時間)、横糸は人の生業(出来事)ということで、日々を紡いでいくという設定です。初見時の感想において、私はヒビオルをイオルフそれぞれの「日記」(自分史)のようなものと受け取りましたが、これを脚本家(P)それぞれの「物語」と訳してみます。

高値で売れるので、イオルフの民はこの機織りを生業としているように描かれていますが、ヒビオルと同様の織物がイオルフ以外に作れない説明はないですし、教えればエリアルのように人間にも織ることが可能です。

この点、脚本家は物語の語り手であり、物語ることを生業としている。物語の世界とは一線を画し、当然、物語世界の住人よりも長く生きることができると当てはめて解釈することができ、前述のレビューのとおり、禁忌との関係で捉えることも可能です。マキアの神出鬼没さも、語り手側ゆえかもしれません。

マキアはエリアルと出会い、彼を私のヒビオルと言います。初見時の解釈(=日記)ではここを理解できず、大事な物という意味もあるのだろうとうやむやにしましたが、マキアにとっての物語と読むとスムーズです。その後、マキアが織物であるヒビオルを織るシーンは削られておりほとんどなく、エリアルが成長するまでの時間を共に過ごし、終盤手前の再会時に、自分を織りあげたのはエリアルだと言います。

ここを訳すと、マキアのヒビオル=エリアルを主人公とした物語=マキア自身、となり、物語の作者は、自らが生み出した物語によって、作者自身が作り上げられているという関係性を表わしていることになります。岡田氏がそのような意図を込めていたかはわかりませんが、岡田氏にとって自身が創った物語は自身の人生の一片であり、そこに関係した存在(物語世界を含む)への感謝を作品に乗せていることは推察されます。

ヒビオルのエンドロールは、この作品が物語の物語であることの暗喩であるとも、この物語が続いていくことを単に表現したとも、視聴者も各自の物語を紡いでくださいというメッセージとも、自由に捉えられるように思いました。

様々な視点で解釈ができる作品ですね。個人的には、結局のところ脚本家にとどまらず、視聴者自身が自分の人生における物語をヒビオルに当てはめて視聴することを許容している作品だと思います。

ついでにレナトという名の竜について。これも、単に竜などの名称を使わなかったことに意味があるはず。

レナトは、「生まれ変わる、再生する」を意味するラテン語「レナトゥス」に起源を持ち、古代ローマ初期よりキリスト教徒が用いてきた名前から連想され、古代から神聖とされた存在の象徴として命名されたとも考えられます。
{/netabare}

<2019.3.8追記>
今週月曜に有楽町のマルイで開催されているさよ朝展を見てきました。一部、撮影可能だったので美しい背景美術等、カメラにおさめてきました。
劇場では完売していたグッズなどの販売もあって、クリアファイルを購入させていただきました。

さて、ネット上のレビューで私が最も共感したもののリンクを掲載して、取りあえず本レビューは終了としたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。(リンク切れだったので修正しました(2019.9.16))

「『さよならの朝に約束の花をかざろう』を観て、「"物語"とは何か」について考えた」{netabare}
https://kakuyomu.jp/works/1177354054886369977/episodes/1177354054886374977
{/netabare}

<2020.3.20追記>[New!]
公開から2年以上経ちましたが、いまだに予告編PVを見たり、Yahooのリアルタイム検索で「さよ朝」を検索しています。遅れて視聴した方の反応は概ね良好で、ドリパス(リクエスト投票数が多くなった映画を劇場で上映するもの→https://www.dreampass.jp/m361183)では今年2月に上映を達成したところ、既にまた7位まで上がってきています。
劇場で鑑賞したい方はお見逃しなく(本作は劇場をおすすめします)。

投稿 : 2024/07/06
♥ : 78
ネタバレ

nyaro さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0

追記。そうか、インターステラーか

24年4月追記

 どうも既視感が強いなあ、何か忘れてるなあ、と思っていました。SF映画のリストを見ていて思い出しました。ラスト場面が「インターステラー」ですね。そういえばインターステラーの最後の場面が本作そのものでした。
 別にだから悪いと言っているわけではなく、含意も若干ズレていますし、多分この作品はSF小説・SF映画からいろいろ題材を持って来て、独自のストーリーを作ってファンタジー風味にしたんだろうなあ、と思いました。こういう作り方ならオマージュもいいんじゃないですかね?


23年9月レビュー

3回目視聴。既視感の正体はアシモフのロボットシリーズとジブリかな?

 スタートですけど、レナトの「ナウシカ」の王蟲との類似性と、トルメキアが谷に攻め込むシーンなどを連想しました。類似性は別にいいんですけど、ジブリからの影響は強く感じました。

 長命のイオルフとレナトです。「以前は長命種は沢山いた」というセリフがありました。つまり「もののけ姫」ですね。同作では「古代の神々から神聖が失われてゆく」プロセスでした。つまり本作においても、イオルフもレナトも人間に関わらなくても結果的に滅びて行くという暗示でしょう。その理由が純血性にあるんだと思います。

 イオルフの10代半ばで見た目が変わらないという設定です。ここばビジュアル的な美少女を描きたいからなのかどうかです。長命であることの意味性は分かりますが「見た目がティーンの少女である」ことの意味性です。もちろんラストシーンのカタルシスの計算もあるのでしょう。
 ここに「モラトリアム」「成長しない現代人」のアナロジーがあるかどうかが深みにつながると思います。子供を産み育てることで大人になる、という物語なのでその点ではいいと思います。
 
 例えば「星界の紋章」シリーズのジントとラフィーヌの関係を初め、それこそ無数にこういう話はあります。アシモフの「ロボット」もののイライジャとグレディアの関係なども同様です。
 そうそう、ヒビオルですけど、このロボットシリーズでダニールにイライジャが語ったのが、まさに人類の歴史を「織物」になぞらえていました。ダニールがこれによりロボット三原則を克服するという重要部分で、その影響はかなり深く感じました。
 そういえば、アシモフの「ロボットシリーズ」は、科学的には圧倒的なスペーサー世界が長命ゆえに人と触れ合わなくなり、いずれ滅びて行くというシリーズですので、本作のそのままです。

 で、この部分が作品を貫くテーマ、冒頭から最後のシーンの「さよなら」です。映画「メッセージ」でもあった、運命論と幸福論です。死別が分かっていても出会い、愛することができるか?ですね。

 この部分、イオルフ設定で「出産の数が減ってきた」という設定があればもっと考えさせる内容だったのに、という気がします。そうなるとエリアルを拾ったときの「母性本能」がもっと生きると思います。
 つまり、社会から赤ん坊がいなくなる、社会で子供を育てようとしなくなるから、個人主義になって行く。適応できない人間が「孤独になる」というマキアの設定に寄り添ってきます。
 また、滅びの原因が純血主義で安寧な生活に慣れてしまったという意味で、日本のアナロジーにもなります。資本主義的な個人主義です。
 もし、人間に攻められなくてもイオルフはいずれ滅ぶというニュアンスが明確に出ていればこのテーマ性が浮き彫りになって分かりやすくなった気がします。もちろん、これは推測ではなくてこの前提は物語の世界観から裏設定として存在すると思います。

 レナトの赤目になってはもちろん王蟲ですが、燃えて死んで行くというのは、憤死ですね。火病と言い換えてもいいかもしれません。自由に生きられなければ滅びて行く。この火病というのはお隣韓国に特有だそうで。もしかしたら、レナト=韓国でイオルフ=日本と考えると辻褄は合います。韓国の方が少子化に苦しんでいますし。

 子どもが母親に恋をし性的な対象になるというのは、発達心理学上極めて自然なことです。そこで父親の不在が大きな意味を持ちます。父にかなわない=母を諦める=女性を外で探す、というのがエディプスコンプレックスの克服です。
 この周辺のシーン。初めての飲酒も含めて軍という共同体がエリアルの成長に果たした役割が描けていました。ここで彼は男になり恋をすることになりました。だから、母の元から去ると言う部分につながります。

 レイリアは無理やり子供を作らせられますが実子です。マキアは子供を拾います。ディサは愛の結果子供を産みます。この3人の母の対比が作品上の骨格ですね。
 なお、レイリアは子供を守るために昔の男を拒絶しますが、ここは母になったことの気持ちの変化もあると思います。母とは共に生きられなくても子供を愛する気持ちに違いはない…けど、男よりも先に成長したレイリアにとっては男はもうどうでもいいのでしょう。そこでは男の未練のみっともなさも描いていました。「秒速5センチメートル」問題です。

 ということで、設定と含意は非常に緻密に繊細に作り込まれていたと思います。が、とにかくテーマが使い古されていて目新しさがないのと、イオルフの見た目がティーン=全員美少女が鼻にいてしまいました。
 上でもいいましたが、イオルフの悲劇性が子供を作らなくなった自業自得の必然だという部分が明確にあって、イオルフ=日本の含意が読み取れれば、子供を産むことの成長がある、逆に言えば、少子化で子供を産まないから成長がないイオルフの子供っぽさという風になったかなあと思います。

 もちろん、制作サイドはそこは意識しているかもしれません。しかしストーリーへの反映が弱く、どこかで見た感じで、下手をすると感動ポルノに見えてしまいます。まあ、尺の問題で母と息子の相互の成長が描き切るために他のテーマは切ったのでしょうけど。

 3回見たのでもうこれで打ち止めにします。可能性は感じる映画ですが、上記のように類似性が多々あってテーマ的には凡庸なこと、感動ポルノ・美少女ものに見えなくはないことがかなりマイナスになっています。

 評価点はやっぱり4はあっていいですね。3回みてもつまらないということはなかったですし、作画技術はやはり素晴らしいと思いました。






 2回目視聴後追記です。運命論と幸福論を母子と言うテーマでかなり上手く描いていると思います。

 子供の成長を見守る母という視点で、エディプスコンプレックスから思春期に達して親離れするところの描写は良かったと思います。悪い仲間からの誘いで飲酒して大人になる。独り立ちして家庭を持つ。嫁姑問題等々です。

 つまり、いろいろ視点はありますが、やっぱり長命の母と短命な息子の避けられない死別=「別れの一族」が主題なんでしょう。タイトルがそもそもそうですし。

 で、ちょっとネタバレにありますが映画「メッセージ」を思い出しました。{netabare}宇宙人の言語を習得した女性が未来を見通せるようになり、子供を産んでもたしか小学生くらいで死んでしまうのがわかっている、という話がありました。
「メッセージ」に限らず似たような話は沢山ありますが「親子で子が先に死ぬ別離」「死と言う運命」を受け入れることが不幸なのか?という課題を正面から扱っている点において共通点を感じます。{/netabare}

 別れの運命はわかってるけど、そこに存在した愛情が本物であれば「別れの一族」であっても、他者と係わることが不幸ではない、ということです。そうなればイオルフという種族の長命種が登場する意味性は出てくる気がします。

 研究として「100日後に死ぬワニ」も見たりしましたが、このテーマはしかし難しいです。難しさの原因はテーマの内容は単純だけど、答えが見いだせないことです。
「運命論」ですねえ。運命を従容と受け入れてその範囲で精いっぱい生きるというのは、当たり前の結論です。「幸福論」もです。短い触れ合いであっても精一杯心を通わせた後の別れは、不幸ではなく幸福だと。

「CLANNAD AFTER」の後半そのものとも言えます。これは間違えると簡単に感動ポルノになる構造です。そこにどれくらい深みを出せるか、です。

 レイリアの存在があるので、構造として「母である」「母になる」という対比がありました。しかも「望まずに」「望んで」も対照的です。結果的に両者とも子への愛情はあるわけですが、その理由の違いが母とは?という事を描こうとしていたと思います。

 それと織物「ヒビオル」です。「日々、織る」から来ていると思いますので、日常=生活=生きるという事。つまり、一生の一日一日とも取れます。その中の時間と出会いが縦糸、横糸という感じで人生のアナロジーなんでしょう。そこにメッセージとして「母さん」と織り込むところが「子を産めば母になるわけではなく、一日一日の積み重ねで母になるのだ」ということでしょう。
(そうそう、イオルフは「不老」「フ、オイル」のアナグラムでしょうね。語感をエルフに寄せたのでしょう)

 こうやって考察していると、なるほどよく考えられたテーマ、メッセージ、物語だなあ、と感心しました。

 ただ、です。やっぱり、ただなあ、と言いたくなります。それは感動、涙が前面に出すぎた作品の作りです。本作は「超平和バスターズ」名義ではないですが、その類似作品を作ろうという意図が気になって冷静に見られません。

 評価としては、上記の様にストーリーは緻密だと思います。思いますが、どうもどこかで見たような話の焼き直し感がぬぐえませんし「お涙頂戴」の意図が露骨すぎます。3.5とします。
 キャラも類型的なところがちょっと気になりますが、配置には無駄がなくよく考えてあるので4とします。
 作画は素晴らしいです。4.5。

 声優・音楽は調整で、3.5を入れます。映画全体悪くないけど、やっぱり意図が気に入らないという意味です。



以下 1回目のレビューです。

感動要素を自己模倣し続けたアニメ業界が生み出した化け物??

 物語の内容は題名と冒頭の数分で分かります。誰と?という部分に意外性はありましたけど。第一印象は「私は何を見せられているのだろう?」という呆然とした無力感でした。

 幾つかの要素です。母になる母になれないという対比、寿命の差による別れ、そして異端のものたちの滅びです。これらが組み合わさってなかなか壮大な壮大な物語を作ったかなと思います。

 ただ、異端であることの意味合いというか何を象徴していたのかが結局読み取れていません。つまり、中心になるイオルフが何かを象徴していたか、物語の根底では何を描きたかったのが読み取れません。

 物語論で感動を作るための仕掛けで終わっている気もします。上にあげた3つはどれも「悲しみ」を作るための「要素」になっている印象があります。演出とキャラデザ、音楽などすべてが泣かしにかかってきています。

 2018年とは思えない「AIR」とか「世界の中心で愛を叫ぶ」的なゼロ年代初頭の手法です。もちろん「あの花」などの要素も入っています。ケータイ小説的な悲惨な要素の押し付けも感じます。

 つまりアニメ界において「受ける感動要素(共感という言い方もできる)」の自己模倣を繰り返し「純化」のプロセスを経て生まれた、奇形というか化け物の様な気もします。
 言い換えると、再帰的に感動要素が独り歩きした結果データベース的に生まれたシミュラクール、つまりオリジナルのない模倣に感じました。

 ですので物語に要素は沢山ありその水準は非常に高いのですが、奥行きがありません。目に見えるストーリーは優れていても、作品の裏にある文脈が見えません。

 批判というより、どう捉えたらいいのか分かりません。第2次世界大戦から始まった現代日本史で生じた現象の社会的なとらえ方から離れて、何に感動するかという要素論、物語論だけで突き詰めた結果のストーリー、作画、演出、音楽の一つの形な気がします。

 例えば最近の新海誠氏の作品は旧来の映画評論で言えば、日本が歩んできた時代性とか私小説的なものバックグラウンドが見えず、日本の評論家の持つ手法は無力になりました。つまり、メジャーな評論家は東日本大震災というパラダイムシフトに対応できていない感じがします。

 それと同じような別の文脈が本作にはあるのかもしれません。ちょっとこの作品のアニメ史的な意味については、少し考えたいところです。実はヴァイオレットエヴァーガーデンの劇場版がなぜ評価が高いのか?が未だに理解できていません。私が古い考えなのか本当に本作やヴァイオ劇場版は浅い話なのか。少し考えてみたいところです。

 作画は素晴らしかったです。キャラデザはいいんですけどそれこそデータベース的最大公約数に見えました。
 一応、以上のような感じで私の感覚だと、意味が不明なので評価せずの意味で作画以外をオール3にしておきます。

 なお、東浩之氏の動物化するポストモダンの真似のような考察にしたのは、氏も震災でアニメの見方が分からなくなったと言っていたと思いますのでその意味も込めてです。


 

投稿 : 2024/07/06
♥ : 18
ネタバレ

ぺー さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

時を越えて君を愛してみた

岡田麿里初監督作品 / 劇場版オリジナルアニメ


ふと映画を観たくなったもので。
『あのはな』地上波再放送中。2019年夏期『荒ぶる季節の乙女どもよ。』でシリーズ構成担当中。新作映画『空の青さを知る人よ』も控えてる。氏の作品の露出が多くなってる最中で手を出してみました。

映画は引き算の作業。TVシリーズと比べ尺の関係で観客に解釈を委ねるものが少なくありません。こちらは想像と妄想の翼をいくらでも広げることができますし、鑑賞にあたってはフラットな視点で楽しむことが肝要かと思います。
とりわけ、「泣ける」「感動した」との評は処し方が難しい。「泣ける」「感動した」は感想を持ちよって共有するのに適していて、鑑賞前の指標とするのはあまり得策ではないと個人的には思ってます。想像と妄想の翼が上手く広がらなくなる恐れがあることが理由です。
なんのことはありません。要はこれまでよく失敗をしてきましたよ!ってことです。ハードル上がりまくってませんか?これw


そして『さよ朝』は劇場版の良いところである “ 説明がうるさくない ”ことを満喫できた作品です。
これからの方は、“めっちゃ綺麗な映像”“物語を邪魔しない劇伴”“キャラに合う声優の選択”。この3点において高いレベルの作品である、を理由に鑑賞の優先順位を上げて良いと思います。


中身はファンタジー。イオルフという長命種族の少女マキア(CV石見舞菜香)とその息子で人間のエリアル(CV入野自由)を中心とした物語です。
親子の愛。愛あるが故の葛藤に心を揺さぶられますが、おそらく監督が描きたかったかもしれない


 “ 時間は有限であるからこその尊さ ”


に説得力を持たせるには齢400年余のファンタジー設定は不可欠でした。ゴリゴリのCG使った実写でも不可能ではありませんが、アニメだからこそ成立し得る傑作といって差し支えないかと思います。

丁寧に親子の感情の揺れを綺麗な映像に落とし込みながら、私達が無為に過ごしているかもしれない“時間”について思いを馳せるところまで踏み込んだ内容となっています。

大切に想う者同士を隔てるもの。それは互いの残された時間の差。


 あなたは先逝く者にどんなことを伝えたいのだろうか?
 あなたは先逝く身としてどんなことを伝えたいのだろうか?
 あなたは残される者として何を自分に留めておくのだろうか?
 あなたは残される者へのどんな想いを胸に抱き旅立つのだろうか?


けっして軽くない題材を扱いながらわりと俯瞰的に捉えた抑えめ演出だったことが意外であり印象に残りました。あの岡田さんがってやつです。


ファンタジー大作。とりわけ実写だとアクロバティックにドラマティックになりがちなわけで、もし『さよ朝』が仰々しい演出全開だったら持ち味がだいぶ削がれてしまったことでしょう。
そんな繊細なバランスの上に成り立った115分。お薦めです。





※以下ネタバレ所感

“ 時間 ”に絞って本編の良かったところ


■機を織る民

{netabare}中島みゆき『糸』。ap bank bandがフェスでカバーしてブレイクしたあまりにも有名なこの曲。映画冒頭で脳裏をよぎった人は私だけではありますまい。
「縦の糸はあなた 横の糸は私」と二人の繋がりを唄い、ハッピーエンドを示唆して閉じる名曲です。
これだけでも深みはあり一本映画ができそうですが、…といってたらホントに2020年に『糸』から着想を得て一本封切られるみたいですw

本作ではさらに

{netabare}「縦糸は流れ行く月日 横糸は人のなりわい」{/netabare}

時間軸の要素を入れて織り成し加減が複雑になります。というより「あなたと私」を見せてさらに「時間と私たち」を見せる仕様。筋が通ります。
長老ラシーヌ(CV沢城みゆき)がメザーテ軍人イゾル(CV杉田智和)に対し「布を織り日々を織る単調な繰り返し」と言ったイオルフの生活はいわば

“縦糸は日々を織る 横糸は布を織る”

とも置き換えられるでしょう。布=人のなりわいです。“ヒビオル(布)”がマキアにとってどれほどの意味を持っていたのか察して余りありますね。
ヒビオルがいろんなとこで暗喩的に使われてました。いいっす。まじいいっす。{/netabare}

そしてよく115分に纏められたなというくらいの壮大さ。



■体感時間の差異

物語のテーマが“流れゆく月日と人のなりわい”だとしたら、その時間と人を描くための主たる要素となったのが“体感時間の差異”でしょう。

{netabare}レイリア(CV茅野愛衣)とクリム(CV梶裕貴)の行き違いなんかがそう。

レイリアの意に反して交わらざるを得なかった人間だ、とのクリムの見立ても間違っていません。同一種族でまた平和なあの頃にと思う彼を責められはしないのです。
レイリアが経験してクリフが経験できなかったこと。それは自分より寿命の短い人間つまり娘メドメル(CV久野美咲)を愛するという体験です。

映画冒頭から劇中の時間はおおむね20年経過してた頃合いでしょうか。イオルフと人間との間には時間の捉え方にずれがあります。
イオルフ、ここではクリムにとっては瞬間であったろう20年間。目の前で最愛の人をさらわれたのはついこの間という感覚のまま、そしておそらくレイリアの心境の変化を理解できぬまま斃れたクリムがただただもの悲しいのでした。
人間のライフサイクルさえ知っていればレイリアへの声のかけ方も違うものになってたでしょう。{/netabare}


{netabare}イオルフのレイリアは人間の子を宿しました。
イオルフのマキアは人間の子を育てました。
人間のディタ(CV日笠陽子)は人間の子を産み育てました。

3つの異なるタイプの母親が登場します。ずっぷり関わったマキア。娘を拠り所に孤独を慰めたレイリア。私たちとおんなじディタ。

異なる体感時間を持ってようが、いくら孤独を恐れようが、母から子への眼差しはとことん暖かいことに普遍性を感じます。
イオルフに感情の起伏がないように見えたのは寿命の長さが関係しているはずですね。時間は限りあるからこそってやつです。{/netabare}



■別れが来るから 情が移るから

{netabare}愛する人を必ず先に見送らなければならない(単身者向け)

我が子を必ず先に見送らなければならない(家族持ち向け)

彼女もいない俺はどうすりゃいいんだー(・。・; ・・・という話ではありません。
出会いがあれば別れがあるわけであります。
そのつらい別れを自分が経験することが確定しているとわかりきってるのに踏み込みますか?踏み込めますか?を突きつけられる作品でもあります。

作品で出された答えは明快です。

 A 踏み込むでしょう!

時間は有限であるからこそ人は一生懸命生きるのだよ、ってね。{/netabare}

{netabare}そのメッセージは明快かつ前向きです。
ハーフのバロウ(CV平田広明)さんの締めが良い!

「(長老は)笑うだろうよ。おまえが苦しいだけじゃない別れを教えてくれたことが嬉しくってな。」{/netabare}





繰り返し観たいと思える作品でした。

 感動したか? 
 泣けたか?

いにしえのドラゴン“レナト”よろしく赤目病に罹ったかのように目を真っ赤にはらしてたかと。
こういった時間という縦軸で魅せる作品に自分はめっぽう弱いのです。






■オマケ
・ヒビオルは高級品に納得

{netabare}エリアルと出会った時に彼を包んだヒビオルを時は流れて看取る時にかけてあげてましたがものすごく耐久性良いですね。{/netabare}


・配役ミス?

杉田さんが出てくると真面目なところもそうでなく見えてしまい残念な気持ちに。沢城さんと掛け合うとさらにその思いを強くしますね~



視聴時期:2019年9月

--------
2020.03.18
≪配点を修正≫ +0.1



2019.09.15 初稿
2020.03.18 配点修正
2021.08.14 修正

投稿 : 2024/07/06
♥ : 74

91.1 2 オリジナルアニメーションで泣けるなアニメランキング2位
君の名は。(アニメ映画)

2016年8月26日
★★★★★ 4.1 (2504)
11437人が棚に入れました
新海誠監督による長編アニメーション。

千年ぶりとなる彗星の来訪を一ヶ月後に控えた日本。
山深い田舎町に暮らす女子高校生・三葉は憂鬱な毎日を過ごしていた。
町長である父の選挙運動に、家系の神社の古き風習。
小さく狭い街で、周囲の目が余計に気になる年頃だけに、都会へのあこがれを強くするばかり。

「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!!!」

そんなある日、自分が男の子になる夢を見る。
見覚えのない部屋、見知らぬ友人、目の前に広がるのは東京の町並み。
念願だった都会での生活を思いっきり満喫する三葉。

一方、東京で暮らす男子高校生、瀧も奇妙な夢を見た。
言ったこともない山奥の町で、自分が女子高校生になっているのだ。

繰り返される不思議な夢。そして、明らかに抜け落ちている、記憶と時間。
二人は気付く。

「私/俺たち、入れ替わってる!?」

いく度も入れ替わる身体とその生活に戸惑いながらも、現実を少しずつ受け止める瀧と三葉。
残されたお互いのメモを通して、時にケンカし、時に相手の人生を楽しみながら、状況を乗り切っていく。
しかし、気持ちが打ち解けてきた矢先、突然入れ替わりが途切れてしまう。
入れ替わりながら、同時に自分たちが特別に繋がっていたことに気付いた瀧は、三葉に会いに行こうと決心する。

「まだ会ったことのない君を、これから俺は探しに行く。」

辿り着いた先には、意外な真実が待ち受けていた…。

出会うことのない二人の出逢い。
運命の歯車が、いま動き出す

声優・キャラクター
神木隆之介、上白石萌音、長澤まさみ、市原悦子、悠木碧、島﨑信長、石川界人、成田凌、谷花音
ネタバレ

Progress さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

夢の儚さを越えて二人は繋がる。

見終わった後、私は夢から覚めて、まどろんだ時ようなな気持ちになりました。

あのシーンの背景が良かったとか、あそこのスピード感が最高だったとか。
でも、その記憶は、強く「覚えていよう」と思い、まるでこれは面白い夢から覚めた時と同じじゃないかと。

でも、人の記憶は曖昧で、全ての良いシーンを覚えておこうと思っても、次第にディテールが失われていきます。
やがて夢の記憶は、「面白い夢をみた」に代わり、そして夢をみた事をも忘れていく。

時間に対して夢の中の記憶はあまりにも儚い。

この作品はそんな弱い繋がりで繋がった瀧君と三葉の物語です。



感想
{netabare}

【演出】
二人の入れ替わり生活が始まるときに曲が入り場面の切り替わりのスピード感は新海監督らしい演出。

二人の入れ替わり生活とは別に強く印象に残っているのは
時間が100倍速になった感じで都会の光や信号が光を放つシーン。
これは時間の経過を示しているのでしょうが
その綺麗さが強烈に印象付けられました。

また、夢の中の出来事という作品の設定のように
幻想的な美しさが視聴者を夢と現実の境界線に引き込んでくれます。

三葉の人生が瀧に見えたときのシーンもグッと来ました。何でだろう?
人の生き死にに涙もろいのかな。
あのシーンは母親との直接的な繋がり(へその緒)や親との別れ、家族の濃い「人と人の繋がり」を感じてしまったからでしょうかね。

【展開】
「瀧君、覚えてない…?」という三葉のシーンは本当に胸が痛くなりました。
3年後の瀧君にとってはずっと前から繋がっていた。三葉にとってはようやく繋がった。
だけど瀧君はこのときはまだ知らない、三葉は不審そうにこちらを警戒する瀧君に思いを伝えられない。
「二人が会えた」「繋がった」という嬉しさと同時に
勇気がでずに思いを伝えられない三葉の姿に自分を重ねてしまいました。



【キャラ考察】
瀧君がクレーターの上で君の名は!と涙ながらに叫んだ気持ちがわかってしまう。
大切な人に会いたいと、思いが募ると、苦しくて、吐き出したいなにかが心のなかにたまってきて、自然と涙が出てくるんですね。

三葉の境遇について
母親を幼い頃に亡くしていて、それをきっかけに父親が神職をやめて離ればなれとなっています。
離れて暮らしながらも、政治というなにかと目立つ仕事をしている父親のせいで
学校で本人の意思とは関係なく少し浮いてしまう三葉。
そんな狭い村社会に嫌気が差してどこかに逃げたい気持ちでいる時に起こる入れ替わり。
三葉にとって入れ替わりは逃避になり得た(まさに夢に逃げる)のですが
突然終わる入れ替わりは、夢の終わりであり、それは自分の逃げ場所がなくなったともいえます。
夢の続きが見たくて。そういう気持ち(逃避)、わかります。
東京にいるはずの瀧君に会いに行き、あの日々の続きがみたい。
でも、せっかく会いに行ったのに瀧君は三葉のことを知らなくて、繋がりの喪失を感じてしまった。
(ですか、ここで過去と未来を繋ぐ糸を渡したシーンの懸命さや、その糸が忘れかけた瀧君と三葉を繋げてくれた意味を持つアイテムであることの重要性が「繋がった!」と嬉しさを感じさせます)

その後の三葉の行為は、瀧君への思いをたちきりたくての髪を切る行為だったのでは。(切るということは思いや繋がりをたちきりたいための行為?)(夢の終わりが夏祭りの近くの日、つまり、一般的には夏の終わり近くです。夏の終わりの儚さと夢の終わりの儚さをかけているのではないでしょうか)

また、三葉が夏祭り前に暗い部屋で涙を流すシーンには、喪失感を感じ、失恋等のなにかを失う出来事を思わせました。


その後の彗星の衝突により、三葉は現実の問題と向き合い乗り越えることができました。
瀧君の残した「すきだ」が現実と向きあう最後の勇気をくれたのかもしれません。

そして、瀧くんにとっては、一生忘れられない体験であり
忘れられない繋がりだったのではないでしょうか。
それが記憶がなくなっても四年後も繋がりを求めていた理由かもしれません。
忘れたくないと思っても忘れてしまう、だけどどこかでおぼえているその繋がりのことを。
だから、これはなくなってほしくないという、繋がりの肯定なのではないかな。
【美術】
新海監督の作品は見たり見なかったりなのですが、背景の綺麗さは今作もすばらしかったです。
田舎のゆったりとした風景にはそこに溶け込めそうな気分にさせてくれました。まるで、その場所が自分の帰る場所のような。

都会の朝の風景はどこか孤独だけどエネルギーを感じます。
夕方の忙しそうな風景には少し寂しさがあって、早く帰りたいな、そんな気持ちにさせてくれます。

季節感も夏に始まり、春に終わるという、季節ごとの綺麗な風景を描いてましたね。

最後に桜さく路地の階段で二人が出会うシーンも、優しさと暖かさをリアルに感じてとてもよかったです。


【記憶が失われる設定について】
多くの人がここについて指摘してきました。
ですが、私はレビューの最初に書きました通り、夢だから、でストンと納得しています。
作中で夢をフォローしているシーンがあるのは覚えていますか?
三葉の祖母が三葉(瀧くん)に「三葉、お前、今夢を見ているな」と言う印象的なシーンです。
また、三葉も「夢の中で見たあの人の名前が思い出せない」と言い、友人を困惑させます。
それはそうでしょう。普通のひとはそんなことを非常時でも平常時でも口に出したりしません。
共通認識として「夢の中の内容は忘れやすい」ということがあるからです。
ですので、スマートフォンの中の日記が消えていくあの表現や、
二人が御神体のクレーターで出会うシーンが、
夢と現実の境界線が曖昧な時間や場所を表現していて
見た人間も、夢と現実の境界線にいるようなそういう作品だと思っています。

【朝、目が覚めるとなぜか泣いている】
印象的な導入のセリフです。
二人の繋がりを失ってしまったことを自分の中のどこかが泣いている。
そして、それにとりつかれているようになってしまっている。
私はそうやってどこかに繋がりを探すような感情を現す言葉は知りませんが
自分のどこかに、よく似た感情があると確信があります。
それが、私の心にズキズキとした胸騒ぎを起こしてくれます。

【総評】
色々書きましたが、瀧君と三葉のような10代の気持ちや考え方を上手く描いています。
君の名は。でとめていますが、これは相手への問ですよね。
相手の名前を知らないからこそ尋ねる(訪ねる)。
そして相手の事を知りたいからこそたずねる。
相手の事を知りたいという感情をエネルギーにして伝えてくる作品でした。

また、人と人の繋がりを感じる、もしくは、心の中のどこかにあるつながりを求める感情を肯定する物語だったとまとめさせていただきます。

【蛇足】
三年前の瀧君と三葉が東京でであったとき、二人の糸はどう繋がったのか、一瞬はまりかけました。
二人の糸は絡みあって大きなわっかを作った。そんな思いです。でも始まりはどこかよりも、今と未来の彼らが気になって(笑)

キービジュアルの瀧と三葉が東京の坂で振り返って見つめる絵って
ラストの5年後の二人を、であった頃の高校生の姿に置き換えているのかも?
これが「出会い」の絵なのか「再会」の絵なのかちょっと気になって面白い。

幻想的で儚さのある二人の奇跡の繋がりと、現実の繋がり。
ラストで二人の繋がりを現実の繋がりにすることで生まれる嬉しさ。
なぜだろうか?多分、二人が求めていたその繋がりは、人間が奇跡を信じたい気持ちの肯定だからでしょうか?

{/netabare}

ストーリー考察?(繋がりを軸にストーリーを考えてみました。)
{netabare}
三葉の祖母が、糸に例えて人と人の繋がりを話しました。繋がって、絡みあって、離れて、近づいて、また繋がっていく。その繋がることを結びという。

瀧と三葉の関係もまたそうでした。夢で繋がって、入れ替わりを繰り返して二人の糸は絡みあう。
入れ替わりは突然になくなる。突然糸が切れたように。
三葉のいる場所は時間を越えて遠く離れた場所だった。
真実を目にした時、三葉との思い出は一瞬で消えていき、崖から突き落とされたようなスピードで二人の距離は離れていく。(二人の距離が明確に離れていくことに儚さや悲しさを感じました)
でも、瀧は「そこにいかなくちゃいけない」という自分でもわからない使命感に押され御神体のある場所へ
三葉のいるかもしれない場所へ近づいて行く。(確信のない行動です。しかし、そこには記憶という曖昧な繋がりよりも、もっと深いところでの繋がりを感じます)

そしてまた入れ替わり、二人はお互いを自分の体で出会う。
今まで顔を合わせて話したかったことをいいあって、笑う。(ようやく、もがいてもがいた結果、出会えたという喜びを感じます)

互いの姿が見えなくなって、名前を忘れた瀧は叫ぶ。
「君の名前は!」忘れちゃいけない大切な人を思い出せない苦しさで一杯になる。(本気で相手の事を求めるシーン、記憶がなくなっても、もっと深いところからの欲求です)

名前は思い出せない。でも誰かが大切なことは覚えてて
誰かが思ってくれていることが「すきだ」という言葉からわかる。だから三葉はやりとおせた。

そして時が流れ、あの時間の記憶もなく、あるのはかすかな心残り。
どこかに大切な繋がりがあるような。

冬が終わり春が来る。
二人はまた近づく、自分の中の心残りの先にある繋がりを探して。
そして出会い、ずっと探し続けてきた繋がりだと信じて問いかける。「君の名前は」。
(最初のシーンと繋がる。どこかに特別な繋がりがあるという不思議な感覚。ラストはなんとなくわかるという感情の肯定が、とても心地いい)
{/netabare}


2018年1月3日 地上波放送を見て。
{netabare}
本当は追記する予定はありませんでした。
でも、見たら、自分の中に生まれた何かを書きたい衝動を抑えられなくて、
書こうと思いました。

今回の再視聴で感じたのは、
繋がりが消えることの悲しさでしょうか。
どこか身近に感じていた、繋がりの断絶。
私が繋がりの断絶を感じたのは、福島なんですが、
レビューを社会派にする気はないので詳細は伏せます。

それは、人間の営みの断絶であったり、人の関係の断絶。
繋がりが消えてしまうことへの悲しさ、つらさ。
そういったものが多分糸守町の消滅、三葉と瀧の入れ替わりの終わり、
そういった作品世界の出来事から、私はいつも感じていたこと、
繋がりの断絶を感じていました。

繋がりの断絶と同時に、繋がりを求める声も同時に感じました。

三葉が瀧に会いに東京に出た時も、瀧が三葉の名前を忘れて叫んだ時も、
繋がりを求めるその行動、その思いが、私には、
無くした繋がりを取り戻したい気持ちを感じて、
どうしようもなく、泣いてしまいました。
(すこし安っぽい表現ですが、実際少し泣いてます。
多分泣いた理由は、登場人物達と同じ理由で、
繋がりを求めたから、でしょうかね。
多分これが、共感何でしょうね。初めて実感出来たかも)

こんな瀧君のセリフがありました。
「今はもうない街の風景に、何故ここまで胸を締め付けられるのだろう」
心のどこかで糸守に繋がりを感じている瀧君。
私も、どこかで知らない街の知らない人の営みに、
繋がりは感じないまでも、営みの中にある繋がりを見て、
親近感を感じたりするのです。
それは人と人の繋がり、人と土地の繋がり、繋がりの中で生まれた営み、
そういったものを、私は求めているのだろうし、
大切にしたいし、失いたくないと思うのです。

だから、この作品を再視聴して、このレビューは、
完全に私の感想であるのですが、
私が求めていた繋がりを描いてくれているし、
私が恐れている繋がりの断絶も描いてくれている。

だから、私は、この作品が好きなんでしょうね。



{/netabare}

投稿 : 2024/07/06
♥ : 134
ネタバレ

oneandonly さんの感想・評価

★★★★★ 4.5

アニメを伝道する好機

世界観:8
ストーリー:8
リアリティ:8
キャラクター:7
情感:7
合計:38

1,000年に1度のすい星来訪が、1か月後に迫る日本。山々に囲まれた田舎町に住む女子高生の三葉は、町長である父の選挙運動や、家系の神社の風習などに鬱屈(うっくつ)していた。それゆえに都会への憧れを強く持っていたが、ある日彼女は自分が都会に暮らしている少年になった夢を見る。夢では東京での生活を楽しみながらも、その不思議な感覚に困惑する三葉。一方、東京在住の男子高校生・瀧も自分が田舎町に生活する少女になった夢を見る。やがて、その奇妙な夢を通じて彼らは引き合うようになっていくが……。
(シネマトゥデイより)

最近話題として何回か出てきたので、折角なので劇場に足を運ぶことに。そう決めてから、京アニの「聲の形」も上映中であることに気付いて、1日2本の豪華スケジュールを組みました。映画は、昔はよく観に行っていましたが、1日2本観たことは初めてのことです。

「君の名は。」は、午前中の回が満席だったので、「聲の形」→「君の名は。」の順で視聴しました。新海誠監督作品は「秒速~」と「言の葉の庭」を視聴済ですが、どちらも良作となる4点にぎりぎり届かない程度の評価をしてきたところ今回は評判が良く、京アニは「けいおん!!(二期)」で評価を上げたところでしたので、この2作は接戦になるかなと思っていましたが、本作は期待をさらに上回りました(劇場版の尺では過去最高点です)。

作画と楽曲はこれまでの作品の通り素晴らしい上で、映画の尺に合うだけの充実した設定とストーリーになっています。
入れ替わりネタはココロコネクトで経験済ですが、前半に和みの要素としてよいエピソードでした。やはり男は悪いと思っても揉みますね(笑)
入れ替わりが終わってからが本編という感じ。物語の展開がどうなっていくか、最後まで集中して視聴できました。

良作アニメは「時間」を効果的に利用しているものが多いです。タイムリープする必要があるわけではないですが、経年による物語の厚みは基本です。人間は、時間を遡ることができず、過去を振り返ったり後悔したり、そして遅かれ早かれ死ぬ、はかない存在であることの裏返しなのでしょうね。{netabare}この作品でも3年のズレが良い味を出していました。瀧が三葉に出会う前に、三葉が瀧に会いに行くシーンがありましたが、ああいう伏線は好きです(最初どのように描かれていたかは1周だけではよく思い出せないのですが)。

この作品ではさらに、入れ替わりが「夢」であって、その記憶がなくなっていく、という表現をしていたのも特徴的でした。夢を思い出したいのに思い出せない、あの感覚を、大事な人の記憶と結びつけたのはとても切なくて巧みでした。携帯の日記の消え方はちょっと変でしたけどね。{/netabare}

そうそう、リアリティ面では、細かいことを言えば上記のようなものがいくつかあったと思いますが、{netabare}名前の記憶が消えていくように{/netabare}終わる頃にはほとんど忘れてしまいました。それくらい浸れる作品ということかと思います。

興行成績でも今後どれくらいの数字を出せるかも期待大ですが、新海誠監督の代表作と言えるものになったことは間違いないでしょう。

{netabare}最後の二人が出会えるのかというところは「秒速」が繰り返されないかとヒヤヒヤしました。私は心の中で思い切り「よくやった!」と叫びました(笑)。ハッピーエンドが、良い余韻を呼んでいます。{/netabare}

そのほか、「言の葉の庭」の先生が登場していたり、彗星(星)を扱ったところなどにも、過去作品とのつながりも感じられ、新海誠監督の集大成になったのではないかと思います。もちろん、今後も今作を超える作品を目指していただきたいですね。

ヒロインの三葉の名前は、凪のあすから2クールED「三つ葉の結びめ」の影響もあったようです(前向きになれる、自分もとても好きな曲です)。
色々なところでつながっていると感じられることも自分のアニメ道の進歩ですね。

この作品でアニメに興味を持つ方も多いと思います。クールジャパンの代名詞のひとつがアニメだということは多くの方が知っているでしょうが、他にも「君の名は。」クラスの作品があることを、機会があれば伝えていきたいですし、あにこれの方々もそうしたら良いんじゃないかと思いました。(自分が初心者だという方には、私の棚でも見ていってください)

もう1回くらい劇場で観たいと思える作品です。劇場で観ておくことをおすすめしたいアニメ映画です。

(2016.9劇場で鑑賞)

追記(2016.9.20)
{netabare}余韻に浸り、あれこれ考えています。設定について補足したいと思います。まずは、入れ替わりが本人たちにとっては「夢」として感じるものであること(遠くにいる男女が出会う物語を考えつつ、古今和歌集の小野小町の和歌から着想を得たというのもイイですね)。朝起きて自分の人格に戻っていて、相手側の人格に入った記憶は消えているので、当初は訳が分からなくなり、周囲の言動などから、現実として入れ替わっていることを認めざるをえなくなるという流れでした。結果的には素晴らしく機能しているのですが、観客としては、別人格の2人がしっかり自分の意思を持って行動しているのを見ているので、忘れてしまうことに違和感を覚えます。ここを、注意深く見ていくには、1周では心もとないですかね(私も序盤は見落としがある気がします)。

それから、時間描写に特殊性のある作品でもあるかと思います。携帯電話の日記が消えてしまう部分はマイナスとして取り上げさせてもらいましたが、過去改変の可能性を示唆した表現でもあるのかなと思いました。つまり、我々が1本だと思っている時間軸は実は1本ではなく、交差することもあるけれども、その時は我々の記憶や記録物までもが改変されていて、我々に認識できないだけなのではないか、ということです。

また、通常、時間軸は1本であり、パラレルワールドを扱った作品は世界線が平行に並んでいるというもので、別の世界線に移動しても同じ時間というのが一般的ですが、この作品では別の世界線(と言ってよいのかも確信を持てませんが、多分そうかと)が3年ずれています。これは斬新ですよね。光速に近づくほど時間の流れは遅くなるという相対性理論もありますし、時間の経過は常に一定ではないとすれば、時間の流れが世界線ごとに異なっているというのもありじゃないかと思いました。{/netabare}

追記(2016.9.21)
{netabare}RADの主題歌を購入。その中の夢灯篭に「5次元にからかわれて」という歌詞があるのを見て、個人的にはパラレルワールドを描いた作品であると認識してみる。

(参考)私的次元の数え方
0次元…大きさのない点
1次元…太さのない線
2次元…厚みのない平面
3次元…静止した空間(これを0次元に戻して以降を想像する)
4次元…時間軸のある空間(1次元的な線としての時空=我々の認識する世界)
5次元…複数の時間軸のある空間(2次元的な平面としての時空=パラレルワールド)
{/netabare}

追記(2016.9.23)
{netabare}上記から、私は本作はタイムリープものではなく、時間の経過がズレたパラレルワールドの交錯した世界の物語と考えてみました。

①瀧のいる世界線と、三葉のいる世界線(瀧の世界線の3年前)がムスビの力によって重なってしまい、互いに心と体の入れ替わりが生じた。

②しかし、三葉のいる世界線において三葉が死に、入れ替わりは終わった。ムスビの力がなくなり、存在しないはずの三葉とのやりとりは過去改変により消失する。このため瀧の携帯電話の日記も消えた。

③三葉の「半分」である口噛み酒を飲むことでムスビの力が復活。三葉のまだ生きている世界線とつながり、再度入れ替わりが生じた。

④危機回避の努力の結果、三葉たちが助かり、その世界線と繋がった影響で瀧のいる世界線の過去が改変され、三葉が生きている世界になった。
という感じでしょうか。

小説版は1日で読み終わりまして、文章で読むと正直そんなに凄い作品とは思えなかったのですよね(本当に、映画の内容をそのまま文章にしたという感じのものですが、情感の起伏があまり湧かないのです)。
最高峰の作画と、疾走感や情感の溢れるRADの楽曲と、綺麗にはまった声優と、後半超展開となるストーリーと、感情をストレートに紡いだ心情描写と、夢のはかなさを活かした設定とが高度に融合した、アニメがベストの作品なのだと思います。

本日、9月22日までの28日間で興行収入100億円突破とのニュースがありました。祝!
もう一度見たくなってしまう、高揚感の余韻が強い作品です。
{/netabare}

追記(2016.10.10)
{netabare}最近週末まで多忙となり2回目をまだ観に行けていませんが、多数のレビューを見ていた中で一番良かったものをご紹介。
http://blog.kanjutsu.net/entry/2016/09/09/115947

作家性を捨ててエンタメに振れた、プロデュースの力によるもの、斜に構えた意見も多々見受けられますが、表面的な受けも狙いつつも底辺の深みに魅力がある作品だからこそ、何度も足を運ぶ方がいるのだと思います。
{/netabare}

<2019.1追記>
世界観の配点を1点減点しました(作画によるボーナス点を与えていましたが、他作品との平仄の観点から削除しました)。

(2017.2、2018.4、2019.1評価調整)

投稿 : 2024/07/06
♥ : 102

けみかけ さんの感想・評価

★★★★★ 4.9

空前の大ヒットも頷ける完成度を差し置いて劇場で笑い転げるヲタクとはオイラのこと~ぼくらタイムフライヤー_時を駆け上がるクライマー~IMAX観ました

新海誠監督が手掛けた5本目の長篇作品


東京の大都会に住む男子高校生、立花瀧
山深い田舎町に住む女子高校生、宮水三葉
1200年振りに地球を訪れるという巨大彗星の到来を一ヵ月後に控えたある日、瀧が目覚めるとそこには見知らぬ自分と知らない天井、見知らぬ家族と知らない町があった
同じように三葉もまた、想像すら出来ていなかった大都会で朝を迎える
ただ一つ確かなことは、自分の身体が見知らぬ異性のものだということだけ
瀧と三葉は全く原因がわからぬまま不定期にお互いの身体と心が入れ替わってしまうことに気付いた
お互いの生活に干渉しないよう、日記で連絡を取り合うことにした二人
田舎育ちの三葉は憧れの都会に想いを馳せ、自由気ままに過ごす
一方の瀧も他人のそれも異性の身体だということを忘れ好き勝手してしまう
周りからはまるで人が変わったようだ(笑)と思われ少しずつ人間関係に変化も起きる
瀧が好意を抱く先輩との仲を、三葉が瀧に変わって取り持ったことで瀧には良い事尽くめの大団円かに思えたが、次の日の三葉はある決心をしていた
そして彗星到来の10月4日、瀧は記憶から消えていた重大な事実に気付く・・・


『言の葉の庭』が全国東宝系で大きく展開し成功を収めたことから、遂に全国約300館での上映となった新海誠監督にとって最大の大作となった今作
キャラデザはZ会のCMでタッグを組んだ田中将賀
作画監督は元ジブリの安藤雅司
音楽は挿入歌から劇伴に至るまでオイラが中高生の頃に(ごく一部ではあるがw)一世を風靡したバンド、RADWIMPSが担当


声優陣には瀧役に声優経験豊富な若手演技派、神木柳之介
三葉役には『舞妓はレディ』の上白石萌音
その脇を固めるのは長澤まさみ、市原悦子といった豪華俳優
さらに悠木碧、島崎信長、石川界人といった豪華声優
そして『I LOVE スヌーピー』でいい芝居をしてくれた谷花音、とキャスティングにもかなり力が入っているのがわかりますね
身体が入れ替わった時の芝居は聴きどころですb


単純に少しアニメに詳しい人なら、将賀さんのキャラデを見て『あの花。』の絵だ!観に行こう!という気持ちになってくれるでしょうし、本編が始まるとすぐ「夢灯篭」という楽曲に合わせてOPアニメみたいなのも流れる
オイラは初見観た時このOPが「めちゃくちゃダセェ!」と思ってしまったのですがwやはり深夜アニメなどに慣れ親しんだ世代にとっては心を掴む取っ掛かりになっているのでしょう
ああ、ちなみに今は「夢灯篭」もOPも好きですよ?w


そして序盤はそれこそ深夜のラノベアニメのラブコメタッチで物語が進む
キャラの表情もコロコロ変わり、身振り手振りの作画も非常に丁寧
中身が入れ替わった男女の微妙な違いを作画で表現する、言葉にすれば簡単ですがこれを見事にやってのけた作画陣には最大級の賛辞を贈りたい
ジブリが崩壊し、『攻殻機動隊ARISE』と『アニメ(ーター)見本市』が完結した等、作画スタッフの足並みが綺麗に揃ったのが大きかったでしょう
尚且つ、新海作品お得意の美しい光と色と街並みが、このアリエナイ話にリアリティと説得力を醸し出す
制作中は当然完成していなかったバスタ新宿がちゃんと描かれてるのも凄い


後半はミスリードで張ったミステリアスな伏線をスペクタクルと共に回収しつつ、所謂新海節が炸裂する内容なのですが、まあとにかくメジャーかマイナーかで言えばメジャー路線な作品に作ったことです
今日までの大ヒットがソレを裏付けてますね、明らかにこれまで新海のシの字も知らんかった人たちが劇場を訪れているのです
実際オイラが鑑賞オフ会を開いたら半分の参加者は新海作品初体験でした
こうなると昔からのファンは遂に資本主義の犬となったか新海よーとかワケのワカランことを言い出す輩が湧いてくるもんです
まあ、言いたい事はわからんでもない


ただオイラはこう考える
【新海ファンこそ、この映画は10倍楽しく見れる】


そう、今作が初見でもなんも問題無い
でも今作、新海誠がこれまで積み上げてきたものがほぼ全て詰め込まれたいわば集大成なのです


『彼女と彼女の猫』から続くゆっくりとしたモノローグでの幕開け
『ほしのこえ』では恋人達が時間差で引き裂かれていく様を描いていました
『雲の向こう約束の場所』では田舎町と都会に分かれて物語が交錯していましたね
これを同時並行させたのが『クロスロード』
「何も無い」という田舎風景を印象付ける画作りは相変わらず上手い、これは『桜花抄』
2時間に1本しかない電車はまさに『星を追う子ども』
朝食と通学風景から始まるのもそう
真っ二つに裂ける彗星は『コスモナウト』のH2Aロケットの発射ですね、意味合いは逆だけど
挿入歌に合わせて映像を積み上げていくのは『秒速5センチメートル』や『クロスロード』で魅せた技
コミカルなタッチで進む前半は『猫の集会』のお茶目な演出を思い出しました
東京、特に都会の象徴として新宿を描きたがるのは『言の葉の庭』が顕著
同じく、途中での雨描写は秀逸でした
主役二人の生活感の違いを描写する様子は『大成建設』や『だれかのまなざし』の経験が大いに生きてるでしょう
いやしかし瀧くんが面接を受けてるのが大成建設だったのには笑いましたね
宮水神社のご神体がある湿原を見下ろす描写は、さしずめ地下世界アガルタのフィニス・テラですね
瀧くんのお父さんが井上和彦だったのでもしやおまえは森崎なのか?
そもそもファンタジーかSFかと思えば途中からロードムービーになってしまう辺りはまさに『星を追う子ども』のソレ
『ほしのこえ』で膝を抱えるミカコ然り、『雲の向こう、約束の場所』で足の指にてんとう虫がとまるサユリ然り、靴の型取りに足を差し出すユキノ然り、美女の足に拘る新海作品、今作では東京で歩きつかれた三葉に注目したい
思えば新海映画とはずっと男女のすれ違いを描いてきましたが、今作は「顔も名前も身体も私生活すらも知り尽くした二人がまるで会えない」という究極的なすれ違いをしてるのが面白い


ほんとそう、新海映画を知れば知るほどこの作品にのめり込んでいけるのは間違いないでしょう

“花澤香菜が演じる古文の先生”が恐らく別の世界線なんでしょうが「ユキちゃん」という名前だった時、周りが静まり返っている劇場でオイラは一人笑ってましたさーせんw
良い映画か否かという以前に、ある種のネタ映画として最初から最後まで笑いながら(時に笑い泣きしながら)観れましたねb


まあ強いて言うならラストシークエンスはちょっと引っ張りすぎたようにも思いますが、「なんでもないや」という楽曲の持つエピックなキックのリフレインとウィスパーボイスのボーカルに思わず感極まってしまう
なにより『秒速』を知っているとあのすれ違い方は辛いものを思い出させる(笑)
そう、この厨二病全開な内容に対して厨二病をこじらせてしまったバンドの日本代表とも言うべきRADWIMPSの音楽が見事に調和してるのが今作の評価を押し上げてるポイントでもあります
まさにクサイ内容にはクサイ音楽
『ここさけ』でも言いましたが単体では正直目も当てられないような詩の主題歌が、割とすんなり入ってきてしまうまさに映像マジックですねこりゃ


今作を受け入れられない人、良い意味で厨二病を卒業出来たんだと思います
誇らしく思ってください
オイラ?は、駄目ですね
この映画を面白いと思ってしまったのでアラサーになっても心はまだティーンエイジャーのようです(笑)

























~TOHOシネマズ新宿のIMAXデジタル版観ました~
IMAXというのは実にビル三階分ほどの高さと20メートル以上の横幅を持つスクリーンに二台の映写機で投影する現代における最大級規格の映像フィルムです
人間の視覚を上回る大きさのため観る、というより観回す感じになります
さらに劇場によっては12.1chの音響システムもそなえており音の迫力も通常の規格とは異なります


そもそも普通の規格で作られた作品をIMAXにするってことは拡大して引き伸ばす、ってことですからオイラは最初この『君の名は。IMAX版』は反対の立場でした
それにアニメって視覚的情報量が実写より多いので単純に疲れそう、だとも思いましたし


しかし実際鑑賞してみると新海作品特有の美麗背景が大きく引き伸ばされてるにも関わらず全く精細さを欠いてないんですよ
むしろ画面の中に描かれる糸守町や新宿の風景に吸い込まれていくようでした
だから鑑賞、というよりはむしろ体感、に近い感じでした


音響の方ですが意図的に音圧を上げてるようでしたがどちらかと言うと山びことかそういった反響音がクリアに聴こえるようになったという印象です
挿入歌がやたらデカイ音で、それもどっか独立した別chから出てるっぽくてやたら大きく感じたのですが、肝心の挿入歌より手前にいるはずのセリフが少々聴き取り辛くなった気がしましたので、これはちょっと好み分かれそうです


初見の方にはあんまりオススメしません
先にも言ったとおり、情報量に加え目で追う作業が加わるのでストーリーに集中し辛くなります
ただリピーターには一見の価値があることでしょう
アニメにIMAX不要、と言いたいところですが新海作品のIMAX化に関しては歓迎できますねb

投稿 : 2024/07/06
♥ : 42

86.9 3 オリジナルアニメーションで泣けるなアニメランキング3位
秒速5センチメートル(アニメ映画)

2007年3月3日
★★★★☆ 3.9 (3990)
18445人が棚に入れました
東京の小学生・遠野貴樹と篠原明里はお互いに対する「他人には分らない特別な想い」を抱えていた。しかし小学校卒業と同時に明里は栃木へ転校してしまい、それきり会うことが無くなってしまう。貴樹が中学に入学して半年が経過した夏のある日、栃木の明里から手紙が届く。それをきっかけに、文通を重ねるようになる2人。しかしその年の冬に、今度は貴樹が鹿児島へ転校することが決まった。鹿児島と栃木では絶望的に遠い。「もう二度と会えなくなるかもしれない…」そう思った貴樹は、明里に会いに行く決意をする。

声優・キャラクター
水橋研二、近藤好美、尾上綾華、花村怜美
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.5

中身はある?ない?

 レビュー内容を全改訂しました。これに伴い前回レビューは削除しています。
 細かな話は後回しにして、まずはストーリーと象徴物から述べます。

秒速のストーリー:{netabare}
 秒速は、一言で言えば再出発の話だと思います。これは、第三話から分かります。
 今カノと別れ、仕事も辞め、さてどうしようか、となってしまった。そんなときに、自分を縛っていた「過去」に再び出会い、その「過去」を振り切ることで「さぁ頑張ろう!」になる、というお話。この前向きな姿勢が表れているのが、最後のタカキの笑顔なんだと思います。

 「秒速は恋愛映画である」という指摘自体は正しいものですが、「恋愛だけを射程としている」とまで限定してはいけないような気がします。秒速がアカリとの「恋愛の話」ならばもちろんバッドエンドですが、これだと最後の笑顔の説明が付きませんからね。
 秒速を「再出発の話」として整理することで、最後の笑顔も含めてストーリー全体が合理性を持つのだと思います。視聴者が感じる喪失感はともかくとして、描かれていた結論は前向きなものだと感じました。

 全体の構成としてはこんな感じ。
 第一話では、過去への執着の原因が描かれた。第二話では、過去に縛られているタカキの停滞が描かれた。第三話では、過去に執着していたために今失うものが描かれて、「さぁ頑張ろう!」になる。
 第二話が第三者からの視点で描かれていることを除けば、シンプルな三段型の構成だと思います。
{/netabare}

象徴物①電車:{netabare}
 電車が最初に登場するのは、第一話冒頭の踏切のシーンです。アカリが「来年も一緒に桜、見れるといいね」と言ったタイミングで、二人の間を電車が横切る。同じ状況が再現されているのが第三話の冒頭(とエンディング)です。タカキの「振り向けば」という展開から、また両者の間を電車が横切る。
 電車が輸送車に形を変えて現れるのが第二話です。輸送車は、タカキとカナエの前方を横切る。

 「タカキとアカリの『間』を横切る電車」と「タカキとカナエの『前方』を横切る輸送車」という違いがありますが、どちらも使われ方としては同じものです。
 道路というのは、作劇上は主人公の進行方向(未来)を意味しますから、そこを横切る電車や輸送車というのは、主人公の進行を邪魔するものという意味を持ちます。つまり、秒速における電車や輸送車というのは、「望む未来に対する阻害要因」として描かれているのです。各話のいずれもが残念な結末を迎えるのは、そのフラグとして阻害要因が象徴的に置かれていたからに他なりません。

 一応、「間」と「前方」という横切り方の違いにも触れておきます。
 第一話では、タカキとアカリの共感が描かれています。共感を得た者同士を引き裂くわけですから、「二人の間」を電車が横切ることになります。
 第二話では、タカキに告白したいカナエが描かれています。タカキとカナエは共感には至っておらず、共感に向けて関係を前進させたいカナエの願望があるのみです。ですから、その前進を遮るように「二人の前方」を輸送車が横切るのです。
 細かな違いはありますが、「望む未来に対する阻害要因」としては電車も輸送車も描かれ方は一緒です。
{/netabare}

象徴物②鳥(とロケット):{netabare}
 続いて、鳥について。まずは最初に鳥が登場するシーンの確認から。
 第一話でタカキの引っ越しが決まった後、タカキがアカリに会いに行く算段を付けているシーンがあります。タカキが路線図をなぞっているところに、アカリのセリフ「電車に乗って会いに行ける距離ではなくなってしまう…」が入ります。この後に鳥が初登場します。この鳥は、東京を出発し、夜空を経由して栃木まで到達します。
 この「路線図→電車はムリ→鳥」という流れから、電車と鳥が対比されていることが分かります。阻害要因である電車を越えて、空を飛んでいくものが鳥だということです。つまり、鳥は「飛んでいけたら」というタカキの願望(や逃避)を象徴するものとして描かれているのです。

 また、電車と鳥の関係から、「現実である地上」と「理想である空」の対比が成立します。ですが、秒速の構造はこれで終わりではありません。空の先には、宇宙が位置付けられています。
 第二話では、タカキの夢の世界が登場します。この夢の世界において、タカキとアカリが一緒に見ているのは、空ではなくその先にある宇宙です。この時点では、タカキとアカリは何年もの間連絡を取っていませんから、二人の乖離はほぼ決定的です。タカキの引っ越しによりさらに疎遠が拡大し、「理想である空」すらも一緒見られる状況ではなくなってしまったのです。だから、「理想である空」の先である「叶わぬ夢である宇宙」を見ている。

 では、「理想である空」を「叶わぬ夢である宇宙」に変えてしまった原因は何なのか? それが、タカキの引っ越しと引っ越し先にあったロケットです。タカキは、種子島に引っ越したことで電車の呪縛からは逃れました。ですが、そこは鳥では届かぬ距離だったのです。また、種子島には、新たな阻害要因である輸送車がありました。タカキに「叶わぬ夢である宇宙」を実感させたのは、この輸送車の中にあったロケットでした。これにより、タカキは孤独感を強めていきます。

※鳥についての補足
 この最初に登場する鳥はアカゲラだそうです。アカゲラについて、ウィキペディアにはこう書いてあります。
「日本では北海道に亜種エゾアカゲラが、本州、四国に亜種アカゲラが留鳥として周年生息する。四国での生息数はきわめて少ない。九州以南には分布しない。」
 東京や栃木には生息できるけど、九州の南方に位置する種子島には生息できない、と読めます。つまり、東京―栃木間の橋渡しは出来るけど、種子島―栃木間の橋渡しは出来ないのです。このことが「理想である空」でのつながりを断たせ、ロケットの登場と「叶わぬ夢である宇宙」を引き込んだ、ということなのでしょう。
 意味もなくアカゲラを選んだわけではない、と私は思います。
{/netabare}

 ここまでがいつも通りのレビューですが、個人的には前提やおまけくらいに考えています。ここから先は批判的な内容が続くのですが、批判に終始すると「ちゃんと見てないだろ!」という反論が起こりかねません。ですから、それを回避するために「この程度には見ていますよ」という線引きをしただけです。本題はここから。

ざっくりした話から:{netabare}
 秒速の感想を読むと、多数の「感動した派」と少数の「中身がない派」に大別されるように思います。私の中ではこの二つは背反するものではありませんから、個人的には「感動したけど中身がない派」を採っています。
 で、私が主張する中身の無さというのは、ストーリーの無さではありません。そもそも心情を描く作品では大したストーリーは必要ありませんし、秒速のストーリーは比較的まとまっていると私は思っています。中身がないのは、心象表現の方です。

 上述した象徴物には、根本的な違いがあります。
 電車というのは、ストーリー上の象徴物です。道路と関連させることで、この先の展開がどうなるのか、というストーリー展開を示唆する役割を負っています。
 一方で、鳥というのは、心象表現上の象徴物です。電車に阻害されたタカキがそれに対してどう思っているのか、という心情が乗っています。ロケットもこちらですね。

 結論から言うと、ストーリー上の象徴物である電車は機能していました。ですが、鳥とロケットは機能していません。正確に言うのなら、鳥を失敗したせいでロケットも機能しなかったのです。そのために、電車を使ったストーリーはまとまっているけど、心象表現が失敗している、になるのです。

 勘違いして欲しくないのですが、私は「心情がダメ」とは言っていません。「心象表現がダメ」です。
 心情というのは、「うれしい」のことです。心象表現とは、「うれしいことが分かるように表現すること」です。全く違う内容ですから、混同しないようにお願いします。作品の良し悪しを決定づけるのは、後者の方です。
 ここから進めていくのは、秒速の心情は分かるけど、その表現がお粗末だという話です。多方面から指摘するつもりではありますが、まずは象徴物を片付け、その後に独白と背景について述べます。

電車再び:{netabare}
 電車はこの作品ではかなり機能していると述べましたが、電車の使われ方に文句がないのか、というとあります。作品への評価ではなく、新海監督自体への評価を下げました。

 道路を使った演出というのは比較的定番のものではありますが、定番だからダメ!などというつもりはありません。
 そうではなくて、秒速の前の作品である「ほしのこえ」でも全く同じ使い方をしているからダメなのです。「ほしのこえ」においても、別れの前には電車を通過させています。「阻害要因を、同じ道路と電車を使って、二作品連続」というところに「またかよ」というガッカリ感を感じてしまいました。端的に言うと、新海監督の表現の幅の狭さを感じたということです。もう少しアレンジを加えるべきだったと思います。
{/netabare}

鳥再び:{netabare}
 鳥は登場回数が多すぎました。象徴物というのは要所で使えばいいのです。フラグで一回、締めで一回。これで十分に機能します。意味を徐々に限定したり別の視点を見せたりする場合にのみ、複数回使えばいいのです。
 電車演出は、第一話の「分かたれたタカキとアカリ」というフラグが、第二話の「同行するタカキとカナエ」に変化して、第三話でまた「分かたれたタカキとアカリ」で締める、という「フラグ→変化→締め」の流れがスムーズだったからこそ機能していたと言えるのです。
 一方で、鳥はあまり必要でないところでもバサバサと飛んでいました。初回の登場時には、「電車と鳥を対比させたいんだな」と素直に受け取れたのですが、その後の登場回数があまりにも多いために、最終的には鳥自体の持つ象徴性がほぼ霧散してしまいました。

 視聴者への説明の仕方も悪いです。第一話で登場した鳥がアカゲラである意味はあったと思います。その意味を継続させるためには、「東京―栃木間(第一話)は飛べる」ということと「種子島―栃木間(第二話)は飛べない」ということの違いをはっきり見せ続けなければなりません。
 視聴者は、第一話で登場した鳥を「アカゲラである」とはまず見抜けません。「九州以南では生息できない」なんて以ての外です。「第一話でアカゲラが飛び、第二話で別の鳥が飛んだ」とは解釈できず、「第一話でも第二話でも鳥が飛んだ」と解釈するのが精いっぱいだと思います。
 視聴者が見抜けないことを前提として、次善の策を打つべきでした。第二話では一切鳥を飛ばさないか、鳥を飛ばすのならきちんとカメラで抜いて、アカゲラとは違うことを分かるようにするか。ですが、実際には何らかの鳥が飛び、それがアカゲラかどうかを確認する術がありません。アカゲラの持つ象徴性を台無しにしています。視聴者への配慮に乏しく、挙句に象徴性を毀損しているのは、いかがなものかと思います。
{/netabare}

ロケット再び:{netabare}
 そして、鳥の扱いの悪さがロケットにも響いています。
①タカキとアカリが東京にいた頃は、「現実である地上」(=徒歩)でつながっている。
②アカリが栃木に引っ越してからは、「現実である地上」が電車に阻害されてしまい、鳥を介して「理想である空」でつながることになる。
③タカキが種子島に引っ越してからは、「理想である空」よりも更に離れてしまい、ロケットを介して「叶わぬ夢である宇宙」でしかつながれなくなってしまう。
 という流れですよね。①②が第一話で、③が第二話。この流れ、すなわち、「地上→空→宇宙」と「電車→鳥→ロケット」の構成(「対面→手紙→送れないメール」も関係しているのかもしれません)については文句はありませんし、私は良かったと思っています。
 でも、ですよ。ここまで整理をしてしまえば「なるほど!」と思うかもしれませんが、ここまで整理をするのが容易ではないのです。②の鳥の扱いが雑すぎるために、「①→②」で一旦切れてしまうのです。

 新海監督が想定していたのは、次のような構成だと思われます。
 「①→②→③」という流れを作った上で第二話を締める。第三話の冒頭で、第一話をリフレインさせる電車を入れて、もう一度①の「現実である地上」に戻す。でも、新たな①からは②→③と進行させずに、そのループを否定する。①と新たな①の進行先が異なることを見せることで、停滞が再出発へと変化をし、最後は笑顔で終わる。

 ですが、鳥が全編を通して登場してしまったために、同じく全話に登場する電車(と輸送車)とのリンクを強めてしまい、「タカキが①と②(現実と理想)の間で揺れ動いている」という印象を積み重ねてしまいました。そのために、③が浮いているように見える。

 ③までスムーズにつながないと、カナエの心情は補完できません。カナエは第二話のラストで「トウノ君は私を見ていないんだと気付いた」と言っています。これがカナエとタカキを分かつ決定要因ですね。なぜカナエがこう思ってしまったのかというと、タカキと一緒にロケットの発射を見た際に、タカキが「叶わぬ夢である宇宙」しか見ていないことに気付いてしまったから、ですよね。タカキが「現実である地上」を見ていないから、現実(地上)で一緒に歩くカナエは気持ちを伝える意味を見出せなくなってしまったのです。カナエの心情は多分に③に依存しています。

 ③を機能させるためには、鳥が電車とロケットをつなぐ単なるステップとして描かれなければなりません。あくまでもステップですから、鳥の主張が強くなりすぎてはダメなのです。にもかかわらず、バサバサと飛ばしてしまった。
 鳥は電車と違って、シチュエーションに縛られずに気軽に飛ばすことが出来ます。尺の都合か表現のつもりかは分かりませんが、だからと言って飛ばし過ぎて作品を毀損するのなら本末転倒だと思います。

 また、私は「①→②→③」の流れが機能していた、という意見を受け入れる気にはなりません。
 このレビューに先だって、ロケットに関してどのような解釈があるのかを調べてみましたが、そのどれもがタカキの独白を投影させた単独解釈でした。単独解釈自体がダメということはもちろんありませんが、単独解釈だけで終えてしまうと、「なぜ種子島なのか」「なぜ飛行機ではなくロケットなのか」「なぜあのタイミングで飛ばす必要があるのか」などの作品内における位置づけが欠落してしまいます。
 新海監督は、気まぐれで種子島に引っ越しをさせ、気まぐれでロケットを描き、気まぐれで第二話の終わりで飛ばしたわけではないはずです。もしそうだったのなら三流監督ですが、新海監督はそこまでアホな監督ではありません。
 種子島はロケットを宇宙へ飛ばすために必要な舞台であり、そこに電車がないことも理解していた。だから、電車とロケットに象徴性を持たせ、その両者の間を鳥でつないだのでしょう。ここから、「地上→空→宇宙」という構成でストーリーを作り上げたのだと思います。

 でも、この流れを視聴者には読み取ってもらえませんでした。鳥で失敗してしまったためにロケットへのつがなりを見せられず、ロケットが単独解釈ばかりになってしまったのだと思われます。
 監督がきちんと論理的に作って、それでも視聴者が読み取れないのなら、それは視聴者側の問題です。ですが、そもそも論理の構築に疑義があるのなら、それは監督側の問題だと思います。
{/netabare}

独白:{netabare}
 心情は、何かが起こった時に変化します。ぼーっと座っているときには心情の変化は起こらず、何らかのきっかけで心情が動く。このきっかけには、事故のような大きなものから会話のような小さなものまでを含みます。
 秒速というのは、このきっかけが極端に少ない作品です。事故もなければ、会話も少ない。そのため、心情の変化というものはほとんど描かれていません。だから悪い、というのではなくて、そういう特性を持っているということ。
 で、この変化の無さを埋めているのが、登場人物たちの独白です。

 私は、基本的には独白というものをほとんど評価していません。なぜなら、独白というのは心象表現ではなく心情そのものだからです。言葉の選び方がどうであれ、「電車が止まって悲しかった」と言わせてしまうと、「悲しいことが表現されている」のではなくて、「悲しい」なんです。
 登場人物が悲しんでいることを視聴者に分からせるためには、悲しいエピソードを用意したり、悲しんでいる姿を描いたりすればいいだけです。「友人が死んだ」「涙を流した」、これで悲しいことは十分に伝わります。ここに「友人が死んで悲しいのです」なんて独白を入れるのはバカバカしいとすら思います。
 第二話でのロケットを見送るタカキとカナエの心情は、ロケットさえ機能していれば独白がなくとも伝わります。タカキが「叶わぬ夢」を見て、カナエはそんなタカキを見てしまう。これで十分です。

 ですから、独白を多用する作品に対しては、「心情は表せてはいるが、心象表現はされていない」という判断をすることになります。一般の作品は、独白による心情の垂れ流しを避けるために、心象表現に力を入れているのです。でも、秒速は独白がなければ意味が伝わらない描写ばかりです。挙句に、秒速の独白は抑揚のない単調なセリフです。ここにも表現は見受けられません。
{/netabare}

背景:{netabare}
 背景による心象表現というのは、ほぼ主観に依拠します。夏は開放的、雨は憂鬱、夕暮れはノスタルジーなどが成立するのは、客観ではなく主観です。また、背景は説明するのが難しいために、セリフや象徴物ほど明確なメッセージを伝えることは出来ません。それにもかかわらず、背景表現は多くの作品で機能しています。なぜなのか?
 それは、背景表現が主観を越えて、監督側と視聴者側の共通観念として成立しているからだと思います。説明されなくても、雨を降らせれば視聴者は憂鬱だと分かってくれる。
 でも、新海監督は、この共通観念へのチャレンジを見せています。「ほしのこえ」でも「言の葉の庭」でも、晴れているときが憂鬱な現実で、雨が降っているときに希望ある理想を描いていました。私はこの姿勢を高く評価しています。

 ですが、秒速ではこのチャレンジ精神が見えにくい。雨に代わる候補としては桜がありますが、桜自体が「出会いと別れ」や「始まりと終わり」という両面性を持つために、共通観念を覆すのが難しい。また、鳥と同じく多頻度で登場するために、象徴物としての意味を限定するのも困難でした。鳥と同じ間違えを起こしています。

 もう一つ懸念を感じたことがあって、それは背景が綺麗だったこと。綺麗であり続けたこと。
 「あらしのよるに」という児童向け作品があります。この作品の背景は、野原での日常風景は淡い線で、生死のかかった雪山でのシーンは刺々しい線で描かれていました。これは心情ともリンクした「表現」であったと思います。
 CGの技術的なことは分かりませんが、秒速がゴースト(光源から出るキラキラした像)やフレア(画面をボヤっとさせる光)を多用するなど、光の描写に注力していたことは分かります。光と影の対比にも相当気を使っていたのも分かります。ですが、綺麗であり続けることは、美しさを描けた反面、単調さにもつながってしまったのではないかと感じました。
 単調であるということは、裏を返せば強調がないということです。単なるつなぎのシーンも山場もエンディングも、全てが同じように美しい。強調すべきシーンを引き立てるために、もう少しメリハリをつけた方が良かったと思います。
{/netabare}{/netabare}

おわりにかえて:{netabare}
 私は、「中身がない派」にも少々の懸念を感じていて、それは「中身がないことを積極的に説明してくれない」ということです。ですが、それは仕方のないことだとは承知しています。「ないこと」を証明するためには、「あるとはどういうことなのか」を列挙して、その全てに該当しないことを証明しなければなりません。いわゆる「悪魔の証明」と同じ構造ですから、ほぼ不可能な事柄です。「中身がない派」の苦労も分かるというものです。

 最後に、「なぜ感動してしまうのか」に対する見解を述べておきます。
 この作品は、「心情はあるけど、心象表現がない」「キャラクターはいるけど、個性がない」という骨子だけの状態だと思います。「枠線はあるけど、塗られてはいない」というぬり絵のようなものですね。
 作り手からの色指定が不十分なために、視聴者はどんどん自分の好きな色を塗っていってしまう。そして、自分の好きな色で仕上げてしまうから、「感動した!」となるのだと思います。そして、自分のぬり絵自慢になってしまう。
 「タカキはアカリを振り切っているのか」「振り切ったのならいつなのか」などに対する意見がまちまちなのは、「自分の作品」になっているからだと思います。宇宙の説明がヘタだったからこんなことになるのです。
 私は、感情的にも構造的にも作品を見ますから「感動したけど中身がない派」を採っていますけど、構造的に見れる人は「早く色を塗れよ」と感じたままに終わってしまう。だから「中身がない!」になるんだと思います。

 秒速がすべての表現を排除して、視聴者の主観に委ねた作品だったのなら、それはそれで評価の仕様もあるのですが、この作品は「やりたいこと」が透けて見えるし、それに「失敗したこと」まで伝わってしまう。新海監督は、まだまだ発展途上の監督だと思います。「言の葉の庭」では幾分改善したところもありますが、まだ及第点ではありません。ポスト宮崎駿を冠するのは、まだムリです。別に私は信者でもアンチでもないですから、頑張ってほしいとは思いますけどね。

 マンガや小説をオススメする声もありましたが、こればっかりは新海監督がかわいそうだと思いました。映画だけでは説明できてないって突きつけているようなものですからね。マンガや小説をオススメしている人ほどこの作品を称賛しているというのは、何とも皮肉なものだと感じました。{/netabare}

投稿 : 2024/07/06
♥ : 21

ラ ム ネ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.6

壁画と空白。

 初見から三年ほど経って、本作への感情の微熱もだいぶ冷めてきたので、全文改正をしてみました。前よりはいろいろ見えてきた、というのもあります。前回のレビューは底の方に隠しています(隠すのやめました、恥ずかしいし)。人は変遷を続けるのに、作品は変わらずそこにあるので、改めてみると、なんか大人になったなという気がします。初めて見たときは感情の拒絶反応が出ましたから。それはおいおい別題で書くとして、散文はここまで。…結局、散文的になったか…。


*監督の狙い。…構想の考察。

 新海誠監督は、自分の作品に一貫するテーマが「喪失」だと言っていますが、その「なくなった」という喪失の光景の前後には、「何かがあった」「なくなったのでまたつくっていこう(生きよう)」が用意されています。一話が、「何かがあった」。二話が「でも、なくなった」。三話が「…なくなったのでまたつくっていこう」と単純に三分割してみました。本作は話しが終わる毎に、次の話に見る側が心を引かれるようになっています。そうして映像にあやかった心が導かれるのは三話です、つまり結論は喪失の後にある心の回復、「秒速五センチメートル」は「回復」の物語です。
 主人公の貴樹は、何を喪失し、何を回復するのか。まず「明里との恋愛」は回復されません、回復されない、それなのに貴樹には救いがある、その点から見て、大切なところが恋愛だけではないことが見て取れます。恋愛は、「秒速」においては象徴的出来事であり、しかし大切な核ではない、それ”だけ”ではないんです。三話で会社を辞めた理由を、「かつての思いが失われていることに気がついて」と貴樹は独白しますが、失っているのは「恋」よりそれ以前にある「純粋さ」です。ただ恋を喪失するのではなく、純粋を喪失してその中で恋まで失うのです。
 年少に見られるような純粋の喪失については、詩で言うと谷川俊太郎の「かなしみ」とか、洋文で言えばカポーティの「遠い声遠い部屋」が私は思い出されます。カポーティについてですが、彼の著作本が劇中に意味ありげにわざわざ描写されています。本作三話の「山崎まさよし+パラパラ」のなかで、高校時代?の明里が駅のプラットフォームで持っているのですが、文庫版の「草と竪琴」という本です。「草の竪琴」は「遠い声遠い部屋」から続く二作目であり、少年から青年への移行期にある主人公の不安を自伝的に活写したものです。監督は、これをオマージュしようとしたのではないか、と考えています。つまり、移行期に失われた純粋の欠乏感と、その回復を。
 一話の各所に、年少期によく見られるような純粋さを表すシーンがあります。たとえば導入にある「桜の花の落ちるスピードってさ」「ひと晩で三十億年分読んじゃった」「アノマロカリス!」などです。それが純粋さの記憶として三話のラストあたりで回帰します。
 かつての明里との恋は貴樹にとって、世俗を離れた、「あの頃の純粋さ」を象徴的に示す出来事でした。あくまで「明里という少女の記憶」=「純粋の象徴」なのです。
 三話で貴樹が、恋人と別れ(それをきっかけに?)、人生を自覚し、過去の「純粋」と対照し、その喪失に気づき、今ある退廃した生活を捨て、仕事を辞め、新生活をスタートさせる。自室での仕事の合間に、 桜を見に過去の思い出の道を散策し(記憶の逍遥)、そのときにこそ「純粋さの象徴」である「明里」とすれ違う(向こうも振り向きかけるわけだから当人とする)。でも彼女は「少女」ではなく「大人」になっていて、時間は経ってしまっている(桜並木道沿いの公園の木々が切られたように、…貴樹はここでも微笑む)。・・・一話で原体験、二話で過去への執着と停滞、三話で現実を容認して回復、貴樹の微笑みは現実容認の表現になります。
 微笑みの意味が、恋愛にあるとすれば、それは皮肉的で、人生はうまく行かないという慰めになるかもしれないが、監督の狙いはそうじゃありません。
それが私の見た流れです。彼女がそこに”いるかいないか”は、救済とは何の関係もないのです。そもそも、貴樹はもう自らの力で救済されてしまっていて(自立的救済)、彼女が現れることで救済になるなんてことはなく(依存的救済)、すでに良い思い出、懐旧の念、延長があろうとなかろうと、よいわけです。自分は自分、彼女は彼女、「純粋さの象徴の”今”」に出会えた、それだけで奇跡だ、そして彼女は彼女の人生を生きている、自分も生きねば、それでいいわけです。
 純粋さについては「花とアリス殺人事件」でも少しだけ書きました。
 以上が、構想と考えます。

    *   *

 構想を見てきました。それには感動します。しかし、この監督の構想(イメージ)に視聴者はしっかりと導かれているのか。難しいところです。それは監督が伝えきれてないのか、観客が読み切れてないのか、どっちなのか。
 跳んだら着地しなくてはなりません。同じように、物語に飛び込んだら、どこかまともなところに着地させられ、物語の幕も閉じられます。「いつもの現実」飛び込む→幻想体験→着地「ちがう現実」、というのが流れです。児童文学や宮崎アニメにはその構造が見やすいです。そういう風に、芸術は「作品の自己化」を行います。影響を与えるのです。
 「秒速」での監督の狙いは、「執着の開放、純粋さの回復→再出発(生きよう)」でした。狙いがその通り伝われば、「作品の自己化」によって、構想が観客に宿る、はずでした。
 しかし現実そうはなっていないのです。「内容がある/内容がない」「感動する/感動しない」と感想は二極化しています。私は、「鬱派(感動した)」少数→「称揚派(感動した)」多数→「けだるい派(内容ない)」少数→現在(感動するけど内容ない)と、本作への感想が変わっています。…そしてどの派にも、多くは監督の狙った通りの「作品の自己化」が内在することなく、多分に「自己の作品化」があるばかりです。
 押し広げて見ていきます。


*鬱派と称揚派とけだるい派を経て。

 ほぼ私の体験談です。初見で感情的な拒絶反応が出ました。三年か二年前のことです。思春期で何かを実行する勇気を挫いてしまった人が、哲学や文学的なところに根差す光景はよくよく見られますが、芸術や学問の幻想体験による「作品の自己化」によって、気力を回復し、勇気を回復しようとする逃避族の意識的試みです。ですから、芸術家には現実逃れをする病みっぽいところがあるわけです。要するに、はじめは鬱屈派でした。私はてっきり、これは「恋愛の回復」の物語で、すなわち結びつきハッピーエンドだと勘違いし、やってきた意味不明なバットエンド(なんか微笑んで去っちゃうし…) によって、宙にあった妄想を地上の現実まで突き落とされた、という流れだったと思います。「純粋の回復」という観点から見ると、微笑みが快いものに見えるのですが、この場合、貴樹の微笑みが人生への皮肉に見えてしまいました。全身が鬱的にだるくなり、細胞が重い砂のように心をひきずります。それこそ、自立や回復というお話なのに、より落されたという残念な話です。
 結論…何かにもたれようとする依存的な人格が、不条理な現実を逃れてアニメや文学といった虚構によって自らを満たそうとし(恒常性の補完)、貴樹のような純粋回帰(自分に立ち返る!)を経験していなかったので、願望の強さも手伝ってか、「秒速」を「純粋回復」ではなく「恋愛回復」である、そうでないと救われない!と思いたがえ、「踏切」にて地上に叩き落された。以上が、鬱派の精神分析です。
 それから、大人な人に参考になるような意見を求め、「明里は自分の人生を生き、それを察した貴樹が微笑む」という意見によって、「貴樹の微笑み」への理解が生まれ、鬱派から称揚派に転身することになります。美しい恋のアニメ、と感動して称賛するのです。私は経験測による共感ではなく、理解による共感をしました。理解した時点で、すでに作品は私に影響していた、内在化していたと言えます(作品の自己化)。監督の狙い通りの内在化、作品の自己化とはちょっと違いますが。監督の狙いは「自分に立ち返って前を向こう(再出発)」でした。
 やがて私に時間の経過によって「内在化された作品の(恋物語としての)印象」に慣れが進行します。飽き始めるのです。感情の微熱も冷めて来て、冷静になります。すると、感情を分離されたので、理性的に見られ始めました。そこで、「ん?」と気が付きます。全体がとても曖昧に見えはじめたのです。考えてみれば、なんでこうなのか、よくわからない部分が多い。ちゃんと作られてないんじゃないか?と感じ始めたのです。そうして見るのも嫌になってきました。こうして、けだるい派に属したわけです。けだるい派は感情を分離できる理性的な性格の人たちです。三通り体験しました。
 願いを裏切られた鬱派、恋愛喪失(誤)や純粋回帰(正)に感動した称揚派、冷めたけだるい派、それらを経てわかったのが「秒速は恋物語だ」と思っている自分の勘違いです。ただを非情な現実を突きつけるものではないのです。‥‥確認すると、純粋さを喪失して恋まで失ったが、いま純粋さを回復して、すると恋の相手が現れ、でも時間までは回復しなかった、それでもいい、歩いていこう‥‥そういう構想だと気づきました。ハッピーエンドを予想した「恋の回復」という内在化は、恋より下位にある「純粋さの回復」として新たに再内在化したのです。つまり、恋としてはハッピーエンドでないが、純粋さとしてはハッピーエンドだ、だから貴樹の微笑みは「前を向こう」だということです。


*余白と空白。

 本作には多くの「うやむや」があるように思えます。曖昧さ、空白とも呼べます。それが監督の意図的に作られたものである、つまり空白ではなく余白であるなら納得できるのですが、どうも余白でもないのです。緻密な表現がなされていると観客はスクリーンに放心します。宮崎アニメなどは、感情的にそうなります。入りこんでしまえるのです。しかし、構造やその表現に抜け目がある、作品を流れる感情の吹き溜まり的な、空白、曖昧さができると、そこに観客は、自らを投影します。表現があると放心し、表現がないと投影して、幻想の現実感を補うのです。物語の整合性、統一性を保持しようとする試みです。文学などでも、言及しないことによって、読者に主観的な想像をさせて、余韻を生む手法がありますが、それにたとえられます。余白と放心、空白と投影の営みは、そのすべてが「自己の作品化」に該当します。
 「秒速」のそれ(一見曖昧に思えてならないところ)は、監督の意識的な余白(技巧によるもの)なのか無意識的な空白(技巧によらないもの)なのか。やはり後者です。ただ、「空白」ではなく、語感としては「うやむや」に近いと思います。
 余白にも空白にも観客は投影する、描かれないものを察して補おうとします。しかし、余白は表現の技巧であり、生まれさせたもの、空白(うやむや)は、生まれてしまったデタラメです。詰まるところ、余白には感情移入し、空白には自己投影するのです。余白には物語の前提がありますが、空白は前提がありません、突発的なもので、ただの作り手の失敗です。前提が用意されていれば、余白があっても、観客は物語の上でその描かれない部分を察することができます。しかし、空白には前提が用意されていないので、観客は主観的に、時に都合的解釈によって、作品に個人的な上書き、色塗りをしてしまいます。
 たとえば、ラストの踏切シーンで、明里が去ってしまうことについて、明里ばかりに共感のまなざしを向ける人がいますが、それはつまり「明里は婚約したのだし自らの幸せを守ろうとして立ち去った、過去の恋より今の愛が大切なのだ」と考えることです。しかしそれは、たしかに真相に近いのかも知れませんが、倦怠期の夫婦が自己肯定するための解釈にも思えます(アイロニカルなユーモア!笑)。あと例えば、ダメな「慰め」になるパターンなどもありますか。
 エヴァは「自己啓発セミナー」と呼ばれますが(大塚英志)、語呂合わせゲームをしてみれば、秒速は「自己投影アルバム」です。
 監督の狙い?であるラストシーンの"希望的着地"に導くには、観客に"希望的観測"を与えるだけの体験をさせなければなりません。体験されるようなつくりになっているのか、それとも物語を読めない視聴者がにぶいのか、それを言論するのに作品構造の欠損を列挙しなくちゃならないわけだ。ああ。なるほど。んー。
 とにかくここで留めておきたいのは、作品構想が「作品の自己化(純粋回帰!)」を目指しているのに、視聴者の多くは「自己の作品化(例、恋愛喪失)」に導いてしまっている。オタクだろうがなかろうが、現実的な人格だろうがなかろうが関係なく、勘違いする人が多いわけです。それも簡潔な、とてもシンプルな結論なのに。その失敗の原因が「うやむや」にあるのではないかということです。


    *    *

>纏め。半分自分用メモで、機会あれば洗錬します。このレビュー、自分の勉強用として
も書いています。その垂れ流しです。
放心=「作品の自己化」→緻密な構想表現 投影=「自己の作品化」→漠然な構想表現。
・秒速は「作品の自己化」を目指した作品であるのに、その多くは「自己の作品化」になっている(のではないか?)。
・・鬱派→人間性未熟(作品構想にある感情の未経験者)→物語を「純粋の回復」(自立的要素)ではなく「恋愛の回復」と勘違い→(明里がそこにいてほしい!)依存的救済を求める(自己投影)→願望に裏切られて鬱にさいなまれる。
・・称揚派→比較的人間性あり(作品構想にある感情の経験者)→構想感情で鑑賞し、構想表現は無視、または自己投影して穴埋め。
・・けだるい派→理性の人(指揮者ムジクスと演奏者カントルの論理で言う前者)→構想表現を鑑賞、構想感情は踏まえても興味なし。或いは、監督の構想に飽きた。「描くほどのことか?」。
ったくなにを書いているんだか。


*構想と表現の上滑り。
 本作は構想が表現を上滑りしている空回りしたものです。作品に流れる感情と、それを支える比喩表現、構造、その組み合わせ、統一性、整合性、それらに長けていて有名なのが宮崎アニメです。「千と千尋の神隠し」が巧みだと思います、だから子どもにも(鋭い感性に)人気が高い。まず構想があり、それの表し方がある。物事は、言葉以前のところにあるから、言葉以前のところで言い表さないと鑑賞側に伝えきれない。感情も言葉以前にある。感情は抽象的、悲しいときに「悲しい」とは言わない。だから、比喩で表現する。文学は文字によって、修飾的な表現になる。映像の比喩は、より具体化が可能。比喩の現象化、物体化されたものが、抽象ではなく(二次元的)、構想の象徴表現(三次元)、である。

・各話の構造。…一時間の物語を三分するのは、構想的に悪かった(ぼやける)。
「一話」…純粋がある、明里に会える(秒速5センチ、身近)、桜の朝、田園。
「二話」…純粋がなくなっていく、明里会えない(時速5キロ、乖離)、黄昏、離島。
「三話前半」‥純粋喪失、会うことを忘れた(1000回メールをして1センチ、喪失)、夜、都市。
「三話後半」‥気づいて純粋回復、明里会えた(秒速5センチ、容認)、桜の朝。
電車(二人を隔てるもの、結びつけるもの)、種子島(電車でいけない、孤独感、隔離された)、ロケット、鳥(?)、弓道(届かない思いの表現) 、ロケット輸送車 (二人を遮るもの)、
二話の海岸に二人がいて朝日を見ている幻想(願望?)、その朝日を的に見立てて弓を放った(?)、ロケットは、もう思いが届かないという意味での宇宙? 三話の「山崎まさよし+パラパラ」は簡略化、要約?あんなのができるのはストーリー構成が甘いからでは?
 色々ありますけど、安易だと思えてしまいます。構想と表現、感情と構造は、一体物として機能します。しかし、目的がわかっているのに、手段がわからないような、構想が率直すぎて、表現が安易である、安易であるのに、目的の手段・構想の表現として機能しない。機能してないから、突発的に不可解的に象徴表現が表面に出てしまう。構想を描くはずの表現が、構想の邪魔をしている、邪魔というか、単にわかりづらい。それに、一時間の物語を三話分割して、「ある」「ない」「もどる」と続き、それほど魅せる劇もなく、やはり構想は率直で、これはしっかりと放心させてほしい作品であるのに、曖昧さが隠せない、不足感が見え見えてしまう。残念な点です。「描くほどのことか?」という、けだるい派もわかります。
 しかしハッピーエンドを掲げずに、前向きな姿勢を描き、それを観客に体験させようとするのは、とても気に入っている構想です。自分に立ち返れない人が多い世の中でこそ機能する、世代的(なのか?)作品ではありますが。


*監督の実在推察。

 監督は作品について「バンドエイドみたいなものでいい」と言われていましたが、要するに「慰めとしての作品」、虚構による現実の欠乏感の補償、観客の自慰に使われていい、ということでしょう?うーん。それを映画監督が言ってしまっていいのだろうか。いやーまあそういう使われ方もあり?酒や鎮痛剤と同じ?
 なぜ、なんども同じようなテーマ、パターンがなされるのだろう。人に見せるよりも自分が見たいものが優先されるのか。一貫されるテーマと言われる「喪失」にしか、深い原体験を見出せなかったのか。しかも喪失というのは、とても世代的で、文学的だ。歴史的で、哲学的なのではない。だから一時代の流行に過ぎない。いや、もしや、私の評価基準が高すぎるのかも知れない。
 最新作「君の名は」の予告を見て思いましたが、「またか」という感じで、表現が変わらないので、「飽き」「けだるさ」を感じてしまいました。見て見ないとわかりませんが、過去作品の前提を以てしても未だうきうきしているのは、性的退行世代の願望を抱えた人なのでは。ここまで批判する権限は私にあるのか?ごめんなさい。
 表現が狭い、狭く、深めていく。深めるので普遍性には構想が触れる。でも、やはり狭いことに変わりはないのです。それが、新海監督が「世代的」であるという理由です。このままでは、ただの流行に過ぎません。
 綺麗な壁画、それは監督の作品が二次元的であることの表れではないでしょうか。そういう意味で、小説の方が読みやすかった。いつか、三次元の奥ゆかしい広々とした作品を期待します。ああ、またこんな終わり方に…。そんなことをつぶやく私は確信犯か?失礼しました。失礼しましたと言いながらデリートしないのだから、確信犯確定だ。許してくれるな。眠いぞちくしょう。2016/05/07

2013/10/3「結局、誰とでも一生同じ場所で生きることは叶わないのだ。人は、こうやって喪失に慣れなくてはいけないのである。」二度目の投稿。→称揚派の時。サンキュー23。
2016/05/07「壁画と空白」改正。

投稿 : 2024/07/06
♥ : 33
ネタバレ

Ballantine さんの感想・評価

★★★★★ 4.4

究極の未練(全部書換

一回目見た時がかなり前でうろ覚えでしかなかったので修正。
それとあれ?こんなアニメだっけ?とまさかこんなに感覚が変わるとは思わなかった…
いや寧ろ前の評価で合っていたのかもしれないようなうーん。


まさにこのアニメにぴったりな言葉は究極の未練。
1話2話3話と年月が飛んでいる分あれこれ妄想の余地がある分ずるい。
色々な解釈が取れるのではなかろうか?


※見る人によっては恐らく嫌なアニメになりかねないと思われます。ネガティブ思考で恋多き人は見ない方がいいかも?
逆じポジティブで恋多き人にはお勧めかも?うーん人に勧めるには実に難しい。

っがわかった!気付いた!これを見て欲しい人はあれだ。
別れたばかりの恋人。別れたばかりの夫婦。別れてから、失っからこそ初めてわかる大切さ。ここですよここ!そういう事ですね。こういう人たちへ是非ともお勧めしたいです。
過去は取り戻せないんですよ!今しかない頑張れ!
幸せな未来を手に入れる為に今だけ我慢すればいいんだそうだがんばってくれーって事で後は皆様にお任せします。


感想
{netabare}今と昔どっちが良いのだろう?(駄文感想
なんかもやもやしてた思いがあるのは今の社会とこういう携帯もネットも無い時代。
果たしてどちらがイイ時代なのだろうか?
昔のこういう時代では手紙という手段か家電位でしか連絡が取り合えなかったであろう。
俺の世代はこのぎりぎりの境目位だったかな。大体物語位とそんな変わらなかったような気がする。
小さい頃は手紙程度だったがいつ頃だったか携帯やPHSが普及し始めていたっけ。
こうやって離れ離れになってしまった関係を維持するには今の時代のほうがいいのだろう。
しかしこれ裏を返せば浮気し放題でもあるんだよね。
相手側の情報が全然わからないしいつ何処にいるかもわからない。
連絡取ろうにも取りようがない。

が、現代の社会だとそうもいかないわけで。
いつだって連絡の取れるものがあるのだから。
何かやましいことが無ければいつだって連絡が取れるしってもまぁ仕事中じゃあれだけど。
何処だって出会える時代でもある。
離れていても心はつながっていることは昔よりは簡単だ。
電車が止まっても連絡が取れるし、心のすれ違いも昔よりは和らぐだろう。
しかしそこには罠があり、昔はなかなか会えなかったり連絡が取れない分長々と綴って考えて考えての日々の出来事や思いを深く書いて伝え合える。まぁ文章力の問題もあるが…
今は簡単にいつでもメールが出来ていつでも話せる事が出来てしまう分内容は薄っぺらくなっていく。
「おはよう」「おはよ」
「今何してんの?」「カラオケ」
「私のこと好き?」「好き」
「じゃ誰と行ってるの?」「友達ー」
「男?女?」「どっちでもいいだろー」
「私のこと嫌いなの?」「なんでそうなるんだよ」
まぁ大体この辺から喧嘩だよね。
俺は携帯を初めて持った頃はこんな感じだった。
いつしか電話ばっかしか使わなくなったが。
メールだとなんかしらの思いが、伝わらないだのちょっとした事ですれ違いが起きてくる。
電話だってそうだ。いつだって話せるけどそれは相手の顔を見て話せない分信用度は落ち不安になりすれ違いや勘違いが発生する。
人間関係も薄っぺらくなってくる。


今の時代ではさらに出会いのツールが山のようにある。最近の流行りはLINEだったりするわけだけど。
ネットで言えばスカイプだのメッセンジャーだの出会いのツールは沢山ある。
SNSやブログ。ソーシャルゲームやオンラインゲーム。
出会い系ツールなんて要らない位に出会いの場は無限に広がっているのだ。
その分こっちはこっちで浮気もしやすいし出会いも増えている。
浮気の点ではそうそう変わらないのかもしれないな。
いやまだ連絡取れるだけましか?うーんでも幾らでも偽装は可能だけどまぁバレやすい時代ではあるか。
しかしこれだけ出会いが増えてしまうと今度結婚した時が怖い。
結婚相手が沢山の人といつでも何処でも繋がることが出来てしまうわけで。
結婚には不向きな時代かもしれない。いや彼女にしたっていい男が欲しいと幾らでも探し放題なわけで。
もうこうなってくると人間関係すら薄っぺらくなってくる。無縁社会?近所づきあいも無い?もうさぁ今の彼氏や彼女と駄目なら他の子と付き合えばいーじゃーんってのが当たり前でしょ?知らんけどw少なくとも俺らの時はそっちのが多数派だった。良い男見つける為にキープ君いたって悪く無いでしょ?みたいな。
これ程希薄な人間関係があっていいのだろうか?
友人関係より恋人関係の方が下になってないか?
本当にそれでいいのだろうか?軽い付き合いでいいのか?
俺はリスクを考えたら明らかにおかしい社会だと思う。
男が下に見られている社会なんじゃなかろうか…
処女だと恥ずかしいって思っちゃう時代なんでしょ?
付き合うのは結婚したいが為じゃなく良い男見つける為なんでしょ?
別に間違ってるとは言わないが信用出来ないな。
好きな男とやるんでしょ?結婚したい男とするわけじゃないんでしょ?
結婚相手にはならないよね。
料理も出来なければ火事炊事も出来ないんじゃどうにもならない。
果たしてこれで男に結婚するメリットがあるのが甚だ疑問だ。
そうじゃない女性へは申し訳ありません。別に女性を叩いているわけではないのであしからず。


うーん。どっちの方がメリットあるのかなぁ…
なんだかわからないけど昔の方がいいような気がしてくる不思議。
ただの懐古厨なのかもしれない。
結論…は出ないw駄目だこりゃw書いてみて頭のなかが整理できるかと思ったけど酔っぱらいは駄目でしたとさ。
そのうちまた考えてみようかな。そんな不毛な思考を。ずっと昔から悩むこの考えをいつかスッキリさせたいな。


絶対に未練が残るタイプと自分のことを推察していたので未練が残らないように絶対に別れた女との思い出は、全て写真から何から整理するタイプで意図的に思い出す事もしないようにしてた。
いつしか自動的に思い出すこともなくなり誰に過去の女の事を聞かれても話さなくなっていた。
昔は自慢ばっかしていたが…
そのせいで忘れっぽくてもう思い出そうとしても逆に思い出せなくなり、あぁなんかあったような位でしか思い出せない事ばっかだったりしていたが、映画や青春物見てるとふぅっと思い出す時がある。もう見ている物語なんかそっちのけであぁこんな事あったっけとか…
ってかこんなおっさんになってから近頃やたら思い出すようになってきたのは歳のせいだろうか?
寧ろ昔の傷が癒えたからこそ思い出すようになったのかもしれない。

ただ、恋をした事のある人ならば誰しもが経験した事のある思い。
昔付き合っていた人との離れていく思いや付き合っている時の感覚。
会わない遭えない人間程遠くなっていき気持ちが薄くなってしまうんだよね。
自然と気持ちが離れていってしまう。
個人的に1年連絡しない人間は携帯整理してたな。仕事とかは関係ないが。

そして気持ちが離れたり会えなくなってしまうと新しい環境で新しい出会いが始まってしまう。
人間とは視野の狭い生き物である事を痛感させられてしまう。
実に狭い。
自分の周りだけが生きている世界で、自分がいるという事の認識は周りの人間がいる事で自分がいると実感出来る。
常に自分と一緒にいてくれる人だけが自分という認識をさせてくれる。
「とうのくん、これ以上私に優しくしないで」
っと言った瞬間ミサイルは打ち上がった。これはまさに恋心の爆発を暗喩しているのではなかろうか?
そしてケリがついた瞬間だったのではなかろうか?
ってかここで2話と3話の間に何が合ったかわからないのがまた色々想像させる所でもある。
実にズルい。

かなえは寝とる気は無かったから、好きだったからこそ身を引いたのではなかろうか?

まぁ最後は本当に未練の塊みたいなもんだよね。
このアニメは人の分だけ色々な解釈が出来る面白いアニメでもあると思う。
あんな恋をしたっけ。こんな恋をしたっけ。
そう、あの時あの場所でこうしていたらきっと人生変わっていたのでは無かろうか?
今頃何が起きていたのだろう?そんな思いを思い出を巡らせれば巡らせるほど辛いことはない。
これ程自分が惨めになるアニメも無い。
いやいい思い出もきっとあるだろうが俺は基本ネガティブだしもう何思い出しても嫌な思い出ばっかしか出ない。
なんだろう映画のアルマゲドンの最後のような走馬灯のような感覚で涙がこみ上げてくる。
共感出来るような事がある人ほど、恋多き人ほど想像力の高い人程きっとこみ上げてくるものはあると思う。
しかし俺みたいに思い出を封印している人もいるだろう。そんな人には泣けないかもしれないが。
そして最後の思わせっぷりな踏切でのすれ違い。
実に切ない物語。

ここからの妄想の余地を残してる所も実にズルい。
例えば不倫関係になってしまう√。
はたまた結婚が破談になり踏切でまた出会ってしまった二人からの新しい始まり√。
踏切でお互いがやっぱりと走り寄ってからまた連絡先を交換してしまう未来。

しかしこの中で唯一許せるのはこのまますれ違う事だろう。
人の女や男を寝とるような行為だけは本当にしてほしくない。
なので終わり方としては最高なのではなかろうか?

見てよかったかと言うとハッキリ言って見なくて良かった。好きか嫌いかで言えば大嫌いだ。
何故なら思い出したくない過去ばかり思い出してしまったからである。
良い思い出も嫌な思い出も今となってはどっちでもそんなに変わらないが、本当に青春の頃の思い出なんて思い出して良い事なんて無い。未練だけが募るだけだ。そんな未練が募ってしまって元カノの家にでも押しかける奴が現れたらならその子を不幸にするような自体だって発生してしまうかもしれない。
あまりその点では評価されて欲しくない作品です。
え?結婚?してません。結婚しててもこういうのだけは絶対に見たくないし彼氏彼女がいても絶対見たくない。過去の人間思い出して未練が募ってしまったらどうすんだよ。辛いだけだろ。っと言いつつ涙がジワジワ出ちゃいました。
やっぱ見なきゃよかった…


未練が募ってもその過去の思い出をバネに成長しろ?いやいや人間誰しもそんなに強い人間ではないのですよ…
恋愛すればする程すっかり凹んで恋愛なんてする気なくなっちゃいましたよ。


タイトルの秒速5センチメートルは何を表すか?
別れるまでのスピードですよ。いやいや冗談です。
個人的な解釈としては秒速5センチメートルでさくらの花びらが落ちるスピードだけれども、人と人との距離感なんじゃないかな?お互いが丁度いい距離感とも置き換えられるのではなかろうか?監督の意図はどうあれ勝手にこう解釈しました。


しかしこれだけ人の心を揺さぶって感動させてくれるアニメも無いので評価は高めです。ってかベクトルが違う意味で実に素晴らしい作品である事は間違いないが、二度と見ないようにするためにも感想を記しておきたいと思う。{/netabare}

投稿 : 2024/07/06
♥ : 39

84.9 4 オリジナルアニメーションで泣けるなアニメランキング4位
おおかみこどもの雨と雪(アニメ映画)

2012年7月1日
★★★★☆ 3.9 (1828)
9961人が棚に入れました
いまや全世界が待望する、細田守監督の最新作は「母と子の物語」。おとぎ話のような不思議な恋をした女性・花は、おおかみこどもの姉弟、"雪"と"雨"を育てることになる。「親と子」という普遍的なテーマを、人間とおおかみの二つの顔をもつ ≪おおかみこども≫ というファンタジックなモチーフで描く。いまだかつて誰も見たことがない傑作が誕生する。

声優・キャラクター
宮﨑あおい、大沢たかお、黒木華、西井幸人、大野百花、加部亜門、林原めぐみ、中村正、大木民夫、片岡富枝、平岡拓真、染谷将太、谷村美月、麻生久美子、菅原文太
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.8

細田監督の良さがふんだんに!(補足追記)

あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。

 2回目でした。2時間くらいの現代ファンタジー。
 1回目は、ながら見だったせいもあってか、あまりよくない印象を持っていたと記憶しています。今回きちんと見て、この作品の魅力にやっと気付けました。好きかどうかは意見が分かれる可能性がありますが、表現が非常に細かく、圧倒的な情報量が込められた傑作だと思います。私は非常に楽しめました。(補足を追記しました)


伝聞形式:{netabare}
 この作品は、オープニングでもエンディングでも、語っていたのはユキでしたよね。つまり、この物語は、語り手のユキの視点で描かれたものだったと言えます。この作品を、第三者の視点で描かれた家族の「ドキュメンタリー」として見てはいけませんでした。あくまでも、ハナから伝え聞いた話にユキ自身の体験を盛り込んだ、ユキの「思い出」のストーリーとして見る必要がありました。
 この辺を誤解するとやや説明不足に感じるかもしれませんね。この作品の世界が、ユキの中で再構成されたものであることを理解した上で視聴する必要がありました。

 オオカミ男がどのような生活をしていたのか、なぜ受講していたのか、なぜ死んでしまったのか。これらが不明なのは、第三者による俯瞰の視点がないからです。
 アメについてももちろん同様です。アメの単独シーンではセリフがありませんでした。すぐ話せるところにハナやユキがいないとアメのセリフは分からない、ということです。
 ニラサキのおじいさんの隠された思いも、嵐の日になぜユキとソウヘイだけが置いて行かれたのかも、ハナやユキがいないから不明である、というだけでした。

 ユキとハナの二人が知らない事柄や、ユキがハナから聞いていない事柄は、ユキの「思い出」の中では語りようもなかった、ということですね。説明に不足しているのではなく、伝聞形式を採用しているために説明ができなかったのです。
{/netabare}

ハナとユキの母親像:{netabare}
 まず、ハナにとっての母親とは何なのかを探ってみます。
 ハナが父親と写っている写真が出てきますが、その写真にハナの母親は写っていませんよね。写真のハナはかなり幼いですから、物心がつく前に母親を亡くしている(又は離婚している)可能性が高いです。社会から隔離されたオオカミ男と両親を失った孤独なハナが恋に落ち、家族(子供)を求めたのは何ら不思議なことではありませんでした。
 ハナはオオカミの育て方について「知らない」と言っていますが、母親による人間の子供の育て方も把握していなかったのです。親はみんな子育ての素人だという概念以前の問題で、母親という存在を知らないんです。

 では、ユキにとっての母親像とは何なのか。
 ハナは「辛い時でも笑っていれば乗り越えられる」を信条としています。また、ユキの誕生に際して「辛い思いをしないで元気に育ってほしい」と願っています。
 このことから、ハナはユキに対して、自分の辛さを一切伝えずに、笑顔であったことを伝え続けたのだと思われます。これがユキにとっての母親像を「強く優しい笑顔の母」に固定化しているというのは否定できないところでしょう。ただ、それが悪い方へ傾いているのではなく、ハナとユキの間にある愛情についての表現だったと言えます。ユキがそこに疑いを持たないために、あたかも理想像のように見えるのです。

 母親を知らないハナと母親を理想的に見るユキですから、この作品には現実的な母親と言うのは事実上存在しないことが分かります。そして、私たちはユキの「思い出」に影響され、ハナに対しては「強く優しい笑顔の母」というイメージを持ってしまいます。ただし、実際にハナがそのように描かれているかというと必ずしもそうでもありませんよね。

 例えば、子育て中のアパートでは、部屋は汚れ、ポストは郵便物であふれています。本に頼る姿も頻繁に出てきますが、結局のところ、ハナを救っていたのは本ではなく、周りの人々です。子供の親離れにも気付いていませんでした。ハナのイメージは「強く優しい笑顔の母」なのですが、周辺の描写を踏まえると一般的な母親と同様に弱さを見せていました。
 子育てに苦労するシーンでは、ツバメやクマが子連れで登場しています。動物との対比でも苦労を垣間見ることができました。本に頼る描写は後半ではありませんし、理想像のように見えるハナ自身も成長していたのです。

 ちなみに、花はハナの精神状態のバロメーターでもあったようです。分かりやすいのは花瓶で、オオカミ男が亡くなった直後やアパートでの育児中は、部屋に飾る花瓶の花は減っていました。花壇が充実している描写もかなり後半にならないと出てきません。
 笑顔以外のハナを知るには、周囲の描写に注視する必要がありました。
{/netabare}

ユキと二面性:{netabare}
 ユキとアメは、人間とオオカミの選択という作品のメインテーマを背負っています。家の前の分かれ道も、小児科と動物病院も、左が人間で右がオオカミとして描かれていました。ユキとアメが並んで立つシーンも、ハナによる手書きのユキとアメも、左がユキで右がアメと統一されていたようです。常に左側が人間で右側がオオカミだという、方向性の統一が描かれ続けていました。

 ユキを知るためには、この左右の選択に、鏡を加えなければなりません。どこかのレビューで書いたのですが、鏡や水面などの姿が写るものは、二面性の象徴として使われます。

 ソウヘイとのトラブルの前、鏡の前で口論が行われます。
 この時のユキは、現実のユキと鏡に写ったユキの両方が描かれています。そして、左側の階段を下りて、一旦右に振れるも、すぐさま左にはけて行きます。人間とオオカミ(左と右)に揺れているユキが、人間(左)側に行きたいという描写です。二面性を象徴する鏡と、左右のどちらからでも降りられる階段という舞台、そしてハナから聞いた人間でいるためのおまじないを使って、人間とオオカミに揺れるユキの心情と人間側への希望を強く描いていました。
 その時のソウヘイは階段の右側を下りますが、下りきることはありません。その後に「一匹狼」を自称するとしても、下りきれないのは当然のことです。

 一方で、嵐の夜の鏡の前では、ユキは鏡に映った姿しか描かれていません。アメとのケンカに負けた後ですし、それ以外でオオカミの姿にはなっていませんので、鏡の前だとしても二面性を描く必要がなくなっていたのです。人間であることへの強い意志を感じ取ることができます。
 このときのユキのセリフは「大人になりたい」です。このセリフは思春期に入った子供の特典のようなものです。オオカミの成長スピードならこの段階で大人になることも考えられますが、人間であることが確定したユキがこの段階で大人になることはあり得ませんので、あくまでも人間の思春期の真っ只中として描かれていました。なお、思春期への入りの描写は「匂い」(※)でした。

 なお、最後に二面性が描かれる人物は、ユキでもアメでもなく、ハナでした。アメを見送った後の水たまりに写る二人のハナです。かなりくっきりと写っています。人間とオオカミを独り立ちさせたというハナだけのエンディングです。最後に「大丈夫」と言われるのも、ユキやアメではなく、ハナでした。
{/netabare}

 上記以外にも、重要なシーンに合わせるような瞳の揺らぎや光の描写、動物の姿など画面の隅までまで見どころがたくさんありました。家の修繕を進めていくうちに、細部の美しさに気付いていく描写は、家の柱を介して子育てにリンクされるなど、素敵な表現だったと思います。時をかける少女やサマーウォーズと同様に、人間を肯定的に捉える細田監督の特徴は出ていたと思います。

対象年齢等:
 10代くらいから見ても大丈夫だと思います。性に関する描写も10代なら問題ない程度のものです。宮崎駿作品のように、見るたびに理解を深めていける作品だと思いますので、長い期間を通じて楽しんでいきたいですね。


(※)「匂い」の補足{netabare}
 ソウヘイはユキに「獣臭い」と言っています。なぜこの「匂い」がユキの思春期入りの描写になるのかについて、補足を入れておきます。

 このセリフは、表面的には「オオカミ臭い」という意味を持っています。これがユキの受け止め方であり、その後のストーリー展開に直接的な影響を及ぼします。ただ、描写的には、全く別の意味を持つことが分かるようになっていました。

 単に「オオカミ臭い」ことを表現するのならば、この「匂い」は、オオカミが気付かずに人間が気付くものでなければなりません。すなわち、ユキ以外の生徒たち全員が気付く「種族の匂い」のはずです。しかし、ソウヘイ以外の女子生徒たちは、その「獣臭い」には気付いておらず、気付いていたのはソウヘイだけでした。

 つまり、実際の「獣臭い」は、人間かオオカミかを判別する「種族の匂い」ではなかったということです。女子生徒が気付かずにソウヘイだけが気付くという、女性と男性を判別する「性別の匂い」だったのです。端的に言うと、「生理の匂い」「血の匂い」という意味でした。これをソウヘイは「獣臭い」と表現していたのです。

 初見時には、ソウヘイの臭覚や感性が他の人より鋭くて、「種族の匂い」に気付けたのでは?と思ってしまったのですが、そう言い切ることはできませんよね。ソウヘイに関して、そのような描写・エピソードは用意されていませんから。その結論を出してしまうと、先入観や思い込みで解釈をしていることになってしまいます。
 このシーンでは、ユキに女子生徒と男子生徒を絡ませることで、<オオカミのユキ⇔人間の女子生徒&ソウヘイ>という対比に基づいた「種族の匂い」ではなく、<女性のユキ&女子生徒⇔男性のソウヘイ>という対比に基づいた「性別の匂い」を演出していたということしか見えてきませんでした。

 したがって、このときのユキは、ユニセックスな子供時代を終え、男性が意識する女性へと変わっていたということになります。それゆえに、「匂い」でユキの思春期入りが描かれていた、と言えるのです。ユキの内面からではなく、他者の視点からこれを見せていました。ユキは、オオカミの血にコンプレックスを持っていますから、過敏に反応し過ぎて誤解をしてしまった、とも言えますね。ユキの内面的な思春期は、そのあとの描写で描かれていました。
{/netabare}

投稿 : 2024/07/06
♥ : 21
ネタバレ

ギータ さんの感想・評価

★★★★★ 4.9

短い時間でたくさんのことを考えさせられた映画

見どころが半端ないくらい多いです。

{netabare}
子育ての大変さ、我が子への母親の愛とそれによる頑張り、近所の人の助け、子どもの成長による心境の変化、親への感謝、人生の自己決定、我が子と離れる寂しさ、子育てに終わりはない
{/netabare}

正直、挙げだすとキリがないですが、これだけのことを2時間くらいの映画で取り上げるのは本当にすごいです。
子どもが成長していくだけでも構成はかなり難しいのに、伝えたいこともしっかり入っていて、言いすぎかもしれませんが、clannadを2時間にまとめたレベルの作品だと思います。

パンフレットに書いてあった細田監督のインタビューで「おおかみ子どもは私たち自身である」また、脚本の奥寺さんの「セリフがないところが名場面になる」という言葉があまりにもこの映画をとらえているため、読んでいて鳥肌がたちました。


「おおかみこどもは私たち自身である」
{netabare}
作中では、雨がおおかみとして、雪が人間としてそれぞれが自分で生き方を決め、歩んでいきます。でも、それは人間である私たちも同じことで、自分の生きる道は自分で選んでいかなければいけません。後悔しないようにかつ、責任を持った選択を迫られます。映画の最後で雨が別れるシーン、雨はすごい、言葉に表せないような心境だったと思います。これまで母親にべったりで、すごくお世話になって、母親から「まだ何もしてあげられてない」なんて言葉をかけられて。自分がそんなことを言われたら絶対泣いてしまうし、雨も心はかなり揺れ動いていたと思います。それでも雨は別れておおかみとして生きていくことを決意したのです。感謝の気持ち、寂しさ、すべての感情を背負って別れることにした雨の選択は本当にすばらしいものであり、自分もそんな選択ができる強い人になりたいと感じました。
人の生き方には無限の選択肢があると思います。でも、その選択には大きな決断が伴うこともあるのです。それは今回の映画のようにおおかみとして生きるか、人間として生きるかということと同じであり、「おおかみこどもは私たち自身である」という言葉は、そんな思いから発せられた言葉なのでしょう。
{/netabare}

「セリフがないところが名場面になる」
脚本の奥寺さんは「この映画は映像でなければ伝わらないところもある」というようにおっしゃっています。
{netabare}
まずは映画中盤、雪の中で遊ぶシーン。あのシーンはセリフなしで、音楽とアニメーションの二つによって、自然の雄大さ、花たち家族の楽しさ、疾走感が伝わってくる場面です。記憶が正しければ、笑い声すらなかったように思います。しかし、すごい伝わってくるものがあるのです。思わずすごいと思ってしまうシーンであり、短い映画の中でも、毎日楽しく過ごしてきたんだなと、映画の中の時間に入りこんだ気持ちになりました。
そして、映画終盤、またも雨の別れのシーン。やはりたくさんの見どころはあるものの、このシーンの力の入れ具合から、一番伝えたいのはこの場面なのかなと思います。このシーン、雨は何も話しません。そして、花もいくつかセリフを言った後、しばらく何もセリフがないシーンになります。雨が何も言わないのはおおかみとして生きていく覚悟の表れかなと思います。セリフがないこのシーンは、私はいろんなことを考えました。花の気持ちや雨の気持ち、そしてこの人に考えさせるのがねらいなのかなとも思いました。単に受け身として映画をみるのではなく、自分で想像を働かせ、今花たちは何を思っているのかなと考えさせるなど。あえてセリフをつけないことによって、より感情移入させようとしているのかなとも思いました。だからこそ、その後の雨の遠吠えにより感動を覚えたのかなとも思います。
→追記で
雨の別れのシーンは思ったよりもセリフなしのシーン短かったですね。それでも雨が何も話さないものの表情で揺れ動いていると分かる描写はとても印象的でした。

{/netabare}

奥寺さんの言い分とは少し違うかもしれませんが、想像力を働かせるというのは、小説などの文字媒体に比べ、受け身になりやすいアニメや漫画にとって大切なことだと思います。それに関連して私の中で印象に残っているものが2つあります。
違う作品の紹介になるのであえて隠します。読みたい人だけ開いてください
{netabare}
1つはスラムダンクのラスト1プレー、もう1つはもののけ姫のエンディングです。
スラムダンクは、漫画でありながら、そのラストシーンは全くセリフがありません。しかしそのシーンは、私が読んだ漫画のシーンで№1だと思います。もののけ姫のエンディングは主題歌と音楽を流し、画面は真っ黒のスタッフロールのみです。しかし、私はこのエンディングこそ今まで見てきたどのエンディングよりもすばらしいと思うのです。この2つはここでは言及しませんが、言いたいことは、このおおかみこどもの考察とだいたい同じようなことです。もののけ姫は、また少し違うのですが。
{/netabare}
BDの発売が待ち遠しいです。早く見たいし、みなさんも見てない人は一度、見た人ももう一度視聴されることをおすすめします。


追記:BD届きました!
間違いなく一回目より二回目の方が来るものがあります。次にどんな場面になるか、どんなセリフが来るか分かっている方がつらいものがあったり、泣きそうになるものがあります。
改めてみても、本当に見どころ伝えたいこと満載で、二回目も感動しました。
一つだけ追加の考察を

前から思っていましたがジブリ作品と共通するところがあると思います。私がジブリ作品に魅力を感じたのは、小さい頃に見た時と高校、大学で見た時、同じ作品を見ているのに違う感想を抱いたこと、つまり自分の成長と考えの変化を実感できたことが挙げられます。
おおかみこどももおそらくこのような感想を抱くような作品であると思います。まぁ去年の映画であるため、本当にそうなるかはあと何年かたってからでなければ証明はできませんが。
この考察をさらに続けるとこの作品にはジブリと違う点があり、そしてそれがジブリを越えるものではないかと思うのです。
ジブリ映画は視点がほぼ主人公かヒロインです。私たちはその主人公の成長や感情の動きを感じ取り、そしてそれは見る年齢によって感想が違ったりしています。
おおかみこどもの視点は花と雪と雨の三人であり、しかもそれぞれ年齢が違い、子ども、親というように全く違う視点から見ることができます。さらに付け加えると、作中でみんな歳をとり、成長しているため、もっと多くの視点で見ることとなります。
私も子どもの頃は雪や雨のようなやんちゃな時があったり、分からなくて悩んだときがあったり、あのときこんな感じだったなぁと懐かしみ、二人の行動、そして過去の自分を受け入れました。もしかしたら、私が小学生でこの作品を見たらそうは思わなかったかもしれません。
それ故に花の行動はすごいと思っても、自分はそういう行動をとれるのかなと疑問を感じさえしてしまうのです。これは大人に、そして親になった時に今より分かるようになるかなと思います。
以上から、この作品は自分の年齢、立場から感想がかなり違うものになると私は思います。そして、歳を重ねればジブリよりも直接的に違うことを感じる作品にこれからなっていくと思います。
願わくは、小さいころからこの作品を見る人が増え、成長していくたびにこの作品からいろんなことを感じ取り、より感動出来ればなと思います。

投稿 : 2024/07/06
♥ : 20
ネタバレ

nico81 さんの感想・評価

★★★☆☆ 2.9

劣等感と自己肯定の物語

考察を繰り返した結果、断言しても良い。
これは子育て奮闘記でもなければ母子の絆の話でもない。
細田守監督自身のコンプレックスの投影と自己肯定という、極めて個人的な内容だ。

さも母が中心かのような広告を打ったのは、そのほうが売れると踏んだからかもしれない。
しかし、母の物語だとすると各要素の必然性が全くなく、あまりにもお粗末な作りだ。
子育てや生活そのものについての批判が多くあり実際その通りだが、おそらくそれらはすべて見当違いだ。

この物語の主軸はあくまでもタイトルにある通り「雨と雪」という2人の子供たちであり、彼らが自分たちの運命(異形であること=劣等感の具現化)と対峙し葛藤することである。
母の存在は物語上の手段として必要だっただけに過ぎない。第一にはコンプレックスの象徴としての狼人間をこの世に産み出すために。第二にコンプレックスを抱えた子供らと監督自身を「(異形のものと承知で)産み、育て、愛し、許す」=「肯定する」ための"聖母"のような役割として。彼女の言動やとりまく環境や出来事は全て聖母として存在させるためであり、そのための宮﨑あおいである。つまり制作側の意図以外には何もない。
そう考えると色々合点がいく。矛盾があろうがなかろうがどっちだって良いのだ。


そして、聖母の救済を必要としたのは {netabare} 弟の雨だ。
彼こそが監督の自己投影の対象だろう。
―母の理想にはなれなかった。母のもとにも居られない。それでもそんな自分をあるがまま受け止め、認めてほしい。それで良いのだと背中を押してもらいたい―
そんな深層心理の表れだと考えるのは深読みのしすぎだろうか?
人でもなく狼でもない中途半端な存在としての劣等感。周囲となじめずに深まる孤独感。母の求める理想に近づけない後ろめたさ。そうして殻に閉じこもり、アイデンティティを求めてもがきさまよう。
やがて、母の属す社会の外側に居場所を見つけてひとり旅立つ。そんな彼を母は泣き笑いで受け入れる。そのままで良いのだと、無言のうちに肯定してやるのだ。彼は希望と許しを同時に手にして、自由へと駆け出していく。
鏡のように対比された姉の選択によって別の可能性も示されるが、彼女もやはり他者からの許し(秘密の共有)を必要とする。

一見、彼らの自己肯定と再出発は成功したかに見える。
しかし、姉の決意には諦念が見え隠れするし、弟は傍目には逃避という言わば後ろ向きの選択だ。しかも全て強引な自己完結で、アイデンティティを獲得したのではなく捨てたようにしか見えない。根本的解決をしていないにも関わらず、それを他者に認めさせることで得た自己肯定は独りよがりに映る。
もっと言えば、そもそも聖母であるべき母こそが狼人間という異形(=劣等感)を生み出すというパラドックスに陥っているわけで、実はこの時点で監督の自己肯定は既に失敗している。
{/netabare}


どこまでが意識的なのか無意識なのかは分からないが、各エピソードの生々しさは高木正勝の聞き心地良いミニマルミュージックによってオブラートに包み、アン・サリーの歌で母性を強調し、姉の独白で視点をずらし、狼人間の姿形を借りて非現実を可視化することで何とかファンタジーの形態を保っているような……つまり計算づくで、ちょっとあざとい。

引き画の多用についても監督は「客観性を保つため」と語っているが、対象が曖昧にぼかされて主題も散漫になっている印象のほうが強い。第一、どうしたって感動系にしかならないプロットにわざわざ客観性を組みこむ必要があったのか。実際、ここ引き画にしちゃったら観客は感情移入しにくいんじゃないかと思う場面が多々ある。劣等感にフォーカスされて物語が過剰にセンチメンタルに転ぶことを嫌ったからでは? もしくは自分の隠された本心を暴かれることを恐れているのでは? などと斜めな見方もできる。

いずれにしても、この「ひどく個人的な心理を覆い隠して普遍的テーマの体裁を取り繕った感じ」にどうしても違和感が拭えず共感も感動もできない。(がしかし、私の同族嫌悪も多分に含んでいる)


サマーウォーズも面白かったけど何かもやもやと違和感があって、それもこの考え方でいけば納得できる。体裁だけはファンタジーなのにどうしても舞台やエピソードが現実的なのは、監督自身が生きる場所であって解決すべき問題ともがきがそこにある(しかも解決していない)から。
だとすると、この人にジブリのような異世界での冒険譚は多分描けない。

しかし、このままではいくつ作品を作っても形を変えて繰り返すだけじゃないのかなぁ…
他者に依存し続ける限り他者を言い訳に使うことも可能で、いつか行き詰る。他者の助けは必要だけど、本当の意味で「自分という人間を受け入れ、自分の人生を請け負う」覚悟をするとき、許しを与えるのは自分自身以外にないのだから。


※だいぶ以前にUP済みだったが、推敲と加筆・訂正を繰り返していまに至る。ここまでの考察は滅多にしないし長文も避けているのだが、どうしても無視できずに自分のために書いた。
自分と似通った業を抱える監督への歯がゆさと、ここまでしてもその業から解放されていない様への苛立ちと落胆を覚えている。きっと「バケモノの子」でも繰り返しているだろうと容易に想像できるのだが、いずれ見届けなければなぁとぼんやり考えている。

投稿 : 2024/07/06
♥ : 14

80.8 5 オリジナルアニメーションで泣けるなアニメランキング5位
花咲くいろは HOME SWEET HOME(アニメ映画)

2013年3月30日
★★★★★ 4.1 (1282)
7238人が棚に入れました
美しい北陸の四季を背景に、祖母の経営する温泉旅館に住み込みで働くことになった東京生まれの女子高生の成長を描いたTVアニメ「花咲くいろは」(2011年4~9月放送)の劇場版。温泉旅館「喜翆荘(きっすいそう)」での住み込み生活にも慣れた松前緒花は、次第に変化していく自分に気づきはじめていた。そんなある日、緒花のクラスメイトでライバル旅館「福屋」のひとり娘・和倉結名が、女将修行のため喜翆荘にやってくる。自由奔放な結名に振り回されながらも、面倒をみていた緒花だったが、物置の中であるものを見つけて……。監督の安藤真裕、脚本の岡田麿里、アニメーション制作を担うP.A.WORKSほか、TVシリーズのスタッフが再結集。

声優・キャラクター
伊藤かな恵、小見川千明、豊崎愛生、戸松遥、能登麻美子、梶裕貴、本田貴子、久保田民絵、浜田賢二、間島淳司、山口太郎、恒松あゆみ、諏訪部順一、チョー
ネタバレ

シス子 さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

おはなのオハナのおはなし

テレビ版を視聴してから観ました


{netabare}先ず最初に
「劇場版」というより
テレビ版を含めて
この「花咲くいろは」という作品の
私の主観的な感想を述べさせていただきます

この作品を観た
{netabare}ほとんどの石川県民が・・・{/netabare}

いいえ
{netabare}石川県出身の女性の多くが・・・{/netabare}

っていうか
{netabare}石川県出身の"ある年齢層"の女性の大半が・・・{/netabare}

もとい
{netabare}石川県出身のある年齢層の"独身女性"の一部が・・・{/netabare}

じゃなくて
{netabare}ごく一部の女性が・・・{/netabare}

もしかしたら
{netabare}私だけが?・・・{/netabare}

{netabare}「輪島巴」(わじまともえ)という人物に
極めて強い共感を覚えたのではないでしょうか{/netabare}

{netabare}輪島巴ちゃん・・・


喜翆荘の仲居頭
28歳
独身・・・

(以下Wikiの巴データ){/netabare}

{netabare}キャラクターカラーはピンク
部屋着は黒いタンクトップだったりと大人の女でもある
左眼の下に泣きぼくろ

さらには・・・{/netabare}

{netabare}噂好きかつ覗き見好きなのが玉に瑕・・・云々
学生時代の友人が次々に結婚してゆく・・・云々
多忙ゆえに・・・云々
三十路を前に・・・云々
嫉妬心を隠せない・・・云々

・・・云々かんぬん{/netabare}

{netabare}なんか笑いながら涙出てきた~(ToT{/netabare}


{netabare}そして
なんといっても
その声の主{/netabare}

そう
あの・・・

{netabare}「能登麻美子」さんです!!! キャァァ~!!!{/netabare}

{netabare}石川県金沢市出身ですよ~ キャァァ~!!!{/netabare}

{netabare}どうでもいいけど私と同じ石川県出身なんですよ~ キャァァ~!!!{/netabare}

{netabare}金沢弁がとてもハマってて迫真の演技~ キャ{netabare}・・・あ

実は私
出身が金沢市じゃないからよく分かりませんでした~^^!
(金沢以外の"地方"はビミョーに違う){/netabare}{/netabare}

{netabare}っていうか・・・
「バカタレどもが~」って迫真のアドリブ・・・("ぼんぼり祭り"での本人コメント)

これ
金沢弁じゃないよね・・・(冷{/netabare}

{netabare}おうちが金沢なのに
なんで名前が「能登」?・・・(冷{/netabare}

{netabare}まあ
とりあえず・・・{/netabare}

{netabare}麻美子ちゃん最高だよ~ キャァァ~!!!{/netabare} 

{netabare}能登かわいいよ能登~ キャァァ~!!!{/netabare}

{netabare}キャァァ~!!!・・ゲホッゲホッ・・オエェェェ~

叫びすぎた^^{/netabare}











気を取り直して^^{/netabare}
    ↑
(どうしようもないことなので興味のない方スルーしてね)

この作品
個人的に
とても印象に残っているのは
たまに出てくる金沢の風景です(ほんと・・・たまにですよ)

あえて
城下町金沢をイメージさせる観光名所など
いかにも"不自然な"描写を控えめにして

普通の街中や田舎の風景が多いのは
地元の人間にとって
とても興味のあるところです

でも
観ていると
いつも思うんです

なんか違う・・・
って


「湯涌温泉」(作中では湯乃鷺温泉)に
「のと鉄道」乗り入れ?
あの"3セク赤字企業"が事業拡張?(失礼^^

便利になったもんだ~^^
のと鉄道さん太っ腹~^^

っていうか
そもそも
湯涌に鉄道敷けるほどの広くて平らな地面あったかな?

多分
実際に電車を走らせるとなると
箱○登山鉄道みたいになっちゃいますね

金沢市街の建物などの位置関係もなんか変・・・

なこちゃんの妹のまなちゃんを
おはなちゃんとなこちゃんが探すシーンでは

(多分)金沢駅から
(多分)安江町の商店街を抜けて
いきなり
(多分)香林坊ってどういうこと!?

しかも
二人が来たのは
駅と反対の方向から^^
(あきらかに香林坊アトリオに向かって片町方面の"横に変な走るオブジェがあるミスド"の方向から来ている)

どー考えてもおかしい・・・
こりゃいったいどこなの?

・・・超ローカルな話題で申し訳ございません!

気になる方は
一度
金沢に遊びにきまっし~^^
実際の町並みと比べてみるのも面白いかも


さて
お話は
テレビ版での「ぼんぼり祭り」の少し前のお話だそうで

「喜翆荘」と
おはなちゃんたち仲良し女の子4人のエピソード
さらに
おはなちゃんのお母さん
「松前皐月」(まつまえさつき)さんのお話

キャッチコピーの「私、もっと輝きたいんです……!」のとおり
みんな輝いてました!
みんなぼんぼってました!
ホビロン・・・叫んでました!

そして
おはなちゃんはというと
いつものごとく
元気に走りまくってました!

いつでも
走る!走る!走る!

どこでも
走る!走る!走る!

廊下の雑巾がけで
走る!走る!走る!

さつきさんも
走る!走る!走る!

そして
{netabare}泳ぐ!泳ぐ!泳ぐ!・・・{/netabare}

{netabare}泳ぐ???{/netabare}

そう
冒頭の{netabare}「クソババァ」(失礼^^){/netabare}のシーン

これ
どこかの{netabare}競泳BLアニメ{/netabare}を
パクったんじゃね?
って思うくらいの
{netabare}みごとな
夜間の飛び込みシーンでした^^
(※製作はこっちのほうが先です){/netabare}



最後に
もう一つ
とても気になったのは
おはなちゃんのお父さんのお話です

さつきさんとお父さんの出会いから
おはなちゃんの誕生(ここで"オハナ"の秘密が明らかに・・・)
そして
お父さんが・・・

ここでもまた涙が・・・(ToT

って
あれ・・・
よく考えたら
おはなちゃんって
{netabare}病弱なジャズシンガーのお母さんと
港にやってきた米兵さんの間に生まれたんじゃなかったっけ?(テレビ版第1話より){/netabare}


とにかく
いっぺん石川に遊びに来てみんけ~^^

投稿 : 2024/07/06
♥ : 34

Ka-ZZ(★) さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

「私、もっと輝きたいんです……!」

2011年に放送されたこの作品のTVアニメ版は「P.A.WORKS 10周年記念アニメーション作品」として制作されました。
P.A.WORKSにとって、単独製作した初の完全オリジナル作品であり、P.A.WORKSの「お仕事シリーズ」の第一弾に相当する作品です。

あにこれでの評価も高く、TVアニメ版は2020年11月時点で総合得点90.1点、感想・評価6058件、棚に入れた25866人という驚異的な数字を叩き出しているにも関わらず、ランキングは50位なんですよね。
トップクラスの層の厚さを物語っている証拠だと思います。

一方、この劇場版のあにこれでの評価は、総合得点79.3点、感想・評価1212件、棚に入れた6887人でランキングは399位と、TVアニメ版の1/4~1/5人しかこの作品に触れていないようです。
かくいう私もその一人でしたけれど…
ですが、この劇場版はTVアニメ版を視聴したなら見ないのは勿体ない、と思える作品でした。

私がTVアニメ版を視聴したのは2013年の5月なので、もう7年以上前になりますが、私にとって「お気に入りの棚序列51位」の作品は、今でも色褪せることなく輝いています。
その劇場版なんです…思わず視聴にも気合が入りましたよ。


祖母の経営する温泉旅館"喜翠荘"(きっすいそう)での住み込み生活にもすっかり慣れた
東京生まれの女子高生・松前緒花は、
板前見習いの鶴来民子や、仲居見習いの押水菜子らと過ごす毎日の中で、
少しずつ変わっていく自分に気が付きはじめていた。

秋も深まってきたある日、クラスメイトでライバル旅館"福屋"の一人娘である和倉結名が、
喜翠荘に女将修行にやってくる。

奔放な結名に翻弄されながらも面倒を見ていた緒花は、掃除をしていた物置の中で、あるものを見つける。


公式HPのSTORYを引用させて頂きました。

改めて視聴して気付いたこと…
作画が緻密で綺麗だと言うのは認識していましたが、声優陣がこんなにも凄かったのは気付いていませんでした。

喜翠荘で働く女子高生3人組がコチラ↓
松前 緒花(CV:伊藤かな恵さん)
鶴来 民子(CV:小見川千明さん)
押水 菜子(CV:あきちゃん)

喜翆荘の仲居頭がコチラ↓
輪島 巴(CV:能登麻美子さん)

喜翆荘のライバル旅館である福屋の一人娘がコチラ↓
和倉 結名(CV:ハルカス)

これだけの面子が揃っているんですもん…
当時この作品にハマった自分の行動原理にも納得です。
それに「P.A.WORKS 10周年記念アニメーション作品」と銘打っているだけあって、作り手の気概がヒシヒシと伝わってきますから…

私が感じたこの作品のテーマは「家族の在り方」です。
例え働いている場所が一緒でも、たとえ境遇が似通っていたとしても、一つとして同じ在り方はありません。
だから、きっと正解は無いんだと思います。

夢を叶えるために目標を定め、最短コースを全力で走り抜ける…
夢は十人十色でコースの長さや起伏も人それぞれ…
だけど、時には家族のために立ち止まったり振り返る余裕は残しておきたいと思いました。

何も言われないからって、それで良い訳じゃない。
周りには言いたいことを必死で堪えている人だって居るんだ。
だから臨界点を突破して破裂しちゃう前に気付きたい、そう思えました。
それが家族なら猶更ですよね…

それとこの劇場版で明らかになるのは、緒花の名前の由来です。
緒花はハワイ語で「家族」を意味する「ohana」から取ったそうです。
この命名の方法は今まで発想にありませんでした。

命名するとき、「その子が将来どんな風になって欲しい」という子供を主体とした発想だったり親の気持ちだったり…
各家庭のしきたり、という場合も考えられると思います。
そう考えると「家族」を意味する名前って、奥が深いと思いました。

上映時間66分の作品でした。
いやぁ、しっかり満喫させて貰えましたし、しっかり涙で前が見えなくなる展開も用意されていて大満足でした。
ここ最近、TVアニメ版は視聴済ですが劇場版を視聴していないという作品が
結構あることに気付きました。
少しずつ記憶を辿りながら、昔の作品にも思いを馳せていけたらなぁ…と思っています。

投稿 : 2024/07/06
♥ : 22
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.3

さっぱりとした良作です

あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。

 初見でした。65分くらい。
 テレビシリーズはチラッと見たことがある程度で、内容はすっかり忘れていました。ストーリーもキャラの名前すらもあやふやな状態での視聴となってしまいました。
 ただ、見始めてすぐにキャラクターの名前や性格、抱えているエピソードなどが伝わってきました。ここまでしっかりとキャラクターが描かれいるのならば、テレビシリーズもきっと良作なんでしょうね。

 で、この映画版なんですけど、記憶があいまいだったせいもあって、楽しめないかもなと覚悟していました。ただ、そんな心配は無用なもので、想像以上に面白かったです。一番の見どころは生き生きとした登場人物たちですかね。モブもきちんと演技をしてましたし、作画関連に突っ込みどころは感じませんでした。

 軽くストーリーで描かれていた要素をまとめてみます。


客観視:{netabare}
 物語の大半は「客観視」をすることに費やされていました。
 「自分が見ている自分」「自分が見ている親」「自分が見ている家族」というのを、「第三者の視点」を通すことで理解しよう、というのがストーリーの中心です。

 例えば、学生時代のオハナママが見ている「自分が見ている自分」というのは、「写真に写った自分」を介して再評価がされることになります。
 同じように「オハナが見ているオハナママ」は「豆じいの業務日誌」を介して、「オハナが見ているオハナファミリー」は「ナコのファミリー」を介して、客観視されていきます。

 これは他の登場人物にも表れていました。例えば、ミンコは宿泊客の視点で、板長のレンジですらトモエの視点で、それぞれの思惑に対しての再評価がなされていました。
 描かれているのは「客観視」というたった一つの要素なんですけど、マンネリにならないように非常に上手くストーリーが組まれていました。一貫して描き続けよう姿勢というはすごく伝わってきましたね。
{/netabare}

オハナとオハナママ:{netabare}
 一番面白かったのは、オハナとオハナママのエピソードの書き分けですね。

 まずはオハナから。
 「オハナが見ているオハナ」を第三者の視点から見るエピソードはありません。思春期における自己の客観視は、オハナママのエピソードで足りているからかもしれませんし、テレビシリーズの話なのかもしれません。
 で、オハナは、「オハナママ」と「自分のファミリー」の両段階を、他人の目に頼っています。上で述べた「豆じいの業務日誌」と「ナコのファミリー」のことです。

 一方でオハナママ。
 学生時代の自分を客観視するためには「写真」に頼っているんですが、「オハナママの親(女将のスイ)」と「自分のファミリー」を客観視するためには、他人の目を必要としていないんですね。いずれも子供のオハナを抱えた状態で、自分の目で客観的に見れています。

 この構造的な違いというのは、そのまま年代や境遇の違いになるんだと思います。学生という未熟な視点と、子を持つ親の成熟した視点ということなのでしょう。このオハナとオハナママの似ているようで全く違う描き方が絡み合いながら、エンディングを迎えます。

 「私、輝きたいんです!」の源泉は、自分をきちんと見つめることにある。そして、親や家族に対してもその視点を適用することで、映画版のサブタイトルである「HOME SWEET HOME」につながる。これがテーマでした。
{/netabare}

対象年齢等:
 予備知識はそこそこあれば問題ないと思います。もちろん、あった方が楽しめるのは否定しませんけどね。私程度の予備知識でも楽しめましたから、コアなファン向けってわけではないと思います。
 家族ものですから、思春期以上なら視聴年齢は特に気にしなくても大丈夫です。

投稿 : 2024/07/06
♥ : 7

78.3 6 オリジナルアニメーションで泣けるなアニメランキング6位
心が叫びたがってるんだ。(アニメ映画)

2015年9月19日
★★★★☆ 4.0 (1198)
6267人が棚に入れました
監督 長井龍雪
脚本 岡田麿里
キャラクターデザイン 田中将賀
制作 A-1 Pictures
青春群像劇 第2弾 劇場版完全新作オリジナルアニメーション 

幼い頃、何気なく発した言葉によって、家族がバラバラになってしまった少女・成瀬順。
そして突然現れた“玉子の妖精”に、二度と人を傷つけないようお喋りを封印され、言葉を発するとお腹が痛くなるという呪いをかけられる。それ以来トラウマを抱え、心も閉ざし、唯一のコミュニケーション手段は、携帯メールのみとなってしまった。高校2年生になった順はある日、担任から「地域ふれあい交流会」の実行委員に任命される。一緒に任命されたのは、全く接点のない3人のクラスメイト。本音を言わない、やる気のない少年・坂上拓実、甲子園を期待されながらヒジの故障で挫折した元エース・田崎大樹、恋に悩むチアリーダー部の優等生・仁藤菜月。彼らもそれぞれ心に傷を持っていた。

声優・キャラクター
水瀬いのり、内山昂輝、雨宮天、細谷佳正、藤原啓治、吉田羊
ネタバレ

素塔 さんの感想・評価

★★★★★ 4.5

始まりの言葉

言葉は誰かを傷つける。

このフレーズによって
すでに私たちは作品の世界に引き込まれている。

純粋で、ストレートであるがゆえに
傷つきやすい思春期の心の
その傷や痛みさえも美しく見せるものが青春だとすれば
青春という特権的な時間の中にのみ現れる
尖鋭化された、純粋な言葉へと
すでに定位はなされている。
言語一般に解消するのは誤りであると思う。

この作品で言葉は、テーマというよりはむしろ
もっと具体的な、マクロ的な機能を担って現れているようだ。
特に注目したいのは、ストーリーの展開の軸となる次の二つ、
「傷つける言葉」と「本当の言葉」。
これらを物語の展開に即して辿っていきたい。
そこには当然、この作品の主題も絡んでくるはずである。



{netabare}
「傷つける言葉」が現れるのは、物語の発端。
それが、ヒロインの成瀬順と田崎大樹とを結ぶ接点となる。

この二人は、反転させた相似図形のように
順は、メンタルな傷によるフィジカルな痛みを
田崎は、フィジカルな傷によるメンタルな痛みを抱えて
自分の殻に閉じこもって周囲から孤立している。

田崎は無神経かつ暴力的な言葉で順を傷つける。
その彼が、後輩の言葉で逆に傷つけられた時
「言葉は人を傷つける」ことを順が言語化する。
田崎にとってそれは、世界が一変するほどの衝撃だった。

田崎の「謝罪」から物語は動き出す。
彼の変化は、「傷つける言葉」を経験して
他者というものの存在を初めて意識したことによる。
はじめは拓実の苗字さえ知らなかった彼が
クラスの一人一人の個性に共感を示せるほど
今では周囲との関係の中に融和しているのである。

言葉を前景として展開されていく
この作品の中心主題とは、「関係の危機と回復」
そう捉えてよいのではないだろうか。
関係の危機に際して二人がとった対照的な態度が
このあとの展開の鍵となっているように思う。

順の場合、原因となった言葉を封印することで
不幸を回避しようとして、結果的に関係を遠ざける。
このネガティブな論法を、田崎はポジティブな行動で打ち破る。
彼は、言葉による関係の回復を証明してみせた。
それが彼の「謝罪」の意味である。

最初に田崎が殻を破り、関係の世界に踏み出した。
だから、本番直前に失踪という形でクラスの仲間を裏切り
順がふたたび関係の危機に陥った時、彼女のために
再起へのチャンスを懇願し、的確に方向性を示して
クラスの空気を一瞬で変えることができた。
田崎は先に進み、順が自分に追いつくのを待っている。



「本当の言葉」が現れるのは、物語の最終盤
順と坂上拓実との間に交わされる対話の中である。

拓実が失踪した順を探し当てた場所は
「すべての事のはじまり」の場所である
今は廃墟となった、山の上のお城(ラブホテル)だった。
不幸が繰り返された結果、原点に回帰して
すべての根源を断ち切りたいという無意識の願望が
おそらく順をここに誘ったのだろう。

二人の間に交わされる対話は、物語の最重要場面だが
短い時間の中に内面の動きが極度に凝縮されているため
観る側の解釈による補足がどうしても必要になる。
例えば、関係という補助線を引きつつ
二人の言葉を糸口に、経過を注視していくと
順と拓実との間で「本当の言葉」が交わされ、連鎖的に
二人の心に劇的な変化が生じてゆく過程が見えてくる。


まず、順から拓実へ。

無残な廃墟と化したホテルの部屋は
順の心の内部を象徴するものだろう。
童話風なステンドグラスの窓は、はじめは薄暗く
対話が進行するにつれて、徐々に明るい光が差し込んでくる。
宗教的な空間を想起させるこの場所で
彼女の魂の再生が行われることを暗示している。

絶望に駆られ、すべてを呪詛する順に
拓実は、「本当の言葉」を聞かせてくれ、とせまる。
順が怒りに任せて叩きつけた罵倒の言葉は
確かに「本当の言葉」だったかも知れないが
あっという間に種切れになった。
物語の少女とは違い、現実の彼女は
言葉で誰かを傷つけたことは一度もなかったからだ。

自分のおしゃべりが原因で家族が崩壊したという
あまりにも不幸な体験が再現しないよう
痛みを伴う強烈な自己暗示をかけて言葉を封印した。
その際、誰かを傷つけてしまうから、という
単純化した論理を用いて自分を戒めてきたのだろう。

その順を「傷つける言葉」へ誘導することで
意図せずして拓実が行ったことは
対話によって患者をトラウマの根源に導いていく
精神分析の治療法を想起させるものだ。
ただし、治癒は一方的なものではなく、相互的に進行する。
先に変化が生じたのは、拓実の方だった。


拓実から順へ。

順は、拓実の名前を繰り返して三度、呼んだ。
その時、思いがけず拓実の目から涙がこぼれ落ちた。
この呼びかけが、彼の心の一番奥深くにまで届いたのは
それが順の「本当の言葉」だったからだろう。

彼が順に打ち明けたのは、心に澱んだ虚しさだった。
自分には誰かに伝えたいことが失われてしまっている。
伝えたいことがない、という空虚感は
裏返せば、他者との関係の希薄さを意味している。
つまり、彼もまた順と同じように
心の殻に閉じこもってしまっていた。

伝えたいことで満ちあふれる順の心の躍動に触れ
何より、関係を諦めない順を通して
自分が渇望していたものを知ることができた。
本当の言葉を伝えることとは、言葉を介して相手を受け入れ
自らも相手に受け入れられようとする、関係への願いである。

いま、それが実現していた。
猛烈な勢いで罵倒されてもうれしかった。
名前を呼ばれた時には
空虚だった自分の存在が満たされる気がした。
そして彼の中に、伝えるべき本当の言葉が生まれた。
お前に会えてよかった、という感謝。
これが、ようやく拓実が伝えられた「本当の言葉」だった。


ふたたび、順から拓実へ。

拓実のストレートな心情の吐露が
すべての原点にまで遡って、順の中の固定観念を
転倒させることに成功する。

私のおかげ? 私のせいじゃなくて?

この時、順のトラウマの原因が、父親の言い放った
「お前のせいだ」という言葉だったことが明らかになり
自らにかけてきた、卵の呪縛から解き放たれる。
殻が破れた瞬間に見えてきたものはやはり
これまで育んできた仲間たちとの関係だった。
だから、彼女の中に感謝と後悔が自然に湧いてくる。
「みんな」が待っている場所へ行く。その決意とともに
物語は一気にフィナーレへと加速する。

その前にあと一つ、伝えなければならない
「本当の言葉」が順には残されていた。
それを伝え終えたあとの表情には、傷心よりもむしろ
自分に対して一つの決着をつけられた清々しさが勝っていて
順が生まれ変わったことを強く印象づける。
失恋は終わりではなく始まりとなった。
彼女は新しい世界へ踏み出していく。



フィナーレでは「言葉」は前景から退き
代わって「歌」が、順が踏み出した新しい「世界」の
メッセージを高らかに歌い上げる。

ここに、雀犬氏のレビューから一文を引用させて頂こう。

「この映画で最後に見せたかったものは
 自分の殻を破り外の世界に飛び出した成瀬順に対する
「新しい世界からの祝福」だと思われる。」

これは、ラストの田崎の告白に関してのご指摘だが
この卓見はフィナーレの全体にまで敷衍することができる。


思い返せば、ミュージカルの発端にあったものは
順がケータイで紡いだ物語と、拓実のピアノとの二つ。
そのいずれもが、閉ざされた内部に封印されてきた想いを
外の世界へ向けて解き放とうとするものだった。
それが周囲の多種多様な心を取り込んで、膨れ上がり
一つの作品にまで結晶する。

ラストの全員合唱のシーンにオーバーラップする
日常の片隅の、さりげない情景の数々。
日々繰り返される、何気ない
そしてかけがえのない「日常」の愛おしさ。
彼らの過ごしてきた日々が集約されている
誰もいない教室を写した一カットにはいつも胸を打たれる。

明らかにここには、「世界」の意味するものが
具体的なイメージとして重ねられている。それは
一人一人の内面の「小さな世界」を包みながら
同心円状に、クラス、学園、地域へと広がっていく
コミュニティと呼ばれる、古くて新しい私たちの「世界」だ。

集団のエネルギーの総和である、ミュージカル。
無数の関係の集積として成立する、コミュニティ。
アナロジーで結ばれたその二つの場が向かい合い
同一の空間を形成するのが、この作品のクライマックスである。
そして、物語の最大の焦点であった順と母の和解は
二人がそれぞれ、一方の場所からお互いを見出し
言葉を介さずに理解しあうという、象徴的な描き方がなされている。

個々人の葛藤が、共同性の中に止揚されるこの図式は
祝祭というものの本質的な機能に即している。したがってそれは
個と集団との対立のない、調和的な世界であって
甘さとして指摘できる部分だが、こうした批評的な掘り下げは
本作にはあまり似つかわしくないようにも思う。
「あの花」とは異なる、これがこの作品の独自性なのである。

青春のリアルな感触を伴った本作の魅力は
逆説的だが、一種のユートピア性にあるのではないだろうか。
同じ印象をかつて自分は、「耳をすませば」から受けた。
私たちの日常と隣り合った、いわば親密なユートピア。
アニメーションはこれを志向し、私たちもそれを憧憬する。
アニメがもたらす幸福感の源の一つが、確かにここにはある。
{/netabare}



言葉は誰かを傷つける。

そのことにまた傷つき、立ち止まり、それでもなお
「本当の言葉」を交わしあいながら、彼らは前へ進んでいく。

危機に瀕した関係を回復する「謝罪」も
相手を肯定し、関係を深化させる「感謝」も
新たな関係への願いである「告白」も
彼らの言葉は、ありったけの真情をこめた叫びのように
未知の可能性に向かって発せられる。

だから、青春の言葉はいつでも
「始まりの言葉」なのだ。


(初投稿 : 2020/08/02)

投稿 : 2024/07/06
♥ : 23
ネタバレ

ぽ~か~ふぇいす さんの感想・評価

★★★★★ 4.8

音楽を題材にしたアニメにはずれ無し!

初日舞台挨拶付上映を観てきました
それほど期待していなかったのですが
素晴らしい映画でした!

あの花スタッフが贈るなんたらかんたら~
みたいな宣伝をひたすら続けていたので
あの花がそこまで好きになれなかった身としては
「あの花スタッフが贈る」はキャッチコピーとしてむしろマイナス

『あの花』は後頭部を鈍器で殴って「ほら、目から涙が出ただろう?」みたいなやり方をしていた
というのはつい先日のインタビューで長井監督自身の発言ですが
まさに言い得て妙だと思いました

あの花は{netabare}1話がピークだったというか
女装のあたりで物語から振り落とされて
それ以降登場人物にほとんど感情移入できずに
テンションはどんどん下がっていって
最後は醒めきったまま作業的に消化
そして興奮して盛り上がっている方々に
「これで泣けない奴は人間として終わってる」とまで言われ
疎外感をたっぷり感じながら
遠巻きに眺めている感じでした{/netabare}

しかしこの映画は自ら鈍器で殴られに劇場に来ていた人たちには
若干火力が足りなかったかもしれません
4人の主人公たちがそれぞれに抱える悩みを
じっくり掘り下げて書いているので
青春映画特有の古傷をチクチクと針でつつかれるような痛みなら
ぎっしりと詰まっているのですが
こういう青春映画の良さって
現役バリバリで青春真っただ中の人には
あんまりピンとこないかもしれません

そもそも4人の抱えている問題は
{netabare}過去に起こしてしまった取り返しがつかない過ちに起因します
田崎の問題だけは他の部員との軋轢という意味では現在進行形ですが
怪我で大会を棒に振るという変えられない過去に端を発している点では彼も同じようなもの
年月がたっていなかった分最も早くそれと向き合うことができたともいえましょう
他の3人は古傷が心の中にしこりになって残っていたものを
すこしずつ吐き出して前に進んでいく物語なわけです
そうなるとどうしても古傷をたくさん抱えている大人の方が
こういった作品と向き合った時に
心の奥底まで物語が浸透しやすいんじゃないでしょうか{/netabare}

私が作中で一番印象に残ったシーンは
{netabare}廃墟で二人が対峙するシーン
あのシーンの拓実は本当に格好良かったですね
ミュージカルと平行して進む会話の中で
順の告白はきっぱり断りつつ絶望の淵から救い出す
その二つはなかなか両立できたもんじゃないですよ

それまでの拓実がしていたように
相手を傷つけない言葉だけを選んで会話するのは
一切の会話ができない順に比べて生活に支障が少ないだけで
本質的なところはたいして変わりません
たしかに言葉は人を傷つける
でも言葉は人を傷つけるだけではない
逆に言葉にしないことが人を傷つけることもある
たとえ相手を傷つけることになったとしても
自分の本当の気持ちを相手にぶつける勇気
その覚悟と誠意のこもった言葉が
順の殻を破り刺さったのでしょうね

そこからラストまでのヒロインダブルキャストのミュージカルがはじまり
悲愴のメロディにのった「心が叫びだす」と
OverTheRainbowを基調とした「あなたの名前叫ぶよ」のクロス・メロディまで
本当に完璧な仕上がりでした{/netabare}

物語を満点からわずかに減点したのは
最後のシーンがあまりに唐突過ぎたからです
あの締め方自体は決して嫌いじゃないというか
すごく良い終り方だと思いますが
ちょっとそこまでの描写が足りていませんでした

{netabare}思い返してみれば
最初は順のことを小馬鹿にしていた田崎が
徐々に順のことをリスペクトしていく描写は
ところどころに有ったのは分かります
たしかにそういう伏線めいたものは感じられましたが
それ以上に初期に仁藤に言い寄る田崎の印象が強くて
それが消えていくような描写が見当たらなかったのが問題かな
穿った見方をすれば、坂上たちが付き合い始めて脈なしになったから
代用品として順を選んだようにも見えてしまいます
そしてその節操の無さが妻子持ちながらお城に通う順の父とかぶるというか・・・

ここからは憶測ですが
たぶんこれは演出家の考えが足りないわけではありません
むしろそこでサプライズを起こしたいから
敢えてミスリードを残し、そこに繋がる描写を最小限にしてあるのです
どうしてそう思うのか?簡単なことです

それがマリーの常套手段だから

全体のバランスとか細かい整合性よりも
唐突に吹き出す感情のインパクトを重視するのが彼女の流儀
それがぴたりと噛み合うと傑作が生まれるわけですが
空回りしていることのほうがずっと多い印象
だから私は彼女の実力はある程度評価していますけど
はっきり言ってあんまり好きな脚本家じゃないですね
今回みたいな完全オリジナルならまだ許せるけど
続編ものとか原作付とか他の人が積み上げてきた土俵で
何もかもぶち壊すのは本当にヤメテ!{/netabare}

音楽に関してはミュージカルが題材なだけに
当然かなり力が入っています

ミュージカル部分の担当はクラムボンのミト
ショウバイロッカーにとってはラボムンクのミトミトンですねw
日本人になじみの深いミュージカル曲を選出し
それを劇中劇としてまとめ上げました

もう一人の劇伴作家は横山克
最近だと君嘘の音楽を担当されていた方で
私はあれでファンになったのですが
今回の作品でも物語をカラフルに彩る
心地よい音楽に仕上がっています

この二人の仕事は非の打ち所がありません
それでも音楽に満点をつけられなかったのは
エンディングの存在が原因

のぎさかなんとかはあんまりよく知らないので何とも言えませんが
秋元康って日本を代表するヒットメーカーなんですよね?
詩の内容は多少映画の内容を意識してはいるんですが
むしろそれが却ってマイナスです
それまでスクリーンに映し出されていた濃厚な人間ドラマと
そこに内容をがっちりリンクさせたミュージカル
それらすべてを引き継いで締めるにはあまりにも薄っぺらく
取ってつけたような物語とのリンクは蛇足の一言に尽きます
これならばまだ方向性を変えて
真っ向勝負を避けたほうまだマシだったでしょう

例えるならリレー競技で
全員一丸となって必死に走ってきたのに
トップでバトンを受けたアンカーが
余裕こいて軽く流してたら
なんか最後抜かちゃいれました
みたいなものすごい興醒め感です

声優に関しては全く文句ありませんでした
特に水瀬さんの声にならないうめき声と
はまり役すぎるほどの内山君が素晴らしかった
それから順の母親役の吉田羊さん
話題作りのためにTVや映画で活躍する有名人をキャスティングして
散々な出来だった作品をいくつも観てきました
乃木坂同様不協和音にならなければいいと心配していましたが
こちらは全くの杞憂に終わりました
やはり一流の女優さんは声だけの演技であっても
その実力がはっきり見て取れるものなんですね

作画も全体的にすごく良かったと思います
特に言葉を発することができない順の心情を
水瀬さんのうめき声とともに見事に表現していた表情芸は素晴らしかったし
途中の携帯を使ったLineっぽい演出も面白かったです

ついでに言っておくとこのアニメも西武線アニメなので
西武線の電車がちょいちょい出てくるのは想定内だったのですが
なんと今回は西武バスも出てきます!
地元民以外からすればなんのこっちゃ?って話なんですが
毎日家のすぐ前を通ってるのと同系のバスが出てくると
なんか無意味にテンションあがりますねw

音楽を題材にしたアニメ作品で
過去のトラウマを乗り越えて成長していく青春群像劇
A-1Pictuers制作でプロデューサーはアニプレ斉藤P
劇伴には横山克、要所で流れるベートーベン
そしてやけに主張の激しい小道具として使われる西武線(笑)
水瀬いのりも瀬戸小春役ででてましたし
このアニメ実はかなり君嘘と共通項が多いです
ひょっとするとあの花ファンだけじゃなくて
君嘘ファンにもおすすめしていい作品かもしれません

全体としてはかなりレベルの高いところでまとまっていたと思います
時間を見つけてもう一回見に行きたいですね

おまけ

舞台挨拶でキャストの方々が
是非サントラを買って帰ってください!
何て言うもんだから買って帰ろうとしたら売り切れ・・・
まぁそりゃあんな風に言われりゃみんな買おうとするし
私らの回は挨拶付上映2回目だから1回目の客が買って帰って終わりだわな

仕方なく家に帰ってから通販で購入したのですが
アニプレの通販特典でセルフライナーノーツがついてきました
映画パンフにあったミトさんの話をさらに膨らませた感じの内容で
版権の問題で没になった曲なども含む
ミュージカル選曲案(第一稿)もついてました
これは、会場で買わないで通販にして良かったかもしれないw

投稿 : 2024/07/06
♥ : 37
ネタバレ

takarock さんの感想・評価

★★★★☆ 3.8

Shout at the Devil

あれは確か私が中学2年の時、
放課後にクラス全員で校内行事の合唱コンクールの練習をしていた時の話だ。
やる気もあまり感じられず、どことなく気怠い空気が蔓延していた。
そんな中、ある女子生徒の一声が教室中に響き渡った。
「みんな、もっとちゃんとやろうよ!! コンクールまでもう時間ないんだよ!!
私はこのクラスのみんなと一緒に精一杯やりたいよ!!」
女子生徒はその場で泣き崩れてしまう。
それを目の当たりにした野球部の男子生徒が
「そうだよ!みんなもっと声出るだろ!!本気でやろうぜ!!」と
女子生徒の訴えに呼応するように叫びだした。
その後クラス中で嗚咽をもらすという空気になっていったわけだが、
そんな中、私は
「おいおい、こいつら青春ドラマの見過ぎだろ・・何の茶番劇だよ・・」と
一人その場を冷静に観察していたというまさに外道!!w(リアル中二病とも言う)
そんな私が「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」(あの花)
を観て感動などできるはずもなく、
クライマックスシーンは、はっきり言ってドン引きしていました。
ええ、そうです。私はそういう人なんです!!

本作は「あの花」のメインスタッフが再び集結して作られた作品です。
そうと分かっていながら何故視聴した?という話なんですけど、
評判も上々でしたし、
制作側も「あの花はちょっと露骨過ぎた」的なことを発信していたようなので、
それならばと思って視聴してみました。

では、ここからはネタバレありで本作を語っていきます。


{netabare}まず、結論から言うと、
王道の学園青春アニメ(映画)としての出来はかなりよかったと思います。
「あの花」よりもこちらの方が断然好みでしたし、
感動して泣いてしまったというのもよく分かります。
私もぐっときたシーンはいくつもありました。

けど・・・けれどもなんですよ!
まぁそれは一先ず置いておきましょう。

幼年期あれだけおしゃべりだった主人公成瀬順が、
高校生になるとろくに声も発しず、携帯等の文字のやり取りしかできないような状態に・・
そこまで変わるものなのかとも一瞬思いましたが、
そうなるには充分な説得力(トラウマ)があったと思います。

成瀬順から言葉を奪ったのが「玉子(の妖精)」なら、
再び声を取り戻すきっかけとなるのが「王子」。
「玉子」と「王子」・・・似て非なるもの、表裏一体、アンビバレントな、
というのは意識して作られていたのかもしれませんね。
言葉というのは毒にも薬にもなり得るものですし、
「せい」でなく「おかげ」なんてことも本作中で語られていましたしね。
本作のミュージカル中には、
マッシュアップ(2つ以上の曲から片方はボーカルトラック、もう片方は伴奏トラックを取り出して
それらをもともとあった曲のようにミックスし重ねて一つにした音楽の手法)
が取り上げられていましたけど、これもそこら辺に掛かっているのかな?
まぁ小難しい考察は他の方に任せますw
あとは、ベタだけど玉子の殻を破ってとか、玉子を様々なメタファーとして用いていましたね。

まぁ、とどのつまり本作は、主人公成瀬順が再び声を取り戻す再生の物語なんですけど、
普段接点のない者達が集まって、一つの目標に向かっていくというのは、
やっぱりキュンキュンときめいてしまいますねw
その距離感と緊張感の演出は本当に素晴らしかったと思います。

はい、ではここからは、けど・・・けれどもの部分の話をしますよ。

声を失った少女、そしてミュージカルと
私は本作の中盤くらいからクライマックスシーンをある程度もう想定していました。
それはどんなものかというと、ミュージカルの劇中、
成瀬順の母親も見ている中で成瀬順が唐突に叫び出すんです。
そう、それこそ私の中二時代の合唱コンクールの練習時のあの女子生徒のように。
舞台裏のクラスメイトが「ねぇ、こんな台詞あったっけ?」なんて狼狽する中で、
少女はこれまで溜めに溜めてきた鬱屈した心情を魂の咆哮によって吐き出すのです。
「私が言葉を発してしまったせいで多くの人を不幸にしてしまったから・・・
だから・・・私は自分なんて存在しない方がいいって思っていたけど・・・
けれども私は、私はここにいる!ここにいるよ!!」
そして、拓実を一瞥した後に、
「あなたが、あなたが教えてくれた!想いは声にしないと伝わらないって!
あなたは私の王子様じゃないかもしれないけど・・・
けど・・それでも私はあなたが好き!!」
こんな展開なら私はおそらく号泣してましたw

ベタだけど、こっちは泣く準備ができていたからそういうのを期待していたのに、
それなのに・・・なんだあれ?
すべての始まりである今は潰れたお城(ラブホ)という舞台にあまり文句はないですけど、
(まったくないわけではない)
脇が臭いだの、ピアノが弾けるからってモテると思うなよとか、
それとあの女も同罪だ!ああいうのが一番たちが悪い!とかさぁ・・
マリーさん脚本得意の女子特有のドロドロの本音ってやつなのでしょうか?
その後の拓実への告白シーンはよかったですけど、
その告白の前の生々しい心の叫びというのは絶対必要なんですよ。
自分のおしゃべりによって家庭を壊してしまった後悔、これまで抑圧してきた感情、辛い想い、
成瀬順にはもっともっと叫ぶことがあるだろ。
それなのに、成瀬順の心の叫びを、
恋の嫉妬からくる罵詈雑言に矮小化してしまっているような・・
あれがしゃべれなくなってしまう程のトラウマを抱えた成瀬順の本当の魂の咆哮なのか?
とかなりの物足りなさを感じました。
それに、拓実のリアクション。「うん、、うん、、、」
とひたすら頷いている(成瀬順を肯定している)のにも「なんだかなー」という気持ちに。
これまでは成瀬順が言葉を発することによって不幸が訪れる、
つまり、人間関係が壊れてしまい、成瀬順は否定されてしまっていた訳ですけど、
拓実はひたすら肯定してくれます。そういう対比の場面だと思いますが、
でも、拓実もかなり複雑な家庭環境でしたよね?
だったら、「自分ばかりが特別だと思い込んでるんじゃねーよ!」くらい言って欲しかった。
お互いが本音を言い合い、それでもその関係は壊れない(肯定される)。
それが成瀬順の救いとなり、過去のトラウマからの解放、本当に声を取り戻す。
その流れで告白っていうのを期待していたんですけどね。
これは本作を視聴中に常に頭の中によぎっていたことなんですけど、
皆が皆、成瀬順を甘やかせ過ぎのように思えました。
劇中のキャラってことだけじゃなく、そもそもシナリオレベルでね。
最後の田崎が成瀬順に告白って場面でもそれは思いましたよ。
これは救済的な措置かな?なんてね。
ご都合主義とかじゃなく、やっぱり甘やかせ過ぎっていうのがしっくりくるかな。

私としては、ミュージカルの本番前にトラウマの発端となった舞台(ラブホ)で
拓実とのやり取りがあり、
ここでのやり取りは劇中のような罵詈雑言をぶつける、いや、ぶつけ合ってほしかったですけど、
とにかく、そこで成瀬順は声を取り戻す。
そして、ミュージカル本番に見に来ている母親の前で、拓実の前で、
成瀬順が本当に叫びたがってることを、熱い魂の咆哮をって展開の方がよかったかなと。
ミュージカルの劇と成瀬順と拓実のやり取りをリンクさせる見せ方は上手いとは思いますけど、
流れとしてね。

若かりし頃というのは、満たされないことが多いでしょう。
私も年中欲求不満で、エネルギーを持て余していましたw
私の場合、カラオケで発散していたんですけど、
2~3人で行って、ほぼ毎日6時間超えは当たり前、パンツ一丁で浴びるように酒を飲み、
ひたすら叫びまくるという、まさにクレイジーそのものw
でもそうでもしなきゃさ、
自分だけが不幸なんじゃないかって、他人が羨ましくてしょうがないって、
いろいろやってらんねーぜ!って心境だったんですw
今思えば己の卑屈さや器の小ささに忸怩たる思いを禁じ得ないのですが、
でも、成瀬順よ、お前は違うんだろ? 
あの程度の心の叫びなら、それこそカラオケでも行って発散すればいい。
ただ、そんなものは俺の心には響かない。
心が叫びたがってるんだったら、もっと本気でかかってこいやぁぁぁ!!!{/netabare}

投稿 : 2024/07/06
♥ : 54

70.3 7 オリジナルアニメーションで泣けるなアニメランキング7位
バケモノの子(アニメ映画)

2015年7月11日
★★★★☆ 3.8 (638)
4210人が棚に入れました
原作・脚本 細田守監督。


舞台となるのは、人間界のほか、動物のようなバケモノが住む「渋天街」が存在する世界。

人間界「渋谷」から「渋天街」に迷い込んだ一人ぼっちの少年が、強いけれど身勝手なために孤独だったクマのようなバケモノの剣士・熊徹と出会うことで物語が展開する。

少年は熊徹の弟子になり、九太という名前を与えられ、彼と共に修行や冒険の日々を送ることになる。


声優・キャラクター
役所広司、宮﨑あおい、染谷将太、広瀬すず、山路和弘、宮野真守、山口勝平、長塚圭史、麻生久美子、黒木華、諸星すみれ、大野百花、津川雅彦、リリー・フランキー、大泉洋
ネタバレ

れんげ さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

【ネタバレ無し】熊徹と共に吠えろ!!

2015年7月より劇場公開
本編119分


【前置き】

細田守監督の長編映画第4弾。
(ONE PIECEの映画を除くと。)
「時をかける少女」の頃は、原作を上手くアレンジし名作に仕上げた監督の手腕が高く評価されておりましたが、「サマーウォーズ」以降、その評判は一般層をも巻き込むカタチで大きくなり、今やポスト宮崎駿とすら呼ばれるまでとなり、その観客動員数も他のオリジナルアニメとは一線を画すレベルとなりました。
それに従い、批評する側の目線も高くなったり、偏った意見も多くなっていった印象を受けました。

私的には、監督の作品はどれも大好きです。
大手を振って褒められるかどうかはともかくとして。
なので、評判が上がるのは勿論嬉しいのですが、批評の中には闇雲な感情論による悪態でなくしっかり的を得ている意見も多くあり、色んな意見から新たな視点を得る機会に恵まれたことに楽しさも覚えました。


前置きが長くなりましたが、そんな監督の第4作目。
普段はあまり映画館へは足を運ばないのですが、知名度の高い細田監督の作品だけは評判が出尽くす前に見ておきたいと思い、前作品らと同様に出向いて来ました。



【あらすじ】

人間界「渋谷」とバケモノ界「渋天街(じゅうてんがい)」という、通常交わることのない二つの世界。
ある日、とある事情から渋谷で途方にくれていた少年「蓮(れん)」は、渋天街の熊のような風貌のバケモノ「熊徹(くまてつ)」と出会います。

蓮は、熊徹から強くなるため弟子になるよう説得され、渋天街で「九太(きゅうた)」という名を貰い、日々修行に明け暮れるのでした。

8年後、成長した九太は偶然渋谷へ戻ってしまうのですが、そこで高校生の「楓(かえで)」から新しい世界や価値観を吸収することで、自身の生きるべき世界を模索するようになります。

そんな中、両世界を巻き込む事件が起こるのです…………。



【(劇場公開中なのでネタバレ無しで)語ってみる】

監督の他作品と比べて、本作はどこが優れていたか。
それは、この少年漫画的なシナリオからくる『熱さ』にあると、私は思いました。
サマーウォーズでもあった、「キングカズマVS人工知能ラブマシーン」の徒手空拳の格闘シーンが好きな人なら、本作でもまず燃えられるでしょう。
徒手空拳の格闘技だけでなく、本作はバケモノ達(と言っても怪獣ではなく熊男や猪男のような人型)による格闘技で、非常に力任せであり泥臭いところもあるのですが、迫力は満点でした。
作画は前作同様、映画であることを差し引いてもしっかり描ききれており、そこから上記のような魅せるシーンの更なる力の入れようは視聴者を大いに湧かせてくれます。
約2時間とアニメ映画としては少々長い部類ですが、私は一度も退屈させられるようなことはありませんでした。


ただ、映画のテーマとしては少々監督の引き出しが少ないと感じてしまったのも正直な話。
本作は、異種間を含めた「親子の絆」を描いた作品。
それこそ、前作「おおかみこどもの雨と雪」でもそうでしたし、広く家族と捉えれば「サマーウォーズ」でもそうでした。
細かく分ければ「おおかみこども」は完全に親の視点である為、本作とはまた少しテイストも対象となる年齢層も違うのですが、端から見れば一緒である時点で、多くの視聴者に既視感を与えてしまう点は残念です。
加えて、「熊男」「狼男」というのもまた、ニアミスしてると言わざるをえません。
舞台設定こそ監督の作品の中では新しい「渋天街」も、それこそ他作品で言えば見慣れた世界観であり、新鮮味には欠けてしまいましたね。


キャラクターに関しても、主人公の「九太」は、幼少時代は横着な熊徹のもとで子供なりに必死に学ぼうとする(加えてコミカルな)様に心打たれ愛着を持てたのですが、8年後のスマートになった青年「九太」は少々魅力に欠けました。
なんと言うか、見た目も含めて格好良過ぎたんですよね。
これは、前作でも主演声優を務めた「宮崎あおいさん(幼少期の九太)」と「染谷将太さん(青年期の九太)」とのキャリアの差も大きかったのかもしれませんが。
彼の見せ場のシーンも、そこに至るまでの過程や肝心の敵が少々腑に落ちなくて、首を傾げながらということもありましたしね。

何より、九太の師匠である『熊徹』が非常にキャラ立ちしている為、主人公の九太の活躍が、どうしても霞んでしまうんですよね。
私的には、青年九太が頑張るどのシーンよりも、熊徹が無骨に挑みかかる格闘シーンのほうに目を奪われてしまいました。

まず「役所広司さん」の演技が抜群に良いんです。
声をヘンに作っているわけではなく、でも役所広司さんの地声とも少し違う、まさに「熊徹」というキャラクターを自身で作り上げて演じ切った感じでした。
横柄で、人の話を聞かず、短気で、ぶっきらぼう。
そして、たった一人で自身を鍛え抜いて、自分の力で強くなった…、…強くなってしまった熊徹。
そんな男が、世界の違う人間の子供に目をかけ、なんだかんだで必死に育て上げていく様。
泣くには至りませんでしたが、やっぱり心に訴えるものがありましたよ。

この作品の評価は、この熊徹が好きになれるかどうかが大きな分かれ目となると思いますね。
私は、こういう男臭くて人情的なヤツ大好きなんです。
弟子になりたいかと言われれば、それはまた別の話なんですけどね……(笑)

勿論、魅力的なバケモノは熊徹だけでありません。
やはり見た目もインパクトのあるバケモノ達が中心となるのですが、中でもその熊徹の元で九太に目をかける豚顔の僧侶『百秋坊(ひゃくしゅうぼう)』は魅力的でした。
度々の彼の諭しがあってこそ、九太も…そして熊徹も、道を違えず成長出来たんでしょうね。
視聴後に声優さんが「リリー・フランキーさん」だと知りましたが、とても落ち着いて演じられていて、あの声だからこそここまで好感を持てるキャラになったんだと感じました。


主題歌であるMr.Childrenの『Starting Over』も非常に作品に合っている名曲でした。
いつぞや、ONE PIECEの主題歌を担当された時の曲は個人的に好きではなかったのですが、今回は自分にとっても大当たりでした。
このレビューも、この曲を何度もリピートしながら作りました。
聴くと自然と作品の良いシーンがフラッシュバックする、そんな1曲でしたね。



【総評】

映画館で見る価値があったかと言われれば、私的には十分ありました。
ただ、やはり初見且つ映画館というインパクトも含めて、評価が上乗せされた感はあるので、そういう意味では少し抑え気味な評価となるかもしれません。
まだ前評判の無かった「サマーウォーズ」を公開初日に映画館で見た時のインパクトと比べると、視聴後のテンションはかなり違いましたし。

ですが、やはりシナリオからも分かる通り王道ながらしっかり見せ場のある熱い作品なので、ファミリー層を中心にまた興行収入としては成功の作品となるでしょう。
勿論、変に偏り過ぎでなければ大人も十分楽しめる内容ですので。
私は同じ作品を映画館で二度見ることはまずないので、また足を運ぶことはないでしょうけど、早くBlu-rayでもう一度見直したいです。


ただ、やはり次回作以降の引き出しには不安を感じさせるものであったことは確かです。
アニオタ界隈では「ショタ好き」「ケモナー」等の名誉?なレッテルを貼られている細田監督。
そこが真実かどうかはさておき…この監督は、しっかりと面白いところが分かっていて且つ視聴者の目線にも立てる、そして「ショタ」等の偏った需要を上手く一般層向けに紛れさせ商業作品へと仕上げるセンスを持つ、数少ない実力のある監督だと私は思っています。

と言うわけで、次回作は
『ブッキラボウな男+そんな彼を慕うロリ少女』
という私の大好きな設定を是非、一般層にも受けるような作品へと昇華させ仕上げていただきたい。

……最後の一文は忘れて下さい。

読んでいただきありがとうございました。

◆一番好きなキャラクター◆
『熊徹(くまてつ)』声 - 役所広司さん


◇一番可愛いキャラクター◇
『チコ』声 - 諸星すみれさん



以下、声優を務めた「広瀬すずさん」について。
(低俗な文章を含みますので、〆ます。)
{netabare}
本作のヒロイン「楓」を務めたのは、女子高校生ながら話題の女優『広瀬すずさん』。

とある番組での、悪質に切り取られたかのような彼女の言動が世間の反感を買い、謝罪騒ぎにまで発展したのをご存じの方もいるでしょう。

そう言えば以前にも彼女は、「明星一平ちゃん夜店の焼きそば」のCMで、一部言動が誤解を招くとして差し替えとなる騒ぎも起こりましたね。
これも謝罪騒動同様、私的には少々解せなかったんですよね。

全く………、


『ぶっちゅ~~~~~~~~~~、全部出たと?』


という言動の、一体どこに誤解を招く要素があったと言うのでしょうか。

しっかり口をすぼめ(ソースを)絞り出す様の、一体どこに何の誤解が生じていたのでしょうか。

広瀬すずさんには、これからも逆境に負けず作中の「楓」と同様に、自身の信ずる道を邁進していって欲しいものです。




………………………………ふぅ。

シュッシュ、フキフキ
{/netabare}

投稿 : 2024/07/06
♥ : 27
ネタバレ

ぺー さんの感想・評価

★★★★☆ 3.9

“新冒険活劇”の意味は分からずじまいでしたが・・・

2018.08.11記


「時をかける少女」に続き「未来のミライ」公開記念で地上波で放送していたのを鑑賞。
細田監督作品は「おおかみこどもの雨と雪」「時をかける少女」に続き3作目の鑑賞となります。


今日も渋谷駅周辺は外国人で溢れ、きょろきょろしながら歩いたり、めいめい写真を撮ったりして楽しんでますね。これだけ多くの作品で取り扱われる街ですからなんの聖地巡礼かはさっぱりわかりません。ハチ公前交差点は都会の雰囲気を描写できる上、空間を広めにとれるため引きのカットをいろんなアングルから撮れることが作り手にとって魅力なんじゃないかと勝手に思ってます。

で、その渋谷の街とその渋谷に隣接する異世界「渋天街」が舞台のお話です。
お約束のハチ公交差点前もしっかり出てきますので、渋谷ファンは要チェックです。


家族関係で闇落ちしている少年“蓮”の視点から物語は始まります。夜の渋谷を走り回ったりするのですが、この時の背景しかり通行人の描写、防犯カメラを使った数枚のカットなどの工夫はさすが劇場版といえる作画です。ひょうんなことから迷い込んだ渋天街もプチ千と○尋の幻想的な作りだったりと導入はバッチリでした。ただプチ神隠し感が出たことで、否が応でもポスト宮○駿を無駄に意識させちゃったかもしれないのは余計だったかも。

物語は、作品タイトルやポスターの絵柄からバケモノ(熊徹)と蓮(または九太)の親子関係または師弟関係を軸とした展開が予想され、実質その通り進んでいきます。ただそこに焦点を絞り過ぎると中盤以降の追加要素に混乱してしまうかもしれません。《詰め込み過ぎだよん》という評はしかりで、父子愛というメインテーマを補足するための追加要素がわかりづらいです。父子関係に加え蓮の成長も描こうとしてますので尺を考えればギリギリ、劇場版の宿命とはいえ、多くを観客の解釈に委ねてます。


じゃあ自分はどうだったかというと、、、普通におもしろかったです。
ただもうちょい脚本はわかりやすく出来なかったかと注文はあります。
テーマは普遍的なものを扱ってますので、その一点突破で感動するかもしれない佳作と良作の中間と言っていいでしょう。


熊徹はいい味出してました。大正生まれか昭和一桁世代の佇まいです。イメージは星一徹(大正)か銭形のとっつぁん(昭和一桁)あたりでしょうか。頑固親父かと思いきや猪王山から子供のようと指摘されてる通り、がきんちょのようでもあります。このへんのイメージはLEONっぽい気もします。子供(っぽい大人)と子供の組み合わせもなんとなくLEON。


なにかと評判の悪いリアル俳優が声優を務める劇場作品の例に漏れず、本作もそうなのですが、全く違和感のない方がお一人いたと思います。
うさぎの宗師さま役津川雅彦さんです。 
{netabare}「お前という奴は迷いなど微塵もない眼をしおってぇ」{/netabare}
合掌…


細田作品のおおかみこどもの雨と雪では母子の愛を、本作では父子の愛ということになるんでしょうが、なかなか難しいのかもしれませんね。母と子の組み合わせが物語を作りやすいのかもしれません。であれば父と子の関係を扱った本作は意欲作ということでいいんだと思います。

{netabare}「君は俺と同じだよ。バケモノに育てられたバケモノの子だ」{/netabare}
蓮が初めて言葉にして父親と認めた瞬間、親父冥利に尽きるなと感じた瞬間でした。目の前で言われるかいなくなってから言われるか、男にとってはどうでもいいことかも。
多少のご都合展開は目を瞑って親父の自分が自己投影できたので評価が甘くなったことは認めよう(笑)


ちょっと気になったところはネタバレで隠します。

■白鯨の処理
{netabare}蓮と楓を繋いだメルヴィル著の『白鯨』。たしか船長さんが船もろとも鯨と運命を共にした話だったことは覚えていて、本編では一郎太が鯨に化けたあたりから嫌な予感しかしなかったのですが。。。
{/netabare}

以下ほぼ私見かつ妄想です。

■楓の役割って
{netabare}主人公と同年代の女の子だからといってヒロインではありません。九太が蓮に、彼が人間界に戻るための触媒と思えばたぶんすっきりします。
序盤、多々良と百秋坊が触媒となって蓮と熊徹を結びます。楓はもともと蓮が持っていた好奇心を現実世界に落とし込む存在として役割を果たします。
途中から出てきたのもあって恋愛要素を前面に出すと話がぼやけるため、あのくらいの按配で良かったことでしょう。{/netabare}

■女よ、GOMEN
{netabare}虎徹への弟子入り直後、剣士としての成長きっかけとなったのは母の幻影「なりきる。なったつもりで」の一言。宗師さま巡りを経て『大事なことは自分で見つける』と気づきがありました。これまで他人のせい、自分の殻に閉じこもっていた蓮が一皮むけるために母は必要でした。
楓もそう。8年ぶりに人間界に戻ってきた蓮は楓がいなければ路頭に迷って野垂れ死にしてたかもしれません。一郎太とのバトルでも早まって差し違えて終わってたかも。
父子愛がテーマの作品で、といいつつも結局女がいなければ何もできないのが男だったりするような。こうゆうこと言うのは女性に言わせれば男の甘えだそうです。{/netabare}



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2019.01.19追記
《配点を修正》


「おおかみこどもの雨と雪」で母子の愛、本作は父子の愛。
私は昭和の人間なので、父と子ってペラペラ話し合う印象が薄く、その延長線上、エンタメとして成立しづらいのでは?と邪推。
「クレイマークレイマー」のようなのも良いが、頑固一徹親父とその息子の物語をこの時代にこそ観たいとぞ思う。そういう意味で本作は及第点です。

投稿 : 2024/07/06
♥ : 40
ネタバレ

ろき夫 さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

ぼくはケモノもオッサンもすきなので熊鉄のこと可愛いとおもいました(まる)

月曜メンズデーの夜に行きましたが客の少なさにビビりました。
3週連続細田作品地上波放送で、宣伝にも力入ってるのに……。
先が不安になりましたが、平日の夜だし、単に山形がアニメ過疎地ということ、なんですかね。

ケモナー細田の真骨頂!!
バケモノの造形が可愛らしく、現代的です。
どっちかというと人間に近い。もののけ姫のそれとは大違いです。
まさしくケモナーが好む、ケモナーのための映画といっていいでしょう。

本作を見て一番に感じることは、広い意味で男の子が好きそうな映画だな、ということ。
(話と関係ないのですが、「おとこのこ」を変換したら普通に「男の娘」というワードが真っ先に出てきたw 打ったの初めてなのに。なんという時代……)

主人公の男の子が、熊鉄というバケモノに出会うところからはじまり、ともに成長していくお話で、子供の目線、子を育てる男親の目線、どちらからも楽しめるんじゃないかと思います。
今までの細田作品では珍しいくらい激しいアクションシーンが多いのもポイントです。
個人的には、どっちの目線にも共感できたなと思います。
熊鉄の乱暴でぶっきらぼうな接し方が、自分の父親と似ているせいかもしれません。
だんだん、顔まで父親に似て見えるもんだから不思議。バケモノにもかかわらず、です。
でも、それくらいリアリティのあるキャラクターだったと思います。
熊鉄を演じた役所公司さんの演技が素晴らしかった、というのも大きいですね。
違和感なさ過ぎてエンドロールまで気が付きませんでした。
「ああ、俺の父親もこんな感じだったよな……」なんて、少し懐かし気持ちに。

先週「おおかみこども」が放送していましたが、それと比較するのも面白いですね。
熊鉄と花のキャラクター性の違いは、父親と母親の子どもへの接し方のスタンスの違い、とも言えそうです。
本作パンフレットの細田監督インタビューでは、
「最近、うちに男の子が生まれまして。父親として何ができるかなって、考えたんです。」
と、綴られており、作品には男親としての理想がやはり込められているんだな、と感じました。
確かに、父親だったら男の子が生まれたら、一緒に体を鍛えたり男としての強さを教えてあげたいって気持ちになるかもw

前作に比べると、キャラクターのセリフでメッセージ性となる部分をはっきり伝えるから分かりやすい。
その分かりやすさに徹しているぶん、想像の余地が少なく、物足りなさを若干感じるところが欠点。
なので、ふわふわした映画の余韻を好む人には不満があるかもしれません。説明不足の部分もあります。
が、それでも完成度は高く、この作品の評価はほぼ好みの問題になるんじゃないかと感じています。
お涙頂戴なくカラッとしていて、後味爽やかで笑いがある作品は個人的には大好きです。

見ているだけで高揚感を得られる、しっかりと作られた王道ファンタジー映画は本当に久しぶりです。
宮崎駿が引退したらしたで次世代の監督が良い作品を作ってくれる……。素晴らしいですね。
会社は違えどバトンは受け渡されていくものなのかな、と感慨深くさえあります。
この幸福な循環がずっと続くといいですね。


P.S. バケモノの子展行きたいです。一郎彦の帽子欲しいです(大人サイズ)。2015/7/17

【追記】
{netabare}
ひとつ気になったのは、ケモノらしさについてです。
作中、「ニオイ」に触れられませんでした。ケモノ臭いだとか、人間臭いだとか。バケモノとは言っても、獣人なんできっとケモノ臭がすると思うんです。

バケモノの子を見て後、もののけ姫が無性に見たくなって見てみると、その部分において明らかに違います。
バケモノの子に出てくるケモノたちは臭いも無ければ、見た目以外ほとんど人間と違いが無い。
文明も発達しており、異国風と思わせといて玉かけご飯を普通に食うくらい、生活にも違いが無い。
もしかしたら、生活型が日本人と同じで無臭になってしまった・・・という裏設定が(!)
なんて妄想したりw
熊とか、体臭すごいですし、ニオイの演出も加わるとより面白くなってたんじゃないかと感じました。
九太が人間界に戻ったときに、九太に染みついたケモノ臭さに楓が鼻をつまむシーンとか見たかったんですけどね(笑)
でもニオイに突っ込むと、一郎彦の正体がすぐばれてしまい話がややこしくなるから、なんて事情が見え隠れするのであえて入れなかったのかなー、なんて勘ぐったりしてw

仮に、ニオイがあったら熊鉄のオヤジらしさに、より一層リアルさがあったのかもしれない。
一方で、ニオイなど生臭い要素をなくしたことが、マスコット的な愛らしいオヤジキャラの演出に一役買っているんだろうなとも思うので、結局この作品には「無臭」のバケモノが正解だったんでしょうね。
熊鉄のことを「可愛い」と感じる背景に、実はニオイも深く関係してるんじゃないかと、一人納得しましたw
{/netabare}

投稿 : 2024/07/06
♥ : 9

80.7 8 オリジナルアニメーションで泣けるなアニメランキング8位
コードギアス 復活のルルーシュ(アニメ映画)

2019年2月9日
★★★★☆ 4.0 (396)
2260人が棚に入れました
光和2年。世界は再編成された超合集国を中心にまとまり、平和な日々を謳歌していた。しかし、平和は突如として終わりを告げる。仮面の男・ゼロとして、ナナリーの難民キャンプ慰問に同行したスザクが謎のナイトメアフレームに敗れ、2人は連れ去られてしまった。シュナイゼルの密命を受け、戦士の国・ジルクスタン王国に潜入したカレン、ロイド、咲世子はそこで、謎のギアスユーザーに襲われる。そして、その場には襲撃者に“元嚮主様"と呼ばれる、C.C.が居た。かつて神聖ブリタニア帝国の大軍すらも打ち破った無敵の王国を舞台に、人々が描く願いは、希望か絶望か。果たして、ギアスのことを知るジルクスタン王宮の面々と、C.C.の思惑とは——。

声優・キャラクター
ゆかな、櫻井孝宏、名塚佳織、村瀬歩、島﨑信長、高木渉
ネタバレ

カネくれたら教える さんの感想・評価

★☆☆☆☆ 1.0

一もつけたくない本気でクソ悲しすぎる

正直悲しみを通り越して怒りしかない、、
まず内容もペラッペラのじゅうたん並みに薄い
おかしいところが幾度もある
特に酷いのが、{netabare}シャルルのコードを受け継いだとかなんとか、なのにギアスが使えるのはおかしい、と言われていたところをなんの根拠もなしになんらかの不具合みたいな感じで丸め込み、みてるこっちからすると(は?)ただそれだけ、これが1番ひどかったみんなが1番知りたかった謎だと思うのだが、ただルルーシュが不老不死のギアス使えるチートキャラになっただけ。
2つ目時間戻したのにC.C.がギアス効かなくてルルーシュがギアス効くのも謎
しかも最初時間戻したときccの記憶は残っているはずなのだからギアスの能力をルルーシュに教えればそれでサクッと終わってないか?
世界の時間を巻き戻すんじゃなくて自分の意識だけを過去(6時間以内)ってのも考えたがそれだとまた違う矛盾がうまれる、C.C.が1つづつ選択してくって作戦も出来ない訳だし、他にも色々
3つ目そもそもルルーシュが築いた平和を!とか言って
テロリストと侵入させる警備性も意味不明スザクやら他の奴らに耳に入ってないのも
スザクがやられる理由はわかるが、他の機体が一体もないとか何考えてんのって感じ、どっかのピーチ姫かと思ったよ笑
4つ目俺がバカだからなのかもしれないがcの世界の話やらルルーシュの作戦とかが全く意味不明だった
5つ目ルルーシュをそもそも復活させる必要自体あったのかも謎 軍隊としては圧倒的に最強なわけだしシュナイゼルがいれば百パー勝てたギアスの存在自体も知ってるわけだし、ルルーシュを復活させたいのはわかるけども、、、 {/netabare}
特に謎なのはなぜこんなに評価がいいのか
普通にみて内容をしっかり理解していてコードギアスが本当に好きな人ならばこそ絶対いい評価にはならないはず。俺だけじゃないよね?
皆んな仲良くccイチャイチャ、ファンサービスの映画だとしてもこれはファンサービスではない本当のファンはこんなの求めているはずがないと僕は思う。
これでいい点数をつけている人は、すみませんが正気とは思えない。ccはもちろん半端じゃなく好きですよ!
他にも色々あると思う自分が特に気になった点を挙げました感情的ではありますが、
他にも 、
あまりにもキャラ一人一人の扱いが雑すぎる
臨場感やら何やら何もない、後半で悲しすぎて無心なっていたからかもしれない(個人的に)
まず復活のルルーシュを1つの映画だけで終わらそうってのが間違ってる、
本当はこんな評価もコメントも打ちたくないです。
コードギアスは映画版とアニメ版、完全に別物ってことに僕の中でしておきます。そうでなければ気が狂いそうだ、なので僕の中ではやはり反逆のルルーシュのみこそが神アニメですよ、あはは
ただこれだけは言わせてください曲は神、最初の3分だけは楽しめたかもしれない家入レオさんありがとう。あとccかわいいこれは間違いない。
アニメ版コードギアスは本当に好きだからこそのコメントです。

投稿 : 2024/07/06
♥ : 11

「ひろ。」 さんの感想・評価

★★★☆☆ 2.4

なんですか?、これは・・。

なんですか?、これは・・。

「拾え」と言われた気分です・・><。

・・視聴者に都合のよい世界を。


視聴者が”ルルーシュを失った寂しさ”から逃れられる世界。

これではルルーシュが否定した”シャルルの世界”と大差ないのでは??。


もしくは”未来予想図の見れる「視聴者のための改良型リフレイン」”なのかもしれません。。


いずれにせよ”かりそめ”・・??。

いや、”まがいもの”の間違いでは?。


-------------------------------------------
とはいえ、せっかくの機会ですので

本作こと「視聴者のための改良型リフレイン」にはしばし楽しませていただきました^^。


どうしてもTV版本編(R1・R2)への思い入れが強すぎるため

場面によっては涙してしまうことも・・。。


・・・(うるうる)。。。


-------------------------------------------
ハイ。結論としては

ピクチャードラマやサウンドエピソードのうちの1作品として捉えるならば高評価!。

本編再構築版の正式続編として捉えるならば、超超低評価・・・といったところが本音です><。


とにかく、制作陣の方々からの作品愛が、とにかく感じられません・・・><。

”金のなる木”優先感が強すぎます・・(個人的感想です)。


とにかく、R1・R2から時間が経ちすぎ・・・・。

せっかく同じ声優さんが続投されてるキャラでも

「おまえ、誰!?」

と感じてしまう場面が多々・・・(キャラデザ劣化もあいまって・・)。

(演技とキャラを忘れてしまってる?・・というかもう再現できない??)



あと、本作での敵対勢力の多くの新キャラに対して、魅力を感じることができませんでした・・。


ギア〇設定をまた持ち出したのにも、若干、いや過分に閉口です・・。

ギア〇って、もう少し制限条件が厳しかったり限られてなかったりしてなかったですか??。


なんか、某なろう作品リゼロのような能力になってくると

もはやギアスの域を超えてしまってるのでは・・・??(ただの超常能力じゃんw)。


-------------------------------------------
本作を観終えての現在の率直な欲求としましては・・

「ピクチャードラマやサウンドエピソードをもっかい1から全部見たい!!!」・・・です♪。



音だけで映像の想像力をかきたててくれたあの作品群にはホント脱帽です!!!!!。


やはり当時の、艶と勢いのある演技で耳を幸せにしてくれたあのサウンド作品群の世界観に

再度没入させてもらいたいと思っています!!!(最高のリフレインなのかも?)。

投稿 : 2024/07/06
♥ : 12

ひとりよねり さんの感想・評価

★★★★★ 4.1

待ち望んだ復活のレクイエム......これは、蛇足か否か

どうも、にわかアニオタです。
ついに来ましたよ、「ルルーシュ劇場~復活のレクイエム~」。
公開前日にセブンイレブンで前売り券を買い、空きのスケジュールを埋める形で今日観に行って参りました。一期二期は全部観てませんが(一期の10話辺りまで)情報はWikipediaで確認したうえで、視聴に踏み切りました。いやあ、受験生になる前に良き時間を過ごしたな。あ、僕ちんの年齢アッ...(察し)

さて、前置きはここまでとしてここからは重要なネタバレなしで、この作品のレビューとします。








【ストーリー】
悩みに悩みましたが、★4.0。
蛇足か否かと言われれば、十分納得のギアスらしい完結編であったと思います。ファンなら観るべき。そもそもルルーシュ、●●ですし。ああして動いてくれないと駄目ですわ。前半★3.0、後半★4.3って感じ?

まず序盤からもうギアス劇場。スピーディーな展開でしたが、やや難解な設定や伏線が色々と散りばめられておりややダレていました。死んだはずのルルーシュ君も前触れなくあっさり登場しますが、どうやって出てくるかはお楽しみ。C.C.、何が目的なのかも注目すべしべし。
で、中盤からは大きなネタバレになるので避けますが、シーンの切り替わりが更に早くなります。ギアスお得意のどんでん返しが此処に来て始まります。
そして終盤。ほぼ全キャラオールスター出演。様々な場面で(視点が多く分かれている)多くのどんでん返しが始まります。しかしラスボスはあっさりとやられました。ルルーシュの扱いが少し雑だったのもあってか、他のキャラが掘り下げられていたのは好印象でした。
ちなみに、ちょっとだけ登場しましたが、ルルーシュの●●である●●●●ちゃんは●●だったのは劇場三部作観てお察し下さい。生徒会のメンバーとか言っちゃうとアアン●●でカクシタイミガナイ~
ただ一つ欠点として言いたいのは、ルルーシュとその周りの絡みをもうちょっと増やして欲しかったなあってとこ。

【作画】
劇場版になってグラフィック化けるかと思いきや、そうでもなかったんで少し残念。それでも安定感はあったのと好みの問題で★4.0。

【声優】
ベテランさんが多く起用されている事もあって、相変わらず演技は圧巻の一言。やはり声優、キャラの心の僅かな動揺を感じとっていらっしゃる。★4.5。

【音楽】
OPEDはそこそこだったが、BGMは相変わらずのギアスで本当に良かった。★4.0。

【キャラ】
★4.0。
今回キャラの使い回しが上手い。ルルーシュは若干扱いが雑になってる感は否めないが、その分キャラバランスが安定していてオドローキモモノ~キ。






【総評】
情報量の多さとテンポの早さ、そして無理やりに詰め込んだ所もあるが、最後までギアスらしくあり続けた良作。観る価値は十分ある。

投稿 : 2024/07/06
♥ : 2
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