yapix 塩麹塩美 さんの感想・評価
3.7
物語 : 4.0
作画 : 3.5
声優 : 4.0
音楽 : 3.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
狸に生まれても結構大変みたいです。
これは愛に貫かれた作品である。
家族の愛
男女の愛
師弟の愛
異種間の愛
一方通行の愛
兄弟の愛
様々な愛がもう一つの京都を舞台に交錯する。
もう一つの京都、我々の知る京都、私が青春の四年間を過ごした京都とは少し異なる京都。人間とともに、人に紛れて天狗と狸が闊歩する京都。そんな京都で繰り広げられる人間以上に人間臭い狸社会の騒動を中心として物語の車輪はぐるぐる回る。
下鴨総一郎の突然の死を境に始まった狸社会の混乱。その収束に向けていよいよ行われる「偽右衛門」選挙。選挙の過程で明るみになる下鴨総一郎の死の真相・・・
その真相の裏には、様々な形の愛が憎が交錯していた。
自らの愛の大きさ故に、偏狭な卑小な愛を理解することが出来なかった下鴨総一郎。それ故に起こってしまった悲劇。だがこの悲劇の被害者は誰なのであろう?残された家族?それは間違いない。下鴨総一郎?いや、彼ではない。真の被害者は加害者の・・・・である。
「面白きことは良きことなり」
この作品の全編を通じて問われ続けている信条である。刹那的な退廃的な意味ではなく、積極的に今を楽しむ姿勢、なんでも面白がってみる楽観的な好奇心、そうやって人生を歩むことによって得られる境地、その境地に達した者だけが覗くことができる世界、そこの住人となっていた下鴨総一郎にとって死は、受け入れ難い凶事ではなかった。だからこそ彼にとっては悲劇ではなかった。
我々人間こそが問われている。
「面白きことは良きことなり」
と笑いながら運命を受け入れることができるのかと。
愛と食についての考察(性的表現・倫理にもとる表現を含みます。その点に注意して閲覧してください。)
{netabare}布袋の「食べるということは愛するということである」
弁天の「食べちゃいたいほど好きなんだもの」
この二つの言葉は、この作品の本道のテーマではないが、重要な位置を占める隠れたテーマではないかと思う。
「食べる」ということは、本質的には、生命維持に絶対不可欠な本能に属する行為である。
「愛する」ということは、地球上においては人類(とこれに近い感情・知能を持ったごく一部の生物)のみが有する心の作用である。
この心の作用「愛する」が外に向かって表出されること、具体的な行動として目に見える形で現出されること、これを「愛の行為」と呼ぶ。では、「愛の行為」とはなんであろうか。それは、言葉であることも、スキンシップであることもあるであろう。が、愛の行為として、特に男女間(同性間でも別にかまわないが)においては、性行為=セックスを例に挙げるのが最も解りやすいのではないだろうか。愛の行為としてのセックスは、究極的には、愛の対象との合一ないしは一体化を目的とする行為である。この行為のクライマックスにおいて肉体も精神も溶け合い真に一つの存在となる。これが愛の行為としてのセックスの意味である。
「愛の行為」としての「食べる」とは何を意味するのであろうか?「食べる」という行為は、対象物を口から摂取し己が体内に摂り込み自らの血肉とすることである。この行為を愛をもって行う、愛をもって自らの血肉とするということは、ある意味、合一であり一体化である。「食べる」側からの一方的な合一・一体化、完全に押し付けの愛ではあるが、これも一つの愛なのかもしれない。もし、食べられる側でも、食べられることを望むのであれば、こういった形での合一・一体化を甘受する、あるいは、こういった形でしか合一・一体化を成し得ないのであれば、これは、相思相愛の愛の行為と成り得るのかもしれない。
弁天は、一方的な形で下鴨総一郎への愛を果たしたのではないか。
布袋は、母(下鴨総一郎の妻)への一方的な愛を放棄する道を選んだのではないか。
そして、いつか、弁天と矢三郎は相思相愛の愛の行為として「食べる」「食べられる」のではないか。 {/netabare}