セレナーデ さんの感想・評価
3.3
物語 : 3.0
作画 : 4.0
声優 : 3.5
音楽 : 3.0
キャラ : 3.0
状態:観終わった
野原ひろしがかつてないほど稚拙な人物に見えるラスト
うーん。もうちょっと考えて作ってくれてもよかったんじゃないかという気がします。
目に付いたポイントを挙げだしたらキリがないけど、特に気になったのはロボひろしと生ひろしとのパーソナリティの齟齬。これは、かなり致命的ではなかったかなと。
ロボひろしは人格のコピーで誕生しているわけです。つまり、ロボひろしと生ひろしは、同程度の心、考え方、配慮を持っているはず。そして、両者はお互いが同じ人格を持っていることを認識していました。
でもって終盤、ロボひろしが披露した配慮は破格でした。生ひろしと対峙し、しんのすけの父の座を賭けた勝負に敗れたものの、潔く身を引き、父親・家長の座を譲っています。実質、家族のために、自決の道、家族との別れを選んだとも取れる姿勢を見事に実演してみせたわけです。
しかし生ひろしの見せる態度は極めて単純。本物の野原ひろしはオレだ、しんのすけの父親はオレだ、オマエは偽者だあっちいけ、の一点張り。ロボひろしを負かすことはひとりの人間の居場所を奪うことと同義だと少し想像力を働かせれば分かるはずなのに、ロボひろしは排他すべき存在で、自分こそしんのすけの父親にふさわしい存在であるという態度をカタクナに貫いています。
人格のコピーで誕生したロボひろしがあのような心遣いを発揮できていたのに、なぜオリジナルであるひろしがロボひろしと同等か匹敵の繊細さを発揮できないのか。
もし、体験した時間のわずかな違いによってロボひろしと生ひろしとの人格に差異が生まれた、ということであれば、整合性だけは取り繕えると思いますが、それはそれで、ひろしのもともとの人格が、ひとりの人間の居場所を奪うことに何のためらいもやり切れぬ思いもなく対峙できるほど稚拙であったことの証明になってしまいます。
野原ひろしがかつてないほど稚拙な人物に見えてしまったラストになって、あぁ、この作品は「野原ひろしがロボになる」という話題性だけで集客を見込んだ作品だったのだな、と。もうちょっとがんばってシナリオを練り上げてくれても、よかったんじゃないの、という気持ちになってしまいました。
作品トータル的にも、近年の劇場版クレしん作品らしいイマイチ爽快感に欠ける印象。「ラストは感動へもっていきたい」という意欲はぼんやり伝わってくるのですが、そこへたどり着くまでのコンテクストに芯が通っておらず、カタルシスを感じるには至れません。保護者狙い撃ちのギャグもところどころ上滑り。
総じて製作側の技術と意欲が不足した凡作、というのがわたくしの評価です。すいません。
しかし、父親でない私がこの作品をとがめる権利は希薄なのだろうし、「なんのこれしきパンはピロシキ」で笑ってしまった私に、本作の笑いに文句をつける資格はないのでしょう。