ufotableで戦闘なおすすめアニメランキング 4

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76.7 1 ufotableで戦闘なアニメランキング1位
空の境界 第一章 俯瞰風景[フカンフウケイ](アニメ映画)

2007年12月1日
★★★★★ 4.1 (1106)
6359人が棚に入れました
落下する少女の夢、俯瞰を断つ直死の眼 連続する少女たちの飛び降り自殺。現場はすべて、かつては街のシンボルタワー、今では廃墟と化した巫条ビル。屋上には浮遊する「霧絵」がいた…。\nそして事件が5件を数えた頃、万物の生の綻びと死線を視る能力「直死の魔眼」を持つ両儀式が謎に挑む。

声優・キャラクター
坂本真綾、鈴村健一、本田貴子、藤村歩、田中理恵
ネタバレ

てけ さんの感想・評価

★★★★★ 4.4

圧倒的なクオリティの映像と音楽で描くポエム

原作未読。
全8章からなる物語の1章目。約50分。

まずは「空の境界(からのきょうかい)」シリーズに共通することを紹介します。

圧倒的な映像美と、ダイナミックな動き。
映画的なカメラワークが使われ、画面全体に立体感が溢れています。

その中に隠れる、独特な色使い。
蒼に対する橙、赤に対する緑。
色で言うと正反対、補色関係にある光の使い方が特徴。

この表現は「相反する二つのもの」というメッセージを表しています。
これに加えて「生と死」「殺人」という非日常なテーマを扱っている作品です。

そして、バトルシーンもありますが、どれも圧巻。
作画・演出を担当しているのは、Fate/Zeroを作ったufotable。
その会社が、映画用に力の入ったクオリティで描いています。

また、梶浦由記が作曲し、Kalafinaが歌うエンディングテーマはどれも素晴らしく、内容にも深くリンクしています。
まったくハズレがないと言ってもいいほどです。

キャラクターたちも魅力的です。
メインキャラクターは以下。

・両儀式(りょうぎしき)
・黒桐幹也(こくとうみきや)
・黒桐鮮花(こくとうあざか)
・蒼崎橙子(あおざきとうこ)

この名前にも実は意味があるのですが、それは内容を追っていくと分かってきます。


なお、「空の境界」は、時系列が特殊です。

正しい時系列では、
2章→4章→3章→1章→5章→6章→7章→8章

詳しくは、
{netabare}
2章(1995年9月)
4章(1998年6月)
3章(1998年7月)
1章(1998年9月)
5章(1998年11月)
6章(1999年1月)
7章(1999年2月)
8章(1999年3月)
{/netabare}

そのため、1章だけを観ても状況が掴めません。
それに加えて、難解で抽象的なストーリーや台詞。
同じ言葉をさまざまな別の言葉で言い換えていたり、辞書に載っている意味とは違う意味で用いたりしています。
一つ一つ紐解いていく必要がある、「言葉のあやとり」のような会話です。

また、その映像美がある意味「壁」を作っています。
「死」や「殺人」を扱っているため、死体や血しぶきの表現がリアルで、グロテスクです。
苦手な人には辛いかもしれません。

この1章が、このシリーズ全体を観られるかどうかの「境界線」になっていると思います。
その境界線をまたぐことができたなら、終章まで楽しめると思います。


ここからは考察です。

俯瞰風景 → ココ
殺人考察(前) → http://www.anikore.jp/review/450923/
痛覚残留 → http://www.anikore.jp/review/452086/
伽藍の洞 → http://www.anikore.jp/review/452849/
矛盾螺旋 → http://www.anikore.jp/review/456943/
忘却録音 → http://www.anikore.jp/review/466298/
殺人考察(後) → http://www.anikore.jp/review/491929/
空の境界 → http://www.anikore.jp/review/491992/


【1章「俯瞰風景」の考察】
{netabare}
1998年9月の話。

EDテーマは「oblivious」
「~に気付かないで」という意味。


「狭い空間」とは「現実」を表しており、「広い空間」とは「理想」を表しています。

「俯瞰」、つまり、客観的な視点で見たときに、理想と現実の間の距離を感じてしまう。
それが「遠い」という感情を呼び起こし、「逃げ出したい」という気持ちに繋がっていきます。

ビルから投身自殺した少女たち。
橙子「彼女たちは、本当は死ぬつもりはなかった」
「逃走」していた彼女たち。
「浮遊」していたが、暗示をかけられ「境界」を乗り越えて、「飛行」という手段を選んでしまった。

では、「逃走」「浮遊」「飛行」とは何か?

式「地に足が付いていない。飛んでいるのか?浮いているのか?」
橙子「逃走には2種類ある」
幹也「トンボを追いかける蝶々の夢を見た」

この3つのセリフにヒントが隠されています。
「逃走」は2つに分けられます。

1つは「浮遊」
・目的のない逃走
・永久に続けなければいけない勇気

浮遊するように羽ばたく蝶々に例えられています。
目の前の辛い現実から目を背けず、現状に耐え続けること。


もう1つは「飛行」
・目的のある逃走
・一時の勇気

トンボを一生懸命に追いかける蝶々に例えられています。
自分の弱さに耐えきれなくなったとき、人は「飛行」を選ぶ。
つまり「死」という、幹也に言わせれば「極論だけど甘え。けれど、否定できないし、反論もできない」選択肢です。
トンボを追いかけた蝶々がやがて力尽き、地上に墜落してしまうように。

これには、
トンボ=黒桐幹也
蝶々=巫条霧絵
という現実の関係を表す、もう1つの意味も含まれています。

橙子「我々は、背負った罪によって道を選ぶのではなく、選んだ道によって罪を背負うべきだ」
橙子はそう言いましたが、巫条霧絵は、自らの罪に耐えきれず、また、1度経験した「死」に魅了されたこともあり、ビルからの飛び降り自殺という「飛行」を選びました。

空(そら)に浮かぶ、空(そら)を飛ぶ、その2つの境界線。
それを上から眺めた俯瞰風景を知ってしまったがゆえの行動。

「飛行」という方法に気付かなければ、選ばなかったはずなのに……。


なぜこのようなことになったのかは、後の章で分かってきます。
{/netabare}

投稿 : 2024/11/09
♥ : 56
ネタバレ

入杵(イリキ) さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

空の境界の序章 空の境界の作風を実感! 俯瞰の視界、浮遊と飛行とは・・・

「空の境界」は奈須きのこによる、同人誌に掲載された長編伝奇小説である。全7章で構成され、本作は第一章「俯瞰風景」が映像化された。「そらのきょうかい」でも「くうのきょうかい」でもなく、「からのきょうかい」なのでお間違えの無い様に。略称は「らっきょ」。

「空の境界」は奈須きのこの小説だが、奈須きのこと武内崇の所属する同人サークル(現在は有限会社Noteのブランド)「TYPE MOON」の作品に「月姫」、「Fateシリーズ」などがあり、「空の境界」と世界観を共有している。奈須氏によると「微妙にズレた平行世界」とのこと。

劇場版「空の境界」は圧倒的な映像美、迫力満点の戦闘シーンと、難解且つ素晴らしい世界観を、原作小説を忠実に再現し映像化したufotableの力作である。
本作のメインテーマは「境界」である。相反する二つのものに関するメッセージが緻密に組み込まれている。
その各々に対する矛盾もまたテーマの一つだ。
奈須氏の命の重さ、禁忌を主題とした本作の完成度には脱帽するばかりである。
「生」と「死」、「殺人」と「殺戮」などについて考察するわけだが、テーマがこれであるから必然的にグロテスクな描写がある(しかも美しかったり)。
また、難解な言葉(辞書的意味では用いない)や、時系列のシャッフルにより、物語の理解はやや困難である。
しかし、この時系列シャッフルこそが「ミステリ」における叙述トッリクとして作用しているのである。
決して時系列の通りに見てはいけない(2度目からはご自由に)他にも、原作にはなかった「色分け」が行われている点も魅力的だ。式の服の色や、月の色なども見てみると楽しい。
全7章に渡って展開される両義式と黒桐幹也の関係も素晴らしい。
設定はここで説明するとつまらないので、作品を視聴することをお勧めしたい(丸投げであるが(笑))
副題のThe Garden of sinnersは直訳すると「罪人の庭」と言う意味。sinには(宗教・道徳上の)罪という意味があり、guiltの(法律上の)罪とは区別される。
Theの次のGardenが大文字であることから、これはギリシアの人生の目的を心の平静(アタラクシア)に見出した精神快楽主義のエピクロス学派を意味する。よってThe Garden of sinnersは快楽主義に溺れた道徳的罪人という意訳が適切ではないか。



第一章の本作は「空の境界」の時系列で、全7章のうち4番目にあたる作品だ。本作の視聴だけでは、物語の全体像はおろか基本設定すら見えてこない。なぜならこの第一章は、奈須作品を視聴する視聴者の「ふるい」としての機能を有しているからである。その為、独特の世界観・台詞回し・時間軸を十二分に表現した作品に仕上がっている。よって一章を視聴して視聴を断念する方もいることだろう。しかし、私は五章の矛盾螺旋が一番好きなので、一章で断念されるのは残念。
副題のThanatosについて、Thanatoは精神医学用語で死亡恐怖症という意味。

考察←観る前に見ない様に。
{netabare}

時系列:4/8
1998年9月
両儀式:18歳 職業:高校生(サボりがち)
黒桐幹也:18歳 職業:大学中退 伽藍の堂に勤務

原作との相違:中(原作の補填による尺の増量が主)
原作との尺の比 73P:50min=1:1(1分当たり1.46P)
(一番原作との尺の長さの比が合致していると判断される2章の比を基準:1とする)
(原作の頁数は講談社文庫を用いる)

・「俯瞰」について
私達の認識出来る世界は肌で感じ取れる程度のものでしかなく、人間は自身の周りにあるものでしか安心出来ない。地図で自分の位置を知っていても、それは単なる知識に過ぎない。
高所から世界を俯瞰したとき、自身は狭い世界しか認識できないが、実際は狭い世界は、俯瞰の視界から展望出来る広い世界の一部である。
この時に、認識の内に、世界の隔たりが出来、ズレが生じて、「遠い」という衝動(突然襲い掛かる暴力のような認識)を得る。
自分が体感できる狭い世界より、自分が見ている広い世界のほうを「住んでいる世界」と認識することが出来ず、知識としての理性と経験としての実感が摩擦し、意識の混乱が起こる。しかしそれは一時的なもので、まともな認識のプロテクト(理性や知識)があれば、無意識下で制御出来て、地上に戻れば正常に戻る。だが不安定な状態にあるとき、意識の混乱から逃げ出したいという気持ち(或いは世界の同一性を実感する為に落ちてみたいという気持ち)へ向かってしまうのだ。(谷に行って底を覗きたくなる感じにも共通する意識かもしれない)

橙子「視界とは眼球が捉える映像でなく、脳が理解する映像だ。私達の視界は私達の常識によって守られているから・・・」
という台詞は、カントの認識論を彷彿させた。
認識は感性(受動的な知覚を担う)と悟性(感性と共同して認識を行う。概念把握)のア・プリオリ(経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念)により成り立つ、という哲学である。
眼球が捉えた映像は、私達の脳内で、常識に合致した「モノ」として認識される(常識に合致しないモノは、お化けや幽霊などの怪奇現象として処理されたりする)。

「俯瞰」については情報化社会のメタファーと認識すると分かり易い。
私は震度6強の地震を経験し、被災者として日々を送ったことがある。自身の周りも被災し、認識出来る世界で災害が起こった。しかし、2011年の東日本大震災での津波の映像を見たとき、私はそれが現実に起こっているんだと知識ではわかっているものの、それを実感することは不可能であった。
「遠い」東北の地で起こったことを自分の住む世界と同じ世界であると認識することは困難だ。そこで無意識下で自身の住む世界と被災地を別の世界と認識してしまうのだ。

・「浮遊と飛行」について
自身と世界、理想と現実のズレを認識した人間は、その乖離に苦悩し、生きる目的を失ったときに、それから逃れようとする。これが「逃走」だ。
浮遊と飛行は「逃走」するための手段である。
目的のない逃走を浮遊、目的のある逃走を飛行と呼ぶ。
「浮遊」(例え:羽ばたかない蝶)は、自己の現在置かれた不遇の状態を甘んじて受け入れ、受動的であることである。
今回の霧絵の場合は、理想と現実の乖離に耐え、生きる目的も無いままに、受動的に死を受け入れることである(詰まるところ、自然死、病死)。
此れには、生きる目的が無いにも関わらず、死ぬまで生きるという無意味さを受け入れる勇気、死ぬまでの毎日を生き抜き、刻一刻と迫る死を待つ勇気が必要だ。
「飛行」(例え:羽ばたく蝶)は、自己の現在置かれた不遇の状態を打破する、或いは暫定的に打ち消す(紛らわせる)、或いは解放される為に、”能動的”であることである。
今回の霧絵の場合は、その乖離に耐えず、生きる目的が無いから、能動的に死を受け入れる。(詰まるところ、自殺(しかも他人に自己の死を強調))
人間は、無意識下で、日々のストレスから逃れる為に、夢を介して、この飛行を行っている場合があるらしい(夢とは欲求の捌け口である為)。

「飛行」による自殺について、幹也曰く「極論だけど甘えなんだと思う。当事者にはどうしようもなく逃げたい時もあるだろう。それは否定できないし、反論もできない。だって僕も弱い人間だから」。


・なぜ彼女ら8人の自殺が「事故」と表現出来るのかについて
巫条霧絵は手に入れた霊体で、自分と同じように逃避行動をしている仲間を見つけて、友達になろうとした。「生きる目的」や「生の実感」がきちんと有るものの、夢の中で「飛行」(前項参照)をしていた少女は、霊体の巫条霧絵に介入され、夢の中の無意識下の飛行を、霧絵の能力である強い「暗示」に依って意識するに至った。
彼女達は夢の中だからこそ、飛行出来て、尚且つ、無意識下の為、自身が飛行出来たことには気付かない。しかし、一端意識してしまうと、理性が利かなくなるほどの強い衝動を得てしまうのだ。自分は現実に飛行出来たのだから、当然次も飛行出来る筈だと。
ここでの飛行には、逃避行動に於ける「飛行」と、俯瞰の視界から展望する世界を自己の居住する世界と同一視する為の飛行という二つの意味が含まれているのではないか。
そして、彼女達は、霧絵と同質の存在(つまり霊体)となった。
巫条ビルは時空が捻れており、本来死んでいない少女の幽霊も確認出来た。これは巫条ビルの上空は、巫条霧絵の現出した俯瞰風景の内部だからだろう。少女達は霧絵の暗示により精神に異常を来たし(具体的には、現実に人間単体での飛行(=能動的な現実逃避)が可能であるという脅迫のような逃れられない衝動)少女達は自己の意思とは表現出来ない自殺をすることになった。
よって、彼女達は夢の下での「飛行」中に精神に干渉され、「ボディジャック」状態で自殺したことになる。よってこれは彼女達の意志による故意の自殺に該当しない。より事故と表現出来る。


・黒桐幹也が寝ていた理由について
幹也は独自に一連の自殺を調査しており、結果として霧絵にたどり着いた。しかし、霧絵の幹也を死ぬまでの付き添いとしたい、「浮遊」から逃れる手段として、彼が欲しいという強い想い(暗示)から、昏睡状態に陥ってしまう。式が固定電話に録音された幹也のメッセージを恋しがっていたことや、ふいに巫条ビルに赴き、落下してきた少女に「幹也!」と叫んだのも、幹也が霧絵に魅入られた少女の様に「飛行」、つまり霧絵の下で自殺したものと勘違いした為である。橙子の延命努力により数週間昏睡していながら、リハビリもせずに復活した。


・式が巫条ビルに駆けて行って自殺した少女に「黒桐」と叫んだ理由について
前項での説明通り、幹也は霧絵による昏睡状態に陥っていた。自殺した少女は霧絵の暗示によって意識下での飛行が可能であるとの強迫観念より跳んでおり、また、これは霧絵の人恋しさによるものである為、黒桐も同様に跳ぶ可能性があった。式は電話で幹也の声を聴き、胸騒ぎがして巫条ビルに赴いた為、少女を黒桐と勘違いした。


・式の義手について
式の義手については第三章痛覚残留で明らかになり、何故式が巫条ビルの幽霊に操られた義手を止められたのかは、第四章伽藍の洞で分かる。式がビルからの跳躍の後に、片手で着地出来たのもこの義手のお陰であり、式の義手は霊体を掴むことが出来るので、巫条ビルの幽霊の首を掴むことが出来た。


・巫条霧絵の俯瞰風景について
巫条霧絵は{netabare}荒耶宗蓮によって{/netabare}、病院の外が見晴らせる階の窓のある病室で、家族も居らず、一人で何年間も、不治の病によって不自由な生活を強いられていた。彼女は病室から展望出来る外の世界をずっと憎んでいた。自分は不自由なのと対照的に外の世界の住人は自由だからだ。彼女は外をずっと眺めている内に、外界への憎悪と羨望による呪詛から、病室周辺の風景を脳内に取り込み、同時に盲いることに依って、強力な能力を得た。
彼女の視界は空中にあり、彼女の精神・肉体が存在する器とは別に、彼女の視界の存在する場所に、荒耶宗蓮によって二つ目の器・巫条ビルの幽霊を与えられた。

空を飛ぶという行為は、空の果てを目指す行為である。空の果てには、自分が逃避しなくて住むような世界(=生の実感や生きる目的のある世界、或いは死への恐怖が無い世界)があるのかもしれない。霧絵は黒桐の首尾一貫とした揺るぎ無い人間性に憧れ、また、「生の実感」を他者に供給する人物として、空の果てに自分を導いてくれることを望んだ。
(この空自体も隠喩と解釈することも十二分に可能だ)

霧絵「わたしは生に執着していて、生きたまま飛びたかったの。彼とならそれが出来たはずだから」

霧絵「あの人、子供なのよ。いつでも空をみてる。いつでもまっすぐにしている。だからその気になれば、どこへだって飛んでいけるんだわ。そう――わたしは、彼に連れて行ってほしかった」

巫条ビルの幽霊は、巫条霧絵の二つ目の身体だったので、彼女は一度死を経験しながらも、生きながらえるに至った。病室の霧絵を見限って出来た、巫条ビルの幽霊と病室の巫条霧絵との間の境界は空(ソラ)の境界とも呼べるかもしれない。


・巫条霧絵について
{netabare}巫条霧絵の起源は「虚無」。荒耶宗蓮は両儀式と相反する能力者をつくる為、彼女に長年の夢と悪夢を同時に与え続け、「死に依存して浮遊する二重身体者」にさせたのだ。
前述の通り、式の入院していた病院に霧絵も入院していたのだが、式が橙子に会う前、橙子の前任医師は荒耶宗蓮だった。霧絵の病室の病室代や管理費は荒耶が払っており、身寄りの無くなった彼女をずっと保護していた。{/netabare}
巫条家は混血の大敵である四家系「浅神」「巫浄」「両儀」「七夜」の一つである「巫浄」の傍系であり、盲いることにより特別な力(呪詛)を手にいれる。巫浄家の人間は強力な暗示能力も持っており、暗示によって相手を支配することが出来る。式の右手が勝手に動いたのも、「堕ちろ」という暗示も、これで説明出来る。
{netabare}彼女は、両儀式、浅上藤乃と同様に起源に「虚無」を持ち、特別な家系故に、特別な力を発現した。
「陰陽太極図」で式が一つの肉体に二つの人格を持つ二重存在者なのに対し、彼女は二つの肉体に一つの人格を持つ二重身体者である。
彼女も浅上藤乃と同様に荒耶宗蓮の「根源の渦」である「 」への到達という最終目標の為に両儀式と接触する駒となった。{/netabare}
幹也(そして、僕はさっきまでの夢を思い出した。蝶は最後には墜落してしまった。彼女は、僕についてこようとしなければ、もっと優雅に飛べたのではないか。そう、浮遊するようにはばたくのなら、もっと長く飛べていたはずだ。けれど飛ぶという事をしっていた蝶は、浮遊する自身の軽さに耐えられなかった。だから飛んだ。浮くのをやめて)

黒桐が霧絵に眠らされている間に見た「ゆっくりと浮遊する蝶が一羽あり、そこに蜻蛉が現れ、蝶は蜻蛉に追いつく為に羽ばたいたが、遂には堕ちた」という夢は、身体中に腫瘍があり、余命幾ばくも無い霧絵(=蝶)が「浮遊」している所に、生きる望みである幹也(=蜻蛉)が現れて、霧絵は幹也に「気付いて欲しい」と、後を追うも、結局気付いてもらえず、「飛行」してしまったという隠喩であろう。
{netabare}尚、四章伽藍の洞で両儀式が入院していた病院に巫条霧絵も入院しており、霧絵は、式の元に何年も通い詰めていた幹也を目撃していた。{/netabare}彼女は恋人という生きる目的、死ぬまで付き添ってくれる人が居ないことを悔やみ、同時に幹也を、自分を救ってくれる人物として望むようになる。式に「落ちろ」と暗示として連呼したのは、彼女が幹也という依り所を持っていて、羨望していたからだろう。彼女は式に殺された時に感じた「生の実感」を、もう一度味わう為に、「飛行」という逃避行動を一度採ってしまったことによる開放感をもう一度味わう為に、自分が死に至らしめてしまった少女達への自責の念から逃れる為に、巫条ビルからの転落死を選択した。


・「oblivious」について
obliviousは英語で「~を忘れて」「(没頭して)~に気付かないで」という意味の形容詞。名詞はoblivionで忘却という意味。巫条霧絵をイメージして奈須きのこ監修の下、梶浦由記によって作詞・作曲された。4章を視聴すると分かるが{netabare}巫条霧絵は両儀式の入院する病院に入院していた経験があり、そこに小まめに見舞いに来ていた黒桐幹也と出会うのである。{/netabare}「本当は空を飛べると知っていたから 羽ばたくときが怖くて風を忘れた」という歌詞も、本作を視聴すれば意味がわかるだろう。巫条霧絵の静かな恋について上手く纏められている。


・「俯瞰風景」という作品について
巫条霧絵は祈祷(本性は呪詛)を生業とした古い家系の末裔で、重い病気に掛かり何年も病室から地上を俯瞰し、空を見上げていた。彼女は意識が途絶えるくらいまで外を見つめ、外を憎み、恐れた。彼女は継続して世界を「俯瞰」することにより、周辺の風景を脳内に取り込み、二つ目の器である巫条ビルの幽霊を手に入れた。{netabare}与えたのは荒耶宗蓮。{/netabare}巫条ビルの幽霊、巫条霧絵の意識体は、夢の中で「飛行」を行っていた少女達に近づき、「飛行」が可能なことを意識させた。そして彼女達は飛び、当然の如く落ちたのだ。巫条霧絵は、黒桐幹也を拠り所とし、生きたまま「飛行」することを望んだ。しかし、黒桐幹也を拠り所として必要としていた両義式により巫条ビルの幽霊は殺されてしまう。彼女は、罪の無い少女達を殺してしまった自責の念と、幽霊である自身(二つ目の器)の心臓を貫かれた時に感じた圧倒的なまでの死への奔流と生への鼓動をもう一度味わう為に、
あらんかぎりの死をぶつけて生の喜びを感じる為に、巫条ビルの俯瞰から転落死するのだった。
巫条霧絵は「浮遊」することが出来ていたのだが、黒桐幹也に追いつこうとすることで「飛行」という手段を選んでしまったのだ。しかし飛行を選んだ彼女は死んだ後も雲の上を目指し空に落ちるように飛行するはめになる。


・名言(原作より抜粋)

橙子「君の俯瞰風景がどちらであるかは、君自身が決めることだ。だがもし君が罪の意識でどちらかを選ぶのなら、それは間違いだぞ。我々は背負った罪によって道を選ぶのではなく、選んだ道で罪を背負うべきだからだ」

幹也(いくら正しくて立派でも、死を選ぶのは愚かなんだ。僕らは、たぶん、どんなに無様で間違っていても、その過ちを正す為に生き抜かないといけない。生き抜いて自分の行いの結末を受け入れなくてはいけない。)

式「幹也、今日は泊まれ」

橙子「自殺に理由はない。たんに、今日は飛べなかったんだろう」
{/netabare}

感想

最後の式の「幹也、今日は泊まれ」は良かった。式のクーデレっぷりが最高である。また、私も昔、高いところから高速で落下する夢をよく見た。あれは無意識下の飛行だったのだろうか・・・



この一章は、視聴者に世界観を何と無く掴ませながら、しっかり今後の伏線を十分に張って終わっている。原作の長々とした文を簡潔に短く纏め、視聴者に分かり易く(全部観た後二回目観ると分かる)展開している。

本作は考察のし甲斐があり、非常に面白い。また現代人への処方箋のような役割を果たし、私達にカタルシスを与える。

私は全章視聴後原作を購読したが、読み応えがあって大変面白い。アニメを観た人は補足の為にも、お勧めしたい。
未視聴の方は、是非挑戦していただきたい作品である。

投稿 : 2024/11/09
♥ : 55

takumi@ さんの感想・評価

★★★★★ 4.4

俯瞰した風景世界とこちら側の境界線

事故により2年間昏睡状態であった少女・両儀式(りょうぎ しき)と、
その周辺の人物を巡る伝奇的物語。

一般的な一言で言ってしまえば中二的世界観ではある。
でも自分は過去を振り返ってみて、主人公たちと同じような時期に
同じような悩みを抱えたり考え込んだりしていたし、同じようなことを言っていたので、
共感できる部分は多く、この作品がとても愛しいし大切にしたかったりする。

劇場版である全7章のほか、終章としての30分ほどの作品があるのだが
時系列はバラバラで1章から順を追う形ではないため、初観の方は最初
面食らってしまうかもしれない。
どうしてわざわざ時間通りに並べなかったのかはおそらく、伏線回収をする時の
感動がより大きくなるように作られているってことなのだと思う。

ということを踏まえてまずはこの第1章 
俯瞰風景は全7章+終章のうちの1作目ではあるが、
1998年8月の4番目のエピソードになる。

舞台となるのは観布子市(架空の都市)
取り壊しの決まった同じ高層ビルから、少女が飛び降り自殺する事件が多発。
友人である黒桐幹也(こくとう みきや)がこの事件に巻き込まれ
昏睡状態に陥ってしまったため、彼を助けるべく式が活躍するお話。

宙をゆっくり舞い飛ぶ蝶々の映像が幻想的で美しかった。
そして、屋上などの高い位置から広い世界を観る俯瞰というものが
自分を孤独にさせてしまう心理が痛々しくもあり、
もっと成長していけば別の俯瞰の仕方ができるのになぁと思ったり。

ちなみにこの1章だけでは登場人物の細かな設定や事情、関係などもわかりづらく
説明不足に感じる方が圧倒的に多いと思う。
世界観も全貌はまだまだ語られていないので、雰囲気の紹介として観るしかないだろう。
でも終章まで観終えたあと、もう一度この1章を観てみると
驚くような細かなところにまで伏線が張ってあり、実際はとても緻密に
作り上げられていたことがわかる。
なのでもし、この1章の雰囲気に何らかの興味が沸いたならぜひ
終章まで進んで欲しいと思うし、逆にこの世界観が気に入らなければ
1章でやめておいたほうがいいかもしれないが、
できれば・・次の2章まで進んでいただくと式と幹也の関係がわかる、
ということだけはお伝えしておこうと思う。

個人的に気に入っているのは、まず音楽。
あとひたひたと近づいてくるダークな雰囲気と作画。
殺風景で冷たい景色と荒んだ心理。そして何より主人公である両儀式。
他人とは思えないものを感じて興味が湧き数年前に視聴したのが懐かしい。
今回、レビューを書くにあたって忘れていそうな細かな部分を拾うべく
再度視聴してみて、印象は変わらないものの、以前観た時より理解が深まった。

そんな感じで何度か観直すとまた新たに気づく点が出てくるかもしれない。
冷静に観ればもちろん、ツッコミどころはかなり多いけれどね(笑)

参考までに、時系列どおりに並べると以下の通り。

*1995年9月=第2章 殺人考察(前)(58分)

*1998年6月=第4章 伽藍の洞(50分)

*1998年7月=第3章 痛覚残留(56分)

*1998年9月=第1章 俯瞰風景(49分)

*1998年11月=第5章 矛盾螺旋(112分)

*1999年1月=第6章 忘却録音(60分)

*1999年2月=第7章 殺人考察(後)(119分)

*1999年3月=終章 空の境界(30分)

ちなみに各章それぞれ、監督をはじめスタッフの一部が違うので
作画や演出などに関して、違いを観ていくのも面白い。
個人的には第5章、7章が時間も長い分、全体的に見応えあった。
細かな展開と感想については今後随時、各章ごとにレビューを更新します。

投稿 : 2024/11/09
♥ : 45

74.8 2 ufotableで戦闘なアニメランキング2位
空の境界 第三章 痛覚残留[ツウカクザンリュウ](アニメ映画)

2008年2月9日
★★★★★ 4.1 (735)
4263人が棚に入れました
1998年7月、複数の捻じ切られたような変死体が見つかるという、人間の仕業とは思えない猟奇殺人事件が発生する。そんな中、“伽藍の堂”の所長である蒼崎橙子に一件の依頼が飛び込んできた。依頼内容は事件の犯人の保護、あるいは殺害。犯人の名前は浅上藤乃。殺された被害者たちに陵辱されていた少女だった。式は藤乃の暴走を止めるために行動を始める。

声優・キャラクター
坂本真綾、鈴村健一、本田貴子、藤村歩、能登麻美子
ネタバレ

入杵(イリキ) さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

自身と似て非なる能力者に式は何を思うのか

「空の境界」は奈須きのこによる、同人誌に掲載された長編伝奇小説である。全7章で構成され、本作は第三章「痛覚残留」が映像化された。「そらのきょうかい」でも「くうのきょうかい」でもなく、「からのきょうかい」なのでお間違えの無い様に。
略称は「らっきょ」。

「空の境界」は奈須きのこの小説だが、奈須きのこと武内崇の所属する同人サークル(現在は有限会社Noteのブランド)「TYPE MOON」の作品に「月姫」、「Fateシリーズ」などがあり、「空の境界」と世界観を共有している。奈須氏によると「微妙にズレた平行世界」とのこと。


劇場版「空の境界」は圧倒的な映像美、迫力満点の戦闘シーンと、難解且つ素晴らしい世界観を、原作小説を忠実に再現し映像化したufotableの力作である。
本作のメインテーマは「境界」である。相反する二つのものに関するメッセージが緻密に組み込まれている。
その各々に対する矛盾もまたテーマの一つだ。
奈須氏の命の重さ、禁忌を主題とした本作の完成度には脱帽するばかりである。
「生」と「死」、「殺人」と「殺戮」などについて考察するわけだが、テーマがこれであるから必然的にグロテスクな描写がある(しかも美しかったり)。
また、難解な言葉(辞書的意味では用いない)や、時系列のシャッフルにより、物語の理解はやや困難である。
しかし、この時系列シャッフルこそが「ミステリ」における叙述トッリクとして作用しているのである。
決して時系列の通りに見てはいけない(2度目からはご自由に)他にも、原作にはなかった「色分け」が行われている点も魅力的だ。式の服の色や、月の色なども見てみると楽しい。
全7章に渡って展開される両義式と黒桐幹也の関係も素晴らしい。
設定はここで説明するとつまらないので、作品を視聴することをお勧めしたい(丸投げであるが(笑))
副題のThe Garden of sinnersは直訳すると「罪人の庭」と言う意味。sinには(宗教・道徳上の)罪という意味があり、guiltの(法律上の)罪とは区別される。
Theの次のGardenが大文字であることから、これはギリシアの人生の目的を心の平静(アタラクシア)に見出した精神快楽主義のエピクロス学派を意味する。よってThe Garden of sinnersは快楽主義に溺れた道徳的罪人という意訳が適切ではないか。



第三章の本作は「空の境界」の時系列で、全7章のうち3番目にあたる作品だ。本作の視聴で第一章での伏線を回収し、第二章のその後を展開する。本章に登場する浅上藤乃は、巫条霧絵や両儀式と同じ能力者であり、彼女も悩みを抱えて生きてきた。彼女の思いや、彼女と両儀式の接触により生じる式の心情の変化、式の信条について知ることが出来る。
第一章俯瞰風景の直前の話であるので、式と幹也の関係を一章と比較してみるのも良い。
本章は一章・二章と比較して話が理解し易く、初めての視聴でも面白く感じられると思う。
本章のメインは浅上藤乃である。彼女の変化に細心の注意を払って観て欲しい。
副題の ever cry never life は直訳すると「いつも叫ぶ、決して命でない」となるが、この場合、「いつも叫んでいる、一度も生きたことは無い」といった訳だろうか。

考察←観る前に見ない様に。
{netabare}

時系列:3/8
1998年7月
両儀式:18歳 職業:高校生(サボりがち)
黒桐幹也:18歳 職業:大学中退 伽藍の堂に勤務

原作との相違:小
原作との尺の比 155P:57min=1:0.53(1分当たり2.72P)
(一番原作との尺の長さの比が合致していると判断される2章の比を基準:1とする)
(原作の頁数は講談社文庫を用いる)


・「無痛症」について
「無痛症」という病気は実際は無く、「先天的無汗症」という病気が之に該当する。
痛み・熱さ・冷たさなどを始めとした触覚全般に関する感覚が存在せず、体温調節が非常に困難である。
「痛覚」の定義として皮膚・粘膜・骨膜・内臓などに生じる感覚とあり、痛覚が無いということは五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)の内、触覚が無いに等しい。
般若心経に「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法」という文言がある。即ち「目・耳・鼻・舌・体・心といった感覚器官は無く、其々の器官に対応する対象[色(=物体)・音・香り・味・触覚・観念]も無い」という意味で、般若心経中では、龍樹(ナーガールジュナ)により完成させられた「空」の思想の説明に用いられている。(般若経自体は龍樹以前から存在する)
注目したいのは、「体が無ければ触覚も無い」という表現である。之即ち「触覚が無ければ体を感じることが出来ない」ということである。
浅上藤乃の場合はデビック症という延髄炎の一種で、感覚の麻痺を起こす病気で、失明の虞さえある。
藤乃は加えて鎮痛剤の一種「インドメタシン」の大量投与により、痛覚を人工的に失った。
彼女は常に自身の体を感じることが出来ず、虚ろな日々を過ごしていた。これは痛覚が「生の実感」を得るのに必要不可欠な要素であり、五感中で最高に重要な感覚であることを証明している。彼女は国語の読解力に欠け、他人の気持ちを「理解」することは出来ても、「実感」することが出来なかった。これも痛覚が無い為である。


・「殺人」と「殺戮」について
「殺人」とは、相手に抱く感情が、自己の容量を超えてしまったとき、それが極端になるとき人を殺してしまうこと。人が互いの尊厳と過去を秤にかけて、どちらかを消去した場合のみ、それは殺人となる。人を殺したという意味も罪も背負う。そして、人を殺すということは自分自身も殺すということである。
また、殺人は殺す側が「人」として相手を殺すことが必要で、死体が肉塊であったり、消し去られてしまったりする場合は、人としての尊厳が無く、「殺人」とは呼べない。
「殺戮」とは、殺された側は人だが、殺した方は人としての尊厳も意味もない。後の意味も罪も無い。自然災害に例えられる。殺戮は殺す相手を特定せず、殺される意味を持たない。
すなわち大義名分の無い殺人と言える。式は彼女の置かれた境遇から人一倍「殺人」に対する意識が強く、殺戮を酷く嫌う。藤乃の五人目以降の殺人は「殺戮」と定義されている。


・「浅上藤乃」について
{netabare}浅上藤乃の起源は「虚無」。荒耶宗蓮は両儀式と相反する能力者をつくる為、彼女の痛覚を復活させ、「死に接触して快楽する存在不適合者」にさせたのだ。
浅神家は混血の大敵である四家系「浅神」「巫浄」「両儀」「七夜」の一つであり、
浅上藤乃は浅神家の没落から母と共に浅上家に引き取られた。
彼女は、両儀式、巫条霧絵と同様に起源に「虚無」を持ち、特別な家系故に、特別な力を発現した。視界内の任意の場所に螺旋を作り、対象の強度に関係なく曲げる(捻る)能力、その名も「歪曲」(要するにサイコキネシス)。
浅神家は両儀家と異なり能力者の発現を忌み嫌う。浅上藤乃は幼少期に能力を発現し、能力の元である「歪曲の魔眼」を封じる為、父親によって強制的に感覚を奪われ、人為的に感覚を喪失してしまう(人工的無痛症)。
彼女は幼い頃「痛覚」を持っており、薬物の過剰投与によって「無痛症」になってしまった。
『第二章殺人考察(前)の考察「式と織」について』で述べた見解として、式は「抑圧」の感情を、織は「解放」の感情を受け持つと記述したが、浅上藤乃の場合は、
「抑圧」の感情により傷を耐え忍び、「解放」することを恐れた。
中学時代に幹也に「傷は耐えるものじゃない。痛みは訴えるものなんだよ」と言われていたが、これを実行出来ていたら、彼女はここまで苦しまずに済んだだろう。能力を取り戻した彼女は「痛み」(ストレス)の「解放」の手段として能力を発動し、他人の痛みを自身の痛みの代償とした。
腹部の虫垂炎が原因で「痛み」が止まず、痛みの発散の為に殺人を繰り替えす。
後に他人を殺すことに快楽を覚え、必要以上の能力の発動を行い、殺戮を始める。精神的苦痛から自身を陵辱した不良に対する復讐を行っていたが、いつの間にか無関係な他人を殺害するようになった。式は彼女が無関係な殺害を始めた時点で、彼女の殺害を決意した。
式に「おまえは血の味を知ったケダモノだ。人殺しを愉しんでいる」と指摘され、
「それは貴女でしょう。わたしは、愉しんでなんか、いない」という言葉は、痛みで思考が麻痺しながらも「まとも」でない自分を認めたくないという心情の表れである。

「太極図」で式が一つの肉体に二つの人格を持つ二重存在者なのに対し、彼女は万物の移り変わりを現す螺旋の方向性を視認出来る存在不適合者である。
荒耶宗蓮による恢復によって、バットで殴られた際の脊髄の炎症は治療され、不定期に痛覚が復活するようになった。
幼少期に封印されていた能力が復活したことに依り、その能力の威力は凄まじく、式を凌駕するものだった。更に後には透視能力(千里眼)をも発動出来るようになった。
彼女も巫条霧絵と同様に荒耶宗蓮の「根源の渦」、『 』への到達という最終目標の為に両儀式と接触する駒となった。
一章では述べなかったが、この似て非なる式・霧絵・藤乃の三者の共通点として、
「虚無」を起源とし、「根源の渦」、『 』への到達の鍵であること。三者とも「生」の実感が得られず、「今」を生きることに全力を注ぎ、快楽への傾倒が何時起きても可笑しくない不安定な存在であること。黒桐幹也という存在に、三者とも一種の憧れを抱いており、自分を受け入れてくれる唯一無二の存在として、彼を欲していることなどが挙げられる。この点に関しては五章矛盾螺旋や終章空の境界で改めて記述する。{/netabare}


・ほんの少し――ほんの少しだけ、おまえよりの殺人衝動――」について
{netabare}第六章「黒桐幹也」についてで述べるが、彼は「どこまでも普通で、誰よりも人を傷つけない」という起源を持っている。中立かつ博愛である彼は誰かを特別視することが出来ない。自分の親類と赤の他人とを同等に扱わなければならない。式が幹也に人殺しについての一般論を期待した(というか幹也には一般論しか言えないのを分かっていた為、自分を否定して欲しかったのである。)のは、この起源に起因する彼の性格によるものである。
社会的に罪を背負うことがなくとも、自責の念だけは残り、それは償うことの出来ない罪の意識として、当人を苦しめることになる。式が罪の意識は常識によるものだから、常識のない自分を野放しにしてよいのかと幹也に問うたとき、彼は「式の罪は、僕が代わりに背負ってやるよ」と回答した。
式の「かわりに一つだけ分かった。自分の生き方、自分が欲しいものが。とてもあやふやで危なっかしい物だけど、今はそれにすがっていくしかない。そのすがっていくものが、自分が思っているほど酷いものじゃなかったんだ。それが少しだけ嬉しい」という台詞は、式が生の実感を得る上で必要不可欠な殺人衝動が、浅上藤乃との戦闘で式の殺人衝動が思ったほど酷くなく、浅上藤乃を許せるものであったことから、一般論を期待していたけれど、人間味のあることを言ってくれた幹也に向けて、幹也の期待に応えられる殺人衝動という意味で言ったものである。式は織の消滅によって空いた伽藍洞の心を幹也で埋めることを決意し、織の幹也と幸せに生きるという夢を叶えるため、幹也と共に生きることを決意し、自分の生の実感を得る手段としての殺人衝動を幹也に認めてもらえるようなものにすることを決意した。因みにこの会話は第三章の最重要場面である。ここでの約束が七章で果たされることになる。
{/netabare}
・「傷跡」について
浅上藤乃をイメージして奈須きのこ監修の下、梶浦由記によって作詞・作曲された。中学時代に浅上藤乃は黒桐幹也と出会い、今回再び助けられた。
「ねえ、生きていると分かるほど抱きしめて」という歌詞や他の歌詞から、彼女の「生の実感」への渇望と、憧れの混じった恋について上手く纏められている。



・「痛覚残留」という作品について
幼い頃に「歪曲」という能力を発現し、封印されてしまった浅上藤乃。彼女は能力の封印の代償として「痛覚」を失ってしまう。痛覚を失うことで外部からの刺激・自らの身体の感覚を失い、「生の実感」をも失ってしまう。彼女は痛みを知らず、感情の抑揚も乏しく、鮮花に「誰にも憎まれない娘」と評されるほど温和で穏やかな性格となった。
無痛症の為、自身の身体の異常が検地出来ず、外出に厳しい礼園女学院生ながら、主治医に定期的に診て貰う為に外出をしていたところを不良に絡まれ、半年間に亙って性的暴行を受けたが、感覚が無く、感情に乏しい為ほとんど抵抗はしなかった。
しかし、金属バットで背中を強打されたことで脊髄に損傷を受け、不定期に感覚を取り戻すようになる。ある日感覚を取り戻している時間に不良のリーダーに腹部を刺され、自己を防衛する為に「歪曲」により湊啓太以外の4名を殺害してしまう。
実際には腹部を刺されるよりも能力の発動の方が早く、彼女は刺されていなかった。
彼女は腹部に虫垂炎(後に腹膜炎)を患い、その痛みは腹部の傷として彼女に認識される。
彼女は陵辱されたという精神的苦痛から、不良への復讐を行い、湊啓太を捜索する。他人の痛む様子を見ることで「生の実感」を得ることを覚え、他人の痛みで自身の痛みを補完しようとした。しかし、手段と目的が入れ替わり、殺人に快楽を覚えるようになり、殺すことで「生の実感」を得る為、殺戮を始めた。痛むが為に人を傷つけるのではなく、人を傷つける為に痛む傷。傷は人を殺す理由の為に永遠に消えない。
式は能力を発現している時の彼女を酷く嫌い、之を殺すことで排除しようとした。藤乃の能力「歪曲」により左腕を失うが、「直死の魔眼」の力により、「歪曲」の描く螺旋を殺すことに成功し、藤乃に勝った。
しかし、彼女が無痛症に戻ってしまったので式は殺害を止め、彼女に巣食う盲腸を殺すことで幕を閉じた。


・名言(原作より抜粋)

藤乃「――はい。とても・・・・・・とても痛いです。わたし、泣いてしまいそうで――泣いて、いいですか」

藤乃(お腹が痛い。見えない手に、私の中身が鷲摑みにされる不快感が。吐き気がする――いつもはそんなものはしない。めまいがする。――いつもは唐突に意識が落ちる。腕がしびれる。――いつもは目で見て確認する。 とても、痛い。――ああ、生きている。)

藤乃「・・・凶れ」

橙子「黒桐は間に合わなかったか。さて。嵐が来るのが先か、嵐が起こるのが先か。式ひとりでは返り討ちにあうかもしれないぞ。両儀」

幹也「馬鹿だな、君は。いいかい、傷は耐えるものじゃない。痛みは訴えるものなんだよ、藤乃ちゃん」

式「万物には全て綻びがある。人間は言うにおよばず、大気にも意志にも、時間にだってだ。始まりがあるのなら終わりがあるもの当然。オレの目はね、モノの死が視えるんだ。おまえと同じ特別製でさ。だから――生きているのなら、神様だって殺してみせる」

藤乃(やっと手に入れた痛覚なのに、今はこんなにも憎い。でも――ほんとうだ。痛いから――とても痛いから、死にたくないと渇望する。このまま消えるのはイヤ。もっと、生きて何かをしなくちゃいけないんだ。)

藤乃(もっと生きて、いたい。もっと話して、いたい。もっと思って、いたい。 もっと ここに いたい。)

式「痛かったら、痛いっていえばよかったんだ、おまえは」

幹也「・・・罰っていうのは、その人が勝手に背負うものなんだと思うんだ。その人が犯した罪に応じて、その人の価値観が自らに負わせる重荷。それが罰だ。
良識があればあるほど自身にかける罰は重くなる。常識の中に生きれば生きるほど、その罰は重くなる。浅上藤乃の罰はね、彼女が幸福に生きれば生きるほど重くて辛いものになる」

幹也「そっか。じゃあ仕方ない。式の罰は、僕が代わりに背負ってやるよ」

式「もうひとつ白状するとさ。・・・・・・オレも、今回ので罪を背負ったと思う。けど、かわりに一つだけ分かった。自分の生き方、自分が欲しいものが。とてもあやふやで危なっかしい物だけど、今はそれにすがっていくしかない。そのすがっていくものが、自分が思っているほど酷いものじゃなかったんだ。それが少しだけ嬉しい。ほんの少し――ほんの少しだけ、おまえよりの殺人衝動――」
{/netabare}

感想

本作は一章,二章と比較して分かり易い作品で、世界観がだんだんと理解出来てきた中で、式と似た境遇の人間・浅上藤乃と式を絡ませ、両者の違いや、式の信条などを視聴者に刻銘に印象付けさせ、五章矛盾螺旋への繋ぎとしての役割が十分に果たせている。
一章に比肩する式の戦闘シーンや空の境界随一のグロテスクな描写の多さが特徴的だった。
本章は幹也から式への想いの表現が多かったが、式から幹也への想いの表現が少なく、式が何を想っているのか想像することが出来た。もしかしたら藤乃の幹也への想いに嫉妬していたのかもしれない。
「努力してみる」などツンデレ気味の発言も含まれている。
ほんの少し――ほんの少しだけ、おまえよりの殺人衝動――」と言った式の覚醒後初めての笑顔は大変可愛い。
{netabare}
「凶れ(まがれ)」という言葉が式に向けて何度も発せられたが、あれは殺戮が彼女に「生の実感」を与える唯一の痛みへと変貌してしまったことを示しているのと同時に、自分の存在を否定するものの排除という「殺人考察(前)」における式に似た心情であると考える。
藤乃は可哀想な人生を歩んできたが、その中での幹也への恋と、「普通でありたい」と思う心が彼女の心の糧となったと思う。最期に式によって殺されなかったことは、彼女にとっても、式にとっても良いことだった。無痛症は治らないだろうが、盲腸が治って良かった。
最初と最後に出てきた「とても・・・とても痛いです。わたし泣いてしまいそうで――泣いて、いいですか」という言葉が藤乃の本音だろう。
最後に痛覚がある状態で盲腸の痛みを実感し、「痛い」から「死にたくない」と「渇望」する。という強い思いが湧き出てきた。
もっと生きて、いたい。
もっと話して、いたい。
もっと思って、いたい。
もっと ここに いたい。
という「痛い」=「居たい」という強い意志が「痛覚」があることで具現した。
同時に自分が愉しんでいたモノの正体に対する痛み、自分が犯した罪、自分が流した血の意味を「実感」した。
藤乃「痛みは耐えるものじゃなくて。誰かに愛してと訴えるものなんだって、あのひとは教えてくれたんだ」
とあり、「痛み」の正体を知るに至った。
式が言った「痛かったら、痛いっていえばよかったんだ、おまえは」という言葉のとおり、もっとはやく「痛い」と言えていればと思う。
{/netabare}

この三章は、一章,二章を視聴した上で「両儀式」という人物について考えさせる作品だった。
浅上藤乃という式に似た殺人鬼の登場。彼女も特別な家系の生まれで、それ故に不幸な人生を歩んでしまう。本章は藤乃への同情を誘うとともに、式の心の揺らぎが見られる。
一章と二章を繋ぐ三章。そして二章と三章を繋ぐ四章へと話は進んでゆく。

本作は考察のし甲斐があり、非常に面白い。また現代人への処方箋のような役割を果たし、私達にカタルシスを与える。

私は全章視聴後原作を購読したが、読み応えがあって大変面白い。アニメを観た人は補足の為にも、お勧めしたい。
未視聴の方は、是非挑戦していただきたい作品である。

投稿 : 2024/11/09
♥ : 48
ネタバレ

takumi@ さんの感想・評価

★★★★★ 4.8

痛みと無痛 生きている実感の境界線

1998年7月、この第3章は時系列でも3番目のエピソード。
鑑識官に「人間の仕業とは思えない」と言わせるほどの猟奇殺人事件が次々発生。
しかも被害者は複数の若い男性ばかり。
第3章でのゲスト的な主人公は浅上藤乃。
このページの「あらすじ」欄に犯人の名前まで書かれているが
彼女が数人の男性に取り囲まれ陵辱されているシーンからスタートするため
猟奇殺人事件の犯人が誰かすぐに見当はつくし、これは犯人探しの話ではない。

黒桐 幹也も働いている人形工房「伽藍の堂」の所長である蒼崎橙子(あおざき とうこ)に
「事件の犯人・浅上藤乃の保護、あるいは殺害」という依頼が舞い込み
藤乃の暴走を止めるため、両儀式が活躍する・・というのがこの第3章の内容。

痛みを感じない無痛症である藤乃が初めて感じた、生きている実感というものに
おそらく自分と似たものと反発を感じた式の気持ち。
相変わらずのお人良しぶりで優しい幹也が偶然出会った藤乃の人間像。
痛々しくてとても悲しい話ではあるのだけれど、
藤乃が感じていた痛みの本当の原因がわかったとき、あぁなるほどなと。
外部から受ける痛みと内部からの痛みは、同じ痛みでも違いがあって
それは外部から受ける傷と内面で傷つくのとの違いにも似ている。
傷というものは大抵痛みを与えるものなわけだけれど、
同時に、その痛みを知ることで生きている実感が持てるし、
人間らしさを保てるというもの。
果てはそれが生きていく理由にも繋がるのだよね。

しかし藤乃の場合・・・
{netabare}
自分が痛みを覚えた時に殺戮を繰り返しているので
生きている自分の実感と相手の痛みとの相互関係に少々疑問が残る。
彼女を陵辱した青年たちへの復讐心だけだったら納得がいくものの
それだけに留まらなかったということは、殺人による快楽をも覚えてしまったことになり
だからこそ式はそんな彼女を許せなかったのだろう。
というわけで、式の持つポリシーのようなものも感じ取れた。
{/netabare}

それだけでなく、これまで幹也からの式への想いはかなり伝わったものの
式から幹也に対しての想いはあまりハッキリ描かれていなかったので
この3章での幹也に好意を抱く藤乃の存在が、
式の嫌悪感を増幅していたようにも感じることができたのは良かった。
第1章で、式の腕があんなだった理由もわかるしね。
とにかく今回は藤乃がやたら強くて、バトルシーンも見応えがあり
「痛覚残留」というタイトルの文字通り、観ているこちらも痛覚を刺激される映像が多く
全体的に悲しみに彩られたストーリー同様、音楽のほうも雰囲気があって
単体で観てもわかりやすくまとまった回だったと思う。

投稿 : 2024/11/09
♥ : 41
ネタバレ

てけ さんの感想・評価

★★★★★ 4.6

強制された抑圧と、境界を越えた解放

原作未読。
全8章からなる物語の3章目。約60分。

「空の境界」全章に共通する項目は、第1章のレビューをご覧ください。
→ http://www.anikore.jp/review/450724/

1章より前、2章より後の話。
ストーリーは比較的独立しており、この話だけ観てもわかりやすい構成になっています。

この回では少し笑いの要素が入ってきます。
また、黒桐幹也の妹、黒桐鮮花の出番があります。
彼女は清涼剤みたいな存在で、話に柔らかみをもたせてくれています。

ただし、残虐性にも拍車がかかっています。
人間の負の面を強く表現している印象です。
残酷な話と軽いテンポの会話、その組み合わせで、他の章との重みのバランスを取っているのでしょう。

映像面の見所は、嵐の中での戦い。
水を切るように動く表現は、実にスタイリッシュです。

EDテーマは「傷跡」。


【3章「痛覚残留」の考察】
{netabare}
過去に、黒桐幹也と浅神藤乃は出会っています。

幹也「いいかい?傷は耐えるものじゃない。痛みは訴えるものなんだよ」

これは、私たちの日常生活にも繋がってくる発言です。
「抑圧」=「傷を耐える」という行為は、周りに危害を加えないと同時に、自分の中にストレスどんどんため込んでしまいます。
そして、たまりにたまったストレスは、ふとしたきっかけで爆発してしまう。
それを防ぐためには、ストレスを定期的に「解放」=「痛みを訴えることを」してやらなければならない。

浅神藤乃は、精神的にはごく普通の人間です。
しかし、痛みを訴える方法が「能力の発動」という特殊なケースだったため、「人工的に感覚を抑える」という方法で、強制的に抑圧され続けてきたわけです。


そして、金属バット殴られた衝撃で、一時的に復活した痛み。
むりやりイスに縛り付けられ、勉強させられ続けてきた人のロープが、ふいにほどけたと考えると分かりやすいと思います。

自分のやりたいようにできない、つまり「生」を実感できない「空っぽの」状態から解放される。
やっとストレスの発散が可能になりました。
ただし藤乃は、痛みを感じている間はストレスの解放が終わっていない、つまり、痛みを訴え続けなければならないと解釈しています。
だから、殺しに対して「私は楽しんでなんかいません!」と藤乃は言ったんでしょう。

しかし、抑圧が解放されることに、徐々に喜びを覚え始めた藤乃。
必要最小限の解放ではなく、必要以上の解放へと、その「境界」をまたいでしまった。
それが、「殺人」という行為を超え、無関係な人々を巻き込む「殺戮」へと移行し、式の怒りを買ってしまうことになったわけですね。

しかも、実際はナイフで刺された痛みではなく、もともと持っていた病気による痛みだった。
そのため、永遠にストレスの発散が終わることがないわけです。

さんざんたまっていた「ストレス」が一気に解放されたわけですから、藤乃はあれだけの力を発揮しました。
そして同時に、余命いくばくもない藤乃。

この状況を打開する方法が、式にしかできない「病気を殺す」という行為だったのでしょう。

この浅神藤乃が、2章のラストで語られた「死に接触して快楽する存在不適合者」に相当します。


【全て見終わった人へ】
{netabare}
4章で分かりますが、痛覚が戻ったのは、バットで殴られたのがきっかけではないんですね。
荒耶宗蓮の仕業だった。


7章でも触れられていますが、

殺人=相手に抱く感情が、自己の容量を超えてしまったとき、それが極端になるとき人を殺す。人が互いの尊厳と過去を秤にかけて、どちらかを消去した場合のみ、それは殺人となる。人を殺したという意味も罪も背負う。そして、人を殺すということは自分自身も殺すということ。
殺戮=殺された側は人だが、殺した方は人としての尊厳も意味もない。自然災害に例えられる。

と区別されています。
この違いを強調しているため、藤乃に危害を及ぼした人以外への殺害行為を「殺戮」と呼んで、式は嫌っていたわけですね。


なお、劇中で橙子が式に渡したカードキーの名義は「荒耶宗蓮」となっています。
橙子「名義は古い知人のものを拝借したがね」
ここで、初めて名前が出てきています。

また、カードキーの色は、蒼、橙、ピンクの3色。
「式、織、両儀式」の着ている3種類の着物の色と被ります。
また、
橙子「式一人では返り討ちに遭うかもしれんぞ、両儀」
すでに橙子は、式の2種類の人格に加え、3つ目の人格に気付いていたんですね。

{/netabare}

{/netabare}

投稿 : 2024/11/09
♥ : 34

65.0 3 ufotableで戦闘なアニメランキング3位
活撃 刀剣乱舞(TVアニメ動画)

2017年夏アニメ
★★★★☆ 3.5 (148)
638人が棚に入れました
審神者により宿された付喪神――刀剣男士。
和泉守兼定は、歴史を改変すべく現れる時間遡行軍からとある積荷を奪取するため、初陣の堀川国広とともに幕末の世に出陣する。
辛くも任務を成し遂げた二振りに下されたのは、新たな指令。『文久三年のとある城下町に、新たな時間遡行軍現る』と。
わずかな情報を頼りに、現れる遡行軍を迎え撃つ和泉守と堀川。しかし数で勝る遡行軍には二振りだけでは太刀打ちできず、窮地に陥ってしまう。そんな二振りの前に現れたのは、彼らの主“審神者”だった。

声優・キャラクター
木村良平、濱健人、榎木淳弥、山下誠一郎、櫻井トオル、斉藤壮馬、皆川純子、永塚拓馬
ネタバレ

剣道部 さんの感想・評価

★★★☆☆ 3.0

もう、映画じゃん!

[文量→大盛り・内容→感想系]

【総括】
活劇(立ち回りなど動きの激しい場面を中心とした映画・演劇。アクションドラマ)と銘打つだけあり、内容的には、前作(花丸)の日常系からガラッと作風を変え、シリアス&バトルになりました。

内容(ストーリー)も悪くないですが、とにかく素晴らしい作画を観るだけでも価値があるアニメだと思います。特にバトルと背景は、ホントに綺麗です。

原作未プレイ&花丸(前作)視聴済み


《以下ネタバレ》

【視聴終了(レビュー)】
{netabare}
刀(物)としての矜持や責任感と、人(刀剣男子)としての自由や、やりがいの中での葛藤。今の主(歴史を守る任務)と前の主と(坂本龍馬や土方歳三などを歴史をねじ曲げてでも救いたいと思う)の狭間で悩む葛藤を描くのが本筋の物語だと思います。

また、前作(花丸)との違いは、「前の主(歴史上の持ち主)」の性質や関係性を大きく持ち込んでいることですね(花丸でも多少はあったけど)。例えば、「和泉守兼定(土方歳三)」と「陸奥守吉行(坂本龍馬)」の対立なんか分かりやすいです。刀剣男子自身ではなく、「前の主(新選組)」をバカにされたことで激怒する兼定など、熱かったです。

前作は日常系ゆえに登場人物を増やし、ファンサービス&販促を狙った感じでしたが、本作はストーリー重視のために、かなりキャラを搾っていましたね。基本ですが大事なことです。

歴史的な解説も、かなり詳しくなりました。坂本龍馬の逃げる経路や細かいエピソードなど(歴史に疎いので、史実かは知りませんが)、楽しく観られました。

あと、Wikipedia程度の情報ですが、土方歳三が死の間際、少年兵に渡したのは写真と毛髪であり、刀(兼定)という情報はないみたいですね。現存する兼定も、土方が持っていた物とは長さが違うらしく、その出所は謎なのだとか。だから、土方歳三の最後を、国広だけが見ていて兼定は見ていないというのは(かなり重要なエピソードだけど)、アニメスタッフの創作になるのかな? 私は歴史に疎いので良くも分かりませんが、きっと歴史好きな方なら、こういう僅かな違いとかも楽しめるんでしょうね♪

これは不満というほどのことではないのですが、最大公約数的には人気があるので、幕末や戦国時代をメインに据えるのは理解できるのですが、やはり見飽きた感はあるので、どうせなら南北朝時代とか、あまりアニメで扱われないあたりを観たいな~と思ったり。

さて、この作品、なんか一部の人にスッゴい批評されてますね。原作レイプ? と言われても、私は原作をやってないし、特段、本シリーズに深い思い入れがあるわけではないから分かりません。

でもまあ確かに、(勿論許可はとっているだろうけど)ずっと謎だった「主」を1話目からサラッと出したのはやりすぎだったかな? とは思いました。「主」は、いわばプレイヤー自身だと解釈していますが、それを具現化されると怒る人もいるのでしょう。私も基本は「RPGの主人公は喋らない」方が好きですし(自分を投影できるから)。

原作好きな方が怒るのであれば、原作付きアニメとしては、確かに良くはないですよね。

とはいえ、やっぱり高クオリティのアニメであることは否定できないと思います。少なくとも作画は。

個人的に不満があるのはOPかな。折角、シリアスで格好良い作風なんだから、ああいうアイドルソング的な感じではなく、もっと和風だったり、格好良い感じの曲の方が良かったな~と思いました。
{/netabare}

【余談1 ~剣道部的、刀の用法について~】
{netabare}
バトルの作画は前作に比べて格段に良くなったが、刀の用法としては、少し雑だった印象。例えば、刀を刀で(キン、キンって)払うとか、実際はほとんどやらないしね。折れるし、刃こぼれするし。

例えば、剣道の段審査で行う「日本剣道形」は、各古武術の流派(つまり日本刀古来の使い方)からきているが、七種類あるうち、刀と刀が接触するのは、三本目(突き返し突き)、四本目(突き返し面)、五本目(面擦り上げ面)、六本目(小手擦り上げ面)の四種類。その中に刀を刀で払う動作、例えば切り落としや応じ返しという動作は一切含まれない。四種類全て、「鎬(しのぎ)」という、刀の上部(峰と腹の間)で刀を擦るようにして、相手の刀の軌道を変える(そらす、受け流す)動作になる。残りの三種類は抜き技なので、相手の攻撃をかわして攻撃する動作だ。

ここからも分かるように、刀は基本的に、相手の攻撃を弾いたり受け止めたりしするようには作られていない。そういう「打ち合う」動作は、竹刀が開発され、剣道という競技になってから生まれている。

真剣での勝負の防御は、基本的に「避ける」か「そらす」。刀を大切にしているアニメだけに、そこまでリアルに作画出来れば、剣道部的には更に満足だった。まあ、それやると迫力には欠けるけど。

というのは、難癖ですよw 本当は書かなくて良かったんだけど、剣道部、という名前を使っている以上、キャラ付けの為にもなんか書かなければと思い、無理矢理、重箱の隅をつついてみました(笑)
{/netabare}

【余談2 ~ 作品の成分に個人的には違和感が ~】
{netabare}
……にしてもアニメ成分に作為的なものを感じるのは、私だけでしょうか……。マイナス要因が多すぎるし、それぞれの成分にほぼ同数の票が入っている不自然さ。(&少しでもポジティブな成分入れると、即座に-連打されて消されるって……)。

てか、原作改悪はまあ(本人の捉え方だし、主観の要素が強いから)あっても良いとして、「作画悪い」って、この作品で作画が悪いと言われたら、世の中の大半のアニメはクソ作画ということになるとは思うけど……。

作品に対しての賛否は自由。絶賛も酷評も好きにやって良いと思ってます。本作が気にくわないなら、ガンガン叩いても良いと思います。

でも、「一人一票」ってのは大切だと思うんだよな……。

(勿論、これが完全に私の邪推で、本当に多くの方が批判しているのなら、何の問題もなく、正当な行為だと思います。何が正しい(真実)かなんて分からないから、結局は各々の判断ですかね)
{/netabare}


【各話感想(自分用メモ)】
{netabare}
1話目
まず、作画がヤバイ。劇場版やん。前作(花丸)とはガラッと作風を変えてきたね。人助けするなと言って人助けする兼定が良いね。え~! 「主」出して良いのかな? 蜻蛉切り、メジャーどこが来たね~。

2話目
持ち主やら由来やら、丁寧に説明するのは、華丸になかった特徴ですね。

3話目
ピンチからの増援。ワルくはない。実に王道だ。

4話目
なんなもう、映画だな、完全に。蜻蛉切り、折れはしないだろうけど、かなりシリアスな展開。

5話目
シリアス継続。いよいよ本丸に。

6話目
へ~、2205年の設定なんだ。全体を守れても、個の犠牲を悩む、良いシーンでしたね。

7話目
三日月、強いな~。第一部隊、一軍って扱いなん?

8話目
ちょっと良い話。なんか、前作(花丸)みたいでしたね♪

9話目
前の主のことを嬉しそうに語る刀剣男子、良いね♪ ちょっと腐のかほりはするけどw

10話目
いや、煙の描写とか凄いだろ、これTVアニメだぞw 幕末は盛り上がりますな~。蜻蛉切りがあれだけ苦戦した大太刀を、わりとアッサリ。

11話目
背景からキャラが浮いている感じは、ある意味ゲームっぽいので、これはこれでアリかな。なるほど、土方歳三以上に、土方歳三を本当は助けたい兼定の為に動くのか。

12話目
いや、本当に良いのか? 微妙に歴史変わらないか? 1000って、ムリゲーじゃね?

13話目
背景は、本当にキレイだな。人の動きはちょい変だけど、それは贅沢言い過ぎか。ラストのバトルは単純に熱かった。にしても、やっぱり千体は無理だったんじゃ? 100で良かったんじゃないかとw
{/netabare}

投稿 : 2024/11/09
♥ : 13
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さんの感想・評価

★★★★☆ 3.5

終わりよければ全て良し?

≪物語≫
進度が遅いです。
テレビの見えない場所で洗い物をしながら、たまにテレビを覗いて戻り、覗いて戻りしても話がわかります。

その要因として考えられるのは、刀剣男子が悩み葛藤する場面や相談・指示に割く時間が多すぎるということでしょう。
あーだこーだ悩んでも結局解は見つからず、会話前と会話後で状況が転じることもありません。ずっと同じ悩みを抱えたままなので何のための時間なのか疑問に思います。

{netabare}しかも、話している状況も状況で、対象を追いかける場面で立ち止まって泣いたり、見張りの途中で対象者が見えない位置に移動し話し込んでいるのは、如何なものでしょうか。
炎の残る街の中、救出した子供を傍らに寝かせて、切ってみろだの、なんだのの仲間割れを始めるなんて、もう論外ですよ。{/netabare}

最終回{netabare}は今迄に登場した刀剣男子総出のクライマックスバトルで、不可能とも思える数の敵に立ち向かい、勝利を収める王道展開でした。
離脱した堀川国広もなんやかんや、元どおりになり、無理矢理感はあるものの無難な終わり方をしたなあという印象です。しかし、戦闘シーンは今迄のものより格段に見応えがあり、華々しく終わりを飾っていました。{/netabare}
最終回のおかげで、現在は意外にも好印象です。

≪作画≫
映像はとても綺麗です。
ユーフォーテーブル作品の強みは、CGと作画の親和性、それからエフェクトの派手さだと思います。
戦闘シーンや召喚シーンと本当に引っ張りだこのエフェクトですが、特に今回話題になったのが1話の桜の花びらでした。
講演会で「CGではありません。手書きです」という発表があったそうですね。実際にみてみましたが、CGなのか作画なのか分からないくらいのクオリティでした。
きっと相当な手間をかけて撮影されているのでしょう…
ということは、制作体制がしっかりしているのかなあ…なんて勝手に想像しています。
なお、キャラの動きはそこそこという印象を持っています。

あ、でも8話の薬研が馬に舐められるシーン!制作者のこだわりが見えて良かったですね!え?下品な発言で苦情殺到ですか…?確かに、発言事態はあまり気分が良いものではありませんが、映像としての面白味は別の話ではないかと思いますよ。

≪キャラクター≫
登場キャラ数が少ないです!
刀剣男子は粟田口だけで16口、全体では70口いるのに、全体の20%くらいしか登場していません。もっと色んなキャラクターがみたかったなあ…

≪音楽≫
ED、Kalafinaの百花繚乱は劇場張りの壮大な曲です。
シネコンの高音質スピーカーで聞いたら臨場感凄そうだなあ…
作画のクオリティ的にも大スクリーン映えしそうですし、大胆にカットしていけばテンポ感も良くなりそうです。真面目に劇場版総集編の制作を検討して頂きたいですね。


≪総括≫
今日日、作画崩れや総集編、休止が多くの作品で行われる現状で最後まで高基準のクオリティで走り切ったのは凄いと思います。

あとは話さえ面白ければgreatなのですけれどねえ…
私のユーフォーテーブルに対してのイメージ――映像が綺麗な割に話が面白くない――が具現化してしまったことが残念でなりません。

近年のユーフォーテーブル作品は、ゼスティリアといい、ゴッドイーターといい、凝ってる割にぱっとしない作品ばかりですがこのままで大丈夫なんでしょうか。心配になります。

投稿 : 2024/11/09
♥ : 11

37111 さんの感想・評価

★★★★★ 4.1

作画だけ。

1話視聴後感想と今後の期待度
一言コメント:1期目というか無印刀剣乱舞がクソだったがその反動ですごくよく見えるwufotableすげーな。テイルズみたいwww
期待度:★★★★★

ufotableすげーな。
以上。

それ以上でもそれ以下でもない。

何でこの話に引き込まれないんだろう。そもそも時間遡行軍に感情移入できない。なので何と戦っているのかわからない。

そもそも新選組に興味がない。
もう、いい加減手垢付きすぎだろ。

つーことでufotableには学園ラブコメを作ってほしい(切実)

投稿 : 2024/11/09
♥ : 10

69.7 4 ufotableで戦闘なアニメランキング4位
空の境界 終章 空の境界(アニメ映画)

2011年2月2日
★★★★☆ 3.9 (585)
3604人が棚に入れました
「生きているなら、神様だって殺してみせる」――これは、独りの少女の可憐で壮絶な物語。2年間の昏睡状態から目覚めたとき、両儀式(りょうぎしき)は記憶を失っていた。記憶と引き替えに手に入れたのは、万物の死を視る力“直死の魔眼”。望まぬ力を手に入れ、望まぬままに数多の怪異に遭遇し、望まぬままにその存在を絶つ。黒桐幹也(こくとうみきや)は、静かに見守りつつも、日常の世界に式を繋ぎ止めようともがく。やがて日常と非日常の狭間に棲む怪異を追うことが、式の唯一の生きる糧となる・・・見守る眼差しがあることを知りながらも。

声優・キャラクター
坂本真綾、鈴村健一
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ninin さんの感想・評価

★★★★★ 4.9

からのきょうかい 静寂の中に響き渡る両儀式の言葉は……

原作未読 約33分

両儀 式(りょうぎ しき)と黒桐 幹也(こくとう みきや)の会話中心のお話ですね。バトルシーンもなく、ただただ静寂の中に両儀 式の声だけが聞こえる。幹也が話し相手となっていますが、ほとんど両儀 式が話しています。

{netabare}両儀 式のこと、織のこと、式のこと、伽藍の洞のこと、空の境界(からのきょうかい)のこと、幹也のことを{/netabare}やさしく語りかけています。

{netabare}
式が言った言葉で
「当たり前のように生きて当たり前のように死ぬ、なんて孤独」
単純な言葉ですが深いですね。
{/netabare}

一章〜最終章まで視聴して
この作品は色々な魅力があります。ストーリーや演出はもちろん、綺麗な作画、章ごとに合わせて奏でる素敵な音楽、キャラクター、事件、バトル、魔術、恋愛他、多彩な要素があります。
私は恋愛作品と書きましたが、観た方によって印象が違うのではないでしょうか。

凄惨な場面やバトルが苦手でなければ是非観てくださいね。何か感じることがあるかもしれません。私は感動しました。
オススメです。

ED Kalafinaが歌ってます。曲名「snow falling」この作品に相応しい、やさしい、やさしい歌です。

最後に、評価で物語に5をつけなかったのは、原作未読で観た場合、分からない事柄多すぎる事です。
でも、みなさんのレビューや考察で分からない事柄を補完させていただきました。合わせて評価を5とさせていただきます。
ありがとうございました。
あにこれっていいなぁと思った作品です。
またこの物語のように素敵な作品に出会いたいですね。

劇場版「空の境界 未来福音」9月28日に公開されます。楽しみですね^^

投稿 : 2024/11/09
♥ : 38
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takumi@ さんの感想・評価

★★★★★ 4.5

両儀式という人間について

1999年3月。物語の総まとめ、終章であり種明かし的な30分。
雪の降る中、4年前と同じあの高台の坂道で幹也は両儀式と再会。
幹也は相槌を打つかほんの少しの返事を返すだけで
彼女だけがほぼ一方的に語るだけの、ほとんど動きのない映像な上
ゆっくりな雪の速度、彼女の静かな口調、雪の湿度で街の明かりが反射しているような
赤みがかった夜の景色、途切れ途切れに響くピアノの音色、
それらがまるで催眠術のようだった。

でも、語られる内容はとても重要なことで、この作品の要とも言えるので
ちょと見逃せない章だったりする。

何を語ったかここで書いてしまうと、観る意味がなくなってしまうので
ほとんどもう「観てください」としか言いようがないのだが

簡単に言うと、
{netabare}女性人格である式と男性人格の織を統括しながらも
式、織からは認識されていなかったもうひとつの、
「器」「肉体」そのものの人格、本質との再会だった。

さらに彼女が言うには、殺人鬼であり、幹也を殺したがっていた人格なのだという。
人間が精神、魂、肉体の3つで構成されているとして、
精神は生まれた後に加えられる知性、魂は肉体から生じるもので
人格は知性と魂から生まれるもの、と説く彼女。
そこにある肯定や否定、善と悪、陰と陽など、
その真ん中にいる「わたし」という人物が彼女なのだとしたら
なぜ殺意を抱かねばならなかったのか?少々疑問が残る。
魂レベルで幹也に殺意を抱くのだとしたら、彼らの前世の前世、
そのまた前世の起源に何か関係があるということなのかも?

両儀式の起源が「空(からっぽ)」だとしたら、幹也は何だろうか?
式の虚無感からくる起源が殺意を抱くのだとしたら、何が駆り立てているのだろう。

人間、誰しも1人1人が違うし、特別じゃない人なんていないという前提で
式や織のことが語られているのかと思っていたら、実は
何も望まない、何の特別もなく普通であり続けている幹也がいかに特別で孤独かを
物語っている章のように思えてならなかった。

それが正論だろうか、ほんとうに? そう疑問を持って何度も観直しては
半分睡魔に襲われてうやむやになってしまうという(苦笑)

いろんな意味で、よくできた演出とシナリオだとは思う。
悔しいので、気が向いたときにまた挑戦してみるつもりだ。

それにしても、雪の降る寒そうな夜に羽織も着ず30分近く語り続ける彼女の横で
大きくて黒い傘を1人だけで差している幹也に「傘に入れてやれよ」と
やきもきしたのは僕だけだろうか?
それともあれは幻影だったのか?
作画の美しさについ見惚れてしまってたけれど、最後のシーン
{netabare}幹也が傘を持ってないのだよ。あれはどういう意味?{/netabare}
ちょっとした謎を残しているので、これもまた確認したいし観た人に聞いてみたい。

さて、この「空の境界」のサイドストーリーや後日談が収録されている
「空の境界 未来福音」のアニメ化が決定になったようで。
今からとても楽しみだ。

投稿 : 2024/11/09
♥ : 37
ネタバレ

入杵(イリキ) さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

空の境界とは

「空の境界」は奈須きのこによる、同人誌に掲載された長編伝奇小説である。全7章で構成され、本作は第一章「俯瞰風景」が映像化された。「そらのきょうかい」でも「くうのきょうかい」でもなく、「からのきょうかい」なのでお間違えの無い様に。略称は「らっきょ」。

「空の境界」は奈須きのこの小説だが、奈須きのこと武内崇の所属する同人サークル(現在は有限会社Noteのブランド)「TYPE MOON」の作品に「月姫」、「Fateシリーズ」などがあり、「空の境界」と世界観を共有している。奈須氏によると「微妙にズレた平行世界」とのこと。

劇場版「空の境界」は圧倒的な映像美、迫力満点の戦闘シーンと、難解且つ素晴らしい世界観を、原作小説を忠実に再現し映像化したufotableの力作である。
本作のメインテーマは「境界」である。相反する二つのものに関するメッセージが緻密に組み込まれている。
その各々に対する矛盾もまたテーマの一つだ。
奈須氏の命の重さ、禁忌を主題とした本作の完成度には脱帽するばかりである。
「生」と「死」、「殺人」と「殺戮」などについて考察するわけだが、テーマがこれであるから必然的にグロテスクな描写がある(しかも美しかったり)。
また、難解な言葉(辞書的意味では用いない)や、時系列のシャッフルにより、物語の理解はやや困難である。
しかし、この時系列シャッフルこそが「ミステリ」における叙述トッリクとして作用しているのである。
決して時系列の通りに見てはいけない(2度目からはご自由に)他にも、原作にはなかった「色分け」が行われている点も魅力的だ。式の服の色や、月の色なども見てみると楽しい。
全7章に渡って展開される両義式と黒桐幹也の関係も素晴らしい。
設定はここで説明するとつまらないので、作品を視聴することをお勧めしたい(丸投げであるが(笑))
副題のThe Garden of sinnersは直訳すると「罪人の庭」と言う意味。sinには(宗教・道徳上の)罪という意味があり、guiltの(法律上の)罪とは区別される。
Theの次のGardenが大文字であることから、これはギリシアの人生の目的を心の平静(アタラクシア)に見出した精神快楽主義のエピクロス学派を意味する。よってThe Garden of sinnersは快楽主義に溺れた道徳的罪人という意訳が適切ではないか。

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終章の本作は「空の境界」の時系列で、全7章のうち7番目の七章の次の8番目にあたる作品だ。本作は一週間の期間限定で上映された。


考察←観る前に見ない様に。
{netabare}

時系列:8/8
1999年3月
両儀式:19歳 職業:高校生(サボりがち)
黒桐幹也:19歳 職業:大学中退 伽藍の堂に勤務

原作との相違:小
原作との尺の比 32P:33min=1:1.03(1分当たり1.00P)
(一番原作との尺の長さの比が合致していると判断される2章の比を基準:1とする)
(原作の頁数は講談社文庫を用いる)


・「両儀」と「式」について
両儀とは五章でも述べた通り易経に於ける根源・太極から分離した二つの爻を指す。一方は陰、一方は陽を表す。これは対象な二つの物、男と女、光と影、表と裏などを指す。
二章、四章の式と織の説明などからも容易に理解出来る事柄だろう。
「両儀式」は五章で述べたとおり根源に繋がっており、空の境界に於ける両儀は、
「正反対の二つの性質を兼ね備えた根源に繋がっている存在」と定義出来る。
式とは入学式、卒業式、結婚式、葬式などの式典などの人生に於ける区切れを意味する言葉だ。これは今までの関係をリセット・更新する意味を持ち、陰と陽のスイッチの意味だ。
また数式などは答えを導く為の道具である。三角形の面積を求める際に、1/2(底辺)×(高さ)でも、辺A×辺B×sin∠AOBでも、1/2√(|a|^2|b|^2-(a・b)^2)でも√{s(s-a)(s-b)(s-c)}※a+b+c=sでもたった一つの正解が導き出せるように。そして数学に於ける足す引くという行為は、一種の呪術である。500人から400人を引くと100人という式と答えがある。しかし500人の人間は同一人物でなく、全員別人である。これは別々の人間を「人」という記号に置き換えて、概念化しているのである。また、この式に人格を与えると、陰陽道での「式神」となる。
よって空の境界に於ける式は、
「二つの人格をリセットし、根源という答えに辿り着く方法」と定義出来る。
両儀式とは「無数の人格を持ち、道徳観念も常識も人格ごとに書き換えられるカラの人形」なのである。


・「両儀式」について
肯定と否定という両極で混じり合う事の無い式と織という二つのシキという人格は、一つの土台の両端に位置するもの。そしてその間(境界)には何もない。そしてその境界が第三人格『両儀式』である。※位置関係 ○式==(『両儀式』)==織○
二章の例えを使うならば、『両儀式』という乗用車に式と織が乗っており、式が運転手で織は助手席に座っている。二人は運転を交代することもあり、互いに意思の疎通が出来る。乗用車の所有者は式である。

多重人格・・・何らかの障碍によって自我の同一性が失われること
通常の二重人格は
1.継時性 第一人格と第二人格は互いに認識し得ない
2.同時性 第一人格が主となり、第二人格が芽生えたことを自覚する。多くは自我の能動性が失われ、第二人格の傀儡となる。
の2パターンある。
式の場合はこの二重人格の症例に合致しない為、橙子の言うところの二重存在となる。

この第三人格は、両儀式が二重存在者を生み出す両儀家という特殊な環境に生まれたことにより発現した。彼女は二つの人格を超越する両儀式の本質である。肉体に過ぎない彼女は知性がないから、未熟児として朽ちる定めにあった。『 』である彼女は『 』であるが故に知性も意味も有り得ないからである。
彼女は空である為に『 』に繋がっており、『 』へ至る路である為『 』の一部であり、『 』であるとも言える。
しかし両儀家の家人は両儀式を超人にするために、空の器である彼女に知性を与えた。その後に、全ての地盤になるものとして、彼女は式と織を作った。五章や前項で述べたとおり、両儀つまり陰陽は全てのモノの原点である。
根源から両儀へ、両儀から四象へ、四象から八卦へ、と2の累乗で万物は構成されている。
よって両儀(陰陽)さえあれば、万物を構成出来る完璧な存在となれる。本来ならば抑止力によって死亡する筈だった両儀式という少女は、画して三つの人格を持つ超人として誕生したのだ。『両儀式』は根源であるが故に全知であり、その後は式に任せて眠りについた。
人間は三つの事柄で構成される。精神、魂、肉体である。精神は脳に、魂は肉体に属する。
彼女は肉体(=ハード)の人格の為、脳(=ソフト)の人格、つまり式が居ないと存在出来ない。
式が昏睡後に直死の魔眼を発現したのは、昏睡中に外界に触れず、式という人格を保ったまま、肉体、つまり『 』(根源の渦)を彷徨し、万物の根源、つまり生の源・死に内包されていたからである。彼女の根源が「虚無」であるから、万物を虚無化する道具として魔眼が発現したのだ。式の殺人衝動は万物の虚無化、つまり生命体の生の喪失と根源への回帰を目的とした衝動なのだ。

幹也が中学3年の冬に目撃した白い着物を着た両儀式は彼女であり、式が入学式の時に幹也を覚えていなかったのは此れが理由である。また、『両儀式』は超越者として、式と織の下僕として、彼女の命令であれば、その超人的な力を行使することが出来る。
三章で橙子が「式ひとりでは返り討ちにあうかもしれないぞ。両儀」と言っていたのは、これの伏線である。他にも、五章でエレベーターから出て刀で荒耶を切った式は、刀を持つことにより”たが”が外れ、『両儀式』の超人的な機能が行使されている。

『両儀式』が幹也に式と呼んでもらえて嬉しいと言ったのは、根源の一部としての両儀式(完全な意味を持つ名前であり、その名によって根源たる存在)という両儀式の存在の性格以外に、人格を持った一個人として、また、式と織と同じ幹也の想い人たる女性として意識されて嬉しいという意味だろう。
「待ってた意味がでてくるもの」の意味はおそらく、幹也が式に対して愛情を持っていることが分かったこと、つまり、自分のソフトとしての人格を理解できる人が現れたことを喜んだとする見方、前述のように、根源の一部としての『両儀式』という名称ではなく、一個の人格としてのシキとして認識してもらえることを喜んだとする見方、他にも様々な見解があるだろう。

式が幹也の事が好きであり、『両儀式』は式のものだから、『両儀式』は幹也の願いを何でも叶えられると言うが、幹也は「普通」の体現者であり、式の思い人である彼らしく、無欲である訳でもないが、彼女の誘いを断った。
左目、左脚ともに、白純里緒の苦悩の人生、罪を背負うという意味での、両儀式への愛情の結晶としての傷であり、それを消し去ることは、過去を否定することに繋がりかねないことも、誘いを辞去した理由であろう。
『両儀式』が出てきたのは幹也が中学3年生の時の95年の冬と、今回の99年の冬の2回のみである。

『両儀式』は根源の一部であり、根源そのものであるから、世界を自由に変革することが可能である。物理的に不可能である幹也の左目や左脚を即座に快癒させることが出来るのはもとより、あらゆる実現可能な願望を叶えることが出来る。Fateで言わば、人格を持った聖杯であると言える。世界中の至るところに瞬時に移動出来、好きな形態で存在することが出来る。矛盾螺旋において、小川マンションは荒耶の体内に等しく、荒耶は小川マンションの内部に潜み、小川マンションの至る所に瞬時に移動できたが、『両儀式』はこれを世界単位で行うことが可能であるのである。幹也との会話が終わった後、瞬時に風となり消滅し、幹也の傘を空の彼方へと吹き飛ばしたのは、『両儀式』が世界に潜み、風となって浮遊したことに他ならない。冒頭と最後の幹也の左脚に注目すると、原作にはないが、幹也の脚が快癒していることが分かる。式からのサービスだろう。

『両儀式』は根源の一部であり、根源そのものである。万物は第四章で述べたとおり、破壊され再構築されたいという欲求を持っている。根源には、現在の世界に存在する万物と、現在世界に存在しない虚無の部分の二つにより構成されていて、万物は一端虚無へ回帰した後に、新たな存在として世界に出現する。根源には万物の虚無への回帰欲求を叶える必要性があり、根源の一部たる『両儀式』にも、根源の要請による万物の虚無への回帰欲求への応答が性質として付与されることとなる。よって、両儀式は万物の破壊を命題とする殺人衝動が発現するに至った。両儀式の殺人衝動は、両儀式の起源である虚無、及び『両儀式』の根源たる性格、根源の万物の回帰欲求への応答、万物の再構築欲求による虚無への回帰願望の4要件により必然的に発現したものであり、両儀式に殺人嗜好があるわけではなかったのだ。

この『両儀式』、式、織の関係は、フロイトの超自我、自我(エゴ)、エス(イド)の関係に似ているとも思った。超自我はエスの抑圧、自我は超自我とエスの調停、エスは欲望(リビドー)の解放を行う。『両儀式』は殺人衝動の根源であり、沈黙する。織は殺人衝動の解放者であり、リビドーを放出する。式は織を抑圧し、調停・調節する。

・なぜ黒桐幹也は両儀式に惚れたのか
マザーテレサが「好きの反対は嫌いではなく無関心である(The opposite of love is not hate, but indifference.)」と言ったように、好きも嫌いも相手に関心を持つという意味で愛である。
つまり、相手を思うことが愛であるという意味である。愛とは仏教で渇愛。関心とは仏教で執着である。前章の殺人の説明に用いたように、愛と憎は対義語であり類義語である。愛と憎は表裏一体。
六章での考察の通り、黒桐幹也は起源の関係から、博愛にならざるを得ない。博愛とは差別をしない、つまり特定の誰かを愛してはいけない。黒桐は誰にでも平等に接する代わりに、誰も愛せない。しかし、彼は式を愛してしまった。それは二章の冒頭で『両儀式』に会ったからである。彼は無意識の内に根源へと繋がる彼女に惹かれ、いつしかその感情は強烈な愛へと変貌していた。彼が式に執着したのは、友人として彼女を守りたかった訳ではなかったのだ。


・なぜ両儀式は黒桐幹也に惚れたのか
「普通」の権化である幹也は誰に対しても普遍的に接しようとする。また、前項で述べたとおり、幹也は式に強い執着を持っている。それは彼女が異常であることを強く意識するほどで、彼女は「普通」が魅力的であることに気付いてしまった。また、黒桐は彼を殺そうとした式を彼女が昏睡してからもずっと想い続け、首尾一貫して彼女の味方で居続けた。
幹也は特別になることしか出来なかった人から羨望されることが多く、拠り所としてはこの上ない存在である。自身の異常性に気付き、自分を壊して織を失った式は、殺そうとしても未だ愛してくれて、ずっと自分の味方で居てくれる彼に対して、異常な自分を正常な日常に留めてくれる存在として、いつしか彼の気持ちに答えるようになったのだ。


・人間の人格形成における肉体と精神について
人間は脳だけでは人間に成れない。脳に電線を繋いで刺激を与えても、それは人間としての精神を持つ事はないだろう。脳は知性を持っており、肉体は脳が支配する脳の下僕であり、肉体がなくても、知性の源である脳さえあれば人間足りうるという考えは誤りだ。
知性は精神が形作る。その精神は肉体が形作るのである。空の境界に於ける浅上藤乃の例の通り、五感無くして、健全な精神は生まれない。人間は生まれた時から五感があり、その五感により外界を認識し、知識を”経験”として得る。この知識は「経験記憶」として脳に記憶され、外界から受ける感情を主とした環境を体験することにより「自我」は形成される。
そして、自我が認識する「常識」(幼い子供の時分は両親の言葉が常識となる)に合致するものを知性として吸収し、「知識記憶」として脳に記憶される。この知識記憶の内容が論理的に解釈出来るようになるのは、生まれてから大分たってからである。
以上のことから、人格とは、肉体を通して形成されるものであり、また精神は肉体を通じて保つものである。肉体無くして精神=自我は成立しない。


・境界とは何かについて
①正常と異常の境界
大多数の人間の理性が常識だと定義するものが正常で、非常識だと定義するものが異常である。よって大多数の人間の理性の動向しだいで正常の概念は変容する。江戸時代に武士の帯刀は常識だったが、現在、武士の末裔が帯刀すれば、軽犯罪法で逮捕されるように。
②日常と非日常の境界
自分が経験したことのある状態が続くことが日常で、体験したことのない状態が訪れると非日常となる。非日常も長く続けば日常となるが、その非日常が、理性で受け入れられない事象、状態が現在進行していたり、近い将来訪れることが予想されたりする時に、人はその非日常から日常への復帰を熱望する。
③大人と子供の境界
レヴィンは思春期の男女を「境界人(マージナル・マン)」と定義した。大人の集団と子供の集団の両方に属し、両方に属さない青少年。身体の成熟と精神の成熟の過渡期、そしてそれらのズレなどから思惟する。エリクソンは思春期をモラトリアムと呼んだ。これは社会的責任の猶予期間の事である。青少年は思春期にアイデンティティの確立を行うが、その過程は非常に不安定であり、刺激的な非日常的な事が起こることも多い。高校時代が人生で一番楽しいと思える人が多いものこの為だろう。
④過去と未来の境界
現在とは過去と未来の境界である。過去は変わらないが、過去の解釈を変える事は出来る。未来の為に現在を生きることはとても大切な事である。
⑤生と死の境界
人間は生きている限り必ず死を迎える。しかし、悲観してはいけない。死ぬまでの人生をどれだけ充実したものとして過ごせるかに、人間の本質があるのである。
また、死後観を持つことも大切だ。宗教はそれぞれ求める人に死後観を与える。
「死後の世界観」は、その人々にとって「死後」を迎えるための「生」のあり方に必要なものである。自らの思い描く「死後の世界観」で、自分が善い目をみれるように現在を生きる事はとても重要だ。
⑥殺人と殺戮の境界
割愛する。七章参照。
⑦人と怪異の境界
殺人鬼とは「人を殺める鬼」である。では鬼とは何なのか。鬼とは「隠(オン)」が訛った物で、
普段は隠れているものだ。平安期に伝わった陰陽道で都(中央の豊富な知識人)から視た異人、土人、山人などのまつろわぬ民なども皆鬼扱いされたように、鬼は妖怪ではない。
妖怪は匹と数えるが、鬼は人と数える。これは鬼が人である証拠だ。そして般若の面などからも分かる通り、鬼とは前章の殺人の概念で述べた情念が自己のキャパシティを越えた際に起こる負の能動的な感情に包まれた人間を指すのだ。そして「鬼」は感染する。
子供の有名な遊び「鬼ごっこ」からも分かるとおり、鬼に襲われた人間は鬼になってしまう。例えば色恋沙汰の縺れで男が女を殺す。この時鬼は男だが、今度、女の父親が男を殺す。このとき鬼は女の父親となる。そして今度、男の子供が・・・といった連鎖を生む虞があるのだ。しかし「鬼」とは「人間が実行出来るのに中々出来ないことをする人」という解釈も出来る。「心を鬼にする」という言葉は良い例で、この場合は善い結果の為に一見悪いことをする。鬼の本質は掴めないが、鬼が行う行為が平気で出来る人間は鬼と言える。だから殺人鬼は鬼なのだ。そして鬼とは人間と怪異の境界である。鬼は人を喰う。白純里緒などは将に鬼である。
⑧生と再生の境界
通過儀礼とは、前項での説明のとおり、人生に於いての区切れの為に行う「式」である。そして、代表的なもので成人式(元服)では、擬似的な死が要求される。モラトリアムは、現在もその長さを着々と伸ばしている訳だが、之が形成されたのは近代であり、昔は、子供と大人の境界は「成人式(元服)」であった。現在でも、バンジージャンプに代表されるような通過儀礼を行う習俗が続いている地域もある。この通過儀礼で死ぬことも当然ある。「死」に接触するという行為は通過儀礼において大変重要な要素である。


・「空の境界」の意味について
1.当初の題名が「空の境界 式」というところから、織を失うまでの式の二重存在、つまり肯定しかしない式と、否定しかしない織、普通の人間にはあるが、人格が二つ極端に特化している為、両者の境界に有る筈の妥協は無く、境界が無い、つまり空(カラ)である、という意味。
2.前述した様々な境界について、これらの定義は詰まるところ曖昧で、何時覆されても可笑しくない。つまり、これらの対立概念はそもそも厳格に定義し得ない、つまり境界は曖昧で空(カラ)である。
3.前述の式と織という人格の形成によって出現した肉体の(つまり精神の殻)の人格『両儀式』は式と織という極端に正反対の人格の間にある人格、つまり空(カラ)の境界上にある。また、第三人格は普段は隠れており、その存在は認知されない。つまり空(カラ)である。
4.両儀式という器に式と織という人格(内容物)が納まっており、その人格は殻の中で確りと、対立概念としての明確な境界がある。つまり、肉体という空(殻)に境界がある。
5.社会が設定した恣意的な常識と非常識の境界は空である。通じ得ない人と人の心の境界を空にすること、つまり無くすことが大切である。
6.私たちの心にも伽藍はあり、それの半分は自分であるが、もう半分は他人である。自分の意志と他人の意志の心の中での境界を空にし、両者とも理解し合う事が理想である。
7.『両儀式』とは肉体の人格、つまり魂であり、魂は我々一般人にも存在する。我々の肉体にも「空の境界」は存在するのかもしれない。


・「snow falling」について
snowは英語で雪を表す名詞。fallは降るを表す動詞である。
『両儀式』幹也の邂逅をイメージして奈須きのこ監修の下、梶浦由記によって作詞・作曲された。


・各作品の意味の推察について
「俯瞰風景」・・・巫条霧絵の視た俯瞰の視界からの風景―巫条ビルの幽霊も表すかも
「殺人考察(前)」・・・幹也、視聴者による95年に起きた殺人事件、また「殺人」の考察
「痛覚残留」・・・浅上藤乃の腹部に残留した痛覚
「伽藍の洞」・・・昏睡から目覚めた式の精神の片割れに空いた穴―以前は織が居た
「矛盾螺旋」・・・燕條巴(偽物)の日常、小川マンションの実験・階段、荒耶の悲願
「忘却録音」・・・玄霧皐月によって根源より採取された、忘却された記憶の録音
「殺人考察(後)」・・・幹也、視聴者による99年と95年に起きた殺人事件、また「殺人」の考察
「空の境界」・・・空の境界とは何なのか


・「空の境界」(終章)という作品について
式は『両儀式』という『 』に通じる存在を土台とし、万物の根源たる両儀、肯定と否定、男と女、表と裏などの対立する人格、式と織を生まれた際に持った。『両儀式』は根源である為に外界に触れず、長い眠りに着いた。『両儀式』は肉体の人格であり、ハードウェアである。精神の人格である式・織はソフトウェアであり、彼女等には服従する。
『両儀式』は再び目覚め、式の恋人である幹也の願いを叶えられるからと望みを要求するが、幹也はこれを拒み、彼女は再び眠りについた。


・名言(原作より抜粋)

『両儀式』「――さあ、あなたは何を望むの?」

幹也「うん、式は壊すのが専門だからね。無理をしてよけい酷いめにあったら、こわいよ」

『両儀式』「あたりまえのように生きて、あたりまえのように死ぬのね」

『両儀式』「なんて、孤独――」

『両儀式』(さようなら、黒桐くん。――ばかね。また明日会えるのに。)


感想
我々が非日常や空想の物語に魅了されるのは、劇的な冒険や体験をする主人公に自己を投影する疑似体験だからだ。人は誰しも、もう一つの世界、イデアなどの現象界を超越した真の世界、この世を形作る不変の真理の存在を渇望するものである。
私たちは日常に於いて常に「真の私」を探し続けている。ソクラテスが人間のアレテー(徳)は「よく生きること(知識を活用すること)」と言ったように、人生とは真理の探究の旅とも言えるかもしれない。


・読者へ
一章から本章まで、私の考察をお読み下さった方、冗長な駄文にお付き合い頂き申し訳なく思うと共に感謝する。簡潔に書こうとは思いつつも上手く行かなかったが、なんとか終章まで漕ぎ着けることが出来た。私の考察は原作・劇場版での正規の設定と、私の説、主観による感情で構成されており、玉石混合では無いけれども、僭越ながら鵜呑みにしてはいけない。詰まるところ、私のレビューは作品の考察の覚書である。視聴者には是非、自分なりに考察して欲しい。私の拙いレビューが少しでも本作の理解の助けになれば幸いである。
・雑学
1.空の境界という作品は1998年10月から「空の境界式」という題名で1~5章がwebサイト「竹箒」に掲載されたのが初出。
2.2001年12月31日のコミックマーケット61に於いて全7章の同人誌を2冊に分割し発売した。
3. 2002年8月9日に同人作品として一章のドラマCDが発売された。
4.伝奇に分類される本作であるが、ドラマCD「アーネンエルベの一日」に於いて式に「オレ、『空の境界』を伝奇だなんて思ったこと無いぞ。あれはポエムだ。人生のある時期にしか許されないポエムだだ漏れテキストだよ」と評されている。
5.劇場版「空の境界」には日本橋、聖蹟桜ヶ丘、吉祥寺、レインボーブリッジなど東京の名所をモデルとした風景が登場する。
6.黒桐幹也が通っていた大学は明治大学和泉キャンパス、黒桐鮮花が通っている礼園女学院は神戸女学院大学が各々モデル。
7.ufotebleが徳島市にスタジオを開設したことに関連し、2009年から徳島市阿波踊りの告知ポスターに空の境界のキャラクターが登場。浴衣姿が描かれる。毎年窃盗事件が多発。
8.2013年秋、空の境界の画集が発売される。
9.空の境界の著作権はTYPE-MOONではなく奈須きのこ名義である。
10.「らっきょ」という略称は、奈須きのこが茄と茸なので農産物関連からラッキョウになった(月姫から続いていない)。
11.空の境界限定愛蔵版空の境界用語集で「大タイトルである空の境界は、荒耶宗蓮という人物の物語でもある。その為、HP上では矛盾螺旋の段階で一応の幕とした。空の境界という物語は矛盾螺旋で終わっている」と述べられている。
12.忘却録音で1年D組と1年4組が混在しているが、正式には1年D組。著者の奈須氏の学校ではABCだと階級別に感じられるということで、通称123と呼称していたようで、これが一般的な考えだと発表時まで考えていたことに起因する。
13.そもそも本作は原作小説ファン向けの作品であり、テアトル新宿での単館上映という極めて小規模の企画だったので、元来新規視聴者を意識した作品ではない。
14.2013年7月より1~4章と7章が、43127(章)の順で、TOKYO MIX、BS11、ニコニコ生放送、バンダイチャンネルにて全13話で放送された。しかし、「式と幹也の純愛物語」という側面から肝心の5章を放送せず(1クールだから仕方ないが)、余計に理解が困難となっている。9月にAT-XでRemixを含め、全7章と終章が一挙放送される。
15.kalafinaは劇場版空の境界の為に梶浦由記によって結成されたグループである。kalafinaは造語で「空雛」つまり中身のない人形という意味である。中身の無い3人の人形が、音楽と3人合致の歌によって意味のあるものへと昇華されるという意味である。


・オマケ
陰陽五行思想における五行の相生相克と空の境界の人物関係図の考察
黒点(=●)が頂点となる

               ●木(青)=正常な式



   ●水(黒)=黒桐               ●火(赤)=異常な式





        ●金(白)=白純     ●土(黄)=織

{/netabare}
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この終章は、「空の境界」というタイトルの意味や、「普通」であることを目指した幹也が何故式に特別な感情を抱いたのか、両儀式という人間の本質などが短い時間に凝縮されている。是非、境界が空であること(The borders are empty)を思惟して欲しい。


本作は考察のし甲斐があり、非常に面白い。また現代人への処方箋のような役割を果たし、私達にカタルシスを与える。

私は全章視聴後原作を購読したが、読み応えがあって大変面白い。アニメを観た人は補足の為にも、お勧めしたい。
未視聴の方は、是非挑戦していただきたい作品である。

投稿 : 2024/11/09
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