ossan_2014 さんの感想・評価
2.5
ディテールとトリビア
マフィアの支配する無法地帯で炸裂する暴力を、独特の美意識で描写している作品世界だが、冒頭の数話を見る限り違和感が募ってゆく。
SF的な設定のある世界らしいことはうかがえるので、ギャングしか登場しない都市の不自然さについては、いずれ何らかの描写があるのかもしれない。
ギャングの経済基盤は、突き詰めれば「まともに働いて金を得ている」堅気の人間の懐から金をむしり取ることにあるので、ギャングしかいない都市で互いの金を奪い合ったところで経済的に成立しないのは明らかだ。
何らかの設定によって都市の外部から資金の流入が確保されているのだとしても、麻薬や娼館が描写されているのに、これを支える顧客の「堅気」が登場しない不自然は残る。
それなりに職業意識の高そうな警察も、守っているのは「堅気」の市民の治安ではなく、ギャングの抗争のレギュレーションを「守る」という「レフリー」役のように見える。
(最終的に、舞台の都市が政治的な理由で半封鎖された隔離地区であることは説明されるが、政府の監視がありながら、ギャング組織が運営を担っている理由は不分明だ。
ギャング組織があたかも人権団体のようにふるまい、堅気を搾取する場面が描かれない理由も。
ギャング組織の暴力は、非合法に堅気を搾取するためのものだ。搾取をしないのならただの企業体であってギャングではない筈で、暴力を保有する必然性が見当たらない。
自衛のための暴力に見せてはいるが、本末転倒で倒錯している。)
全ては、一見して特徴的な、独特の黙示録的な頽廃をスタイリッシュに表現するためであり、設定の合理性はあまり考慮されてないのかもしれない。
それはそれでいいのだが、固有の美意識に貫かれたスタイルを見せるのが最優先にしては、いささか引っ掛かりを感じさせる。
架空の都市にせよ、明らかに中南米を連想させる風景で、かつ登場人物にアングロ・サクソン系の名前がほとんど見られないにもかかわらず、公文書や商店の品書きが英語表記=公用語が英語。
撃鉄を起こさなければ発砲できない銃種で、拳銃の撃鉄が倒れたまま発射する描写が多い。
アニメを視聴するにあたって、アラを探しながら観たところで面白いはずはない。
ちょっとした食い違いや不整合は、見ないふりでスルーするか脳内補完で視聴する方が楽しいに決まっている。
が、本作のように、独特のスタイリッシュさでエキゾチックな舞台での過剰な暴力を描くことを前面に出した作品においては、上記のような瑕疵は、トリビアルな瑣末事に過ぎないと見過ごすわけにはいかない。特に細部のディテールが重要な意味を持つハードボイルドの様式を基調にしている場合には。
とびぬけて格好の良いお洒落をキメている人が、なにかの拍子に、お洒落を演出するために必死の一夜漬けをしていることが暴露されたとき、「ダサい」を通り越して「滑稽」に見えてしまうことがある。
格好をつけるために「努力している」と見透かされることが余計に滑稽さを際立たせるのだが、独自の美意識で映像を構成している物語世界で細部にスキが見えると、細部を細かく描写しようとする意図が見えるだけに、スタイルそれ自体が「お笑いぐさ」になって世界のもっともらしさが崩壊してしまう。
スタイルのために舞台が異国的である必要から「外国」を選択したのだろうが、いくら架空世界の都市とはいえ、現実の中南米のイメージを借用してリアリズムを補強しようとしているにしては、借用元についての考察が不十分なのではないか。
「外国」の記号としての外国語は何語をもってきても製作上の手間は同じなのだから、英語にこだわる理由はない筈だ。
品書きや本のタイトルが英語でも、公文書=捜査資料がスペイン語かポルトガル語であれば(あるいはその逆でも)かえってもっともらしさを補強しただろう。
使用言語の考慮など視野になく、外国=英語という貧弱な固定観念しか持ち合わせていないようだが、今ではアニメを視聴する層も幅広くなっていて、英語その他の外国語が話せたり海外経験のあるアニメファンも数万人どころか、ひょっとすると数十万単位だろうに、現代の視聴者に向き合う姿勢が安易に見える。
暴力描写の要である銃にしても、実在の銃ではなく、架空のテッポウや思い切ってレーザー銃であっても設定に矛盾しないだろう。
わざわざ実銃を使ってリアリティを補強する演出手法を採用しているのに、肝心の実銃の描写に対する不備を曝け出したのでは、もっともらしさを阻害しているどころか、実物主義演出法をとることに自覚的ではないと告白しているに等しい。
ある美意識を持った雰囲気を描き出すことだけを目指した作品があっても、それはそれで意義のあることだと思う。
だが、ごく普通の視聴者が冒頭近くから引っ掛かりを感じるようでは、この美意識を貫徹して物語を語るのだという覚悟が製作者には足りていないのではないか、と疑われても仕方がないだろう。
フィクションにおいて、現実そのもののように世界を構築する事はできないし、その必要もない。
が、配慮すべきディテールと捨ててもよいトリビアの見極めに注意を払った形跡がうかがえないのは、構築への意識が低いと思わざるを得ない。
過去に類例のない大胆な演出に見事に応えた声優の演技が印象に残るが、せっかくの役者の熱演が「茶番劇」に見えてしまうようではあまりに役者が気の毒だ。
本作に限らないが、どれほどの名演でも作品世界という舞台の破綻を補うことはできないと見せつけられるとき、役者というのは報われないこともある職業だなと思う。