renton000 さんの感想・評価
4.4
独特の世界観って何さ?
あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。
おもしろいですよね、『蟲師』。成分タグに「独特の世界観」というのが付いていました。私も同感ですね。色彩とかだけじゃなくて、世界観が独特なんですよね。
『蟲師』を見るたびに思い出すことがあります。我が家にホームステイしていた、アメリカ人の大学生のこと。
彼は『蟲師』を題材にレポートを書いていました。彼に頼まれて、そのレポートの日本語チェックをしてあげたんですが、文法以上にいろいろ気になったんです。私たちが感覚的に分かっている『蟲師』の世界観を把握できていないように感じました。彼も『蟲師』が「独特の世界観」であると主張していました。
果たして私(たち)と同じ意味で使っているのか…。これがこのレビューの主題です。
↓畳んでるけど、ネタバレはないよ。
<彼の世界と私の世界>{netabare}
彼は、とある一神教の教徒です。比較的敬虔な。まぁそれはいいのですが、「まず神様がいて、神様に模して造られた人間がいて、その他」みたいな序列を、傾向として持っている。そのせいかどうかは分かりませんが、彼は勝敗やランクを付けるのがとても好き。支配と管理と序列の世界。これが「彼の世界」です。
一方、私は神様が何かなんて気にもしない。あえて言うなら、コントロールの出来ない不可侵なもの。つまり、よく分からないもの。環境みたいなものです。世界を「神様→人間→自然」という序列じゃなくって「人間と人間を取り囲む環境」という比較的フラットな関係で見れる。これが「私の世界」です。
{/netabare}
<蟲師の世界>{netabare}
「蟲師の世界」には、2種類の人間います。一部の例外を除けば、蟲師である蟲が見える人間と、一般人である蟲が見えない人間に分けられます。「蟲師の世界」を考えるには、特別な存在である蟲師の視点で見てはいけませんよね。まずは作中の一般人の視点で見る必要があります。主人公のギンコが蟲師であったり、私たち視聴者にも蟲が見えていたりするために、ややもすると忘れがちですが、「蟲の見えない世界」が基本にあるんです。
『蟲師』の各エピソードを見たときに、蟲が全く見えないことを想像してみてください。何が起こっているか分からなくて、ちょっと怖い。でも、ただそれを受け入れるしかないですよね。これが作中の一般人が見ている「蟲師の世界」です。つまり、蟲が神様だとは言えないまでも、「コントロールの出来ない不可侵なもの」という人間を囲む環境として描かれているってことです。これは「私の世界」に酷似していますよね。
『蟲師』を見たときに感じる日本っぽさというのは、着物を着ているから、というのではなくて、その題材となっている迷信を含めて、精神世界が私(たち)になじみやすいからのような気がします。
{/netabare}
<独特の世界観①>{netabare}
『蟲師』は「私の世界」と近いものであるはずなのに、「独特の世界観」を感じてしまう。この感覚はどこから来るのでしょうか。
見えないはずのものが見えてしまう、というのは理由にならないでしょう。
このような作品は、たくさんあります。例えば「妖怪もの」がそうですよね。妖怪も本来は見えないため、一般人にとっては「環境」みたいなものです。つまり、「妖怪もの」も「私の世界」が根底にあるわけで、「蟲師の世界」と基本構造は同じと言えます。でも、「妖怪もの」に「独特の世界観」があるって言われることって、あまりないですよね。見えないはずのものが見えてしまうことは、重要ではないように思われます。
蟲が特殊でしょうか? そう思っていたのですが、これは誤解のようです。
蟲も妖怪も、自然現象・生物・病など様々な概念を持っています。つまり、概念的には違いがない。姿かたちが特殊だというのなら、いびつな妖怪が出てくる作品には全てに「独特の世界観」タグが付くことになってしまいます。でも、これは少し乱暴ですよね。
仮にですが、蟲は妖怪ですって作中で説明されていたとしても、『蟲師』に「独特の世界観」タグはついていたと思うんです。つまり、蟲っていう存在が「独特の世界観」を作っているわけではなさそうなんです。
『蟲師』を「独特の世界観」にしている原因は、おそらくギンコです。ギンコという主人公が特殊なんです。
「妖怪もの」では、主人公が妖怪を「環境」として見るのではなく、まず友人や敵として相対します。意思疎通ができなかったとしても、妖怪との対話が前提としてあるんです。そういう世界観が作品としての魅力になっている。
でも、『蟲師』では蟲との対話をせずに、蟲という環境を介して、人間と相対することが主題となっているんです。
もし仮に、ギンコが蟲とバトルを始めたら、これはもう「妖怪もの」ですよね。つまり、「私の世界」を起点に「妖怪もの」ではなくて「独特の世界観」にしているのは、蟲ではなくてギンコなんです。ギンコが蟲という異形のものに見せる態度が「独特の世界感」を作っているんです。
{/netabare}
<独特の世界観②>{netabare}
『蟲師』にも、「彼の世界」の住人がいます。環境である蟲をコントロールしようとする人々です。彼らは、基本的には不幸になっちゃいますよね。作者はこっちじゃないよって言っている。
「私の世界」の住人は、一般人ですね。蟲という環境に翻弄され、耐えるだけです。現実世界の私たちと同じで、目に見えないものを環境として受け入れることしかできません。
「独特の世界観」の住人は、ギンコとギンコというフィルターを通したときの私たち視聴者です。
ギンコは、蟲と対話をしません。話しかけることはありますが、あれは独り言みたいなもので、対話が成立しているわけではありませんよね。でも彼は、意思疎通のできない蟲に対してとことんやさしいわけです。どんな悲劇が蟲によって引き起こされても、絶対に蟲を責めたりしません。蟲っていうのはバトルの相手じゃなくって、環境だから。人の業を嘆くことはあっても、蟲に怒りをぶつけたりしないんです。
視聴者も同じです。『蟲師』の各エピソードは、人の業に蟲の影響が絡んで、嬉しかったり、悲しかったり、切なかったりするわけですが、蟲が起こすことだから、そういう世界だから、視聴者は「しょうがない」と割り切っちゃえるんですね。何人かのレビューを拝見しましたが、誰も蟲を責めてはいませんでした。ギンコと同様に蟲を環境として受け入れているから、蟲に対してやさしくなろうしなくても、無自覚にやさしいレビューが書けるんだと思います。
これって実はすごいことですよね。もし現実世界で蟲みたいな存在が目に見えていたら、私はそれを受け入れられる自信はありません。実際、虫の一匹にもあたふたしているわけですから。そんな蟲を無条件で受け入れられるギンコは、とても異常な存在なんです。
でも、視聴者はギンコを介して蟲を見ることで、その世界に自身を投影し、蟲を受け入れてしまっているのです。ギンコにも視聴者にも、異形な「環境」が見えている。見えているのに、バトルの相手にせずに、なお環境のまま「しょうがない」と受け入れている。この異形のものを受け入れる姿勢が「独特の世界観」の正体なのだと思います。
{/netabare}
<独特の世界観③>{netabare}
意外かもしれませんが、この「しょうがない」って感覚、留学生にはなかなか伝わらないんですよ。「it can't be helped」や「i have no choice」なんていったら「あきらめるな!」なんて返されたりもする。「that's life」や「whatever will be will be」もなんか違う。英語にぴったりの訳語がないんです。
私たちが「しょうがない」って思うとき、あきらめと同時に受け入れていると思うんですよ。あきらめなきゃいけない状況で、怒るでも耐えるでもなくて、許容してる。この「環境を許容する」「許す」って感覚が英語には入っていないんです。
ギンコっていうのは、蟲という存在を「許し」てしまっているんです。まさに究極の「しょうがない」の体現者であるわけです。蟲が起こす全ての結果を受け入れる度量がある。だから人にも気遣えるし、やさしくもできるんです。それが私たちの琴線を揺さぶるんだと思います。
これは『蟲師』の面白さに関連していると思います。この作品てどこが面白いの、と聞かれても答えるのはなかなか難しい。私は、一つの話が完了したタイミングで「面白い」と感じています。面白いシーンがあるのではなくて、一つの話が全体として面白い。ギンコが蟲を受け入れて、私がその世界を受け入れる。その調和する一点が、この作品に感動を生んでいるように思えます。
{/netabare}
<まとめ>{netabare}
彼にとっては、この辺を整理するのがとても難しい。
彼も『蟲師』は面白いって言っていました。この辺の感覚は私と大差ないと思います。純粋に人間の物語を楽しめている。でも世界観を説明するとなると難しいんですね。不都合な蟲を屈服したくなってしまう。私が無視してしまう蟲の定義とかにもこだわってしまう。感想文ではなく、レポートを書こうとすると瓦解してしまうわけです。
私が言う「独特の世界観」っていうのは、ひねられた世界です。「私の世界」を「妖怪もの」とは別方向にひねっただけで、根本は変わらないんです。「蟲って何?」って聞かれたら「よく分からないもの」って答えておけば、もう「私の世界」に入れることが出来るんです。その上で「蟲だからしょうがないね」って言っておけば、ギンコが作る「独特の世界観」を充足することができるんです。
でも、彼が言う「独特の世界観」というのは、「彼の世界」とは別世界って意味なんです。「彼の世界」をひねっただけでは到達できない世界なんです。一度「彼の世界」から乖離して「私の世界」に到達しなければいけない。その上で「しょうがない」って感覚を学ばなければいけないんですね。
おそらくですが、彼が蟲師を理解するためには、『もののけ姫』をきちんと解釈できるレベルが必要になると思われます。
『もののけ姫』というのは、人間が自然に対抗しようという対立から始まります。そして、両者が共存へと導かれる物語です。ここでの話に合わせるなら、「彼の世界」から始まり、「私の世界」に至る物語です。
一方で、『蟲師』というのは、自然や環境との対立を必要とせずに、初めから受け入れ、その上でどうやって折り合いをつけて行こうかって物語なんです。『もののけ姫』の先にある、「私の世界」だけを舞台とした物語です。
{/netabare}
<おわりに>
多文化主義ってよく言われますけど、言葉でいうほど簡単じゃないですよね。毎年留学生が来る頃になるといつも思います。表面的な感情の部分は共感できても、根の深いところで価値観の違いを感じます。
もちろん彼に「私の世界」について考える素養がない、というのではありません。「彼の世界」と「私の世界」について考えるときに、10-0でどちらに振れるか、ではなくて、7-3とか6-4とかのバランスの話です。個人的なものなのか、社会的なものなのか、宗教的なものなのか、それは分かりませんが、人の持つ思考のクセみたいなものがどちらに向いているのか、という話です。
これはもちろん私にも当てはまることです。私も海外の映画とかを見ても、宗教的な象徴物になんてなかなか気付けないですからね。それでも楽しいと言ってしまう。まぁ理解できないのはお互い様ってことです。
ちなみにですが、日本人とアメリカ人とか、東洋と西洋とか、そんな大層なことをいうつもりはないですからね。あくまでも私と彼の個人的な「独特の世界観」に関する話です。みなさんが考えている「独特の世界観」とも違うかもしれませんしね。あしからず。