renton000 さんの感想・評価
4.8
心配性?放任主義? どっちも愛情だ!(既視聴向け)
あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。
初見でした。100分くらい。現代ファンタジー(?)とミステリー。
ファンタジーに(?)が付く理由は後述するとして、まずは総評から。
かなりいい作品でした。傑作には手が掛かりませんが、良作よりは確実に上です。秀作の上位ってところですね。私は、米林監督の前作『借りぐらしのアリエッティ』を良作と位置付けていますから、ワンランクのアップです。好き嫌いでいうとどちらも同じくらい好きですが、作品としては『思い出のマーニー』の方が圧倒的に上だと思います。特に、エンディングの映像と調和した美しさには、強く心を打たれました。
傑作にしなかった理由は、最後に記載します。
テーマと大まかなストーリーの流れ:{netabare}
この作品の目的は、主人公アンナが「自分嫌い」と「他人嫌い」を克服することです。ストーリーの流れを簡略化すると、
「オープニング」→「ダンスシーンを含む前半」→「サイロシーンを含む後半」→「謎解き」→「エンディング」です。
オープニングでは、アンナが抱えている問題、すなわちアンナの「自分嫌い」と「他人嫌い」が描かれます。
前半では、マーニーとの触れ合いを通して、「自分嫌い」を克服する様子が描かれます。
後半では、同じくマーニーとの触れ合いを通して、「他人嫌い」を克服する様子が描かれます。
そして、謎解きと、全てを踏まえたエンディングとなります。
個々の内容を語る前に、最も重要な事柄を片付けてしまいます。それは、アンナの問題解決をサポートしてくれる人物であり、本作のキーパーソンでもある「マーニーについて」です。
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マーニーとは?:{netabare}
10歳前後の子供が見る際には、「マーニーおばあちゃんがおばけとなって出て来てくれて、孫のアンナを助けてくれた」という程度で良いと思います。作品内でもセツの夫が繰り返しおばけの話をしていますし、ここに一定の合理性を持たせようとしているのが感じられます。
つまり、マーニーは「おばけ」だということ。
この作品のメインターゲットである思春期の子が見るのなら、きちんと読み解けるでしょう。
初めてマーニーを見たアンナは、「あなた本当に人間?」と聞き、「夢の中に出てきた子にそっくり」だと言っています。そしてその後、サヤカに対して「(マーニーは)私が作り上げた空想の中の女の子」だとネタ晴らしをしています。
つまり、マーニーは「空想上の友達」だということ。ここが思春期の子が着地すべきところです。
ただ、ですね。この「空想上の友達」というのが大問題なのです。これは、心理学や精神医学で用いられる用語「イマジナリーフレンド」を直訳したものです。詳しくは、ウィキペディアの「解離性同一性障害(以下、DID)」とその中にある「イマジナリーフレンド(以下、IF)」の項を併読してもらうとして、ここでは便宜上、私のにわか知識を断片的にまとめます。
IFというのは、主に幼児期の子供が見る「空想上の友達」のことです。幼児が、居もしない友達と遊んでいるとか、壁に向かって話しかけているとかが、おばけ的な話で語られることがあります。ですが、あれはIFとコミュニケーションを取っているに過ぎません。IFは、会話ができたり、視界に写ったり、場合によっては、手をつなげたりもしてしまうそうです。空想の存在であるにもかかわらず、現実感を持ってしまうことがあるのです。
これは、コミュニケーションを取る機会の少ない一人っ子や第一子に多く見られる現象です。幼児にIFがいること自体は決して悪いことではなく、むしろ、想像力の発達した子供である証でもあります。異常ではなく、正常の範囲内の事柄です。
多くの場合、この現象は、現実の人間関係を重視していく中で7・8歳くらいまでには消滅します。ですが、ごくまれに思春期や青年期まで続いてしまうことがあります。また、IFの人数も増えてくる。こうなってくるとやや異常性が増してきます。DIDを疑わなければいけなくなってしまいます。
アンナは「悩んでいた」のではないですよね。実際はその程度に留まらず、「病んでいた」んです。空想の中の存在を、現実感をもって捉えてしまうくらいに、DIDの一歩手前くらいに、「病んでいた」んです。アンナは、ジブリ史上初の「病んでる系主人公」だったということですね。
マーニーが本当にIFなのかを確認する前に、アンナの病みっぷりを見ておきます。
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アンナのこと:{netabare}
オープニング開始前の状況をまとめます。
祖母マーニーに育てられていた赤ちゃん時代は幸せでした。その後、祖母マーニーが亡くなり、引き取り手が見つからない中で「自分はいらない子なんだ」だというトラウマが生まれます。養父母に引き取られた後は笑顔を取り戻しますが、補助金の一件で「やはり自分はいらない子なんだ」だと思うようになってしまい、笑顔を失います。
写生会のエピソードで、アンナは「透明な輪に入れない」と言っていました。「どうやって輪に入ろうか」と試行錯誤する悩みの時代は終え、「入れない」ことが前提になっているんです。だからこそ、「私は私が嫌い」とも言えてしまう。
一方で、アンナの「他人嫌い」は、セリフとしては出てきません。初めてこれが分かるのは、大岩家への引っ越し直後のシーンです。
セツは帽子とカバンをアンナから外すのですが、その時のアンナはビクッと身体を縮こませ硬直し、目をつぶっていました。他人の手が急に自分に近づいてきたら、ビクッとなってしまうことはあるかもしれませんが、ギュッと目をつぶるほどではないと思います。複雑な生い立ちが原因で、アンナが他人自体を恐怖している、と描写されているのです。
その後の郵便局前でノブコから逃げるシーンでもアンナの「他人嫌い」は分かります。ですが、身体的接触を拒むほどに他人を恐怖しているのが分かるのは、このシーンだけです。
このように、アンナは「自分嫌い」と「他人嫌い」を併発してしまいました。アンナ自身の存在がアンナの中で極めて希薄になってしまったこと、これがアンナの抱えていた問題です。
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マーニーのこと:{netabare}
では、マーニーが本当にIFなのかを確認します。
まずは、そもそも論から。なぜ空想の存在であるマーニーが、金髪長髪の姿だったのか?
マーニーはアンナの同世代の少女として登場しますが、アンナは祖母マーニーの少女期の姿を知り得ません。劇中では一度も少女期の写真は出てきませんし、「絵を描いてもらったのは初めて」だと言わせています。それにもかかわらず、アンナはマーニーを金髪長髪の姿で再現しました。
この答えは単純そのものです。幼女期のアンナが抱えていた金髪長髪の人形が、マーニーのモデルだからです。家族を失い、孤独であったアンナを救ってくれた唯一の友達、大好きな人形の姿を自分の友達としてイメージしたのです。
次に、なぜマーニーは青眼だったのか?
作品内では、一度も人形の顔は写りませんでした。つまり、人形自体が青眼かどうかは分かりません。ですが、人形の目が黒であれ青であれ、マーニーは青眼になっていたはずです。なぜなら、アンナの友達は、アンナと同じ異質な存在でなければならなかったからです。これは、次に書く誕生経緯から分かります。
最後に、どのような経緯でマーニーは誕生したのか?
一番初めにマーニーが誕生したのは、引っ越し初日のアンナの夢の中です。
引っ越し後、アンナは「他人の家の匂いがする」と言っています。「匂い」というのは、過去の記憶を呼び覚ますものです(プルースト効果)。アンナは、過去の「孤独の匂い」を思い出してしまったのです。そして、手紙を出す際にノブコから逃げてしまいました。この日の夜に、夢の中でマーニーが誕生します。
このときのマーニーは髪を梳かれているのみで、顔は写りません。アンナの中で、まだ目の色は確定していないのです。
初めてマーニーが現実に出てきたのは、七夕祭りの日です。七夕祭りで、ノブコに「青い目」という異質な自分を指摘されてしまいました。その後、水辺で「私は私の通り(=見えている通りに異質)」だと言い、二度目の「私は私が嫌い」発言があります。マーニーはこの後に現実の中で初登場します。
自分の友達であるマーニーの目の色というのは、自分と同じ異質な色、すなわち青眼でなければならなかったのです。
前述したとおり、アンナは「自分嫌い」と「他人嫌い」を併発し、自分自身の存在を希薄化してしまいました。アンナは極めて孤独な存在になってしまったのです。この精神的に追い詰められた状況が、アンナの病みっぷりを進行させ、孤独な自分を救うための救済者が必要になりました。この救済者というのが、IFとしてのマーニーだったのです。
そして、マーニーは、アンナを救うための姿を採っていたのです。湿地屋敷に住んでいた人の情報としてアンナが持っていたのは、セツが言った「外国の人」だけです。それ以外の情報は、全て自分の空想の中で都合よく作り上げてしまいました。
マーニーはIF以外あり得ない、ということですね。
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おまけ①(アンナの動物表現):{netabare}
ちょっと話題を変えて、アンナの動物表現について。
アンナは一部の人を動物に例えていますが、これは物語序盤の非常に病んでいるときだけのことです。いくらアンナが病んでるからと言って、動物表現を「悪い意味で使っている」と取るのはミスリードだと思います。
アンナに動物表現を使われたのは三人だけです。「メェメェうるさいヤギみたい」と言われた頼子、「クマ、いやトドかな」と言われたトイチ、「太っちょブタ」と言われたノブコ。
この三人は、アンナが強い孤独を感じているときに手を差し伸べてくれた人、という点で共通しています。アンナは、この三人に少なからず感謝しているのだと思います。だから、自分の嫌いな人間ではなく、動物で例えていたのでしょう。歪んだアンナの歪んだ愛情表現なんだと思います。まぁ「太っちょブタ」は言い過ぎですけどね。
もし、悪い意味で動物表現を使っていたのなら、ノブコママに使わないのは変ですからね。
また、大岩夫妻に動物表現を使っていないのは、手を差し伸べてくれたわけではないからです。大岩夫妻が向けるアンナへの愛情は、徹底した放任主義です。信頼しているからこそ、何の心配もしてくれませんでした。
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マーニーによる救済:{netabare}
では、話を戻して、アンナの「自分嫌い」と「他人嫌い」が回復していく過程を見ていきます。
このために必要なことが、二つあります。
一つ目は、「今、愛されていることを知ること」です。補助金の一件で「今の愛」に疑問を持ってしまったことが、アンナが塞ぎ込んでしまった直接的な原因になっています。これを払拭するには、「今の頼子の愛」を知る必要があります。「今、愛されていることを知ること」が「今の自分を好きになること」につながります。
二つ目は、「過去、愛されていたことを知ること」です。「今の愛」に疑問を持ってしまった根本的な原因は、「過去に引き取り手がいなかった」という経験がもたらす「自分は不必要な人間だ」というトラウマです。これを払拭するには、過去に愛されていた事実、すなわち「過去の祖母マーニーの愛」を知る必要があります。「今の愛」と併せて、「他人は愛してくれるんだ」と思えるようになることが、アンナの「他人嫌い」を解消させるのです。
で、この二つの問題解決を手伝ってくれるのがIFマーニーです。
厳密に言うと、「自分嫌い」を克服してくれる「前半マーニー(ダンス)」と、「他人嫌い」を克服してくれる「後半マーニー(サイロ)」は、別物として考えなければなりません。
「前半マーニー」というのは、アンナの心の中からだけで生まれました。アンナは、初めて会った同世代の子からは逃げていたにもかかわらず、「前半マーニー」からは逃げません。そして、秘密の共有をも約束します。また、他人とはしたがらない身体的接触を繰り返します。
「前半マーニー」は、アンナの心の中からだけで生まれているために、自分の味方であることに疑いがないのです。だから逃げないし、秘密を明かすことをためらわないし、接触できるのです。IFである「前半マーニー」は、他人の側にいるのではなく、自分の側にいるのです。
アンナは、「前半マーニー」との対話の中で、大岩夫妻から愛されていることを実感します。そして、セツとの会話の中で、「今の頼子の愛」を知ることとなりました。一つ目の問題はとりあえずの解決を迎え、アンナは笑顔を取り戻します。
問題が解決されたため、「前半マーニー」は消滅します。「一週間出て来ない」時期のことです。
アンナの「自分嫌い」が解消されたあとに、二つ目の問題を解決するために登場するのが「後半マーニー」です。「後半マーニー」は、アンナのイメージにサヤカから見せられた「祖母マーニーの過去(日記)」が融合されることで形成されました。
つまり、「前半マーニー」をアンナの夢想の中から生まれた「自分のマーニー」だとするなら、「後半マーニー」は他人の日記の中から生まれた「他人のマーニー」だということです。
「後半マーニー」は、サイロの一件で、アンナを置いていってしまいました。
アンナは「どうして私を置いて行ってしまったの?」「どうして私を裏切ったの?」と責めます。これは、実父母や祖母マーニーに対して、「勝手に死ぬなんて許さない」と言っていたことと対応しています。
それに対して、「後半マーニー」は「自分の少女期にアンナはいなかったのだから」と答えます。今更過去の出来事(日記の内容)は変えようがないのです。マーニーの「勝手にいなくなったことを許して」というのは、「先に死んでしまったことを許して」ということと同義です。アンナはその謝罪を受け入れ、「あなたが好きよ、マーニー」と返します。他人を受け入れることで、アンナは、過去の愛や過去の死を受け入れられるようになったのです。
そして、過去のトラウマが払拭され、全ての問題が解決されることとなりました。アンナは笑顔だけでなく、そのはつらつとした姿を取り戻します。これにてエンディングとなります。
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おまけ②(マーニーの服装):{netabare}
「前半マーニー」と「後半マーニー」が別物であることは、服装からも分かります。
「前半マーニー」は、服装をコロコロと変えています。これは、モデルである人形の影響を強く受けているからです。着替えを繰り返すことは、アンナが人形遊びをしているのと変わりません。「前半マーニー」は「自分のマーニー」であり、アンナの自由になる人形であるから、服装もどんどん変わっていくのです。
一方で、「後半マーニー」は、着替えをせずに青いドレスで固定されています。この青いドレスというのは、葬儀の日の人形の姿そのものです。「後半マーニー」は、アンナの救済すべき過去の一点に縛られているということです。また、「他人のマーニー」であるため、自由に着せ替えることができないということでもあります。
つまり、祖母マーニーを含めた三人のマーニーがアンナを救済してくれていたのです。
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アンナの変化あれこれ:{netabare}
アンナの心理上の変化はいろいろ描かれています。特に重要なのが、絵画の変化です。
写生会での絵画は、たくさんの子供がいるにもかかわらず、ごく少数の子供しか描いていません。しかもその子供の表情を描けていません。自室に戻った時に同じ絵画が出てきますが、このときには子供自体を消してしまい、単なる風景画になってしまいます。他人と向き合えなくなったということです。
大岩家への引っ越し後は、絵すら描けなくなります。文字だけのはがきを頼子に送っています。
「前半マーニー」との接触後は、マーニーの人物画を描けるほどに回復します。頼子の愛を知ることで、人と向き合えるようになりました。アンナの顔にも笑顔が戻ります。
「後半マーニー」との接触後は、アンナの絵に色が付くようになります。色付きの風景画を頼子に送っています。過去を受け入れることで、頼子が以前くれた色鉛筆を使えるようになったのです。
エンディングでの絵は、マーニーの人物画に色がついています。人と向き合えるようになったことと、過去を受け入れられるようになったことの両方が現れています。アンナのハッピーエンドが集約されていましたね。
これ以外にも変化はいろいろと起こっています。
マーニーの出現場所もその一つです。アンナの病みっぷりが進行するにつれ、夢で登場していたものが、現実で登場するようになります。回復する過程ではその逆で、現実で登場していたものから消え、最後に夢の中でお別れしていました。
これ以外にも、アンナの髪型の変化や、天候の変化なども描かれていました。
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おまけ③(日記を破いたのは誰?):{netabare}
ストーリーで補足しておきたいのは、日記のことですね。誰があの日記を破いたのか?
私は、アンナだと思います。湿地屋敷を初めて探索した日に、日記を見つけて読んだ。読んでいくうちに、孤独なマーニーにシンパシーを感じてしまい、友達にしようと決めたんだと思います。ですが、日記の後半に至って、マーニーを孤独から救ってくれるカズヒコが登場します。日記の中のマーニーは、自分の知らないところで勝手に救われていた。せっかく見つけた孤独仲間のマーニーをカズヒコに取られることを嫌い、後半の部分だけを破いて隠したんだと思います。そして、その内容を忘れることにした。
このときのアンナは相当病んでいますから、この流れが妥当だと思います。事前に日記を読んでいたから、日記の内容とマーニーとのエピソードが完全に一致しているんだと思います(日記の内容は一時停止で読めます)。祖母マーニーから日記の内容を全て聞いていたとか、それを全て覚えていたとかいうのは、さすがに無理があると思います。二歳児でしたからね。
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傑作にしなかった理由:{netabare}
本当は、傑作にしてもいいのですが、そうしなかった理由を二つだけ挙げます。
一つ目は、終盤のミステリー解説の仕方ですね。終盤に盛り上がりを作って一気に収束させたいのは分かりますが、伏線の張り方や謎解きに明かし方に、もう少し工夫の余地があったように思われます。アンナが成長していく過程はとても丁寧に描写されていたのですが、その分解説の仕方が「第三者の語りだけ」というのが雑に感じられてしまいした。
二つ目は、中盤の山場が弱すぎることですね。ダンスのシーンやサイロのシーンは絵的なインパクトはありましたが、山場と言えるほどの盛り上がりは感じませんでした。心情的な山場は対話のシーンですから、絵的には大人しい。絵的にも心情的にも盛り上がれるような、中盤の強い山場には不足していたと思います。
かなり好きな作品ですが、評価としては落とさざるを得ませんでした。
ただ、減点するほどでもないのかなと思い、物語評価は満点としました。
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