雀犬 さんの感想・評価
4.4
私たちはどこから来て どこへ行くのか
劇場アニメ「海獣の子供」公式サイトに一人の生物学者がコメントを寄せている。
「これはまったく新しい「生命創造神話」である。
生命の輪廻転生を描くとともに、生命は宇宙から来たことも暗示する、
地球と宇宙と生命の「大いなるつながり」の物語なのだ。」
(長沼毅「海獣の子供」公式サイトより)
「海獣の子供」という漫画の最大の魅力は五十嵐大介の圧倒的な画力にあるし、劇場版「海獣の子供」の魅力もまた、STDIO 4℃が作り上げた圧倒的な映像を「浴びるように」味わうことだと思う。幽玄なる海の世界の描写は素晴らしく、僕は劇場で鑑賞しその迫力に圧倒された。激戦だった2019年の劇場アニメの中でもNo.1の映像だったのではないだろうか。
一方でストーリーについては観念的かつ難解で「よく分からなかった」という声をよく聞く。果たしてあの夏、劇場で琉花と目撃した「誕生祭」とは一体何だったのだろうか。その謎を解く鍵は実は科学だと僕は思っている。主人公の少女の名前の由来は、あらゆる生物の共通祖先とされる単細胞生物「LUCA」に違いない。生物学、特にアストロバイオロジーと言われる、宇宙を舞台として生物の起源や進化を議論する学問がこの作品のベースになっているように感じた。このレビューも科学の話を中心に進める。
■宇宙と海と生命
{netabare}
「海獣の子供」はマクロなテーマとミクロなテーマを内包している作品である。少し長い話になるが、まずはマクロなテーマから語りたい。「海獣の子供」のメインテーマは「生命とは何か?」という根源的な問いに他ならない。物心ついたころ、誰もが一度は考えてみたことがあるのではないだろうか。おそらくは「自分もいつかは死んでしまう」ということを自覚したとき、この疑問に行き当たる。僕たちは何のために産まれ、生きているのだろうと。
「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」
画家ゴーギャンが1898年にタヒチで描き上げた絵のタイトルである。この言葉をデデも口にし、「海獣の子供」原作3巻でも引用されている。生命の起源と生命の目的。神話の時代から続くこの問いかけに、多くの科学者達が挑み続けてきた。しかしこれだけ科学が発展した現代でも分からないことだらけだという。地球の生命がどのようにして生まれたのか、確固たる答えはまだない。
ご存知の通り、私たちが暮らす地球は46億年前に誕生したといわれる。原初の地球はマグマで満ちた高温の世界で、生物の棲めるような環境ではなかった。そこからいつ生命が誕生したのかに関しては、生命の基盤となる元素、炭素を元に40~38億年前ではないかと推測されている。つまり8億年程度の時を経て、生命が誕生する条件が満たされたということになる。地球はゆっくりと冷え始め、やがて海が出来上がる。そこから微生物が誕生したのち、進化を繰り返し、おおよそ10億年前に動物や植物の祖先となる多細胞生物が生まれたことは分かっている。
最大の謎は最初の生命体が一体どのように生まれたかであろう。物質と生命の間には途轍もない隔たりがあり、生命の素材を揃えたところで、人類はいまだ単細胞生物すら作ることができない。生命の起源について、僕が学生の頃はオパーリンが唱えた化学進化説が有力とされていた。アミノ酸、核酸、糖など生物の原料を含んだ太古の海で、化学反応を繰り返すうちに遺伝子が作り出され、やがて生命が誕生したという説だ。もちろん化学進化説は今も有力な仮説である。しかし、劇中に登場する「星のうた」に象徴されるように、「海獣の子供」では宇宙起源説をベースにしている。
「星の 星々の 海は産み親 人は乳房 天は遊び場」
生命は宇宙に広く多く存在し、他の天体で発生した微生物が彗星によって運び込まれたという仮説はスウェーデンの物理アレニウスによって提唱され、パンスペルミア説と言われる。「生命が宇宙から飛来した」と聞くとやや荒唐無稽な話にも感じるが、実は100年以上前に提唱された説でありながら現在でも支持する人が多い。
1953年、有名なミラーの実験により、原始の地球を再現した試験管環境で有機化合物が生まれることは裏付けられた。しかし、その先のタンパク質の合成については現在に至るまで世界中の誰も成功していない。もちろんタンパク質は生命活動を支える最も重要な物質である。
タンパク質はアミノ酸が連結したものである。タンパク質を作るには、最小でも50個のアミノ酸を正しい順番につなげる必要があるのだが、様々な検証の結果それは数億年という時をかけても実現困難だとみられている。天文学者のフレッド・ホイルは、最も単純な単細胞生物がランダムな過程で発生する確率は「がらくた置き場の上を竜巻が通過し、その中の物質からボーイング747が組み立てられる」のと同じくらいだと皮肉を言った。
そこで宇宙起源説が再浮上する。パンスペルミア説は生命誕生の可能性の範囲を引き伸ばすことができるため、確率論的にはずっと有り得るという理屈になる。ただしパンスペルミア説も宇宙の生命がどのようにして誕生したのかについては答えを 持たないし、他にも疑問が多い。
まず思いつく反論として、「宇宙を移動している間に生物は宇宙線で死滅するのではないか」と考えるだろう。しかし、地球から打ち上げる宇宙船や探索機に付着している微生物も、殺菌の過程を経ても生き残ったものは数年後に回収しても一部生き残っていて地球上で増殖を始めるという。大気圏突入の過熱や衝撃にも微生物は耐えうることが明らかになっている。なぜ微生物に地球ではありえない環境に対してこれほどの耐久力があるのかは謎である。
また、木星の第2衛星エウロパの表面は氷に覆われているが、内部には液体の海が存在する可能性が高まっており、地球外生命体が存在するのではないかと期待されている。宇宙のどこかに生命体が存在していて、それが隕石で旅をして地球にやってくるというのは根拠のない空想ではなく現実的な話になっているのである。
{/netabare}
■生命と渦、そしてエントロピー
{netabare}
さて次の話題に移ろう。ジュゴンに育てられた謎の双子、空と海について、自称「海のなんでも屋」の老婆デデは「多くのものを巻き込んで成長する巨大な渦の中心」だと語った。その言葉の通り、祭りで隕石を飲み込んだ海は世界中の魚やイルカ、クジラなどの生き物の渦の中心となり、やがて海と一体化して消えていく。これは果たしてこれは何を意味しているのだろうか。生物学者の長沼毅が生命と渦について興味深い言及しているので、本項ではそれを紹介したい。
生物と非生物の決定的な違いは何か。生命の定義を考える上で、生命だけがもつ特徴として、「細胞膜」「自己増殖」「代謝」の3つが挙げられる。(これに「進化」を含める人もいる)その中でも「代謝」は生命の本質と大きく関わる性質である。生物は外から内部に物質を取り入れ、エネルギー変換をし、外に不要な物質を排出する「代謝」という能力をもつ。動物が食事をすること、植物が光合成を行うことが代謝にあたる。
生物は古い細胞を定期的に新しい細胞に入れ替えながら元の形を維持しているが、同じようにして物質を入れ替えながら構造を保つものに渦がある。水の量や流れの速さが一定ならば、それによって生じる渦の構造は変化しない。しかし、その渦を形成している水は絶えず入れ替わっている。水の出入りがなくなると渦が消失するように、生命もまたエネルギーの循環を終えた時に死を迎える。生命と渦には不思議な類似点がある。
さらに一歩進めて物理学の視点で考えてみよう。皆さんは「シュレディンガーの猫」という言葉を聞いたことがあると思う。シュレディンガーは量子力学で多大な功績を残した物理学者であるが、彼は1994年に「生命とは何か」という本を執筆している。この本の中で、彼は代謝について「生命はエネルギーや物質ではなく、負のエントロピーを絶えず摂取している」と表現した。これはどういうことだろうか。
「エントロピー」という言葉は某魔法少女アニメでも登場したが、これは「物質の状態の乱雑さ」を示す量である。物質の基本的な運動は全て、大局的にはエントロピーが増大することが知られている。水に砂糖を溶かすと元の水と砂糖の状態には戻らないし、カップに熱い紅茶を注いだまま放置するとエネルギーは拡散しやがて周囲と一様な状態(=室温)になる。万物は秩序ある状態から無秩序へと向かう。それは宇宙とて例外ではなく、エントロピー増大の法則はこの宇宙を支配する最強の法則とも言われている。
エントロピーは低い状態から高い状態へと一方向にしか進まない。秩序あるものは必ず崩壊する。その一方で生命が物質的なまとまりを保っていられるのは、代謝によってエネルギー(シュレディガーが言うところの負のエントロピー)を絶えず注入しているからである。エネルギーを加えることによって、秩序のある状態を維持することができる。したがって、生命はエントロピー増大の法則に逆らっているようにみえる。
しかしエネルギーには保存則というものがある。エネルギーを使い、失われたところではエントロピーは増大する。個々の生物は代謝によってエネルギーを取り込むことで自らの崩壊を食い止めてはいるが、全体として観ればエントロピーの増大をかえって加速させていることが分かっている。水の入ったペットボトルを逆さにすれば水が出ていくが、このときペットボトルを回転させて渦を作ればより早くペットボトルは空になる。渦という構造を作ることでやはりエントロピーは増大しやすくなる。以上を踏まえると、生命はエントロピーの増大を加速させる渦のようなものだといえる。
宇宙のエントロピーは増大し続けている。宇宙の終わりには様々な説があるが、宇宙のエントロピーが極限まで高まった時、熱的死を迎えるという説がある。仮に宇宙が熱的死に達した場合、あらゆる生命が死滅すると考えられる。長沼毅はこのように語っている。「生命とは宇宙のターミネーター、終わらせるもの」だと。人もクジラも鳥も魚も微生物も、すべての生命はエントロピー増大に寄与するという使命を背負っていると考えられるのだ。そして人間は、エントロピーの増大に地球上でもっとも貢献している生物なのである。
そろそろまとめよう。本作では、生命の宇宙起源説をベースとして隕石を精子に見立てている。対して海は生命の産みの母であり、子宮にたとえられている。隕石が地球にたどり着き、宇宙から運ばれた生命はエントロピーに逆らうようにして、海の中で進化していく。そして生命はエントロピーの増大を加速させる大きな渦を作り上げていく。これを表現したものが「祭り」なのではないだろうか。
海は自ら渦の中心となり、消えていった。まるで自分から死を選んでいったようにも思える。しかし生命とは本来そういうものなのだ。私たちは絶えず自らの細胞を壊しては作り変えている。単細胞生物に寿命という概念はない。生命は多細胞生物になったときから死を獲得したのである。なぜ多細胞生物には寿命があるのか。それがエントロピー増大の法則に抗い、秩序を保つための唯一の手段だったからという説を、僕は支持したい。
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■自意識の芽生え
{netabare}
ここまでマクロなテーマについて考えてきたところだが、ミクロなテーマについても少しふれてレビューを終わろう。ようやく話は映画の冒頭に戻る。
主人公・琉花は、ハンドボール部に所属する14歳の少女である。彼女は夏休みの初日、試合で活躍をするが同級生をケガをさせ職員室に呼び出される。どうも琉花はラフプレーの常習犯らしい。琉花は「先に仕掛けたのは相手だし」と素直に謝ることができず、部活動禁止の処分を言い渡される。
子供はとても小さな世界で生きているものだ。彼女はまだ自分の視点でしか物事を考えられず、友達付き合いもうまくいかない。
そんな琉花の小さな世界は「生誕祭」なる出来事を目の当たりにして吹き飛ばされる。私たちは宇宙の一部であり、全ての生き物はつながっている。そんなハイパーマクロな視点を体験することで、自分の見えているものだけが世界の全てだった、これまでの自分の小ささを知る。そうして彼女は自己を対象化できるようになった。
夏休みの終わり。学校へ続く坂道を歩いていると、ボールが転がってくる。その先には夏休みの初日に足を引っかけた同級生がいる。自分の感情に任せるなら気に食わない奴の落としたボールを拾う必要なんてない。でもボールを無視したら相手はどう思うだろう。逆にボールを返してあげたら、相手に自分はどう見える?彼女はボールを拾いあげ、笑顔で投げ返す。
他人の視線、他人の評価を意識して自己を修正する力。この夏の不思議な体験を経て、琉花が体得したものを「自意識」と呼ぶ。一般に女性は男性よりも自意識が強く、容姿や服装に気をつかうのもその現れである。琉花はこの時、少女から女性へと歩み始めたのかもしれない。
{/netabare}