フリ-クス さんの感想・評価
4.1
愛について語るときに僕たちの語るべきこと
本作が公開されたのは2002年の7月だから、もう20年前の作品なんですね。
それでもいまなお『鬱アニメ』の代表格として語られる、
ある意味、大名作な『サイカノ』こと『最終兵器彼女』であります。
ちなみに僕はこの作品の本質が『鬱アニメ』だと思ってないのですが、
作品の捉え方は人それぞれ。
人さまの感想に文句言うつもりは毛頭ありません。
原作は『いいひと』などでおなじみ、高橋しんさん。
この方なんと、山梨学院大で箱根駅伝の最終区を走った人なんだとか。
もちろん『ただの頑張り屋さん』程度でハコネ出場はムリです。
極限まで自分を追い込む。
自分の弱さから目を逸らさず、その先にある自分に挑み続ける。
結果を出すためのプロセスを徹底的に考え、貫きとおす。
そういうことが『あたりまえ』にできる方なんでしょうね、たぶん。
だからこそ、この作品が描けたのでは、と僕は思っています。
ちなみに、お話自体は至ってシンプルで、
アタマ痛くなるような細かい設定はありません。
どちらかと言うと、なさすぎ。
彼氏(シュウジ)の知らない間に、
軍(自衛隊)によって『最終兵器』に改造されていた彼女(ちせ)。
二人は北海道で平和な高校生活を過ごしていたのですが、
ある日突然に『最終戦争的な何か』が起こり、
ちせは高校生でありながらも有事の都度、戦場に駆り出されていきます。
刻々と悪化していく戦況。
次々と死んでいく友人・仲間。
彷徨い、すれ違い、間違っていく二人。
壊れていくちせの心。
束の間の平穏、残酷な選択、終わる世界。
最後まで『なにと、なぜ』戦っているのかは開示されません。
おおよそ『種明かし要素』がほとんどないまま、物語は終焉を迎えます。
その間、シュウジとちせを中心に、
戦禍に巻き込まれた罪なき人々の心模様と死にざまが、
物悲しくもリアルなタッチで描かれていきます。
ただし、戦闘シ-ンの『リアルさ』はいまいちです。
爆撃機が「セスナかよ」と言いたくなる高度で飛んでいたり、
大規模侵略なのに歩兵が防衛線も敷かずわちゃわちゃ市街戦していたり、
正直「なんですか、これ?」的なアレが目白押しです。
そういうところに引っかかる方々にとっては、
なんのリアリティもないちゃちなだぼら、に見えてしまうかも知れません。
ですが、本作のキモは、そういうところにはありません。
少なくとも僕のごときノンポリ小市民には、
登場人物それぞれの生きざまが圧倒的リアリティをもって迫ってきます。
生きることの意味、死ぬことの意味。
殺すことの意味、殺されることの意味。
愛することの意味、愛されることの意味。
そんなことを喉元にナイフの切っ先を突きつけながら問うように物語は進行していきます。
やがてそのナイフは地面に叩きつけられ、
あとは自分で考えろ、
と、すべての解答を留保したまま真っ白な幕が降ろされて、
いたずらな心象風景に過ぎない大団円に至ります。
その問いに真摯に向き合えなかった方にとっては、
本作はやっばり『何の救いもない鬱アニメ』ではなかろうかと思います。
もちろん高橋しんさんはそんな作品を描いたつもりはないのだろうけれど、
伝わらないものは伝わりません。
世の中の『思い』と呼ばれるものの多くがそうであるように。
そうではない人たち、この作品にきちんと向き合おうと決めた人たちは、
見たくもない自分と向き合い、
思い出したくもない自分を思い出し、
あえてうやむやにしてきた自分を現実的な言葉に置き換えることによって、
「しんさん、きついっスよ」と、
自嘲的な笑みを浮かべながら言うことになると思います。
もちろんその「きつさ」は鬱的なきつさではなく、
人生という長距離区間を『前を向いて』走り続けるにあたって、
避けては通れない上り坂みたいなものなのですが。
僕的な作品のおすすめ度は、けっこう限定的なAランクです。
限定的な、というのはかなり古い作品であることが最大の要因です。
映像、演出、芝居、音楽、脚本、
全てにおいて現在のアニメと比べると古くさく、
アスペクト比がワイドになっているのが唯一の救い、みたいな感じです。
根底に流れているのは普遍的な人間哲学みたいなものなんですが、
そこにたどり着く前、
二、三話ぐらいで表層的な古さにやられちゃう方、けっこういるかもです。
もちろん、萌え的なナニを期待している方にはおすすめできません。
かなりストレートな性描写もありますが、
あれで萌えられる人、感性が尖りすぎではあるまいかと。
あと、現実から逃避したくてアニメを見まくっている方にとっては、
まるっきり鬼門ではなかろうかと愚考いたします。
そうじゃない、そんなんじゃない、
オレは愛だの死だの戦争だので高橋しんと正面からぶつかりたいんだ、
そういう方は、夕日をバックに高橋さんとがっちり握手ができそうです。
映像は、いいカットはもちろんすごくいいのだけれど、
やっぱいかんせん古いかなあ、と。
人物作画も安定しておらず「えっと……誰?」的カットが少なくありません。
ただし、戦争の悲惨さを伝える、目を背けたくなるようなカットには、
アニメータ-の魂、宿っています。
キャラクターは、デザイン的にアクが強いので好みがわかれるかと。
僕はというと、キツネ目男子、好きくありません。
女子のビジュアルも、萌えるには難易度けっこう高めかも。
あと、ほとんどの登場人物が胸くそ悪い『間違い』を犯すので、
戦時という特殊状況下にあることを意識し続けないと、
いろんなところでいろんなことを見誤ってしまいそうです。
{netabare}
『愛』と『自己愛』の狭間で間違え続けるシュウジ。
『罪悪感・自己否定』の中で自分を肯定しようとし壊れていくちせ。
『愛』と『性愛』の境界線からあえて目を逸らすふゆみ先輩。
『自己犠牲』の奥に、ありもしない自己救済を求めるアケミ、アツシ。
『投影・代替』によって恐怖や寂しさを紛らわそうとするテツ。
{/netabare}
彼らを否定・糾弾することはすごく簡単ですし、
あるいは人によってそのことに愉悦を感じるかもしれませんが、
僕にはちょっとできそうにありません。
彼らが『鏡に映った自分自身』ではないと言える根拠みたいなものが、
どこをどう探しても、一つも出てこないんです。
お芝居は……う~ん……微妙、かなあ。
折笠さんの演じるちせはかなり凄味があると思うんですが、
シュウジ役の石母田史朗さんのお芝居が変にふわふわして接地感がなく、
素朴さの奥に『あざとさ』みたいなものを感じてしまいます。
三木眞一郎さんや伊藤美紀さんは「さすが」なんですが、
アケミ役の杉本ゆうさんも、実力のわりにピリッとしない感じですし。
北海道弁が演りにくかったのかも知れませんが、
『銀の匙』とか『僕だけがいない街』では誰もおかしくなかったし、
う~ん……演った本人に聞いてみないと、なんとも言えないです。
音楽は、OP・EDともに『まあまあ』としか言いようがなく。
両方ともきれいで聞きやすい曲なんですが、
作品の世界観をきっちり表現できているかというと、けっこう微妙。
挿入歌の『夢見るために』は、個人的に好きなんですが。
著名ア-ティストが歌ってたら大ヒットしてたかも的な名曲であります。
とにもかくにも、精神的消費カロリーの大きな作品です。
あまりココロに余裕のない時や、
どうせあたしなんて的な気分のときには視聴を控えた方が無難かと。
そうは言っても最初の数話は比較的軽めの展開になっております。
二、三話ぐらいまでを流し見て、
はあ? ぜんぜんたいしたことないじゃん。
フリ-クスってひょっとしてヤキ回ってんの? ばっかみたい。
みたく感じる方も少なくないと思います。
精神の奥底にアレなものを抱えておられる方は、
そのへんで引き返すのも一つの見識ではなかろうかと。
その先、真っ白でなにもないエンディングにまでたどり着いたとき、
「ああ、きつかったけれど観てよかった」と思えるか、
「間違った。失敗した。あたしは失敗した」と思ってしまうか。
その答えはあなたの内側にしか存在しておりません。
大丈夫、たとえ間違ったところで、
失うものはちょっとした時間とちょっとした精神エネルギーだけです。
濃い目のココアでも淹れて時間をかけて飲み、
気分転換に『リコリコ』とか『異世界おじさん』とかを見たりして、
ゆっくりとこっち側に帰ってきてください。
ほんとうに、僕たちはいろいろなことを間違えます。
愛を語るときに『主語』や『目的語』を間違え、
自分を大切にしましょう、という言葉の『意味』をはき違え、
ありもしない『代償』を探して彷徨い、
まるっきり違うものを宝物のように思い込んで後生大事に抱えこみ、
放してはならないはずの手を放し
涙する資格すらないことに、涙してしまいます。
そういう意味で僕は、
本作のシュウジは僕たちであり、
ちせもまた、僕たちであり、
テツも、ふゆみも、アケミも、アツシも、ゆかりも、
ちせに撃墜された名もなきパイロットですらも、
鏡の向こう側にいる僕たち自身の姿ではなかろうかと思うわけです。
そうやって間違え続けながら走り切ったとき、
そこに何が待っているのか。
そんなことは誰にもわかりません。
なにも待っていないことの方が、ひょっとしたら多いのかも知れません。
ただ、道端にへたり込んで滴る汗をタオルで拭いながら、
空になったペットボトルを傍らにおき、
顔をあげて眩しそうな目で真っ青な空を見上げ、
まあ、いろいろ間違えたけど、がんばったよな僕。
そんなふうに独りごとを言って、
誰に見せるでもなくにっかりと笑えたなら、
つらい思いをしながら走った甲斐はあるんじゃないかと思うのですが。