瀬戸内寂聴おすすめアニメランキング 2

あにこれの全ユーザーがおすすめアニメの瀬戸内寂聴成分を投票してランキングにしました!
ランキングはあにこれのすごいAIが自動で毎日更新!はたして2025年01月09日の時点で一番の瀬戸内寂聴おすすめアニメは何なのでしょうか?
早速見ていきましょう!

79.8 1 瀬戸内寂聴アニメランキング1位
荒ぶる季節の乙女どもよ。(TVアニメ動画)

2019年夏アニメ
★★★★☆ 3.8 (607)
2271人が棚に入れました
あなたの“はじめて"を、わたしにください――。高校の文芸部に所属する小野寺和紗たち女子5人。「死ぬ前にしたいこと」という話題で沸いたある日、部員の一人が投じたある一言……。その瞬間から、彼女たちは“性"に振り回され始める。

声優・キャラクター
河野ひより、安済知佳、麻倉もも、黒沢ともよ、上坂すみれ、土屋神葉、福山潤、広瀬裕也、咲野俊介、戸松遥、花江夏樹
ネタバレ

ossan_2014 さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

荒ぶれ、乙女よ

【視聴完了して追記】


性に振り回される思春期少年のコメディは、マンガやアニメだけでなく、小説や映画でも数多く制作されてきた。

本作では、少女の振り回されぶりをコメディとして物語るものだが、主に誰に向けて描こうとしているのかという不安要素が、無いでもない。


かつて少女マンガに吉田秋生の『河よりも長くゆるやかに』が登場したとき、理想化されたヒーローとしての男子を脱皮して、「等身大」の「リアル」な少年が少女マンガで描かれるようになったと評判になった事があった。
が、男子の一人として読んでみると、「リアル」=現実的というよりも、少女に提供される「見世物」であるように感じられた。
少女の興味に奉仕するため、男子の(女子には)知られざる面を見せてみました、という「見世物としての少年」であって、現実の少年が読んで肯けるような「リアル」さは無いと(少年読者には)思えたものだ。

もちろん、少女マンガなのだから、「現実」を描くよりも、少女の興味本位の欲望に奉仕することを優先するのは、悪いことは少しもない。
(付け加えれば、同時代の少女マンガに「現実的」な少年が描かれることは皆無ではなく、私見では、川原由美子の『前略・ミルクハウス』のヒーロー、女装少年の『涼音』くんが、それまでの少女マンガで初めて描かれた現実的に「リアル」な少年と感じられた)

TV放送されるアニメの本作であれば、男子に向けた「女子の実態」といった単なる覗き趣味の提供は越えてくるだろうと期待したくなる。


未経験の性に対する恍惚と不安は、少年も少女も同じく持つことだろう。
ドタバタと、あるいはアタフタとあがきまわる少女たちと共に、男子の方も微笑ましいバカさ加減や、鼻持ちならない下劣さが描写され、両性にとっての「思春期」がうまく描かれているようだ。

ラブコメとしての本作の「コメディ」は、「ラブ」=恋愛の向こうへ「性」を意識するようになった思春期が駆動する。
恋愛の向こうに垣間見える「性」は、官能の予感で挑発するとともに、不安を喚起するものでもある。
それぞれの個性に応じて、「不安」に対処する行動がナナメにずれていく面白さが、本作のコメディのキモだ。

が、「不安」は、「性」が呼び寄せる固有のものではなく、広く「未知のモノ」全てが等しく喚起するものでもあるだろう。

ハイデガーであれば不安の根源は死の可能性というところだが、もっと一般的には「傷つく」かもしれない可能性が、未知への不安を呼び起こすと言える。
少年も少女も、共に慄く「未知の」性への不安は、そこで「傷つけられる」かもしれない可能性への不安なのだろう。

だが、「傷つけられる」ものは、少女と少年では同じものなのだろうか。

少女を主人公とする以上、少年とは異なる、少女に固有の「傷つく」ものを対象化できるかが問われるだろう。

「見世物」としての少女の生態を越えた、固有の不安の根源の摘出を期待してしまう。



{netabare}一般的に言って、「初めて」を前に男子が最も関心をもっているのは、いかに上手にコトを進めるか/スマートに振る舞うことができるか、という情報であるように思える。
要するに、性行為において男子が最も怖れる=「傷つく」のは、うまく振る舞えずに「笑われる」ことだ。

一方、少女においては「男からどう見えるか」という情報が、もっとも関心度が高いように(オッサンには)見える。
言い換えれば、少女が怖れる=「傷つく」のは、相手から受け入れてもらえない=がっかりされる=「拒絶される」ことであるようだ。

少年の「笑われる」怖れ、少女の「拒絶される」怖れは、さらに抽象化すれば「自尊心が傷つけられる」怖れで、両者は同根源だといえるだろう。

最終話で、出来立ての駆け出しカップルたちが、互いの中に自分と同じためらいと同じ悩みを見出して「分かり合う」描写は、この同根源性を表現している。
要するに、男も女も同じことを悩んでいるのだと。

こうした「自尊心の傷つけあい」を乗り越えて、全面的に相手を受け入れあう多幸感こそが、性の官能の秘密であるのだと、このとき少女と少年は気付くのだろう。


だが、自尊心が傷つく恐れ/受け入れあう喜びは、性にかかわる領域に限らない。
人間関係全般について同じことが言えるはずだ。

男女の性行為に限定するならば、そこに固有のものは「肉体」だろう。
そう、少女の「傷つく」怖れは、人格的=精神的な領域においてと、即物的な肉体においてと重層的なものだ。
性行為の現場においては、男がまず勃起しなければ行為が発生しない=成立しない。それゆえ、男=少年が肉体性について「傷つく」、あるいは反省的に改めて意識化されることは無い。

最終話で、幼馴染の少年が少女二人に、それぞれ「精神的」と「肉体的」と別々の志向性を告白する場面は、男子が日常的に二要素を意識していない無自覚ぶりの表現であるだけではない。
それは、女子においては常に(怖れの対象として)「精神性」と「肉体性」がともに対象化されているのだという事と裏表でもある。
「肉体」を志向された少女が、それでも悪い気がしないと語るのは、まさに肉体性において拒絶される=「傷つけられる」怖れを解消された安堵であり、少女において「肉体性」が常に緊張をはらむ固有の「不安」要素であることを、裏側から示している。


肉体が「傷つく」怖れは、何も相手の男から乱暴に扱われるとか、嗜虐的な趣味を押し付けられるとか、あるいはレイプされるといった、即物的で具体的なケースを想定しているわけではないだろう。
未経験の少女であっても、具体的な想像などしないまま、漠然と怖れ=不安を感じているはずだ。

おそらく、この肉体への漠然とした「不安」は、女性とは「妊娠」する性(別)であることに由来するのではないか。

終幕で、文芸部部長の同級生が妊娠を理由に退学したことが明かされたとき、ガヤで生徒たちのざわめきが入れられるシーンで、一言「怖い」というセリフがハッキリと強調されていた。

自立した女性が計画的に妊娠するのは別として、妊娠すれば女性の生活や人生設計は根本的に変わる。悪い言い方をすれば、「捻じ曲げられ」る。
社会的な影響だけではない。
生物としてみるとき、妊娠とは母体とのエネルギーの奪い合いで、生命力や寿命において、個体としての母体に対して完全に敵対的な現象でもある。
医療や栄養供給の発達で、人間に限っては表面化していないだけに過ぎない。

少女が漠然とした怖れを抱く「肉体」が「傷つく」不安は、深層に妊娠の存在があるからではないか。

そんな感想を持ってしまうのは、遠い遠い昔に、初めて女の子と思いがけずに一夜を過ごすことになり、「今日は危ない日なの」と言われて、慌てて避妊具を求めて街を走り回ったカッコ悪い思い出のせいだ。

女の子というのは、常に自分の身体の状態を把握しているものなのかと強力に印象付けられたのだが、同時に、望まない妊娠は「危ない」=「怖い」という怖れが、常に自分の身体をモニターしなければならないと強迫しているのだと、そのとき腹の底まで思い知った気がする。

それ以来、望まない妊娠を回避するのは男の義務と、常に「防具」の用意を怠らないよう心がけてきた。
時には用意が良すぎて「アンタはいつもコレしか考えてないのか」と誤解されたりもしたが、紳士としては眼前の恋人の中に「怖れ」があるものならば、取り除こうと務めるのは当たり前だろう。
いい年した政治家が、アナウンサーとしてキャリアのある女性と「できちゃった結婚しました」とヘラヘラ笑いながら記者会見しているニュースを見ると、お前に紳士の義務感はないのかと複雑な気分にもなるが。

アメリカでは、妊娠した高校生は学業からドロップアウトするだけでなく、社会的経済的にもドロップアウトすることが統計的に圧倒的に多く、一部の女子学生たちの間で、進学し、学業を終了するまでバージンを守ろうとする「純潔の誓い」をかわす運動が広まっているらしい。

作中では、女子生徒の妊娠と退学は「愛を貫く」という肯定性として描かれ、ラストでハッピーな後日談も挿入して後味よく見せてはいるが、作劇上の要請で例外的なケースを描写していることは意識しておきたい。

上記のような事どもを真剣に描写すればいくらでも重苦しく陰鬱なドラマとなるだろうが、視聴者に拒否反応を出さないよう、コメディとして明るく描ける程度にマイルド化しているところは、バランス感覚というものか。

コメディの範疇に収まるようにライト化しつつも、それでも「傷つく」ものとしての少女の「肉体」、その根源としての「妊娠」といった要素を、匂わせる程度であれ挿入してきたことは、少女に固有の「荒ぶる季節」を真剣にとらえている証として、好感できる。


「荒ぶる」季節の表象として、ラストのバリケード立てこもりと団交に重ね合わせてくる描写は、オジサンにはグッとくるものがある。
ストレートに描けば若い世代には拒絶感が出るだろうが、真剣な局面に入りそうになるたびに脱臼させてコメディにしてしまう作劇は、拒絶感の回避のためには避けられないのだろう。
コメディとしての脱臼のために、校長や教頭がリアルではありえない性格設定や描写をされているのは、欠陥ではなく作劇上の要請として認めるべきだ。

この校長たちに限らず、少年少女が「荒ぶる」思春期の物語のために、周囲の大人たちの描写も慎重に配慮されている。

主人公の少女と幼馴染の少年の両親たちは、子供たちの視点からいかにも能天気で、悩みなく描写されている。
が、彼ら親たちもまた、確実に「思春期」を通過してきている。
平和に、楽しく日常を送っているように見える両親たちは、まさに「疾風怒濤」の思春期のさなかで不安にさいなまれる少年や少女が、いずれ平穏に「生活」へと適応していくであろう一つのモデルであるのだ。

この、ある種理想的な大人ぶりが、児童劇団の演出家の気色悪さを、逆の意味で浮かび上がらせる。

「ロリコン」と誹謗される演出家は、社会的には別に非難されるところは1つもない。
自分の性癖を把握し、少女と性的な接触をするわけでもないし、成人女性と欺瞞的な関係を結ぼうとするわけでもない。
「大人」としてしっかりと社会性を保っているように見える。

気色悪さは、子供と性的関係を結ぶわけではないという「大人」の良識を持つと見せながら、少女=子供同士の関係にかかわろうとするところにある。

主人公の両親たちが、思春期のさなかにある子供たちの「荒ぶれ」ぶりにまるで気づかずに、子供の「不安」や「悩み」にまるで配慮しない能天気ぶりで接するのは、親たちは「子供」とは位相の異なる「大人」という、ある意味で別種の存在へと変化を遂げ終えているからだ。
「子供」ではいられない、すでに「大人」となってしまったものには、子供に合わせた発想はできない。

彼ら親たちに比べ、「大人」を演じながら、子供に関わり=同化し=仲間のように振る舞うことが、演出家の気色悪さを感じさせる根源だ。
大人面しながら、子供の「一員」になろうとするなど、まともな大人とは到底言えないだろう。「ロリコン」がどうこうという問題ではない。

その点で、教育者という社会的役割を負う文芸部顧問は、子供との接触と交流において、(半ば振り回されつつも)大人の見識と教育者の役割の間で、うまくバランスの取れた行動をとり続ける。

こうした「大人」たちを慎重に設定し描写した環境に囲まれるからこそ、「荒ぶる」思春期少女たちは物語世界を存分に駆け回れたのだろう。{/netabare}

投稿 : 2025/01/04
♥ : 12
ネタバレ

ぺー さんの感想・評価

★★★★★ 4.3

人生で最もへたくそな時期に捧ぐ

岡田麿里氏が原作から絡んで脚本やって、な作品。原作は未読です。

タイトルからして生々しく、しかも思春期男女(特に女)の心理描写には定評のある岡田氏の作品。

「岡田作品は苦手だけど荒乙は面白い」との推薦を複数いただいてて、楽しみにしてました。


作品自体は思春期の“性”をテーマに、右往左往する文芸部の女子高生5名が各々の答えらしきものを見つけるまでを追った青春群像劇です。

 吾輩は○○である 名前はまだない

整理しきれぬ名付けもできぬ感情は存在し、その多くは経験の蓄積によって落とし所が見つかるもの。

青春群像劇では私たちがかつて通過してきたであろう感情や衝動なりを作品の中に見つけて、自分の思考パターンや嗜好のルーツとなった立ち位置を確認する作業でもあります。
高校を卒業すれば進路はバラバラ。得られる経験も分岐して汎用性に乏しいことが、高校卒業以降を追った作品が少ない理由なのかもしれません。

そして汎用性があるようなないような題材が今回のテーマ。
“性”に対する考え方は個人によって差が相当あるもの。

そんな本人にしかわかり得ぬ感情。いや本人でさえわからない感情について同じようにバラバラだろう相手の感情とを擦り合わせる難儀なことを人生で初めてする作業が思春期世代の恋なんだと思います。

個人差があるのは当然で、ひとつの事象とっても男女で考え方も捉え方も違うことを想像できなかったり、違いはあると自覚しても何がなんなのか袋小路に迷い込んだり。
例えばこの連載は別冊マガジンですが『別マ』と言われて男子は『マガジン』を女子は『マーガレット』を想像し、お互いの前提がずれてる中言葉のキャッチボールを交わしてるうちに悶々としてしまう。
ほんの少し先になれば『マガジン』も『マーガレット』もあるって気づくものです。それがなかなかそうはならないもどかしさを作品で表現することは難儀なことでしょう。


前置き長くなりましたが、つまり、

 これまで数多語られてきたけどまとめられんのかいな?

好きだ惚れたから一層も二層も踏み込んで、本来同じカテゴリーなのにあえて切り離すことで物語を作りやすくしていた“性”なるものに焦点を当てちゃった本作。
個人差が激しいネタについて、きっとそんな時期を通過したであろう私たちにリアルな質感をもって届けてくれるかに着目したわけであります。

結果、文芸部員5名それぞれに異なる立ち位置を与え、かつそれぞれに対となるパートナーをあてがい、パズルのピースをはめていくようなストーリーに仕上がっていました。男はあくまで彼女たちを輝かせるための舞台装置。主役はあくまで乙女たちです。
よくパズル組めたな~。率直な感想です。一覧は以下。当然1対1とは限らないのですが詳細は本編参照。


【文芸部員】
小野寺和紗(CV河野ひより)
菅原新菜(CV安済知佳)
曾根崎り香(CV上坂すみれ)
須藤百々子(CV麻倉もも)
本郷ひと葉(CV黒沢ともよ)

【パートナー(仮)】
典元泉(CV土屋神葉):{netabare}対和沙要員{/netabare}
天城駿(CV広瀬裕也):{netabare}対曾根崎先輩要員{/netabare}
山岸知明(CV福山潤):{netabare}対本郷先輩要員{/netabare}
三枝久(CV 咲野俊介):{netabare}対菅原氏要員{/netabare}
杉本悟(CV花江夏樹):{netabare}対もーちん要員{/netabare}


実のところパズルが組み立てられた時点でおおむね満足しています。いいもの見せてもらいました。
リアルな質感があったかどうかは個人差によるものはあるでしょう。具体的にはこんなところが良かったなぁと私が思ったところは以下、


■OPを飛ばしちゃダメ

曲中に文芸部員たちの独白みたいな合いの手が入るわけですが、全OP一定ではなく変わっていきます。
作品世界をよく表したOPなので飛ばすのももったいないのもありーの、その回冒頭から集中を促す効果がありました。


■結局全員荒ぶる

キャラの掘り下げが全員できてたという意味ではなく、5名ともきちんと荒ぶってました。


■ざわつく

岡田脚本の特色なのか、円満にしときゃいーのにそれ要るかな?ってネタを挟んでおり、またそれがリアルな質感がありました。
安心安全なピュアピュアな恋愛を期待するのも野暮というほどさらりと毒を盛り込んできます。

{netabare}・部長の彼氏がちゃっかり前カノのおっぱい揉んでる事実
 ⇒経験者じゃないと曾根崎先輩を攻略する前に心が折れてたかもしれないという仮説
・あの杉本が女を連れている(最終話ED)
 ⇒地獄へ落ちろ!との視聴者の期待を嘲笑うかのようにしっかりキープ。なんだかんだ動く奴は強い
・本郷ちゃんが報われない
 ⇒いい子なのにね{/netabare}



最初はインパクトのある下ネタという飛び道具を織り交ぜながら、「おいおい大丈夫かよ」とくぎ付けになり、適度に乙女たちが荒ぶりながら最後の最後でぶつかり合ってという青春ど真ん中をいく良作でした。
端的に言えば序盤から終盤{netabare}10話{/netabare}までのわりと緻密な展開と打って変わっての後半の勢い。
慌てて畳んだ感が無くもないと言えますが、ここは『荒ぶる』感が出ていたと好意的に解釈してます。
{netabare}もう2話時点で和沙が自分の気持ちに気づくとか、5話で最も縁遠そうな部長がくっつくとか、その後どうするの?を長めに取る構成は良かったです。{/netabare}

個人差ありまくりの“性”の捉え方に関して、本作でのそれについてはノーコメント。
ただしきっと、登場キャラのうちに「あ、これ私だ!僕だ!」な子だったり言動行動が見つかるのではないか?と思えるほど網羅性は高いように見えますね。
現在進行形の方はがっつり共感して。はるか彼方の御仁は軽くキュン死しながら悶え狂いましょう。私も悶えました。おすすめです。




※ネタバレ所感

■パズルのピースについて
ほうぼう荒ぶっておきながらしっかり着地できたのって、主演女優5名と対になった野郎どもとが似たもの同士だったからではないかと思います。

・和沙VS泉
 {netabare}上半身と下半身が別の生き物同士

最終回でお互い似たもの同士だよねと分かり易く描かれてました。典型的な思春期のアンバランスさを体現した二人で主役にふさわしかったと思います。

{netabare}「泉。私ね。これからも不安になると思う。でも泉と同じ気持ちと同じ言葉、私はちゃんと持ってるんだって!分かったから…不安になっても、それを思い出せば…きっと大丈夫」{/netabare}
このセリフを言えたからこその主役でしょう。不安になると言葉に出せた時に大きな成長を感じました。{/netabare}


・曾根崎先輩VS天城
 {netabare}素直な者同士

お互い耐性ないので基本ちょろいです。考えてるようで実はそうではありません。よく言えば真面目で一途といったところでしょうか。浮気は絶対許しません。{/netabare}


・本郷ちゃんVSミロ
 {netabare}言葉先行で行動に移れない者同士

若さゆえに本郷ちゃん頑張りますが失敗重ねてるうちにそのうち諦観しそう。ミロ(三枝先生)がそのなれの果てかしら。言い訳先行でまたそれがもっともらしく聞こえるタイプ。
そんな本郷ちゃんが最も荒ぶってるように見えるというのが“荒ぶる季節”のアンバランスさを表わしてるようで心地よいです。{/netabare}


・菅原氏VS三枝
 {netabare}持てる者かつ特殊フェチ同士

周囲から羨ましがられてます。周囲からの見られ方と自身の嗜好にギャップがあるのが悩みどころ。医者や高級官僚がSMにハマるみたいな倒錯性を感じます。ちがう?{/netabare}


・もーちんVS杉本
 {netabare}相手が見えてないもの同士

自己中とも言います。杉本は言うに及ばず、もーちんもなかなかの猛者です。「なんで自分の思うとおり動いてくれないんだろう?」が先にあると恨みつらみが積み重なっちゃいますよね。{/netabare}



合ってるかどうかは知りませぬ。それは違うさーというのも笑いながらツッコんでみてください。



最後に、、、
なんだかんだ本郷先輩の今後が気になるところです。

{netabare}「止まらない電車に乗っちゃったんですよ我々は!」
ブルーハーツの伏線回収お疲れ様でした。{/netabare}

{netabare}あと真っ白になったと言い残して燃え尽きてましたが息してますよね?
自分で蒔いて自ら回収とはさすがです。

ぜったい素敵な女性になっておくれよー(^_^)/~{/netabare}



視聴時期:2019年7月~9月 リアタイ視聴

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2019.09.28 初稿
2020.04.10 タイトル修正/修正

投稿 : 2025/01/04
♥ : 72
ネタバレ

鰺鱒 さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

栞は、気がついたら勝手に挟まってるんだ。

[2019/09/09 v1]
[2019/09/11 v2 10話まで]
[2019/09/15 v3 11話まで]
[2019/09/21 v4 最終話+ちょいちょい追記]
[2019/09/23 v5 多分最終 *部分追記もしくは修正・構成微修正]

原作知らず。

いわゆる「海外の反応」系のYouTuberで、僕が良く見る方々が矢鱈と誉めていたので試しに視聴。六話まで一気にみてしまった(台風の音で寝られんかったのもあるが)。

この作品に対する好き嫌いや印象は、視聴する方の性別や年齢、異性との交際(あるなし、その仕方、もろもろ)や家族構成等に大きく依存すると思います。多分、僕に娘がいたらこの作品はみられなかったかも、と思います。

* 誰が観ても楽しめる作品ではないと思います。なにより、性と恋愛を扱う作品には、暗黙のうちに自らの物差し=上記のいろいろが合わさってできあがる自分自身の価値基準があてがわれるものだと思います。本作を楽しめるから良い、悪いではなく、もっと根本的なところで「合う・合わない」≒「観たい・観たくない」が発生するテーマだと思います。

僕としては、全体として大変に満足しました。
面白かったとか、楽しめたとかとももちろんそうなのですが、それらとはまた違う、観て良かったと思える作品になりました。*お話し全体を通して、非常に良く作り込まれた印象を受けます。
上述の通り、人によっては躊躇われる可能性がありますが、そうでないなら是非ご覧いただきたい作品です。

====Opening
開幕オープニング曲。
本作のために書かれた曲のように思いますが、曲も歌詞も映像も素晴らしい。オープニングの語りが変わるのもよいですね。

OP曲の歌詞はそのまま本作のサマリー、あらすじとなっています。もーちん{netabare}の視線。そういうことだったのね{/netabare}。

出だしの一節に曰、「親の愛のあいだに生まれた娘は、そろそろ恋のページを綴る頃(主観的意訳)」。そして、荒ぶり、抗う乙女たち。

結びの一節、「栞はいらない」が僕にはぐっさりと刺さりました。立ち止まらない、戻らない、振り返らない。ただただ走り抜けるんだという力強い言葉。15~20ページは、それでいいよね、きっと。

僕という本は栞で一杯です。参考書につけられた付箋紙のごとくです。戻れるものなら、やり直せるものならの栞が。

エンディングもかわいいお曽根さんになってます。台本(なんでしょうかね?)を映しながらの台詞抜粋で構成する次回予告も楽しいです。

==== 第一話:I'm hooked!
第一話のhookは見事でした。舞台・世界観のセットアップから展開まで。完璧だったのではないでしょうか。
{netabare}
TRAIN-TRAINに押し出されるように駆け出すかずさ。嫌らしさも、汚ならしさも剥き出しの世界に。そして曰く「聖者になんてなれないよ」。
{/netabare}
彼女達の全力疾走、純潔の行方を見届けたいと思います。



====11話まで
{netabare}

====10話までみちゃいました
困惑。
なんなのこのお話(ほめてるけど喜べないけどほめてるんだけど・・・・)

====11話まで
いやもう、、、どうまとめるんだか分からないけど、いろいろ荒ぶってます。
いろいろ有り過ぎて僕の頭の中がまとまらないのですが、いきなり11話冒頭で「純潔」が落ちちゃったのには血の気が少し引きました(笑)


*全体を通して、ミロ先生だけはちょっと違和感を感じます。いろいろ都合良すぎな立ち位置と性質かな、と。でも、必要な舞台装置と考えれば、まぁよし、かな。

{/netabare}。


====最終話:It landed!
ぉぉ・・・絶対まとめきれないと思っていたのに、、、
まとめやがった。しかも想像の上のラインで。


=冒頭:校長・教頭・教職員
{netabare} 職務放棄は確かにその通りだが、笑いとともにスムーズに闘いの構図を生徒v.s.学校(教員)から文芸部および各部員自身へと転換した{/netabare}。うまいと思う。

=中盤:文芸部員+泉+天城+ミロ
ま、ここは定石通りかもしれない。互いに伏せられていたいろいろなものの蓋を外し、全員に共有。

=そこからの
==色オニ==
{netabare}正直なところ最初はよく分からなかった。分からなかったと言うより、この最終話で僕が感じた唯一の違和感とともにこの色オニが呈示されてしまったため、呑み込めなかったのだと思う。
違和感=唐突に感じた和紗の「闘いませんか」+それを受けてのやはり唐突かつ強引に感じたミロ先生による方向転換。さらに言えば、なかなか立派にアレな縛られ方をされたミロ先生が格好いいことを言うという状況に虚を突かれてました(ツボってた)。

* ただ、少し落ち着いてから考えると、そもそも「色」を持ってくること自体が唐突にも思います。どこかで引っかけているような気がするのですが、残念ながらどこかは分からず。直前の「色情に駆られる」がリードだ、と言うことはないと思うのですが・・・(ここだけ浅すぎることになる)。分かる方は教えていただけるとありがたいです。

でも、この色オニは実に文芸部員らしい、言葉に魅入られた・捕らわれた彼女たちにしか出来ない自己開示、互いの理解(理解するためのもがき)、そして、自分自身を知る術だった。なかなかに練られた舞台設定だったと思う。

本郷の呈示した「色」はおそらく彼女の心境そのものなんだろう。直後のミロ先生との対話を経て、少し吹っ切れたあとの彼女が呈示する色はどんな色だったのか。是非聴きたい。

モモの桃色を必死に探す菅原氏の描写は良かった。

* 色オニの最後の場面には下地がありました。5話で曾根崎部長が朗読していた本の一節でしたね。「同じものを見て、同じ言葉を紡いだ」和紗と泉、そして、そうなれていたかもしれない菅原氏。この状況を作るための舞台装置として、主観のさらけ出しあいとなる色オニは最適だったのかもしれません。


{/netabare}


====フィナーレ:Ah... so, it fit...

僕の中では、屈指の「まとめ」となりました。ベスト10、あとで変更しなきゃ。

ミロ先生による「荒ぶってますね」は、最初観たときにはコレジャナイ感を持ったのですが、まぁ、、、、これしかなかったかなとも思います。

部室で寝こける文芸部員たちについたいろいろな色。純潔にして純白の存在は、いろいろな色に染められ汚れていくのか、あるいは、色づいていくのか、それとも、自身が持っている色が白の光に照らされることで露わになるのか。きっとどれも正解なんだろう(加法混色とか減法混色とかは脇に追いやり)。

このシーンの彼女たちの寝顔は、作品全体の中で最も愛らしく見えました。
ただし、本郷を除いて。
本郷さん、あんたそれ、燃え尽きて真っ白になったあのボクサーだろ。
偉い男前の顔しやがって・・・(左右反対だし、違うのかもだけど)
半分涙目で吹き出しちゃったよ。なんだかんだ本郷さん推しだな、僕は。

よくよく観るとなんかいろいろみんないる改札前。
ダメンズワイプ。
*車内に本郷の担当編集までいたのね。。。

そして最後の一言。




=====================
例によって、「海外の反応」とあわせて観ていました。

この作品の場合はギャグアニメに対する「反応」のようにリアクション芸を観て楽しむという形にはなりづらいのですが、そこそこの数、本作に対するAnime Reactionが出ています。その中にかなり厚くコメンタリを入れる方が居るのですが、僕の本作に対する感想も少なからず影響されていると思います。

「it fit」は第一話と最後の最後での「はいった」の英訳です。


* 多分、まだ書き足りないことがたくさんあると思いますが、今の時点で言葉にまとめられるのはこれくらい。しばらく間を置いて、もう一度観直そうと思います。

投稿 : 2025/01/04
♥ : 48

64.9 2 瀬戸内寂聴アニメランキング2位
かぐや姫の物語(アニメ映画)

2013年10月1日
★★★★☆ 3.8 (291)
1196人が棚に入れました
原作:「竹取物語」、原案:高畑勲 監督:高畑勲 製作:氏家齊一郎、脚本:高畑勲/坂口理子、音楽:池辺晋一郎

声優・キャラクター
朝倉あき、高良健吾、地井武男、宮本信子、高畑淳子、田畑智子、立川志の輔、上川隆也、伊集院光、宇崎竜童、中村七之助、橋爪功、朝丘雪路、仲代達矢、三宅裕司

薄雪草 さんの感想・評価

★★★★★ 4.8

私訳・竹取物語

姫の犯した罪と罰 。

いささか仰々しいキャッチコピーですが、原典に従えば、地球の男たちを愚弄したことの罪、彼女がしでかした所業への罰。
そんな評定ができようものと思います。

本作品を、原典のトレース、ストーリーの焼き直しと見るなら、底の浅い二番煎じと受け取られても仕方ないでしょう。
でも、高畑氏がそのように銘打ったからには、別の意図が付され、新しい解釈ができるかも知れません。

原作者と高畑氏との間には、どのような共通点と相違点があるのだろう。
かぐや姫と私たちを対比させながら、時代マターに通底する罪と罰を俯瞰してみたいと思います。





1000年も前の物語が伝承されているのは、誰にとっても普遍的な価値が見いだせるからで、体裁としては、私はシンプルに "転生もの+なろう系" と評価しています。

私のアプローチは、次の二つの視点です。
「なぜ天上に住む高貴な女性が、わざわざ地球に下り、ひなびた古老の家を選んだのか。」
「いったい彼女は、どんな暮らしを願い、そして彼女はそれをやりきったのか。」

彼女は、地位や名声、財宝や権威には一切関心を示さず、おもねることもなかった。男たちの求婚には目もくれず、育ての老親への孝行も念頭になかった。
およそ人の幸せに類するものへの無関心なさまは、あらゆる世俗を諸行無常と達観する "解脱者" のようです。

そんな彼女に、高畑氏は、幼馴染への恋ごころを濃密にトッピングし、妻帯者に対して彼女に心火を燃やさせ激情を逸らせました。
解脱と陶酔。このアンバランスさに私は混乱し、一つの疑念をいだくに至りました。

もしかしたら、高畑氏はかぐや姫のイメージを、根底から覆そうとしているのではないかと。





私は、本作(原典)を、転生願望をテーマにした日本文学のフォーマット、なろう願望の裏表を詳らかにしたテンプレートと思っています。

月は精神を、地球は肉体を象徴しています。
ひと気のない宮居から、真っ暗な宇宙空間に浮かぶ地球に思いふける彼女は、おぼろな霊体としての存在でしょう。

転生&なろうの文脈に落とすなら、地球に憧れる=肉体を得ることが彼女の最初の願望。
ですが、肉体を得た彼女の振る舞いは、1000年も語り継がれる稀代の剛愎ぶりでした。

だから私のかぐや姫の第一印象は、我儘と傲慢を併せ持った桁外れのエゴイストです。
お母さんの子宮ではなく、竹から生まれること自体が、そもそも大きな矛盾(罪と罰の素因)を孕んでいることを暗喩しているのですね。





そこで仮説を立てたのが、一つには、月の世界は、男をかぐわせる魔性の女を閉じ込める "牢獄" 。地球は、己が重罪に気づかせるための "保護観察付きの仮釈放" というシュールです。
そんな切り取りはなんとも悲しすぎますが、転生&なろうの彼女の動機は、牢獄という罰からの逃避とも、そこに収監された罪への慚愧の念から、とも取れそうです。

ですが、もう一つの仮説もあります。
それは、月の世界は、女性の社会的自立を抑制する "ガラスの天井" で、地球は女性性の "解放区" という真逆のシチュエーションです。
その観点でかぐや姫の心情に触れるなら、人恋しさを満喫し自由奔放な恋をエンジョイしたかっただけ、あるいは男を伸(の)してでも女性のジェンダーを周知向上したかったからとも感じ取れます。

平安時代の貴族女性は、親の一存や政略として定められた人生を選択する(押しつけられる)のが "普通" でした。
月の女性はかぐや姫の前世霊でもあるわけですから、それじゃない何か、どうしても選びたかった何かを果たしたかったのではないかと思えるのです。

そう考えると、かぐや姫の振る舞いや生きざまは、表層的な評価にはとどまらない、多重的、多角的、多面的な解釈ができそうです。
言うなら "いかなる因果律にも縛られない超法規的措置" 、"正夢にもすがりたい虚妄、逆夢さえねじ返したい本願" です。
そしてそれは "誰にとっても地平続きである感覚" に驚かされます。

わたし的には、この気づきが、この物語に秘められたアレゴリー(寓意)であり、アイロニー(皮肉)なのかもと思います。
1000年前の彼女の人となりは、今の人間と少しも違わない。
彼女の罪を咎めることも、罰を嗤ったりすることもできない。
そう胸に問い返し、「ではどうすればよかったのか?」を自問自答させるのです。





高畑氏の作風は、エンタメに笑いを見せながら、毒針を暗喩としてチクリと含ませたり、世相を皮肉で捩(もじ)ったりする一面があります。
原典も本作も、そんな矜持を一人の若者(かぐや姫)の境遇に盛り込んでいます。

自分らしく生きることの難しさ、社会が変わらないことの悔しさ。
そこには、男と女の性的格差(ジェンダーとセクシャリティー)。自由奔放とルール社会との衝突。貧富、能力、容姿などの超えがたい相差が見て取れます。

これらのコントラストは、バイアスによる誹謗中傷、それぞれの正義感の押し付け合い、不合理や不条理の支配構造を生み出しています。
そんなバトルが目の前の現実であり、人間に生まれることの由縁と必然です。

だからこそ、安直な転生&流行りのなろう系とは全く異質のシナリオが、1000年変わらぬ土台なのです。
おとぎ話に心を遊ばせても、その主人公を自分のリアルに当てはめるな、と。
現実の世界で懸命に足掻き、その主人公として今生の自分を確立させよ、と。

どんなにかぐわしい人生であっても、どれほど生臭い境遇であっても、いつ知れずお迎えの時期は来るのだと。





私は、高畑氏が描く月の女性は、魂の輪廻のなかに存在していると捉えています。
これは "転生同魂" 的な演出で、昨今の転生&なろう系作品とほぼ同じ構造です。
ですが、原典には、記憶の継続性は少しも設定されていません。

作中、かぐや姫が、わらべ歌に不思議を感じる演出があります。
これは、転生&なろう系のアニメ作品に親しむファンへの歩み寄りでもありますが、同時にアンチテーゼを匂わせているように感じます。

前世、今世、来世に貫通する想いは、地球と月とを行き来したくなるほどの強い焦燥です。
それはおそらく、叶わなかったことの悔恨、叶えられなかったことへの呵責です。
仏教ではそこに輪廻転生を説法し、SFではここでタイムリープを起動させます。
あたかも今の自分の意識と肉体が、一旦は別の次元界に行き、追ってこの世に戻ってくるかのように錯覚させるのです。

しかし、実際は、前世の記憶=自我を保ったままで生まれないことは誰にも分ることです。
また、一つの身体に複数の記憶を持つとか、心と体を時間跳躍させることもあり得ないと分かりきっています。
それが現実なのに、宗教的に "転生同魂" に期待したり、文化的に "転生&なろうアニメ" に親しんだりするのは、言うなら一時的な魂の救済であるのかも知れないし、25分程度の現実への慰めと癒しなのかも知れません。

ただ、それではかぐや姫と同じ穴の狢(むじな)です。
前世と同じ生き方を選択するのなら、俺TUEEE!と変わりません。
今世にノーチャレンジなら、アニメのキャラに何を投影するでしょう。
魂の歓喜と責任を来世にスルーするなら、それはチートすぎるでしょう。

内心を誤魔化すことはとても簡単ですけれど、魂のレベルでは輪廻転生するプロセスに、罪にも罰にもと刻みつけられるのが、この世のしきたりなのですね。





誰にとっても地球にいられる時間は有限で、月に帰ることが予め決められているなら、せっかくの命を何に使うのか、魂をどんなふうに活かしきるのかという問いかけが、本作品への寄り添い方なんだと思います。

そんな当たり前のことが、あまりにも当たり前すぎて、気がつかない、気にも留めないのが、かぐや姫の役回りであり、同時に人間のさがというわけなのでしょう。

最終のシーンで屈強な武士らが描かれますが、これもちょっとしたアレゴリーでしょう。
どんなに虎の威を借りようとも、時間の審判には抗うことなどできないとクギを刺す作者のメンタリティーなんですね。

月の住人の立場なら、地球への転生は、言わば「ショートバケーション&ワーカーズビザ」の付与。
あるいは、自分磨きのための「星間留学体験」なんて解釈も面白そうです。
くれぐれも元の木阿弥(前世の焼き直し)にはならぬようにとの注釈付きですけれど。

ただ、その警句は、当人には分かりようもないし、教科書にも説かれていません。
何もやりきっていない私だから、誰でもいいから若竹でつくった警覚策励でシバキ挙げてくれないかしら。
いえ、それも自分から求めないといけないのでしょうね。





月の女性は、"自らの意志" で地球に転生しています。

であるなら、どうして彼女は、自身の顔を可愛らしく、美しいままに転生したのか。
どうして彼女は、平凡な顔立ちを良しとしなかったのか。

無意識、無自覚なその自我は、彼女の罪とは言えまいか。


いいえ、もしかしたら、彼女は譲れなかった、譲らなかったのかもとも疑います。
転生だけでも十分な特赦なのに、そこまで依怙地を通すなら、罰を受けざるを得ない人生になっても仕方ないかなぁとため息がでます。

ですが、神仏が "敢えて許した" と致すなら、話はがらりと変わってきます。


美人薄命。
それは罪をつくるから? それとも罰を負っているから?
なんとも、どうにも難しいものです。





「竹取」は、長けを取ること。
それは、自分の長所に胡坐をかいてばかりではいけないことを示唆しています。

あるいは、長けを獲ること。
それは、自分を竹のように伸ばし、節を乗り越え、節を味方につけて、高みを目指すとも解釈できます。

さらには、丈を取る、でしょうか。
丈は、物の長さを測る単位ですが、支えること、支えあうことの意味もあります。

日本は言霊の国ですから、「竹取」の二文字にそういう精神性を秘め、長く言い伝えようとしてきたとも言えそうです。


仏教では、人は誰でもが、前世の劫を携えて生まれてくると語られます。
そして今世でも、知って犯す罪、知らずに積む業があるとも言われます。
それでも人は良かれと信じて徳を積み、意を尽くして天命を受け容れるしかないのかもしれません。

だから、かぐや姫は、彼女なりの生をやりきったのだと思います。
それなら、次のかぐや姫の役は、あなたです。

原典と高畑氏の作品は、それを後世に伝えていく役割なのだろうと思います。
それはまた、私訳・竹取物語でお伝えしたいことなのです。

投稿 : 2025/01/04
♥ : 14
ネタバレ

ろき夫 さんの感想・評価

★★★★★ 4.1

かぐや姫の物語に想いを寄せた一人の翁

学校で習ったことはありますが、大昔のことなのでぼんやり。
大方のあらすじを覚えてる程度、詳しくは把握してません。
まぁ、でも大丈夫な作りになっているでしょー。一応、ジブリだしw
てな感じで見に行きました。

けど、十分楽しめました。それで良かったということなのかな?

冒頭、竹取物語お馴染みのフレーズから始まるのが、とても懐かしい気持ちにさせてくれます。
全体的に忠実に再現されていて、見ていく内に原作の内容が頭の中に蘇っていきました。

原作をベースにした刺激的なアレンジなどを期待するような内容ではありませんでしたが、かぐや姫やその周囲の人々の心情を細やかに描くという+αの要素は加わっています。
人々の交流の温かみを、幻想的に心豊かに表現するのが高畑作品の魅力だと思います。
心を解きほぐすかのような墨画テイストの柔らかい絵はそんな雰囲気を出すのにピッタリでした。
でも、斬新さを求めると拍子抜けだし、退屈な部分も多いので万人受けとは言えない気がします。


いきなりですが、高畑勲という人物像に思いを馳せたことはありますか?
高畑作品って苦手な人も多そうなので、どこに魅力を感じているのか自分なりに紹介したいと思います。


割とストレートなメッセージ性を込めて作品を作ってきた人。
という、イメージでしょうか。

説明的な表現が作中に多くあり、宮崎駿作品と比べるとそれが露骨に伝わってくる。
自然を、家族を、心のゆとりを慈しみなさい。そんな言葉が。どの作品にも共通して。
別に意識して尖った見方をしなくても、向こうが意識させてくる。
それを言いたいがためだけに題材選んでるでしょ!そーでしょ!w なんて、言いたくなるような。
言ってることが間違ってるわけじゃないけれど…上澄みだけで底の泥には触れてないような。
少し一方通行な胡散臭さが拭いきれないもんだから、余計鼻についてしまう。
一生懸命そんな考えを振り払おうとするのですがw

けれど、そんな不満を抱えつつも、結局いつも見てしまう。
それはやっぱり映像面・演出面で、良いものを見せられたとき「面白いっ!」
って感じる気持ちの方が強いからなんだろうなぁ、と思う。
もちろん説明的で退屈な部分や、掘り下げたりない部分、ツッコミどころも多い。
でも、ここが見せ場だ!ってなるときの極上の映像にはそんな不満が些細なことのように思えてしまう。
頭の中でごちゃごちゃ考えていたことがすべて吹き飛んで、物語に一気に引き込んでくれる!
それが高畑作品を見る上で快感でもあります。キターッ!ってなるわけですw
(こういうことを書くと、通ぶったヤローだと思われてしまい抵抗があるのですが・・・
気持ちに嘘は付けないから仕方がない!w)


でも、これまでの作品からすると今作の表現は相当控えめだったように感じます。
悪くはなかったはずですが、印象的なシーンが見当たらない。
「うわぁ、すごい良いなぁ」が、けっこう連発するはずなんですが・・・。
もっと挑戦的なものを期待していた分、正直、ちょっとがっかりしました。
高畑監督の年齢を考慮するとだいぶ挑戦的ではあるんですがw

そんな期待はずれな映像に・・・
この作品を、どんな意図があってこのタイミングで映像化したのか?
なんて、心の片隅あった想いが案の定、暴れだしてしまいましたw

「この人がこんな忠実にかぐや姫を映像化するわけないっ!」
「マジかよー、これなら観るの映画館じゃなくても良かったかな?」
「評判良かったから友達も誘ったのに・・・。寝てないかなー?」
「50億もどんな使い方したんだろう・・・。言い訳くせぇ墨画だなぁ」
「これなら…パフィーも出るゾ!ひまわりのかぐや姫だぞ。の方が面白いわっ」
「原作としっかり見比べてみようかなぁー」
・・・
なんて心の声が次第に増えてきて、集中が続かなくなっていくのが分かりました。
高畑作品にこんな感想を抱いてしまったことに自分で驚いてしまいました。

いや、多分いつものことだったんです。
この作品も例外ではありませんでした。

ラスト20分あたりからでしょうか。

{netabare}かぐや姫が、幼い頃に育った故郷を訪ね、そこで捨丸と再会する。
このとき、彼女の思いがグッと溢れ、彼を抱きしめるわけです。
そしてそのまま、二人は宙へと舞い上がり、つかの間の愛を確かめ合う。

この幻想的な映像に、あっという間に引き込まれてしまったのです。
その瞬間・・・
「あ、そうか。これはやっぱり彼女の物語なんだな」
って思わず、ハッとなった。

彼らが宙へと舞い上がったのは、かぐや姫の持つ不思議な力のおかげなんかじゃ決してない。
あれは彼女の強い想いが生んだ幻想だったのだ。
(だから、厳密に言うと捨丸は浮気していないハズw)
実は何度か、そういったシーンが見られる。
彼女が「かぐや姫」という名前を頂いた際に催された宴の席。
そこでも彼女は、現状に不満を募らせ、古里に向かって屋敷を飛び出す。
凄まじい形相で無我夢中に走る彼女。
けれど、馴染みの仲間たちの姿はなく・・・。
「また春が来るよ」その言葉が彼女を安心させた。
目が覚めると、結局屋敷の中。

そう、彼女は決して自分勝手に屋敷を飛び出したりはしていなかった。
今まで、ただの一度も。

特別な力など、本当はなにも持っていなかったのだ。

父の言うことをよく聞く、母の言うことをよく聞く、器量の良い、とても良い子。
当時の時代背景もあって、自分の想いを押し殺して生きていた。
そうすればそうするほど自由を願う想いが強くなっていった。
けれど、想うだけで結局何も叶わなかったのだ。

月よりの使者が自分を迎えに来てくれて、きっと自由にしてくれる。
ついにはそう考え、助けを求めるようになった。この世は罰なんだと。
冥土の闇に輝く月が、限りなく眩しく見えたに違いない。
そして身を絶ってしまった。

最後のシーンで、使者が菩薩の姿をしていたのは、そういうことなんだと思う。
悲しい別れにも関わらず、使者たちはそれを気にかける様子もなく楽しげに音楽を鳴り響かせる。
それは、決して待ってはくれないあの世への旅立ちを無情に鳴り響かせているようにも見えた。
かぐや姫の両親が眠りから覚め起き上がり、宙に浮きあがってまで彼女を追いかける姿。
未練を断ち切れずにこの世を去ってしまった彼女の、最期に見た幻想だったのかと思うと悲しすぎて泣けてくる。

つまり、最初から最後まで彼女の精神世界を描いた。「かぐや姫の物語」だったのだ。

しなやかな竹から生まれ、山や野を愛し、身分にとらわれず、一人の男性を想い続けた。
そんな女性像に憧れを抱き、月に想いを寄せた、か弱き少女の描いた儚く悲しい物語。{/netabare}

・・・原作者が不明なのをいい事に色々と想像しまくりなのですがw
大昔に、その想いをこのような美しい作品に仕上げた人がいたのかと思うと感慨深い。
そういった意味で、今作によってこの物語への理解をより一層深められた気がする。

これを映像として完成させた高畑勲はやっぱりすごいなぁーとしみじみとていたら、抱えていた不満もいつの間にか綺麗サッパリなくなっているのでした。
これだよ、これ!なんてw

そんなわけで今回の作品も期待に十分応えてくれているので、
この監督の作品が好きな方にはオススメできるんじゃないかと。
退屈な部分もありましたが、無駄なシーンは無かったように思います。
基本的に、映画館に行くと「時間とお金を無駄にしたくない!」などの思いから、
映画を最大限楽しもうと努力するので、良く見すぎていて客観的じゃない部分もあると思います。
なので、この文章が参考になっている自信はかけらもありませんw

別に上から物言ってるわけではないけれど、高畑作品ってそんなもんだよなぁー、という
心構え?みたいなものを持っておくと怪我せずに済むような気もします。
どっか抜けていて、手放しで絶賛できるようなものではないけれど、魅せるときは魅せる!
そんな振り幅がクセになってしまっているのかもしれません。
ホントは全シーンにわたって、そうあって欲しいのですがw

ただひとつ・・・
{netabare} 「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーには疑問を感じますね。

劇中そこまでそれについて掘り下げられなかったし、強調されていません。
視聴後にこのキャッチコピーを目にしたので、違和感しか感じませんでした。
周囲の情報にとらわれるよりも、素直に受けとって見れた方がより集中できて良いかもしれません。
現に、一緒に見に行った友達は、高畑勲はおろか原作に関しても全然知りませんでした。
けど、期待していたよりも良かった。感動して泣いたと言っていました。

あー、だったら我慢せず自分も泣いときゃ良かったなぁ・・・。チクショウ!w{/netabare}

ここまでお付き合い頂き本当にありがとうございました!

投稿 : 2025/01/04
♥ : 17
ネタバレ

タナボソ さんの感想・評価

★★★☆☆ 3.0

見方間違ったかな…

とりあえず2ch見にいったら賛なレス目立つのが少し驚きでした。

新しい解釈に期待したせいなのか、
「姫の犯した罪と罰」なるコピーに煽られて真に受けすぎたせいなのか。
正直、肩透かしを食った感じ。

まんま『竹取物語』だし、罪と罰に関しては
{netabare}かぐや姫が地上で生活したいと願ったことが罪で、罰として地球に降ろされた、{/netabare}って別になあ…。

{netabare}かぐや姫にとっては罪で罰にあたるにも関わらず、求めてやまない、
喜怒哀楽に身を焦がして、愛別離苦の情に振り回され、生老病死に苦しめられながらも、
この世界で生きることは尊いのだと言いたいらしいのだけど…。
いや、そりゃ無味乾燥な月世界で生きたいなんて思わないよ。でも…

この世は生きるに値する、ってテーマがどうも。
そのテーマけっこう見る気がするし、うーん…。
そもそも、みんなそんなに生きる価値ないと思ってんの?
或いは作り手は生きる価値ないと感じてる人が多いと思ってるんだろうか?
ピンと来ないおれがズレてるだけなんだろうか。

この手の話に触れるにつけ、もし自分がお話作る立場だったら、
生きる価値云々てより、お前ら夢ばっか見て高望みしすぎじゃね?、
今の現状をありのまま受け入れて楽しみを見出だせよ、
もし気に食わないんだったら努力せいよ、って話にするなあといつも思うんですよね。
とりあえずぼくアニメ観るの楽しいですぅ(゜▽゜)叛逆の物語観に行くの毎回楽しいですぅ{/netabare}


登場人物は生き生きと描かれてたと思います。
すごく良く動いてたし、翁も媼も楽しそうに見えました。
子供がいる方なら楽しく見られるのかもです。
子供を得ることによる喜びの部分で共感できそう。


しかし私的にあまり好ましく映らなかったキャラがいたのもまた事実で。
かぐや姫、ただのわがまま娘じゃないですかね。

予告編に着物脱ぎ捨てながら猛疾走する場面ありましたが、
そんな理由で鬼の形相でダッシュしたんかとツッコミ不可避ですわw

それ以上にアカンと思ったのが捨丸。
{netabare}劇中2回盗みを働くわけですが、肯定的とも取られかねない描写、どうなの。
露見して捕まってもボコボコに殴られただけ。
時代背景、状況がまるで違うことを百も承知で書きますが、
人のモノ奪ったり傷つけたりして、損害を負わせる行為を
自慢する輩が現れて問題になる現状的に、いかがなものかと。

で、突然再開した幼なじみのタケノコ=かぐや姫と愛の逃避行。
妻子をほったらかしにして、ですよ?
いない設定にすれば全く問題ないのに。
空を一緒に飛び回っていったいナニをしてるんですかねえ。{/netabare}


もし竹取物語知らない人なら楽しめる可能性は高まるだろうし、
竹取物語の映像としては決定版と言って良さそうな気がしました。
画は凄いですよね。演技も良いと思いました。
故ちいさんも熱演。「ひーめ、おーいで!」「ひめー!!!」
て実際見たら微笑ましいと同時にうざいだろうけどw
電車で孫と一緒になってアイス持ってはしゃぐ爺さんのエピソードがある町田康の小説思い出した。


映画館で鑑賞して良かったと思えたか:3/5
設定・世界観の好悪:2/5
OP曲の好悪:2/5
ED曲の好悪:2/5(二階堂和美 / いのちの記憶)
(2013/11/25初up)



直接の関係はないのでタグ使って『夢と狂気の王国』の感想
{netabare}
ジブリを題材にした実写ドキュメンタリー映画。
『風立ちぬ』のネタバレがある、と言うか鑑賞してないと
いまいち解らないのはまず注意。


期待値めっちゃ低かったんですが、意外や楽しめました。
だって最速上映イベ行ったら宮崎駿のそっくりさん芸人いるんですよ。色物だったのかよと。
そのイベのチケット取れたのも、自分が開催に気づいた時点で
チケット発売日から丸二日経ってたけど普通に席空いてたからだし。
ニコ生でも配信されたトークセッションでは即完売ムード醸してたけど、半ば嘘ですw

で、その意外や楽しめた本編、
まず、時折差し込まれる風景など映像が綺麗だし、音楽(高木正勝!)が良い。
ドキュメンタリー作品全般あまり観たことないんですが、
表層部分だけでこんなに楽しめるとは、ドキュメントなんて退屈だろ的先入観を壊してくれました。

猫の牛子がドアの向こうで半身を見せて覗き込んでいるように見せる描写を
挟み込むユーモア、ほっこり感も良くて、いや、実際この猫、人の話聞いてるらしいのですけど。
押しつけがましさがあまり無くて、スタジオジブリの空気感を捉えることに
注力してるのも好印象でした。

スタジオジブリってヘンみたいです。
一見普通のおじさんおばさんなスタッフが沢山出てくるけど、少なくとも精神年齢はみな年齢不詳。
パンフ掲載の高木正勝によれば学校、ってことになるけど、
それだけじゃなくて。
例えこの映画の中だけの作りごとだとしても、すげえなと思いました。


文字通りジブリの夢と狂気を描いているわけですが、狂気成分は少なめ。
例えば宮崎吾朗のシ-ンが狂気だったらしいけど、取って付けた感ありありだし。
前触れもなく唐突に出てきてプロデューサーにキレて狂気でござい、ってそれはうーん。
詳細解らなくてもどんな話してるかはまあ判るけども別になくていいような。
もっと金の話すればよかったのに。鈴木Pが暗躍するドロドロのマネートーク。
宮崎駿が語るところの創る自由には金が必要なんだし。

しかし同時に金の話はこの映画には必要ないとも思うんですよね。
上映前、鈴木Pが0時予定時刻を押してまで語るところに、
この映画に真実はない、とのことだけど、まあキレイゴトが多すぎではありながら、
それで良いと思えてしまいました。
少なくとも宮崎駿が自分のために映画を作ってるのではない、人のために作っているのだ
と信じていることには真実味を感じました。

興味深いネタも色々ありました。
↓『夢と狂気の王国』以外に『風立ちぬ』のネタバレもありm(_ _)m
{netabare}
『風立ちぬ』は宮崎駿自身の自叙伝でもあった、とこの映画では描いてる。
「生きて」は反戦派でありながら兵器を愛してやまず、
呪われた仕事とした映画作りに従事するなど様々な矛盾を抱えながら
「生きねば」で、鑑賞会で自身観て泣くのかとも思うわけですがw

一方、鈴木Pと庵野秀明との車中での会話では、
庵野自身にとってもっと生きて、もっと良い作品を作らなければ、
とのエールとして受け取ったと思しきやりとりもありました。

最初思いついたラストと真逆のラストにしたってエピソードには驚き。
当初は菜穂子にこちらに来て、と言われて天国に導かれる結末だったらしい。


高畑勲は謎。
私が知らないだけとは言え宮崎駿が良くも悪くもよく話題にする。
もの凄く影響を与えた人物として語られる割に
結局、本人登場は実際の唐突な出現時を捉えたシーンのみって言う。

あと駿、身内映像ぽい中宴会かなんかで浪々と歌い上げてたけど、
やっぱサービス精神あるんだなあとか。

つうか、引退会見の直前、ホテルの窓から外を眺めて、
建物の屋上を渡ってあるく空想から作品創りに繋がるような話をするとか
ホント引退する気あるんか?って感じ。
{/netabare}

映画館で鑑賞して良かったと思えたか:3/5
設定・世界観の好悪:3/5
OP・ED曲の好悪:記憶に薄く判断出来ず
{/netabare}

投稿 : 2025/01/04
♥ : 5
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