たばこ さんの感想・評価
3.3
ギャンブルを脱臭することに成功した咲の限界
まず第一話で興味を惹かれた。
このアニメのやりたいことがはっきりわかったし、かつ、その試みは率直に面白そうだと思ったからだ。
それは
●麻雀の臭さを脱臭すること
である。
通常、麻雀といえばご存知の通り、
おっさん がやる
孤独 で
殺伐 とした
昭和 の臭い漂う
タバコ がつきものの
反社会的 な
ギャンブル である。
これらすべての麻雀へのステレオタイプを取り除こうとしたのが、この咲だ。
咲における麻雀は
女子高生 がやる
友情たっぷり で
ほのぼの とした
平成 の新しさをにおわせる
タコス がつきものの
社会的 な
スポーツ である。
とにかく、麻雀におなじみの「例のおやじ臭」をことごとく脱臭しようとしている。
そして、結論から言うと、これはかなりの部分で成功したと言っていいんじゃないだろうか。
実際、全話を通して、純粋な高校生の清々しいスポーツとして違和感なく見ることができた。
●麻雀を脱臭した後に残るもの
では、麻雀から、おやじ臭・ギャンブル臭を取り除いた後に残るものはいったいなんだろうか。
そこには、麻雀が本来持つ人を惹きつける強力な魅力が残る。
運
である。
もちろん、心理的な駆け引きや、ロジカルな定石打ちなどで、ある程度麻雀の勝率は上がる。しかし、一般のスポーツ競技と比べたときにはどうしても「運」の要素に左右される部分が大きいのもまた事実である。そして、そこにこそ麻雀の魅力がある。
咲は、この麻雀の持つ「運」という本来的な面白さを、ステレオタイプから脱却することで、純粋な形で提示しようとした。
主人公の咲と、その親友のノドカの対比からもそれが伺える。
ノドカは、
「ガチガチの論理的なうち回し・デジタル麻雀」
であるのに対し、
咲は、
「嶺上開花(リンシャンカイホウ)を連発する神がかり的な運麻雀」
だ。
そして、主人公は咲なのである。
あくまで主役は「運」。
「論理」はその引き立て役でしかない。
視聴者は、ノドカのデジタル打ちよりも、咲の嶺上開花にこそ、わくわくする。
それこそが、麻雀の本来持つ、「面白さ」なのだ。
●ギャンブルを脱臭することに成功した咲の限界
咲は、確かに麻雀からギャンブル臭を脱臭し、純粋な「運」という面白ろ要素を抽出することに成功した。
しかし、それがかえって、「咲」の限界を露呈したと、私は思う。
その限界とは、一言で言えば、
●「運」をスポーツの主軸に据えたことの限界
である。
確かに、嶺上開花を連発する咲の姿は見ていて気持ちがいい。
しかし、そこには、全くといっていいほど、「感動」がない。
なぜなら、全て運だからである。
理由なんてない。
咲は、生まれ持って嶺上開花に愛される運を持った人間というだけに過ぎない。
血反吐をはくような練習や努力より、偶然、たまたま生まれ持った運を持つものが勝者となる。
通常、スポーツってのは、
「理にかなった練習と努力を積み重ねた者」
だけが勝つのである。
そして、そこにこそスポーツの面白さがある。
しかし、咲は、スポーツを題材に、麻雀の「運」の面白さを語ってしまった。
水と油を混ぜようとしたのだ。
本質的には混ざり合うことのない、水と油、スポーツと運、というジレンマに挟まれることになる。
それゆえに、咲は、この先、永遠に視聴者に感動をもたらすことは無い。
咲は、「運」を扱ったため、「スラムダンク」の感動を与えることはできない。
一方で、
咲き、「スポーツ」を題材にしたため、「アカギ」の感動も与えることができない。
どちらにも進むことができない。
表層的な面白さを提供することはできるけれど、人の心に残るアニメには永遠になりえない。
これが咲の限界である。
● レビュー紹介
自分のレビューのように、咲をスポ根アニメと捉えててしまうと、どうしても腹の底から感動できない部分が出てきてしまうんだけど、こういうレビューもある。
ひげ氏「とある雀師のドラ爆弾」
http://www.anikore.jp/review/87135
咲を「リア充」アニメとして捉えるっていう視点。
自身の実際の麻雀経験とか、仲間との思い出をこの咲に重ねることで、咲の別の一面がわかる良レビューだ。
レビュー内容から伝わる自然な息吹というか、ものすごくナチュラルに麻雀を語っていて、それが読む人にも伝わる。
このレビューを読むと、「あ、そうそう、麻雀って確かにそうだよねw」と思わずうなずいてしまう。こういう形で、ある種のノスタルジーに浸るってのは咲の別の楽しみ方かも知れない。
一読をお勧めする。