日本のメディア芸術100選で星雲賞なアニメ映画ランキング 2

あにこれの全ユーザーがアニメ映画の日本のメディア芸術100選で星雲賞な成分を投票してランキングにしました!
ランキングはあにこれのすごいAIが自動で毎日更新!はたして2025年03月01日の時点で一番の日本のメディア芸術100選で星雲賞なアニメ映画は何なのでしょうか?
早速見ていきましょう!

90.8 1 日本のメディア芸術100選で星雲賞なアニメランキング1位
風の谷のナウシカ(アニメ映画)

1984年3月11日
★★★★★ 4.2 (1971)
12671人が棚に入れました
極限まで発達した人類文明が「火の七日間」と呼ばれる最終戦争を引き起こし、瘴気(有毒ガス)が充満する「腐海」と呼ばれる菌類の森や獰猛な蟲(むし)が発生した。それから千年余り、拡大を続ける腐海に脅かされながら、わずかに残った人類は、古の文明の遺物を発掘して利用しつつ、細々と生きていた。腐海のほとりにある辺境の小国「風の谷」は、大国トルメキアの戦乱に巻き込まれる。風の谷の族長ジルの娘であるナウシカは、運命に翻弄されながらさまざまな人々と出会い、自分自身と世界の運命、太古より繰り返されて来た人の営みに向き合い、大国と小国、そして腐海と人類との共生の道を探っていく。

声優・キャラクター
島本須美、納谷悟朗、松田洋治、永井一郎、榊原良子、家弓家正、辻村真人、京田尚子
ネタバレ

Tuna560 さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

『風の谷のナウシカ』作品紹介と総評+考察「宮崎駿の自然観①」

言わずと知れた宮崎駿監督の代表作の一つ。
元は漫画作品で、原作の途中までのアニメ化となっています。

(あらすじ)
産業文明を崩壊させた最終戦争から千年後の世界。猛毒の瘴気を放つ「腐海」と呼ばれる樹海が拡がり、人類の末裔が住まう土地は日々失われている。辺境の峡谷にある小国「風の谷」は風向きにより瘴気から守られ、穏やかな農耕生活を営んでいる。族長ジルの娘ナウシカは剣術や飛行術を修めた勇女であり、人々が忌み嫌う腐海の生き物と心を通わせる優しい少女でもあった。
ある夜、風の谷に大国トルメキアの輸送機が墜落する。積荷は工房都市ペジテから略奪した巨大生体兵器「巨神兵」の卵。谷は追っ手のトルメキア軍により占領され、ナウシカは捕虜となる。司令官の皇女クシャナはかつて世界を焼き尽くした巨神兵を現世に復活させ、腐海を焼き払わせようと目論んでいた。(wikipedia参照)

1984年公開の作品というと、もう30年前の作品になるのか…。
いや、決して「古い作品だ」ということを強調したいのではないですよ?
むしろ、”時代を感じさせない作品”の代表ではないかと思います。

まずは何と言っても作画の素晴らしさ。私も昔から何度も観ているのにも関わらず、毎回観るたびに画の綺麗さにビックリしてしまうんですよね。人間の躍動感ある動き、王蟲の触手や体の動き、神秘的だが同時に恐怖と気持ち悪さを感じる腐海の描写、爆発や燃焼の描写などなど…。一度でいいから大スクリーンで観てみたいと思ってしまいます。

ストーリーのテーマとしては”人間と自然の共生”について。宮崎監督と言えばやはりこのテーマだと思います。特に本作で特徴的なのは”人に恐れられる自然”が描かれている点でしょう。自然の脅威に曝され、人類滅亡の恐れがある終末世界で、人と自然の歩むべき道を求めるナウシカの姿にとても感慨深い物を感じます。

もちろん、最初に観たとき(子供の時)は「よくわかんないけどすごい!」という感想しかありませんでした。しかし、色んな知識や教養を身につけた現在では、また違った視点でこの作品を楽しめている自分を発見しました。世代を超えて楽しめる作品は本当に素晴らしいと思います。

さて、ここからは少し考察をしていきたいと思います。先にも述べましたが、宮崎監督の作品にはよく「自然との共生」というテーマが含まれていますが、その本質を探っていきたいと思います。テーマとしては、ずばり「宮崎監督の自然観」についてです。


{netabare}・自然観の形成
まずは「自然観とは?」についてお話ししておきましょう。
自然観とは、”自然への根底的な価値観や共通認識”を意味します。それは文化や風土、生活様式などから形成され、その地域古来から培われているものでもあります。

では、ここでよく比較される自然観について見ていきましょう。「自然観=共通認識」とお話ししましたが、ここではその最も古い共通認識であろう”信仰”をベースに比較していきましょう。

1.キリスト教的自然観(西洋的)
西洋諸国の大多数が信仰する”キリスト教”は、まさしく”西洋社会の精神基盤”と言っても過言ではありません。絶対唯一である”神”が万物を創世し、人間も自然も同じく神によって創られたという信仰です。そして、人間にとって自然は、偉大な神の摂理を紐解く”観察対象”という考え方を持つ様になったのです。つまり、自然は”客観的に観るもの”という自然観が形成されたのです。西洋社会で近代科学が発展したのはこの為ですね。

2.神道的自然観(日本的)
”神道”とは、日本固有の信仰宗教とされています。”八百万の神”と言われるように、数数多の神がいると信じられていました。この信仰の由来は、山や川、草木などの自然や自然現象の中に”自律的な神”がいると信じられていたからです。つまり、自然と神は同義であり、自然は”畏れ敬う対象”という自然観が形成されたのです。

上記のとおり、西洋と日本では全く逆の自然観となっています。この比較は自然観だけでなく、文化や価値観の形成にも大きく関わっている点が面白いのですが…話が長くなってしまうので、またの機会にしたいと思います。

では、本題に戻りましょう。
”人間と自然の共生”を作品テーマに据える宮崎監督はどちらの自然観に近いか?
これは言うまでもなく、”日本的自然観”の方ですよね。


・『風の谷のナウシカ』の中に見られる自然観
実は、上記の比較は本作の中でも登場しています。例えば、トルメキアとナウシカ(風の谷)がそうですね。猛毒の瘴気を放つ”腐海”に対し、トルメキアは巨神兵を用いて焼き払おうとします。人類の危害をもたらす物は排除するというスタンスです。これに対し、ナウシカは”腐海”ないし”蟲”との共生の道を模索します。これは自然に対する”畏敬の念”と取る事が出来ますね。これにより、自然に対し客観的なトルメキア(西洋的)と自然を畏れ敬うナウシカ(日本的)という構図と見て取る事が出来ます。

また、日本的自然観は人類の恐怖の対象である”腐海”と”蟲”の設定にも表れていると思われます。
”腐海”は猛毒の瘴気を放ちながら拡大し、人々の生活圏を脅かしています。しかし、実は”腐海”の植物は汚染された土壌の毒素を浄化している事がわかりました。そして、凶暴な”蟲”達はその浄化機関である”腐海”を守っていたのです。”凶暴”な側面と”再生”を促す側面の二面性が描かれ、”自然とは畏れ敬う”対象であるということを示唆しているように思われます。


・”森”を描く理由
宮崎監督の作品ではもう一つ、”森”をテーマにした作品が多くあります。本作でも物語のキーとなる”腐海”もそうですね。これについては、宮崎監督が影響を受けた”照葉樹林文化論”の為だと言われています。

”照葉樹林文化論”とは、簡単に言えば”風土による文化の形成”という学説です。
照葉樹林が形成された地域に住む民族の文化要素には、森林や山岳に結びつくものが多く、衣食住から伝承に至るまで共通が多い一つの文化圏と捉えたのです。

宮崎監督はこの学説と出逢い、人間の文化を形成したのが国境や人種ではなく”自然環境”なのかと感じ、”森(照葉樹林)”をテーマとした作品を製作するようになったそうです。この学説が宮崎監督の自然観の原点であり、日本的な自然観へと目を向けさせた原因だと言えるでしょう。

さて、宮崎監督の自然観を読み取れるのは本作だけではありません。
別の作品でもまた自然観について考察していきたいと思います。(続く){/netabare}

(記述:3/2)

投稿 : 2025/03/01
♥ : 42

nyaro さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

この40年で本作を超える劇場アニメは作られたのか?

 24年6月。今年で本作の公開1984年3月11日から40年が経ちました。改めて見ましたが、その完成度に今更ながら驚きました。それでふと疑問に思いました。果たして日本のアニメーションはこの作品を超えることができたのでしょうか。

 映像表現はもちろんですが、はじめから終わりまで場面場面にほぼ無駄がありません。
 しかも無駄なセリフがありません。説明がなくても物語世界の理解が進む展開。環境問題や反戦・反大量破壊兵器はわかりやすいテーマですが、2人の姫の生き方の物語でもありました。キャラの作り方も配置もいいです。勧善懲悪から脱し、聖女のヒロインでも悪魔的な敵役でもない、それぞれの理屈の中、世界が崩壊する危機を救うのは理解でした。

 SFとして時間の流れや人類がたどった道が想像できるし、その未来にも思いを馳せることができます。わずか2時間の物語は話そのものも密度が高いですが、その壮大なイメージはちょっと類例がない気がします。

 原作よりもマイルドな終わり方ですが、原作よりも開いた未来が想像できます。宮崎駿氏は不満だったかもしれませんが、私はケガの功名で原作よりも良いと思っています。特に今のいつ災害に見舞われるかもしれない世の中に生きていると、映画版の方が気分的に寄り添うことができます。

 エンタメとしても様々な印象が残るシーンが目白推しです。5分に1度くらいあるんでは?私は特にメーヴェの場面は全部好きです。

 後に「もののけ姫」が多分この作品のリメイクにあたると思います。「もののけ」の方が、キャラの深みやテーマの深堀り、世界観などは進化していると思いますが、しかし、エンタメとしてのアニメーションの出来を考えた場合「もののけ」はあまりに暗く、爽快感がないです。そしてマインドとして「もののけ」のあとは現代につながる自然破壊、神を失っていく我々の衰退が想像できます。日本的なので湿度が高い感じが、作品の内容までべたつかせている感じです。

 本作はSF作品であることで、同じテーマをエンタメに昇華しきれている気がします。その能天気さが宮崎氏は気に入らないのかもしれませんが、私はそこがよかったです。
また、この作品って感情移入の私小説的なテーマの込め方じゃないんですよね。氏のほかの作品では透けて見える氏の思想性がストーリーにうまく変換されていて、かなり西洋的な神話・伝説的な物語構造になっている気がします。

 そして、本作を超える作品があるか?と考えたとき、最近の作品はアニメのテーマや設定、キャラの人物造形などは宮崎作品よりもずっと深いし、リアリティもあるし、内面描写や生き方問題など真面目に考えられていると思います。キャラの相対化や伏線などのテクニックも複雑で面白いです。
 今敏氏や新海誠氏などの作品の優れたものをピックアップすると、映像表現はもちろん、ある意味では大人向け作品としてテーマの選び方描き方などは、宮崎氏の上を行っています。

 ですが、アニメというジャンルを考えたとき、2時間という枠を考えたとき、これほど面白く、テーマが明確で、世界観に広がりがある作品はちょっと他に見当たりません。
 そして、それは宮崎駿氏の作品そのものにも言えます。劇場版アニメ作品で、氏は本作を超えられたか。日本の劇場アニメが実写を超えたハリウッドに肩を並べた瞬間がナウシカだとすると、本作の40年周年を踏まえこの夏ちょっと日本の劇場版アニメ史を考えたいですね。

 そうそう、そしてこの作品に続編がないこともクリエータは意味を考えて見習ってほしいです。まあ、原作は続きがありますし、それはそれで面白いのですが、劇場版ナウシカの続きは個々の視聴者にゆだねられました。それが劇場版映画の意味だし素晴らしいところです。




以下 21年5月のレビュー

日本では、実写<アニメ を決定づけた、歴史の転換点。

 ナウシカが作られた1984年。年表を見る限り、999の1979年というのと、マクロスの1984年が付近にありますが、ハリウッド映画に対抗して同列で比較できるレベルのアニメ映画は、日本ではこの「風の谷のナウシカ」が最初なのではないでしょうか。(もちろん999もマクロスもオーパーツなのですが)
 鬼滅とか君の名は、もちろん、千と千尋の神隠しなど、世界で大ヒットしたアニメが多々ありますが、日本にはアニメがあるじゃないか、アニメならハリウッドに勝てる。そういう道に日本が進んだ原点なのではないでしょうか。そういえばアキラが1988年でした。

 ユパの最初の登場シーンから始まり、ナウシカとの邂逅そして、ナウシカの「気流が乱れてうまく飛べないの」といって、走って崖から飛び去るシーン。もう鳥肌ものです。あのシーンだけで涙が出るくらいです。
 島本須美さんの澄んだ声、メーヴェのデザイン、場面にあったレベルの高い音楽、王蟲の暴れる姿、「怖くない…ほらね」。もう、冒頭の15分だけで見せ場がどれだけあるか。今ですらそうなのです。当時の衝撃はすさまじかったと思います。

 そしてその後のストーリー。無駄なところが全くなく、風の谷の生活を見せ、伝説を聞かせ、クシャナが攻めてきて、森に向かい、アスベルと出会い…この映画が116分というのが信じられません。よくこれだけの話を2時間に収めた、というくらい、壮大な話が展開します。

 また、終盤でペジテの船からメーヴェで雲海に飛び出して、コルベットから逃げ出すシーン。すごかったですね。音楽もですが、雲の質感とか風を感じるんです。アニメ史上もっともカッコいい場面は?と聞かれて、私なら候補にいれるかもしれません。

 そのほかクシャナが攻めてきて、ジルが…となったとき怒りに任せて戦うナウシカ。もちろん巨神兵の攻撃。印象的なシーンが数分に一度あります。

 環境汚染を早くからメッセージとして取り入れながら、ハードなSF設定の上でのファンタジー的な物語。しかも空を飛ぶ聖女のような美少女が大活躍する。
 映像、ストーリー、音楽。どれをとっても、超一級品です。アメリカに見せて誇れる映画は?と聞かれて、確実に入る1本ではないでしょうか。今見てもすごい、というのではなく、いつ見てもすごい、という映画だと思います。

 原作では少々宮崎駿のクリエーター魂がさく裂して、バットエンドになっていますが、映画版の未来への希望を抱かせるラストは素直に受け入れればいいと思います。

投稿 : 2025/03/01
♥ : 13
ネタバレ

シス子 さんの感想・評価

★★★★★ 4.4

恐怖、「シス子の館(やかた)」に謎の多足生物出現!!

某月吉日(金)

その日はとても暑い日でした

お勤めを終え夜の11時に帰宅
これだけ遅い時間なのに部屋の中はまだ気温が30度を超えていました

すぐにエアコンをつけ火照ったからだを冷却

涼んだところでお着替えでもしようかと
なにげに床においてある洗濯物に目をやると
3センチほどの灰色の塊があるのに気づきました

ホコリかなにか落ちているのかな?

なんて思って手を伸ばすと
なんと
突然その黒い物体が動き出したのです

しかもものすごい速さで
ゴキブリくらいの速さでしょうか

でもあきらかにゴキブリとは違います

なんだかもじゃもじゃと毛のような触覚のようなものがたくさん生えていて
その毛がムカデの足のようにうねって進んでいるみたいです


その得体の知れない
なんとも表現のしがたい不気味な物体を見て
私は思わず悲鳴をあげてしまいました

ギャァァ~~^^
グエェェェ~~(吐いてないよ^^)

そのまま
とるものもとりあえず
お着替えも中途半端に
エアコンも電気もつけっぱなしのまま
部屋を脱出し実家に避難してしまいました

謎の生物の出現を口実に
実家で上げ膳据え膳
3食昼寝付きの贅沢三昧を貪った私は
(※以前にもゴキブリが出たとき非難した経験から
  着替えなどが常時置いてあります)

翌日から仕事に行かなければということで(社畜ゆえの本能です)
家出から二日後に母親同伴で帰宅

恐る恐る部屋に入り
謎の生物がいないことを確認し
すぐさまバルサンを焚き
ベランダや玄関の前に虫除け用の薬剤を散布

一昨日の悲鳴と
私たちのなにやら怪しげな行動が気になったのでしょう
お隣さんが玄関の扉から顔をのぞかせ
心配そうにこちらを眺めています

このままではご近所関係が険悪になる・・・と
懸念した私は
変な宗教活動や
対テロ対策などではない旨を説明し
なんとか納得していただきました


幸いにも
その日以降は
謎の生物は出現していませんが
帰宅後1週間ぐらいは
落ち着いて眠ることが出来ませんでした


ちなみに
この謎の生物の正体
後で調べたところ
「ゲジ(蚰蜒)」というムカデのなかまだそうで
たまに餌(虫など)を求めてお家の中にも進入してくるそうです

なにはともあれ
侵入を防ぐには
お部屋の中はいつも清潔にし
餌となる虫を駆除しておくことが望ましいとのこと








さて
なんで作品レビューに
こんなお話を書いているのかというと


この「ゲジ」を目撃し
実家で避難生活をしている間
改めて思ったのです

私って虫がスゲー苦手なんだな・・・って

そして
虫関連で嫌な思いをしたとき
いつも思い出してしまうのが

この
「風の谷のナウシカ」という作品なのです

巨匠
宮崎駿氏の原作・脚本・監督作品

「火の7日間」と呼ばれる戦争により崩壊した文明
それから1000年
汚染された大地
「蟲」と呼ばれる巨大で不気味な昆虫
人間の体を蝕む毒「瘴気」
その瘴気を放つ植物が群生し拡大し続ける「腐海」
「蟲」「瘴気」「腐海」に怯えながらもたくましく生き抜く人々

そんな荒廃した世界の辺境の地「風の谷」のお姫様「ナウシカ」を描いたお話


私がいままで観てきたアニメ作品のなかで一番たくさん観ている作品ではないでしょうか
10数回くらい?

しかも
ほとんど
というか全部「金曜ロードショー」で^^

当然
元手が掛かっていません^^
なんともリーズナブルなアニメ作品です^^


一番最初の視聴は小学校の低学年
もしかしたら保育園のころかも知れません

それから10数年(←ウソつけ)

先に書いた作品の世界観からもわかるように
テーマとなるのは
「戦争」や「自然破壊」などちょっと重めのハズ

なのに
自分自身が印象に残っているシーンはちょっと外れたところが多く
しかも視聴した頃の年代によって色々

幼い頃では

巨神兵の笑い顔ってどんな顔?
アスベルって布切れだけで大丈夫なの?(←ご想像にお任せします♡^^)
アスベルって長靴を食器代わりにするの?
(※アスベル:ペジテ市の王子)

だったのが

最近では

ナウシカってノーパン??
ナウシカがラステルの胸見て「自分のより大きい」ってキレてる^^
でもナウシカも結構大きい^^
(※ラステル:アスベルの双子の妹)

なんて
テメ~なんかにナウシカ観る資格ね~!!
などと「ナウシカファン」の方からお叱りをいただきそうです


でも
そんな他愛のない印象もさることながら
年代に関係なく強く心にのこっているのが
さまざまな「蟲」が出てくるシーン

小さい頃からインドア派
しかも大の虫嫌いの私にとっては

虫・・・

しかも「王蟲(オーム)」みたいな脚のたくさんあるものは
とてもノーサンキューでして
レビュー書いている今も思い出しただけで
体中がかゆくなってくるほどです

アスベルが蟲の大群に追いかけられているところとか
アスベルがなんか平べったい空飛ぶ巨大なムカデみたいなのに食べられそうになったところなんか(なんかさっきから“アスベルネタ”ばっか^^)
見てられなかったけど

それよりも圧巻(?)だったのが

ナウシカが幼い頃に
王蟲の子供を隠して飼っていたお話

そこで
ナウシカが小さい王蟲を抱きかかえるシーン

子犬ほどの大きさの王蟲
でもこれ冷静に見たら

「巨大なダンゴムシ」なんですよ!!

最初みたとき卒倒しました(←大げさに書きました)

とにかく
最近では「~ナウシカ」を視聴するときは
蟲が出てくるシーンは目を閉じて
音だけで楽しんでます^^



余談になりますが(なにがメインだったのか謎ですが^^)

虫が苦手とさんざん書いてますが
一応
普通の昆虫は大丈夫なんですよ・・・一応・・・

小学生の頃には
男の子に触らせてもらったりもしてましたからネ

男の子が
「お、俺の大きいだろ?」って出してくるから
私が先っぽのほうを触ると
ピクッて動いたりして{netabare}(←角(つの)のことですよ(汗){/netabare}
意外とかわいい・・・
なんて思ったりしました^^

{netabare}カブトムシのことですよ(汗{/netabare}

投稿 : 2025/03/01
♥ : 14

88.0 2 日本のメディア芸術100選で星雲賞なアニメランキング2位
となりのトトロ(アニメ映画)

1988年4月16日
★★★★☆ 4.0 (1647)
11350人が棚に入れました
小学3年生のサツキと5歳になるメイは、お父さんと一緒に都会から田舎の一軒屋にと引っ越してきた。それは退院が近い入院中のお母さんを、空気のきれいな家で迎えるためだった。近くの農家の少年カンタに「オバケ屋敷!」と脅かされたが、事実、その家で最初に二人を迎えたのは、“ススワタリ"というオバケだった。ある日、メイは庭で2匹の不思議な生き物に出会った。それはトトロというオバケで、メイが後をつけると森の奥では、さらに大きなトトロが眠っていた。そして、メイは大喜びで、サツキとお父さんにトトロと会ったことを話して聞かせるのだった。

声優・キャラクター
日髙のり子、坂本千夏、雨傘利幸、糸井重里、島本須美、北林谷栄、高木均
ネタバレ

アニメアンチ2号 さんの感想・評価

★★☆☆☆ 1.8

京東★ジャブズニーランドの憂鬱

●5月の「秘め子」はもう死んでいる!?

~プロローグ~
魔女には薬学の知識があり所謂ハーブという薬草を用い香を焚き、サバトの儀式を行います。
{netabare}これが古の【イニシエーション】の要素であり、本来「見えない世界」
言い換えれば「幻覚」が見えるようになります。
トトロの森にもその種の「ハーブ」が生えていたことは古代宗教を知るものなら
容易に想像がつき、これで「見えない」トロロのトリックの謎が解明されるわけであります。

本作を理解する上で一番重要なのが宮崎監督の宗教観であります。
監督だけに限らず昔の人々は現代人に比べればとてつもなく信心深い種族でありました。

一連の作品内容から推察しますと恐らくは、日本古来の伝統文化を顧みない
現代人に失望にも似た気持ちを抱いているのでしょう。

現代人よ先祖代々受け継いできた古の神々と敬虔なる古代人の無垢なる心を思い出せ!
というメッセージ性が込められた作品のような気がいたします。

古の民の価値観とそれと真っ向から対立する現代人の価値観とのギャップを
巧いこと描いたのが「ミッドサマー」というホラー作品であります。

このホラー作は「儀式殺人」を題材にしており、グロシーンが過激だ・・・
ということで話題になったものであります。

率直に連続猟奇的グロ殺人が怖いというところもありますが、本当の恐怖は、
古の掟を強固に守るとある村人とそこに観光客として滞在する現代人とのギャップが
致命的な程までに埋まる見込みがないということから生まれる絶望感であります。

我々現代人からしてみると「儀式殺人」とか意味がわからない狂気の沙汰でありますが
「掟の民」からするとそれは生きる意味そのものであり、生きることに直結する
絶対不可欠な神聖な儀式=【イニシエーション】ということなのであります。

現代人からするとその意味がわからなくて恐怖しますが、古の民からすると
それを理解できない現代人が意味不明でそれで恐怖するわけです。

そういうことで、「古の神事」の意味を理解する監督としては、「現代人は
絶望的に終わってるんだぞ」という憤りで満ち溢れているのでしょう。

「はだしのゲン」などでも言及されていますが特攻隊で見事お国のために尽くした若者は
戦死して軍神となるので、それは大そうおめでたく、あっぱれ~!と村を揚げて祝った
という感じの所謂「軍神思想」がございます。

「はだしのゲン」は左翼のプロパガンダだろうという突っ込みもありそうですが
北欧神話の「バルハラ」思想や三国志の英雄関羽を祭った寺などの事例から、軍神信仰というのは割とよくある感じの宗教思想であったと考えられます。

戦死した残念感よりも神に転生したということに対するポジティブな思いが
その宗教思想には表れているように思います。

特攻隊の事例で言えば、親のため家族のため故郷のためにお役目を全うするのは
立派な行いであり、有意義なことであるが故に村を揚げて祝うに相応しく、
そのような立派な人物は軍神になり得る資格を有すると認められるわけであります。

「軍神になって何が楽しいの?」と首をかしげるのが現代人でありますが
昔々の日本人にとって神様にはとてもとても重要な意味がありまして、
「人間中心主義」ではなく「神様中心主義」の世界観の中で彼らは生きていた
のですから人の命が神の存在よりも軽視されるのは必然と言えるでしょう。

メイとサツキにだけ見えていて他の人には見えないのは、価値観の違いによるもので
特攻隊兵士の命に特別な価値があるのが見えるか否かの問題にも通じるものでありましょう。

普段は大人しく聞き分けがいい小学6年生12歳サツキですが、トトロのとなりハウスに
引っ越してきた時のテンションあまりに高すぎで、アパッチの雄たけびを披露するほどでした。

大学勤務の考古学講師の父も娘たちとの入浴シーンで子供のようにハイテンションで
突然大声で笑いだすというパフォーマンスを披露します。

百歩譲って小学生男子ならインデアンの真似をしてはしゃぐのは理解もできますが
小学6年生の女子がそんなに大はしゃぎするのかは疑わしいところです。

そこで考えられるのはトトロのいたトンネル付近には幻覚作用のあるハーブか生えていて
その影響でお化けハウスの一家が脳内トランス状態になっていたということであります。

インデアンも葉っぱを吸う種族であり独特の宗教観を持っていたようです。

父と娘たちとでこの地の守り神である御神木にわざわざ参拝に赴き、それで
作品内容が古神道とは全く関係ないですというのは無理があるどころか
むしろ宗教を意識し宗教にどっぷり浸かった表現だらけと考えるべきでしょう。

神様中心主義の考えから言えば、エヴァンゲリオンの「魂のルフラン」の歌詞
にもありますように、神様から頂いた命はちゃんと神の元に返すべきであり、
人間中心主義の現代人は神様を蔑ろにして頂いた命を粗末にし、挙句の果てには
独りよがりに自殺までする始末であると。

そうして人を殺し命を奪う時も自分本位な動機であまりに身勝手すぎるのだと。

それに比べたら純粋無垢に神様のために命を供物として捧げる儀式の方が高尚で
理に適っているとそういう考えが本作の背景にあるのではないかと思います。

神と袂を分かち、独自の道を行くようになった現代人には確固たる基盤がなく
危うい綱渡りの連続でありまして、故に救いの手が必要であるのは間違いないと考えられます。

しかし救いの方法が一度殺しておいて異世界転生で再生するという、いちいち
面倒くさいと言いますか、何故か現世で救わないのは、何かの詐欺の類だろうと
考えるしかなく、異世界転生での再生をごり押ししてくる感じの宗教は、ただただ
胡散臭い以外のなにものでもないというのが結論でございます。

神様の行う命の足し算その公式は、1=1→1-1=0

「命の錬金術」は詐欺師の手法であります。
来世ではなく現世での救済を期待したいところでございます。{/netabare}

ジブリで下ネタは少々気が引けますが、そういう作品だと諦めてください・・・
{netabare}
メイの「トウモロコシ」と「山羊」のシーンが何を表しているかしばし思い悩み
閃いたのが、「山羊」はエジプト神話の【セト】を表していたということでした。

【セト】が何の動物の姿をしているのかは諸説あり、
ウマ、ロバ、ジャッカル、ツチブタ、ワニなど色々であります。

姿は兎も角、【オシリス】の体をバラバラに解体してついでに「男根」も切除したのが
【セト】であり、「レタス」が好物ということであります。

で、レタスというのは【ミン】という神を象徴的に表すもので
その【ミン】は(直立した)男根の形を示すため、
【ミン】=「レタス」が好きな【セト】は「男根」と密接に関係する
性欲の神という性質があるのだとか。

レタスの茎から出る白い液があれを想起させるらしいです。

そんなわけでこの男根キラー【セト】に夫【オシリス】の大事な「作物♂」を
刈り取られた妻【イシス】はショックで意気消沈するわけです。

そうしまして「トトロ🦉」というのは【オシリス】と同じ作物を生み出し豊作を
もたらす神でありますので、農作物をもりもり生やすことができるわけであります。

トウモロコシとは「トトロ🦉」がもりもり生やした「作物」であり、なので
この作物を「妻」に持って行き食べさせれば、元気になるという話であります。

メイは「トトロ🦉」に母が元気になる方法を聞き「作物」=トウモロコシを
大事に抱えて母に届けようと考えるわけであります。

しかしそこに山羊に扮した【セト】が登場し、好物の作物=トウモロコシを
よこせとメイの前に立ちはだかるのでありました。

エジプト神話によれば【オシリス】の刈り取られた「作物♂」は、
川の中の魚に食べられたということであります。

本作では病院の母に元気になるトウモロコシが届いたので、神話とは全然違うとも
考えられますが、あの病院のシーンも例えばサツキの妄想だという仮説も成り立ち
また二人の子供を失った母の妄想に切り替わっていたということもあり得るかもしれません。

トウモロコシの行方は兎も角、「トウモロコシ」に特別な価値を見出したメイは
【イシス】と重なるとこもありまして、そういうわけでメイがシータに転生した説を
裏付ける一つの材料となるわであります。

【イシュタル-イシス-アシュタルト】などの女神は愛欲の【女神ヴィーナス】と
同類でありますので、「トトロ」のメイとは接点がないように思えるかもしれませんが
「売春婦」を意味する「(天空の城)ラピュタ」や風俗店のような場所を舞台とした
「千と千尋の神隠し」など踏まえて考えると必ずしもジブリ作品が性的な要素を
排除していないどころか、むしろ積極的に描いているというべきなのかもしれません。

【セト】と【イシス】の関係性からトウモロコシのメイが、シータに転生したという
一つの解釈が成り立ちまして、そしてその流れで考えたら案外パズーはサツキが転生した
姿かもという可能性も浮上したりするわけであります。

双子でもないのに「サツキ」と「メイ」は同じ「5月」を表しますので
一体感が強すぎるのですが、その反面顔とか性格とか似ていません。

二人は深い絆で結ばれていたから同じ「5月」の名なんだと考えてみたら
案外同じ時に同じ場所に転生し、シータとパズーとして再生したなんて
考えられなくもないのかもしれません。

とは言えサツキがパズーに転生したということを示す証拠はほとんどありませんが
「売春婦のラピュタ」という作品に隠された秘密については、何とか解明する努力だけは
してみるつもりであります。{/netabare}

「トトロの都市伝説」についてはかなり前に聞いた記憶がありますが、その後
新ver.が追加されそのために騒ぎが比較的大きくなったようであります。

その詳しいことについては最近まで全く理解できていませんでした。

{netabare}ファンタジー作品の場合は特にシンボリックな表現が多用されるため
その解釈によって意味が大幅に違うこともあり得るのは当然のことなのかもしれません。

「理屈」で考えたら、制作サイドが公式に否定したならばそこでデマ確定という話になる
のかもしれませんが、それでも解釈の仕方によっては都市伝説の言い分が成り立つことも
あり得ることは否定できない話であります。

ロゴスの形式とミュトスの形式、仮にロゴス(理屈)が駄目でも
ミュトス(神話)の形式により理を説くことにより、
真に成り得るか否かを試してみたいと思います。{/netabare}

「トトロ死神説」というものがありますが、これは比較的簡単に論証できます。

{netabare}死神とは大鎌(デスサイズ)をもった神でありますから、必然的にそれは
【クロノス】=【土星神サターン】ということになります。

【サターン】はその大鎌で父の男根を斬り落とし、我が子を食べて殺そうとした神であります。

本来親とは子を産み育てるものですが、食べて殺すのですから
「子どもを食べる【サトゥルヌス】」は死神そのものであると言ってもいいでしょう。

【サターン】には【ロード・オブ・ザ・リング】という異名があり
「指輪の主」を意味します。

「主」=「主なる神」でありますからそれは【鬼神バアル】ということになります。

【バアル】は【ベル】、【モレク】と同じ神であり、さらに
エジプト神話の【オシリス】も同じ神ということになります。

【オシリス-ベル-モレク-バアル-サターン】これらの神はルーツが一緒の
同じ性質の神であるということになります。

【バアル】にしても【モレク】にしても【鬼神👹】でありますが、
【モレク】の偶像には「フクロウ🦉」の形をしたものがあります。

トトロの名前は「ミミンズク」でありまして、姿も「ミミズク🦉」であります。

【🦉】=【モレク】=トトロなので、【バアル】=トトロとなり
「子どもを食べる【サトゥルヌス】」=死神=トトロとなります。{/netabare}

「サツキ」と「メイ」の名前は5月を表していますが、
4月30日が前夜祭で5月1日が当日となるある祭典があります。

{netabare}4月30日の前夜祭が【ワルプルギスの夜】
5月1日の当日が【ベルテーン】となります。

【ベルテーン】は「主なる神」=【ベル】を崇め奉る祭典であります。
【ベル】は【ケルト人】の神でありますが、他の民族の「5月祭」では
【グリーンマン】や【オーディン】がその代わりを務めることもあります。

【グリーンマン】とは古代エジプトの【オシリス】の色に由来するものと考えられます。
欧州や北欧では祭典に「5月の花嫁」が選出され儀式の重要な役割を担うことになります。

【グリーンマン】=【オシリス】の花嫁と言っても人間が実際に神と結婚できる
わけではないのでこの花嫁は象徴的に考える必要があるのかもしれません。

欧州の「5月祭」の原型は【ケルト人】の【ベルテーン】であると考えられます。

そういうわけで【バアル】信仰や【モレク】信仰に類似した儀式が
【ベルテーン】=「5月祭」でも行われるだろうということであります。

「ソウルイーター」という作品に登場する「死武専」という学校の校長が
「死神」様でありますが、死神というのは要するに「ソウルイーター」という
ことになるわけであります。

上記作品における主人公の決め台詞「お前の魂いただくよ!」というのも
大鎌の所有者=「死神」が「ソウルイーター」であることを示していると考えられます。

ということで【ベルテーン】=「5月祭」では、【等価交換の原則】により
「供物」として「魂」が捧げられるということになるわけであります。

「5月の花嫁」とは神のための供物であるということで、その関係性は
「子どもを食べる【サトゥルヌス】」と「ソウルイーター」に結ばれてしまうのであります。

この種の儀式については「どろろ」や「ひぐらしのなく頃に」でも描写されており
祇園祭と関係が深い八坂神社が祭る【鬼神】=【牛頭天王】=【スサノオノミコト】
に繋がる【👹鬼神信仰】を表すものであります。

「ひぐらしのなく頃に」に登場する古手梨花は巫女でありますが、
儀式で負う役は【メイクイーン】と同じであります。

【鬼神】と似たものに【アザゼル】という「追放の山羊」を意味するものがおりまして
そもそもは儀式の供物に捧げられた山羊の片割れでありますが、それが
【バフォメット】という名で呼ばれ鬼神のように祀られる神となるわけであります。

本作でメイが母にあげようと収穫したトウモロコシをまるでよこせと
言わんばかりにちょっかい出してきた山羊がおりましたが、それは
恐らく【バフォメット】を暗示するものでありまして【等価交換の儀式】を
要求していたということなのかもしれません。

しかし山羊がどうこう言う前に「ミミンズク🦉」に何かをしてもらっている
時点で【等価交換の儀式】に応じたと解釈できますので、「花嫁のメイクイーン」は
対価を支払う運命から逃れられないことが確定したのかもしれません。

「トトロ」とは「トロール」のことであるとも言われていまして、なので
「ムーミントロール」と同じという風にも考えられるわけであります。

ムーミン谷の「ムーミントロール」には「スナフキン」という友人がいますが
この「スナフキン」の元ネタはタロットカードの(№0)「ザ・フール」であります。

「ザ・フール」=「愚者」の緑色は、エジプト神話の【オシリス】に由来し、
早い話が「緑の愚者」は【オシリス】に一致しますから「ムーミントロール」も
【オシリス】の仲間ということなります。

「ムーミントロール」とは違う「ベルセルク」の「トロール」は普通に子供を
襲いますので出会えば即死確定、話になりません。

トトロはタタリ神=祟り神であるという説もありますが、祟り神は縄文人の神でありまして
呪術文明に属する神ということになります。

呪術文明と言えば【シュメール&バビロン文明】ということになり、
【ベル・バアル・モレク信仰】の如くそこでは子供は供物になってしまいます。

【スサノオノミコト】などの「👹鬼神信仰」のルーツは恐らく「縄文時代」にあり
そもそもは「シュメール文明」がすべての源泉であるという結論になるかと思います。

そういうわけで縄文土器を見たら「子供が危ない」と警戒すべきでありましょう。

最終的に「サツキ」と「メイ」が生きているのか死んでいるのかは断定できませんが
「サツキ」と「メイ」が【メイクイーン】の役割を担っているならば
生存はほぼ不可能ということになります。{/netabare}

さて例の「狭山事件」でありますが、ポイントは「女子高生」が不幸にも殺されたのが
「5月1日」であり、狭山市「祇園」が発見現場であったことであります。

{netabare}本作との共通点はほぼありませんが、「5月1日」に「祇園」という現場だから
「祇園」と【スサノオノミコト】の関係性を加味すると、実際どうかはわからないとしても
「儀式殺人」にこじつけることができる、そう解釈できないこともないという
ことになるかと思われます。

問題は宮崎監督がそれを知った上で本作にその要素を敢えて組み込んだか否か
ということになりますが、個人的な考えではこの監督なら古代宗教に詳しいので
【鬼神信仰】について知らないわけがなく、他作品で既に古代宗教の要素をふんだんに
取り込んだ内容を表現していますから、全部承知の上で作品作りをしたと見ています。

もちろん本作だけの解釈ではいかなる断定もできません。

知った上ですべてやってるということを示すには他作品から複数の証拠を
示す必要があるでしょう。

記憶が間違いでなければメイ行方不明事件の日付は8月21日です。
「 8月21日」だと何も関係なさそうなので【グノーシス転換】しまして
「12月 8日」としますと、その日はなんと(ローマカトリック教会が言うところの)
聖母マリアが母アンナの胎内に宿った日だそうです。

「聖母マリア」というのは実は【女神イシュタル】のことで、
天空の城ラピュタの「シーター」の名前の由来がこれであります。

【メイクイーン】が死んで「シータ」=【イシュタル】に転生したという
解釈ができるわけであります。

「 8月21日」死滅
「12月 8日」再生
この「ひっくり返った」関係性がおわかりいただけますでしょうか?

「生」と「死」が入れ替わることを日付の数字を入れ替えて示しているのであります。
【グノーシス主義】というのはシンメトリーに異常なまでに神経質なのであります。

「儀式殺人」は「再生の儀式」であるというのが古代人的発想なのでしょう。
再生のために殺すのは正義であるというわけです。

【メイクイーン】は祭司=儀式の進行役である場合もあるかもしれませんが
その場合は供物を別に選出する必要があります。

祭司の花嫁サツキ、供物の花嫁メイなどという話もあり得るかもしれません。

ちなみに「ミッドサマー」というホラー作品では花嫁は祭司役担当だったようです。

解釈は様々なものがあり得るものの、敢えてサンプルを一つ示すならば
メイのものかもしれないサンダルを確認した後の描写は
事件にショックを受けたサツキの現実逃避的妄想の世界が
描写されていたかもしれませんという話であります。

トトロの種を庭に植え生えたはずの大木が消えていたわけですから
実は妄想でしたとできるわけであり、むしろそれがファンタジー作品という話です。{/netabare}

「ジャニーズの都市伝説」は現実化しまして
「ディズニーの都市伝説」も間もなく現実化すると踏んでいます。
そして終には
「ジブリの都市伝説」も都市伝説ではなかったという未来も
近いだろうと確信しています。

本作に比べれば「天空の城ラピュタ」の方がジブリの本性を晒し易いと考えております。

ジブリ作品についはサブリミナル的な描写の話は聞きませんが、ある種の有害性が
あるという意味ではディズニーアニメと大して変わらないものだと考えています。

果たしてジブリ作品は子どもに見せられるような健全なものであるのかについて言うならば
残念ながらそういうものではないというのが個人的見解でございます。

投稿 : 2025/03/01
♥ : 0
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.8

久々に

 何回目の視聴かは分かりません。90分弱の作品。
 久々に甥っ子と視聴したんですが、改めてすごい作品だなと思いました。作品自体のすごさももちろんあるのですが、何よりも国民的な思い出の作品になってしまっていることがすごい。私が見ても面白いし、園児が見ても楽しめる。素直にすごいな、と思いました。
 まぁひたすらネコバスのシーンをリピートさせられて、正直辟易したんですけどね…。


引っ越し:{netabare}
 トトロの引っ越しの特徴は、家族が欠けた状態であることと、都会から田舎に引っ越していることです。

 何度も繰り返し見ているために、お母さんが入院中であることは前提みたいに捉えてしまうのですが、作中でこれが明らかにされるのは開始後20分ごろでした。仮に初見だとすると、お母さんは既に亡くなっているのかな、という感覚で引っ越しのシーンを見ることになると思います。楽しげな家族の引っ越しシーンでありながら、家族の重要な要素が欠けている様が描かれています。

 都会から田舎への引っ越しであることはセリフとしては明らかにされていませんが、描写からは明らかです。サツキのファッションは他の同級生たちよりもずいぶんおしゃれですし、お弁当の内容も電話などの時代背景から想像されるものよりもずっとカラフルですからね。自然に触れて喜んでいるのも都会出身だからこそだと思います。都会で育っていることは間違いないでしょう。で、この都会から田舎へというのは、トトロのいないところからトトロのいるところへ、ということでもあります。


 同じ世界観で引っ越しが描かれる作品は他にもあって、それは魔女宅。アプローチは逆です。
 欠けている家族を描いているのではなくて、家族から欠ける側を描いています。キキは仲睦まじい両親の元から離れていく側です。
 都会から田舎への引っ越しではなくて、田舎から都会への引っ越しをしています。魔法の薬やホウキで空を飛ぶキキを友人たちが見送ることなど、田舎では魔法が日常の中で受け入れられています。一方、都会では魔法は認知もされていません。つまり、魔法のあるところから魔法の無いところへの引っ越しです。

 家族仲が良好であったり、トトロや魔法などの都会にないものが田舎にはあったり、どちらの作品も世界観としては共通しているのですが、アプローチとしては真逆なんだと思います。
 トトロの直後の作品が魔女宅ですから、当時の宮崎駿監督の世界に対する認識が垣間見えます。テーマの一つである田舎にあるものの重要性を、同じ世界観を表と裏の両面から見ることで描いていました。


 この構造がガラッと変わる引っ越しがあります。それが千と千尋。
 家族の全員で引っ越しをしているにも関わらず、楽しげな様子はありません。都会と田舎という対比の中でドラマが用意されているのではなく、ドラマが起こるのは異世界になってしまいます。
 都会と田舎の対比がされない以上、引っ越しではなく旅行でも話は進められたと思うのですが、あえて引っ越しから始めたことで、上で挙げた2作品との対比を作っていたように思えます。都会と田舎で対比が出来るような時代ではなくなってしまったということなのかもしれません。
{/netabare}

不在への振る舞い:{netabare}
 トトロの物語にはワクワクするような楽しいシーンが多いのですが、トラブルのシーンも結構多いですよね。作中で起こる大きめのトラブルをまとめるとこんな感じ。

 庭にいたはずのメイが行方不明。お父さんが帰ってこない。
 学校に来てしまうメイ。お母さんが死ぬかもしれない。

 共通点は誰かが不在であることへの振る舞いであると思うんです。上で書いた引っ越しも、母親不在における家族の振る舞いとして捉えられます。もちろん究極的な不在は、最後に出てくる「死」です。その前までの不在は、最後に出てくる「死」へのステップとして描かれていたように感じます。

 家族の不在に対するメイの振る舞いは、とても分かりやすいです。
 サツキが学校に行ってしまっても、お父さんが近くにいれば何も問題はありません。ですが、お父さんまでいないとなると耐えられないんです。サツキを追って学校まで来てしまいます。お父さんの帰りが遅くてもサツキといれば耐えられる、というのも同様です。そばにいる家族が必要なのであって、近所のおばあちゃんではダメなのです。

 では、サツキはどうなのかというと、メイよりは高いところで不在への耐性があります。
 サツキは家族の中で母親の役割を十二分に果たしています。家事をしたり、メイの面倒を見たり。これらのシーンは何度も繰り返し遡及され、かなり強調されています。メイほど幼くはないのです。
 ですが、如何にサツキが母親の役割を全う出来ていたとしても、現実の母親の死の保険にはなり得ませんでした。サツキは単なる不在には耐えられます。しかし、母親の役割を持つサツキですらも、現実の母親の死という究極的な不在には耐えられませんでした。サツキほど自立をしていても、子供にとって親の代替は存在しないんだ、ということです。

 この家族観を大きなスケールで捉えたものが社会的なコミュニティです。父親が不在であっても、サツキとメイを救う手はコミュニティには存在しているのです。これが前項で述べた「田舎にあるもの」へとつながっていきます。トトロの存在自体は「田舎にあるもの」を象徴化させたものですが、トトロの存在を消してこの作品を見たとしても、「田舎にあるもの」の重要性はゆるぎないものだったと感じました。

 しばしばトトロにはテーマがないとか中身がないなんて言われたりしますが、そこまで言うほどストーリー偏重ではないように思えます。
{/netabare}

雑記:{netabare}
 トトロの上映時間を調べるためにググったら、都市伝説がかなり上の方の検索結果に出てきたので驚きました。公式で否定されているとかそういうことはどうでも良くて、それ以前にこの意見が出て来ること自体にも、かつそれが広く認知されてしまうことにも違和感を覚えます。

 そもそも死をテーマとして描く作品で、実際に人を死なせる必要など皆無です。死は象徴的に描けばいいのであって、実際に誰かを殺すこととは次元の違う話だと思います。象徴物としてや構造的(境界的)に死を描いた作品はたくさんありますし、そのような作品では、何が死を担っているのか、境界のどちら側にいるのか、というのが重要なのであって、やはり実際の死とはリンクしていないように思えます。
 都市伝説のネタ的な面白さには同意しますけどね。久々に読んだのでの面白かったです(笑)
{/netabare}

投稿 : 2025/03/01
♥ : 12

みかみ(みみかき) さんの感想・評価

★★★★★ 4.1

リアルな雨のよる(追記:鈴木さんのこと。あるいはパヤオのこと)

昨年、中日新聞がテレビ欄の紹介文で、
「少女は2匹の不思議な生き物を執念深く追う」
という紹介をしたことで、話題になったりしたな…というどうでもいいネタを思い出したりしましたが、それはさておき、



「子供向けアニメ」とされていますが、実際には必ずしも、子供向けアニメではないように思っています。というのも、わたしが子供のころは、地味な話なのでけっこう退屈で……もっとラピュタとかドラゴンボールみたいな、わーっと、元気なおとこのこが大活躍するようなはなしがいいわぁ、と思っていました。こんなリアルな雨の夜の描写とか…なんか怖いこと思い出すし、あんまりたのしくないわぁ…
 とか。思っていましたよ。



 で、逆に、年をある程度とってからみると、このリアルな夜の描写とかが逆にいかにすぐれているのか、とかということをまざまざと思い知るわけです。とんでもなく、よくできている…!
 わたしは、トトロと魔女宅は、子供のころと大人になってからで評価が逆転したのですが、そういうお子さんだった人ってほかにはいないものなのでしょうか。

■追記:パヤオの口の悪さをめぐって

 (これは、トトロじゃなくてもよかったのだけど、とりあえず、ここに書いておく)

 パヤオは、しかし、こういうものを作る人でありながら、一方で非常に口がわるい、という話がある。っていうか、口が悪い。
 たとえば、手塚治虫御大の追悼本のなかで、手塚をボロクソに批判する、という所業をパヤオはやって遂げている。はっきりといって、パヤオはある意味でイカれている。おいおい、お前、言いたいことはわかるけど、大丈夫かよって、ちょっと心配になる。
 でも、まあ、ある程度、大規模なオペレーションが必要な映画・アニメ・ゲームなどのコンテンツ制作においては、ディレクター/監督の役割をはたす人は、たいがいイッちゃってる。ある人は「強靭なメンタル系」と言っていたが、ストレス耐性があるとかって人は要するに、イッちゃってるんですよ。ほとんど。
 わたしの知る限り、イッちゃってない人は、たいがい「あっ、自分には大規模開発は無理だわ…」ということを悟って、1作か、2作をつくったところで、強力なオペレーションが必要とされる大規模開発からはフェイドアウトしていく。
 なんで、イッちゃってる必要があるか、というと「無理な要求」を通す必要が何度も生じるからだ。無理な要求、をスタッフに求めるときに、それを言うことのできる強靭なメンタル・タフネス。そして、それによって恨みを買っても耐えることのできる鈍感さ。それがイッちゃってる、ということの強みだ。

 で、ただ、イッちゃってる人は本人一人だけだと、あまり仕事がうまく回らない。だって、周囲が振り回されるだけだからね。「なんなの、あいつ。すごいのはわかるけど、あの言い方はなんなの?」と周囲はストレスをためる。イッちゃってる天才は「なんで、うちのスタッフどもは、この程度のことが理解できないのか…!!!!!!」とストレスをためる。天才には当然みえている孤独な複雑系。それが、周囲の人間には見えていない。
 なので、絶対に、右腕となる調整役の人が必要になる。パヤオの場合は、やっぱみんな言ってるけど、鈴木敏夫の存在はやはり非常にでかいよね。鈴木さんの立ち回りのうまさや、パヤオと周囲との関係の調整能力がなければ、ぜったいに巨才・パヤオは成立してなかったろうと思う。
 「一発屋」系の天才の人って世の中にけっこういるけれど、そういう人って多くの場合、信頼できる右腕と出会えてないんだよね。だからこそ、一発屋、で終わってしまう。巨大な才能を安定的に出していくための、体制にめぐまれない。これはとてもとても惜しいことだ。本人もものすごいストレスを抱えるし、周りの人もものすごいストレスをかかえる。そういう現場を見ていると、わたしも人ごとでない気がする。

 パヤオが、鈴木さんを通じて仕事を非常にうまくできるようになってきた、80年代。トトロみたいな作品もつくれて、本当にパヤオは、幸せなやつだなぁ、としみじみ思う。
 わたしは、パヤオもすごいと思うけど、鈴木さん、本当にすごいと思う。こういう、イッちゃってる系の人の対応をするのって、本気で疲れるというか、大変だもの。
 相手が目上だったりしたら、なおさら、ぜったいに無理だよね。

投稿 : 2025/03/01
♥ : 14
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