旅館でオリジナルアニメーションなTVアニメ動画ランキング 2

あにこれの全ユーザーがTVアニメ動画の旅館でオリジナルアニメーションな成分を投票してランキングにしました!
ランキングはあにこれのすごいAIが自動で毎日更新!はたして2024年11月07日の時点で一番の旅館でオリジナルアニメーションなTVアニメ動画は何なのでしょうか?
早速見ていきましょう!

90.0 1 旅館でオリジナルアニメーションなアニメランキング1位
花咲くいろは(TVアニメ動画)

2011年春アニメ
★★★★★ 4.1 (6277)
26958人が棚に入れました
突然の夜逃げ、突然の告白、そして突然の別れ――。今までとは違う自分になりたかったという夢は、急に現実となりました。私、松前緒花の平凡な日常は1日にしてドラマチックな展開を迎えたのです。通い慣れた、それでいてあまり愛着のない街を出て、話したことや会ったこともない祖母の元で暮らすのです。大正浪漫あふれる温泉旅館・喜翆荘(きっすいそう)。そこで出会う人たち。花の芽が地上に出て新たな世界を知るように、私も、今までとはまったく違う、新しい生活を始めます。それは辛いことかもしれません。でも、めげても、くじけても、泣きじゃくっても明日は来るんです。だからこそ私は頑張りたいんです、そして輝きたいんです。太陽に導かれるよう咲く花のように。いつか大輪の花を咲かせられるように……。


声優・キャラクター
伊藤かな恵、小見川千明、豊崎愛生、戸松遥、能登麻美子、梶裕貴、本田貴子、久保田民絵、浜田賢二、間島淳司、山口太郎、恒松あゆみ、諏訪部順一、チョー

ヘラチオ さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

お仕事いいね

PAWorks10周年を記念して制作されたお仕事シリーズ第一弾。

安定した作画だけでなく、主題歌も良い。
緒花ちゃんや個人的な推しキャラの菜子ちゃんなどキャラクターも可愛く、人間らしさがあふれていました。旅館業を通してそれぞれのキャラクターが目標に向かって成長していくさまを見て感動しました。こうして、旅館業は成り立っているのだと分かります。見終わった直後は旅館で働くのも良さそうだなんて変な考えも浮かんでしまった。すぐに消えたけど。

制作会社のPAWorksは北陸、富山に本社を構えているだけあって、石川県を舞台にしているわけだが、このアニメに端を発した祭りがあり、地域振興にかなり寄与した作品であったと言える。僕はこの作品を友人によく勧めるほど、クオリティの高い作品だと感じてもいるし、見て終わりの単なるアニメではない。石川県は一時期、レディー・加賀と言ってPRしていたが、PRするまでもなく、かなりクオリティの高い旅館が多いらしい。是非行ってみたい。

面白いけれど、ひとつ不満があるとすれば、緒花の母が苦手ということくらい。ああいう母親にしないと、この物語にはできなかったことは容易に想像できるが、好きな作品でもどうしても好きになれないキャラクターがいたっていいよね。


1. 第1話 十六歳、春、まだつぼみ
突然、母、皐月(さつき)から「夜逃げをすることになった」と伝えられた松前緒花(まつまえ・おはな)。母親から手渡されたのは“喜翆荘”(きっすいそう)という名と、電話番号が書かれた一枚の紙切れだけ。住み慣れた街、母親、そしてクラスメイトの種村孝一(たねむら・こういち)に別れを告げ、まだ出会ったことのない祖母がいる街で暮らすことになった緒花は、海岸線を走る列車からの景色を見ながら、これから始まる新たな生活に思いをはせるのだった。

2. 第2話 復讐するは、まかないにあり
「従業員として働きながら高校に通うこと」と、祖母である四十万スイ(しじま・すい)から厳しく言われ、スイが経営する温泉旅館“喜翆荘”で、新たな生活を歩み始めた緒花。それは思い描いていた生活とはほど遠い世界だった。だが彼女は、板前見習いとして住み込みで働く鶴来民子(つるぎ・みんこ)や同じ仲居の押水菜子(おしみず・なこ)をはじめ、喜翆荘で働く従業員たちと打ち解けようと孤軍奮闘。しかしその頑張りが裏目に出てしまう。

3. 第3話 ホビロン
“喜翆荘”で長逗留をしている売れない小説家、次郎丸太郎(じろうまる・たろう)。彼の書きかけの原稿をゴミだと勘違いして捨ててしまった緒花は、次の朝、まかないの支度途中に姿を消してしまう。「東京に帰ってしまったのでは?」と心配する従業員たち。しかしスイは、そんな彼らを横目に旅館の大掃除を命じる。掃除のため次郎丸の部屋に向かった菜子だったが、次郎丸に、かたくなに掃除、そして部屋に入られることを拒まれてしまうのだが……。

4. 第4話 青鷺ラプソディー
東京から来たということで女生徒たちには質問攻めに、実は男子に人気のある民子と一緒に住んでいるということで、男子生徒からは興奮気味に詰め寄られる。その勢いに戸惑う緒花を救ったのは、クラスメイトであり、有名温泉旅館“福屋”(ふくや)の一人娘である和倉結名(わくら・ゆいな)だった。にぎやかにスタートした緒花の学校生活だが、校舎裏で男子生徒から告白を受けている民子の姿を目撃する。

5. 第5話 涙の板前慕情
“喜翆荘”の板前であり民子を指導する先輩でもある宮岸徹(みやぎし・とおる)。緒花と民子は、彼がホットパンツ姿の結名をバイクに乗せ走り去るのを目撃する。驚くふたりだったが、翌日、板長の富樫蓮二(とがし・れんじ)から徹が来ないことを告げられた民子は、さらにショックを受ける。事情を知った菜子や次郎丸、仲居頭の輪島巴(わじま・ともえ)らも加わってあれこれ推測するも、次郎丸が仕入れた情報により、福屋旅館による徹の引き抜きという結論に至るが……。

6. 第6話 Nothing Venture Nothing Win
ある朝緒花が玄関を掃除していると、車に乗ったひとりの女性が現われる。彼女こそ、経営が苦しい“喜翆荘”を立て直すべく、叔父であり番頭である四十万縁(しじま・えにし)が雇った経営コンサルタント川尻崇子(かわじり・たかこ)だった。実は、ほぼ毎月やってくるという崇子から今回提案されたのは、仲居の服装を一新する案だった。ド派手な衣装を前にとまどう従業員たちだが、崇子の迫力と縁の勧めで、とりあえず服装を変え仕事をすることに。

7. 第7話 喜翆戦線異状なし
母からの電話でお見合いを勧められる巴。すでに相手の写真も送ったと言われ、実家に帰ってこいと迫られる。それに対して勝手に決めないでと反論するも、高校時代の友達の中で結婚していないのは巴だけであることや、喜翆荘でお金持ちのお客さんを捕まえて玉の輿に乗ることに失敗していることを指摘され言葉に詰まる。今の仕事を続けるか、それとも結婚か。これからの人生について悩む巴。そんな彼女の前に、少し特殊な常連客一行が現われる。

8. 第8話 走り出す
旅行雑誌で喜翆荘のある湯乃鷺温泉街が特集されることを知った緒花。旅館ランキングで上位になればお客も増え、スイからも労ってもらえるのではと妄想する。しかし現実は1組の予約しか入っておらず、菜子や徹が休みをとるぐらい暇だった……。ところが幸か不幸か常連さんと飛び込み客が重なり、一気に慌しくなる喜翆荘。スイも仲居として巴や緒花を手伝おうとするが、急に倒れてしまう。そんな中、崇子はお客に覆面記者がいると言い出すのだが……。

9. 第9話 喜翆荘の一番長い日
いきなり増えた宿泊客。突然倒れ病院に運ばれたスイ。菜子や徹の不在。そして覆面記者宿泊の疑い……。女将不在の中、右往左往する喜翆荘の面々は、崇子の提案で覆面記者と思われるお客を優先に接客しようとする。しかし緒花はこれまで通り、宿泊客全員に平等のおもてなしをするべきだと反対。友人の結婚式に出席している徹も連れ戻すと言って飛び出す。徹が見つからず焦る緒花の携帯に、突然孝一から着信が入る。

10. 第10話 微熱
最近、毎朝早起きをして玄関や帳場の掃除を続けていた緒花だったが、無理がたたり熱を出して倒れてしまう……。落ち着いて寝ている緒花を心配そうに見つめる民子や菜子、巴たちは、今日一日ゆっくり寝かしておこうと決める。オリジナルのおかゆを持ってくる徹や、お見舞いがてら新作を披露する次郎丸など、皆が入れ替わり立ち替わり緒花の様子を見に来るも、緒花は自分がいなくても仕事が回るのを見て、本当に自分は必要なのかと自問する。

11. 第11話 夜に吼える
湯乃鷺温泉街の特集が載った旅行雑誌の発売日。緒花は旅館ランキングでの喜翆荘の高評価を期待していたが、現実は10点満点中の5点。またランキングの結果を受けてか、予約キャンセルが相次いでいた。ランキングの結果に納得のできない緒花は、「喜翆荘にめちゃくちゃな評価をつけた犯人と戦ってきます」と書おきを残し、電車に飛び乗っていた。交渉(?)のすえ、なんとか出版社で記事を担当したライターの名刺を見せてもらうのだが……。

12. 第12話 「じゃあな」
旅行雑誌の旅館ランキングで、喜翆荘に悪い点数を付けられたのは大人の事情が絡んでいたと知ってショックを受ける緒花。心配で迎えに来た徹と民子に慰められ、3人は小さなビジネスホテルで一夜を明かすことに。翌朝、緒花は喜翆荘の本当の良さを知ってもらうため、母親であり、ライターでもある皐月を誘拐して連れて帰ることを宣言。徹と民子にも協力を仰ぐ。それを了承する徹だったが、孝一も一緒に喜翆荘に連れていくという条件を出す。

13. 第13話 四十万の女 ~傷心MIX~
母親を車に乗せ戻ってきた緒花たち。皐月は着くなり、浴衣のデザインやお茶菓子、お風呂の時間について、いろいろと指摘する。菜子はそんな彼女を素敵と思い、小さい頃から姉にいじめられてきた縁は威圧的なオーラにひるみ、次郎丸は皐月の艶めかしく白いうなじにやられていた。一方、スイと緒花は皐月と距離を取っていたのだが……。仕事を通してスイ、皐月、緒花それぞれの気持ちが交錯。四十万の女たちの物語に新たな1ページが加わる。

14. 第14話 これが私の生きる道
空に浮かぶ白い雲、照りつける太陽、目の前に広がる青い海。今日は緒花たちが通う香林(こうりん)高校の修学旅行。水着姿の緒花が、パーカーとショートパンツとサングラスで完全防備姿の民子の手を引き海へ誘っていた。仕事を離れ緒花、民子、菜子、結名たちは南国の夏を満喫していた。宿泊先の大きさに圧倒される緒花。旅館の番頭であり跡取り息子の日渡洋輔(ひわたり・ようすけ)は、何か結名と関係がありそうな雰囲気だが?

15. 第15話 マメ、のち、晴れ
結名の遠い親戚の日渡洋輔。彼の実家が経営する旅館「福洋」に修学旅行で泊まることになった緒花たち。しかし番頭である洋輔の厳しい指導や彼の態度に我慢できず、バイトの仲居4人が突如辞めてしまう。洋輔の両親と残った従業員は、手空きの仲居がいないか組合に連絡を取るなど奔走する。それを見ていた緒花は、自ら仲居の仕事を手伝うと伝えるも、洋輔の父にお客様の手を煩わせるわけにはいかないからと断られるのだが……。

16. 第16話 あの空、この空
結名の実家である「福屋旅館」に集まった湯乃鷺温泉の女将、組合員たち。不況の時世、どうやったら温泉地を盛り上げられるかと話し合っていた。その中には緒花、菜子、民子、そして結名の姿も。突然女将から率直な意見をと求められた緒花たちは、自分たちの欲望のまま答え女将たちを呆れさせてしまう。その頃、喜翆荘では縁と経営コンサルタントの崇子が、スイに喜翆荘を舞台にした映画の製作、そしてその映画への出資の提案をしていた。

17. 第17話 プール・オン・ザ・ヒル
喜翆荘の螺旋階段では、緒花と菜子に追い詰められ進退窮まった結名の姿があった。喜翆荘を舞台にして、さらに現地の人も積極的にキャスティングすることとなった映画製作。特撮用の機材も運び込まれ、カメラテストが行なわれていた。それを嬉しそうに眺める縁。喜翆荘の庭にある池が映画の為に掃除され、元のプールの姿を取り戻すと、縁はそこに過去の幻影を見る。一方、東京に戻った皐月からスイへ一本の電話が……。

18. 第18話 人魚姫と貝殻ブラ
夜、次男をおぶりながら台所で夕食を作っていると、長男と次女の「お腹空いたー」という声が響き、居間からは小学校の教師である両親の討論が聞こえてきた。「そういう話は学校で!」と、弟妹の面倒を見ながら両親をたしなめる菜子。そこには家の外では見られない力強くしゃべる姿があった。翌日、菜子はお客から見ごろの花を聞かれるも、すぐに答えられず落胆する。家でのように振舞いたい、やっぱり今の自分を変えたいと思い始めていた。

19. 第19話 どろどろオムライス
文化祭で「姫カフェ」を企画することになった緒花たちのクラス。主に男子からの強い支持で、接客チームのリーダーは結名姫、料理チームのリーダーは民子姫ということに決まり、緒花は仲居の経験を活かし接客チームの講師を任される。あまり乗り気でない民子だったが、徹の「文化祭当日の昼間は暇だ」というひと言で俄然やる気に。限られた調理器具で、最高の料理を作ろうとメニューをいろいろと考えるのだが……。

20. 第20話 愛・香林祭
文化祭の「姫カフェ」のメニューについてクラスメイトと言い合いになってしまった民子。売り言葉に買い言葉、材料の買い出しや準備を自分だけでやると言い、準備当日も朝早くからひとりで出かけていた。心配した緒花は集合時間より早く教室に行くと、そこには黙々と準備を進める民子の姿が。手伝いを申し出る緒花に、民子は手伝いはいらないと声を張り上げる。一方クラスメイトの水野と二人きりで準備していた菜子だった。

21. 第21話 蘇る、死ね
縁と崇子から突然の結婚宣言を聞かされる喜翆荘の面々。お金がなく結婚式があげられなくても、ふたりの力で旅館を盛り返すと息巻く縁だったが、スイから喜翆荘の番頭としての体面を保つため、必ず式は挙げること、と条件を出される。結婚費用の高さに頭を抱える縁、そしてそれを見つめる緒花たち……。だが豆じいのひと言から、皆が手伝い喜翆荘で結婚式を挙げることに。 緒花や初めて宴会料理を仕切ることになった徹は俄然やる気を出す。

22. 第22話 決意の片思い
緒花、菜子、そして結名は手作りのウェディングドレスを、蓮二から初めて宴会料理を任された徹は当日のメニュー作りに、そして次郎丸はオリジナルの寸劇の準備にと、それぞれが縁と崇子の結婚式準備を進めていた。そんな中、あることから一方的に民子に嫌われてしまった緒花は、何とか話し合おうとするのだが取り付く島も無い……。どうすることも出来ない緒花だったが、母・皐月との電話の中で聞かされた言葉をきっかけに、あることを決意する。

23. 第23話 夢のおとしまえ
四十年欠かさずつけてきた業務日誌を誰かに引き継いでほしいという電六の申し出。それを了承したスイは、ある重大な決心を緒花に告げる……。後日スイの気持ちを知ることとなった喜翆荘の人々は、普段と同じよう仕事をこなしながら、これからの自分たちの行く末を思案していた。そんな中、崇子は縁が騙し取られたお金を取り戻すため東京に行くことを宣言。それを聞いたスイから、緒花も一緒に東京へ連れていってほしいと頼まれる。

24. 第24話 ラスボスは四十万スイ
偶然にも東京で出会った緒花と孝一。突然のことに驚くふたりだったが、孝一はあらためて自分の気持ちを緒花に伝えようと、ゆっくりと話しだす。しかし孝一の気持ちを汲み取った緒花は、それを遮り、ぼんぼり祭に来て欲しいとお願いする……。喜翆荘に戻ってきた緒花と崇子を待ち受けていたのは、ひっきりなしに入る予約の電話だった。盛り上がる縁や巴だったが、スイは決心を変えるつもりはなく、これ以上の予約を取らないようにと言う。

25. 第25話 私の好きな喜翆荘
湯乃鷺温泉にある神社や湖では、ぼんぼり祭の準備が着々と進められていた。結名から渡されたのぞみ札を持って緒花が戻ると、縁をはじめ蓮二や徹、民子や菜子、巴たちが、いつもより多くのお客さんをどうやってもてなすかとバタバタしていた。それを見ていたスイは、半ば諦めつつも祭の日だけは、今まで通りのやり方でもてなすようにと告げる。スイ、電六を除く面々が一丸となって喜翆荘を盛り上げようとしている中、緒花はどこか違和感を覚えた。

26. 最終話 花咲くいつか
神社を目指して徐々に集まるぼんぼりの灯り。暗闇の中で輝くその灯は、空に輝く天の川のようにも見えた。初めて目にするその様子に感動する緒花。そのとき携帯電話に孝一からのメールが入る。人の流れに逆行して、慌てて駆け出すその手には、願いが書かれたのぞみ札が握られていた……。夜店をのぞいたり飾られたぼんぼりを眺めたりとそれぞれが祭を楽しみ、一夜の夢が終わる。緒花、民子、菜子、そして皆の新しい物語がここから始まる--。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 14
ネタバレ

ギータ さんの感想・評価

★★★★★ 4.8

緒花により成長していく人たちと、緒花自身の心の揺れ動き 追記:一挙放送視聴後の感想

映画にニコ生一挙放送もあるので、今のうちに何かしら書いておきます。

こういう元気があふれてまっすぐな主人公とても好きです。何かしら良い意味でも悪い意味でもやらかしてくれそうな雰囲気があって、物語を華やかにしてくれるタイプの主人公だなと思います。
緒花の行動、言動によって多くの人たちの心を動かし、成長していくのがこの作品の見どころの一つです。元気、打たれ強い、前向きといったキャラで、全くぶれなそうな人物という描写をしています。

私がこの物語で一番心を動かされたのはあの場面です。
{netabare}
物語の中盤、緒花が東京の母親に抗議しに行く回です。母親に会いにいったけど、現実をつきつけられる、こうちゃんに会うものの互いの心がすれ違ってしまう、自分には何もできない、自分がよくわからない、何もかもうまくいかないといったマイナスの考えが緒花の頭の中を埋め尽くしたことでしょう。
どれだけ強気な性格でも、どん底まで悩んだり落ち込んだりすることはあるんです。人間だもの。すごくぶれない人物という描写を前半にしていた分緒花がここまで落ち込んだことにはかなりのインパクトを受けました。それでも、それ相応の仕打ちを受けていたので、決して無理やりな展開ではなかったと思います。
そんな中みんちの登場に、せき止めていたダムが崩壊したのでしょう、あの緒花が泣いてしまったのです。私も泣きました。頭がごちゃごちゃになる感覚、その後何も分からなくなった所に友人の登場、安心感と言うか、言葉にできない感情があふれる感じ、本当に共感できましたし、感情移入して思わず泣いてしまいました。

→追記
緒花も泣きながら「分かんない」って言ったり最後のしめで「こんなに心が動いた日は初めてだ」って言ってましたね。
別にそこは言葉にしなくてもいいんじゃないかなと思いましたけど、多くの人にこの気持ちを伝えたい、強調したいという意図からのセリフかなと思います。
あと、見返したら緒花って結構泣くことが多いキャラでした。他に感情が動くシーンが結構多くて、いろんなことを考えているキャラでもありました。
緒花の人物像が2回目の視聴によって大きく変わったなと思います。それは自分の考えや、アニメの見方が変わったというのも理由のうちの一つでもあると思います。
{/netabare}


追記:一挙放送を見ました
改めてじっくり見て、いたるところにメッセージが詰まっている作品であったと思い知らされました。
1回目に比べ、印象に残るシーンがだいぶ変わりました。私の考えの変化や、このサイトで考察していたことによってアニメの見方がだいぶ変わったのかなとも思いました。
うまくまとめれるか分かりませんが、感じたことを書けるだけ書きます。

・本当の自分って何?
{netabare}
きもなこちの回です(笑)菜子が自分を変えたい、家庭で振舞っているのが本当の自分であり、どの場所にいてもその姿で、本当の自分で居続けたいと迷走する話です。
これは私の経験とリンクするところがあります。個人的な話なので、特に読まなくてもいいということで隠します(笑)
{netabare}
教育実習の時の話です。私は当初、実習先の生徒と全く話すことができませんでした。他人行儀な感じでしか話しかけられず、生徒も壁を作っていて私に話しかけてきませんでした。私は吹っ切れて、はっちゃけて振舞ったところ、話せるようになり、壁を作っていた生徒たちも、私に話しかけてくれるようになりました。私はこの経験からありのままの自分(明るく、積極的な自分)で振舞うことが大事であり、必要なことだと感じました。本当の自分を見せれば、相手も本当の自分を見せてくれるのだと感じました。
しかし、最近疑問に感じていたこともあります。もし、自分が根暗だったら、ありのままの自分で振舞って生徒とコミュニケーションをとることができるのか。そもそも普段の本当の自分もよくわからないのに、ありのままの自分で振舞うってどういうことなのかなと感じていました。
{/netabare}
菜子は女将さんの言葉によって答えをみつけます。
家庭での明るい自分も、喜翆荘でのしずかな自分も全部本当の自分なんだと。とくに深く考える必要はない、どの自分も自分だと、そんなメッセージが伝わってきました。
私もそうでありたいなと、変に自分を求めて明るくふるまったりせず、これはこれで自分の姿なんだと受け入れて、自分という人間、そして自分の性格を大切にしていきたいです。自分のことがよく分からなくても、深く考えすぎずに進んでいきたいと、考えて立ち止まっても多くのものを得ることはできないと感じました。
{/netabare}

・ぼんぼるという言葉について
「頑張っているけどぼんぼっていない」
{netabare}
正直言ってねらいすぎというか、はやらなそうな言葉ですよね(笑)しかし、目標に向かって頑張るという意味合いは素晴らしいものがあると思うんです。女将さんと対立して喜翆荘を残すために紛争しているシーンで緒花が言った「頑張っているけどぼんぼっていない」という言葉は核心をついてるなと、この状況をよく言葉で表わせたなと言う印象です。
「緒花ちゃんは女将さんの味方なの?」「女将さんの味方やめなよ」というように、喜翆荘の従業員は本来第一に考えなければならないお客さんを二の次にして、女将さんと戦っているわけです。頑張り方を間違えているわけです。
このことに関しても自分の経験と重なるものがあります。これも長く、2つの経験をあげるのでとばして結構です(笑)
{netabare}
私は大学の研究室で失敗続きでひたすら怒られていた時期があります。私は気付かないうちに、怒られないようにしよう、失敗しないようにしようという気持ちばかりが前にいってました。しかし、それに気付くと同時にある経験を思い出して考え方を変えなくてはと思いました。
思い出したのは中学時代の経験です。野球部に所属していたのですが、あまりに監督が怖くて、ビクビクしながらプレーしていて、伸び伸びと楽しみながらのプレーをすることができませんでした。振り返って私は監督に怒られないように、失敗しないようにプレーしていたなと、今と同じ状況だったなと思いました。あの時、考えるべきは監督ではなく、「絶対に打ってやる、抑えてやる」といった、目の前のことだったなと思いました。
私は中学時代のプレーを後悔したと同時にこれを繰り返してはいけないと、頑張り方を間違ってはいけないと思い、自分の考え方、行動を見直したという経験です。
{/netabare}
頑張っていても頑張り方を間違っていれば、より失敗する可能性があがったり、空回りに終わってしまうこともあります。自分のやるべきことや、目標を明確にしたうえで頑張らなくてはいけないということです。
ぼんぼるという言葉は、響き的には少しダサいですが、意味合い的にはとても素晴らしい言葉であると思うのです。思い返してみれば、緒花も最初はぼんぼっていませんでした。何をすればいいかわからず、ただただ頑張ろうとし、空回りしていた。そんな中輝きたいという自分の気持ちをみつけ、ぼんぼるという言葉を編み出した緒花は、ただの主人公補正でなく、順調に成長し、自分の目標のためにぼんぼっていたのだなと、そのうえでの行動だったなと感じました。
確かに自分が何をすればいいか分からないという人もたくさんいると思います。それでも頑張るべきことを見つけた時、それを大事にしてほしいなと思うんです。喜翆荘の人たちはそれを一度忘れてしまいました。ぼんぼることが見つかったら、それを簡単に手放さずにぼんぼってほしいなと感じました。
{/netabare}

・この物語の成長の流れ
{netabare}
以前、緒花によって周りが変わっていく、成長していくと書きましたが、改めて見返して、緒花も成長している、むしろ、緒花視点で進むというのもありますが、この物語で一番成長したのも緒花だなと感じました。
周りの人たちが元からの緒花という人間に感化されて成長したわけではありません。緒花がまず成長して、成長した緒花の行動に感化されて周りも成長につながったというのが、本当の形かなと思いました。自分の成長が周りの成長にもつながるといった感じです。緒花の影響力は相当大きいなと感じました。

もう1つ、この成長の仕方は他の作品ではほとんど扱われていないのではないかと思います。
それは、間接的な成長、緒花の行動に感化されて成長した人にさらに感化されて成長するというものです。
これは、修学旅行での緒花、ようすけ君、結名の関係です。結名のプライドや負けん気が働いたのもありますが、ようすけが変わらなければ、結名の感情変化もありませんでしたからね。
結名らしい成長を求めたうえでのシーンかもしれませんが、この成長の仕方は新鮮なものがありました。
{/netabare}

・考えるよりまず行動できる
{netabare}
これがこの物語での登場人物の成長に大きな役割を果たしていました。修学旅行での緒花の行動に対して、喜翆荘での指導の賜物だということで言われた言葉です。まぁ指導というよりは緒花の性格のような気はしますが、そこはあまり緒花という人間を知らないから言われた言葉なのかなと。
緒花の影響力はとても大きいです。しかし、自分が考えていることを話したり、行動にしなければ何も起きません。それは物語だけでなく、現実でも同じことが言えます。変化は行動しなければ起こせないのです。
ちなみに「考えるよりまず行動」というのは何も考えてないということではありません。緒花は色々、人からすれば気にしない、ほっておけということまで考えています。そして、その答えが見つかった時、迷わず行動に移します。自分の考えに対して、疑問や不安、ためらい、失敗した場合などのいらないことを考えずに行動に移せるというのがこの言葉の意です。
{/netabare}


じっくり見返してみれば、こんなにも見えてくるものがあるんですね。一挙放送で見返すことができて良かったし、他のアニメにもまだまだ見落としていることもたくさんあると思ったので、色々見返したいなと思いました。
花さくいろはについても、まだ書きたいことを書ききれていないので、これからも考察を続けて、考えがまとまったら続きを書きたいと思います。
とりあえず今回はかなり時間をとりすぎてしまったのでこのへんで(笑)


追記:最近すごくよく考える"変化"についての考察
地元への帰省によってクラナド2つのレビューで考えていることを書きました。花咲くいろはでもあの回があったことを思い出し、改めて考えてみることにしました。
{netabare}
皐月さんの喜翆荘への評価覚えてますか?この回が今回考察したいところです。とりあえず丸々コピーしてきたやつを貼り付けます。
「十年一日の如くと言ってしまえば簡単だ。しかし、変化を続けなければ場は淀んでしまう。
 変わらないというイメージを人に与えないための変化は、非常に難しいのだ。
 喜翆荘は常に進化を続ける。変わらぬサービスを続けるため、十年一日の如くを守りぬくため。
 従業員達の気概を感じる、とても暖かな、居心地の良い旅館だった。」

ほっとけば何も変わらないわけではないですよね。絶対マイナスの方に向かった変化をしますよね。加えて、変化をしなければ変わらないイメージを与えられないと言っているのです。
凄いですよね。こういうことを考えて文字にできるって。
考えて見れば分かることだと思います。変化することよりも変化しないことの方が難しいことだと。私も最近の経験もあって、より一層そう感じます。
変わらないと感じるものだからこそ価値がある、持続するために数々の努力をしている、というように皐月さんは評価を下したのです。
大切なものを守りたい、変わらせたくないと思っているものがあったら、この皐月さんの言葉は非常に大切なものだと思います。常に進化し、変化を続けなければ、持続していくのは難しいと私も思います。

最後に「ここは変わらないなぁ」「ここは変わったなぁ」どっちの方が好みですか?
私的には前者の方が和やかというか、落ちつける感じで元々好きです。そして今回考察してみて、何気なく見てきた日常、変わらないものって実はとても価値のあるものなんじゃないかなぁと思いました。{/netabare}

投稿 : 2024/11/02
♥ : 30
ネタバレ

赤緑 さんの感想・評価

★★★★★ 4.6

好みに合いすぎて高評価だけど合わない人は合わなそう・・・老舗の温泉旅館を舞台に繰り広げられるお仕事ドラマ

(やや長め:各話コメントを除くと2,500字程度・全部で5,000字程度)

とにかく私ごのみの要素が詰まっていて、大好きな作品。
居心地がよくて、観てると落ち着く。まるで本当に旅館でくつろいでいるような気分で観られる。
アニメとしてのクオリティーは高いけど、興味のない人や合わない人にはとことん合わないと思うので、評価は分かれるだろう。

---


≪概要≫

東京の女子高生が、突如として石川県にある温泉街の旅館で働くことになる。
旅館で働く女の子たちと、同じく旅館で働く人々のそれぞれの思いが入り乱れるドラマである。

仕事に対する価値観と心構えが全く異なる4人の女子高生が登場する。



≪視聴状況≫

初回はテレビ(再放送)で観てたんだけど、当時のテレビの画質がよくなかったのと、あまり視聴に集中できなかったため、それほど評価してなかっただが、観終わってからこれは高画質の環境で観るべきと思い、BD-BOXを購入して再度一気見。

最高。

レビューする前にもう一度観ておかないとと思っていたのだが、BD環境が調子悪かったのでレビューできずにいた。
やっとBD環境を新調したので再度観た。
やっぱり最高だった。

BD-BOX、家宝である。
コンパクトなところもいい。



≪物語のポイント≫

主要キャラの4人を中心に物語は進む。
でも、サブキャラの話もそれなりに出てくる。こういうのも群像劇って言っていいのかな?

主人公の少女・松前緒花が、東京から離れて旅館の仕事をしていく中で、これまであまり深く考えてこなかった仕事・家族・恋愛について気付いたり教えられたりする。



≪好きな点≫

個人的に好きなポイントをいくつか挙げてみる。


1.旅館が好き

マニアというわけではないが、私は旅行に行って旅館に泊まるのが好きで、本作の舞台となっている「喜翆荘」(きっすいそう)みたいな老舗の旅館に憧れがある。


2.女性がみんな可愛い・美人

可愛いお気に入りキャラが出てくるアニメは他にたくさんあるけど、特に気に入っているキャラじゃなくても可愛い・美人。
詳しくは後述。
キャラデザ&作画監督の人(関口可奈味氏)の作画が好きだからというのもある。


3.料理人

若いときに料理人にあこがれていた。
ただ、修行に耐えられるほど根性がないので目指すことはしなかったけど。
だから料理人の話は好き。


4.絵がきれい

安定という点ではやや劣るけれど、ここぞというときの画の美しさはそれを帳消しにしてくれる。


5.音楽

劇伴は邪魔にならない程度に地味だけど、場面にあった落ち着いた音楽が多い。
OP,ED曲はタイアップで専用の主題歌ではない(たぶん)ので、すごくマッチしているとは言えないが、雰囲気はとても良い。
OPはアップテンポな曲で、元気良く動くムービーと相まって爽快感がある。
EDは曲と映像共に落ち着いた雰囲気で和ませてくれる。



≪苦手な点≫

P.A.Worksさんの作品で描かれる人物(特に若者)と恋愛観みたいなのがちょっと苦手。
上手く説明できないんだけど、特有の痛々しさがあるというか。
若い子には気にならないのかも。
まあ、アニメには多かれ少なかれそういうのはあるだろうけどね。

ただ、この作品に関しては、このような苦手さがありつつも、それでもどのキャラもそれなりに好きで、恋愛に関しても他の作品に比べるとかなりマシなのでそんなに気にならない。



≪女性キャラについて≫

男性キャラもなかなか魅力的なのだが、やっぱり女性が可愛い・きれいというのは重要だ。


個人的な好みで言うと、菜子がいちばん好きである。地味だけど隠しきれない美しさがあるみたいなのがすごくイイ。

だが、作品の中でもっとも光っている女性は、やはり女将であるスイさんだろう。
緒花の祖母であり、歳からいっても完全におばあちゃんなのだが、
理想の女将さんだ。
CVの久保田民絵さんの名演も本当に素晴らしい。

緒花の母も、娘にビ●チ認定されるほど恋愛に積極的で(夫とは死別)、年増ではあるが「いい女」感がスゴイ。


そして、今回観ていて今までと違ったのは・・・
民子である。
もう何度も観ているのにここに来て印象が変わるとは驚いた。以前はビジュアルが黒髪ロングストレートで性格は可愛くないしあまり面白みがないなと思っていたんだけどね。
性格は相変わらずではあるが、とにかく可愛いシーンがたくさんある。
演技も、最初は浮いている気がしていたが、今ではこれじゃないとみんちじゃないって感じるようになった。


≪声優さんについて≫

細かく書くとキリが無いので、代表的な人だけ。

上で書いた通り、女将役の久保田民絵さんの名演が一番に挙げられる。

あと、緒花と菜子って、『超電磁砲』の佐天さんと初春なんだよね。でも性格が全然違うのであまりそういう感じはしない。



≪アニメである必然性はあるのか≫

こういう意見をたびたび耳にするけど、一理あるとは思う。
ただ、この作品をこのクオリティーと同等のものに仕上げるには、NHK朝の連ドラくらいのお膳立てが必要になるんじゃないだろうか。
深夜アニメだからできた企画なのでは。
色々あるだろうけど特に予算的に。私には円盤購入で買い支えるくらいしかできないが報われて欲しい。



≪余談≫

石川県には行ってみたいんだけど、北陸の中でも特に奥まっていて行きづらくて、まだ行ったこと無い。
飛行機を使えばいいんだけどこの距離で飛行機はあまり使いたくないんだよね。
北陸新幹線もできて交通の便が良くなったのでいつか行きたい。



≪総合評価≫

題材や結末については人を選びそうだし、アニメならではの面白さは弱いかもしれないが、
ドラマアニメとしての完成度は非常に高い。
点数はひいき目に付けた。

物語:
全体のストーリーは絶賛するほどではないけど
脚本と演出が特に良かったのでは。

作画:
人物が安定しない回がちらほら見られるけど、
背景はとてもいい。
キャラ原案が良かったからなのか、女性がとても好み。

音楽:
前述のとおり、劇伴もOP・ED曲も良い。(Best10・歌手編にランクイン)

声優:
前述のとおり、久保田民絵さんの演技がすごく好き。
伊藤かな恵さんも小っちゃくて元気な女の子の役が上手いね。『大正野球』の小梅とか。

キャラ:
脇役まで含めて存在感がとても強い。




≪各話コメント≫

視聴時のメモ。第9話まではメモるの忘れたので第10話から。

{netabare}
▼第10話 微熱

大好きな回。
上手く説明できないけど、「間」を使った話というのかな。

緒花は喜翠荘で居場所を見つけたことで、却って自分が喜翠荘で必要とされているのかどうかを気にするようになった。

テレビを点けたり消したり。意味があったんだ。

みんちが少し優しくなってきた。


▼第11話 夜に吼える

3話連続の話。
前編
「ぼんぼる」はこの話が初出?
緒花の「ババァ」ってセリフ、なんかイイ。


▼第12話

中編

作画が良かった。


▼第13話 四十万の女

後編

みんな美人。


▼第14話 これが私の生きる道

OP,EDが変わる。
絵・曲ともにこっちの方が好み。

折り返し地点につき、サービス回?

修学旅行、前編。

みんちの効果線付きホビロン笑える。


現実の嫌なところを突きつけられるので、あまり楽しくない。


▼第15話 マメ、のち、晴れ

修学旅行、後編。

ちょっと作画の粗が気になる。

ありえない展開だと思うけど、緒花の心意気が伝わって良かった。

個人で旅行に行くと、先に風呂に入るのって割と普通だけどな。
修学旅行の時ってどうだったっけ。昔過ぎて覚えてない・・・。

結菜が少しペース崩されて溜飲が下がる。いや、別に結菜が嫌いなわけじゃない。
普通の女子高生ってきっとこっちが普通だろう。

最後にさらなるサービスが。


▼第16話 あの空、この空

映画回前後編の前編。また現実的で嫌な話なんだよな。

作画はとても良い。


▼第17話 プール・オン・ザ・ヒル

映画回後編。

緒花が撃たれたときの伊藤さんの声、いいな。

プールサイドの無理な体勢。宮崎アニメかよ。


▼第18話 人魚姫と貝殻ブラ

菜子回。

菜子、所帯染み過ぎだろ。
両親、教育オタクかよ。めんどくせー。

おしゃれ菜子、可愛い。

「この広い野原いっぱい」いいなー。

シャレオツw


▼第19話 どろどろオムライス

文化祭前後編の前編。
これまた面倒くさい。

結菜「キャハッ」ウゼェーw
メイド服は可愛いけど。

緒花、なんだその気持ち悪い夢は。


▼第20話 愛・香林祭

文化祭、後編。

みんこを責める気はないけど、料理人なら、ある設備と材料でなんとかする方法も考えられないといけないよね。(味沢匠を思い起こした。)まあ、彼女もまだ未熟だから仕方ない。

やりたいことを見つけられても、大成するとは限らないんだから、モラトリアムも悪いことじゃないと思うんだ。

オムライス告白とか。

みんこ可愛過ぎだろ。


▼第21話 蘇る、死ね

若旦那の結婚話。

徹の残酷な言葉。
そういえば、蓮は気づいてるっぽい?

赤い教室って、心理学的に間違ってないか?

カーテンか。ドレスはレンタルの方が良かったんじゃないか?

最後、グッとくるシーンなんだけど、同時に???になる。
どういうことなんだ?


▼第22話 決意の片思い

そういえば、今時、オフィスでタバコ吸えるところなんてあるのか?
マスコミ系は普通なのかな。
昭和かよ、と思ってしまった。>さつきのオフィス

ここの緒花はなんか可愛いな。

試着、やばいな。

本人に聞かれるパターン、これは嫌いだな。
『凪あす』はこれのもっとひどいやつをやってたけど。
でも、こっちはこの後の展開が素晴らしい。ゾクゾクした。

みんこ可愛い。

なこ、凛々しい。

ドレスの元が何なのかってのは

単に挿入歌でなく、
主題歌歌ってる人がそのまま出席しているみたいな演出、いいね。
声も。
出席者の余興として。

女将がなんか思わせぶりなことを言った。


▼第23話 夢のおとしまえ

やっぱ美人だな。さつきさんは。
全然関係ないけど、『げんしけん』の咲ちゃんを思い出す。
ビッチなところも似てるし。
高嶺の花だけど、好きだわ。


駅弁は楽しいよね。
私はタイミング的に新幹線で食べてしまうことが多い。
でも本当はローカル特急で食べたい。


貴子さんもいい女だと思う。


ED前の音の演出、すげー。



▼第24話 ラスボスは四万十スイ

口抑えているポーズおかしいw

いやー、東京の景色も綺麗だよ。このアニメのは綺麗に描けてるよ。

OPにも出て来るけど、きっすいそうの遠景もいいよねえ。

『流れ包丁?』の元ネタは、『包丁人味平』か。
まあ絵がそのまんまだから分かるよね。

女将の入浴シーン、
何じゃそれー、って思うけど印象的なシーン。

御墓参りのシーンもいいなあ。



▼第25話 私の好きな喜翠荘

みんちは確かに厳しいよな。
ここにいるのだってお情けがあってのことだし。

なこ、いいこと言ってる。
「自分が走れる人だから、走れない人の気持ちがわからない。夢を持っている人に一生懸命ついていくことが夢になることだってある」
こういうのってあるよね。私も身内で似たようなことがあったからなんか分かる。

そういえば、蓮さんと巴さんって進展しなかったな。

旅館には賑わって欲しいけど、私が自分で行くときにはもっと空いている時がいいな。

三世代の揃い踏みカット。

ED曲は、もっと和風な方がよくないか?


▼第26話 花咲くいつか

最終回。

無粋なことを言うようだが、みんなで出かけてしまっていいのだろうか。

三角関係でも、こう言うサバサバしたのなら大丈夫。

> そういえば、蓮さんと巴さんって進展しなかったな。
いや、最後の最後で今後何かありそうな感じ。


バカな子ほど可愛い。


しばし感傷に浸る女将さん。
これ以上ない終わり方だ。

さすがの女将さんも溢れる気持ちを隠しきれず。

蓮さんは繊細だなあ。
{/netabare}

投稿 : 2024/11/02
♥ : 17

83.4 2 旅館でオリジナルアニメーションなアニメランキング2位
輪るピングドラム(TVアニメ動画)

2011年夏アニメ
★★★★☆ 3.8 (2097)
10582人が棚に入れました
双子の高校生・冠葉と晶馬、そして妹・陽鞠は三人で暮らしている。余命いくばくもない陽鞠を連れて、ある日水族館を訪れた兄弟たち。楽しく過ごす中、倒れた陽鞠はそのまま息絶えてしまう。霊安室で絶望する冠葉と晶馬だったが、死んだはずの陽鞠が、突如ペンギンの帽子を被り起き上がり叫んだ! 「生存戦略!」「妾はこの娘の余命を伸ばすことにした」。だが、被っていた帽子が落ちると、いつもの陽鞠に戻っているのだった――。不思議なペンギン帽子のおかげで、
陽鞠の余命は少し伸びたのだ。ペンギン帽子を被った陽鞠が再び、冠葉と晶馬に命ずる。「ピングドラムを手に入れろ!」ピングドラムとは何か。そのカギを握るのが、女子高生・苹果という人物と解り、探り始める冠葉と晶馬。ある偶然から陽鞠と苹果が仲良くなったことから、苹果が高倉家に出入りするようになり……!?

声優・キャラクター
木村昴、木村良平、荒川美穂、三宅麻理恵、石田彰、能登麻美子、堀江由衣
ネタバレ

TAKARU1996 さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

同世代透明存在の独白

2019年3月30日 初稿
2019年(令和元年)5月1日 追記
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リサ「うーん、幸福ってなに?」
マナブ「またすごい質問だなあ」
リサ「なんだと思うの?」
マナブ「そうだなあ、わからないけど、なんとなく、今思ってるものだけどいい?」
リサ「うん、なに?」
マナブ「ガラクタ」
リサ「えー、幸福はガラクタなの?」
マナブ「気に入らなかったら、違うのもある」
リサ「なに」
マナブ「ほら、マンガとかでさあ、馬の頭に釣竿つけて、先っぽにニンジンつるすでしょ。馬はそれを追いかけてずっと走るって」
リサ「うん」
マナブ「あのニンジン」

『CARNIVAL』SINARIO3「TRAUMEREI」より抜粋
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1.同世代透明存在の独白
平成が、終わった。
振り返ってみると、どんな時代だったか……?
そう考えてしまう日も、近頃多かったな。
悪い事ばっかだったと思うけど、良かった事もあった気がする。
現在を生きているから、現在を客観視出来ない。
悲しき現状、生者全てが辿り着く真理

そんなどうにもならない上記踏まえて個人的見解、嫌な事ばかりだった。
辛く苦しい悲しみの時代
アイ(愛、I)を喪失した時代
平成不況、失われた10年、大災害勃発、猟奇事件頻発
そんな中で生を受け成長した俺達は、多くが「きっと何者にもなれない」と言う漠然とした確信を抱えていたと思う。
断定出来ない、自分だけかもしれない、でも俺はそう感じてた。
「頑張れば『生きる意味』が見出せる」社会はもう無くて。
「頑張ったって『生きるだけの意味』は見つからない」のが俺の社会になった。

この『輪るピングドラム』と言うアニメは、そんな呪縛が「自分だけのモノじゃなかった」と実感した作品だ。
無宗教無信仰な人間に齎された「赦しの寓話」
自らの価値観に強く根付かれた「人生の物語」
そんな個人的解釈が、今日になっても生き続けている。

別の言葉で語るなら、本作は俺に「生きるだけの意味」を与えてくれたんだ。
上手く生きられない俺の欲しかったメッセージ
口下手な俺が心中にて思い描いていた理想世界
俺の代わりに伝えてくれた叫び、信念の媒体物
「『輪るピングドラム』は『俺』の想いの『代替物』だ」
視聴時に思ってしまった事は、今でも記憶に新しい。

宗教は自分の人生に「意味」を植え付けるモノだと、何かで読んだ記憶がある。
神様の存在は、自らの実存を肯定してくれる。
神様の存在は、自身の死をも肯定してくれる。
宗教とは、人生を全肯定してくれる概念、人民にとっての「縋り」
でも、神はもういない。
一部の層には未だにいるが、普通の人にはもういない。
それは、人間が考える頭を持ってしまった故の結果
宗教学より哲学こそ隆盛を誇ってしまった故の結末
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冠葉「神様なんて、いないんだろ?」

『輪るピングドラム』第1話
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それはつまり、人生の意味を与えてくれる存在が消失したと言う事
勿論、宗教に依存せず、新たな意味も見つけられるだろう、人間そんなに弱くない。
でも、だったら次はどこに頼ればいい?
社会、仕事、恋愛、趣味、家族、友人、多くある。
でも、俺の生まれた時代から頼りになる概念はどんどん少なくなっていく。
消失の一途、次第に減少していく「意味」
世間的に「まだまだ」の若輩者でさえ、既に多くを失くしている。
これら全てを失くしたら、いよいよどうやって生きていけば良いんだろう。


生きていく「意味」が、分からない。


『輪るピングドラム』はそんな奴等に向けられた物語だ。
「物語」を無くした人に向けられた、新たなる『物語』
宗教、社会、仕事、恋愛、趣味、家族、友人
これらに続く新たなる依存先『輪るピングドラム』
永遠にして不変なる依存対象『輪るピングドラム』
本作は「人生」を無くした人に「意味」を与える『物語』
観終わった今、以上の様に思う。



視聴前、難解だ難解だ難解に次ぐ難解だと、耳にたこが出来る程言われた。
相手の口に酸味成分100%で告げられた故「どんだけこの作品難しいんだよ」
少しばかり身構えて観た事を憶えている。
しかし、個人的見解から語るに、本作はそんな難しい話じゃない。
「ピングドラム 考察」で検索すると、出るわ出るわ数多の解釈
物事を深く考え過ぎているんだろう、THE 日本人
演出それぞれに明確な意図があると思い込む、言わば考察の蟻地獄だ。

この暗喩が○○の事件に関係している。
ここの演出は○○を意図した描写だよ。
ああ、そういう考察も間違いじゃないと思う。
色々解釈を与える為、敢えて本作の如き作風にしているのは、全話観たなら火を見るより明らか
ただ、それはこの作品の理解に必ずしも必要って訳じゃない。
そこはあくまで、メッセージを伝える為の一土台に過ぎない。
大事なのは、この作品が伝えたかった事を「感じられる」かどうかだ。
沢山考えて良い、色々思い浮かべて構わない。
でも、最後のメッセージはどうか「感じて」観て欲しい。
その時こそ「観て良かった」と、明確に思える作品になる筈だ。

「『輪るピングドラム』は賛否両論の評価を生み出した難解作品」
そう捉えられた事に、安堵と恐怖を同時に感じた。
安堵したのは何故か?
この内容を1回観ただけで分かってしまう世界は、悲しすぎるから。
恐怖したのは何故か?
この内容を1回観ただけで理解してしまう人が、一定数いる証明だから。
分からなかった「お前達」が、がっかりする事は無い。
本作が分からないのは、今が幸せな証明だ。

俺は思う。
本作をはっきり「つまらない」と断罪する人
本作を単純に「おもしろい」と断言出来る人
それはなんて幸せな事なんだろうなって。
幸せに生きている事を、自覚していない幸福者
そして、それはとても素晴らしい事だ。
知らない方が良い、分からなくても良い事というのは世の中、確かにある、あってしまう。
出来るのであれば、そういった概念こそ無くなって欲しい。
けど無くならない、それが現実
だからこそ上記のような方には、知らない分からない状態がこれから末永く続く事を祈るんだ。
出来るだけ永く「幸福」であり続ける為に……

その理論で言えば、俺は絶対「幸福」になれないだろう。
俺は2度と本作を忘れる事は無い。
俺は2度と本作から逃れられない。
だから、せめていつか、この作品を真の意味で肯定出来れば良い。
俺はまだ「ピングドラム」を手に入れていないから。
俺はまだ「輪るピングドラム」に辿り着いていないから。
本作を観て、止まらない涙を得ながら強く思えた、それが今現在俺の近況です。
-----------------------------------------
リサ「ねえ、ニンジンを追いかけちゃだめかな?」
マナブ「あれは、どうやっても届かない仕組みになってるんだよ」
リサ「うん、わかってる。いいんだ、なんか、一生懸命走りたいの。後悔したくない」
マナブ「それなら、しかたないね」
リサ「しかたないなあ」

『CARNIVAL』SINARIO3「TRAUMEREI」より抜粋
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2.『輪るピングドラム』完全理解へと至る個人的解釈
正直、書かなくて良いと思った。
なぜなら『輪るピングドラム』は、自分自身で観て「感じる」作品だから。
本作を1番理解したのは「意味不明だけど涙が出てきた人」
暗喩表現で支配された作品には、視聴者の数だけ答えがある。
そんな概念に確定的解答を植えつける事こそ、正しく傲慢の表れだろう。

初見なら考察サイトは観ない方が良い。
自らの想いのまま、心に響いて、胸が痛くなった箇所だけを大切にすべきだから。
色々な言葉があって、表現があって、どれが耳に残って離れないかは人それぞれだから。
出来るのであれば、それをずっと憶えていて欲しい。
そして、余裕があったのなら、手前の頭で考えるんだ。
それが、本作を観た人間にとって「大切な一部」となる。
観終わった時、貴方が感じていた事、考えていた事
それが、貴方にとっての正解だ。

だから、以降の内容はこの批評を読んでいる読者様の自己判断に任せようと思う。
自分が辿り着いた「感覚」を、喪失させたくないなら絶対に見るな。
どうしても分からない、でも拠所となる何かしらの答えを知りたい。
そんな「生きる」覚悟をどうしても忘れられないなら、持っているなら……
確定事項でない事のみ念頭において、どうか読んで欲しく思う。




①『銀河鉄道の夜』と『輪るピングドラム』
{netabare}
第1話で小学生男子2人が語っていたのは『銀河鉄道の夜』
本作は、著者の宮沢賢治が亡き妹トシの想いを胸に、幾度も推敲を重ねて作った作品
その為、途中のストーリーに形態毎、大幅な加筆・変更が多く発生している。

「『輪るピングドラム』は『銀河鉄道の夜』に関係している!」

これは正しいんだけれど、正しくない。
どのヴァージョンに準えて『輪るピングドラム』は作られたのか。
考察するとしたら、そこまで言及しないと不完全と言えるだろう。
-----------------------------------------
[『銀河鉄道の夜』の違い]
【第1次稿】(「九、ジョバンニの切符」孔雀のシーン「そしてあの青い橄欖の森が~」から現存)
・「青年」と共に登場している人物は「三人姉妹」と「男の子」(【第2次稿】も同様)
・「琴の宿のお姫様」←カムパネルラがうっとり見ていた(恋慕)
・ブルカニロ博士登場(【第3次稿】まで同様)


【第2次稿】(「九、ジョバンニの切符」冒頭から現存)
・苹果がジョバンニとカムパネルラに渡されない
(長姉が「苹果」を5個所持→2人の妹、男の子、青年に1個ずつ渡す)


【第3次稿】(「四、ケンタウル祭の夜」から始まる)
・父親がラッコ密漁に伴う他人への殺傷→監獄へ収監
・「青年」と共に登場する人物が「女の子」と「男の子」(姉弟)へ変更(【第4次稿】も同様)
・燈台守が初登場
・苹果がジョバンニとカムパネルラに渡される(【第4次稿】も同様)
(燈台守が「苹果」を所持(個数不明)→姉弟、青年、ジョバンニとカムパネルラに渡される)


【第4次稿】(後期形。現在一般的に流布されている『銀河鉄道の夜』)
・午后の授業より始まる
・父親が監獄へ収監されていない
・ブルカニロ博士消失
-----------------------------------------

と、一部を一覧にしただけでここまで分かれる。
そして『輪るピングドラム』とこれら4つのヴァージョンの適合性を検証してみると、実に面白い事が分かった次第
『輪るピングドラム』は『銀河鉄道の夜』全Verを参考にして作られた作品だった。
しかし、余りにも膨大な情報量故、全て書き上げるのは不可能と判断
参考にしたサイトのURLを貼った上で、纏める形と相成った事、ご了承願いたい。

-----------------------------------------
[『銀河鉄道の夜』と『輪るピングドラム』]
◎『銀河鉄道の夜』におけるトシのイメージ的存在
○2人の場合(【第1次稿】【第2次稿】)
・「琴の宿のお姫様」……宮沢賢治の妹に対する恋慕表現(カムパネルラがうっとり見ていた)
・「青年」と共に登場する「三人姉妹」の長女
               ↓
冠葉によるお姫様「陽毬」と「プリンセス・オブ・ザ・クリスタル」への愛情描写


○1人の場合(【第3次稿】【第4次稿】)
・「女の子」(「姉」)

《参照URL》
http://oryzajpn.com/archives/7077627.html
http://oryzajpn.com/archives/7273171.html
http://oryzajpn.com/archives/7643255.html
http://oryzajpn.com/archives/8224312.html



◎「三人姉妹」【第3次稿】にて統合・分離→トリプルHの原型?



◎ひかり=エネルギー=生命(【第3次稿】)
         ↓
冠葉「晶馬、俺は手に入れたよ、本当の光を」
by 『輪るピングドラム』第24話より

《参照URL》
http://oryzajpn.com/archives/3257542.html
http://oryzajpn.com/archives/3430391.html



◎宮沢賢治の父政次郎の二面性(【第3次稿】【第4次稿】)
・家業が質屋→宮沢賢治に「社会的被告」としての側面在り(犠牲を糧に生きる罪人)
・ジョバンニ父とカムパネルラ父が融合した存在=政次郎
・ジョバンニ父=「犯罪者」として収監(【第3次稿】のみ)
 カムパネルラ父=倫理的な威厳のある父
            ↓
高倉剣山の二面性……事件を引き起こした「犯罪者」←世間から見た評価
          威厳のある理想的な父親←家族から見た視点
          冠葉から見た父、晶馬から見た父の違いも示唆?

《参照URL》
http://oryzajpn.com/archives/8490780.html


◎プレシオスの鎖を解く=家族間の絆を解く(【第1次稿】~【第3次稿】)
               ↓
『輪るピングドラム』第24話 家族決別=「みんなの幸」へ至る

《参照URL》
http://oryzajpn.com/archives/11518358.html

◎ブルカニロ博士の言葉→『輪るピングドラム』第24話へ至る
どんな正しさを選んだとしても、それが自分で選んだモノなら。
どれもが皆「ほんたうのさいはひ」になる。

相手との違い(精神的決別)を実感しても、人間は受け入れる。
受け入れた上で、前に進む事が出来る。
それぞれ進む道は違っても、互いに進む姿は同じだ。

寂しかったり、悲しかったり、辛かったりするだろう。
けれど、自分で選んだ道なら、全部含めて前へ進むんだ。
その姿がいずれ「ほんたうのさいはひ」になる。
世界は繋がり、またいつか、きっと会える日が来るだろう。
-----------------------------------------
{/netabare}




②「ピングドラム」の意味、「輪るピングドラム」の意味
{netabare}
「ピングドラム」
(1)「愛」って意味だよ。
A.
「ピングドラム」を輪すと言う行為に、付加価値的な「愛」が発生する。
「苹果」を渡すという行為に、付加価値的な「愛」が発生する。
したがって「ピングドラム」(ついでに「苹果」)自体は愛ではない。


(2)「永遠なる生命」って意味だよ。
A.
『銀河鉄道の夜』において「苹果」(ピングォ」は多くを暗喩している。
その中の1つが「永遠なる生命」
「こっちの世界」(現世)と「あっちの世界」(来世)を繋ぐ存在
要するに、1つの世界に捉われず生き続ける「生命」の事
「苹果」=「ピングォ」=「永遠なる生命」
しかし、これだと「ドラム」の意味が入っていない、惜しいけど却下


(3)「永遠なる生命の躍動」って意味だよ。
A.
(2)に「ドラム」の意味を追加した。
「ドラム」とは楽器のドラムが示す如く、動物が鳴き声以外の方法で音を立てる動作を指す。
ゴリラが両腕で胸を叩いたり、キツツキが木の幹を突いたり、他の鳥が翼や尾羽で音を奏でたりもする。
「ドラミング」って聞いた事あるだろう。

ビートを奏でる、それはつまり、自らの存在を証明する行為に他ならない。
自己を主張する鼓動及び躍動の言語化


プリンセス・オブ・クリスタル「荻野目苹果がピングドラムを持っている……多分な」
苹果は多蕗に、自らを覚えてくれるよう行動していた。
苹果は愛に従って生きる、事件と関わりのある人間
以上の点から、プリンセス・オブ・クリスタルが推察

しかし、彼女は多蕗への「ピングドラム」を持っていない。
異常でも妄執でも執念でも、彼女自身の生命の躍動が齎す「愛」なら良かった。
けれど、苹果が多蕗に抱いていた愛?は、桃果が「運命日記」に記載していた内容から解釈して作り上げたもの
桃果と一つになって、家族を元へ戻す為の偽愛
もしこれを「愛」と称するなら、桃果が多蕗に抱いていたものであって、苹果が多蕗に抱いていたものじゃない。

したがって、苹果は多蕗を愛していない。
だから「ピングドラム」も持っていない。
彼女自身の想いが紡いだ「生命の躍動」じゃないから。


要するに。
『ピングドラムを手に入れるのだ!」の意味は。

「永遠なる生命の躍動を手に入れるのだ!」
         ↓
「自分が死んでも生き続ける、命の鼓動を植えつけろ!」
         ↓
  「大スキだよ!! お兄ちゃんより」
改変世界にて、いなくなった自らを「愛」と言う形で主張したメッセージ


第17話某シーンの意味は。
冠葉
「俺じゃ、ダメなんだろ。もう……俺には陽毬を救う事は出来ないんだろ?」

プリンセス・オブ・クリスタル
「お前には出来る」
「わらわには、それがわかる」
「なぜならピングドラムとは、それはお前の……」以下想像文
(陽毬を想って行動する結果だ)

冠葉
「俺には……無理だ」(陽毬を大切に想う「生命の躍動」に、彼女自身が気付かないから)
←前話にて冠葉と陽毬は口論&陽毬は眞悧を好き?と冠葉が勘違い
                 ↓
陽毬が冠葉の「生命の躍動」を真に実感した時、冠葉はピングドラムを手に入れ、輪る。


上記が分かれば「輪るピングドラム」の意味は簡単だろう。
「永遠なる生命」を、植えつける行為が輪っていく。
誰かの存在は他者へと宿り、それが「愛」となって昇華する。
植え付けられた相手もまた誰かに、自身の存在与えて「愛」となる。
世界は、そうして輪っていく。
だからこそ、人は「運命の果実を一緒に食べ合う」
「苹果譲渡」(ピンガァドゥラム)が輪る。
それは、繋がりを保った永遠なる世界
相手が死んでも己の中で生きる、終わる事なき永遠なる世界だ。

「運命の果実を一緒に食べ合う」
連続していけば、彼等にまたいつかきっと会える。
そこに「愛」があるなら……
「愛している」という言葉があるなら……
世界は、永遠に繋がり続ける。
いつか出会える「運命」なんだ。
{/netabare}




③最終話を理解する
本作をきちんと観る上で、唯一躓きそうなのが第24話だと思うので、いくつかの解釈だけ載せておこうと思う。
{netabare}
(1)ペンギンマークの檻に入っていた冠葉・晶馬の意味
千江美「晶馬と冠葉君は、私達が知らない間に仲良しになっていたんだもの」→仲良しになった顛末の暗喩=檻での会話
・企鵝の会(KIGA)の印=両親が幹部=世界の全て(冠葉・晶馬にとって)
 晶馬……父親の演説を余り聞かずに逃避
 冠葉……父親の演説を素直に聞いて順応
               ↓
KIGA(企鵝)の組織(大人の世界)から逃れられない子供の世界=檻(≒卵 by『デミアン』)


・企鵝→飢餓=愛情に飢えている暗喩
 冠葉父→冠葉「お前を選ぶんじゃなかった。私は家族に失敗したよ」
 Q.何故、冠葉に苹果は渡っていたか?
 A.両親に愛されなくとも、真砂子には愛されていたから。
 
 晶馬には両親がいる→KIGA(企鵝)の活動に没頭→愛されている感覚が当時は不足していた……?


そして、飢餓状態から脱する為、冠葉は晶馬に苹果を分け与える→「愛」となる



(2)兄2人消失の解釈
「プレシオスの鎖を解く」「ブルカニロ博士の言葉」参照



(3)冠葉のペンギン型「赤い何か」が出て行く描写
・企鵝(飢餓)が失われていく→愛されていると実感していく冠葉の描写
 冠葉の慟哭は、自らが愛されていなかった事を再度実感した故の叫び
                ↓
だから、ペンギン型の「赤い何か」は「苹果」に変わる=「永遠なる生命」に溢れている=自分を憶えていてくれる→「愛」の充満



(4)「生存戦略」とは……?
生きる為の戦略→「何か」を獲得する為の行為全般を指す
「生存戦略しましょうか!」
第1話
冠葉の「苹果」を「プリンセス・オブ・ザ・クリスタル」が頂く行為

第2話以降
「苹果」→「ピングドラム」を手に入れろと言う言葉にシフト
両者の意味・違いは②にて解説

第24話
冠葉へ苹果(「永遠なる生命」)を分け与える陽毬(「愛」)→「運命の果実(苹果)を一緒に食べる」→運命は乗り換わり、自身も「生きる」を獲得=「生存戦略」達成!



(5)「花婿は誰か?」
第9話
ペンギン帽子=運命の花嫁に捧げる花冠
陽毬「誰の花嫁になるの?」
眞悧「多分、その答えは運命の至る場所にある」


では「花婿」は誰か?
それは、以下に注目すればわかる。
・変身バンクシーンにおける兄弟の違い
・第12話における冠葉の病院道中、病院内での回想
・第17話、多蕗は陽毬を離さない冠葉に何を見たか?
・第20話における陽毬と眞悧の恋愛議論と最終話の対比
・第24話、最後の生存戦略


そもそも、最初の変身バンクから待遇は明らかだった。
晶馬はボッシュートで、冠葉はそのまま。
それは、冠葉の苹果(陽毬を想う「永遠なる生命」)が陽毬に渡った事で、彼の覚悟自体をプリンセス・オブ・クリスタルは理解していたから。


そして第12話以降、プリンセス・オブ・クリスタルの真似をする陽毬の姿が回想や描写でちょくちょく描かれる。
プリンセス・オブ・クリスタルの一面が芽生えていく証明?
また、命を明け渡そうとする冠葉の手を押し戻す所からも、プリンセス・オブ・クリスタルの冠葉に対する優しさ、愛が分かる。
プリンセス・オブ・クリスタル=陽毬の失くしてた意識の側面


第17話で多蕗は高倉家に復讐しようとしたが、冠葉の陽毬を離さない行動に桃果を見出して止める。
これは「今」陽毬を真の意味で救おうとしているのが「冠葉」だと気付いたから。
「昔」は晶馬だった、しかし「今」は冠葉である。
多蕗は、自らが桃果に救われた時と同じ行動を、加害者家族の冠葉から見たんだ。


第20話、陽毬は眞悧と恋愛議論を交わす。
-----------------------------------------
眞悧
「さて、今日はある恋のお話です」
「追えば逃げ、逃げると追われる」
「あれほどうまくいっていたのに、ある日突然そっけない」
「逃げられた!」
「さあ、キミならどうする?」

陽毬「私だったら追いかけない」

眞悧「なぜ?」

陽毬「疲れちゃうし」

眞悧
「う~ん……確かに」
「そういうタイプの人もいるね」
「つまりキミは“逃げる役目しかやらない”と宣言するわけだ」

陽毬「うん……どういう意味?」

眞悧
「両方が逃げるんだから、それはお互いが“私からは近づきませんよ”と相手に言うのと同じってことさ」

陽毬「つまり……?」

眞悧「その恋は実らない」

陽毬「それでいいよ。私恋なんかしないもん」

(中略)

陽毬「例えばだけど……」

眞悧「うん」

陽毬
「相手が逃げたら、私は追えばいいの?」
「それで恋は実るの?」

眞悧「実る場合もある」

陽毬
「そうかな?」
「そういう相手は逃げ続けて、絶対こっちには実りの果実を与えないんじゃないかな?」

眞悧
「鋭いね。そう、逃げる者は追う者に決して果実を与えない」
「それをすると、楽ちんなゲームが終わるからね」

陽毬「ひどい……」
-----------------------------------------
上記の会話を踏まえた上で、最終話を観て欲しい。
陽毬は「追いかける」「果実を与える」
「疲れた」って良かった。
そして何より、逃げる者(=冠葉)を「ひどい……」とは思わない。


第12話
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冠葉「帰るって、どこにだよ」

プリンセス・オブ・クリスタル「それは、運命の至る場所」
-----------------------------------------
「運命の至る場所」……第23話、第24話の電車内
              ↓
第24話の生存戦略=プリンセス・オブ・クリスタルと陽毬が真に合一
そして、冠葉を追いかける。
プリンセス・オブ・クリスタルが気にかけていた存在は誰か?
陽毬が最終話へ至るまでの間に、理解した想いは誰のものか?

それは冠葉、冠葉の陽毬を想う「生命の躍動」
自分の事だけを考えてくれていた「愛の証明」
それを、最後にして彼女は否定する事無く、受け入れる。
              ↓
陽毬が冠葉の「生命の躍動」を真に実感した時、冠葉はピングドラムを手に入れ、輪る。


結婚式ってあるだろ?
参加した事ある人は分かると思うけど、あれって新郎が新婦を待つ構成になってる。
新郎が先に辿り着き、新婦がヴァージンロードを渡って新婦へ追いつく。
そして、2人は愛を誓う。
これってまんま、最終話の冠葉と陽毬なんだ。

では、晶馬の立ち位置は何か。
晶馬は、花嫁と共に道を歩む「父」
選んだのは晶馬、見つけたのは晶馬
だから、晶馬が元々、父親として「家族」を維持するべきだった。
しかし、彼にそれは出来ず、晶馬から冠葉へ父親の役割は代わる。
そんな「父親代わり」は、最後にして晶馬へと戻り、彼は見届ける。
花嫁の進むヴァージンロードの行き先を、ピングドラムの結末を。

簡単に言うなら……
自分を選んでくれた「お父さんと結婚する!」と言っていた少女が、自分が選びたい人を見つけて「花嫁」になるのが「運命の至る場所」での顛末

大切な人=運命の人≠花婿
苹果を貰った事で、陽毬が思い出したのは「愛を貰った」事
晶馬に、愛された事を思い出す。
だから、晶馬=大切な人=運命の人
そして、その「愛」(=「苹果」)を誰かに与えたいと思う=花嫁となった証
それを踏まえて、愛そうと思ったのは冠葉

愛を貰ってばかりだった女の子が、初めて愛を与えた相手
愛を頂いてばかりだった少女が、花嫁として愛を与える。
その相手は、最初に晶馬へ「愛」を分け与えた冠葉
「愛」は、絶対に戻ってくる。
大切な人に与えた分だけ、他の大切な人から戻ってくる。

「愛」の永劫流転

冠葉が最初に愛を与えたのは、晶馬
晶馬が、冠葉との約束を叶える為に愛を与えたのは、陽毬
彼女が最後に愛を与えたのは、冠葉

つまり、花婿=冠葉
{/netabare}










3.同世代透明存在の独白・後記
冠葉に感情移入し過ぎてしょうがなかった。
男だったら、こいつの気持ちにかなり共感するんじゃねえかと思う。
何しているか分からない兄貴の事を、分からないまま馬鹿にしたり、批判したりの弟妹
でも、彼が1番、この「家」を「家族」を、支えていた。
勿論、守ってやってる見返りなんて求めていない。
冠葉は、誰かに褒めてもらいたいから、関係を維持させていたんじゃない。
「俺」が支えたいから、自分の意志で「家族」を守ってる。
それは、父親との約束により生まれた思想

通り過ぎない嵐なんかどこにもない。
でも通り過ぎるのを待っていたら、大切な人は守れない。

そして彼は、父になった。
どのように金を稼いでいるか、生活を維持させているか、決して話さずに、耐え抜いていく。
そういうのって男なら日常茶飯事、俺も耐え忍んで生きている。
心を固く冷たく強くして、少しでも早く大人にならなきゃいけないから。
全てを犠牲にしても、守りたいモノって確かにあるし。
だから、俺の事なんてどうでも良い、二の次だ。

しょうがない。
しょうがない。
しょうがない。

でもさ、やっぱり、辛いんだよ。
しょうがないって思っていても、辛いものは辛いんだよ。
1人だけ蚊帳の外で、矢印の方向が違うから、理解されない。
大っぴらに語れない事ばかりなんだから、愛される訳もない。

途中の展開が、悔しくてしょうがなかった。
なぜなら、冠葉の状態が続くと苹果は獲得出来ないから。
自分の存在を、他者へと委ねられないから。
誰かに植え付ける行為を、行う事すら出来ないから。
死んだらそれっきり、眞悧のように呪って終わり。

だから、普通は変わらないといけないんだと思う。
平成が終わった今、変わらないといけないんだと思う。
多くの事件に事故、事象や事案の余波は未だ健在
正直今も、生きる事すら、ままならない。
でも、だからこそ、変わらないといけないんだと思う。
俺は今、間違いなく眞悧であり、冠葉だから。

まだ、俺は何も手に入れていない。
夢に生きてた頃、想い出せない。
輝いていた頃、記憶にない。
恋に落ちてた頃、そもそもない。
愛し合ってた頃、ある訳ない。

だけど、最期に、ある言葉は伝えたいと思えた。
「運命」って言葉は大嫌いだけど。
本作と巡り会えた『運命』には感謝したい。
最期に言いたい言葉を『輪るピングドラム』は教えてくれたから。

いつか、最後の日に、その言葉を言えたら良い。
それはきっと、俺が人生を「幸福」に終えられた証だから。
本当の光を手に入れたら、絶対笑顔で言ってやるんだ。

「ありがとう、愛してる」って。
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小さな頃に見ていたものは、まだ何も知らなかった時代のまぼろしなんかではなくて、いまでも見ることが出来るずっとそこにある変わらないものだった。
辛くなるからって無理に忘れてしまわなくても良かったんだ。
僕は気がつくのが遅すぎた。
必要なものを、自分で隠していたんだ。
でも、こんな僕でもまだ全てを失ったわけではなかった。

世界は残酷で恐ろしいものかもしれないけれど、とても美しい。
思えば、そんなこと、僕らは最初から知っていた筈なんだ。

時間が過ぎて、僕のことは忘れてしまっても構わないけれど、僕が今ここに書いている言葉のいくつかをときどき思い出してくれるなら、それより嬉しいことはない。

追伸。
今までありがとう。
出来ることならば、誰も憎まないで生きてください。

『CARNIVAL』小説版 PROLOGUEより抜粋
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{netabare}
☆『輪るピングドラム』を紡いだ物語・出来事
【銀河鉄道の夜】
上記で紹介した通り、宮沢賢治稀代の傑作
著者の妹トシに向けた鎮魂小説もとい、生者(自身)へ手向けた慰めの物語


【かえるくん、東京を救う】
村上春樹の小説『神の子どもたちはみな踊る』にある短編の1つ
第9話において、同作者の小説『スプートニクの恋人』が登場するのは、作中の「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」という言葉が、両方の物語に登場するから。
『神の子どもたちはみな踊る』は、1995年を軸に描かれた短編集
95年を境に、生きる意味を失う前の想い、失った後の不満、再生、失敗、絶望、希望を主人公達を通して描いている。
主人公は、大きな事を何も出来ない=きっと何者にもなれないお前達の1人
そんなささやかさの中で、かえるくんは東京を救う。
何者にもなれない人間が背中を押すことで、かえるくんは東京を救うのだ。
「かえるくん、東京を救う」は、掻い摘んで言うとそんな物語

また、同作者の『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』は地下鉄サリン事件を紐解いたノンフィクション
因みに私は、村上春樹なら『神の子どもたちはみな踊る』が1番スキ


【地下鉄サリン事件】
作中における「あの事件」
情報量が多い故、詳細はググって調べるべし。
陽毬が学校へ行けなくなったのも、父母が犯罪者であった為、学校にいられなくなった→辞めさせられたんだろう
これを見ると、地下鉄サリン事件の前に起きた「松本サリン事件」で、加害者と疑われていた河野さんの子供に向けた学校の対応は、間違ってなかったんだろうな(=冠葉・晶馬のいる高校がそれか)


【透明な存在】
「神戸連続児童殺傷事件」(酒鬼薔薇聖斗事件)において、犯人である酒鬼薔薇聖斗が残した言葉
事件の詳しい内容はhttps://www.nagaitoshiya.com/ja/1999/sakakibara/#comment-163を参照。

この事件を詳しく紐解くと、本作が「神戸連続児童殺傷事件」とも深い関わりを持っているとわかる。
・透明な存在→愛されなかった子供と、愛されず成長した大人、両方を指す

・「世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人」=バモイドオキ神=眞悧
「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすればうるものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界をつくっていけると思いますよ」
                ↓
             冠葉の行動へ至る

・酒鬼薔薇聖斗の描いた絵=光と影の世界
 バモイドオキ神=眞悧は2つの世界を超越
真砂子
「明るい場所と暗い場所は共存しなくてはならないの」
「すべてを明るい光で照らしてしまうと、必ずその反動で、暗い場所が明るい場所を攻撃するのよ」
                ↓
             冠葉の行動へ至る

・かえるくん、酒鬼薔薇を救えない
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初めて勃起したのは小学5年生で、カエルを解剖した時です。
中学一年では人間を解剖し、はらわたを貪り食う自分を想像して、オナニーしました。

一橋文哉:酒鬼薔薇は治っていない!
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酒鬼薔薇聖斗にとって、自分を救ってくれるかえるくんはいなかった(「かえるくん、東京を救う」参照)
かえるくんは死に、不安と不穏に包まれ、彼の世界は透明のまま終わる。


【余談】作品を示唆する予言
『輪るピングドラム』が世に登場する前、某サイトでこのようなコメントがあったので、ここに引用する。
彼か彼女か、いずれにせよこの人もまた、透明な存在だったんだと思う。

以下、引用
28 林檎 投稿:2008年3月31日 @11:19 AM
酒鬼薔薇聖斗様があの時に行った行動を、今現在の大人たちが忘れているとしたら、それは彼の悪行が無駄になったということになると思うんですね。
あんなに残酷なことが出来ますか。
出来ないでしょう。
大人でもためらうほどの残酷な行動を、当時の日本は彼にさせたのではないですか。
子供は誰しも、犯罪を犯すために生まれてきたわけじゃない。
子供の世界は小さい。
だからそれゆえに簡単に壊れる。
大人のように世間をよく知って、それなりに自分のその中での生き方を得ているわけではないから、子供は簡単に途方にくれる。
そのときに救いの手が一つだけでもあったなら、彼は変わっていたかもしれない。
周りの大人たちが、異常だ、理解できないなどと遠巻きにしなければ、彼は犯罪者としてのレッテルを張られなかったのかもしれない。
ま、想像ですけどね。
いつも彼は一人だったと思います。
だからこそ自分の中で想像上の友達を創り上げ、自分が生きる意味を示すバモイドオキ神様を遂行し、殺人を自分が生きる目的だと思った。
そうするしかなかったんじゃないですかね、やっぱり。
今の時代も、酒鬼薔薇聖斗様は子供の心の片隅に棲んでいますよ。
頭角を現さないだけで、ひっそりと息を潜めているんです。
今の世間はどうですか。
子供も簡単に犯罪を犯す。人を殺し、騙し、陥れる。
全ては大人がしていることです。ニュースを見て、報道されている内容をしってアホらしくなります。
今のご時世、大人も犯罪を犯しているのですから、子供が人を殺すのは当然ですね。
私は私で、彼を尊敬し、敬っています。
彼は当時の腐った日本に大きな打撃を与えてくれた方ですから。
でも、今はどうなんでしょう。世の中の人みんな、彼を覚えているでしょうか。
忘れているとしたら、なんと悲しいことでしょう。
彼の悲痛な悲鳴があの事件にはあったはずなのに、ニュースで多くの報道がされるように、事件は新たな事件に押しつぶされ、殺されて行く。
この世界が悲しくてなりません。
でも、私は彼を永遠に忘れないでしょう。私に、希望を与えてくれた人だから。墓場まで持っていくつもりです。
それだけを言いたかったんです。失礼します。

https://www.nagaitoshiya.com/ja/1999/sakakibara/#comment-163
{/netabare}

投稿 : 2024/11/02
♥ : 13
ネタバレ

さんの感想・評価

★★★★★ 4.1

考察

陽毬はリスカ少女に似ている
{netabare}
この物語は、ある家族(冠葉、晶馬、陽毬)の崩壊の話だと思う。

端からみれば、この家族はすでに崩壊していると言えるかもしれない。
この家族には大人がいない。両親は世間を敵にして消えた。
この3人の子供に血縁関係はない。
幼少期にそれぞれに傷を受けて、この世から消えそうになっていた。

それでも3人は、お互いに寄り添うことで何とか生きている。

しかし陽毬は難病を抱え、死の間際にいる。
冠葉と晶馬にとってこれは全く受け入れ難いことだろう。
この3人が寄り添うことで、何とか生きている存在なのだから。
陽毬の不在は、家族の崩壊であり、冠葉と晶馬にとって心の拠り所を失ってしまうことを意味する。
なので、冠葉と晶馬は純粋に陽毬への愛情から陽毬の命を救おうとしているのではなく、実は自分の存在を守るために、陽毬を救おうとしている、という側面がある。
しかし2人は、純粋に陽毬救いたいんだ、と思い込んでいるし、そうありたいと もがいている。
このような綻びが物語を通して大きなテーマになっているように思う。

そして、
この物語は、それらを1つずつ乗り越えていく話かと思いきや、
だんだん崩壊に向かっていく。

終盤で陽毬は、この家族に自分の居場所がないような感覚に囚われる。
物語を通してこの3人は本当に、ありえないくらい、お互いを想いやっている家族のように描かれている。
が、なぜか陽毬はそこで自分が透明になっていくかのような感覚を持ってしまう。
陽毬は、3人のお互いへの愛情が空回りしていて、実はお互いを無視してすれ違っている、という本質的な問題に感づいてしまう。
そこにこの家族を巡るもう一つの破綻の原因を、サネトシの促しによって陽毬は気づいてしまう。
陽毬は晶馬を恋しており、晶馬はそれには答えられない。
冠葉は陽毬を恋しており、陽毬はそれには答えられない。
という、三角関係。

ペンギン帽子をかぶった陽毬は、別の人格に乗っ取られた、というように描かれているが、
見方を変えると、陽毬の秘められたもう一つの人格、家族をつなぎとめるために演じているいい子ちゃんな自分の反動、という風にもみることができる。
ペンギン帽子の陽毬は、2人に無理難題を迫る。
晶馬は早々に不満を漏らし、理不尽を正そうとする。だけどそれでは陽毬は救えない。なので脱落する。
冠葉は陽毬のために何でもしてやろうとする、しかし冠葉は常に「してやろうと」するだけで、冠葉の愛は悪く言えば自分の都合のいい押し付けの愛になってしまう。

陽毬が冠葉に近づくとなぜか裸になる。たぶん冠葉にとっての陽毬は性愛の対象として見てしまう、ということを表していると思う。
このシーンは実に悲劇的である。
裸の陽毬を前にして冠葉はなす術なく膝をつく。
家族としての愛情を求められる陽毬に対してどうしても女として見てしまうこと、
自分の恋心は陽毬に受け入れられないこと。
そして自分の愛の示し方、「なんでも俺がやってやる」というような愛(サソリの炎とは、このような愛の形を言っているのではないかと思う)では、陽毬を救えないこと。
で、やはり俺ではダメなんだ、という絶望的な嘆きになる。
これに対する陽毬は冷たい視線のまま、だけれど抱擁している。
ここに陽毬の悲劇があるように思う。
陽毬の恋は晶馬には受け入れられない。なので冠葉の受け入れられない(自分に対する)恋の辛さが痛いほどわかる。

この三角関係が、
3人のお互いを非常に想いやっているはずの家族の崩壊の大きな要因になっているのだと思う。

そして、お互いの愛がなぜか、お互いを苦しめることになっている。
冠葉は陽毬のために何でする(ただし自分一人を犠牲にして)。
しかし他人を犠牲にするような方法で陽毬を救ったとして、陽毬は幸せにはなれない。陽毬はそういうことを望んでいるわけではなない。冠葉の愛は自分勝手な愛に向かっていく。
陽毬は冠葉を救うために、自分の命を投げ出すと決意する。
しかし陽毬が死ぬ、ということは冠葉にって自身の死より苦しい仕打ちになるだろう。陽毬の献身的な愛もまた、自分勝手な愛情に向かってしまう。
晶馬に関しては、ひたすら受動的である。そして自分によって誰かが傷つくことを非常に恐れている。苹果を避けようとしたり、陽毬をおじさんの家に行かせようとしたり。冠葉と同じように陽毬を想っている(家族愛として)が、人が傷を負うことを恐るために、何も救えない愛でしかない。

つまり、
この家族の崩壊の原因は、
呪いをかけられたから、親が犯罪者だから、冠葉が親と同じ犯罪を犯そうとしているから、サネトシの思惑の犠牲になって、ということは本質的な問題ではなく、
3人のそれぞれの愛が、3人を崩壊させていく、
という愛の残酷な皮肉、なのであり、これが物語の大きなテーマになっているんだと思う。

サネトシという存在は、そのような愛の側面に絶望した人間。
サネトシが3人を破滅させている、というよりは、
このような、愛が破滅に向かう摂理について、モモカに証明しようとし、
モモカは逆の形で、愛が破滅を救えるということを証明しようとして苹果に日記を託した
という風に見えます。

ピングドラムを見つけて運命を変える
というのはこのような愛のための崩壊を救う「何か」を見つけ出せ、ということだと思う。


最終話
晶馬はペンギン帽子に「冠葉と晶馬で運命を変えろ」と言われます。
冠葉を妄信から救え、とか、事件を防げ、ではなく、
これから対峙しないといけないはずの「冠葉と一緒に」です。
晶馬はこの時点でまだ何をすればいいのかわからなかったはずです。

冠葉と対峙して晶馬が言ったことは「陽毬を返せ」であり、
それに冠葉が答えた言葉は「お前には陽毬を救えない」です。
到底2人で何か救えそうにありません。
そして、陽毬は死んだまま(自分を消滅させることで冠葉を救おうとしている)、
これもまた2人を救えそうにありません。

この時点で3人の家族は完全に崩壊に向かっています。
サネトシはモモカに「破滅を見せてあげる」と言います。

そこに苹果が現れます。
苹果はその前に「陽毬の命を救う」というセリフのもと、この3人の元に駆けつけます。
でもたぶん、苹果が救おうとしたのは陽毬の命ではなく、想い合うことで破滅しようとしている3人の運命であり、晶馬の心を救おうとしたのだと思います。
なので、そのために自分が燃えても構わない、という愛を示せたのでしょう。

苹果の愛を示されたことで、晶馬は冠葉と対立ではなく向き合おうとすることができます。
晶馬が冠葉と向き合おうとしたことで、陽毬が単なる自己献身ではなく、冠葉に愛情を示そうと立ち上がることができます。

ここに1話でペンギン帽子が言った「ピングドラムは苹果が持っている」の伏線が回収された、と見ます。
ピングドラムは晶馬の心から出てきたように描かれていますが、それは苹果の愛をもって初めて見出せたもの、なのでしょう。

陽毬は傷だらけになりなが冠葉の元に進みます。
その際に自分が家族でいることで、実は苦しんでいたことを告白します。
してもらってばかりで「そんなことを言う資格はない」と、いい子ちゃんで通していた、自分の殻を破って、本音で向き合おうとして はじめて冠葉の心までたどり着くことができた、んだろうと思います。

ここでもやはり陽毬は裸になります。冠葉はまだ苦しんだままです。
そして晶馬も、やり方の違う冠葉への反発、自分の血縁によって冠葉や陽毬を苦しめたくない、という愛への消極的な姿勢を捨てて、冠葉に歩み寄ります。
そうしてやっとピングドラムが生まれる。

3人はお互いを「自分の都合」という色眼鏡でみることをやめ、本音で寄り添える本当の愛を持てた。
自分の苦しみを相手にも分け与える覚悟ができたため、本当の彼らを直視できるようになった。
というところに運命の乗り換えが起きた。救いが生まれた、ということだと思う。

晶馬がピングドラムを陽毬に渡す時、陽毬はやはり裸だけど、幼児の姿になっています。
これは晶馬にとっての陽毬があくまで「妹」である、
また陽毬は「妹」としての晶馬の愛情を、恋の苦しみを超えて心から受け取れた、ということを示していると思います。

その後晶馬は燃え尽きてしまおうとしていた、苹果に「愛してる」という言うことで苹果を救います。
苹果はまったく見返りを期待しない愛を自ら選びました。
しかし、どんなに純粋に愛を持っても、まったっく見返りがない、ということは自身が燃え尽きてしまう、ということを表していると思います。
これは、冠葉が見返りのない愛を陽毬に注ぎ消耗していくのに似ています。冠葉は見返りがない愛ために、燃え尽き、どんどん自分勝手な愛に変質していったのでしょう。
晶馬の「愛してる」には、もう一つ意味があるように思います。
それは、陽毬の前ではっきり口にすること、陽毬の恋心を傷つける恐れをちゃんと乗り越えた、ということが込められているように思います。

晶馬の愛の過ちというのが少しわかりにくいのですが、
冠葉が押し付けてでも「してあげる」愛が実は相手を傷つける、というところの対照的なものであり、自分の愛が人を傷つけることを恐るあまり、何物も救えない、というところにあるのかな、と思います。

えーっと、
次に、サネトシが冠葉に「お前たちは呪われている、いずれまた破滅するだろう」みたいな捨て台詞を吐きます。
この「呪い」は「愛」のことだと思います。「愛」というものは今は大丈夫でもいずれ破滅をもたらす「呪い」なのだ、とサネトシは言いたいのだろう。

遡りますが、苹果が運命を変えようと電車に乗り込む前に、苹果はいろんな人から想いを託されています(小さなピングドラムとでもいうべきか)
ひとつは、モモカからの日記
ひとつは、ユリから。ユリはタブキに救われました。タブキは陽毬と冠葉に(ゴンドラの出来事で)救われました。それが回り回って苹果に託されています。
またもう一つ、ダブルHから陽毬へのプレゼントという形で託されています。このダブルHにマフラーという形の陽毬の愛を届けたのがサネトシなんですよね。陽毬が想いを届けることを自分で断絶したマフラーをサネトシが拾ったことで、苹果の呪文となって回ってきています。
この辺りが面白いですね。

陽毬が何か見失ってしまいそうになって図書館でリンゴ(晶馬からもらった)を置いていきそうになるのを止めるのもサネトシですね。

最後の最後、

陽毬は命を救われます。これは冠葉と晶馬が共に運命を変えた、真実の愛を見つけたことの恩賞でしょうか。ピングドラムを見つけたら陽毬の命も救われる、のペンギン帽子の予言が果たされている。
しかし陽毬の家で冠葉と晶馬はいなかったことになっている。
冠葉と晶馬は陽毬の命を救った。だけどその代償として冠葉・晶馬から陽毬は失われてしまった、ということしょうかね。
ここが重要だと思います。冠葉と晶馬は、自分に都合の良い愛ではなく、自身から失われてもいいので相手を救いたい、という本当の意味での自己犠牲の愛を成就できた、ということなんだろうと思います。なのでラストシーンでこの3人が一緒にいちゃダメなんです。
そして冠葉晶馬は、子供になっています。なぜか?大人の姿のまま陽毬の家をすれ違うシーンであったら、どうしても冠葉・晶馬がいずれまた陽毬と出会うことを見ている側が想像してしまうから、それを避けたかったんじゃないかな、と、思います。

このラストで、登場人物は皆、一番大切な人を失っています。
晶馬は、陽毬・リンゴ
リンゴは、晶馬
冠葉は、陽毬
マサコは、冠葉
ユリとタブキは、モモカ。

これは、愛の喪失を乗り越える、ということの物語でもあるように思います。
ユリとタブキが象徴的ですが、愛するモモカを失って、
・他人を犠牲にしてもモモカを取り戻す
・モモカの復讐をする
いずれも愛がなせることでしょうが、この愛は破滅をもたらします。
そうではなく、愛する(愛される)ことができたから、喪失を破滅を乗り越えられる、というメッセージ(タブキが語っていますが)が、それぞれの試練として課せられた(乗り越えられた)、ということを意味していると思います。

また、冠葉・晶馬が兄弟のように並んで歩いている、という点について。
冠葉・晶馬が、本当の意味で兄弟(あるいはそのような愛情)になれたことを示していると思います。
物語を通して、冠葉・晶馬は、陽毬がいることで兄弟として成立しているようなところがあります。
2人の仲が悪いように見えませんが、性格が反対なので、別の方向を見ているようなところがあります。
冠葉は兄である俺がダーティなことは全部引き受けるので、お前は陽毬の前で笑っていろ(主に陽毬の気持ちを考えてことだと思う)、というようなスタンスです。
晶馬は終盤までその冠葉のスタンスにただぶら下がっているような状態です。
だけど真実の部分を話し合った結果二人は決別することになります。
つまりお互い真に語り合うことをしないために、家族としての体裁を保てていた、ということだと思います。
(また一人の妹想う2人の同じように強い想いが、意見のすれ違いによって争いになってしまう、という皮肉)
単に冠葉と陽毬、晶馬と陽毬が、寄り添うだけでなく、冠葉と晶馬が寄り添って分かち合うところにピングドラムがあった訳です。そこに内実は崩壊していた3人の家族が、本当に家族として暮らせる 何か を見つけられた、ということでしょう。
なので、陽毬を失ったあとに、この2人が一緒にいれるのだと思います。
だし、陽毬の想い。自分が失われるとした場合に、2人に本当に望むこと。私がいなくても家族でいて欲しい、という願いが叶った形なのかもしれません。

***
こどもブロイラーとキガの会を巡る愛の残酷な皮肉

晶馬は直接的に親に捨てられた、という描写はありませんが、晶馬としては幼少期に親の愛をえられなかった、という思いがあると思います。
キガの会というのは、愛の皮肉の例だと思います。
キガの会は子供ブロイラーがあるような社会を変革する、と、言います。
しかしキガの会が革命のために話をしている、そのすぐ側で一人の女の子が親に捨てられ子供ブロイラーに送られようとしています。キガの会には、このような小さな存在、実際の被害に対して目が向かないのです。
晶馬や冠葉も恐らく、親から目が向けられなかった子供だったのでしょう。
晶馬や冠葉は子供ブロイラーに送られることはなかったですが、それと同等の檻の中で飢えていました。
キガの会は愛のためにこの世を救おうとしているはずですが、目の下の自身の子供への愛も注げないでいるのです。
これも残酷な皮肉だと思います。

***
個人的に、

陽毬がリスカ少女のように見えます。
陽毬の呪いとは身体の病気ではなく精神的な病気だったんじゃないか。
幼少期に陽毬は心に大きな傷を負っています。
そのことが呪いとなって、自分を絶対的に愛してくれている2人の兄を前にしても、
自らを消し去ろうとしてしまう。
絶対的に愛している体(てい)の欺瞞に、あまりに敏感に気づいてしまう。なのでサネトシと近い。

あまりにも愛情に溢れた家族の「体(てい)」の中での自分を演じてしまう。
そのことに綻びがある。
あきらかに自分のために奔走している兄たちに、何をしているのか、問い正すこともできず傍観してしまう。
あきらかに自分のために傷ついている兄たちのために、自分を滅することでの救いをもたらそうとしてしまう。
実際、物語の中で陽毬は脇に置かれたまま。陽毬はただ天使のように置かれた人形のような存在であるようにも見える。
そのように演じてしまう。

そして、陽毬と同じように大きな傷を抱えたままの2人の兄(だけ)では妹を救えなかった。
この3人は、3人では破滅を逃れられなかった。

なぜ苹果が必要だったのか?
苹果は登場人物中、唯一と言っていいほど、親に愛された幼少期を過ごしたから、かな。
苹果も序盤では親の愛を疑い、独善的なやり方でそれを取り戻そうとしますが、
そもそも愛を失っていなかった、ということに気づくのだと思います。
どうしても人は100の愛を得ようとしてしまいますが、100も愛を施せることは通常ありえない。
普通、親から100の愛情を受けることはないと思います。
だけど、100無い、ということは、0ではない。
そこに気づけた。100ではない愛情でもちゃんと愛を感じられた、というところに苹果の成長があったように思う。

だから苹果は、陽毬を、3人の家族を救う鍵になれた。
最後に到るまでの陽毬・冠葉・晶馬3人の愛は、未熟な愛だった、あるいは消耗して磨り減った愛だった、と言えるかもしれません。
気持ちだけではどうにもならない、
本当の意味で成長し、別の誰かから小さくとも愛を受け取ることで、誰かを救えるようになったんじゃないかな、と思います。


{/netabare}

投稿 : 2024/11/02
♥ : 8
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.4

ウテナから来ました

 第一話視聴後のレビューです。全話完走予定。ウテナが面白かったので監督つながりで視聴を開始しました。このレビューは自分の考えを整理するためにメモ、みたいなものです。完走後に追記するかは未定です(多分しない)。第一話のネタバレがありますのでご注意を。評価点は完走後に付けます。<追記しました>


子供たちの会話と銀河鉄道の夜:{netabare}
 この作品は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜(以下『銀河』)』をベースにしているようです。子供たちの会話を抜粋します。表記は『銀河』準拠。
 <前段>
  「苹果(リンゴ)は宇宙そのものなんだよ。手のひらに乗る宇宙。」
  「この世界とあっちの世界をつなぐもの。」
  「(あっちの世界とは)カムパネルラや他の乗客が向かっている世界だよ。」
  「苹果は愛による死を自ら選択したものへのご褒美でもあるんだよ。」
 <後段>
  「(死んだら全部)お仕舞じゃないよ。むしろそこから始まるって賢治は言いたいんだ。」
  「愛の話なんだよ。」

 『銀河』の概略はこんな感じです。
 「孤独な主人公ジョバンニ。父が行方不明で、母が病床のため、働かなければならず、学業にも身が入らない。学校ではいじめられ、職場ではからかわれ、親友のカムパネルラと話す機会も減った。親友のカンパネルラはみんなの人気者。
 二人は、銀河鉄道に乗り込む。様々な人と触れ合うことで、ジョバンニは、「ほんとうの幸」という生きる目的を得た。気が付くと、車中からカンパネルラの姿が消えてしまっていた。
 ジョバンニは目を覚ました。丘の上で寝てしまっていたのだ。丘から下りると川の近くに人だかりがあった。カンパネルラはいじめっ子のザネリを救うため、川に飛び込み命を落としていた。」

 『銀河』における銀河鉄道とは、この世界と死後の世界をつなぐもので、苹果は、死を象徴するものとして出てきます。子供たちの会話の前段部分は『銀河』を説明したもので、後段部分はその解釈です。
{/netabare}

第一話の構造:
 第一話は、子供たちの会話だけで成立しています。
 第一話の前半が『銀河』の世界を再現する<前段>部分で、後半が『ピンドラ』の世界を描き始める<後段>部分に該当します。これが第一話の構造です。


<前段>とTSM荻窪線:{netabare}
 『ピンドラ』が本当に『銀河』の世界観を引用するのかどうか、という疑念を確信に変えてくれるのが「TSM荻窪線」です。

 「TSM荻窪線」は東京メトロ丸ノ内線がモデルですが、荻窪から池袋に行く際に、丸ノ内線の始発駅から終点駅という行き方はあまり考えられません。少なくとも途中での乗り換えが一般的です。それにも関わらず、三人は「TSM荻窪線」のみで池袋まで到達しています。

 このような経路の選択をしたのはなぜなのか。
 「他の路線がないため選択肢がなかった」のであるなら、それはそういう世界を作った「監督の意向」です。「他の路線があるのに使わなかった」のであるなら、それは「三人の意向」です。
 いずれにしても、誰かの意図で始発から終点まで電車に乗っていた、ということです。

 さらに重要なことは、終点で起こった「ヒマリの死」です。つまり、始発から乗り、終点に到達すると死が訪れる、という『銀河』の世界が露骨に描かれているのです。始発から乗る以上、引き返すか途中下車するか乗り換えるかしない限り、死へと到達してしまう世界です。

 以上のことから、意図的に『銀河』の世界が踏襲されており、事実再現されている、と言えます。主人公の男の子達の名前もショウマとカンバですから、ジョバンニとカムパネルラに同一視されます。ヒマリは、「自ら死を選択」していないからご褒美の苹果がないのです。
 ここまでが第一話の前半で描かれている<前段>部分、『銀河』の世界です。
{/netabare}

<後段>と「輪る」「ピングドラム」:{netabare}
 第一話の後半で描かれているのが<後段>部分、『ピンドラ』の世界です。終点での出来事のあとから第一話のエンディングまでに該当します。
 「(死んだら全部)お仕舞じゃないよ。むしろそこから始まる」「愛の話なんだよ。」
 死んで始まると言いたいのは、賢治ではなくて幾原監督です。『ピンドラ』の物語は、死んで初めて始まるのです。愛の話だからキスシーンで終わるのです。第一話というのは、子供たちの会話を映像化しているだけです。
 『ピンドラ』が「愛の話」だと宣言されているわけですから、「ピングドラム」は十中八九「愛」のことでしょう。

 で、問題は「輪る」の意味するところ。

 最初は輪廻観かと思ったのですが、転生ではなく蘇生ですからちょっとロジックが足りないです。山手線が採用されていないのもダメ押しですね。三人の親や子も登場しそうにないので、世代を超えた円環構造もなさそうです。

 となると、横のつながりが「輪る」ですかね。男女の三角関係ならグルッと「愛」を回せそうな気もします。または、男から女へ、そしてその女から元の男へ、の循環ですかね。
 この辺は第一話だけでは情報不足かもしれません。
{/netabare}

 『銀河』自体は、様々な解釈がされています。これに対して幾原監督の解釈を提示した上で、その土俵の上で描かれたのが『ピンドラ』の世界なんじゃないのかな、と思っています。

 ここからはテーマを探ってみます。『銀河』のテーマに幾原監督の「愛」が乗っかったのが、おそらく『ピンドラ』のテーマになるでしょう。

『銀河』のほんとうの幸:{netabare}
 ジョバンニは蝎(サソリ)のようになりたい、と願います。
 「蝎は虫を殺して食べて生きていた。ある時イタチに見つかって食べられそうになった。一生懸命逃げたけど、いよいよ捕まりそうになってしまった。その時井戸に落ちて、溺れてしまった。蝎はイタチに食べられなかったことを後悔した。どうせ死ぬのなら、イタチに食べられていたら彼を一日生かすことができたのに。神様お願いします。むなしく死ぬくらいなら、まことのみんなの幸のためにこの体を使ってください。すると蝎は真っ赤なうつくしい火となって、闇を照らし続けた。」

 賢治の宗教観は、(たぶん)キリスト教と仏教のハイブリッドです。無意な死である自殺を否定しながらも、自己犠牲は肯定しているのです。ただ、推奨はしていません。蝎が虫を食べていたように、蝎がイタチに食べられるのが「自然だ」と主張しているのです。
 これは食物連鎖に限った事ではなくて、人が一人で生きるのではなくて、みんなと助け合うのが「自然だ」と言っているのです(この助け合いの連鎖が「輪る」?)。

 ジョバンニは「みんなのほんとうの幸」のためなら「自己犠牲」も厭わないと生き方を決めました。ですが、「みんなのほんとうの幸」が何なのかが分かりませんでした。そこで「みんなのほんとうの幸」を探すことを決めたのです。

 これに対する幾原監督の解答が「愛の話なんだよ。」ということです。みんながそれぞれ「愛」を得られるような世界が「みんなのほんとうの幸」につながるのでしょう。
{/netabare}

愛の話:{netabare}
 幾原監督の「愛」は既にウテナで描かれており、その「愛」観は特徴的な二元論から成立しています。特異な主張を持つ作家は、やすやすと自分の意見を変えませんので、今作でも大きくは変わっていないはずです。彼の主張は、男女のそれぞれに二元論を用意して、その組み合わせで「愛」に関する二元論を作り出す、というものです。

 女性には、お姫様と魔女がいます。王子様に選ばれて守ってもらえるのがお姫様で、選ばれなければ必然的に魔女化してしまいます。魔女は王子様をたぶらかそうとします。
 男性には、特定の女性に愛を向ける本物の王子様と、不特定多数の女性に愛を向ける偽りの王子様がいます。
 本物の王子様が、魔女にたぶらかされずに正しくお姫様を選び、それにお姫様が応えること。これが幾原監督の言う「ほんとうの幸」である「真実の愛」です。これ以外の愛の形は「偽りの愛」になります。
(この「選び」「応える」構造が「輪る」?)
{/netabare}

プリンセス・オブ・ザ・クリスタル:{netabare}
 で、プリンセス・オブ・ザ・クリスタルと彼女がやったこと。
 ヒマリは、プリンセス~略~、つまりお姫様に変身していますので、最終的には、王子様に選ばれるお姫様になることは間違いないでしょう。ヒロインポジションだし。

 問題はカンバ。カンバは多数の女の子と関係を持っていることから、「偽りの王子様」に該当します。ですが、最後にはヒマリへの愛に向き合う「本物の王子様」の側になりました。この転換の契機となっているのは、プリンセス~略~がカンバの身体から抜き取ったものが関係していそうです。

 彼女が抜きとったのは、苹果ではない赤いもの、「まっ赤なうつくしい火(=蝎)」なのではないでしょうか。そもそもカムパネルラと蝎は、「自己犠牲」という点では共通しますが、結果は大きく異なるものです。カムパネルラは「一対一」の犠牲であり、蝎は「一対全」の犠牲です。
 「一対一」こそが本物の王子様とお姫様による「真実の愛」の形です。カンバは蝎のもつ不特定多数への愛を奪われたことで「本物の王子様」に立ち返ったと考えるとしっくりきます。「真実の愛」ではないけれど、一応は愛なのでヒマリの「一時的な延命」が可能になるのでしょう。

 ショウマは、何も問題なしです。カンバの女好きを非難していますから、「本物の王子様」の素養があります。または、まだ愛を知らない可能性もあります。どちらにせよ、プリンセス~略~に何もされずにさようなら、というわけです。

 ちなみにですが、「一対全」の愛が「偽りの愛」だと言いたいわけではないですよ。「真実の愛」「偽りの愛」というのはウテナから感じた私の感想であって、重要なのは、「目指す愛」と「目指さない愛」という二元論を用意することです。この二元論を「唯一の愛」と「普遍的な愛」としても、「一対一の愛」と「一対全の愛」としても構いません。
{/netabare}

テーマまとめ:{netabare}
 ショウマとカンバ、つまり、ジョバンニとカムパネルラの別形態による『銀河』ifストーリーが『ピンドラ』である、というのは間違いないでしょう。察するに、カムパネルラ役の男の子の「自己犠牲」を描いた上で、誰かが「真実の愛」に到達する、みたいな構造を持ちそうです。遅かれ早かれザネリの代替キャラも登場するでしょう。

 蝎の話は「死に方」に関するものです。ジョバンニは「死に方」を考えることで「生き方」を獲得しました。「どう死ぬか」は「どう生きるか」に転換できるということです。おそらくこれを端的に述べたのが「生存戦略」というキーワードでしょう。生きることは「真実の愛」を探すことですから、「ピングドラムを探すこと」自体が「生存戦略」でもあります。

 『銀河』をやる上で、唯一足りてないのが苹果です。この「欠けたものを探すこと」が「ピングドラムを探すこと」になります。ピングドラムは絶対に苹果の形をしているはずです。今まで書いてきた事柄を整理するとこうなります。
  苹果=死=どう死ぬか
  どう死ぬか⇔どう生きるか
  どう生きるか=生きる目的=ほんとうの幸=真実の愛=ピングドラム
 結果、苹果=ピングドラムなんですけど、これを繋ぐためには生存戦略が不可欠なわけです。
{/netabare}

 第一話のレビューとしてはこんなところでしょうか。第二話以降を気楽に見るために二回も見ちゃいましたよw それでは第二話以降に行ってきます。

★★完走後の追記★★{netabare}
①愛の二元論(上記の修正込)
 ピングドラムは、「愛による死を自ら選択したものへのご褒美」、つまり、「自己を犠牲にして誰かを生かしたときに生まれる愛」のことでした。
 で、修正したいこと。この作品の世界は、「愛のある世界」と「愛のない世界」で成立していて、この愛の中には「恋<一対一の愛<一対全の愛」という上下関係が成立しているというものでした。愛の中で二元論を作っているわけではありませんでした。プリンセンス~略~が最初にカンバから抜き取ったのは、「恋」でした。

 作品の世界は、「TSM荻窪線」のある「愛のない世界」です。「氷の世界」「美しい棺」と称される「子供ブロイラー」が存在するような世界です。カンバとショウマは、自己を犠牲にすることで、「愛のない世界」を「愛のある世界」へと変換しました。これが「運命の乗り換え」です。これにより、ヒマリと苹果ちゃんは、突如として別世界の電車の中に現れました。「命⇔蝎の炎」の路線です。

②運命の果実を一緒に食べよう
 「一対一の愛」を実現するためには、「選び」「選ばれる」ことが必要です。男女を限定しなくなっていますが、幾原監督の王子様とお姫様理論ですね。この選択と被選択のいずれもが達成されないと、その人は「何者にもなれないお前たち」と呼ばれてしまいます。
 この「選び」「選ばれる」ことが「運命の果実を一緒に食べよう」というセリフに表れています。ピングドラム(苹果)を「分け与え」「受け取ってもらう」ことです。ピングドラムは、カンバ→ショウマ→ヒマリ→カンバとまわりました。これが「輪る」「ピングドラム」ですね。

③取り残されたタブキとユリ
 愛が「輪る」構造は、世代間にもあるのでしょう。タブキとユリは「愛のない世界」に取り残されしまった、愛を知った夫婦です。彼らは子供を産み、「蝎の炎」に頼らずともその子供に愛を与えることが出来るのでしょう。
 登場人物たちは総じて親子間に問題がありましたが、愛を知る親が「愛のない世界」に残された、ということです。カンバとショウマ以外の希望のかたちでしょう。

④サリン事件
 首謀者残党である企鵝の会。彼らは別に悪者ではないような気がします。
 彼らはこの世界を壊したがっていました。彼らの言う「聖なる炎」は「蝎の炎」のことでしょうから、愛のある世界を作りたかったのです。手段についてはさておいて。

 この事件の採用は、社会風刺ありき、ではないと思います。『銀河』の世界を再現するためのものでしょう。『銀河』には、船舶事故の犠牲者が出てきます。この船舶事故とは、タイタニック号の事故であると言われています。これを現代と地下鉄に置き換えたのが「サリン事件」だったのだと思われます。

⑤サネトシ
 この人がザネリです。「空の穴分室」にいましたが、「空の穴」というのは『銀河』に出てくる言葉です。彼の言う「呪い」は、他人を犠牲にして生き残ること、すなわちザネリの生のことでしょう。「罪」も同様の概念でしょう。

⑥苹果ちゃん。
 表記も『銀河』準拠だし、果実の苹果が出てくる前に登場したこともあって、レビューを盛大にやらかしたかと不安にさせてくれました。無事に果実の苹果が出てきて良かったです(笑)。
 彼女はずっと運命に縛られていました。でも、最後は死に至る電車を乗り換える「運命の乗り換え」を実行してくれましたね。ヒマリたちが表の主人公だとしたら、苹果ちゃんは裏の主人公でした。

 エンディングを見る限り、ショウマとカンバは銀河鉄道の旅を続けるんですかね?乗り換えをしながら愛のある世界を作り続けるのでしょうか?「ほんとうの幸」を作る側ではなく、いつか味わう側に成れるのでしょうか??
{/netabare}★★追記ここまで★★

投稿 : 2024/11/02
♥ : 12
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