キャポックちゃん さんの感想・評価
1.9
日本アニメはここまで堕ちたか
【総合評価☆】
日本アニメはここまで堕ちたかと慨嘆を禁じ得ない作品である。
簡単に作品概要を述べておく。
原作は田中芳樹が執筆した小説で、1982年から87年にわたって、徳間文庫から本伝全10巻・外伝全4巻(後に短編集1巻を追加)が刊行された。
最初のアニメ化は1988年から2000年に掛けて行われ、主にOVAの形で発表された。以下のレビューでは「旧作」と呼ぶ。アニメ界のレジェンド・石黒昇が(一部を除いて)総監督を務めており、傑作の誉れ高い。私の評価ではオール5.0。
一方、ここで取り上げるのは、2018年に発表された新シリーズ『銀河英雄伝説 Die Neue These』の第1期(テレビ版)「邂逅」全12話。以下、【作画】【物語】の2点を中心に、旧作と比較しながらレビューする。
【作画】
アニメ制作を請け負った Production I.G が、旧作との差異化を図るために全力を傾注したのは、CGを多用した作画だったようだ。しかし、「何をどう描くべきか」という基本が疎かにされたため、表面的な派手さが目につくばかりで、作画の質はきわめて低いものとなった。
(1) 人間の描写:
アニメは、ドラマを「動く絵」で表現する芸術である。実写映画ならば、カメラを回すだけでさまざまな情景を撮影できるが、アニメでは、一枚一枚作画しなければならない。このため、細密な描き込みは難しく、要所を押さえるテクニックが重要になる。心理描写の場合、未熟なアニメーターは、顔の表情に重きを置きがちだが、より肝心なのが、体幹の描き方である。
明確に意識化されない情念は、腰の位置と、それに対する上体や四肢の関係に端的に現れる。『千と千尋の神隠し』制作中の宮崎駿を取材したNHKのドキュメンタリーでは、豚に変えられたことが信じられない千尋が声を限りに両親を呼ぶシーンで、若手アニメーターにダメ出しし自分で描き直す宮崎の姿が映し出された。このとき宮崎が描いたのは、少し前屈みになって両の手を胸元に引き寄せ、足許が定まらずに踏み惑う千尋の姿。彼女の心細さと必死さがダイレクトに伝わる、さすがの作画である。
『銀河英雄伝説』旧作では、宮崎アニメと同様に、キャラの体幹がきちんと描き込まれていた。いくつかの実例を挙げよう。
{netabare} 旧作OVA第2話「アスターテ会戦」Aパート終わりからBパートにかけて。中央突破戦法を逆手に取る敵の動きに気づくと、厳しい顔で座していたラインハルトは、前のめりになって「何っ!」と呟き、前傾姿勢のまますっと立ち上がる。だが、立ちすくんだのも束の間、すぐに体を横に傾けると、両手を肘掛けに置きストンと腰を下ろす。高揚感が吹き飛び、一瞬の動揺と狼狽を挟んでから、現実を直視できるようになるまでの心の動きが、見事に体現されたシーンである。
一連のシーンの終わり、副官のキルヒアイスが、保護者のように優しい物腰で、「どうなさいます? 反転迎撃なさいますか」と声を掛けると、ラインハルトは完全に我を取り戻し、上体をわずかにひねって冷静に応答する。ほぼ完璧な戦略家であるヤン・ウェンリーに対して、ラインハルトは、カリスマ性こそ圧倒的であるものの、知謀に関して粗略な点がある。これを補うのが、大局観に優れ他者への共感に溢れたキルヒアイスで、アンネローゼの頼みもあって、真摯にラインハルトを見守る。二人の関係性が的確に表現されたのがこの場面であり、(特に女性の)ファンの胸を熱くする。
ところが、新作の第2話「アスターテ会戦」では、ラインハルトとキルヒアイスが棒立ち状態のまま並んで会話するさまが、顔のクロースアップによって描かれるだけ。二人とも同じようにおたおたしており、「常勝の天才」が聞いて呆れる。
もう一つ、旧作第14話「辺境の解放」で、同盟軍を陥れるラインハルトの機略を察知したヤンが、ウランフ提督に占領地を放棄して撤退することを進言するシーン。その場にいるのはヤンと副官のフレデリカのみ。きりっとした表情で機械を操作するフレデリカとは対照的に、ヤンは左手を卓に置き体を開き気味にして、ウランフが映る小さなモニターを覗き込む。総司令部の方針に反して独断で撤退を画策せざるを得ない重苦しい雰囲気が、巧みに醸される。
一方、同じ場面を描いた新作第11話「死線(前編)」では、巨大なスクリーンを使ってウランフと会話するヤンの周囲に、4名の部下が何をするでもなくボーと突っ立ち、数百万将兵の命運が懸かった深刻な謀議であるにもかかわらず、「われわれの提督は賢いなぁ」とでも言いたげに薄ら笑いを浮かべる。見ていて胸クソが悪くなるシーンである。
体幹を描くテクニックは、ヌードデッサンなどの基礎練習を繰り返すうちに身に付くものなので、にわか仕込みのアニメーターには難しいのかもしれない。もっとも、ここ数年のテレビアニメでも、『ふらいんぐうぃっち』『クロムクロ』『Wake Up, Girls!』など、人間の作画がしっかりした作品が少なからずあり、これらと比べると、『Die Neue These』の出来の悪さは突出している。{/netabare}
(2) CG:
激しい戦闘場面でのCGこそ新作の売りなのだろうが、アイキャッチ効果があるだけでエモーショナルでない。CGがドラマに絡んでこないのである。
{netabare} このことを如実に示すのが、ウランフ戦死のシーン。旧作第15話「アムリッツァ星域会戦」では、味方の艦船を逃がすため後詰めで応戦していた旗艦に、ビーム砲が撃ち込まれる。爆風で背後の壁まで飛ばされ前のめりに倒れたウランフは、定位置で仰向けに倒れた参謀長と頭を並べる態勢となり、体を動かせないまま囁くように言葉を交わす。「参謀長、味方は脱出したか」「半数は…」「そうか」--胸を衝く名シーンである。
これに対して、新作第12話「死線(後編)」になると、艦隊戦を描く派手で空疎なCGが延々と続いた後、艦橋にいるウランフと参謀長の姿が爆煙(CG動画ではない)で覆い隠されるシーンとなる。画面外から二人のやり取りが聞こえるや、目を閉じたまま「そうか」と呟くウランフのアップとなってフェードアウト。つまり、派手なCGと人間が動く姿は、同時に画面に現れることがないのである。これは、CGスタッフと人間を描くアニメーターの連携が取れていないことを意味する。なるほど、CGがドラマに絡まない訳だ。
そもそも、新作のCGスタッフは、原作をろくに読んでいないようだ。アスターテ会戦の終盤、ヤンとラインハルトの軍が、互いに相手の後背に食らいついてリング状の陣形となる。旧作が静止画で表現したこの状況を、新作は、モニター映像で示すのだが、1秒ほどの周期でクルクル回っており、どう見ても、両軍併せて数万の艦船が広大な宇宙空間で戦う光景ではない。何をどう描くべきか、スタッフ自身が理解できていない。
小型戦闘機(スパルタニアン/ワルキューレ)による攻防戦は、新作でも何回か描かれるが、目まぐるしい動きばかりが強調され、3次元的な画面構成がおざなりにされるために、戦況の把握すら困難である。
旧作第1話で描かれたアスターテ会戦序盤では、先手を取ったラインハルト陣営のワルキューレが空母の艦載機を重点的に破壊し、相手の機動力を奪ったことが、引きの映像で示される。ところが、戦術上重要なこの作戦が、新作では映像化されていない。
帝国領侵入中に逆襲された同盟軍が、ポプランらエースパイロットをスパルタニアンで出撃させる場面。旧作第15話では、まず発進するポプランの主観映像から始まり、視点を細かく変えながら戦闘機同士による空中戦が描かれる。その後で、戦闘機を艦砲の射程に誘い込んで撃滅する帝国側の戦術が、客観的な視点から描写されるので、実にわかりやすい。一方、新作第12話では、発進したポプランらが敵と遭遇するまでは迫力があるものの、それからは戦闘機が画面狭しと動き回るばかりで、誰がどのような状況にあるのか判然としない。
新作のCGは、小型戦闘機周辺だけを捉えた寄りの映像が中心であり、まるで戦争シミュレーションゲームの戦闘シーンのようだ(それとも、このアニメ自体が、ゲーム会社に売り込むための営業用サンプル動画なのか)。全般的に、新作は戦術を叙述することに無関心で、派手な映像を見るだけで喜ぶ(何も考えない)視聴者を想定したとしか思えない。{/netabare}
【物語】
(1) シリーズ構成:
{netabare} 今回アニメ化されたのは、原作第1巻「黎明篇」のうち、序章から第8章「死線」まで。最大の山場である第9章「アムリッツァ」と、終幕となる第10章「新たなる序章」は、2019年公開予定の劇場版「星乱」全3話の冒頭に繰り込まれるらしい。
なぜ、まとまりの良い「黎明篇」全編をアニメ化しなかったのかは不明。第8話の放送翌週に、キルヒアイス役の声優が作品紹介を行う退屈な特別番組「キルヒアイスのイゼルローン訪問記」が挿入されており、制作が間に合わなかったのかもしれない。
旧作では、OVA第15話が「死線」の後半と「アムリッツァ」に相当するが、それ以前に外伝のエピソードなど3~4話分が挿入されていたので、旧作・新作とも、同じ分量のストーリーを12話ほどにまとめたことになる。にもかかわらず、新作はいかにもスカスカで、単に粗筋を紹介するだけのような印象を受ける。
全26話を使って原作の第1,2巻を描く旧作第1期では、戦闘シーンの派手な「死線」~「アムリッツァ」をシリーズ真ん中より少し後ろにずらし、その手前に、敢えて本筋から離れたエピソードを挿入した。おそらく、シリーズ構成の河中志摩夫が、外見だけ派手で中身が空っぽなアニメにしないために、激しい戦闘以前に人間を描くべきだと考えたからだろう。
新作のシリーズ構成には、こうした配慮が全く感じられない。年代記風の原作を大きく膨らまし、登場人物の内面に踏み込んだ旧作に対して、新作では、人物描写が杜撰で、ド派手なCGにばかり頼っている。それが、作品を空疎で見応えに欠けるものにした。{/netabare}
(2) 脚色:
原作第1巻をそのまま映像に起こすだけでは1クールに届かないので、旧作・新作ともに尺を伸ばす工夫をしている。ここでは、双方で取り上げた「カストロプ動乱」のエピソードを比較しよう。
{netabare} これは、原作でわずか数ページ(徳間文庫版p.220~p.226、鎮圧したキルヒアイスの事跡に関しては1ページ足らず)、動乱の概要が淡々と記されただけのエピソードなので、映像化するためには、具体的な情景をアニメーターが考案しなければならない。
旧作では、首謀者マクシミリアンが、賄賂で得た莫大な資金で高価な防御兵器を購入、これを鉄壁だと信じて、古代ローマ風の居宅で淫蕩に耽るさまが描かれる。キルヒアイスによって防衛ラインが破られると、忠実な手下を身代わりに仕立てて逃亡しようと図るが、その手下に裏切られ殺される。欲にまみれた人間の愚かしさが、生々しく浮かび上がる。
一方、新作になると、マクシミリアンは司令官として艦隊を指揮、キルヒアイスの策にはまって危地に陥ったのに、降伏勧告を受け入れず、腹立たしげに部下を打擲するばかり。結局、そのままでは生きる道がないと悟った部下に殺される。帝国に歯向かうマクシミリアンの心情には触れられず、無能な司令官が戦闘で敗北する過程を描いただけの、何の深みもない軍事エピソードでしかない。{/netabare}
【声優】
旧作は、洋画の吹き替えを担当したことのある声優が多い。吹き替えをする際には、表情の裏を読み取り微妙なニュアンスを付けることが要求されるので、心理表現が巧みになる。これに対して、アニメ専門の声優は、声のトーンを大きく変えるのは得意だが、トーンを一定にして表情を付けるテクニックが未熟になりがち。
『Die Neue These』の声優たちは、かなり頑張ってはいるが、それでも、旧作の若本規夫(ロイエンタール役)や塩沢兼人(オーベルシュタイン役)らの練達の技と比較すると、どうしても聞き劣りする。
【音楽】
旧作は、マーラー、ブルックナー、ドヴォルザーク、チャイコフスキーの名曲を、アレンジせずに使用している。クラシック音楽は、音色の豊かさ、ダイナミックレンジの広さ、構造の複雑さなどの点で、一般的なポップスとは段違いであり、音楽の持つパワーは圧倒的である(ただし、ビート感に欠けるので、音楽とともに体を動かすのが好きな人には、退屈だろうが)。旧作OVA第1話の冒頭、マーラーの第3シンフォニー(渋い選曲!)とともに重々しいナレーションが流れると、壮大な歴史物語の始まりを予感させ、胸が躍る。
新作では、情景に適したBGM風の楽曲を流しており、良く言って無難である。
【キャラ】
今風のキャラクターデザインにアニメファン歴30ウン年の私が文句を付けるべきではないのかもしれないが、ラインハルトがただのボンクラに見えてしまうのはいかんともし難い。旧作で、かつての猛将も歳を重ねて判断力が鈍ったかと思える描き方だったロボス司令長官が、新作では、無能を絵に描いたような顔立ちになっており、笑ってしまった。
特に酷いのは、アンネローゼ、フレデリカ、ジェシカら女性陣で、あまりにありきたりなキャラデザなので、途中で他のアニメの似たキャラとすり替えても、誰も気づかないだろう。