素塔 さんの感想・評価
4.2
平家幻想記
この極めて特異な創作物を受容する際に、私たちはごく自然に
二つある出発点のいずれかを選んでいるはずだ。
原典たる『平家物語』か、あるいは京アニの至宝、山田尚子監督か。
別の言い方をすれば、テキストと演出、そのどちらに軸足を置くか。
アニメ作品として鑑賞する場合は、後者の方が正しいのだろう。
山田監督のリリカルで繊細な演出による再現を味わい、さらに踏み込んで、
物語が最後に到達する、"祈りを込めて語り継ぐ"という究極の境地に
監督自らが体験した悲劇を重ねあわせる深い理解のかたちを
他の方のレビューによって教えて頂いた。
おそらく監督は、この一大古典をめぐる目の眩むような経験の堆積を
まずは括弧に入れ、まっさらな気持ちでテキストに向かったことだろう。
だから今、テキスト派の急先鋒である自分もまた、敢えてこの名前を括弧に括り、
純粋にドラマツルギーの観点から、この創造の真価を問うていきたいと思う。
Ⅰ 序・物語の亡霊
ネタバレレビューを読む
本作の原典が豊かにはらむ、叙事詩的な物語の雄大なうねり。
自分は多分、それを無意識に追い求めてしまっているのだろう。
現代風なアレンジの妙味や作家性の観点での評価ができない。
つまり本稿は、アプローチの出発点を原典においている。
原典との対峙によって生み出されるべき、物語のダイナミズム。
そこを捉えることにしか興味が向かわない自分は、そのための作業として
印象を整理し、抽出したシェマティックな解読格子を用いて
全体のフェーズの転換を巨視的に把握しようと試みた。
自分は原作の側に立ち、このアニメにどんな創意が見出せるか、
それが古典を素体とした作品創造としてどれほどの域に達しているかを
吟味しようとするのだが、この評価の尺度自体が全くの主観に過ぎない。
そんな空想めいた我流の着眼を憚ることなく推し進めた本稿は
きわめて個人的な「幻想(妄想?)」であることを予めお断りしておきたい。
要するに、本人以外には意味不明だろう、ということです。
*
古典とは歴史の亡霊である。
とりわけ伝承文学は、消えていった無数の声によって形づくられ、
物語の中の人物には焼印のようにその痕が刻まれている。
我々とは根本的に組成が異なる彼らの行為、彼らの運命を
つかさどるものはすでに、心情や一般的な法則ではなく、
物語をとおして表出される歴史の情念(パトス)なのである。
眼の眩むような時の堆積を引き受ける覚悟をもって
相当骨太に描かなければ、その存在感は引き出せないものなのだ。
「平家物語」という素体の特異な性質上、
史実と物語との関係やバランスは特に熟考されていなければならず、
(物語内部の人物と実在の人間が異質な存在である点も含めて)
「物語」のもつ強烈なオーラを流し込むための創造的な方法がないまま、
ただ普通に現代的な心情を持ち込んで、人間ドラマに仕立てるのであれば、
結果としてプロットだけが平家の、単なる史実寄りのドラマ化でしかなく、
中身はごく月並な人情劇になってしまうだろう。
古典とは本来、我々にとっては理解困難な異物のようなものであるはずで、
そこに現代との回路を開くものはただ創造的な飛躍あるのみ。
その意味で本作の、異形性、異界との親近性の設定は必須だったと言える。
びわ。平重盛。
呪われた眼をもつ少女と、呪われた一族の後継者。
重盛の死を転機に、この着想の潜在力は発揮され始める。
疑似父娘関係を解消し、怨霊をも見る眼を備え、平家物語の、
あるいはすべての「もの‐がたり」のデモーニッシュな闇を掬い取る
選ばれし語り手となっていく成り行きが是非観たいと思う。
単なる予知能力というよりは、破滅の運命を予言することにおいて、
彼女にはギリシャ悲劇で神託を伝える巫女の面影がある。
童形であるのは神性が女性的なものに勝っている暗示だろうか。
折々挿入される成長したびわの弾き語りも、まだ強い印象を残さないが、
彼女が今後、大化けしなければこの作品は不発に終わるとさえ自分は思っている。
Ⅱ 夏椿と揚羽蝶―びわ
ネタバレレビューを読む
激しく琵琶をかき鳴らし、熱っぽく橋合戦の段を語るびわの
おそらく作中では初めて、真正面から捉えられた顔を見てハッとなった。
亡父の眼を受け継いだかのように、彼女の両眼は灰青色に濁り、
盲目の琵琶弾きとなった姿がはっきりと認められたのだ。
何時、どのような経緯でびわが失明したのか、まだ明かされていない。
この変容を今まで何となく見過ごして来たおのれの迂闊さに驚くとともに、
自分の主観はそこに、時代を超越した物語生成の秘密と、
一人の少女の人生とが複眼的に捉えられた、本作の核心部を見たのである。
この直観はまず、全編の幕開けを告げる冒頭の、あの映像への回帰を促した。
無心に虚空を舞う、アゲハ蝶。
合間に挿入されるカットは、例の「沙羅双樹」の花らしい。
要するに「平家」の有名な導入をもとに、映像によって無常観を表現した
ありふれた手法だと当初は受け流していたのだが、やはり気にはなっていた。
バグのように明滅する光の滲み。この効果は何を伝えようとしているのか?
何となく、誰かの視像のような気配があると感じてはいた。
そして、漸く確信できた。・・・凝視しているの多分、びわなのだ。
それも、失明する前に見た記憶の中の光景が、揺らぎを帯びながら
いま、立ち現れているかのようだ。・・・おそらくこれは、
彼女の内部に閉じられて消え残った「世界」の残像なのだろう、と。
・・・まぼろしのように咲く、沙羅双樹の花。
日本にあるのは本種ではなく、分類上は異種であるナツツバキなのだそうだ。
沙羅双樹よりも飾らない、この名の方がむしろ似つかわしい。というのも、
実はこの花、重盛の屋敷の庭前に咲いているさまが作中に描かれているのだ。
つまりこれは、仏教的無常観に基づいた大仰な文学的修辞をなぞったものではなく、
びわの記憶の中の花、一人の少女が過ごした懐かしい日々の思い出が重ねられた
現実の花として描かれているのである。
そして、はかなげに飛翔するアゲハ蝶について。
考察勢はとっくにネタにしているだろうが、遅れて自分も思い当たった。
平氏の家紋は「揚羽蝶」であり、従ってこのイメージの象徴性は明白なのである。
仮に、それを見つめている眼差しがびわのものであるとすれば、
すべてが終わった現在、ないしは無時間的な場所でまさぐられている、
哀惜と情愛のこもった心象ということになるだろう。
すなわちこの冒頭は、盲いたびわの心象世界を表現した
エンディングアニメーションと呼応しており、その要約と見なせるものだ。
流れる雲と波、海鳥、水底の泡沫など、海のイメージに置き代わっているが、
その中には夏椿の花もあって、象徴するものはアゲハ蝶と同じである。
それは、儚く滅び去った懐かしい人々にまつわる遠い日の光景、
心の中に果てしなく去来する、失われた「世界」の記憶だ。
エンディングに関してもう一つ、付け加えておきたいことがある。
彼女が灯火を吹き消すシーン、これを自分は以下のように解釈したい。
「Ⅰ」で言及した突飛な連想の繰り返しになるが、
ギリシャ悲劇「オイディプス王」の始まりと終わりを画す、
運命を予言する者(巫女)と、運命の果てに盲目となる者(オイディプス)、
この両者がびわの中に共存していることに気づき、自分は衝撃を受けた。
彼女に備わった禍々しい明視。失明はその呪われた力の帰結なのかも知れない。
もしそれが彼女自身の固有の運命であり、その成就であったとすれば、
彼女こそは滅びゆく者たちの真の同伴者だったと言えるのではないだろうか?
「平家」でも特に有名な、「見るべき程の事をば見つ」という台詞がある。
入水する知盛が最期に遺したこの言葉はそのまま、悲劇の観察者であった
びわの言葉にもなり得ただろう。自ら灯りを吹き消すエンディングの動作には、
運命の果てに彼女が到達した心境が表明されているように思われてならない。
真理を見た者はその代償に、世界から乖離し、孤立した存在になる。
だがその時、認識は表現へと転位し、「物語」がそこに出現するだろう。
芸術創造の秘儀をめぐる、ある普遍的な真実がここには潜んでいる。
本作がきわめて独創的な「平家物語」誕生譚ともなり得る契機が
ここに予示されたと考えるのは、妄想に過ぎないだろうか…。
Ⅲ 落日の母性―徳子
ネタバレレビューを読む
びわ。―この機能性に富んだオリジナルキャラクターの創案が
本作の最大の独創であることは言うまでもない。
さらにびわと一対にするかたちで、清盛の娘にして安徳帝の母たる徳子を
本作の主人公として設定した着想もまた、特筆すべきではないだろうか?
勿論、彼女が主人公の要件を満たしているかには異論もあるだろう。
確かに、現代的な自我を感じさせる言動で、作中では例外的な存在だと言えるが、
そのポジションからして、主体性と能動性が示される機会がないために、
その言葉がどこか内実を伴わずに浮いてしまっているきらいがあった。
静的な形であっても、彼女個人の主体性をどのように描き、現出させるか、
そこが難題となっていたと思われる。
第八話に至り、ついに瞠目すべきシーンに出会った。
都が源氏の手に落ちようとしている状勢を嘆く弟の資盛に対し、
徳子はしずかに、決然として言い放つ、
「いいえ。帝がいらっしゃるところが都よ。」
たった一言。だが、これまでのモヤモヤを晴らすのに十分だった。
これまでも彼女の心の想いが吐露される機会はいくつかあり、
懐剣を手に清盛に反抗する激しいシーンなどもあった。が、
心底、揺さぶられたのはこのセリフが初めてだった。
未来の見通せない、大きな危機に直面する現状において、幼い帝の母という、
自らの置かれた現実を真っ直ぐに見据え、その中で発せられたこの言葉は
自らの当為への能動的なベクトルを孕んだ、揺るぎない信念と覚悟の表明に他ならない。
このセリフの感銘をさらに深める背景がある。
第七話で彼女は後白河院にこのように語っていた、
「望まぬ運命が不幸とは限りませぬ。
望みすぎて不幸になった者たちを多く見てまいりました。
得たものの代わりに何を失ったかもわからず、ずっと欲に振り回され…。
わたくしは泥の中でも咲く花になりとうございます。」
「望まぬ運命が不幸とは限りませぬ」。
彼女はすでにこの時、自らの運命の主体となる望みを表明していた。
その願望が今や、現実のものとなったのである。
彼女が言った、「帝がいらっしゃるところが都よ。」という言葉はまさしく、
運命がもたらした自らの現実を、無条件に肯定する言葉なのである。すなわち、
「いま自分のいる場所が、自分が本当に生きるべき場所なのよ。」
このような意味合いがそこには込められているのだ。
他人に強いられた道であろうと、それを自らの道として受け容れ、
母であることを自らの運命として選び取り、彼女は自分自身になっていった。
つまりこの言葉に、徳子の人間像が最終的に定位していると感じられたのだ。
この時、彼女は真に本作の主人公になったのだと思う。
自分の見る限り、本作で自らの信念を生きる人物は清盛と徳子の二人である。
動と静の極端な違いはあるが、やはり彼女は清盛の娘なのだ。
清盛の死により父性の軛から解放され、自立が実現された時、
その内面の強さが表れ、輝きを増してゆくのは自然である。
そしてここに、物語のフェーズの巨視的な転換が認められるだろう。
父性的なフェーズの中に埋没していた「母性」の位相がせり上がる。
主人公となった徳子の母性が物語の軸を形成し、悲劇の核心となる。
父性の物語から母性の物語へと、作品の本質が顕現したのである。
我が子との平穏な生活だけを一途に願う徳子の心境が語られるにつれ、
作中に徐々に浸透してくる母性。それはまた、こじつけのようだが、
自らの道を歩み始めたびわの、母探しの旅にも及んでいるのかも知れない。
びわが抱く母への憧憬と、徳子が母として抱く憧憬、この二つの心情が遠く呼応しあう。
徳子がかつてびわに語った、世界の苦悩の源となる一切への「赦し」。
この言葉の思想的な深みはおそらく、母性の文脈でしか開示できないものだ。
すなわち、本作の最終的なテーマはこの線上に求められるのだろう。
この転換に同期して、作品内部にも変化が生じたように感じられた。
今回の第八話に至って、心情の新しい地平がひらかれたように思われるのだ。
絶対的な支柱であった「父」を喪うことにより、一門の者たちは不可避的に
「残された者」という共通の存在規定を一律に受け容れることになる。
その結果、それぞれが「喪失」と向き合い、覚悟であれ、逃避であれ、
自身の選択を迫られることにより、当てがわれた役回りを超えた「個」がそこに現れる。
維盛を筆頭に資盛、さらには宗盛に至るまで、人物に陰翳と深みが加わってくるようだ。
逸脱を承知で、これを実存的契機の発現と呼びたい衝動に駆られる。
中世のテキストに現代風の心理模様を導入するための方策として
敢えてドメスティックな関係性の中に限定した心理表出を用いることで、
いわば古典の中にホームドラマを組み込む形で、現代との折衷を試みている。
こんな推測を自分はしてみたのだが、この見方に即して言えばついに今回、
ホームドラマから本格的な群像劇へと、脱皮が遂げられたと言えるように思う。
それは終局に待つ"滅び"へと向かう、心のドラマの始まりである。
作品の表層を漂いつつ、しずかに高まる哀感は来るべき悲劇を準備する予兆のようだ。
Ⅳ 物語の定位―びわと徳子
ネタバレレビューを読む
本作終盤の張り詰めた、悲壮な高揚感は見事というほかない。
第八話に引き続き、この第九話も実に感銘が深かった。
率直な感想が不得手で、ついまた理屈に走ってしまうのだが…。
「定位」という語を用いて説明してみたいと思う。
平たく言えばものの位置が定まることだが、
本来の orientation に引きつけた「方向づけ」の意味に
自己流のニュアンスを加え、作品解釈のツールとしているものだ。
その場合、方向を指し示すかたちで位置が確定すること、
さらに、作品内部の多様な運動が最終的に一つの方向に収斂し、
帰結点を示す段階に達したこと、といった事態を言い表している。
その意味で、第八話にははっきりと定位の瞬間が捉えられた。
「Ⅲ」に記述したとおり、徳子の主人公としての位置が明確に定まり、
結末に向かう道筋が示される。そこに開示される「母性」こそが
悲劇を超克する原理となることが予感されるのである。
「父性/母性」のシェーマは読解のために仮に抽出したものだが、
大筋としては、ドラマの深層部の力学的な発現を次のように捉えることができる。
序盤。清盛の強大な「家父性」に対比される重盛の「慈父性」、
これら対称的な二つの父性の対立と拮抗により、物語は膠着する。
中盤。重盛の死により、清盛の父性の暴虐が極まるが、清盛も死ぬ。
「父性」の完全な退場。そして、母性の物語へとフェーズの転換が生じ、
「Ⅲ」で言及したとおり、物語の焦点は徳子に絞られてゆく。
図式的な整理のようだが、内容の深化にも対応している。
徳子の姿勢が、受動的な在り方から能動的なそれへと変化するのは
父性の支配からの母性の脱却に即した、つまりは、
「清盛の娘」から「安徳帝の母」への、彼女の本質規定の転換であり、
この転換を軸に、物語の位相そのものが転回したと見ることができる。
そして、第九話。ここにまた、一つの定位が認められた。
前話が徳子による主題面での定位だったのに対し、
今回はびわを介しての、作品の構造面での定位が果されたと言えるだろう。
彼女はこう宣言する、
平家の行く末を見届けようと思う。
見届けて、祈りを込めて琵琶を弾く。
そなたらのこと、必ずや語り継ごうぞ・・・
見届けて、祈りをこめ、語り継ぐこと。
この決意がびわのキャラクターを最終的に決定することは言うまでもない。
もともと彼女にはいくつもの機能が付託されており、
ストーリー展開における視聴者視点の導入という表層面に加え、
深層面でも上記の、重盛の「慈父性」を発現させる役割を担っている。
もっとも、ここに構造面での定位を捉えるのは、
原典に軸足を置いている自分ばかりの見方になるのかも知れない。
自分の目には本作が出発点から二重性を孕んでいるように見えていた。
中世と現代。古典のテキストと現代風ドラマ。乖離する危険を帯びた
この異なった二つの位相の調和ないし融合が本作には求められるはずで、
その処理法の一つが、折々挿入されるびわの弾き語りだったわけだ。
今話のびわの開眼はこの問題への根本的な解答となるものだ。
「語り継ぐ」者の誕生、それはすなわち「平家物語」誕生の瞬間であり、
「平家」のテキストが最終的にアニメ側のドラマに統合されたことを意味する。
それにより、物語の発生を語るドラマとして本作の定位が果たされ、
いわばオリジナルな「平家物語」創生譚としての本質が明らかになったのである。
「作者」としてのびわにその存在意義が収斂する時、
創造行為というものへのひそやかな眼差しがそこに垣間見えそうな気もする。
通常の現実観察の限定的、断片的な記録の域にとどまらずに、
全てを見る能力によって、語るべき物語は彼女の内部ですでに完成している。
自らが語るその物語の中には、かつての自分もまた息づいている。
この自己言及的な、再帰的な完結性こそは「見者」の呪われた宿命であり、
表現こそがその使命となる。・・・といった、芸術発生の秘儀をめぐる
「Ⅱ」の個人的妄想を想起して、少し感慨深かった。
祈り。語り継ぐこと。そして、赦し。
いずれも現実に対して直接作用しない、無力な営為に思われるだろう。
だが、決してそうではないのだ。それらはしずかに周囲に働きかけ、
眼に見えないかたちで世界を存続させている「魂の行為」なのである。
本作は、それらが究極的に二人の女性に具現されることにより、完結を迎える。
自分はここに、この「平家物語」の到達点を見出したように思う。
「父性」に対する超克の地平としての「母性」。それは
悲劇の彼方に、それと向かい合うための「救済」の力として要請されるものだ。
徳子の「赦し」は世界の苦悩の源となる一切に及び、それを包もうとする。
また、びわの「祈り」は、見るだけで何もできなかった自らの苦悩を
救済する道でもあったことに注意したい。ここに表れている心情は
現代の我々の感性にも訴えかけてくるものではないだろうか。
Ⅴ ドラマツルギー覚書
ネタバレレビューを読む
最終二話についての所感はついにまとめ切れなかったが、
取り敢えず、頭の中に残った想念を覚書風に書きとめておく。
まず、作品全体から受ける印象として言えるのは、
感覚的な愉悦が主であり、精神的な充足感が意外に希薄であることだ。
勿論、一個人の感じ方だと言われればそれまでだが、自分はここに
ドラマツルギーの方向性に関する根本的な問題が認められるような気がする。
「ドラマツルギー(作劇法)」については、
参照したコトバンクの解説に、以下のような二つの傾向が指摘されていた。
① 一つは論理的な筋の展開を重んじ、知的、構築的、求心的である。
② 他方は音楽性や視覚性を採用して、感覚的、絵画的、遠心的である。
演劇とアニメの違いはあるが、本作が②のタイプに合致することは確実だろう。
卓越した美的センスと繊細な感性に裏打ちされた演出が最大の見どころとなる。
それだけに、原典にまつわる「滅びの美学」といった固定したイメージを
ただ美しく上書きするだけの作品に終わるのではないかという危惧もあった。
因みに自分はすでに削除したレビューの中でこんな難癖をつけている。
今話は冒頭から冬椿の赤い落花が執拗に反復されていた。
ポトリと花の落ちる様は斬首と死、その色には流される血や戦火、
さらに平家の赤旗に絡めて、一門のたどる運命が暗示されているわけだ。
「Ⅱ」で触れたナツツバキ-沙羅双樹の清浄な白との対比が鮮やかだ。
ただ、こうした演出の効果が十分に発揮されているかはかなり疑問である。
記号的な布置が有効に機能するためには、相関する心情と呼応し、
共鳴が生じなければ、張り詰めた意味の磁場は形成されず、説明的な技巧に終わる。
小手先とまで言ったのはちょっとひどかったが、あまり利いていない印象はある。
ふたたび上の解説に戻ると、次のように続く、
「どちらも作品としての統一性や全体性を意識し、リズムを考えるが、
前者は戯曲そのものに示される知的内容の緊張と解放のリズムに、
後者は演者が加わって始動する上演のリズムに重きを置く傾向がある。」
要するに、ストーリーと舞台効果の、いずれに主眼をおくかということだが、
言語の論理を介さず、感覚に直接訴えかける表現という具合に後者を拡張すれば、
本作の特徴を言い当てていると言えるだろう。反面、どこか緊張感に乏しく、
ストーリー展開がしばしば停滞し、弛緩する傾向もあったように思う。
さてそれでは、今ここに①のタイプ、即ち
「知的、構築的、求心的」なドラマへの志向が極端に強い人がいて、
本作を視聴しながらレビューを書こうとしていると仮定しよう。
おそらく彼は、自分の志向性に即して物語の構造を読み解きつつ、
あるべき展開を推論し、そこに有機的に連関したテーマを措定することだろう。
そして図らずもその実例となるのが、上の四編のレビューなのである。
・・・そう、それは私です!
もうお分かりだろう。もっともらしいことを述べているようだが、
意図するところは実は、自分がレビューした内容に関する釈明なのである。
本来②のタイプである作品の本質を見誤り、見当違いの解釈をしていたという訳だ。
「平家幻想記」と称する上の文章の「Ⅲ」と「Ⅳ」において、
徳子に具現される普遍的な「母性」による救済がテーマ的な収斂点になると考え、
最終話にその集約となる場面があるはずだと予想していたのだが、
原典どおりの「大原御幸」が淡々と描かれるばかりで、見事に空振りに終わってしまった。
とは言え、すべて的外れだったかというと必ずしもそうではない。
びわが内包する「表現者」の運命への直観にもとづいた「Ⅱ」の読解が
ほぼ正しかったことは、壇ノ浦のラストシーンで証明されたように思う。
徳子の場合もびわの場合も、推論のプロセスは同じである。
即ち、モチーフと設定が孕む潜在的な劇性を最大限に引き出すこと、ただそれだけだ。
それこそが理論以前のドラマツルギーの大前提であり、根源的な要請だとする
ナイーブな信念によって、自分のこれまでのレビューはすべて書かれている。
今回、一方が正解で、他方が無茶振りに終わった理由を考えると、
本作には最初から思想方面の志向がなかったという結論になるのではないか。
象徴的なのは、全編を締めくくるラストシーンである。
多くの人々の想いが縒り合わされて、一筋の祈りの糸となり、
「祇園精舎」の冒頭句が連禱のように唱和され、その声は響き交わし
すべてが祈りへと昇華されてゆく、息を呑むような荘厳さの中で物語が結ばれる。
テーマ的な収斂点であるはずの「祈り」はこのように、実に感覚的に表現される。
②の「音楽性や視覚性」の採用は最後まで徹底しているわけである。
その内容も徳子自身の来世と一門の冥福に向けられた限定的なものであり、
前に示唆された「赦し」の普遍的な抱擁性からも逸脱してしまっている。
テーマ面での不徹底さが逆に露呈している部分だと思う。
最後に、上で引用した一節はこう締めくくられている、
「どちらかといえば、西洋の演劇は前者の、
東洋の演劇は後者の傾向が強いといえよう。」
「平家物語」を扱うのなら、西洋的な論理性よりも
東洋風の感性的アプローチこそが自然であり、最良であることに異論はない。
若い時分に外国の文学と格闘し、西洋式な見方がこびりついている自分は
やはり偏向しており、本作を十分に味わい得なかったことを率直に認めよう。
思想性云々はさておき、本作が比類なく美しいアニメであることに間違いはない。
以上を踏まえて本作を次のように総括したい。
確かに「山田尚子の平家物語」としては、一定の評価を得るだろう。だが、
自分が期待していたような、現代的な視角を導入して古典に生命を吹き込む、
我々のための真に新たな「物語」の創造には至らなかったようである。
主観的なイメージを虚しく追い求め、結果的に座礁したこれらの雑文は
削除して然るべきものだが、考えようによっては一種の思考実験とも言えそうだ。
身贔屓のようでも、当面はこのままにしておきたいと思う。
タイトルの「幻想」の含意も変化している。以前は単に、
誘発された想念を好き勝手に書きつける、といった程度の意味合いだったが、
今は少し違う。これらの記述は、あるいは別の世界線に存在したかも知れない(笑)、
もう一つの「平家物語」をめぐる、ささやかな幻想の記録なのである。
(2022.2.3、初投稿。6.20、修正完了。)