フリ-クス さんの感想・評価
4.5
エネルとゲイアのしんおん工場
むかし、ちょっとした知り合いの女性のひとりに、
わたし、性感帯は頭脳なんです
なんて大マジメに豪語する方がおられました。
早いハナシ、顔とか服装とか体型なんかの『視覚情報』は、
もちろんダイジなことなんだけれど『ナニなトリガー』にはなりえなくて、
コトバで知的にビンカンな部分をクスグられると、
あはン
とかなんとか思っちゃうんだそうであります。
そういうのって東大とかNASAとかうろちょろしていたら、
しょっちゅうスイッチ入って大変じゃね?
とか思って聞いてみたところ、どうやらそういうことではないようでして。
彼女いわく、
ムズカしい言葉をたくさん知っているだとか、
特定の分野において膨大な知識量をもっているだとか、
そういうのは
『記憶力がいい』
だけであって、頭脳をクスグられる要素ではないそうです。
つまるところ『知識』というのは『道具』なのであって、
その『使いよう』の部分、
さらにその使い方のスマートさあたりにエモっちゃうんだとか。
(ちなみに英語のsmartは『かしこい』って意味であります)
まあ確かに、コンサルとか会計人とかでも、
たいしたことないヤツに限って、
やたらムズカしい言葉つかってマウントとろうとしますしね。
で、結局『一般論』を言ってるだけで、話がなんにも進みませぬ。
これがいわゆる『BIG4』クラスのコンサルになると、
拙みたいなアタマ悪いヒトにもわかるよう、
カンタンな日本語を駆使して
(あいつら、MBAの論文とか原書で読めるんですよ?)
具体的な課題とリスクをチュ-シュツしていきます。
んで、カイギが終わるころには、はっきりした一本の道筋が。
かっけぇ。
だからまあ、
彼女の言わんとすることは、なんとなくわかるようなわかんないような。
ただまあ、拙の知り合いの女性の中には
オトコは大胸筋、三角筋、上腕二頭筋、以上!
という、かなりきっぱりしたヤツもいて、
そうなってくると、おっぱいフェチとの線引きがムズカしいのですが、
いずれにいたしましても、
フェティシズムの方向性というのはほんと人それぞれであります。
さて、本作『アリスとテレスのまぼろし工場』ですが、
大方の予想を裏切り、アリスさんもテレスくんも出てまいりません。
『アリスとテレス』というのは、
なんかアリストテレスみたい、なんてもんじゃなく、
そのまんまギリシャの哲学者、アリストテレスさんのことであります。
もともとは本作の監督・脚本家である岡田麿里さんが、
ひとりでちくちく書いて『行き詰っていた』小説なんだそうです。
(原題は『狼少女のアリスとテレス』だったそうですね)
ちなみに、そのタイトルについて岡田麿里さんは
>子供の頃に哲学者のアリストテレスという名前を、
>アリスとテレスという2人組の名前だと勘違いしていたことを思い出して。
>自分なりに生きることについて
>つきつめて考えていきたかったのもあって、
>『狼少女のアリスとテレス』という仮タイトルで原稿を書き進めていました。
(『ダ・ヴィンチ』2023年9月号インタビューより)
というように述べておられます。
決して、
勇猛なオオカミ少女が悪の組織に対し、
アリストテレスとかニーチェとかを論理兵器としてふりまわし
無双するお話ではありませぬ。
で、MAPPAの社長である大塚さんから、
なんかオリジナル作品のカントクやってみませんか
というオファーがきたときに、
イチオ-こんなアイディアあるんですけど、と書きかけを見せたら、
やろうやろうというハナシになり。
で、映画化のため脚本のカタチで執筆を再開。
無事に完成した脚本のタイトルは『まぼろし工場』だったのですが、
周りのスタッフから
いやいや、アリスとテレス、残した方がゼッタイいいっスよ
とかなんとか言われて本題になったのだとか。
そのタイトルの『難しそうさ』がアダになったのか、
あるいは広告・宣伝担当がズボラかましたのか、
はたまたこういう映画の需要そのものが国内に存在しないのか、
興行収入は、
リクープラインに遠く届かない二億円台半ばあたりで池ポチャ。
これから配信等でどれだけ投資を回収できるか。
ビジネス的にはそんな感じの、
良作だけどマーケットがついてきてくれなかった数ある作品の一本です。
先に『良作』というコトバを使っちゃいましたが、
拙の個人的なおすすめ度は堂々のAランク。
Sにしてもいいぐらい、しっかりしたつくりの作品であります。
ただし、おすすめと言っても人を選ぶ作品でして、
誰にでも自信をもっておすすめできるテイストではありませぬ。
・二次元美少女との結婚を真剣に考えておられる方
・アニメを現実逃避や自己肯定のために日々鑑賞しておられる方
・いたずらに頭脳をクスグられると殴り返したくなる方
あたりには、まったく、これっぽっちもオススメできません。
美しい映像と濃密な脚本を心地よく楽しみながら、
ふと自分のジンセ-と照らし合わせ、
普段あまり深く考えないことに思索をあそばせるのもいいかしらん。
というような方にうってつけの作品ではあるまいかと。
誤解なきよう申し上げておきますが、
アリストテレスさんの名前が入っているからと言って、
ギリシャ哲学みたく『難解なこと』を言ってる作品ではありません。
もちろん『エヴァ』みたいに
『どっちでもいいことを難解・イミシンに表現している作品』
ということでもなく、どちらかというと
『ダイジなことをシンプルに問いかけている作品』
であると、わっちは思いんす。
んで、結局どういう作品なのかと言いますと、
キャッチコピーの『恋する衝動が世界を壊す』が全てを物語っています。
わかりやすくまとめると
現実から乖離してしまい、
成長も変化も未来すらも訪れることのない閉塞した田舎町における、
衝動的な『恋』のモノガタリ。
みたいな感じですね。『愛』じゃなく『恋』であるところがミソ。
ここのところについて、
岡田麿里カントクはインタビューで
>理性も利かなくなるし、突然強烈なパワーも湧いてきたりして。
>そういう得体の知れない「恋の衝動」そのものを
>アニメとしてビジュアル化できたとしたら、
>これは他にはない作品になるんじゃないかと思ったんです。
(『カナブン』2023年09月25日特集インタビューより)
というふうに語っておられます。
舞台は、見伏(みふせ)という架空の、
海と山に囲まれたイナカにある、製鉄所の企業城下町。
ある日、その製鉄所で巨大な爆発が起こります。
それ以来、見伏の町は、
誰も町の外へ出られず、季節も変わらず、ヒトが身体的な成長(老化)もしない、
爆発直前の時間軸に固定されたマチになってしまいます。
寝たきり老人は寝たきり老人のまま、妊婦は妊婦のまま、赤子は赤子のまま。
そんな、なんの変化も未来もない閉塞した環境で、
リアル世界に換算すると10年ちかくの月日が経過していきます。
そんな見伏の町で中学生三年生のまま時を過ごしていた菊入正宗は、
ある日、苦手にしていた同級生の佐上睦実に声を掛けられ、
製鉄所でオオカミ少女みたいな五実(正宗が命名)に引き合わされます。
正宗、睦実、五実。
この三人が交流を始めたことによって、
閉塞完結していたはずの町に少しずつ変化が生じていきます。
見伏の町がおかれた状況とはいったい何なのか、
閉ざされた時間はふたたび動き始めるのか、
そして三人に訪れる未来とはいったい……みたいなおハナシですね。
ちなみに、
『パラレルワールド』とか『世界線』みたく、
またかよ的なオチではありません。
そのへんに転がっているラノベとは一線を画しておりますので、
安心してご鑑賞くださいませ。
もちろん、単純な『恋物語』などでは決してなく、
そのウラには『いまを生きる』ということに関しまして、
視聴者一人ひとりに問いかけていく『ウラ主題』みたいなものが走っております。
ここのところが岡田麿里脚本の真骨頂なのですが、
あまりにも物語の核心に触れちゃうため、ネタバレにしておきますね。
(視聴意思のある未視聴の方には、
閲覧されることはあんまりおススメできませぬ)
{netabare}
作品中にちょろっとラジオから出てきて、
拙もレビュータイトルに使っている『エネルゲイア』というコトバですが、
ムズカしそうに聞こえるだけで、そんなにたいしたもんではありません。
ひらたく言っちゃうと『行為そのものが目的になっている』状態のことです。
もっとわかりやすく言うと『おさんぽ』ですね。
どこに・なにしに行くということもなく、
ただぷらぷらと歩くという『行為』そのものが『目的』になっている状態。
これに対して、徒歩通学みたく、
ガッコ-に行くというはっきりとした『目的』のために
歩くという『行為』をしている状態は『キネーシス』と呼ぶそす。
変質してしまった見伏の町みたく、
成長も変化もなくただ同じ毎日を繰り返しているのは、
『生きる』という行為そのものが『目的』
と言い換えることもでき、リッパな『エネルゲイア』さんですね。
一方、リアル世界、
いろいろ例外はあるにしても(ひょっとしたら例外の方が多い?)
夢やミライに向かってがんばって生きている状態は、
『生きる』という行為は未来へのプロセスに過ぎない
という考え方から『キネーシス』に分類することができまする。
見伏の町は、是も非もなくエネルゲイア世界に取り込まれてしまいます。
だけど考えてみると、
世の中の多くの人は『現状維持』だの『不老不死』を望んでいるわけです。
ですからこの世界は人々の『思い』の総体がカタチを成したもの、
ちょっとコムツカしい言葉であらわすと
『イデアの具現化』
みたいなもんじゃないかと思ってみたりみなかったり。
で、こうなってくると若い方々を中心に、
変化もミライも成長もない世界で、
ただ『生きる』ことに幸せや意味なんてあるのかや?
そんなんで『生きている』と言えるのかや?
というギモンがわいてきます。
わいてくるんですが、それは裏を返せば、
変化やミライや成長がなければ、
ヒトは生きていても幸せにはなれぬのかや?
変化やミライや成長のためにヒトは生きておるのかや?
というギモンにも繋がっちゃったりするわけです。
作品内でそれぞれの登場人物はそのギモンに対し、
いろいろすったもんだ(←死語?)した末に、
『ジブンのおかれた環境下における、ジブンなりの回答』
みたいなものにたどり着きます。
ただし、
それはこの作品によって示された、
限定された環境における限定された回答であり、選択肢なわけです。
拙たちゲンジツ世界の住人たちには、無限の選択肢があります。
ですから、この作品の結末は結末でおいといて、
ふと我が身に置き換えて考えてみると、
で、ぬしはどうしたいんじゃ?
どう生きたいと思うておって、
実際のところ、どう生きておるのかや?
みたいなイタい問いかけにぶちあたってしまいます。
もちろん、それに対する答えは人それぞれなわけです。
ほんと人それぞれなんですが、
ここのところが本作品のウラ主題になっていたりもするわけです。
だからといって、
そういうことを考えるも考えないも視聴者の自由なんですが、
このあたり、いかにも岡田脚本らしい奥行きかと。
しかし、
さっきから賢狼がコムズカしい質問ばっかしてくるのはなぜか。
ちなみに『エネルゲイア』も『キネーシス』も、
アリストテレスさんがごちゃごちゃ言っているハナシです。
ですからこの作品につけられたタイトル、
『アリスとテレスのまぼろし工場』
って、実はけっこう的を射ていたりもするんですよね。
{/netabare}
映像は、さすがMAPPAさんだけあって、かなりよきです。
静、動、いずれのシ-ンにもクリエイティビティが発揮されており、
その場の空気感みたいなものまでがビシビシ伝わってきます。
先に紹介した岡田麿里カントクの言葉みたく、
閉塞した世界をぶちこわす、
わけのわかんない恋のパワー
みたいなのも見事に表現されています。
さらに、中間部からラストにかけての映像による迫力と説得力は、
カネ払う価値が充分にあるとわっちは思いんす。
{netabare}
ちなみに『荒ぶる季節の乙女どもよ』でもやってましたが、
トンネルを女性の胎道に見立てる演出、
岡田カントク好きですよね。
ただしこれ、
女性カントクがやるから素直に受け止めてもらえるのであって、
拙なんかがこういう比喩を使ったりすると
フリさん……なんかあった?
とかなんとか心配されてしまいそうでコワいです。
ジェンダー差別、ダメ、ゼッタイ。
{/netabare}
キャラは、拙的には、まあこんなもんかな、みたいな感じかと。
言ったりやったりしてることはわかるんですが、
感情移入して手に汗握る、ということはありませんでした。
正宗くんとかリアルで自分の身近にいたら
あ~、なんかめんどくせぇなコイツ
とか思っちゃうかもです。
あとキスシーン、ごちゃごちゃしゃべりすぎ。黙ってせいよ。
ただし、そこは拙との相性とか私的なスキキライのおハナシで、
決して良し悪しのモンダイではありません。
キャラ造形そのものは、
一人ひとりが細部まできっちり練り込まれ、
しっかりと『人のカタチ』をいたしております。
あと、オオカミ少女の五実は、
狼ではなくニンゲンが面倒見ているんだから、
もうちょいきちんとまともに育ててあげたんさいよ、と。
{netabare}
睦実のキモチはわからなくもないのですが、
一応、ムスメなわけですしね。
こういうの、世間では『ネグレクト』とか呼びます。あかんやつや。
{/netabare}
役者さんのお芝居は、
アフレコを主戦場にしている方(=声優)ばかりのキャスティングで、
ハイレベルで安定しています。
オオカミ少女五実を演じる久野美咲さんについては、
岡田監督のあて書き(演者を先に想定して脚本をかくこと)だったそうです。
こういうキャラが好きかキライかは置いといて、
たしかに、このキャラ造形は久野さんにしかできないなあ、と。
(ちなみに『あて書き』って慣れてくるとラクです。てか、楽しいそす)
で、大変エラそうな言い方になってしまうのですが、
久野さんに限らず、
作品全体を通したお芝居の方向づけは、拙の好きな感じではなかったです。
これは役者の技量のモンダイではなく、
音監の明田川仁さんがカントクの意を組んで、
イト的にそっちの方向へ誘導していったものと思われます。
(仁さん、どんな方向にも誘導できますしね)
なんというのか、
『ヒトとしての葛藤』の前に『ヒトとしての弱さ』が出すぎちゃってる、
というように感じちゃうんですよね。
もちろん、そういう方向のお芝居が好きな方を否定はいたしません。
いたしませんが、
拙としては、ヒトが弱いのは『あたりまえ』だと思っているので、
わざわざ前に出すことはないんじないかと感じるわけで……もごもご。
そんななか、拙が個人的に気に入ったのは、
上田麗奈さん(睦実)の、クライマックスにおけるお芝居です。
{netabare}
リアル世界に向かう列車の中で、五実に向けてのセリフ。
「だから、せめてひとつくらい。私にちょうだい。
正宗の心は、私がもらう。
この世界が終わる最後の瞬間に、正宗が思い出すのは、私だよ」
これ、すっごくムズカしいお芝居なんですよね。
というのもコトバの奥に、
いろんな感情が綾のように折り重なっているからなんです。
・まぼろし世界に五美が心を残さないようにとの、深い愛情と配慮。
・本能的な独占欲・オンナとしてのプライド。
・ミライに向けて進んでいける五実に対する羨望・嫉妬。
・五実を『心から愛しあった二人の娘』にしてあげたいという願望。
・自分はこの子と離れ、まぼろし世界で生きていくんだ、という決意。
そういう、きれいだったり汚かったりムジュンしていたり、
いろんな感情がぐちゃぐちゃに折り重なったセリフであるわけです。
いやほんと、アリストテレスよりムズカしいかもです。
このあたり、上田さん、すっごくいい処理をされています。
そこにいたるまでの睦実とは、言葉の硬度がチガウ。
既視聴者で、ここが突き刺さった方、けっこう多いんじゃないかしら。
上田さんって、最近ゆるふわ系の役どころを控えめにして、
重め・イタめのお芝居に挑戦される機会がおおいように感じるんですが、
その心意気がビシビシ伝わってくる好演でした(←何様発言)。
{/netabare}
音楽は、劇伴ふくめ、いい感じ。
作品世界に違和感なく自然に溶け込み、
映像や脚本のよさをうまくブ-ストさせています。
で、ラスト、中島みゆきさんの『心音(しんおん)』はナミダちょちょぎれ。
アニメ映画への楽曲提供なんかしたことなかった中島さんに、
岡田カントクがダメもとで制作を依頼。
で、脚本を読んだ中島さんがびっくり仰天、
逆に岡田カントク推しになる
みたいな感じでジツゲンした奇跡のコラボレーションであります。
作品世界の楽曲化、
という点ではYOASOBIさんが超有名ですが、
この曲は、それに勝るとも劣らない出来かと。
拙がここまで駄文を並べてぐちゃぐちゃ書いてきたことが、
この数分間の楽曲に全て凝縮されています。
いやまいった。こんなん、拙のク〇レビューなんかいらないじゃん。
{netabare}
ちなみにラスト、
成長した五実が工場跡で正宗の描いた絵を見つけることで、
まぼろしだった見伏町が消失してしまったことが暗示されています。
(だからこそ、正宗が現実世界に干渉できたわけで)
オトナになった五実は、そのことをおだやかに受け止めます。
これは悲劇なんかじゃない。
それはほんとうに大切で、かけがえのない思い出だけれど、
いつか消え去る『まぼろし』だったのだから。
この、あるイミ残酷で、圧倒的で、抗いようのないゲンジツ。
そして、ただ一人ミライへ進んだ五実が立ち去り、
誰もいない『からっぽになった』工場が、静かに暮れていきます。
ここに『心音』とか、
いやもう、演出すごすぎ、完全にゲージュツですやん。
{/netabare}
というような感じでありまして、
ホント興行的にはパッとしなかった本作なのですが、
見どころはけっこう満載なんじゃあるまいかと。
王道美少女が一人も出てこないので、
そっち系の方々にとっては『邪道』な作品であるのですが、
たまには邪の道を歩んでみるのも一興では。
ひょっとしたら、
ジブンでは気づいていなかった自分のセーカンタイが、
いい感じにシゲキされるかもしれませんしね。
(いや、コジン的なアレは知りませんけど)