ノスタルジックで異世界なおすすめアニメランキング 2

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早速見ていきましょう!

88.0 1 ノスタルジックで異世界なアニメランキング1位
蟲師(TVアニメ動画)

2005年秋アニメ
★★★★★ 4.1 (1966)
10548人が棚に入れました
「蟲」(むし)は作者の創作であり、我々が一般的に知っている「虫」いわゆる「昆虫」ではない。「蟲」とは、我々の世界でいえば幽霊や妖怪のような存在がそれにあたり、霊能力者を「蟲師」(むしし)という「蟲」専門の医者、かつ研究者、退治者としている。
時代設定については「鎖国を続けた日本」、もしくは「江戸期と明治期の間にある架空の時代」といった所との事。ゆえに作中においては、登場人物は主人公を除いて全員和装をしており、登場する風景も日本の原風景を思い起こさせるようなノスタルジックなものとなっている。
本作は、「蟲師」である主人公ギンコが「蟲」により引き起こされる様々な謎を解き明かしていく物語であり、基本的に一話完結で物語が構成されている。

声優・キャラクター
中野裕斗、うえだゆうじ、土井美加
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.4

独特の世界観って何さ?

あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。

 おもしろいですよね、『蟲師』。成分タグに「独特の世界観」というのが付いていました。私も同感ですね。色彩とかだけじゃなくて、世界観が独特なんですよね。

 『蟲師』を見るたびに思い出すことがあります。我が家にホームステイしていた、アメリカ人の大学生のこと。
 彼は『蟲師』を題材にレポートを書いていました。彼に頼まれて、そのレポートの日本語チェックをしてあげたんですが、文法以上にいろいろ気になったんです。私たちが感覚的に分かっている『蟲師』の世界観を把握できていないように感じました。彼も『蟲師』が「独特の世界観」であると主張していました。
 果たして私(たち)と同じ意味で使っているのか…。これがこのレビューの主題です。

↓畳んでるけど、ネタバレはないよ。

<彼の世界と私の世界>{netabare}
 彼は、とある一神教の教徒です。比較的敬虔な。まぁそれはいいのですが、「まず神様がいて、神様に模して造られた人間がいて、その他」みたいな序列を、傾向として持っている。そのせいかどうかは分かりませんが、彼は勝敗やランクを付けるのがとても好き。支配と管理と序列の世界。これが「彼の世界」です。

 一方、私は神様が何かなんて気にもしない。あえて言うなら、コントロールの出来ない不可侵なもの。つまり、よく分からないもの。環境みたいなものです。世界を「神様→人間→自然」という序列じゃなくって「人間と人間を取り囲む環境」という比較的フラットな関係で見れる。これが「私の世界」です。
{/netabare}

<蟲師の世界>{netabare}
 「蟲師の世界」には、2種類の人間います。一部の例外を除けば、蟲師である蟲が見える人間と、一般人である蟲が見えない人間に分けられます。「蟲師の世界」を考えるには、特別な存在である蟲師の視点で見てはいけませんよね。まずは作中の一般人の視点で見る必要があります。主人公のギンコが蟲師であったり、私たち視聴者にも蟲が見えていたりするために、ややもすると忘れがちですが、「蟲の見えない世界」が基本にあるんです。

 『蟲師』の各エピソードを見たときに、蟲が全く見えないことを想像してみてください。何が起こっているか分からなくて、ちょっと怖い。でも、ただそれを受け入れるしかないですよね。これが作中の一般人が見ている「蟲師の世界」です。つまり、蟲が神様だとは言えないまでも、「コントロールの出来ない不可侵なもの」という人間を囲む環境として描かれているってことです。これは「私の世界」に酷似していますよね。

 『蟲師』を見たときに感じる日本っぽさというのは、着物を着ているから、というのではなくて、その題材となっている迷信を含めて、精神世界が私(たち)になじみやすいからのような気がします。
{/netabare}

<独特の世界観①>{netabare}
 『蟲師』は「私の世界」と近いものであるはずなのに、「独特の世界観」を感じてしまう。この感覚はどこから来るのでしょうか。

 見えないはずのものが見えてしまう、というのは理由にならないでしょう。
 このような作品は、たくさんあります。例えば「妖怪もの」がそうですよね。妖怪も本来は見えないため、一般人にとっては「環境」みたいなものです。つまり、「妖怪もの」も「私の世界」が根底にあるわけで、「蟲師の世界」と基本構造は同じと言えます。でも、「妖怪もの」に「独特の世界観」があるって言われることって、あまりないですよね。見えないはずのものが見えてしまうことは、重要ではないように思われます。

 蟲が特殊でしょうか? そう思っていたのですが、これは誤解のようです。
 蟲も妖怪も、自然現象・生物・病など様々な概念を持っています。つまり、概念的には違いがない。姿かたちが特殊だというのなら、いびつな妖怪が出てくる作品には全てに「独特の世界観」タグが付くことになってしまいます。でも、これは少し乱暴ですよね。
 仮にですが、蟲は妖怪ですって作中で説明されていたとしても、『蟲師』に「独特の世界観」タグはついていたと思うんです。つまり、蟲っていう存在が「独特の世界観」を作っているわけではなさそうなんです。


 『蟲師』を「独特の世界観」にしている原因は、おそらくギンコです。ギンコという主人公が特殊なんです。
 「妖怪もの」では、主人公が妖怪を「環境」として見るのではなく、まず友人や敵として相対します。意思疎通ができなかったとしても、妖怪との対話が前提としてあるんです。そういう世界観が作品としての魅力になっている。
 でも、『蟲師』では蟲との対話をせずに、蟲という環境を介して、人間と相対することが主題となっているんです。

 もし仮に、ギンコが蟲とバトルを始めたら、これはもう「妖怪もの」ですよね。つまり、「私の世界」を起点に「妖怪もの」ではなくて「独特の世界観」にしているのは、蟲ではなくてギンコなんです。ギンコが蟲という異形のものに見せる態度が「独特の世界感」を作っているんです。
{/netabare}

<独特の世界観②>{netabare}
 『蟲師』にも、「彼の世界」の住人がいます。環境である蟲をコントロールしようとする人々です。彼らは、基本的には不幸になっちゃいますよね。作者はこっちじゃないよって言っている。
 「私の世界」の住人は、一般人ですね。蟲という環境に翻弄され、耐えるだけです。現実世界の私たちと同じで、目に見えないものを環境として受け入れることしかできません。
 「独特の世界観」の住人は、ギンコとギンコというフィルターを通したときの私たち視聴者です。

 ギンコは、蟲と対話をしません。話しかけることはありますが、あれは独り言みたいなもので、対話が成立しているわけではありませんよね。でも彼は、意思疎通のできない蟲に対してとことんやさしいわけです。どんな悲劇が蟲によって引き起こされても、絶対に蟲を責めたりしません。蟲っていうのはバトルの相手じゃなくって、環境だから。人の業を嘆くことはあっても、蟲に怒りをぶつけたりしないんです。

 視聴者も同じです。『蟲師』の各エピソードは、人の業に蟲の影響が絡んで、嬉しかったり、悲しかったり、切なかったりするわけですが、蟲が起こすことだから、そういう世界だから、視聴者は「しょうがない」と割り切っちゃえるんですね。何人かのレビューを拝見しましたが、誰も蟲を責めてはいませんでした。ギンコと同様に蟲を環境として受け入れているから、蟲に対してやさしくなろうしなくても、無自覚にやさしいレビューが書けるんだと思います。

 これって実はすごいことですよね。もし現実世界で蟲みたいな存在が目に見えていたら、私はそれを受け入れられる自信はありません。実際、虫の一匹にもあたふたしているわけですから。そんな蟲を無条件で受け入れられるギンコは、とても異常な存在なんです。
 でも、視聴者はギンコを介して蟲を見ることで、その世界に自身を投影し、蟲を受け入れてしまっているのです。ギンコにも視聴者にも、異形な「環境」が見えている。見えているのに、バトルの相手にせずに、なお環境のまま「しょうがない」と受け入れている。この異形のものを受け入れる姿勢が「独特の世界観」の正体なのだと思います。
{/netabare}

<独特の世界観③>{netabare}
 意外かもしれませんが、この「しょうがない」って感覚、留学生にはなかなか伝わらないんですよ。「it can't be helped」や「i have no choice」なんていったら「あきらめるな!」なんて返されたりもする。「that's life」や「whatever will be will be」もなんか違う。英語にぴったりの訳語がないんです。

 私たちが「しょうがない」って思うとき、あきらめと同時に受け入れていると思うんですよ。あきらめなきゃいけない状況で、怒るでも耐えるでもなくて、許容してる。この「環境を許容する」「許す」って感覚が英語には入っていないんです。

 ギンコっていうのは、蟲という存在を「許し」てしまっているんです。まさに究極の「しょうがない」の体現者であるわけです。蟲が起こす全ての結果を受け入れる度量がある。だから人にも気遣えるし、やさしくもできるんです。それが私たちの琴線を揺さぶるんだと思います。

 これは『蟲師』の面白さに関連していると思います。この作品てどこが面白いの、と聞かれても答えるのはなかなか難しい。私は、一つの話が完了したタイミングで「面白い」と感じています。面白いシーンがあるのではなくて、一つの話が全体として面白い。ギンコが蟲を受け入れて、私がその世界を受け入れる。その調和する一点が、この作品に感動を生んでいるように思えます。
{/netabare}

<まとめ>{netabare}
 彼にとっては、この辺を整理するのがとても難しい。
 彼も『蟲師』は面白いって言っていました。この辺の感覚は私と大差ないと思います。純粋に人間の物語を楽しめている。でも世界観を説明するとなると難しいんですね。不都合な蟲を屈服したくなってしまう。私が無視してしまう蟲の定義とかにもこだわってしまう。感想文ではなく、レポートを書こうとすると瓦解してしまうわけです。

 私が言う「独特の世界観」っていうのは、ひねられた世界です。「私の世界」を「妖怪もの」とは別方向にひねっただけで、根本は変わらないんです。「蟲って何?」って聞かれたら「よく分からないもの」って答えておけば、もう「私の世界」に入れることが出来るんです。その上で「蟲だからしょうがないね」って言っておけば、ギンコが作る「独特の世界観」を充足することができるんです。

 でも、彼が言う「独特の世界観」というのは、「彼の世界」とは別世界って意味なんです。「彼の世界」をひねっただけでは到達できない世界なんです。一度「彼の世界」から乖離して「私の世界」に到達しなければいけない。その上で「しょうがない」って感覚を学ばなければいけないんですね。

 おそらくですが、彼が蟲師を理解するためには、『もののけ姫』をきちんと解釈できるレベルが必要になると思われます。
 『もののけ姫』というのは、人間が自然に対抗しようという対立から始まります。そして、両者が共存へと導かれる物語です。ここでの話に合わせるなら、「彼の世界」から始まり、「私の世界」に至る物語です。
 一方で、『蟲師』というのは、自然や環境との対立を必要とせずに、初めから受け入れ、その上でどうやって折り合いをつけて行こうかって物語なんです。『もののけ姫』の先にある、「私の世界」だけを舞台とした物語です。
{/netabare}

<おわりに>
 多文化主義ってよく言われますけど、言葉でいうほど簡単じゃないですよね。毎年留学生が来る頃になるといつも思います。表面的な感情の部分は共感できても、根の深いところで価値観の違いを感じます。

 もちろん彼に「私の世界」について考える素養がない、というのではありません。「彼の世界」と「私の世界」について考えるときに、10-0でどちらに振れるか、ではなくて、7-3とか6-4とかのバランスの話です。個人的なものなのか、社会的なものなのか、宗教的なものなのか、それは分かりませんが、人の持つ思考のクセみたいなものがどちらに向いているのか、という話です。
 これはもちろん私にも当てはまることです。私も海外の映画とかを見ても、宗教的な象徴物になんてなかなか気付けないですからね。それでも楽しいと言ってしまう。まぁ理解できないのはお互い様ってことです。

 ちなみにですが、日本人とアメリカ人とか、東洋と西洋とか、そんな大層なことをいうつもりはないですからね。あくまでも私と彼の個人的な「独特の世界観」に関する話です。みなさんが考えている「独特の世界観」とも違うかもしれませんしね。あしからず。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 23
ネタバレ

小歌 さんの感想・評価

★★★★★ 4.6

幻想的な和風奇譚

 全26話 ※原作未読
世界観、エピソード、声優、作画や背景美術、音楽…
全てが素晴らしかった。
どこを切り取っても高クオリティで感嘆する。
1話完結型なので、毎話、短編映画を観たかのような余韻に浸れます。
日本の民間伝承や民俗学的な雰囲気が好きな人には本当オススメ。
私的に特に魅せられたのは音響効果。
山に棲む動物の鳴き声、雨風、葉擦れ、衣擦れ、木床の軋み、
土や雪を踏む音など…ヒーリング効果がハンパない。
あと、中野さんの淡々とした演じ方が
ギンコが醸し出す異質さと合ってて、とてもクセになります。
お気に入りの話は「柔らかい角」と「筆の海」。

 * * *

 ■第1~10話■
{netabare}第1話 緑の座
 {netabare} 動植物よりも生命そのものに近い存在・蟲。蟲師のギンコは、描いたものが具現化する“神の筆(ひだりて)”を持つ少年・しんらを訪ねる。そして彼の家にいる、元は人間だった蟲の少女・廉子(れんず)。彼女の正体は、蟲の宴で光酒(こうき)を飲み蟲になった、しんらの祖母だった。実に日本的な、自然と人が調和した世界観。良いねぇ。 {/netabare}

第2話 瞼の光
 {netabare} 光に当たると目が痛む病に罹った少女・スイと、彼女を倉に預かり世話をする少年・ビキ。彼女の瞼に棲まう蟲を取り除いたギンコは、闇を見過ぎて使い物にならなくなった彼女の左目に自身の義眼を与える。スイに見えていた、1話でも登場した光酒が流れる川・光脈(こうみゃく)は、シシ神様的な存在意義があるのかな。 {/netabare}

第3話 柔らかい角
 {netabare} 静かな冬の人里で片耳が聞こえなくなる症状が相次ぐと、村長の白沢から依頼を受けたギンコ。原因は蟲の“吽(うん)”によって音を食われていたためだった。しかし白沢の孫・真火(まほ)だけは、蟲“阿(あ)”によって額から生えてきた角から聞こえてくる大量の音に悩まされていた。音響効果が素晴らしい仕事をしていた。 {/netabare}

第4話 枕小路
 {netabare} 予知夢を見るという男・ジンに夢を見なくなる薬を渡したギンコ。1年も経たぬうちに再び訪れたその村は荒れ果てていた。ジンに棲みついていたのは予知夢を見せる蟲ではなく、見た夢を現実にする蟲“夢野間(いめののあわい)”であった…。ギンコも判断を見誤ることがあるんだなぁ。初めて平和的な結末じゃなかったね。 {/netabare}

第5話 旅をする沼
 {netabare} 透明な水のような蟲“水蠱(すいこ)”は、死に場所を求めて海へ向かうため“生き沼”となる。そんな生き沼と旅する緑髪の少女・いお。海に辿り着けば沼もろとも彼女も溶けて消えてしまう…ギンコはいおを救うため、海辺の街医者で収集家でもある知人・化野(あだしの)の手を借りる。旅費は蟲関連の珍品売って稼いでたのね。 {/netabare}

第6話 露を吸う群れ
 {netabare} 昼顔の花のように1日だけの命を毎日繰り返す少女・あこやは、“生き神”として島の住人に崇められていた。彼女を救うため、幼馴染の少年・ナギに呼び寄せられたギンコは、昼顔を巣とする蟲を発見する。生き物によって寿命は違っても、生涯脈打つ回数は同じ…ほへー。人生観について考えさせられる話。 {/netabare}

第7話 雨がくる虹がたつ
 {netabare} ギンコは虹を捕まえるため旅をする男・虹郎(こうろう)と出会い、しばしその旅に付き合うことに。前回が命の時間について考えさせられる話なら、今回は生き方について考えさせられる話ってとこか。蟲“虹蛇(こうだ)”に魅せられた虹郎の父が、病床で詫びながら彼に新しい名前をあげようとする回想場面で泣きそうになった。 {/netabare}

第8話 海境より
 {netabare} 海蛇のような群れに舟を囲まれ靄の向こうに消えた妻を、浜辺で2年半ものあいだ待ち続けていたシロウ。ギンコの言葉をきっかけに新たな自分の人生を歩み始めたが、再びあの時のような靄があらわれ…。なんだろう、前向きな結末なんだけど、なんかモヤッとするのは。奥さんだけが浮かばれないからかな。 {/netabare}

第9話 重い実
 {netabare} 天災の年に豊作となる代わりに、1番弱い者が贄として死ぬという村を訪れたギンコ。犠牲となる人間に生えてくる“瑞歯(みずは)”が、豊穣をもたらす次の“ナラズの実”になることを村で唯一知る祭主は、自らが犠牲になることでこの連鎖を断ち切ろうとしていた。ギンコが不老不死を解決策としたのは意外だった。 {/netabare}

第10話 硯に棲む白
 {netabare} 化野が所蔵していた硯を使った子供たちが、体温が下がり続けるという症状に見舞われる。解決策を探るため、ギンコはその硯を作った職人・たがねのもとを訪ねる。化野先生、再登場。硯から蟲を追い出せば霰が降ることは分かってたんだったら、もっと場所考えた方が良かったんじゃ…と思ってしまった。 {/netabare}{/netabare}

 ■第11~20話■
{netabare}第11話 やまねむる
 {netabare} とある霊峰近くの村人達からの尊敬を集める蟲師・ムジカは、人でありながらその山の主(ヌシ)を務めている。しかし密かにクチナワを呼び寄せ、自分の命と引き替えに主の座を明け渡そうとしていた…。今までで1番ジブリっぽかったな。旧山の主の大猪とか特に。ムジカが主になった経緯はある意味悲劇だと思う。 {/netabare}

第12話 眇の魚
 {netabare} 土砂崩れに巻き込まれ母親を亡くした少年・ヨキは、白髪隻眼の女蟲師・ぬいの世話になる。近くの沼には“トコヤミ”という闇の姿をした蟲と、その中で光を放つ蟲“銀蠱(ぎんこ)”がいた。ギンコの過去話キタ。彼の特殊な容姿の謎などが明らかに。ギンコにはもうぬいとの記憶がないんだと思うと、切なさが増す。 {/netabare}

第13話 一夜橋
 {netabare} ゼンと駆け落ちの途中で橋板が崩れ、谷底へ落ちたにも関わらず生還したが精神は抜け殻なハナ。彼女には蟲“ニセカズラ”が憑いているため、今も生きた状態なのだった。蟲が離れて彼女は死に、ゼンはギンコと共にニセカズラの群れによる“一夜橋(ひとよばし)”を渡り村を出ようとするが…。ハッピーエンドも観たい… {/netabare}

第14話 籠のなか
 {netabare} ギンコが出会ったのは竹林から抜け出せないという男・キスケ。真っ白な竹の姿をした蟲“間借り竹(まがりだけ)”と人間の間に生まれた子・セツと夫婦になり子をもうけ竹林の中で暮らす彼だが、家族で里に戻りたいと言う。安堵はしたけど少し異様にも感じるラストだった。蟲と人間のハーフは“鬼子(おにこ)”と呼ぶそうな。 {/netabare}

第15話 春と嘯く
 {netabare} すずとミハルの姉弟に、雪の夜に世話になったギンコ。弟のミハルは蟲が見え、冬のある日を境に春まで目覚めないという。しかし1年後に再びギンコが訪れた時も未だにミハルは眠り続けており…。冬仕様ギンコの色っぽさよ。彼が土地を早く離れたがるのは蟲のせいだけじゃないんだろうと思うと切ない。 {/netabare}

第16話 暁の蛇
 {netabare} 渡し守の少年カジから、母のさよが日毎に記憶を失くし、夜も眠らずにいるという相談を受けたギンコ。彼女は“影魂(かげだま)”という蟲に記憶を食われていた。食い尽されないために記憶を増やすようギンコから助言を受けた親子は、行商から戻らぬ夫を探しに旅へ出るが…。傍目から見て幸せなのか気の毒なのか…。 {/netabare}

第17話 虚繭取り
 {netabare} 蟲師が伝達に使用しているのは蟲“虚(むろ)”を閉じ込めた1対の虚繭(むろまゆ)。片方は蟲師が持ち、もう片方を管理し文を虚繭に送る役目を担うのは綺(あや)という少女。彼女は5年前に虚穴(むろあな)に飲み込まれた双子の姉・緒(いと)の帰りを待ち続けていた。蟲師の伝達手段が明らかに。ギンコの予想に反して綺の願いが報われて良かった。 {/netabare}

第18話 山抱く衣
 {netabare} 絵師を志して里山を出た塊(かい)。姉が持たせた着物の羽裏に故郷の山を描いたことをきっかけに頭角を現し、10年後には有名絵師として名を馳せる。そうして里帰りした塊を待っていたのは…。とても希望のある終わり方。故郷は大切にしなきゃね。ギンコが蟲ついてない着物を化野に売りつけてるのには笑った。 {/netabare}

第19話 天辺の糸
 {netabare} 人と蟲の境にいる状態の娘・吹(ふき)を保護したギンコ。彼女は蟲“天辺草(てんぺんぐさ)”に触れたため蟲寄りの存在になり普通の人には見えないでいたが、ギンコの介抱によりほぼ回復する。まだ不安定な状態の吹を人として繋ぎとめておくよう、恋人の清志朗(せいじろう)へ注意を促すが…。愛の力だねぇ。穏やかな話が続くと反動が怖い。 {/netabare}

第20話 筆の海
 {netabare} 禁種の蟲を体内に宿して生まれてくる者がある狩房(かりぶさ)家。蟲がいる右足には墨色の痣があり、その蟲を封じるため蟲師から伝え聞いた“蟲を屠(ほふ)った”話を書き記す“筆記者”となる。四代目筆記者・淡幽(たんゆう)は、蟲に侵されながら蟲を愛し、文字の海に溺れるように生きていた。淡幽さん素敵。ギンコとの関係も良い。 {/netabare}{/netabare}

 ■第21~最終話■
{netabare}第21話 綿胞子
 {netabare} 奇病に侵された我が子を助けてほしいと依頼されたギンコ。ワタヒコというその子や他の兄弟は実は人ではなく、蟲“綿吐(わたはき)”の一部であった。衰弱しているのは寿命がきたからで、胞子を飛ばす前に殺さなくてはならない。長男の時はその対処に同意した夫婦だが…。今までで1番物騒で不気味な絵面だったな。 {/netabare}

第22話 沖つ宮
 {netabare} 死にかけた者を“竜宮”と呼ばれる海淵に沈めると、同じ姿で再び生を受ける…“生みなおし”という現象が起こる島を訪ねたギンコ。そこで世話になった澪という女性も自身の母を生みなおし、娘として育てていた。死生観を問われる内容。でも「露を吸う群れ」ほどの暗欝さはなく、前向きな感じで良いね。 {/netabare}

第23話 錆の鳴く聲
 {netabare} 住民を含めあらゆるモノが赤い錆に覆われた村。この症状の原因は、しげという少女が発する声に含まれる特殊な層の音に魅かれて来た蟲“野錆(やさび)”であった。周囲から病の元と敬遠され、声を出さぬよう暮らすしげに、ギンコは解決策があると告げ…。真面目なシーンで男女の機微に茶々入れるギンコに笑った。 {/netabare}

第24話 篝野行
 {netabare} 蟲師・野萩(やはぎ)が暮らす里の付近で、謎の草が大量に生えてくる。作物に影響が出るのを恐れた野萩たち住民は草を根絶するため、ギンコの制止に構わず山を焼く。しかしその焼け跡から蟲“ヒダネ”が陰火(かげび)となって放出され、却って住民たちは危険に晒されることに…。自業自得というか、ビターな展開だった。 {/netabare}

第25話 眼福眼禍
 {netabare} 蟲を弾き語る琵琶師・周(あまね)。生まれつき盲目だった彼女は、蟲師の父が持ち帰った蟲“眼福(がんぷく)”を目に宿したことで視力を得た。しかし次第に見えないはずのものまで見える千里眼となったその両目を、周は葬ろうと決めていた。目玉が抜け落ちるシーンは4話を思い起こさせる。真綾さんの語りは耳心地が良いね。 {/netabare}

第26話(最終話) 草を踏む音
 {netabare} 沢(たく)の家は光脈筋にある山一帯を代々守ってきた。その山に梅雨の時期だけ滞在する不思議な一団“ワタリ”は、光脈筋を辿って移動し、蟲の情報を蟲師に売るのを生業としていた。その中で年頃の近い少年イサザと、沢は交流を持つようになる。ちびギンコ再登場。淡々としつつ穏やかで良い終わり方だと思う。 {/netabare}{/netabare}

投稿 : 2024/11/02
♥ : 12

シェリー さんの感想・評価

★★★★☆ 3.8

生きる苦しみ、辛さ、哀しさ

陰から生まれ、陰と陽を行き来するもの、蟲。
話すことも思考することもない、彼らと人との関わりを描いた作品。

場所はおそらく日本で、時代はけっこうむかしのこと。
まだ人々の生活が農業を主体とした、ほとんどその日暮らしのような生活をし、藁葺の家に貧しく住んでいた頃だ。
周りで聞いたことも見たこともない奇妙で奇怪なことが起こるところに不思議と彼はやってくる。
やや長めの真っ白な髪に細身で長身。大きな木箱を猫背に背負い、煙草を飲みながら歩き回る。
片目はその白髪に隠れて、もう片方の目は緑色ににぶく光る。見るからに怪しい男。
口を開くと意外にも話のできる者だった。
だが、一度気になることに食いつくとその口調は幾分鋭くなり、物事のまたは人のこころの核心を軽々と突く。
そいつの名はギンコといった。忘れもしないさ。生業は、そう、蟲師だ。


 独自の世界観を持つ本作。それは日本的で、というよりむしろ日本人でないとなかなか理解できないよう内容が多い。
 物語は1話完結で淡々と進んでいく。話の雰囲気は基本落ち着いている。登場人物たちの動きや話す言葉はとてもゆっくりで、バックにかかる音楽もその静寂とした空気を包みこむ。よく聴いていると、彼らの動きと話す言葉のテンポは一定に保たれており、水平的リズムが重んじられていることに気がつく。間であり、空白である部分は―それは絵においても―作品の細部でありながら、根幹にもなっている。それらが幾重にも重なり、一本の大樹となるのように細部が集まることで1話が成っている。
 話の構成はほとんど変わらない。脚本家によって多少の差異はあってもこの作品の構造上、あまり変えようがないのでプロットもほぼ似たようなものである。
 この作品が、「唯一無二の独特な雰囲気を持った、人を惹き込む高度な仕掛けのされた作品」なのか、「内容とテーマに即して無駄を一切省いたことで表すことができた、侘・寂に自然と惹かれる作品」なのか。それとも「無駄とできるだけのことを削ぎ落として作られただけの作品」か。僕にはその判断はできない。しかし音楽や絵、それらを上手く回した演出の良いもの、数ある話数の中でもとりわけ出来の良い話では、内容と完全に同化するところまでいっているので流石である。となると、その面白さは内容に左右されるのかもしれない。そうなるともう好みの問題だから他人の立ち入るところではない。これは示唆だ。

 全体がテンポの良い進行ではあるが、それぞれの話は違う。蟲の影響を受けた人々をギンコが助けていくという単純な話に落ち着かないのが本作の醍醐味である。話の終わりはハッピーエンドもあれば、手の施しようがなくやるせないままに終わることも少なくない。それぞれの、いわば短編の中で感じられることは実にさまざまであり、どこの誰の行動、言葉に感動するのかも人それぞれだ。また、ひとつの話の解釈も人それぞれなのかもしれない。なぜならば、1話1話から受け取ることのできるものは、そこに表面化していること以上にあるからだ。筆者は話の「答え」を書いていない。ただ、小説を書くように仮説を積み上げて終わっている。正義を語るものがいる訳でもなければ、きちんとした「正しさ」もない。そこでは登場人物たちの様々なエゴや、モラル、価値観などが、ほとんど手放しの状態である。共同体はあっても体制のない割と自由な環境であるために彼らの採る決断の幅は広い。だからこそ、この「哀しみを含んだショートショート」は自由な解釈ができ、僕らはそこに人の持つ本来の温かさと、ある瞬間に人が向けるものすごく冷たい残酷さを感じることができる。そして、必ずそこには哀しみが死霊のように付きまとう。


 『蟲師』が描こうとしたものが一体何であったのか。さっきも言ったように受け取り方は人それぞれなので、その一例として聞いてほしい。
 改めて言うとこの話は、ある昔の、おそらく日本という時間も場所も不特定なかたちで描かれ、蟲という異形なモノを登場させて語られている。話の主人公はギンコというこれまた異形な男である。彼の異形性はおそらく、人と蟲の中間的存在であることのメタファーであると僕は思う。そしてそれが示すもの、または彼の役割というのは、「なにも憎まない」「すべてはあるがままに」である。人も蟲もただ生きているだけであって、何か影響を及ぼしてしまったとしてもそこに意志がなければ悪意もない。ベトナム戦争や地下鉄サリン事件のような、見るに絶えない人の醜さ、悪、悲しみはそこにはない。互いはそこに存在しているだけであるということをギンコは主張し、彼もまたそれを受け入れている。それはニュートラルな彼が言うからこそ、説得力が増す大事なことである。「なにも憎まない」「すべてはあるがままに」
 ちなみに、ここだけでなくそれぞれの話に色んなメタファーを見ることもできるかもしれないが、僕はそんなに深く潜る必要もないのではないかと思う。話の事実だけでも僕らにとって、それらは新しい感触のものであり、教訓や誰かに深く共感し感じ取れるものがたくさんあるからである。僕はそれだけでお腹いっぱいです。だからメタファーの話はこれでおしまい。
 本題は蟲のこと。蟲というもの登場させて何をしたか。
 ひとつには、謎です。ミステリー。話の中になんだかよくわからないものを登場させることで観る人の気を引きます。それが非現実的で神秘的なものほど興味を注がれることで、探究心に近いものが生まれます。視聴者が、その存在との距離をもっと近づけるべくそれについて自然と考えるようになれば、作品としては喜ばれることであり、人気の証であり、世界観の創造に成功したことになります。実際に惹かれますよね、蟲って。
 そして、蟲を話の中に登場させることにより、作者が最も描きたかったものは何か。それは「人が生きること」。
 この作品を観て、単なる蟲の話ではないことが多くの人にも伝わったように、蟲の奇怪さ、不思議さを描く一方で、それぞれの話に出てくる様々なものの考え方を持った人達がいて、異なった環境に住む人々が主人公となる。主題はこちらにある。彼らは1人として同じ人ではいない。だから身の回りで起こった理解できない不思議なことの原因が蟲だと知らされてからの反応もさまざまである。受け入れる人、拒む人、喜ぶ人、嘆く人、利用する人、求める人。ただでさえ生きるのに必死な時代であって僕らの生活から比べれば、もし何かが起きて、”どうにかできること”というのはまったく少ないはず。そこにさえ蟲の影響が地の底から手を伸ばしてくる。理不尽な運命が日常を暴力的に奪っていく。まるで天災か何かのように。まさにそのとき、世界の縁に立たされた自分はどうすればいいのだろうと考える。本作の言いたいことというのはここにあると僕は思う。外から防ぎようのない力が自分または愛するものにその矛先を向けたとき、たくさんのことを考える。それは実際的なことであり、形而上の愛や倫理についてである。そして決断し、行動に移る。このプロセスで思い悩む人間の姿こそが、この作品の表現として秀でているところであり、「蟲」を通すことでよりドラマチックに、また悲劇的に描かれるのである。


とても好きな作品です。
まだ見たことない人であれば、どこでもいいので試しに1話観てみれば好き嫌いが分かると思います。
もし気に入ったのであれば、ぜひ心ゆくまでお楽しみあれ。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 28

66.3 2 ノスタルジックで異世界なアニメランキング2位
星を追う子ども(アニメ映画)

2011年5月7日
★★★★☆ 3.6 (648)
3188人が棚に入れました
ある日、父の形見の鉱石ラジオから聴こえてきた不思議な唄。誰かの心がそのまま音になったような唄を、忘れられずにいた少女アスナに訪れたひとつの出会い。お気に入りの高台に向かう途中、異様なケモノに襲われたアスナはシュンという少年に助けられる。アガルタという遠い場所から、どうしても会いたい人と見たいものがあってやって来たと語るシュン。2人は心を通わせていくものの、突然シュンはアスナの前から姿を消してしまう。そして聞かされる哀しい知らせ。それを信じられずにいたアスナは、学校の新任教師モリサキから地下世界の神話を教えられる。そこはこの世の秘密が隠されたあらゆる願いが叶う場所で、アガルタとも呼ばれているという。そんな中、アスナの前にシュンに瓜二つの少年と彼を追う謎の男たちが現れる。男たちの狙いは、アガルタへの鍵であるクラヴィス。追いつめられた少年とアスナの前で、ついにアガルタへの扉が開かれる。そこでアスナは、男たちのリーダーが亡き妻との再会を切望しアガルタを探し続けていたモリサキだったということ、少年がシュンの弟シンだということを知る。アガルタへの入り口を目前にして、アスナはある決意をする。「もう一度、あの人に会いたい」。アスナ、モリサキ、シンの3人はそれぞれの想いを胸に、伝説の地へ旅に出る―。

声優・キャラクター
金元寿子、入野自由、井上和彦、島本須美、日高里菜、竹内順子、折笠富美子
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.3

新海作品ファン向け

あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。

 初見でした。2時間のファンタジー作品です。
 宮崎駿監督(庵野監督も?)のオマージュなのはよく分かりましたし、やりたいことも何となく伝わって来ました。秒速と違う作風にチャレンジしたことは良かったと思います。でも、正直に言って面白くなかったですね。有名作品をオマージュ出来るほどの構成力はなかったです。

ストーリーについて:
 ブラックアウトして気が付くとシーンが変わって・・・という表現が複数回使われていたのが気になりました。これじゃあストーリーをつなげられないと宣言しているようなものです。視聴者が置いてけぼりになってしまいます。
 象徴物もよく分からなかったですね。{netabare}トンボの交尾、妊婦の先生と来て、最後の二人が食べられるシーンでケツァルトルも妊婦っぽく描かれていたような気がします。が、やっぱりよく分からない。この後、アスナとシンが実質的に再生し、祝福を受けるというのは分かります。でもそれならケツァルトルだけの表現で事足ります。トンボを使うとすべての生命の賛美みたいな感じになるけど、そういうテーマを強く感じることはなかったです。妊婦の先生は次に来るモリサキを意識して、ストーリー全体に係っていると取れなくもないけど、複数回登場させるほどの重要性は一切感じなかったですし、むしろ混乱しました。先生が妊婦であることが何の効果も持てないなら、むしろテーマを背負わせる描き方をすべきではなかったと思います。モリサキは新しく来た図書館の司書くらいで十分です。{/netabare}
 メインテーマも分かるのですが、それはキャラクターのセリフに表れているからというだけで、作品の中で「表現」として出ている類のものではないです。著名な監督たちが1分1秒を大事に作品を作っていることに比較して、無駄が多いと言わざるを得ないように感じました。

作画:
 キャラクターの動きは良かったと思います。ジブリっぽさ以前に、新海作品でキャラクターの動きが特別悪いと思ったことはありません。
 むしろ気になったのは背景ですね。写真をトレースして描ける部分はさすがにきれいです。しかし、建物や遺跡、室内のデザインなどはオリジナリティが感じられませんでした。どこかで見たことあるようなものばかり。オマージュを通り越してコピーに近いです。地下の風景も星空と草原と水ばかりでいずれも地上と何ら変わらないものでした。つまり、風景はトレースで、建造物はコピー。新海監督の中にあるオリジナルのファンタジーの世界を見つけることは出来ませんでした。

キャラクター:
 ベースは悪くないのですが、掘り下げられてないとは思いました。
 唯一、お母さんの描き方は無駄もなく、とても良かったと思います。{netabare}お母さんは家に入る前に煙草を吸っているのですが、足元のある吸殻は1回の量ではないようでした。つまり、毎日家に入る前に吸ってはいる。娘を気遣っているよりは、娘に会うのをためらっているように見えました。朝食のエピソードもそっけない感じでしたしね。アスナの寂しさの原因の一つであることは十分に伝わってきました。その後、娘と同世代の子の死に触れ、夫の死を思い出し、エンディング近くで娘への祝福、そして娘を送る姿となっていました。登場シーンは少ないですが、過不足ない描写で上手い描き方をしていたと思います。{/netabare}
 一方でお父さんの設定は全然活きてない。マナもいまひとつでした。シンの描き方も全然ダメだったと思います。つまりファンタジー側の人物表現が上手くないんですよね。ファンタジーの設定を活かせないとなると、キャラクターに魅力があるとは言い辛いです。

総評:
 ファンタジーとしては駄作だと思います。

対象年齢等:
 メインターゲットの10代の人にオススメする要素は乏しいです。大人の視聴に耐えられる作品ではないように思えます。
 ただ、新海作品の風景に価値を見出せるなら大丈夫でしょう。純粋にファン向けの作品だと割り切って視聴することを推奨します。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 7

hiroshi5 さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

私にしては珍しく作品内容では無く、今作品の見方について語ってみた

酷評が多いこの作品ですが、個人的にはかなり気に入っている作品です。
ジブリの雰囲気をかなり醸し出していますが、どこかに新海誠監督を連想させる何かが張り巡らされている感じでした。
特に時々描かれる鷹やツバメなど秒速と同じ技法を使っているな〜と思わずにはいられませんでした。

キャラの方は特に不満はありませんが、これはちょっとジブリを意識し過ぎた感が否めませんねw
私としては秒速や雲のむこうと同じ感じのキャラで良かったのですが・・・

音楽、作画は共に素晴らしいデキで、これだけで十分見る価値はあると思いました。
新海さんの作品はホント見てて和みます。

さて肝心の物語の方ですが、私は世界観を楽しむには合格を、感情移入からのキャラ視線で内容の合理性を楽しむには不合格を上げたいと思います。

まず世界観から↓
この作品で注目されてるジブリ風作画&物語ですが、私はまったく問題無いと思っています。
私もジブリの作品は大好きで、ラピュタなどは今でも見た時の感動を覚えています。
ラピュタやもののけ姫はその圧倒的なストーリー展開と誰もが夢見る架空世界をハイクオリティーで表現しています。
しかし、実はこの両作品を見る度にリメイクしないかな〜なんて思ってた訳です、私は。なぜなら古いだけあって、物語のスケールの大きさに作画が追いついていない感じが見るたびに伝わってくるからです。特に背景。ラピュタの風景を今の立体感溢れる作画技術で表現したらどんな凄い作品になるんだろうか・・・なんていつも考えてました。
そんな時に登場したのが今作品!
出てくる化け物はもののけ姫作品内に存在する化け物そっくり!しかも壮大な世界感はラピュタのよう(ナウシカなど他の作品も含む)。
まさに待ち望んでいた展開がそこに存在していましたw
実を言うと、最近のジブリの作品(ボニョやアリエッティーなど)はあまり好きではなく、どうしても昔の大作と比べてしまっていました。ブランドが同じなだけに、期待値がどうしても高くなってしまうのです。
しかし、この作品がいくらジブリに似ていようと、監督が新海さんなのには違いありませんから、比べる対象にならないんですよね。

内容がいくらジブリに似てようが、ジブリの大作を下回ろうが、新海さんの素晴らしい作画とジブリの壮大な世界観が楽しめるんなら十分だと思うんですよ。
ということで、今作品はジブリの新海風リメイクと考えれば見応えのある作品として捉えることが出来ると思います。

あと、まったく関係ないんですが最初に化け物が現れ、シュンがアスナを助けるシーンがどうしても亡念のザムドと重なってしまい、笑ってしましましたw

さて、本題に戻ります。
感情移入からのキャラ視線で内容の合理性を楽しむには不合格と申し上げた理由を書きたいと思います。
これは、既に多くの人がレビューで書いていましたが、キャラの詳細な説明がなさ過ぎましたね。
特に先生、アスナ、シュン、シンなどの重要キャラクターのバックグラウンドが足りなかった。
確かにこの物語の焦点が「生と死」にあるから、そこまでキャラクターの詳細設定を語らなくて良いかもしれません。
しかし、視聴者は主人公であるアスナが何を求めてアガルタに行っているのか映画の途中になるまで理解できません。他のキャラとの関連性も薄く、シュンとの関係もあそこまで深くなる理由がいまいち納得いかない。

やはり今作品は世界観や作画を楽しむべきだと思います。
この作品のテーマである「生と死」に関しても、あまりにキャラ説明が少ない為今ひとつ来るものがないですしね。人を基準に、または合理性を基準にするとホント色々訳の分からない点がぞくぞく出て来るのが今作品です。
だからこそ、(私にしては珍しく!)今作品は内容重視ではなく、その不確かな、しかし圧倒的な設定が作り上げる世界感を楽しむべきなのだと私は思う訳です。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 14

大和撫子 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.9

それは、"さよなら"を言うための旅

もしホントに地球の地下に私達の知らない世界があったら、それはすごくロマンのあるお話ですよね♪

◆この作品の内容は・・・
主人公の女の子アスナはある日、見た事もない怪物に襲われるのですが、そこで不思議な青年に助けられます。
その青年は『アガルタ』という遠い世界から来たらしく、アスナはその青年と仲良くなります。
しかし仲良くなった矢先に、その青年が死んでしまったという話をアスナは聞かされます。
悲しむアスナですが、転任してきた教師から恋人を生き返らせる為に地下世界に行く神話を聞き、『アガルタ』の名を耳にします。
そして地下世界『アガルタ』に行くことに・・・。

◆この作品を見る前にまずはここを予習 p■qω・´)シャキーン・・・
『イザナギとイザナミの伝説』
はるか昔、天上界には神々が住み下界には大地がなく海だけが広がっていた頃、天上界の偉い神様はイサナギとイザナミという2人の神様に島作りを命じました。
2人は結婚し本州・四国・九州などの島々を生んでいきました。
島々が出来上がると次はその島を治める神様を生んでいきました。
風の神様、石の神様、山の神様など・・・そして火の神様も・・・。
でも火の神様を生んだ時にイザナミは大やけどをして、その火傷が原因で死んでしまったのです。
悲しんだイザナギは黄泉の国の奥深くに行って、死んだイザナミを見つけて、一緒に地上に帰ってほしいと頼みました。
イザナミは「黄泉の国の神様に地上に帰る事を頼んでみるから、それまで私の事を決して見ないで」と言いました。
でもイザナギはその約束が守れずイザナミを見てしまいました。
イザナミの体は・・・腐敗してウジ虫が湧いた醜い姿に・・・。
醜い姿を見られたイザナミは怒ってイザナギを殺そうとしました。
イザナギはなんとか地上に逃げ帰り、地上と黄泉の国の出入口を大岩で塞ぎました。
このお話は『古事記』に記された日本の神話ですが、似たような死の世界・地下世界のお話は世界中にありますよね。
有名なのはギリシャ神話のオルフェウスの伝説。
そしてこの作品で登場する世界が地球空洞説で有名な『アガルタ』という地下世界なのです。

◆タイトルの意味は・・・
地下世界の話なのになぜ星?
星は私達には決して手の届かない場所にあります。
新海監督がいつも作品に込めるテーマは「喪失」。
この作品は死者を取り戻そうとするお話、でもそれは星を掴むような話ですよね。
星を追った先にあるものは果たして?

◆声優陣は・・・
渡瀬明日菜  : 金元寿子(侵略!イカ娘のイカ娘)
シュン&シン  : 入野自由(あの花のじんたん)
森崎竜司    : 井上和彦(夏目友人帳のニャンコ先生)

◆総評・・・
ジブリ作品にいろいろな面で似てると言われてますが、\(・_\)その事については(/_・)/端っこに置いといてっと。
余計な先入観がこの作品の本質を見誤る恐れがあるので^^;
地下世界へ旅立つという物語。
まずはこの設定に非常に興味が持てました。
『アガルタ』という未知なる場所、そこにどんな世界が広がっているのか?
普段は何事も起きないような平凡で静かな田舎町の風景から始まり、我々の知らない未知なる地下世界を広大で神秘的に描く映像美の美しさは目を見張るものがあり、地下世界の冒険をワクワクさせました。
それだけに地下世界の冒険の内容が薄く感じてしまったのも否めませんでした。
この冒険劇を劇場版の2時間枠でなく、もっと長い尺で描く事ができたらもっとスケール感の大きい物語になったに違いないと思ったので、そこが残念でした。
とはいえ未知なる世界への冒険劇に加え、「喪失」を描く新海監督らしさが終盤には非常によく描かれていて、なかなか面白い作品でした。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 27
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