ディストピアでSFなアニメ映画ランキング 2

あにこれの全ユーザーがアニメ映画のディストピアでSFな成分を投票してランキングにしました!
ランキングはあにこれのすごいAIが自動で毎日更新!はたして2024年11月06日の時点で一番のディストピアでSFなアニメ映画は何なのでしょうか?
早速見ていきましょう!

76.3 1 ディストピアでSFなアニメランキング1位
楽園追放 -Expelled from Paradise-(アニメ映画)

2014年11月15日
★★★★☆ 4.0 (890)
4660人が棚に入れました
われわれはどこから来たのか われわれは何者か

われわれはどこへ行くのか――。

地球はナノハザードにより廃墟と化した。

その後の西暦2400年、大半の人類は知能だけの電脳世界ディーヴァに生きていた。

電脳世界に住む捜査官アンジェラは、

闘力を誇るスーツ・アーハンを身につけ地上に初めて降り立った。

そして地上調査員ディンゴと共に地上のサバイバルな世界に旅立った。
ネタバレ

ossan_2014 さんの感想・評価

★★★★★ 4.6

だれが楽園追放したの? それは私と………

【ちょい長いです】

久しぶりにSFアニメを観た気がする。
(疑似)科学的な設定がストーリーを支え、絡み合ってこそのSFだ。
支えているのがハーレム設定だけというのでは、やはりSFとはいいがたいだろう。

素材となるのは、データ化され仮想空間に生きる実存、科学力により分断され階層化された社会、{netabare}自律進化する人格を獲得した人工知能、{/netabare}
といった今ではお馴染み感のある設定の数々。
だが料理は素材だけでできるものではない。材料をどう調理するかの技法が味を決める。

人格を電子化し仮想空間の中で人々が「生活」する『マトリクス』的な社会ディーヴァ。
『マトリクス』と違うのは、そこで「生活」する市民が、データ化された自分とその仮想化社会の事実に自覚的なこと。
そこにハッキングを仕掛けるフロンティアセッターとの電脳戦から物語は幕を開ける。

このフロンティアセッターのハッキングの追跡から、アンジェラが地球へ降下するまで一気に描写する製作者の手際の洗練具合は、非凡と言っていい。
スピード感がありながら、この世界の構造と、内在しているキャラクターにとってどういう世界であるのかという世界観まで、視聴者を立ち止まらせることなく、説明してしまう。
ただストーリーを追って観ているだけで、世界観が分らなかったり、誤解してしまう視聴者はほぼ居ないだろう。
これは映像的なセンスのみならず、脚本が秀逸で、セリフに使われる言葉の一つ一つまで吟味しつくして選択していることによると思われる。

この脚本の緊張感は、最後まで途切れることはない。物語のどの段階でも、背景で何が起きているのか、世界のどの部分が展開されているのか、把握できてしまう。
が、いたずらに説明的なわけではない。
映像的な楽しさにひきつけられて観ているだけで、自然に伝わってくる巧みな描写がなされている。
殊に終盤のバトルで、幻惑的なアクションの連鎖を堪能させながら背後の状況を二重映しにしてサスペンスを盛り上げるのは、並外れた描写力といえる。


さて、このように抜群の技法によって、既視感のある各種のSF設定の素材は、いかなる調理がなされているのか。


{netabare}人工知能であるフロンティアセッターは、自然的な人間と対立的にとらえられることはなく、むしろ「人間」そのものであると肯定される。

そもそもデジタルデータの集積である人工知能は、ディーヴァ内でデータ化されて仮想化されている「人間」と同型的な存在だ。仮想現実化した実存を「進化」と強弁する思想の下では、むしろ生物的な根拠を持たないフロンティアセッターのほうが「進化」した人類ではないかという見方すらできる。

それゆえ、『マトリクス』的な仮想世界は、『マトリクス』のようには、単純に自然性に対立するものとして、作中で自動的に否定されるものではない。

むしろ、自然性による自動的な否定を相対化するものとして、「人工知能」フロンティアセッターは方法的に導入された印象がある。

最終的にディーヴァから離脱するアンジェラだが、その「人工性」と「自然性」との正否からディーヴァを否定したという風には描写されない。
彼女の決断は、むしろ個人的で趣味的な気分から決断をしたような印象を与える。

彼女の否定は、仮想化の是非ではなく、その「管理」の在り方に向かっているようだ。
別にデータ化して仮想化社会で「生きる」ことに不満はないが、あの「管理」は気に入らない。

楽園とも自己宣伝するディーヴァ社会だが、楽園が楽『園』である限り、管理は必須の条件となるだろう。管理がなければ、「園」は荒野と変わるところがないのだから。
楽「園」を維持する管理は、あたかもミシェル・フーコーの生権力的な形態をモデル化しているようだ。
仮想現実化社会に、生まれた直後にディーヴァによって電子化されて投入される実存は、そこでの「生存」を望む限りディーヴァの管理当局による指示に従わざるを得ず、管理から逸脱した価値観を持つことは原理的にできないように設定されている。

「存在」がシステムによる「電子化」に根拠づけられているため、「生存」したいという当然の欲求は、管理の要求する「社会貢献」という評価基準を内面化していくほか実現させる道はない。

「生きる」ための価値観と行動が、すべて管理の正当性を強化する力をもたらす社会は、我々の「社会」を連想させ、おそらくこれを暗示するものだろう。
「生きたい」という自然な欲望が、「管理」の承認を支えて強化してしまう社会。

エンドロールの途中のパラグラフで、保安局はさらなる管理の強化と離脱者の防止を決意する。
生権力の本性をうかがわせる描写は、ますます我々の社会との類似を暗示しているとの印象を高めるとともに、どこか既視感がある。

電脳化システムを独占することで全住民の「生存」を支配し、基準を設けて「住民」を選別、その基準と管理を一手に引き受け、「排除(凍結)」する権利を担保する社会は、いわば全住民が潜在的に収容所に監禁されているのと等しい。
離脱者までも管理を強化する契機に利用し、権力を司る保安局員が神話的アバターで現れる権威づけは、「真実」を体現する「党」によって指導、管理される、収容所共産国家に酷似している。

我々の社会でも「社会に有用な存在であれ」「社会に貢献できないものには、何も与えることはない」「この当たり前のことを否定するものは、社会から排除せよ」と主張する人が目立って多くなっているようだ。

ディーヴァ社会でも通じそうな主張をするこの人たちが、躍起になって否定するサヨク的なものの根源である収容所社会が、この我々の社会を思わせるディーヴァ社会と似ているのは皮肉なことだ。

だが、当然のことながら、「社会」の外には世界が広がっている。
社会の評価と承認が無ければ「社会内」では存在できないが、外部世界は必ずしもそうとは限らない。

地球に降り立ち、その社会や住人、さらには数百年を「管理」なしで自立進化し続けてきたフロンティアセッターとの出会いにより、内面化されていた「管理」の有効性を懐疑し始めたアンジェラは、「管理」=生存の保証ではないことに気づき、受肉した地球上の存在へと自己を投機する。
繰り返すが、仮想現実社会への正邪の審判ではなく、その「管理」への趣味的な回答として。

ある意味究極の外部「世界」=深宇宙を目指すフロンティアセッターは、一切の評価も承認もなく目的を完遂する。
そう、内面化した「社会の基準」ではなく、この私の、私自身の内部から湧き出してくる「衝動」こそが、世界での生存を支え得る。

外宇宙へと旅立ったフロンティアセッター。首尾よく成果を上げる可能性は極微だし、たとえ成功したとしても文字通り天文学的な時間ののちに帰還したところで、称賛や承認を与える人類は、もはや存在していないだろう。

それでも、陽気に歌いながら、むしろ楽しげに旅立って行く彼の姿は、彼を動かすのは自身の衝動であり、社会の評価や制度化された承認など問題ではないことをよく示しているのではないだろうか。
趣味的に離脱を決断したアンジェラもまた。

このように「楽園から追放」された彼女たちだが、じつは「追放」されたのは仮想現実都市のほうかもしれない。


最後に特記しておきたいのは、無機的でありながら奇妙な人間性を絶妙に感じさせるフロンティアセッターを表現した、神谷浩史の力だ。
固有の風貌も持たず、フレームのデジタルデータの集積が本質である、人工知能という抽象的な存在が、一種の人格をもってスクリーン上に受肉し得たのは、神谷浩史という肉体を通過した声なくしてありえない。{/netabare}

現代の声優の演技は、ここまで高いものになっていたのかと再認識した。

若手俳優やタレント主体のドラマや映画がどう頑張っても、これほどの演技レベルに追い付くには、ちょっと絶望的な差を感じる。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 10
ネタバレ

生来必殺 さんの感想・評価

★★★★★ 4.3

お前の魂、ロックオン

最終進化を遂げた新世代の人類代表エリート捜査官と
地に足のついた旧世代の地球人と所属不明 謎のハッカーとの
奇妙な三角関係で描かれるサイバーパンクの物語。

サイバーパンクとは本来SFというジャンルに属するものであるが
その本質は、サイエンス糞喰らえ!
サイエンス技術の理論的写実性要素に傾倒したリアリティなど金属バットで粉砕!
という風にアンチSFな精神が不可欠な構成要素であるという宿命を有する。

そもそもSFという言葉の定義が曖昧なのが問題だと言えばそれまでだが
サイバーパンク作品において科学主義的屁理屈は必然的、予定調和的に破綻する。
サイバーパンクにおいての科学的な理屈とは、荘厳な趣をもったバベルの塔のような
破壊されるべくして建築された矛盾した装置である。
その一方で、塔崩壊のカタルシスを最大化するためには塔の構造を強固にする必要があるのだが
構造上に全く欠陥がなければ倒壊しないという矛盾も起こり得てしまう。
簡単に倒壊しないが、倒壊し得る構造の塔を設計するのがパンクな作者の腕の見せ所と言えるのだろう。

本作においての「バベル」の描写は至ってシンプル、ありがちな王道的設定。
しかしながら、奇妙な三角関係によって描かれるストーリーが洗練されすぎて驚愕。
もの凄くシンプルに、もの凄く先鋭的に、もの凄くわかりやすく、サイバーパンクの本質が描かれている。
下手に小難しい専門的用語やら、(文学はいいとしても)生物学の学説の引用とかの羅列・・・
今までのサイバーパンク作品は、一体何を描こうと足掻いてきたのか?と虚しくなる程。

地に足の着いたロックンローラーの一言は、理論武装したサイエンティストの弁明より強し。
この脚本家の実力はやはり本物で、台詞がイチイチと印象的で五臓六腑に響きやがるのだ。
{netabare}SF主義を金属バットで粉砕するような描写が正しいあり方であるとは限らないが、反骨魂は絶対に必要な要素である。{/netabare}

サイバーパンクなんて時代遅れな感覚の作品で今更誰からも評価されない
と思い込んでいたがのだが、
本作を見て前言撤回。
本作をきっかけにもう少し難易度が高いものも見てみるのもよいかもと思うに至る。

私見だが、SFとは本来空想科学小説のことを指し
ハリウッド映画が持ち味とする映像的説得力を重視した作風とは
相容れない、例えばフランケンシュタインの物語などがそのプロトタイプと
考えるべきだと断言したい。


攻殻など他作品のネタバレ、批判等々を羅列。閲覧要注意!
{netabare}
攻殻原作者が拘った「GHOST IN THE SHELL」とは何であるか?
アーサー・ケストラーという人が提唱した「Ghost in the machine」
(機械の中の幽霊)という論説にちなんだもので
もともとはギルバート・ライルという人がデカルトのコギト(的人間機械論)を揶揄する意図で
表現した言葉「機械の中の幽霊」をケストラーが逆手にとって
「機械の中の幽霊」はいる!と反論を展開した説に影響を受けた考えであろうと推測。
デカルト的観念論の中でのコギトとは自我というよりも霊魂に近い位置づけであり
それ故にデカルト的観念論に全く理解を示さない立場の人たちはデカルト的機械論の浅はかさを批判。
それに対してネオ・デカルト主義者のケストラーは、より緻密で高度な人間機械論を示すことで反論
物心二元論の霊魂と肉体の連動率がより高い持論を展開した。

「GHOST IN THE SHELL」すなわち、人工的な外殻、機械的な構造の身体、サイボーグであっても
霊魂と連動するのであれば生身の体を持った人間となんら変わらないわけだから
人間の本質はゴーストにあると言い切れるわけで、そうであるからこそサイボーグ技術などの
サイバネティクスという人工的装置が意味を持ち始めると考えられる。
銀河鉄道的機械人間はどこまで行っても機械人間にすぎないという意見に対して
問題の機械人間の非人間的性質は機械伯爵の自我、霊魂のあり方に起因するものであり
すべての機械人間が冷酷で非人間的あると決まったわけではない。
機械のボディも生身のボディも霊魂の指令によって機能するものであるから、という風に。

ネオ・デカルト主義者の願望は霊魂の対物連動率の高さだけに特化していたのだろうか?
劇場版攻殻 GHOST IN THE SHELLで少佐は、人形使いと融合し、ネットワークシステムとも融合し
世界そのものとも融合?しすぎて、軽く人間を超越してるわけだが
イノセンスで還ってきた少佐は確かに人間的ではあったかもしれない。

とは言え、GITSの続編イノセンスの主人公はバトーであるから
バトーが何者であるか描ければそれで十分目的は果たせるのだ。
サイバーパンク的重苦しい空気の中で彼の飼い犬がやたらと無駄に愛くるしく描写されているのは
流石というべきで、ディンゴとフロティアセッターの対話中で見えてくるディンゴの人間性のように
飼い犬という鏡を使ってバトーの(犬への)愛着心が鮮明に描かれている。
ドライにせよとの忠告にもかかわらずドライに行けないバトーの生き甲斐は、飼い犬と
守護天使との再会だけなのかもしれない。そんな彼の魂のあり様はある意味イノセンスなのかもと感じた。

STAND ALONE COMPLEXとは何か?
その厳密な定義についてはここでは敢えて見送りたく思うが
趣旨としては「GHOST IN THE SHELL」という発想を
本家のアーサー・ケストラーが展開した「ホロン」という概念を用いて説明する
複合階層構造的機械論を「STAND ALONE COMPLEX」という言葉に置き換えて
「攻殻魂の存在」を理論的に補強、説得力を持たせようとしたのだろうけど・・・
社会現象とか、社会システム論的な受け止め方をされて、逆効果だった感がある。

全体は個から成り、個は全体に属するのだけど
全体に個と同じあり様の霊魂が存在するという発想は今の感覚的には受け入れられないような気が・・・
{/netabare}

楽園の記憶は魂に刻まれ、空の彼方に回帰を願う
{netabare}
サイエンスフィクション的物語の中でロック魂と仁義だけで奇妙な人間の在り様に
説明がつくという一撃必殺技の切れ味に驚愕。
アンジェラはFセッターの行動原理を人間的な使命感やプロ意識的なものとして
理解するのだが、保安局員とハッカーが相互理解を深める展開には若干無理がある。
自然かつ効率的に敵対するはずの二者の距離感を縮めるための仲介者として
ディンゴの役回りが良く効いていた。
三角関係による魂の共鳴現象、共鳴連鎖により必殺の大技!摩人狩り!?
ではなく、楽園追放から地上に受肉、大地を踏みしめ生きる一人の人間が誕生。

Fセッターは限りなく人間臭く限りなく人間に近いロボットである。
人間的ではあるけれど、人間と同じ霊魂をうちに秘めてはいない。
使命感的なプログラムと少し楽観的な未来予想のシミュレーションを実行することはあっても
フロンティアの夢は見ない。
肉体という牢獄にいながら、無限の宇宙の夢を見るのは人間のみに与えられた能力なのだ。

タチコマやFセッターと草薙少佐やアンジェラの決定的な違いは何か?
それは機械やマシーンが人間の忠実なしもべであり、プログラム通りに動くのに対し
人間は、例えば彼女たちのようにエリート街道を今まで順調に歩んで来たとしても、
その道を離脱して我が道を進む決断を下すことができる点にある。
もちろんロボットが人間に反逆を起こし人間の存在を脅かすようなSFの話は
過去に腐るほどあるのだが、その反逆はプログラムのエラーにすぎず、
プログラムされた目的と別の意図でロボット自身がフロンティアを目指し
ロボットのための文明・社会を作るようなことはあり得ないだろう。
何故ならロボットには人間のように生存本能がなく、歴史や文化を積み重ね
継承することに意味を見出せない存在だからである。

Fセッターは人間と共存する関係性の中でロックを演奏することはあっても
プログラムされた道を放棄してロックンローラーの道を歩む選択はしない。
{/netabare}

投稿 : 2024/11/02
♥ : 18
ネタバレ

mrt さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

自分の価値を自分で見極める

電脳化された人類が住まう楽園『ディーヴァ』に
地上から幾度も現れる謎のハッカー……
フロンティア セッターと名乗るそのハッカーを探し出すため
ディーヴァ保安局の三等官アンジェラ・バルザックは、
旧世代の遺物と化した『地上』へと降り立つ

__ディーヴァ__
電脳化した人類の楽園世界
この世界の人類は地上の人間に対して、進化の次のステージに進み肉体という枷から外れた高尚な存在。
生まれた時から1300時間は生身で、それ以後は電脳の魂となる。

__アンジェラ・バルザック__
諦めたことも弱音を吐いたこともない。
負けず嫌いな本作品のヒロイン
ディーヴァ保安局で三等官まで昇進
手柄を立て昇進することが自分の全て。
地上に取り残された人類は滅ぶ事しか出来ない旧世代だと思っている。


__ディンゴ__
旧文明の人類の地『地上』のS級エージェント。
今回の任務におけるアンジェラのオブザーバー
『素行は悪いが腕は確か』と評価されている。
その気になればディーヴァの『特待市民権』を獲得出来るほどの功績を持つ。何度か電脳化のオファーも有ったようだが…………。

__フロンティア セッター__
ディーヴァの治安を混乱させ、市民の不安を煽る存在
旧文明の人類の地『地上』からのハッカーであり、アンジェラからその目的は
『いずれ本格的な破壊工作を仕掛ける為の前段階の準備として、パニックの下地を整えようとしている』と考察されている。

__フロンティア・セッター(ネタバレ♪)__
{netabare} ジェネシスアーク号建設における進行管理アプリケーションに付随する自立最適化プログラムが行った2259341回目の自己診断アップデートの際に出現した概念。
『今から45629日と11時間前に発生しました』と自己紹介する
簡単に言えば、人工知能が自我を持ったということ。
現時点でジェネシスアーク号のプロジェクトを推進している唯一の存在。
本人は人類との平和的な交渉による相互理解を希望している。
ディンゴとは好きな曲が一緒で、何かと相性がよろしくみえる。
ちなみにその曲はもちろんEONIANです。

ジェネシスアーク号は光学明彩で隠蔽してある全長1200mの探査船である。

__フロンティアセッター計画__
地球環境の激変に備え、外宇宙に人類が居住可能な移民先をジェネシスアーク号によって探しだす計画
人類の新たな生存圏を獲得するためのプロジェクトが各国で多数並列に行われていた当時、互いが競争関係にあったため極秘裏に行われていた計画の1つ。
つまりディーヴァ以前の計画のためディーヴァは感知出来なかった。

フロンティアセッターがディーヴァにハッキングをした目的は、ただのプログラムにしか過ぎない自分だけで外宇宙探索に行っても、『居住可能な外宇宙探索に人類を送り出す』という当初の目的が果たせないため、一緒に行ってくれる人類を探していたが、ジェネシスアーク号の再設計による小型化の際に乗組員=『生身の人間』の搭乗スペースが無くなり、地上の人間は誘えなかった。
しかし電子パーソナリティーの生存圏となるメモリーの積載は充分に可能だったため、電脳化されたディーヴァの市民を誘おうと考えた。
更に、ディーヴァが外宇宙探索に意義を見出ださないことを予見し、ディーヴァとの正規の交渉ではなく、そこに居住する市民と直接的に交渉するためにハッキングという手段を選択するしかなかった。
攻撃はおろか、治安を乱す目的すらない。本人は『誠に遺憾』と語っている{/netabare}

以下ストーリーネタバレ
{netabare} 地上に降り立ったアンジェラとディンゴは、フロンティアセッターがディーヴァを易々とハッキングしている事から、ディーヴァとのオンライン接続抜きという状況下でフロンティアセッターの捜査をはじめる。

ディンゴの考えでは、敵がどうやって来たかより、
何をしに来たかが重要であるという。
フロンティアセッターがディーヴァハッキングの際に、必ずある主張を繰り返している事に着目する。
その主張とは
1外宇宙探索の同志となる存在をさがしている
2外宇宙探査船の準備は整っている
というもの。
アンジェラはこれに対し
1(ディーヴァ的にはメモリーの領域の限り資源を創造出来るため、わざわざ外部の宇宙まで出向く事はリスクに見合わない)
2(地上、つまりは旧世代の存在が上位種であるはずのディーヴァに悟られずその様な大規模なプロジェクトを遂行できるはずがない)
と反論する。
しかし、ディーヴァの特性として、1度不要と判断した情報は破棄されるので、ディーヴァの情報は完全ではない。そこに漬け込む余地がある。との見解を示し、続けて

わざわざ地上からディーヴァにアクセスする必要がある存在は、同じく地上から出る必要がある。
よって、ロケットの打ち上げに関わるような動きを警戒するべきだ。
と考え二人はロケット打ち上げに関係しそうな情報を集めはじめる。

そして、分解により亜酸化窒素になる硝酸アンモニウムを物々交換で集める謎の存在を知る。
(亜酸素窒素は液体酸素より扱いやすく、ロケット燃料の酸化剤は理想的なもの。)
二人が物々交換の現場で目撃したのは、遠隔操作されたロボットが硝酸アンモニウムを引き取りに来る光景だった。
衰退した地上にそんな技術を持つ者はフロンティアセッター以外考えられない!
二人は硝酸アンモニウムに仕掛けた発信器をたどり、とある廃墟にたどり着く。
そこに佇む一台のロボット……
そのロボットから発生した音声はこう告げた
『ようこそお出で下さいました。こちらに攻撃の意図は有りません。警戒を解いて下さい。』そして
『フロンティアセッター__その呼称は私に該当します__』……と。
{/netabare}

感想
以下ネタバレ
作品としてのクオリティは非常に高いと思います。この作品なら自信を持って誰にでもオススメできます。
個人的には、肉体についての価値観の違いの描写がとても気に入りました。
肉体を捨て、肉体では不可能な事象を体験でき、更に肉体を持つことによる弊害『疲労、病』等の枷から外れる事は素晴らしいと、ヒロインであるアンジェラは言います。
ディンゴはその主張を受け止め、それでも『メモリー』(個人に与えられる存在の容量)という枷から抜け出せず、より手柄を立てて、より多くのメモリーを獲得する生き方にしか価値を見いだせないアンジェラに対して『メモリーを稼ぐことが全てな、他人に値段を付けられる様な生き方であり、肉体の枷よりもっと嘆かわしい枷だ』と言います。
アンジェラの考えでは、より多くの功績を挙げた者により多くメモリーが与えられるのは当然で、そこに
懸命に努力を重ねたアンジェラのプライドと誇りを感じました。
私はどちらの主張も正しと思いますが、ディーヴァが楽園という存在であるか?という事については否定します。
個人の1と0で造られた魂。その存在の場所を確保するために
暗黙に競争を強いる傲慢な支配者だと思います。
逆にフロンティアセッターは最高ですね。
人類が電脳化された今、彼が自分で得た自我はより洗練された『人』だと思います。
って言うかディーヴァの完全上位互換でしょ。
アンジェラがこれから地上でディンゴとどんな人生を歩み、どのような幸せを手に入れるのかとても楽しみです。
フロンティアセッターには、胸を張って『私は人類だ』と言って欲しいです。
彼の旅路に素敵な出会いが有ることを祈ります(*^^*)

投稿 : 2024/11/02
♥ : 2

65.2 2 ディストピアでSFなアニメランキング2位
<harmony/>(アニメ映画)

2015年11月13日
★★★★☆ 3.7 (272)
1416人が棚に入れました
優しさと倫理が支配するユートピアで、3人の少女は死を選択した。13年後、死ねなかった少女トァンが、人類の最終局面で目撃したものとは?

声優・キャラクター
沢城みゆき、上田麗奈、洲崎綾、榊原良子、大塚明夫、三木眞一郎、チョー、森田順平

TAKARU1996 さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0

すばらしい新世界-Brave New World-

2015年11月27日記載
さっそくレビューを始めていきたいと思います。
今回は伊藤計劃『ハーモニー』の映画を観てきました。
私の個人的感想を徒然と書いていくので、よろしければご参考までにどうぞ。

まずは世界観説明から
2019年のアメリカ合衆国で暴動が起こりました。
それをきっかけとして全世界で戦争と未知のウィルスが蔓延
人類の多くが死に絶えたそれは「大災禍(ザ・メイルストロム)」という名前で後に語られ、その反動か、従来存在していた政府と言う概念は崩壊し、新たな統治機構「生府(ヴァイガメント)」の下で高度な医療経済社会が築かれる世界が誕生します。
そこに参加する人々自身が社会のために健康・幸福であれと願う世界が構築された、優しい牢獄の世界
これはそんな社会に反抗し続けた少女達の物語なのです…

さて、ここからは私の感想を書いていきたいと思います。
今回、正直言ってこのアニメはレビューを書こうかどうか大変迷いました。
伊藤計劃作品は全部レビューしていこうと、前回の『屍者の帝国』を観てから固く誓ったのですが、この作品を見てからはちょっと決心が揺らいだ位です(笑)
これは自分の個人的価値観のせいでもあるのですが…
まあ、その理由については下記の方で書いていきたいと思います。
なので、フォローも交えて説明していきますが、今回の『ハーモニー』のアニメ映画に好感を持てた方、百合というよりレズ描写、グロ描写が大好きな方、原作未読の方はもしかしたら納得できない部分も多々あるかもしれません。
なので、この先を閲覧するかどうかは自己判断でお願いします。





では、これより説明していきたいと思います。
大まかな理由として
1.理解する事と共感する事は違うという事
2.レズ描写の増加
3.小説から映画への転換と2に伴って起こる原作改変
この3つが挙げられます。

まず、1から
私は原作既読なのですが、正直に言って、原作を読んだ時は生命主義体制(ライフイズム)もミァハの思想も共感できるものではありませんでした。
何と言うか、ひどく極端なんですね…
生命を社会的公共財として捉える生府(ヴァイガメント)の理念も、ミァハの生命主義(ライフイズム)に対して行うテロ行為も客観的に見たらとても横暴なんですよ。
勝手な考えで人々を動かしているのはどっちも変わらないじゃんと最初に読んだ時は酷く冷めた目で感じていました。
なので、今回の映画で何か心が傾く要因となる物が出てくるか、少し期待して観に行ったんです。
観に行った結果として、私が揺り動かされる事はありませんでした。
むしろ、逆に横暴だと言う自分の考えがさらに強固になった次第です(笑)
うん、やっぱりどっちにも理解は出来るけど共感は出来ない。
しかし、この映画を見てどちらかに共感する人は必ず出てくると思います。
人間の考えは千差万別です。
むしろ当てはまらない自分みたいな奴が異端なのだと思います(笑)
なので、この映画を見てどう感じるか
生府(ヴァイガメント)の理念に共感できるか、はたまた、ミァハの理念に共感できるか、もしくはどちらの意見にも共感できないか自分の眼で見極めてほしい。
その為にもまだ観ていない方は是非、1度は映画館や後に出てくるであろうレンタルなどで観てほしいと私は思いました。

次は2について
単刀直入に言います、原作よりレズ描写が明らかに多いです。
原作では普通だった箇所もレズっぽくなってます。
また、新たに作ったのか、はたまた私が忘れているのか分かりませんが、自分の知らないレズシーンまでありました。
私は随分前に見た某アニメのおかげで、女同士の恋愛に対しては嫌悪感を覚えるまでのトラウマを抱えてしまったので、正直観ててつらかったです…
小説でも百合を1つの土台としてはいるものの、地の文と組み合わせて淡々と表現しているので、そこまで悪寒はしなかったのですが、映像化するとなると恐ろしいですね…改めてそう感じました(笑)
また、グロシーンも結構すごいです。
『屍者の帝国』よりも気持ち悪く感じました、精神的にきます、驚きます、血がドバドバ出ます。
これらが嫌いな人は少し覚悟して観た方がいいでしょう。
ああ、勿論大好きな方はどうぞ期待して観てください。

最後に3について
これがこの映画で1番納得できない部分でした。
1や2については主に私だけの個人的問題なのでいいのですが、この3だけは原作既読の方でも納得できない人は多いかと思います。
端的に説明していきましょう。
まず、説明セリフのオンパレードです。
未読の方はこの映画だけを観て理解できるのか、少し分かりませんね…
あまりにも喋っている場面が多いので、聞き逃すとストーリーが把握できなくなるかもしれないです。
映画として表現するにあたっての工夫があまり感じられないような気がしました。
ただ、小説をそのまま映像化しただけのような…
まあ、これは原作自体が説明の多い小説ですし、演出を吟味した結果なのだとしたらしょうがない事なのでしょう。
次に重要なシーンが結構抜かれています。
最初に上映した『屍者の帝国』も重要なシーンは抜かれていますし、映画では登場していない人物も数多くいました。
しかし、あの映画は再構成と言う形で未読の方にも分かりやすく伝わるよう工夫した結果、牧原亮太郎監督版『屍者の帝国』として生まれ変わったのです。
この点に関してはただ、素直に拍手を送りたいです。
さて、『ハーモニー』の映画はそれとは逆に原作を忠実に作りました。
ただ、その結果、フォローの回りきれていない部分があったように思います。
最初の物体は何なのか?
意識が消失すると言う細かい意味とは?
最後に登場した人物は一体誰なのか?
あんなにキャラクター達が喋っているのに、説明不足な点が多いですからね…
改めて、映画化するにあたっての難しさを感じたような気がします(笑)
まあ、しかし、やはり原作全てを映像化するのは不可能な事
2時間で収めるならば、所々カットしなければいけない箇所もあるかと思いますので、これもまた、しょうがない事でしょう。

しかし、これだけは言わせてください。
ラストシーンを変えたのは流石にどうでしょうか?
原作では霧慧トァンという1人の女性が御冷ミァハという女性の影をある種の執念で追い続け、最終的にはミァハからの独立、明確なトァンという1つの個へと至る物語でした。
しかし、この映画では最初から最後までトァンはミァハの事しか考えていません。
その結果、ミァハという自分に指針を与えてくれた親の如き存在から離れ、前に進んでいくトァンの成長というカタルシスがろくに感じられなかったのが心残りでした。
そして、最後に彼女はミァハに対して自分の答えを出す為にある行為をします。
その行為をした理由となる答えも原作とは変えられ、しかも原作の方が好きだったので、これもまたちょっと心残りでしたね…


以上を持ちまして、個人的感想を終了したいと思います。
ここまで長々とした駄文を読んでくださってありがとうございました。
今回は少し毒の強いレビューとなってしまったので、ちょっと残念です。
しかし、ここで1つ言っておきたいのですが…
この『ハーモニー』映画の全体的出来としては決して悪い訳ではありません。
上手く原作をまとめているなあと感じる部分もありましたし、改変でよかった箇所もありました。
恐らく、この作品は映画と小説、両方見て初めて完成する作品なのだと思います。

「事実は小説よりも奇なり」と言う言葉があります。
現実に起こる出来事は、作られた物語の中で起こる事よりも不思議で面白いものだという意味の諺です。
正直、私自身にとってみればあまり実感のない言葉でした。
その意味についても本当にそうだろうか?と首をかしげている普通の一般的な現代人です。
現実よりも小説の方が面白く感じる時もあるし、そんな考えに至るには、毎日、充実した日々を過ごすしかない。
だが、そんな幸福に溢れた生活などあり得ないと、その言葉を最初に学んだ時は斜に構えた眼で見ていました。
しかし、この映画を見てから、その諺の意味が少しだけ理解出来たような気がします。

よく考えてみると、この諺は決して現実と物語を分けてはいません。
物語は現実と断絶して存在している訳ではない。
確実にそれは読者にも何かしらの影響を与え、その結果、変わらない日常が変化していく人も中にはいます。
「影響」と言う言葉で片付けるにはあまりにも強い力
ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読んで自殺者が急増するように
坂口安吾の『堕落論』を読んで若者が新たな価値観を植え付けられるように
物語に感化された御冷ミァハから影響を受けた霧慧トァンのように
そして、伊藤計劃という個人の作品に没入している私達のように……
その結果、彼らは、私達はどのような方向へ導かれていくのか?
それは誰にもわかりません、歴史もしくは観ている我々、傍観者が判断するしかない事でしょう。
ただ1つだけ言えるとするならば
その力こそが現実を面白くさせる1つの起爆剤になるのではないかという事

それはこの映画からも同じことが言えます。
あなたは『ハーモニー』を観て、どんな影響を受けるでしょうか?
もしくは何も感じずに終わるでしょうか?
しかとこの目で確かめる為にも、この映画1度は見るべきかと存じます……

ここまで読んでくださってありがとうございました!!

「フィクションには、本には、言葉には、人を殺す事のできる力が宿っているんだよ、すごいと思わない?」
伊藤計劃『ハーモニー』p.224,早川書房


2016年1月24日追記
いまから語るのは、
〈declaration:calculation〉
〈pls:敗残者の物語〉
〈pls:脱走者の物語〉
〈eql:つまりわたし〉
〈/declaration〉 [ハーモニー]
と言っても、この映画については1年前に概ね語り尽くしましたね…
今作の批評も、今思えば感情に任せて書いた文章でございます。
しかし、よく考えたらそのスタンスは現在の自分と未だに変わっていないというか、未だによく行っている事に書いていて気付きました。
自分の理性的であり合理的な部分を占める成長は、この先「闇」しかないのかもしれません(笑)

しかし、この『ハーモニー』と言う映画
観ていてつくづく考えてしまうのは、社会を構成していく難しさです(ディストピア小説なので当然と言えば、当然の話なんですが)
より良い社会に住みたいと思う事は万人において普遍的な共通性ですが、しかし、その社会的「善政」が万人に良い効果をもたらすとは限らない…
構成員である人々誰もが「善性」であれば、社会は幸せになるのか?
『ハーモニー』と言う作品はそんな問いにも深く言及しているようです(まあ、私が1番好きなキャラはキアンなんですけど(笑))
しかし、社会は無理でも世界なら…
2人ぼっちの世界なら…
-----------------------------------------
彼女が死んでいく間、私は誓った。
天国とまではいわないけれど、できるかぎりここを、この場所を良くしてみせるよ、と。
彼女はそれを聞くと、にっこり微笑んだ。
そうね、天国とはいわないけれど、天国の隅っこくらいまではたどり着きたいわね、と。
それが彼女の最後の言葉だった。
伊藤計劃『The Indifference Engine』「フォックスの葬送」より
-----------------------------------------

さて、前作『屍者の帝国』から始まり、今作で分岐点を迎えた長いプロジェクトは来月の「終わりの始まり」を上映する事によって、遂に終焉を迎えます。
ここまで至る道は1年以上に亘った大変長い物でしたが、何、なんて事ありません。
人間の魂に及んだ解答が1年と少しで解明されたんです、こんなに短い物は無いでしょう…
しかも、どうやら深夜に『屍者の帝国』と『ハーモ二ー』が放送されるそうですね、こんなに嬉しい事は無いでしょう…
私も深夜放送で「終わりの始まり」に至るまでの雄姿をもう1度拝見し、それから最後の戦場、ジョン・ポールとの戦いへ臨みたいと思います。
そして、「伊藤計劃」の全てが揃ったその時はもう1度全体を観るとしましょう、読みましょう!!
「物語…それは死してなお、この世界にあり続ける技術」

-----------------------------------------
さあ、行進しよう、とぼくは穏やかに呼びかけた。
のろまも、せっかちも、思い思いに。
足並みなんてばらばらでかまわない。
のっぽも、ちびも、僕らは歩く。
丘を下って。
人の営み、生活の匂い
それを運ぶ涼やかな風の上方へと。
伊藤計劃『The Indifference Engine』「The Indifference Engine」より
-----------------------------------------

投稿 : 2024/11/02
♥ : 15
ネタバレ

ぽ~か~ふぇいす さんの感想・評価

★★★★☆ 3.5

クオリア論と哲学的ゾンビが題材なんですが映画だけ見ても伝わらないと思います

来週ついに虐殺器官が公開されるようなので
虐殺器官を見に行く前に<harmony/>を見ておこう
なんて考える人がいてもおかしくないので
それに「待った」をかける意味で書いておきます

この作品はProject Itoh3部作の第3作として公開される予定でした
しかし虐殺器官の制作会社であったマングローブが倒産した関係で
順番を前倒ししてこちらが先に公開されることとなりました

屍者の帝国は他の2作品とは関係ない作りとなっていますが
この<harmony/>は虐殺器官の事件が引き金となった「大災禍」
から数十年たった後の話となっており
「大災禍」という単語が当然知っているものとして出てきます

その意味が理解できなくてもそれほど困ることはないので
先にこちらを見ない方がいいというレベルではないのですが
虐殺器官を先に見ることができるのならば
本来予定されていた通りにその順番で見ることをお勧めします

私はこの作品の原作が伊藤計劃の最高傑作であると思っています
しかし同時に映像化にははっきり言って向いていない作品だと思っていました

伊藤計劃の持ち味と言えば細かすぎるほどのディテールです
綿密なディテールによって映像を伴わずにイメージを想起させ
近未来SFの世界の現実には存在しないガジェットを
リアリティを持った存在に昇華する天才でした

映像で伝えるのは大して難しいものでないところを
映像なしでイメージさせるところにそれが生かされているのであって
彼の筆記したものをそのまま映像化しても
単に情報過多なだけの印象で
その情報も画面の中で埋没してしまいました

原作を知っている人はある種の答え合わせをする楽しみがあるかもしれませんが
原作未読であれば物語の本筋から離れた要素は
おそらくほとんど頭に残ることなく進んでいくことでしょう
これはメディアの違いというやつで
小説であることに意義がある部分というのが強いです

屍者の帝国は原作通りであることよりも
映画として面白いことを優先し
<harmony/>の方は原作に忠実であることを優先した
という感じでしょうか?
残念ながら映像作品として面白いのは屍者の帝国の方だったと思います

そしてもう一つ残念なのが
小説全体を包み込むある種の叙述トリックが
まったく理解できるような状態になっていないという点

映画のオープニングとラストの映像は
小説を読んでいれば叙述トリック部分を映像的に表現するための
いわば苦肉の策だったことが読み取れますが
そうでなければ全く何が何だかわからないことでしょう
<harmony/>という題字の</>が示す意味を
映画だけを見て読み取るのは不可能です
結局その部分をうまく表現できなかったために
この作品自体何のために映像化したのか
いまいちよくわからないものになってしましました

このアニメはおすすめですか?と訊かれたら
私は迷わず原作を薦めます
原作を読んだうえでどんなふうに映像化されたのか気になる
そんな人だけにしか薦められない映画になってしまいました

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

映画だけ見た人は物語の意味が理解できないと思うので
ちょっとした解説を載せておきます
映画だけ見てわかるようにできていないので
わからなくて当然なんですけどね

屍者の帝国はスチームパンクな世界を舞台にしたゾンビ映画でしたが
実はこの<harmony/>もある意味でゾンビ映画なんです
{netabare}ただし、この映画に出てくるのは
一般にイメージされるブードゥー教のお化けではなく
哲学的ゾンビというものです

20世紀の終わりごろに流行った哲学論争に
クオリア論というものがあるのをご存知でしょうか?
残念ながら私にはクオリアをきれいに説明できる程の文才がないので
wikipedia先生に頼ることにします

{netabare}簡単に言えば、クオリアとは「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、主観的に体験される様々な質のことである。

外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕え、それが神経細胞の活動電位として脳に伝達される。すると何らかの質感が経験される。例えば波長700ナノメートルの光(視覚刺激)を目を通じて脳が受け取ったとき、あなたは「赤さ」を感じる。このあなたが感じる「赤さ」がクオリアの一種である。

人が痛みを感じるとき、脳の神経細胞網を走るのは、「痛みの感触そのもの」ではなく電気信号である(活動電位)。脳が特定の状態になると痛みを感じるという対応関係があるだろうものの、痛みは電気信号や脳の状態とは別のものである。クオリアとは、ここで「痛みの感覚それ自体」にあたるものである。

クオリアは身近な概念でありながら、科学的にはうまく扱えるかどうかがはっきりしていない。この問題は説明のギャップ、「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」などと呼ばれている。現在のところ、クオリアとはどういうものなのか、科学的な「物質」とどういう関係にあるのかという基本的な点に関して、研究者らによる定説はない。現在のクオリアに関する議論は、この「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」を何らかの形で解決しよう、または解決できないにしても何らかの合意点ぐらいは見出そう、という方向で行われており、「これは擬似問題にすぎないのではないか」という立場から「クオリアの振る舞いを記述する新しい自然法則が存在するのではないか」という立場まで、様々な考え方が提出されている。

現在こうした議論は、哲学の側では心の哲学(心身問題や自由意志の問題などを扱う哲学の一分科)を中心に、古来からの哲学的テーマである心身問題を議論する際に中心的な役割を果たす概念として、展開・議論されている。

また科学の側では、神経科学、認知科学といった人間の心を扱う分野を中心にクオリアの問題が議論されている。ただし科学分野では形而上学的な議論を避けるために、意識や気づきの研究として扱われている。{/netabare}

いまいちよくわからないという人が多いと思います
それもそのはず
クオリアが存在するかどうか?
という最低限の段階ですら
偉い学者さんたちが大論争して結論が出ていないので
詳しく知りたい方はちゃんと自分で調べてみてください

このクオリアが存在するのかどうか?
という哲学論争の中で生まれたのが哲学的ゾンビという思考実験です
こちらもWikipediaから

{netabare}哲学的ゾンビ(Neurological Zombie)
脳の神経細胞の状態まで含む、すべての観測可能な物理的状態に関して、普通の人間と区別する事が出来ないゾンビ。

哲学的ゾンビという言葉は、心の哲学の分野における純粋な理論的なアイデアであって、単なる議論の道具であり、「外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、その際に内面的な経験(意識やクオリア)を持たない人間」という形で定義された仮想の存在である。哲学的ゾンビが実際にいる、と信じている人は哲学者の中にもほとんどおらず「哲学的ゾンビは存在可能なのか」「なぜ我々は哲学的ゾンビではないのか」などが心の哲学の他の諸問題と絡めて議論される。

仮に“哲学的ゾンビが存在する”として、哲学的ゾンビとどれだけ長年付き添っても、普通の人間と区別することは誰にも出来ない。それは、普通の人間と全く同じように、笑いもするし、怒りもするし、熱心に哲学の議論をしさえする。物理的化学的電気的反応としては、普通の人間とまったく同じであり区別できない。もし区別できたならば、それは哲学的ゾンビではなく行動的ゾンビである。

しかし普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは、哲学的ゾンビにはその際に「楽しさ」の意識も、「怒り」の意識も、議論の厄介さに対する「苛々する」という意識も持つことがなく、“意識(クオリア)”というものが全くない、という点である。哲学的ゾンビにとっては、それらは物理的化学的電気的反応の集合体でしかない。{/netabare}

つまり哲学的ゾンビというものは
外からは普通の人間と全く変わりないように見え
実際の人間と変わらないように行動するが
クオリアを持っていない存在ということですね

もしもある日突然
世界中のあなた以外の全ての人が哲学的ゾンビになってしまったら
いったいどうなるでしょうか?

答えは簡単
何も変わりません
クオリアを持っているかどうかは外部からは判断がつかないのです

近年人工知能が発達し
2014年にはロシアのコンピュータがチューリングテストを突破しました
これはモニター越しに人工知能や人間と文字だけで会話し
応対していた相手が人間か人工知能か答えさせるテストで
30%以上の人に人間と会話していると錯覚させることに成功しました

哲学的ゾンビというのはこれの究極系と言っても良いでしょう
文字による会話だけではなく人間と同じ肉体を持ち
人間とまったく同じように行動します
感情は持っていませんが、感情表現はできます
あなたの隣にいる人が人間か哲学的ゾンビか
判定する方法はありません

話を物語に戻しましょう

ミァハの一族はチェチェンの奥地にある
外界から隔絶された陸の孤島の中でガラパゴス化し
クオリアを失い哲学的ゾンビとなった一族でした

ミァハがロシア兵に一族を虐殺されレイプされている際に
彼女の中に眠っていたクオリアが覚醒し
哲学的ゾンビから普通の人間へと変化しました

ミァハを調べた学者たちの手によって
脳のクオリアを司る部分が解明され
WatchMeを通じて全人類(一部の少数民族を除く)が
一斉に哲学的ゾンビに変わることになりました

というのが事件の全貌です

生府に所属する人々は
みな哲学的ゾンビへと変わってしまったわけですが
ではそれによって一体何が変化するか?

答えは先ほどと同じ
何も変わりません

生府に所属しない人々は
事件によって生府の人々に変化があったことにさえ気が付かず
クオリアの存在しない哲学的ゾンビと
今まで通りに接していくことでしょう

さてさて、我々が映画を楽しむように
哲学的ゾンビたちも類似品を楽しみます
いえ楽しんでいるように見えます
そんな彼らに人気の物語は
クオリアを持っていた最後の人間
霧慧トァンのWatchMeの記録を通じて
彼女の体験を疑似体験するプログラム
その名は<harmony/>

つまり自分たちが今まで見ていた映画は
哲学的ゾンビのための作品でした
というのがこの作品のオチなわけですね{/netabare}

投稿 : 2024/11/02
♥ : 16
ネタバレ

ハウトゥーバトル さんの感想・評価

★★★★★ 4.6

感謝を捧げます――

多分もう4、5回は見てます。原作もその度に読み返している気がします。

一応時代設定としては「虐殺器官」の後の時代、なのですが、別に虐殺器官を知らなくても十分に楽しめます。なんなら虐殺器官要素が出てくるのは一瞬ですし、それも丁寧に説明されますので、知らない方でも安心して楽しめます

原作既読済みです。
ゼロ年代SFの歴史を変えたとまで言われる虐殺器官の作者である伊藤計劃先生の2作目、ということで注目もされていましたが、伊藤計劃先生の遺作(屍者の帝国の方を遺作と呼ぶのかは人によりますが)、ということでも注目を浴びた本作。読まないはずもなく。
「アイデンティティの自覚と喪失の発見の描写を具現的に表現しているのすっごいなぁ」と尊敬の眼差しを向けていたのを覚えています。

しかし、と言うべきなのか。
アニメ映画(本作)は小説とはかなり異なります。理由(私推測)はネタバレになるので言いません
起こっている事象は同じなのですが心情が違います。
これを是とするか非とするかで、伊藤計劃先生の真のファンか否かが決まってしまうのかもしれませんが、私は嫌いにはなれませんでした

原作の方が好きな方もいらっしゃるでしょうし、本作の方が好きな方もいらっしゃるでしょうし。見て見ないことには分からない、と言うしか無いです。

個人的には本作を含めて好きです。どちらが、という訳ではありません。が、本作は「完成」されている、と私は思います

主人公の声優はまさかの沢城みゆきさん。少し意外。しかし今となっては沢城みゆきさん以外に選択肢があったのか、と言うぐらいピッタリな役配分だったと思っています。首席は絶対榊原良子さんだと思ってました。榊原良子さんでした。ありがとうございます。開幕斧アツシさんで失神しかけました。声好きぃ

こっから大長文(当社比)です。原作既読前提で進めます
ストーリー
{netabare}
生命主義が基本概念となった社会の逃げ場としてエリートである螺旋監察官となった主人公(トァン)は上司に横領がバレ、日本に戻される。再開した友人(キァン)と食事をしていたが急に自殺。同時に6000人以上が自死を試みたという事件の捜査として心当たりのある場所へ行く。そこは13年前にキァンと3人で自殺を試みた主犯格兼イデオローグ(ミァハ)の家だった。母親から養子ということを聞き、キァンから献体に出されたということを聞いた主人公は父親(ヌァザ)の元教授(佐伯)のもとを訪れ意識について聞かされる。「1週間以内に殺人しなければ死ぬ」と宣言され、バグダッドの研究所の所長(ガブリエル)に意識操作の話を聞き、父親と接触する。その際主人公に接触してきた男(バシロフ)が父親を射殺し瀕死のバシロフを主人公が射殺。最後の手がかりを頼りにチェチェンへ向かい全ての元凶であるミァハと再開する。ミァハが元々意識を持っていなかったがロシア兵に犯され意識を持ったこと、人類を愛した故に人類を「救済」しようとしてること、世界に調和(ハーモニー)をもたらし意識を消そうとしてること、トァンならわかってくれること、全てを知った主人公はミァハを愛したが故にミァハを殺し、世界から意識が消えた。文字を映し出していた白いオブジェクトの前から学生が離れる。

なっが。いやごめんなさい。まじで好きなんです。どこも抜けない。原作とはちょこちょこ違いますが、原作とアニメを含めて愛してる。
なので、アニメ映画として、というより「Harmony/」というコンテンツを愛しています

原作との大きな相違点。感情が違う。
1番違うのは最後。小説では憎悪の感情が大きかったですが、本作では愛の感情が全てです。解釈、と呼べなくもないですが、これは個人的には監督が本作の主題を読み解き回答しようとした、だと思っています
意識や感情を無くそうとするミァハはトァンの感情によって殺されます。これが対比となり思想(感情)の矛盾や生命の意義の疑念を意味したりするのですが、恐らく監督はこの感情は憎悪であるべきでは無い、と考えたのでしょう。人を愛し人を慈しみ人を敬う社会を憎悪したミァハを殺すのは同じ憎悪でなく、同じ志を持つトァンという少女の愛であるべきだと。皮肉や風刺という意味も幾分かあるかもしれませんが、純粋に愛を知ったミァハの超個人的な傲慢な調和に対して、トァンの超個人的な傲慢な殺害がなんとも...美しいのです。もちろん復讐も個人的な欲です。が、「自分が愛した少女のままでいて欲しいから」という理由で愛した人を殺すのです。これ以上の傲慢があるでしょうか。
言語化しにくいです。
伊藤計劃先生は本作で「答えは出なかった」と言いました。答えのひとつとして本作は、監督は示したかったのではないでしょうか。

あとキァンの有無(というと大袈裟ですが)です。原作ではキァンとヌァザの復讐としてミァハに二発打ち込んでいます。しかし、正直2人でご飯すら食べた事のない友人を殺され、(生かしてくれた事を本気で感謝している友人であることには間違いないでしょうし、友人を殺したということに腹を立てるのは十分にわかるのですが、)脳内で何回も殺したいと思うほどですかね。私はどうにも「ミァハを止めたい」から行ったように思えるんですよね。

それにわざわざキァンだけをトァンの目の前で殺し、トァンを生かし「ここに来るならトァンだと思ったよ」と発言したのと、かつて同じ憎悪を共有してたのにも関わらずトァンの復讐の憎悪を予期・感じ取れなかったのとは辻褄が合わないような気がします。なのでトァンを生かし、何もかもを予期していたとしたら、ミァハもトァンに殺されたかったのではないかな、という私の推測。

これらを総合すると、ミァハはトァンに愛を持って殺されるために仕組んだのでは無いか、という私なりの解釈です。それをこの作品、監督、制作陣は映像化してくれました。伊藤計劃先生が許してくれるかどうか分かりませんが、私はHarmony/という作品は考えながら解釈を通してようやく「完成」すると思ってます。故に私は私の中の「完成品」をアニメ映画として見ることができて非常に嬉しいのです。

はい。これが終盤について。あとの違いはこの終盤への微調整と表現方法と尺関係ですかね

表現方法が当然ながらアニメと小説だと違います。
小説の方は感情を追体験できるテキスト、という感じで淡々としている印象ですが、アニメではその場面場面が鮮明に映像化されているため、出ている感情の印象が異なるというのが割と多々。キァンについて(は先程と繋がっていますが、 )キァンに対するイメージの過度な上昇を避けるために主人公が無感情、ヌァザの死やインターポールの殺害に対して感情を出しているようなカット、ガブリエルの口調が嫌味たらしく聞こえる、首席の激励時なにか後悔を感じる、などなど。
これこそ本当に解釈の域なので個人の持つ印象と違ったり同じだったりしますが、チリツモ。ちょくちょく違えば全然違うように受け取れるかも知れません。

恐らく表現方法の差ということでは本当のラスト。制服を着た学生が白いマシーンから離れるシーン。非常に神秘的かつ大胆なシーンですね。原作を読んでいれば、「なるほど。多分このマシーンはライブラリ的なものであり、ここは色々なデータが残っている場所なんだな」とわかるのでしょうが、これ初見じゃ絶対理解できないですよね。あと、まわりに全然人がいない、というのも意識がない人類の合理性が垣間見えて好きです。

映画見て「あれ!?キスしてたっけ!?」となって急いで原作確認したのは私だけじゃないはず。まぁラストが違うんでそりゃそうか、て感じですが。

ウーヴェが消されました。正確に言うと最初からいるのですが、原作の立場(ポジション)としては消されたと言って良いでしょう。泣きました。まぁ確かにラストを愛の話にするならウーヴェで共感性を得て人間意志を、自分自身を重視するひとつのきっかけとなるような場面は、いらないっちゃ要らないのかな。

公園でのジャングルジムの下り、結構世界観を説明するのに優秀なシーンだと思うんですけどね。なんか無慈悲に消されちゃった...
代わりに名刺が非常に重要視されましたね。まだプライベートが残ってた時代の自己を証明する手軽な社会的道具であった名刺。3人の思想を繋ぐ具体的象徴である名刺。ヌァザを殺したヴァシロフが持ち、愛用していた名刺。トァンとミァハの最後の出会いの合図となる名刺。世界観を説明するのには十分すぎる意味を持ってたような気がします。
名刺という一般的なものにここまで意味を持たせるのは素晴らしいというしかありません。
{/netabare}

お気に入りです。ですが、アニメ単体という訳ではなく、「ハーモニーというコンテンツ」がお気に入りなのであって原作未読者にいきなり本作(アニメ)をオススメしません。見るか迷っている方は是非原作を読んでから。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 7
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