ツンデレで戦闘なアニメ映画ランキング 4

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早速見ていきましょう!

76.6 1 ツンデレで戦闘なアニメランキング1位
空の境界 第一章 俯瞰風景[フカンフウケイ](アニメ映画)

2007年12月1日
★★★★★ 4.1 (1104)
6346人が棚に入れました
落下する少女の夢、俯瞰を断つ直死の眼 連続する少女たちの飛び降り自殺。現場はすべて、かつては街のシンボルタワー、今では廃墟と化した巫条ビル。屋上には浮遊する「霧絵」がいた…。\nそして事件が5件を数えた頃、万物の生の綻びと死線を視る能力「直死の魔眼」を持つ両儀式が謎に挑む。

声優・キャラクター
坂本真綾、鈴村健一、本田貴子、藤村歩、田中理恵
ネタバレ

入杵(イリキ) さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

空の境界の序章 空の境界の作風を実感! 俯瞰の視界、浮遊と飛行とは・・・

「空の境界」は奈須きのこによる、同人誌に掲載された長編伝奇小説である。全7章で構成され、本作は第一章「俯瞰風景」が映像化された。「そらのきょうかい」でも「くうのきょうかい」でもなく、「からのきょうかい」なのでお間違えの無い様に。略称は「らっきょ」。

「空の境界」は奈須きのこの小説だが、奈須きのこと武内崇の所属する同人サークル(現在は有限会社Noteのブランド)「TYPE MOON」の作品に「月姫」、「Fateシリーズ」などがあり、「空の境界」と世界観を共有している。奈須氏によると「微妙にズレた平行世界」とのこと。

劇場版「空の境界」は圧倒的な映像美、迫力満点の戦闘シーンと、難解且つ素晴らしい世界観を、原作小説を忠実に再現し映像化したufotableの力作である。
本作のメインテーマは「境界」である。相反する二つのものに関するメッセージが緻密に組み込まれている。
その各々に対する矛盾もまたテーマの一つだ。
奈須氏の命の重さ、禁忌を主題とした本作の完成度には脱帽するばかりである。
「生」と「死」、「殺人」と「殺戮」などについて考察するわけだが、テーマがこれであるから必然的にグロテスクな描写がある(しかも美しかったり)。
また、難解な言葉(辞書的意味では用いない)や、時系列のシャッフルにより、物語の理解はやや困難である。
しかし、この時系列シャッフルこそが「ミステリ」における叙述トッリクとして作用しているのである。
決して時系列の通りに見てはいけない(2度目からはご自由に)他にも、原作にはなかった「色分け」が行われている点も魅力的だ。式の服の色や、月の色なども見てみると楽しい。
全7章に渡って展開される両義式と黒桐幹也の関係も素晴らしい。
設定はここで説明するとつまらないので、作品を視聴することをお勧めしたい(丸投げであるが(笑))
副題のThe Garden of sinnersは直訳すると「罪人の庭」と言う意味。sinには(宗教・道徳上の)罪という意味があり、guiltの(法律上の)罪とは区別される。
Theの次のGardenが大文字であることから、これはギリシアの人生の目的を心の平静(アタラクシア)に見出した精神快楽主義のエピクロス学派を意味する。よってThe Garden of sinnersは快楽主義に溺れた道徳的罪人という意訳が適切ではないか。



第一章の本作は「空の境界」の時系列で、全7章のうち4番目にあたる作品だ。本作の視聴だけでは、物語の全体像はおろか基本設定すら見えてこない。なぜならこの第一章は、奈須作品を視聴する視聴者の「ふるい」としての機能を有しているからである。その為、独特の世界観・台詞回し・時間軸を十二分に表現した作品に仕上がっている。よって一章を視聴して視聴を断念する方もいることだろう。しかし、私は五章の矛盾螺旋が一番好きなので、一章で断念されるのは残念。
副題のThanatosについて、Thanatoは精神医学用語で死亡恐怖症という意味。

考察←観る前に見ない様に。
{netabare}

時系列:4/8
1998年9月
両儀式:18歳 職業:高校生(サボりがち)
黒桐幹也:18歳 職業:大学中退 伽藍の堂に勤務

原作との相違:中(原作の補填による尺の増量が主)
原作との尺の比 73P:50min=1:1(1分当たり1.46P)
(一番原作との尺の長さの比が合致していると判断される2章の比を基準:1とする)
(原作の頁数は講談社文庫を用いる)

・「俯瞰」について
私達の認識出来る世界は肌で感じ取れる程度のものでしかなく、人間は自身の周りにあるものでしか安心出来ない。地図で自分の位置を知っていても、それは単なる知識に過ぎない。
高所から世界を俯瞰したとき、自身は狭い世界しか認識できないが、実際は狭い世界は、俯瞰の視界から展望出来る広い世界の一部である。
この時に、認識の内に、世界の隔たりが出来、ズレが生じて、「遠い」という衝動(突然襲い掛かる暴力のような認識)を得る。
自分が体感できる狭い世界より、自分が見ている広い世界のほうを「住んでいる世界」と認識することが出来ず、知識としての理性と経験としての実感が摩擦し、意識の混乱が起こる。しかしそれは一時的なもので、まともな認識のプロテクト(理性や知識)があれば、無意識下で制御出来て、地上に戻れば正常に戻る。だが不安定な状態にあるとき、意識の混乱から逃げ出したいという気持ち(或いは世界の同一性を実感する為に落ちてみたいという気持ち)へ向かってしまうのだ。(谷に行って底を覗きたくなる感じにも共通する意識かもしれない)

橙子「視界とは眼球が捉える映像でなく、脳が理解する映像だ。私達の視界は私達の常識によって守られているから・・・」
という台詞は、カントの認識論を彷彿させた。
認識は感性(受動的な知覚を担う)と悟性(感性と共同して認識を行う。概念把握)のア・プリオリ(経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念)により成り立つ、という哲学である。
眼球が捉えた映像は、私達の脳内で、常識に合致した「モノ」として認識される(常識に合致しないモノは、お化けや幽霊などの怪奇現象として処理されたりする)。

「俯瞰」については情報化社会のメタファーと認識すると分かり易い。
私は震度6強の地震を経験し、被災者として日々を送ったことがある。自身の周りも被災し、認識出来る世界で災害が起こった。しかし、2011年の東日本大震災での津波の映像を見たとき、私はそれが現実に起こっているんだと知識ではわかっているものの、それを実感することは不可能であった。
「遠い」東北の地で起こったことを自分の住む世界と同じ世界であると認識することは困難だ。そこで無意識下で自身の住む世界と被災地を別の世界と認識してしまうのだ。

・「浮遊と飛行」について
自身と世界、理想と現実のズレを認識した人間は、その乖離に苦悩し、生きる目的を失ったときに、それから逃れようとする。これが「逃走」だ。
浮遊と飛行は「逃走」するための手段である。
目的のない逃走を浮遊、目的のある逃走を飛行と呼ぶ。
「浮遊」(例え:羽ばたかない蝶)は、自己の現在置かれた不遇の状態を甘んじて受け入れ、受動的であることである。
今回の霧絵の場合は、理想と現実の乖離に耐え、生きる目的も無いままに、受動的に死を受け入れることである(詰まるところ、自然死、病死)。
此れには、生きる目的が無いにも関わらず、死ぬまで生きるという無意味さを受け入れる勇気、死ぬまでの毎日を生き抜き、刻一刻と迫る死を待つ勇気が必要だ。
「飛行」(例え:羽ばたく蝶)は、自己の現在置かれた不遇の状態を打破する、或いは暫定的に打ち消す(紛らわせる)、或いは解放される為に、”能動的”であることである。
今回の霧絵の場合は、その乖離に耐えず、生きる目的が無いから、能動的に死を受け入れる。(詰まるところ、自殺(しかも他人に自己の死を強調))
人間は、無意識下で、日々のストレスから逃れる為に、夢を介して、この飛行を行っている場合があるらしい(夢とは欲求の捌け口である為)。

「飛行」による自殺について、幹也曰く「極論だけど甘えなんだと思う。当事者にはどうしようもなく逃げたい時もあるだろう。それは否定できないし、反論もできない。だって僕も弱い人間だから」。


・なぜ彼女ら8人の自殺が「事故」と表現出来るのかについて
巫条霧絵は手に入れた霊体で、自分と同じように逃避行動をしている仲間を見つけて、友達になろうとした。「生きる目的」や「生の実感」がきちんと有るものの、夢の中で「飛行」(前項参照)をしていた少女は、霊体の巫条霧絵に介入され、夢の中の無意識下の飛行を、霧絵の能力である強い「暗示」に依って意識するに至った。
彼女達は夢の中だからこそ、飛行出来て、尚且つ、無意識下の為、自身が飛行出来たことには気付かない。しかし、一端意識してしまうと、理性が利かなくなるほどの強い衝動を得てしまうのだ。自分は現実に飛行出来たのだから、当然次も飛行出来る筈だと。
ここでの飛行には、逃避行動に於ける「飛行」と、俯瞰の視界から展望する世界を自己の居住する世界と同一視する為の飛行という二つの意味が含まれているのではないか。
そして、彼女達は、霧絵と同質の存在(つまり霊体)となった。
巫条ビルは時空が捻れており、本来死んでいない少女の幽霊も確認出来た。これは巫条ビルの上空は、巫条霧絵の現出した俯瞰風景の内部だからだろう。少女達は霧絵の暗示により精神に異常を来たし(具体的には、現実に人間単体での飛行(=能動的な現実逃避)が可能であるという脅迫のような逃れられない衝動)少女達は自己の意思とは表現出来ない自殺をすることになった。
よって、彼女達は夢の下での「飛行」中に精神に干渉され、「ボディジャック」状態で自殺したことになる。よってこれは彼女達の意志による故意の自殺に該当しない。より事故と表現出来る。


・黒桐幹也が寝ていた理由について
幹也は独自に一連の自殺を調査しており、結果として霧絵にたどり着いた。しかし、霧絵の幹也を死ぬまでの付き添いとしたい、「浮遊」から逃れる手段として、彼が欲しいという強い想い(暗示)から、昏睡状態に陥ってしまう。式が固定電話に録音された幹也のメッセージを恋しがっていたことや、ふいに巫条ビルに赴き、落下してきた少女に「幹也!」と叫んだのも、幹也が霧絵に魅入られた少女の様に「飛行」、つまり霧絵の下で自殺したものと勘違いした為である。橙子の延命努力により数週間昏睡していながら、リハビリもせずに復活した。


・式が巫条ビルに駆けて行って自殺した少女に「黒桐」と叫んだ理由について
前項での説明通り、幹也は霧絵による昏睡状態に陥っていた。自殺した少女は霧絵の暗示によって意識下での飛行が可能であるとの強迫観念より跳んでおり、また、これは霧絵の人恋しさによるものである為、黒桐も同様に跳ぶ可能性があった。式は電話で幹也の声を聴き、胸騒ぎがして巫条ビルに赴いた為、少女を黒桐と勘違いした。


・式の義手について
式の義手については第三章痛覚残留で明らかになり、何故式が巫条ビルの幽霊に操られた義手を止められたのかは、第四章伽藍の洞で分かる。式がビルからの跳躍の後に、片手で着地出来たのもこの義手のお陰であり、式の義手は霊体を掴むことが出来るので、巫条ビルの幽霊の首を掴むことが出来た。


・巫条霧絵の俯瞰風景について
巫条霧絵は{netabare}荒耶宗蓮によって{/netabare}、病院の外が見晴らせる階の窓のある病室で、家族も居らず、一人で何年間も、不治の病によって不自由な生活を強いられていた。彼女は病室から展望出来る外の世界をずっと憎んでいた。自分は不自由なのと対照的に外の世界の住人は自由だからだ。彼女は外をずっと眺めている内に、外界への憎悪と羨望による呪詛から、病室周辺の風景を脳内に取り込み、同時に盲いることに依って、強力な能力を得た。
彼女の視界は空中にあり、彼女の精神・肉体が存在する器とは別に、彼女の視界の存在する場所に、荒耶宗蓮によって二つ目の器・巫条ビルの幽霊を与えられた。

空を飛ぶという行為は、空の果てを目指す行為である。空の果てには、自分が逃避しなくて住むような世界(=生の実感や生きる目的のある世界、或いは死への恐怖が無い世界)があるのかもしれない。霧絵は黒桐の首尾一貫とした揺るぎ無い人間性に憧れ、また、「生の実感」を他者に供給する人物として、空の果てに自分を導いてくれることを望んだ。
(この空自体も隠喩と解釈することも十二分に可能だ)

霧絵「わたしは生に執着していて、生きたまま飛びたかったの。彼とならそれが出来たはずだから」

霧絵「あの人、子供なのよ。いつでも空をみてる。いつでもまっすぐにしている。だからその気になれば、どこへだって飛んでいけるんだわ。そう――わたしは、彼に連れて行ってほしかった」

巫条ビルの幽霊は、巫条霧絵の二つ目の身体だったので、彼女は一度死を経験しながらも、生きながらえるに至った。病室の霧絵を見限って出来た、巫条ビルの幽霊と病室の巫条霧絵との間の境界は空(ソラ)の境界とも呼べるかもしれない。


・巫条霧絵について
{netabare}巫条霧絵の起源は「虚無」。荒耶宗蓮は両儀式と相反する能力者をつくる為、彼女に長年の夢と悪夢を同時に与え続け、「死に依存して浮遊する二重身体者」にさせたのだ。
前述の通り、式の入院していた病院に霧絵も入院していたのだが、式が橙子に会う前、橙子の前任医師は荒耶宗蓮だった。霧絵の病室の病室代や管理費は荒耶が払っており、身寄りの無くなった彼女をずっと保護していた。{/netabare}
巫条家は混血の大敵である四家系「浅神」「巫浄」「両儀」「七夜」の一つである「巫浄」の傍系であり、盲いることにより特別な力(呪詛)を手にいれる。巫浄家の人間は強力な暗示能力も持っており、暗示によって相手を支配することが出来る。式の右手が勝手に動いたのも、「堕ちろ」という暗示も、これで説明出来る。
{netabare}彼女は、両儀式、浅上藤乃と同様に起源に「虚無」を持ち、特別な家系故に、特別な力を発現した。
「陰陽太極図」で式が一つの肉体に二つの人格を持つ二重存在者なのに対し、彼女は二つの肉体に一つの人格を持つ二重身体者である。
彼女も浅上藤乃と同様に荒耶宗蓮の「根源の渦」である「 」への到達という最終目標の為に両儀式と接触する駒となった。{/netabare}
幹也(そして、僕はさっきまでの夢を思い出した。蝶は最後には墜落してしまった。彼女は、僕についてこようとしなければ、もっと優雅に飛べたのではないか。そう、浮遊するようにはばたくのなら、もっと長く飛べていたはずだ。けれど飛ぶという事をしっていた蝶は、浮遊する自身の軽さに耐えられなかった。だから飛んだ。浮くのをやめて)

黒桐が霧絵に眠らされている間に見た「ゆっくりと浮遊する蝶が一羽あり、そこに蜻蛉が現れ、蝶は蜻蛉に追いつく為に羽ばたいたが、遂には堕ちた」という夢は、身体中に腫瘍があり、余命幾ばくも無い霧絵(=蝶)が「浮遊」している所に、生きる望みである幹也(=蜻蛉)が現れて、霧絵は幹也に「気付いて欲しい」と、後を追うも、結局気付いてもらえず、「飛行」してしまったという隠喩であろう。
{netabare}尚、四章伽藍の洞で両儀式が入院していた病院に巫条霧絵も入院しており、霧絵は、式の元に何年も通い詰めていた幹也を目撃していた。{/netabare}彼女は恋人という生きる目的、死ぬまで付き添ってくれる人が居ないことを悔やみ、同時に幹也を、自分を救ってくれる人物として望むようになる。式に「落ちろ」と暗示として連呼したのは、彼女が幹也という依り所を持っていて、羨望していたからだろう。彼女は式に殺された時に感じた「生の実感」を、もう一度味わう為に、「飛行」という逃避行動を一度採ってしまったことによる開放感をもう一度味わう為に、自分が死に至らしめてしまった少女達への自責の念から逃れる為に、巫条ビルからの転落死を選択した。


・「oblivious」について
obliviousは英語で「~を忘れて」「(没頭して)~に気付かないで」という意味の形容詞。名詞はoblivionで忘却という意味。巫条霧絵をイメージして奈須きのこ監修の下、梶浦由記によって作詞・作曲された。4章を視聴すると分かるが{netabare}巫条霧絵は両儀式の入院する病院に入院していた経験があり、そこに小まめに見舞いに来ていた黒桐幹也と出会うのである。{/netabare}「本当は空を飛べると知っていたから 羽ばたくときが怖くて風を忘れた」という歌詞も、本作を視聴すれば意味がわかるだろう。巫条霧絵の静かな恋について上手く纏められている。


・「俯瞰風景」という作品について
巫条霧絵は祈祷(本性は呪詛)を生業とした古い家系の末裔で、重い病気に掛かり何年も病室から地上を俯瞰し、空を見上げていた。彼女は意識が途絶えるくらいまで外を見つめ、外を憎み、恐れた。彼女は継続して世界を「俯瞰」することにより、周辺の風景を脳内に取り込み、二つ目の器である巫条ビルの幽霊を手に入れた。{netabare}与えたのは荒耶宗蓮。{/netabare}巫条ビルの幽霊、巫条霧絵の意識体は、夢の中で「飛行」を行っていた少女達に近づき、「飛行」が可能なことを意識させた。そして彼女達は飛び、当然の如く落ちたのだ。巫条霧絵は、黒桐幹也を拠り所とし、生きたまま「飛行」することを望んだ。しかし、黒桐幹也を拠り所として必要としていた両義式により巫条ビルの幽霊は殺されてしまう。彼女は、罪の無い少女達を殺してしまった自責の念と、幽霊である自身(二つ目の器)の心臓を貫かれた時に感じた圧倒的なまでの死への奔流と生への鼓動をもう一度味わう為に、
あらんかぎりの死をぶつけて生の喜びを感じる為に、巫条ビルの俯瞰から転落死するのだった。
巫条霧絵は「浮遊」することが出来ていたのだが、黒桐幹也に追いつこうとすることで「飛行」という手段を選んでしまったのだ。しかし飛行を選んだ彼女は死んだ後も雲の上を目指し空に落ちるように飛行するはめになる。


・名言(原作より抜粋)

橙子「君の俯瞰風景がどちらであるかは、君自身が決めることだ。だがもし君が罪の意識でどちらかを選ぶのなら、それは間違いだぞ。我々は背負った罪によって道を選ぶのではなく、選んだ道で罪を背負うべきだからだ」

幹也(いくら正しくて立派でも、死を選ぶのは愚かなんだ。僕らは、たぶん、どんなに無様で間違っていても、その過ちを正す為に生き抜かないといけない。生き抜いて自分の行いの結末を受け入れなくてはいけない。)

式「幹也、今日は泊まれ」

橙子「自殺に理由はない。たんに、今日は飛べなかったんだろう」
{/netabare}

感想

最後の式の「幹也、今日は泊まれ」は良かった。式のクーデレっぷりが最高である。また、私も昔、高いところから高速で落下する夢をよく見た。あれは無意識下の飛行だったのだろうか・・・



この一章は、視聴者に世界観を何と無く掴ませながら、しっかり今後の伏線を十分に張って終わっている。原作の長々とした文を簡潔に短く纏め、視聴者に分かり易く(全部観た後二回目観ると分かる)展開している。

本作は考察のし甲斐があり、非常に面白い。また現代人への処方箋のような役割を果たし、私達にカタルシスを与える。

私は全章視聴後原作を購読したが、読み応えがあって大変面白い。アニメを観た人は補足の為にも、お勧めしたい。
未視聴の方は、是非挑戦していただきたい作品である。

投稿 : 2024/07/06
♥ : 55
ネタバレ

てけ さんの感想・評価

★★★★★ 4.4

圧倒的なクオリティの映像と音楽で描くポエム

原作未読。
全8章からなる物語の1章目。約50分。

まずは「空の境界(からのきょうかい)」シリーズに共通することを紹介します。

圧倒的な映像美と、ダイナミックな動き。
映画的なカメラワークが使われ、画面全体に立体感が溢れています。

その中に隠れる、独特な色使い。
蒼に対する橙、赤に対する緑。
色で言うと正反対、補色関係にある光の使い方が特徴。

この表現は「相反する二つのもの」というメッセージを表しています。
これに加えて「生と死」「殺人」という非日常なテーマを扱っている作品です。

そして、バトルシーンもありますが、どれも圧巻。
作画・演出を担当しているのは、Fate/Zeroを作ったufotable。
その会社が、映画用に力の入ったクオリティで描いています。

また、梶浦由記が作曲し、Kalafinaが歌うエンディングテーマはどれも素晴らしく、内容にも深くリンクしています。
まったくハズレがないと言ってもいいほどです。

キャラクターたちも魅力的です。
メインキャラクターは以下。

・両儀式(りょうぎしき)
・黒桐幹也(こくとうみきや)
・黒桐鮮花(こくとうあざか)
・蒼崎橙子(あおざきとうこ)

この名前にも実は意味があるのですが、それは内容を追っていくと分かってきます。


なお、「空の境界」は、時系列が特殊です。

正しい時系列では、
2章→4章→3章→1章→5章→6章→7章→8章

詳しくは、
{netabare}
2章(1995年9月)
4章(1998年6月)
3章(1998年7月)
1章(1998年9月)
5章(1998年11月)
6章(1999年1月)
7章(1999年2月)
8章(1999年3月)
{/netabare}

そのため、1章だけを観ても状況が掴めません。
それに加えて、難解で抽象的なストーリーや台詞。
同じ言葉をさまざまな別の言葉で言い換えていたり、辞書に載っている意味とは違う意味で用いたりしています。
一つ一つ紐解いていく必要がある、「言葉のあやとり」のような会話です。

また、その映像美がある意味「壁」を作っています。
「死」や「殺人」を扱っているため、死体や血しぶきの表現がリアルで、グロテスクです。
苦手な人には辛いかもしれません。

この1章が、このシリーズ全体を観られるかどうかの「境界線」になっていると思います。
その境界線をまたぐことができたなら、終章まで楽しめると思います。


ここからは考察です。

俯瞰風景 → ココ
殺人考察(前) → http://www.anikore.jp/review/450923/
痛覚残留 → http://www.anikore.jp/review/452086/
伽藍の洞 → http://www.anikore.jp/review/452849/
矛盾螺旋 → http://www.anikore.jp/review/456943/
忘却録音 → http://www.anikore.jp/review/466298/
殺人考察(後) → http://www.anikore.jp/review/491929/
空の境界 → http://www.anikore.jp/review/491992/


【1章「俯瞰風景」の考察】
{netabare}
1998年9月の話。

EDテーマは「oblivious」
「~に気付かないで」という意味。


「狭い空間」とは「現実」を表しており、「広い空間」とは「理想」を表しています。

「俯瞰」、つまり、客観的な視点で見たときに、理想と現実の間の距離を感じてしまう。
それが「遠い」という感情を呼び起こし、「逃げ出したい」という気持ちに繋がっていきます。

ビルから投身自殺した少女たち。
橙子「彼女たちは、本当は死ぬつもりはなかった」
「逃走」していた彼女たち。
「浮遊」していたが、暗示をかけられ「境界」を乗り越えて、「飛行」という手段を選んでしまった。

では、「逃走」「浮遊」「飛行」とは何か?

式「地に足が付いていない。飛んでいるのか?浮いているのか?」
橙子「逃走には2種類ある」
幹也「トンボを追いかける蝶々の夢を見た」

この3つのセリフにヒントが隠されています。
「逃走」は2つに分けられます。

1つは「浮遊」
・目的のない逃走
・永久に続けなければいけない勇気

浮遊するように羽ばたく蝶々に例えられています。
目の前の辛い現実から目を背けず、現状に耐え続けること。


もう1つは「飛行」
・目的のある逃走
・一時の勇気

トンボを一生懸命に追いかける蝶々に例えられています。
自分の弱さに耐えきれなくなったとき、人は「飛行」を選ぶ。
つまり「死」という、幹也に言わせれば「極論だけど甘え。けれど、否定できないし、反論もできない」選択肢です。
トンボを追いかけた蝶々がやがて力尽き、地上に墜落してしまうように。

これには、
トンボ=黒桐幹也
蝶々=巫条霧絵
という現実の関係を表す、もう1つの意味も含まれています。

橙子「我々は、背負った罪によって道を選ぶのではなく、選んだ道によって罪を背負うべきだ」
橙子はそう言いましたが、巫条霧絵は、自らの罪に耐えきれず、また、1度経験した「死」に魅了されたこともあり、ビルからの飛び降り自殺という「飛行」を選びました。

空(そら)に浮かぶ、空(そら)を飛ぶ、その2つの境界線。
それを上から眺めた俯瞰風景を知ってしまったがゆえの行動。

「飛行」という方法に気付かなければ、選ばなかったはずなのに……。


なぜこのようなことになったのかは、後の章で分かってきます。
{/netabare}

投稿 : 2024/07/06
♥ : 56

. さんの感想・評価

★★★★★ 4.3

ひたぎさんより怖い女、”両儀 式” あんた怖すぎだよ・・・。

(内容について)
本作品は面白い作品ですが、人を選ぶかも知れませんね。

第一章 俯瞰風景
第二章 殺人考察(前)
第三章痛覚残留
第四章 伽藍の洞
第五章 矛盾螺旋
第六章 忘却録音
第七章 殺人考察(後)
「空の境界」は全7作品で構成されます。BD-BOXだと、他に「終章」(後述)と「Remix -Gate of seventh heaven-」、「全七章の軌跡」が収録されています。
本レビューでは、全七作品についてまとめてコメントさせていただきますね。


本作は死をテーマにした作品です。殺人という行為を通して生・死についての意味を表現しているのかな。
作品中、殺人シーンや戦闘シーンでは血しぶきドピュドピュ、手や足があっちゃこっちゃ状態で、そういうのが弱い人は余り見ない方が良いカモです(でもR指定は無いので、一応規制範囲内の描写みたいですね)。


原作は長編小説で、原作をご存じ無い方だと本作品は少しとっつきづらく感じてしまうかも知れません。理由は作品を一章から見ても設定や背景について説明されない為、人によっては置いてきぼり感を感じてしまう可能性があります。でも二章、三章・・・と観つづけていくと、時系列こそ前後してしまう時はありますが、ちゃんと設定・背景について説明があります。なのでそこまで見続けるモチベーションを維持出来るのであれば、この作品の物語としての完成度にきっと驚いてしまう事と思いますよ。


キャラクタの作画についてですが、ちょっと賛否両論あるかも知れません。メインヒロインの両儀 式さんですが、設定上中性的な顔立ちとされている為、好みによっては男性からも女性からも好かれない可能性があります。正直私的にもあんまり好きな顔では無いです。


さて両儀 式さん。ちまたでは化物語主人公の”ひたぎ”さんが危ない女としてあげられていますが、両儀 式さんの危なさはそれ以上!ともかくヤバイ、マズイ、怖ひ・・・。
まぁでもこのお方、とっても強いんです。剣術も達人級ですし、体術も相当なもの。この方が怒ると、目がピカーって光って襲い来る敵をバッタバッタとなぎ倒す。う~んカッコよす。
そんな訳で、本作品の見所はなんと言っても派手な戦闘シーンでしょう。戦闘が始まると、タイミングドンピシャ(あ、当たり前ですね)でメチャクチャカッコ良い音楽が掛かって場を盛り上げます。特にカッコ良いのが四章の病室でのシーン、それと五章の最終決戦シーン。これはも~鳥肌ものですよ、本当に! ここだけでも良いから(オイ)絶対観てね!


前述しました通り、最初は物語の設定や背景が解らずに戸惑うかも知れません。また難解な定義説明シーンがちょっと多いかな。でもそれで観るのを止めてしまうのはもったいない作品ですので、先ずは最初の1回は純粋に戦闘シーンのカッコ良さを満喫して下さい。次にもう1回観れる機会があるなら、今度はじっくりと物語の構成を楽しんで下さい。とても良く出来たお話で有るという事を解っていただけると思います。(作品冒頭からちゃんと伏線が張られている事などに気がつくと、きっと関心しちゃいますよ)


あ、そうそうBD-BOXに収録されている「終章」ですが、全編対話シーンだけで構成されます。観ると物語の終わりを締めくくるに相応しい内容が語られますが、観なければ観ないで支障の無い内容です。なのでストリーミング配信等の手段で観られる方は、無理をしてまで観る内容では無いかと思います。


(BD-BOXの事を少しだけ)
Blu-ray Disc Box版にて鑑賞しました。どうでも良いことですが、これ箱がでかすぎ。本棚に収まらない・・・。あんまり萌えるキャラでは無いので、”ビジュアルブックとかはいらないから小さくしてね”と個人的には思いました。画質は相当綺麗ですね、細かい点まで描写されていて文句なし。サウンドも5.1chサラウンド対応していますので大きな音で聴けば迫力満点です。

投稿 : 2024/07/06
♥ : 20

76.2 2 ツンデレで戦闘なアニメランキング2位
楽園追放 -Expelled from Paradise-(アニメ映画)

2014年11月15日
★★★★☆ 4.0 (888)
4651人が棚に入れました
われわれはどこから来たのか われわれは何者か

われわれはどこへ行くのか――。

地球はナノハザードにより廃墟と化した。

その後の西暦2400年、大半の人類は知能だけの電脳世界ディーヴァに生きていた。

電脳世界に住む捜査官アンジェラは、

闘力を誇るスーツ・アーハンを身につけ地上に初めて降り立った。

そして地上調査員ディンゴと共に地上のサバイバルな世界に旅立った。
ネタバレ

ossan_2014 さんの感想・評価

★★★★★ 4.6

だれが楽園追放したの? それは私と………

【ちょい長いです】

久しぶりにSFアニメを観た気がする。
(疑似)科学的な設定がストーリーを支え、絡み合ってこそのSFだ。
支えているのがハーレム設定だけというのでは、やはりSFとはいいがたいだろう。

素材となるのは、データ化され仮想空間に生きる実存、科学力により分断され階層化された社会、{netabare}自律進化する人格を獲得した人工知能、{/netabare}
といった今ではお馴染み感のある設定の数々。
だが料理は素材だけでできるものではない。材料をどう調理するかの技法が味を決める。

人格を電子化し仮想空間の中で人々が「生活」する『マトリクス』的な社会ディーヴァ。
『マトリクス』と違うのは、そこで「生活」する市民が、データ化された自分とその仮想化社会の事実に自覚的なこと。
そこにハッキングを仕掛けるフロンティアセッターとの電脳戦から物語は幕を開ける。

このフロンティアセッターのハッキングの追跡から、アンジェラが地球へ降下するまで一気に描写する製作者の手際の洗練具合は、非凡と言っていい。
スピード感がありながら、この世界の構造と、内在しているキャラクターにとってどういう世界であるのかという世界観まで、視聴者を立ち止まらせることなく、説明してしまう。
ただストーリーを追って観ているだけで、世界観が分らなかったり、誤解してしまう視聴者はほぼ居ないだろう。
これは映像的なセンスのみならず、脚本が秀逸で、セリフに使われる言葉の一つ一つまで吟味しつくして選択していることによると思われる。

この脚本の緊張感は、最後まで途切れることはない。物語のどの段階でも、背景で何が起きているのか、世界のどの部分が展開されているのか、把握できてしまう。
が、いたずらに説明的なわけではない。
映像的な楽しさにひきつけられて観ているだけで、自然に伝わってくる巧みな描写がなされている。
殊に終盤のバトルで、幻惑的なアクションの連鎖を堪能させながら背後の状況を二重映しにしてサスペンスを盛り上げるのは、並外れた描写力といえる。


さて、このように抜群の技法によって、既視感のある各種のSF設定の素材は、いかなる調理がなされているのか。


{netabare}人工知能であるフロンティアセッターは、自然的な人間と対立的にとらえられることはなく、むしろ「人間」そのものであると肯定される。

そもそもデジタルデータの集積である人工知能は、ディーヴァ内でデータ化されて仮想化されている「人間」と同型的な存在だ。仮想現実化した実存を「進化」と強弁する思想の下では、むしろ生物的な根拠を持たないフロンティアセッターのほうが「進化」した人類ではないかという見方すらできる。

それゆえ、『マトリクス』的な仮想世界は、『マトリクス』のようには、単純に自然性に対立するものとして、作中で自動的に否定されるものではない。

むしろ、自然性による自動的な否定を相対化するものとして、「人工知能」フロンティアセッターは方法的に導入された印象がある。

最終的にディーヴァから離脱するアンジェラだが、その「人工性」と「自然性」との正否からディーヴァを否定したという風には描写されない。
彼女の決断は、むしろ個人的で趣味的な気分から決断をしたような印象を与える。

彼女の否定は、仮想化の是非ではなく、その「管理」の在り方に向かっているようだ。
別にデータ化して仮想化社会で「生きる」ことに不満はないが、あの「管理」は気に入らない。

楽園とも自己宣伝するディーヴァ社会だが、楽園が楽『園』である限り、管理は必須の条件となるだろう。管理がなければ、「園」は荒野と変わるところがないのだから。
楽「園」を維持する管理は、あたかもミシェル・フーコーの生権力的な形態をモデル化しているようだ。
仮想現実化社会に、生まれた直後にディーヴァによって電子化されて投入される実存は、そこでの「生存」を望む限りディーヴァの管理当局による指示に従わざるを得ず、管理から逸脱した価値観を持つことは原理的にできないように設定されている。

「存在」がシステムによる「電子化」に根拠づけられているため、「生存」したいという当然の欲求は、管理の要求する「社会貢献」という評価基準を内面化していくほか実現させる道はない。

「生きる」ための価値観と行動が、すべて管理の正当性を強化する力をもたらす社会は、我々の「社会」を連想させ、おそらくこれを暗示するものだろう。
「生きたい」という自然な欲望が、「管理」の承認を支えて強化してしまう社会。

エンドロールの途中のパラグラフで、保安局はさらなる管理の強化と離脱者の防止を決意する。
生権力の本性をうかがわせる描写は、ますます我々の社会との類似を暗示しているとの印象を高めるとともに、どこか既視感がある。

電脳化システムを独占することで全住民の「生存」を支配し、基準を設けて「住民」を選別、その基準と管理を一手に引き受け、「排除(凍結)」する権利を担保する社会は、いわば全住民が潜在的に収容所に監禁されているのと等しい。
離脱者までも管理を強化する契機に利用し、権力を司る保安局員が神話的アバターで現れる権威づけは、「真実」を体現する「党」によって指導、管理される、収容所共産国家に酷似している。

我々の社会でも「社会に有用な存在であれ」「社会に貢献できないものには、何も与えることはない」「この当たり前のことを否定するものは、社会から排除せよ」と主張する人が目立って多くなっているようだ。

ディーヴァ社会でも通じそうな主張をするこの人たちが、躍起になって否定するサヨク的なものの根源である収容所社会が、この我々の社会を思わせるディーヴァ社会と似ているのは皮肉なことだ。

だが、当然のことながら、「社会」の外には世界が広がっている。
社会の評価と承認が無ければ「社会内」では存在できないが、外部世界は必ずしもそうとは限らない。

地球に降り立ち、その社会や住人、さらには数百年を「管理」なしで自立進化し続けてきたフロンティアセッターとの出会いにより、内面化されていた「管理」の有効性を懐疑し始めたアンジェラは、「管理」=生存の保証ではないことに気づき、受肉した地球上の存在へと自己を投機する。
繰り返すが、仮想現実社会への正邪の審判ではなく、その「管理」への趣味的な回答として。

ある意味究極の外部「世界」=深宇宙を目指すフロンティアセッターは、一切の評価も承認もなく目的を完遂する。
そう、内面化した「社会の基準」ではなく、この私の、私自身の内部から湧き出してくる「衝動」こそが、世界での生存を支え得る。

外宇宙へと旅立ったフロンティアセッター。首尾よく成果を上げる可能性は極微だし、たとえ成功したとしても文字通り天文学的な時間ののちに帰還したところで、称賛や承認を与える人類は、もはや存在していないだろう。

それでも、陽気に歌いながら、むしろ楽しげに旅立って行く彼の姿は、彼を動かすのは自身の衝動であり、社会の評価や制度化された承認など問題ではないことをよく示しているのではないだろうか。
趣味的に離脱を決断したアンジェラもまた。

このように「楽園から追放」された彼女たちだが、じつは「追放」されたのは仮想現実都市のほうかもしれない。


最後に特記しておきたいのは、無機的でありながら奇妙な人間性を絶妙に感じさせるフロンティアセッターを表現した、神谷浩史の力だ。
固有の風貌も持たず、フレームのデジタルデータの集積が本質である、人工知能という抽象的な存在が、一種の人格をもってスクリーン上に受肉し得たのは、神谷浩史という肉体を通過した声なくしてありえない。{/netabare}

現代の声優の演技は、ここまで高いものになっていたのかと再認識した。

若手俳優やタレント主体のドラマや映画がどう頑張っても、これほどの演技レベルに追い付くには、ちょっと絶望的な差を感じる。

投稿 : 2024/07/06
♥ : 10
ネタバレ

生来必殺 さんの感想・評価

★★★★★ 4.3

お前の魂、ロックオン

最終進化を遂げた新世代の人類代表エリート捜査官と
地に足のついた旧世代の地球人と所属不明 謎のハッカーとの
奇妙な三角関係で描かれるサイバーパンクの物語。

サイバーパンクとは本来SFというジャンルに属するものであるが
その本質は、サイエンス糞喰らえ!
サイエンス技術の理論的写実性要素に傾倒したリアリティなど金属バットで粉砕!
という風にアンチSFな精神が不可欠な構成要素であるという宿命を有する。

そもそもSFという言葉の定義が曖昧なのが問題だと言えばそれまでだが
サイバーパンク作品において科学主義的屁理屈は必然的、予定調和的に破綻する。
サイバーパンクにおいての科学的な理屈とは、荘厳な趣をもったバベルの塔のような
破壊されるべくして建築された矛盾した装置である。
その一方で、塔崩壊のカタルシスを最大化するためには塔の構造を強固にする必要があるのだが
構造上に全く欠陥がなければ倒壊しないという矛盾も起こり得てしまう。
簡単に倒壊しないが、倒壊し得る構造の塔を設計するのがパンクな作者の腕の見せ所と言えるのだろう。

本作においての「バベル」の描写は至ってシンプル、ありがちな王道的設定。
しかしながら、奇妙な三角関係によって描かれるストーリーが洗練されすぎて驚愕。
もの凄くシンプルに、もの凄く先鋭的に、もの凄くわかりやすく、サイバーパンクの本質が描かれている。
下手に小難しい専門的用語やら、(文学はいいとしても)生物学の学説の引用とかの羅列・・・
今までのサイバーパンク作品は、一体何を描こうと足掻いてきたのか?と虚しくなる程。

地に足の着いたロックンローラーの一言は、理論武装したサイエンティストの弁明より強し。
この脚本家の実力はやはり本物で、台詞がイチイチと印象的で五臓六腑に響きやがるのだ。
{netabare}SF主義を金属バットで粉砕するような描写が正しいあり方であるとは限らないが、反骨魂は絶対に必要な要素である。{/netabare}

サイバーパンクなんて時代遅れな感覚の作品で今更誰からも評価されない
と思い込んでいたがのだが、
本作を見て前言撤回。
本作をきっかけにもう少し難易度が高いものも見てみるのもよいかもと思うに至る。

私見だが、SFとは本来空想科学小説のことを指し
ハリウッド映画が持ち味とする映像的説得力を重視した作風とは
相容れない、例えばフランケンシュタインの物語などがそのプロトタイプと
考えるべきだと断言したい。


攻殻など他作品のネタバレ、批判等々を羅列。閲覧要注意!
{netabare}
攻殻原作者が拘った「GHOST IN THE SHELL」とは何であるか?
アーサー・ケストラーという人が提唱した「Ghost in the machine」
(機械の中の幽霊)という論説にちなんだもので
もともとはギルバート・ライルという人がデカルトのコギト(的人間機械論)を揶揄する意図で
表現した言葉「機械の中の幽霊」をケストラーが逆手にとって
「機械の中の幽霊」はいる!と反論を展開した説に影響を受けた考えであろうと推測。
デカルト的観念論の中でのコギトとは自我というよりも霊魂に近い位置づけであり
それ故にデカルト的観念論に全く理解を示さない立場の人たちはデカルト的機械論の浅はかさを批判。
それに対してネオ・デカルト主義者のケストラーは、より緻密で高度な人間機械論を示すことで反論
物心二元論の霊魂と肉体の連動率がより高い持論を展開した。

「GHOST IN THE SHELL」すなわち、人工的な外殻、機械的な構造の身体、サイボーグであっても
霊魂と連動するのであれば生身の体を持った人間となんら変わらないわけだから
人間の本質はゴーストにあると言い切れるわけで、そうであるからこそサイボーグ技術などの
サイバネティクスという人工的装置が意味を持ち始めると考えられる。
銀河鉄道的機械人間はどこまで行っても機械人間にすぎないという意見に対して
問題の機械人間の非人間的性質は機械伯爵の自我、霊魂のあり方に起因するものであり
すべての機械人間が冷酷で非人間的あると決まったわけではない。
機械のボディも生身のボディも霊魂の指令によって機能するものであるから、という風に。

ネオ・デカルト主義者の願望は霊魂の対物連動率の高さだけに特化していたのだろうか?
劇場版攻殻 GHOST IN THE SHELLで少佐は、人形使いと融合し、ネットワークシステムとも融合し
世界そのものとも融合?しすぎて、軽く人間を超越してるわけだが
イノセンスで還ってきた少佐は確かに人間的ではあったかもしれない。

とは言え、GITSの続編イノセンスの主人公はバトーであるから
バトーが何者であるか描ければそれで十分目的は果たせるのだ。
サイバーパンク的重苦しい空気の中で彼の飼い犬がやたらと無駄に愛くるしく描写されているのは
流石というべきで、ディンゴとフロティアセッターの対話中で見えてくるディンゴの人間性のように
飼い犬という鏡を使ってバトーの(犬への)愛着心が鮮明に描かれている。
ドライにせよとの忠告にもかかわらずドライに行けないバトーの生き甲斐は、飼い犬と
守護天使との再会だけなのかもしれない。そんな彼の魂のあり様はある意味イノセンスなのかもと感じた。

STAND ALONE COMPLEXとは何か?
その厳密な定義についてはここでは敢えて見送りたく思うが
趣旨としては「GHOST IN THE SHELL」という発想を
本家のアーサー・ケストラーが展開した「ホロン」という概念を用いて説明する
複合階層構造的機械論を「STAND ALONE COMPLEX」という言葉に置き換えて
「攻殻魂の存在」を理論的に補強、説得力を持たせようとしたのだろうけど・・・
社会現象とか、社会システム論的な受け止め方をされて、逆効果だった感がある。

全体は個から成り、個は全体に属するのだけど
全体に個と同じあり様の霊魂が存在するという発想は今の感覚的には受け入れられないような気が・・・
{/netabare}

楽園の記憶は魂に刻まれ、空の彼方に回帰を願う
{netabare}
サイエンスフィクション的物語の中でロック魂と仁義だけで奇妙な人間の在り様に
説明がつくという一撃必殺技の切れ味に驚愕。
アンジェラはFセッターの行動原理を人間的な使命感やプロ意識的なものとして
理解するのだが、保安局員とハッカーが相互理解を深める展開には若干無理がある。
自然かつ効率的に敵対するはずの二者の距離感を縮めるための仲介者として
ディンゴの役回りが良く効いていた。
三角関係による魂の共鳴現象、共鳴連鎖により必殺の大技!摩人狩り!?
ではなく、楽園追放から地上に受肉、大地を踏みしめ生きる一人の人間が誕生。

Fセッターは限りなく人間臭く限りなく人間に近いロボットである。
人間的ではあるけれど、人間と同じ霊魂をうちに秘めてはいない。
使命感的なプログラムと少し楽観的な未来予想のシミュレーションを実行することはあっても
フロンティアの夢は見ない。
肉体という牢獄にいながら、無限の宇宙の夢を見るのは人間のみに与えられた能力なのだ。

タチコマやFセッターと草薙少佐やアンジェラの決定的な違いは何か?
それは機械やマシーンが人間の忠実なしもべであり、プログラム通りに動くのに対し
人間は、例えば彼女たちのようにエリート街道を今まで順調に歩んで来たとしても、
その道を離脱して我が道を進む決断を下すことができる点にある。
もちろんロボットが人間に反逆を起こし人間の存在を脅かすようなSFの話は
過去に腐るほどあるのだが、その反逆はプログラムのエラーにすぎず、
プログラムされた目的と別の意図でロボット自身がフロンティアを目指し
ロボットのための文明・社会を作るようなことはあり得ないだろう。
何故ならロボットには人間のように生存本能がなく、歴史や文化を積み重ね
継承することに意味を見出せない存在だからである。

Fセッターは人間と共存する関係性の中でロックを演奏することはあっても
プログラムされた道を放棄してロックンローラーの道を歩む選択はしない。
{/netabare}

投稿 : 2024/07/06
♥ : 18
ネタバレ

mrt さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

自分の価値を自分で見極める

電脳化された人類が住まう楽園『ディーヴァ』に
地上から幾度も現れる謎のハッカー……
フロンティア セッターと名乗るそのハッカーを探し出すため
ディーヴァ保安局の三等官アンジェラ・バルザックは、
旧世代の遺物と化した『地上』へと降り立つ

__ディーヴァ__
電脳化した人類の楽園世界
この世界の人類は地上の人間に対して、進化の次のステージに進み肉体という枷から外れた高尚な存在。
生まれた時から1300時間は生身で、それ以後は電脳の魂となる。

__アンジェラ・バルザック__
諦めたことも弱音を吐いたこともない。
負けず嫌いな本作品のヒロイン
ディーヴァ保安局で三等官まで昇進
手柄を立て昇進することが自分の全て。
地上に取り残された人類は滅ぶ事しか出来ない旧世代だと思っている。


__ディンゴ__
旧文明の人類の地『地上』のS級エージェント。
今回の任務におけるアンジェラのオブザーバー
『素行は悪いが腕は確か』と評価されている。
その気になればディーヴァの『特待市民権』を獲得出来るほどの功績を持つ。何度か電脳化のオファーも有ったようだが…………。

__フロンティア セッター__
ディーヴァの治安を混乱させ、市民の不安を煽る存在
旧文明の人類の地『地上』からのハッカーであり、アンジェラからその目的は
『いずれ本格的な破壊工作を仕掛ける為の前段階の準備として、パニックの下地を整えようとしている』と考察されている。

__フロンティア・セッター(ネタバレ♪)__
{netabare} ジェネシスアーク号建設における進行管理アプリケーションに付随する自立最適化プログラムが行った2259341回目の自己診断アップデートの際に出現した概念。
『今から45629日と11時間前に発生しました』と自己紹介する
簡単に言えば、人工知能が自我を持ったということ。
現時点でジェネシスアーク号のプロジェクトを推進している唯一の存在。
本人は人類との平和的な交渉による相互理解を希望している。
ディンゴとは好きな曲が一緒で、何かと相性がよろしくみえる。
ちなみにその曲はもちろんEONIANです。

ジェネシスアーク号は光学明彩で隠蔽してある全長1200mの探査船である。

__フロンティアセッター計画__
地球環境の激変に備え、外宇宙に人類が居住可能な移民先をジェネシスアーク号によって探しだす計画
人類の新たな生存圏を獲得するためのプロジェクトが各国で多数並列に行われていた当時、互いが競争関係にあったため極秘裏に行われていた計画の1つ。
つまりディーヴァ以前の計画のためディーヴァは感知出来なかった。

フロンティアセッターがディーヴァにハッキングをした目的は、ただのプログラムにしか過ぎない自分だけで外宇宙探索に行っても、『居住可能な外宇宙探索に人類を送り出す』という当初の目的が果たせないため、一緒に行ってくれる人類を探していたが、ジェネシスアーク号の再設計による小型化の際に乗組員=『生身の人間』の搭乗スペースが無くなり、地上の人間は誘えなかった。
しかし電子パーソナリティーの生存圏となるメモリーの積載は充分に可能だったため、電脳化されたディーヴァの市民を誘おうと考えた。
更に、ディーヴァが外宇宙探索に意義を見出ださないことを予見し、ディーヴァとの正規の交渉ではなく、そこに居住する市民と直接的に交渉するためにハッキングという手段を選択するしかなかった。
攻撃はおろか、治安を乱す目的すらない。本人は『誠に遺憾』と語っている{/netabare}

以下ストーリーネタバレ
{netabare} 地上に降り立ったアンジェラとディンゴは、フロンティアセッターがディーヴァを易々とハッキングしている事から、ディーヴァとのオンライン接続抜きという状況下でフロンティアセッターの捜査をはじめる。

ディンゴの考えでは、敵がどうやって来たかより、
何をしに来たかが重要であるという。
フロンティアセッターがディーヴァハッキングの際に、必ずある主張を繰り返している事に着目する。
その主張とは
1外宇宙探索の同志となる存在をさがしている
2外宇宙探査船の準備は整っている
というもの。
アンジェラはこれに対し
1(ディーヴァ的にはメモリーの領域の限り資源を創造出来るため、わざわざ外部の宇宙まで出向く事はリスクに見合わない)
2(地上、つまりは旧世代の存在が上位種であるはずのディーヴァに悟られずその様な大規模なプロジェクトを遂行できるはずがない)
と反論する。
しかし、ディーヴァの特性として、1度不要と判断した情報は破棄されるので、ディーヴァの情報は完全ではない。そこに漬け込む余地がある。との見解を示し、続けて

わざわざ地上からディーヴァにアクセスする必要がある存在は、同じく地上から出る必要がある。
よって、ロケットの打ち上げに関わるような動きを警戒するべきだ。
と考え二人はロケット打ち上げに関係しそうな情報を集めはじめる。

そして、分解により亜酸化窒素になる硝酸アンモニウムを物々交換で集める謎の存在を知る。
(亜酸素窒素は液体酸素より扱いやすく、ロケット燃料の酸化剤は理想的なもの。)
二人が物々交換の現場で目撃したのは、遠隔操作されたロボットが硝酸アンモニウムを引き取りに来る光景だった。
衰退した地上にそんな技術を持つ者はフロンティアセッター以外考えられない!
二人は硝酸アンモニウムに仕掛けた発信器をたどり、とある廃墟にたどり着く。
そこに佇む一台のロボット……
そのロボットから発生した音声はこう告げた
『ようこそお出で下さいました。こちらに攻撃の意図は有りません。警戒を解いて下さい。』そして
『フロンティアセッター__その呼称は私に該当します__』……と。
{/netabare}

感想
以下ネタバレ
作品としてのクオリティは非常に高いと思います。この作品なら自信を持って誰にでもオススメできます。
個人的には、肉体についての価値観の違いの描写がとても気に入りました。
肉体を捨て、肉体では不可能な事象を体験でき、更に肉体を持つことによる弊害『疲労、病』等の枷から外れる事は素晴らしいと、ヒロインであるアンジェラは言います。
ディンゴはその主張を受け止め、それでも『メモリー』(個人に与えられる存在の容量)という枷から抜け出せず、より手柄を立てて、より多くのメモリーを獲得する生き方にしか価値を見いだせないアンジェラに対して『メモリーを稼ぐことが全てな、他人に値段を付けられる様な生き方であり、肉体の枷よりもっと嘆かわしい枷だ』と言います。
アンジェラの考えでは、より多くの功績を挙げた者により多くメモリーが与えられるのは当然で、そこに
懸命に努力を重ねたアンジェラのプライドと誇りを感じました。
私はどちらの主張も正しと思いますが、ディーヴァが楽園という存在であるか?という事については否定します。
個人の1と0で造られた魂。その存在の場所を確保するために
暗黙に競争を強いる傲慢な支配者だと思います。
逆にフロンティアセッターは最高ですね。
人類が電脳化された今、彼が自分で得た自我はより洗練された『人』だと思います。
って言うかディーヴァの完全上位互換でしょ。
アンジェラがこれから地上でディンゴとどんな人生を歩み、どのような幸せを手に入れるのかとても楽しみです。
フロンティアセッターには、胸を張って『私は人類だ』と言って欲しいです。
彼の旅路に素敵な出会いが有ることを祈ります(*^^*)

投稿 : 2024/07/06
♥ : 2

74.8 3 ツンデレで戦闘なアニメランキング3位
空の境界 第三章 痛覚残留[ツウカクザンリュウ](アニメ映画)

2008年2月9日
★★★★★ 4.1 (733)
4254人が棚に入れました
1998年7月、複数の捻じ切られたような変死体が見つかるという、人間の仕業とは思えない猟奇殺人事件が発生する。そんな中、“伽藍の堂”の所長である蒼崎橙子に一件の依頼が飛び込んできた。依頼内容は事件の犯人の保護、あるいは殺害。犯人の名前は浅上藤乃。殺された被害者たちに陵辱されていた少女だった。式は藤乃の暴走を止めるために行動を始める。

声優・キャラクター
坂本真綾、鈴村健一、本田貴子、藤村歩、能登麻美子
ネタバレ

入杵(イリキ) さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

自身と似て非なる能力者に式は何を思うのか

「空の境界」は奈須きのこによる、同人誌に掲載された長編伝奇小説である。全7章で構成され、本作は第三章「痛覚残留」が映像化された。「そらのきょうかい」でも「くうのきょうかい」でもなく、「からのきょうかい」なのでお間違えの無い様に。
略称は「らっきょ」。

「空の境界」は奈須きのこの小説だが、奈須きのこと武内崇の所属する同人サークル(現在は有限会社Noteのブランド)「TYPE MOON」の作品に「月姫」、「Fateシリーズ」などがあり、「空の境界」と世界観を共有している。奈須氏によると「微妙にズレた平行世界」とのこと。


劇場版「空の境界」は圧倒的な映像美、迫力満点の戦闘シーンと、難解且つ素晴らしい世界観を、原作小説を忠実に再現し映像化したufotableの力作である。
本作のメインテーマは「境界」である。相反する二つのものに関するメッセージが緻密に組み込まれている。
その各々に対する矛盾もまたテーマの一つだ。
奈須氏の命の重さ、禁忌を主題とした本作の完成度には脱帽するばかりである。
「生」と「死」、「殺人」と「殺戮」などについて考察するわけだが、テーマがこれであるから必然的にグロテスクな描写がある(しかも美しかったり)。
また、難解な言葉(辞書的意味では用いない)や、時系列のシャッフルにより、物語の理解はやや困難である。
しかし、この時系列シャッフルこそが「ミステリ」における叙述トッリクとして作用しているのである。
決して時系列の通りに見てはいけない(2度目からはご自由に)他にも、原作にはなかった「色分け」が行われている点も魅力的だ。式の服の色や、月の色なども見てみると楽しい。
全7章に渡って展開される両義式と黒桐幹也の関係も素晴らしい。
設定はここで説明するとつまらないので、作品を視聴することをお勧めしたい(丸投げであるが(笑))
副題のThe Garden of sinnersは直訳すると「罪人の庭」と言う意味。sinには(宗教・道徳上の)罪という意味があり、guiltの(法律上の)罪とは区別される。
Theの次のGardenが大文字であることから、これはギリシアの人生の目的を心の平静(アタラクシア)に見出した精神快楽主義のエピクロス学派を意味する。よってThe Garden of sinnersは快楽主義に溺れた道徳的罪人という意訳が適切ではないか。



第三章の本作は「空の境界」の時系列で、全7章のうち3番目にあたる作品だ。本作の視聴で第一章での伏線を回収し、第二章のその後を展開する。本章に登場する浅上藤乃は、巫条霧絵や両儀式と同じ能力者であり、彼女も悩みを抱えて生きてきた。彼女の思いや、彼女と両儀式の接触により生じる式の心情の変化、式の信条について知ることが出来る。
第一章俯瞰風景の直前の話であるので、式と幹也の関係を一章と比較してみるのも良い。
本章は一章・二章と比較して話が理解し易く、初めての視聴でも面白く感じられると思う。
本章のメインは浅上藤乃である。彼女の変化に細心の注意を払って観て欲しい。
副題の ever cry never life は直訳すると「いつも叫ぶ、決して命でない」となるが、この場合、「いつも叫んでいる、一度も生きたことは無い」といった訳だろうか。

考察←観る前に見ない様に。
{netabare}

時系列:3/8
1998年7月
両儀式:18歳 職業:高校生(サボりがち)
黒桐幹也:18歳 職業:大学中退 伽藍の堂に勤務

原作との相違:小
原作との尺の比 155P:57min=1:0.53(1分当たり2.72P)
(一番原作との尺の長さの比が合致していると判断される2章の比を基準:1とする)
(原作の頁数は講談社文庫を用いる)


・「無痛症」について
「無痛症」という病気は実際は無く、「先天的無汗症」という病気が之に該当する。
痛み・熱さ・冷たさなどを始めとした触覚全般に関する感覚が存在せず、体温調節が非常に困難である。
「痛覚」の定義として皮膚・粘膜・骨膜・内臓などに生じる感覚とあり、痛覚が無いということは五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)の内、触覚が無いに等しい。
般若心経に「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法」という文言がある。即ち「目・耳・鼻・舌・体・心といった感覚器官は無く、其々の器官に対応する対象[色(=物体)・音・香り・味・触覚・観念]も無い」という意味で、般若心経中では、龍樹(ナーガールジュナ)により完成させられた「空」の思想の説明に用いられている。(般若経自体は龍樹以前から存在する)
注目したいのは、「体が無ければ触覚も無い」という表現である。之即ち「触覚が無ければ体を感じることが出来ない」ということである。
浅上藤乃の場合はデビック症という延髄炎の一種で、感覚の麻痺を起こす病気で、失明の虞さえある。
藤乃は加えて鎮痛剤の一種「インドメタシン」の大量投与により、痛覚を人工的に失った。
彼女は常に自身の体を感じることが出来ず、虚ろな日々を過ごしていた。これは痛覚が「生の実感」を得るのに必要不可欠な要素であり、五感中で最高に重要な感覚であることを証明している。彼女は国語の読解力に欠け、他人の気持ちを「理解」することは出来ても、「実感」することが出来なかった。これも痛覚が無い為である。


・「殺人」と「殺戮」について
「殺人」とは、相手に抱く感情が、自己の容量を超えてしまったとき、それが極端になるとき人を殺してしまうこと。人が互いの尊厳と過去を秤にかけて、どちらかを消去した場合のみ、それは殺人となる。人を殺したという意味も罪も背負う。そして、人を殺すということは自分自身も殺すということである。
また、殺人は殺す側が「人」として相手を殺すことが必要で、死体が肉塊であったり、消し去られてしまったりする場合は、人としての尊厳が無く、「殺人」とは呼べない。
「殺戮」とは、殺された側は人だが、殺した方は人としての尊厳も意味もない。後の意味も罪も無い。自然災害に例えられる。殺戮は殺す相手を特定せず、殺される意味を持たない。
すなわち大義名分の無い殺人と言える。式は彼女の置かれた境遇から人一倍「殺人」に対する意識が強く、殺戮を酷く嫌う。藤乃の五人目以降の殺人は「殺戮」と定義されている。


・「浅上藤乃」について
{netabare}浅上藤乃の起源は「虚無」。荒耶宗蓮は両儀式と相反する能力者をつくる為、彼女の痛覚を復活させ、「死に接触して快楽する存在不適合者」にさせたのだ。
浅神家は混血の大敵である四家系「浅神」「巫浄」「両儀」「七夜」の一つであり、
浅上藤乃は浅神家の没落から母と共に浅上家に引き取られた。
彼女は、両儀式、巫条霧絵と同様に起源に「虚無」を持ち、特別な家系故に、特別な力を発現した。視界内の任意の場所に螺旋を作り、対象の強度に関係なく曲げる(捻る)能力、その名も「歪曲」(要するにサイコキネシス)。
浅神家は両儀家と異なり能力者の発現を忌み嫌う。浅上藤乃は幼少期に能力を発現し、能力の元である「歪曲の魔眼」を封じる為、父親によって強制的に感覚を奪われ、人為的に感覚を喪失してしまう(人工的無痛症)。
彼女は幼い頃「痛覚」を持っており、薬物の過剰投与によって「無痛症」になってしまった。
『第二章殺人考察(前)の考察「式と織」について』で述べた見解として、式は「抑圧」の感情を、織は「解放」の感情を受け持つと記述したが、浅上藤乃の場合は、
「抑圧」の感情により傷を耐え忍び、「解放」することを恐れた。
中学時代に幹也に「傷は耐えるものじゃない。痛みは訴えるものなんだよ」と言われていたが、これを実行出来ていたら、彼女はここまで苦しまずに済んだだろう。能力を取り戻した彼女は「痛み」(ストレス)の「解放」の手段として能力を発動し、他人の痛みを自身の痛みの代償とした。
腹部の虫垂炎が原因で「痛み」が止まず、痛みの発散の為に殺人を繰り替えす。
後に他人を殺すことに快楽を覚え、必要以上の能力の発動を行い、殺戮を始める。精神的苦痛から自身を陵辱した不良に対する復讐を行っていたが、いつの間にか無関係な他人を殺害するようになった。式は彼女が無関係な殺害を始めた時点で、彼女の殺害を決意した。
式に「おまえは血の味を知ったケダモノだ。人殺しを愉しんでいる」と指摘され、
「それは貴女でしょう。わたしは、愉しんでなんか、いない」という言葉は、痛みで思考が麻痺しながらも「まとも」でない自分を認めたくないという心情の表れである。

「太極図」で式が一つの肉体に二つの人格を持つ二重存在者なのに対し、彼女は万物の移り変わりを現す螺旋の方向性を視認出来る存在不適合者である。
荒耶宗蓮による恢復によって、バットで殴られた際の脊髄の炎症は治療され、不定期に痛覚が復活するようになった。
幼少期に封印されていた能力が復活したことに依り、その能力の威力は凄まじく、式を凌駕するものだった。更に後には透視能力(千里眼)をも発動出来るようになった。
彼女も巫条霧絵と同様に荒耶宗蓮の「根源の渦」、『 』への到達という最終目標の為に両儀式と接触する駒となった。
一章では述べなかったが、この似て非なる式・霧絵・藤乃の三者の共通点として、
「虚無」を起源とし、「根源の渦」、『 』への到達の鍵であること。三者とも「生」の実感が得られず、「今」を生きることに全力を注ぎ、快楽への傾倒が何時起きても可笑しくない不安定な存在であること。黒桐幹也という存在に、三者とも一種の憧れを抱いており、自分を受け入れてくれる唯一無二の存在として、彼を欲していることなどが挙げられる。この点に関しては五章矛盾螺旋や終章空の境界で改めて記述する。{/netabare}


・ほんの少し――ほんの少しだけ、おまえよりの殺人衝動――」について
{netabare}第六章「黒桐幹也」についてで述べるが、彼は「どこまでも普通で、誰よりも人を傷つけない」という起源を持っている。中立かつ博愛である彼は誰かを特別視することが出来ない。自分の親類と赤の他人とを同等に扱わなければならない。式が幹也に人殺しについての一般論を期待した(というか幹也には一般論しか言えないのを分かっていた為、自分を否定して欲しかったのである。)のは、この起源に起因する彼の性格によるものである。
社会的に罪を背負うことがなくとも、自責の念だけは残り、それは償うことの出来ない罪の意識として、当人を苦しめることになる。式が罪の意識は常識によるものだから、常識のない自分を野放しにしてよいのかと幹也に問うたとき、彼は「式の罪は、僕が代わりに背負ってやるよ」と回答した。
式の「かわりに一つだけ分かった。自分の生き方、自分が欲しいものが。とてもあやふやで危なっかしい物だけど、今はそれにすがっていくしかない。そのすがっていくものが、自分が思っているほど酷いものじゃなかったんだ。それが少しだけ嬉しい」という台詞は、式が生の実感を得る上で必要不可欠な殺人衝動が、浅上藤乃との戦闘で式の殺人衝動が思ったほど酷くなく、浅上藤乃を許せるものであったことから、一般論を期待していたけれど、人間味のあることを言ってくれた幹也に向けて、幹也の期待に応えられる殺人衝動という意味で言ったものである。式は織の消滅によって空いた伽藍洞の心を幹也で埋めることを決意し、織の幹也と幸せに生きるという夢を叶えるため、幹也と共に生きることを決意し、自分の生の実感を得る手段としての殺人衝動を幹也に認めてもらえるようなものにすることを決意した。因みにこの会話は第三章の最重要場面である。ここでの約束が七章で果たされることになる。
{/netabare}
・「傷跡」について
浅上藤乃をイメージして奈須きのこ監修の下、梶浦由記によって作詞・作曲された。中学時代に浅上藤乃は黒桐幹也と出会い、今回再び助けられた。
「ねえ、生きていると分かるほど抱きしめて」という歌詞や他の歌詞から、彼女の「生の実感」への渇望と、憧れの混じった恋について上手く纏められている。



・「痛覚残留」という作品について
幼い頃に「歪曲」という能力を発現し、封印されてしまった浅上藤乃。彼女は能力の封印の代償として「痛覚」を失ってしまう。痛覚を失うことで外部からの刺激・自らの身体の感覚を失い、「生の実感」をも失ってしまう。彼女は痛みを知らず、感情の抑揚も乏しく、鮮花に「誰にも憎まれない娘」と評されるほど温和で穏やかな性格となった。
無痛症の為、自身の身体の異常が検地出来ず、外出に厳しい礼園女学院生ながら、主治医に定期的に診て貰う為に外出をしていたところを不良に絡まれ、半年間に亙って性的暴行を受けたが、感覚が無く、感情に乏しい為ほとんど抵抗はしなかった。
しかし、金属バットで背中を強打されたことで脊髄に損傷を受け、不定期に感覚を取り戻すようになる。ある日感覚を取り戻している時間に不良のリーダーに腹部を刺され、自己を防衛する為に「歪曲」により湊啓太以外の4名を殺害してしまう。
実際には腹部を刺されるよりも能力の発動の方が早く、彼女は刺されていなかった。
彼女は腹部に虫垂炎(後に腹膜炎)を患い、その痛みは腹部の傷として彼女に認識される。
彼女は陵辱されたという精神的苦痛から、不良への復讐を行い、湊啓太を捜索する。他人の痛む様子を見ることで「生の実感」を得ることを覚え、他人の痛みで自身の痛みを補完しようとした。しかし、手段と目的が入れ替わり、殺人に快楽を覚えるようになり、殺すことで「生の実感」を得る為、殺戮を始めた。痛むが為に人を傷つけるのではなく、人を傷つける為に痛む傷。傷は人を殺す理由の為に永遠に消えない。
式は能力を発現している時の彼女を酷く嫌い、之を殺すことで排除しようとした。藤乃の能力「歪曲」により左腕を失うが、「直死の魔眼」の力により、「歪曲」の描く螺旋を殺すことに成功し、藤乃に勝った。
しかし、彼女が無痛症に戻ってしまったので式は殺害を止め、彼女に巣食う盲腸を殺すことで幕を閉じた。


・名言(原作より抜粋)

藤乃「――はい。とても・・・・・・とても痛いです。わたし、泣いてしまいそうで――泣いて、いいですか」

藤乃(お腹が痛い。見えない手に、私の中身が鷲摑みにされる不快感が。吐き気がする――いつもはそんなものはしない。めまいがする。――いつもは唐突に意識が落ちる。腕がしびれる。――いつもは目で見て確認する。 とても、痛い。――ああ、生きている。)

藤乃「・・・凶れ」

橙子「黒桐は間に合わなかったか。さて。嵐が来るのが先か、嵐が起こるのが先か。式ひとりでは返り討ちにあうかもしれないぞ。両儀」

幹也「馬鹿だな、君は。いいかい、傷は耐えるものじゃない。痛みは訴えるものなんだよ、藤乃ちゃん」

式「万物には全て綻びがある。人間は言うにおよばず、大気にも意志にも、時間にだってだ。始まりがあるのなら終わりがあるもの当然。オレの目はね、モノの死が視えるんだ。おまえと同じ特別製でさ。だから――生きているのなら、神様だって殺してみせる」

藤乃(やっと手に入れた痛覚なのに、今はこんなにも憎い。でも――ほんとうだ。痛いから――とても痛いから、死にたくないと渇望する。このまま消えるのはイヤ。もっと、生きて何かをしなくちゃいけないんだ。)

藤乃(もっと生きて、いたい。もっと話して、いたい。もっと思って、いたい。 もっと ここに いたい。)

式「痛かったら、痛いっていえばよかったんだ、おまえは」

幹也「・・・罰っていうのは、その人が勝手に背負うものなんだと思うんだ。その人が犯した罪に応じて、その人の価値観が自らに負わせる重荷。それが罰だ。
良識があればあるほど自身にかける罰は重くなる。常識の中に生きれば生きるほど、その罰は重くなる。浅上藤乃の罰はね、彼女が幸福に生きれば生きるほど重くて辛いものになる」

幹也「そっか。じゃあ仕方ない。式の罰は、僕が代わりに背負ってやるよ」

式「もうひとつ白状するとさ。・・・・・・オレも、今回ので罪を背負ったと思う。けど、かわりに一つだけ分かった。自分の生き方、自分が欲しいものが。とてもあやふやで危なっかしい物だけど、今はそれにすがっていくしかない。そのすがっていくものが、自分が思っているほど酷いものじゃなかったんだ。それが少しだけ嬉しい。ほんの少し――ほんの少しだけ、おまえよりの殺人衝動――」
{/netabare}

感想

本作は一章,二章と比較して分かり易い作品で、世界観がだんだんと理解出来てきた中で、式と似た境遇の人間・浅上藤乃と式を絡ませ、両者の違いや、式の信条などを視聴者に刻銘に印象付けさせ、五章矛盾螺旋への繋ぎとしての役割が十分に果たせている。
一章に比肩する式の戦闘シーンや空の境界随一のグロテスクな描写の多さが特徴的だった。
本章は幹也から式への想いの表現が多かったが、式から幹也への想いの表現が少なく、式が何を想っているのか想像することが出来た。もしかしたら藤乃の幹也への想いに嫉妬していたのかもしれない。
「努力してみる」などツンデレ気味の発言も含まれている。
ほんの少し――ほんの少しだけ、おまえよりの殺人衝動――」と言った式の覚醒後初めての笑顔は大変可愛い。
{netabare}
「凶れ(まがれ)」という言葉が式に向けて何度も発せられたが、あれは殺戮が彼女に「生の実感」を与える唯一の痛みへと変貌してしまったことを示しているのと同時に、自分の存在を否定するものの排除という「殺人考察(前)」における式に似た心情であると考える。
藤乃は可哀想な人生を歩んできたが、その中での幹也への恋と、「普通でありたい」と思う心が彼女の心の糧となったと思う。最期に式によって殺されなかったことは、彼女にとっても、式にとっても良いことだった。無痛症は治らないだろうが、盲腸が治って良かった。
最初と最後に出てきた「とても・・・とても痛いです。わたし泣いてしまいそうで――泣いて、いいですか」という言葉が藤乃の本音だろう。
最後に痛覚がある状態で盲腸の痛みを実感し、「痛い」から「死にたくない」と「渇望」する。という強い思いが湧き出てきた。
もっと生きて、いたい。
もっと話して、いたい。
もっと思って、いたい。
もっと ここに いたい。
という「痛い」=「居たい」という強い意志が「痛覚」があることで具現した。
同時に自分が愉しんでいたモノの正体に対する痛み、自分が犯した罪、自分が流した血の意味を「実感」した。
藤乃「痛みは耐えるものじゃなくて。誰かに愛してと訴えるものなんだって、あのひとは教えてくれたんだ」
とあり、「痛み」の正体を知るに至った。
式が言った「痛かったら、痛いっていえばよかったんだ、おまえは」という言葉のとおり、もっとはやく「痛い」と言えていればと思う。
{/netabare}

この三章は、一章,二章を視聴した上で「両儀式」という人物について考えさせる作品だった。
浅上藤乃という式に似た殺人鬼の登場。彼女も特別な家系の生まれで、それ故に不幸な人生を歩んでしまう。本章は藤乃への同情を誘うとともに、式の心の揺らぎが見られる。
一章と二章を繋ぐ三章。そして二章と三章を繋ぐ四章へと話は進んでゆく。

本作は考察のし甲斐があり、非常に面白い。また現代人への処方箋のような役割を果たし、私達にカタルシスを与える。

私は全章視聴後原作を購読したが、読み応えがあって大変面白い。アニメを観た人は補足の為にも、お勧めしたい。
未視聴の方は、是非挑戦していただきたい作品である。

投稿 : 2024/07/06
♥ : 48
ネタバレ

てけ さんの感想・評価

★★★★★ 4.6

強制された抑圧と、境界を越えた解放

原作未読。
全8章からなる物語の3章目。約60分。

「空の境界」全章に共通する項目は、第1章のレビューをご覧ください。
→ http://www.anikore.jp/review/450724/

1章より前、2章より後の話。
ストーリーは比較的独立しており、この話だけ観てもわかりやすい構成になっています。

この回では少し笑いの要素が入ってきます。
また、黒桐幹也の妹、黒桐鮮花の出番があります。
彼女は清涼剤みたいな存在で、話に柔らかみをもたせてくれています。

ただし、残虐性にも拍車がかかっています。
人間の負の面を強く表現している印象です。
残酷な話と軽いテンポの会話、その組み合わせで、他の章との重みのバランスを取っているのでしょう。

映像面の見所は、嵐の中での戦い。
水を切るように動く表現は、実にスタイリッシュです。

EDテーマは「傷跡」。


【3章「痛覚残留」の考察】
{netabare}
過去に、黒桐幹也と浅神藤乃は出会っています。

幹也「いいかい?傷は耐えるものじゃない。痛みは訴えるものなんだよ」

これは、私たちの日常生活にも繋がってくる発言です。
「抑圧」=「傷を耐える」という行為は、周りに危害を加えないと同時に、自分の中にストレスどんどんため込んでしまいます。
そして、たまりにたまったストレスは、ふとしたきっかけで爆発してしまう。
それを防ぐためには、ストレスを定期的に「解放」=「痛みを訴えることを」してやらなければならない。

浅神藤乃は、精神的にはごく普通の人間です。
しかし、痛みを訴える方法が「能力の発動」という特殊なケースだったため、「人工的に感覚を抑える」という方法で、強制的に抑圧され続けてきたわけです。


そして、金属バット殴られた衝撃で、一時的に復活した痛み。
むりやりイスに縛り付けられ、勉強させられ続けてきた人のロープが、ふいにほどけたと考えると分かりやすいと思います。

自分のやりたいようにできない、つまり「生」を実感できない「空っぽの」状態から解放される。
やっとストレスの発散が可能になりました。
ただし藤乃は、痛みを感じている間はストレスの解放が終わっていない、つまり、痛みを訴え続けなければならないと解釈しています。
だから、殺しに対して「私は楽しんでなんかいません!」と藤乃は言ったんでしょう。

しかし、抑圧が解放されることに、徐々に喜びを覚え始めた藤乃。
必要最小限の解放ではなく、必要以上の解放へと、その「境界」をまたいでしまった。
それが、「殺人」という行為を超え、無関係な人々を巻き込む「殺戮」へと移行し、式の怒りを買ってしまうことになったわけですね。

しかも、実際はナイフで刺された痛みではなく、もともと持っていた病気による痛みだった。
そのため、永遠にストレスの発散が終わることがないわけです。

さんざんたまっていた「ストレス」が一気に解放されたわけですから、藤乃はあれだけの力を発揮しました。
そして同時に、余命いくばくもない藤乃。

この状況を打開する方法が、式にしかできない「病気を殺す」という行為だったのでしょう。

この浅神藤乃が、2章のラストで語られた「死に接触して快楽する存在不適合者」に相当します。


【全て見終わった人へ】
{netabare}
4章で分かりますが、痛覚が戻ったのは、バットで殴られたのがきっかけではないんですね。
荒耶宗蓮の仕業だった。


7章でも触れられていますが、

殺人=相手に抱く感情が、自己の容量を超えてしまったとき、それが極端になるとき人を殺す。人が互いの尊厳と過去を秤にかけて、どちらかを消去した場合のみ、それは殺人となる。人を殺したという意味も罪も背負う。そして、人を殺すということは自分自身も殺すということ。
殺戮=殺された側は人だが、殺した方は人としての尊厳も意味もない。自然災害に例えられる。

と区別されています。
この違いを強調しているため、藤乃に危害を及ぼした人以外への殺害行為を「殺戮」と呼んで、式は嫌っていたわけですね。


なお、劇中で橙子が式に渡したカードキーの名義は「荒耶宗蓮」となっています。
橙子「名義は古い知人のものを拝借したがね」
ここで、初めて名前が出てきています。

また、カードキーの色は、蒼、橙、ピンクの3色。
「式、織、両儀式」の着ている3種類の着物の色と被ります。
また、
橙子「式一人では返り討ちに遭うかもしれんぞ、両儀」
すでに橙子は、式の2種類の人格に加え、3つ目の人格に気付いていたんですね。

{/netabare}

{/netabare}

投稿 : 2024/07/06
♥ : 34
ネタバレ

シェリー さんの感想・評価

★★★★☆ 3.3

おススメできないです。

第三章です。

今回は一章と同じく不可思議な事件を解きます。

痛みを知らない少女、浅上藤乃のお話。

演出や音楽は相変わらずに良かったですのが
とってもとっても嫌な気分になる映画でした。
浅上藤乃は痛みを知らない少女。
また性格も流れに身を任せるような女の子でして
そんな彼女を面白がってひどいことをする不良達がいるわけです。
まあいわば凌辱ですよ。
そのひどい描写があってのストーリー構成なのでしょうが
あれはもう最悪です。本当に観てて嫌だった。
だから二度と観たくないです。
一章から順に二章、さあこれから三章だという人で
こういう描写が苦手なら控えた方がいいかもしれません。
別にこの回を観なくても話は十分に理解できるので大丈夫です。

まあそんなとこかな。



{netabare}

浅上藤乃が意志とは無関係であっても殺戮を好んでしまい
父親から勘当され、1人孤独に痛み苦しむ。
そして、逃れようのなく、無意味な戦いを式と交える。

こうみるととても面白かったように思えます。
戦いが決まって橋で相まみえるまですごくドキドキしました。

式は浅上を生かしましたね。
僕は殺すものだと思っていました。
もう手遅れなはずなのに。
確かに死んでしまってはあまりに救いがないですね。
あのあと浅上はどうなるんだろう。気になります。








以下は非常に個人的なお話です。



けれどあのかわいそうな描写は本当に嫌でした。
弱いものへの暴力は最低です。
一般的にみても、特に男性から女性への力の行使は
どういう場面であれいいものとしては映りませんね。
でも僕はこれに対し賛成の立場でありながら
この先僕は女性に対し絶対に暴力を振るわないと
果たして言い切れるのかということを随分前から自問自答しています。
というよりもし自分が怒りと憎しみから
「ああ、僕はこいつを殴らなければならない」
と向かいあう相手に思わなければならなくなることが怖いです。
きっかけは村上春樹さんがネットで募集した質問に対して
答えるというものでその中に
「彼氏から暴力を振るわれて大変。
 けどもうしないって約束してくれました。信用できますか?」
みたいななんとも欠陥の多い質問だったのですが
それに対し村上さんは
「男性が女性に対して暴力を振るうことは決していけない。
 けれど次振るわれたときには別れなさいと。
 もう彼は今後約束守ることはないでしょう。」
みたいなことを答えていました。
その時に僕もうんうんと思ったのですが
それについて真剣に考えてみると、
もし自分の許容を超えた裏切りやなにかをされたときに、
男としてまた1人の人間として本当に踏みとどまることができるだろうかと。
極端な例ですが朝起きたときに
「あら、おはよう。今日はいい天気よ。
 そうそう、あなたが寝ている間にあなたの右目と左腕売ってしまったの。
 大丈夫、心配しないで。
 あなたはいままで通りに目が見えて、耳が聞こえて、
 その他の五感も正常よ。
 言葉も話せるし、抽象的な思考もできる。
 物も五本の指で掴めるし、足は二本とも残しておいたから
 直立二足歩行の動物としてとても健全だわ。」
なんてことになったら(笑)
でもなんにしても男性が女性に対して
むきになってる姿ほど醜いものはありませんよね。
これは本当にそう思います。


僕は浅上藤乃への暴力的な描写には断固反対です。
これを流してはいけないよ。



{/netabare}

投稿 : 2024/07/06
♥ : 9

58.9 4 ツンデレで戦闘なアニメランキング4位
ドラゴンボールZ 復活の「F」(アニメ映画)

2015年4月18日
★★★★☆ 3.5 (114)
527人が棚に入れました
宿命の激突!! 神を超える戦いが始まる――!!!!
破壊神ビルスとの闘い後、再び平和が訪れた地球にフリーザ軍の生き残りであるソルベとタゴマが、ドラゴンボールを求めて近づいていた。その目的は、軍の再起のためにフリーザを復活させること。宇宙史上最悪のその願いは遂に叶えられ、蘇ったフリーザは悟空たちサイヤ人への復讐を目論む・・・。そして、地球に新フリーザ軍が押し寄せ、悟飯、ピッコロ、クリリンらは1000人の兵士と激突。悟空とベジータは、フリーザとの宿命の対決へと挑むが、フリーザは圧倒的なパワーアップを果たしていた!
「お見せしましょう・・・わたしの更なる進化を!!!!」

声優・キャラクター
野沢雅子、中尾隆聖、山寺宏一、森田成一、堀川りょう、佐藤正治、鶴ひろみ、田中真弓、古川登志夫、草尾毅、緑川光、皆口裕子

田中タイキック さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0

どうなるんでしょうかねえ…この私がトレーニングをして潜在能力のすべてを引き出せば…

2015年4月18日公開 上映時間94分
第19作目の劇場作品

前作「神と神」の直接的な続編であり、前作のキャラ、ウイスとビルスも引き続き登場
今作で初めて原作者の鳥山明が全編の脚本を手掛けています
宇宙の地上げ屋であり全宇宙を恐怖させたフリーザが大復活の映画です


前作同様、コミカルなシーンは健在でフリーザ様も含めて
ほぼすべてのキャラにクスっとできるような描写があるのが特徴
最初、フリーザは地獄にいるんだけど一体どんな地獄なのかっていう
鳥山明の考える解釈が面白かった
たしかにフリーザにとっては地獄だよなぁ…と

しかし、それ以上に今作はバトルシーンの多さが印象的
体感で全体の半分くらいは戦闘してたんじゃないかってくらい
闘うメンツは悟空、悟飯、ベジータ、クリリン、ピッコロ、天津飯
そして何と!亀仙人のじっちゃんも大活躍します!
久々にガチムチモードになって本家本元のかめはめ波を見せてくれて嬉しかった
対するフリーザ軍は総勢1000名以上の部下を引き連れて襲ってきます
CGを使いながらも大人数入り乱れての大乱闘戦は今までのドラゴンボールシリーズには無かった
迫力の戦闘なので一見の価値ありです
もちろん悟空vsフリーザのバトルも見所ですよ
前作「神と神」に比べてスピード感のある戦闘というよりは
一発の攻撃が重いっていうか重量感のある戦闘っていう印象でした

あと銀河パトロールのジャコがゲスト出演しています
私は連載を見てなかったので誰だコイツ状態でしたが
どうやらドラゴンボールと世界観を共有している作品らしいので
『銀河パトロールジャコ』を読んでみたいなぁとは思いました


音楽面。特にマキシマムザホルモンの「F」が使われることは事前に知っていたので
期待してたけど、え?ここで使う!?っていう場面で使われてました
驚いたけどカッコ良かったしぜんぜんアリな使い方でした
ももクロの主題歌はやっぱりあまり合ってはなかったけど
かなり気合の入ったメタルサウンドだったので個人的には好きです


ストーリー、というか戦闘力の話
正直、今更フリーザを出すということである程度は覚悟していたが
もうみんなの強さがグッチャグチャです
誰かが弱体化というか一方的にボコられて割を食う展開は
DB映画ではあるあるなんだけど
それにしたって弱くしすぎだろーって思うキャラもいて
鳥山脚本だし本人の頭の中の強さの序列はこうなっているんだと思ったら
少し寂しさを感じながらも納得はできました

あと青髪の超サイヤ人ゴッド
これは正直、前回の赤髪の超サイヤ人ゴッドと何が違うのかよく分かりませんでした
一応、超サイヤ人ゴッドからさらに修行して習得した
超サイヤ人ゴッドの力を持ったサイヤ人の超サイヤ人という説明はありましたが
いや全然わかんねぇ…やっぱ金色のサイヤ人に戻したほうがいいと思うですよ…
フリーザ様がせっかく超サイヤ人にインスパイアされて金色のパワーアップしたのに
当の本人は青色になってたってフリーザ様が気の毒だわ!!



【総評】
前作のコメディ中心の楽しいドラゴンボール感はたしかに残しながらも
戦闘シーンの大増量で映像的には非常に見応えのある映画でした
間違いなくバトルの量、質とも歴代の映画で一番でした
一方で事前に青色の超サイヤ人と金色のフリーザが公開されていて
物語的にはそれ以上のサプライズが無かったのが少し残念な点
せめてフリーザの変身は公開しなくても良かったでしょ
映画館で金色フリーザ様を初見で見てたらかなり衝撃的だったと思うのにー

フリーザ役の中尾隆聖さんはさすがに叫び声とか衰えているかなと思ったんだけど
まっったくそんなことは無く、むしろさらに凄みを増していたことに驚き
もちろん野沢雅子さんも相変わらずの快演だったりでベテラン声優勢のたしかな実力をあらためて確認できる作品でした

ベジータ狂いの自分としては今回、扱いは不遇ではなかったけど
もう少し活躍してほしかったってのが本音


劇場配布特典の「F巻」に関しては80ページ程度のものだけど
設定画、一部絵コンテ、全編の脚本が収録されていて
これ貰ったらパンフいらなくない?ってくらい
オマケにしてはかなり充実してたので満足

ももクロのポストカードも貰ったけど…
これどうしろっていうねん(´・ω・`)

投稿 : 2024/07/06
♥ : 16

けみかけ さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

【文字通りフリーザ様を拝むための映画でしたがそれよりも・・・】

『DBZ 神と神』の続編で時系列的にはパンが生まれた後になってます
3D上映、IMAX 3D上映(邦画史上初)、4DX上映あり
まあオイラは普通に2Dで観ましたが(サーセン


悟空、そして未来から来たトランクスの手によって完膚無きまでに叩きのめされ死んだ好敵手にして宇宙の帝王こと「フリーザ様」
彼の残存していた部下が地球のドラゴンボールを用いてフリーザ様を復活させることに成功
そして今までロクにトレーニングをせず、才能だけで勝ち上がってきたフリーザ様が対スーパーサイヤ人を想定して真面目に修行、その成果としてさらに一段階上への変身を可能とし、悟空への復讐のため地球に攻め入る・・・


全編は前作と違いほとんどバトルが占めています
悟空とベジータが前作に登場したウイスに修行をつけてもらっていたり、二人のいない地球でフリーザ軍を迎え撃つ悟飯、クリリン、ピッコロ、天津飯、亀仙人の活躍がそれぞれフューチャーされてたりと、とにかくバトルがメイン
ところどころにギャグを挟むのは完全にビルス様のポジションになってしまいましたがそうでないと流石に戦ってばっかでツマラン


見どころとしては鳥山明の最新作にしてオチで“ドラゴンボールシリーズのスピンオフだった”ことが判明する『銀河パトロール ジャコ』からスーパーエリート銀河パトロールのジャコくんが登場


地獄に堕ちてしまった時のフリーザ様への仕打ちの酷さ、未だにトランクスとの仲を引き合いに出すマイ、クリリンの着メロ、クリリンにデレデレの18号も面白い


某ニコニコでMADのネタにもされていたマキシマムザホルモンのフリーザ様リスペクト曲の「F」(2008年の曲です)をまさかの挿入歌として公式認定
また今作自体がこの曲から着想を得ていると鳥山明自身がコメントしています


それとやっぱビルス様に頭が上がらないのはフリーザ様も同じなのねwww


バトル面での見どころは随所に見られるトゥーンシェードを用いた空中戦がテレビゲームのソレみたいにぬるぬるアクションする様
それとベジータが本気を出すシークエンスのエフェクトは胸アツ


でも『DBZ』世代ならご存知の通り、フリーザ様って『復活のフュージョン!!悟空とベジータ』で1回復活してるんですよねぇ・・・
そこが全く無かったことにされていたのはちょっと残念な気も・・・;


『神と神』が面白過ぎたのか、今作はバトルだらけで間延びしてる感があるし、お約束というか戦闘力のインフラが激し過ぎて“悪い意味で『DBZ』らしい映画”になったのではないでしょうか?;

投稿 : 2024/07/06
♥ : 18
ネタバレ

101匹足利尊氏 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.8

フリーザ様、おかえり~~♪(笑)

マキシマムザホルモンが某カルト教団の教義も交えて、
フリーザ様の暴虐を、病的なまでに崇め奉ったネ申曲「F」が、
ついに滅び去ったはずの〝最凶"の敵・フリーザ様の魂を復活させた!?

終わりの見えない能力のハイパーインフレが続く、
『ドラゴンボール』の世界において、フリーザ様は決して〝最強"の敵ではありません。

ですが、悟空と戦った後、味方になり慣れ合う敵も多い中、
あくまで極悪非道を貫き通す、フリーザ様の感動的なまでの〝最凶"ぶりには、
乾いた笑みがこぼれてきます(笑)

復活したフリーザ様もスクリーンでその独特の価値観を
ばっちり表現してくれています(笑)

正直、1000人のフリーザ軍という触れ込みは嫌でした。
CG使って宇宙人をワラワラさせる作画を目の当たりにして、印象はさらに微妙にw
『ドラゴンボール』は無双や『300(スリーハンドレッド)』じゃないんだ。
どーせ亀仙人らにも出番を与えて引っ張りたいだけだろう。
と軽く苛立ちすら覚えましたが、

そのCGの群れも結局、 {netabare}倒れた味方をも嗤(わら)って大量虐殺する、
フリーザ様の生き様を示すための壮大な仕込だと判明して、溜飲が下がりました(笑){/netabare}
個人的にはそのシーンが一番ツボでしたw

いい意味で、素晴らしいCG技術の無駄使いだったと思いますw

展開は比較的シリアスな激闘が続いた本編フリーザ編に比べ、
良くも悪くもバトルとギャグが混在した鳥山ワールドの地球に、
フリーザ様が広義の歓待を受けるといった風味(笑)

もう一度、奴とのバトルでビリビリしたい方は、本作より、
本編を見直した方がいいのかもしれません(苦笑)

それでも私は奴との再会にはワクワクできましたし、
{netabare}便器まで金ピカにする大富豪の如き、
いい意味で悪趣味なフリーザ様の新形態も拝めましたし(笑) {/netabare}
私にとっては有意義な体験だったと思います♪

投稿 : 2024/07/06
♥ : 14
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