フリ-クス さんの感想・評価
3.4
『愛は地球を救う』的なアレ
名作、と一般的に呼ばれてはいるものの、僕的に
『いやいや、そんな言うほどいいもんじゃないでしょ』
というアニメが、いくつか存在いたしております。
本作『四月は君の嘘』はその代表格というか、
ぶっちぎりの一位作品でありまして、
見返すたびにアラが見つかってココロがささくれ立つ一本です。
もちろん、同作に熱狂的なファンが多いことは存じ上げておりますし、
その方々の思いを否定するつもりは毛頭ありません。
僕が言うのは「こういう角度からだとこう見える」という話に過ぎず、
どんな角度から見るかなんて、100%、個人の自由です。
そこに正誤だの良し悪しだのは存在しない、と僕は考えております。
ただ、自分が好きなものを悪く書かれて気分がいい人なんてイナイ、
というのも真なり、です。
同作に関わる美しい感動・印象を断じて犯されたくない、
そういう思いがある方は、
この先を読まれないことを強くおすすめいたします。
根拠もなくイチャモンを並べ立てる、みたいなことはしていませんが、
かなり『辛辣な表現』になっておりますし、
そのことで誰かの心を傷つけるのは、僕の本意ではありません。
ほんと、あくまでも「僕の角度からだとこう見える」という話でして、
ムリして読む必要なんてありませんから、
不快な思いをしたくない方は、どうぞお引き返しくださいませ。
警告は致しました。では、遠慮なく……
身体障害者や余命宣告を受けた方々を安易に扱い、
感動コンテンツとして消費している作品を、
巷では『感動ポルノ(Inspiration porn)』と呼んだりします。
もちろん、そういう方々と真摯に向き合い、
目を逸らしたくなるような現実を繊細に描いていくことによって、
芸術と呼べる域まで達した作品はたくさんあります。
そうした作品と『感動ポルノ』の分水嶺は、
作品を通じて伝えたいこと、訴えたいことの有無や深さ
だというふうに、僕は考えています。
残念ながら本作は後者の方かと。
作品として『伝えたいこと』なんてリッパなものはありません。
(少なくとも僕には伝わってきません)
きれいで頑張ってる少女が死んじゃったら『かわいそう』なのはあたりまえ。
プロフェッショナルのモノづくりとか物語づくりというのは、
その『かわいそう』という共通認識をフックとして、
なにを描き、なにを伝えようとするか、
それらを通じて『なんのためにその作品を創るのか』を突きつめていく、
そんなところがキモであると僕は愚考するわけです。
ところが本作は、その『かわいそうさ』をアピールしているだけ。
それっぽく聞こえるだけの言葉を並べ立て、
人のカタチまでも不自然に歪め、
ほらほら、こんな頑張ってるのにかわいそうでしょ、泣けるでしょ、
そんなふうに物語を飾り立てているだけなんです。
そこには何のメッセージもありません。
作画がかなりイイので誤魔化されがちですが、
そこに気がついちゃうと、少なくとも僕はダメです、ダメでした。
作家の「カンド-作品として他人から評価されたい」という、
『エゴ』や『自己実現欲求』ばかりが鼻について、
とても泣く気にはなれません。
で、総論的に『ダメだダメだ』と言われても、
とてもじゃないけどナットクできる話ではないと思いますので、
ここからは総論や抽象論ではなく具体的に、
どこがどう、なぜダメなのか
というポイントを列挙してまいりたいと思います。
【1.オマージュにおいて、引用元への理解・リスペクトがナイ】
リアルタイムで本作がはじまったとき、
僕はほんとうに、めちゃくちゃ気に入ってたんです。
友人にも「今期No.1はダントツでこれじゃね?」とか言ってましたしね。
作画はきれいだし、音楽も楽しいし、人物造形もしっかりしている。
ときおり「はあ?」とは思わされるものの、
そんなものを吹っ飛ばすぐらい、作品に『いきおい』がありました。
その評価にはっきりと『?』がついたのが、
第八話、井川絵見が演奏する『木枯らし』でのモノローグです。
{netabare}
ここで絵美は心の中で『響け』と三回連続で唱えます。
これはもちろん『君に届け』のオマージュですね。
黒沼爽子が風早くんに思いを伝えるべく、
心の中で『届け』と唱えながら駆けていくシーン。
オリジナルの方は、能登麻美子さんによる歴史的名演です。
ひとつめの『届け』は、まだ『願望』に近いもの。
ふたつめの『届け』で、それがはっきりとした『意志』に変わり、
みっつめの『届け』では、さらに熱い『情熱』へと昇華します。
わずか17秒、たった九文字しかないこの台詞に、
爽子という『人間』の軌跡と成長、魅力が全て込められています。
本作での『響け』は、その劣化版。
絵見は最初から自分の感情全開で演奏をしていますから、
言葉の意味も重さも変わりようがありません。
ただ『君に届け』レベルの脚本は年に数本あるかないかですし、
うわっつらを真似ただけになるのは、
まあギリギリ、理解できないこともありません。
問題はそこではなく、
能登さんに基礎声質が似ている早見沙織さんに、
当のご本人、能登さんの面前でこのセリフを言わせたこと。
ギャグとしての扱いやバラエティ企画ならまだわかりますが、
ガチな物語・お芝居の一環としてこの演出というのは、
『下品を』通り越して『下劣』の一言。
もちろん『結果として、悪気なくこうなった』可能性もあるわけですが、
僕が製作なら、制作の現場に任せず、
事前にお二人の元に出向いて説明とお詫びをします。しなきゃいけません。
もちろん、早見さんは何も悪くありませんし、
業界内で人格者と尊敬される能登さんがキレることも考えられません。
おふたりとも「そんなそんな」と笑ってくれることでしょう。
ただまあ、やっぱりカチンときたんでしょうね、特に能登さん。
この後につづく早希(公生の母)のお芝居において、
早見さんがかすんじゃうほど、
鬼気迫る、あるいは慈愛に満ちた素晴らしい演技を披露してくれました。
役者の意地、ここにありです。
で、この一点をもって浮かんできた疑念、つまり
この作品、オマージュでオリジナルへのリスペクト足りないんじゃね?
というのは、このあとからも出るわ出るわ状態です。
いやなんかもう、
オリジナルをほとんど理解せずに引用したのかな、みたいな感じです。
まず、本作そのものがオマージュじゃないかと言われている、
三田誠広さんの『いちご同盟』からの引用ですが、
少なくとも僕には、何らのリスペクトも感じられません。
単に音楽とビョ-キつながりということで、
カッコよくて意味深なシ-ンを無理やり引っ張ってきただけに思えます。
そもそも、入院中の女の子に『いちご同盟』を持ってく段階で減点100。
そして同作は『生と死』に向き合う少年少女の、
定まらず翻弄される未成熟な心を、精緻な技巧で描いた名作です。
面白半分に場面や台詞を切り取っていいような、
作家のエゴや売れ線狙いで書かれた作品じゃないんです。
(同作では、直美はこの段階ですでに片足を切断していますしね)
なぜ『面白半分』という強いコトバを使うのかは後述しますが、
役作りのため同作を読んでいたであろう種田さん(宮園かをり役)、
すごく演りにくかったことと思います。
あと、後半にやたら出てくる『繋がっている』という言葉は、
村上春樹さんの『ダンス・ダンス・ダンス』のパクリ、
あ、いえ、オマージュですね。
ただ、本作での用いられ方というのは、
ライトな読者やエセハルキストが都合よく解釈して流行らせたもので、
大元の用いられ方ではありません。
そもそも春樹さんは、
『人と人との情緒的なつながり』みたくありふれたものを、
わざわざ『ツナガッテイル』とカナに直して意味深っぽく強調するような
安い作家さんじゃないんです。
ラノベならいざ知らず、純文なめんじゃね~ぞおい。
あと、武士の妹ナギが公生にレッスンうける前と、連弾後のセリフ、
「われはファントム、オペラ座に潜む怪人。」
「私はクリスティーナ、オペラ座の舞台に憧れる女の子。」
というのは、もちろんミュージカル『オペラ座の怪人』のパクリ、
あ、いえ、オマージュですね。
これはもう、大本とは遠く離れた、質の低い言葉遊びに過ぎません。
最初っから姿をみせてちょこんと座ってるファントムなんかいません。
クリスティーナがドキドキしながらレッスンを受けていたのも、
ファントム(エリック)の正体を知る前のことですしね。
原作でのクリスティーナは
「正体を知る前→憧れ・師事/知った後→嫌悪・同情」であり、
かたや本作のナギは
「正体を知る前→嫌悪/知った後→憧れ・師事」ですから、
まったくベクトルが逆。かすりもしていません。
ですから、オマージュではなく『比喩表現』としても失格点。
ただ単に『音楽繋がり・かっこいいから』という理由で、
原作もろくに知らずひっぱってきただけのことではあるまいかと。
あと『ピーナッツ』からもあっちこっち引っ張ってきてますが、
これは、原作をよくしらない(英語版で何冊か読んだだけ)ので、
コメントのしようがありません。
いずれにしてもオマージュというのは、単なる『引用』ではありません。
その原作品への強いリスペクトがあることが大前提ですし、
その言葉や表現を使って、なにを伝えるか
その言葉・表現の上に、自分としてなにを載せるか
というのが大切、というか本質的なところであります。
少なくとも僕の耳には、
本作にそういうものの存在がまるっきり感じられません。
平たく言うと、本作で使われている全ての引用は、
原典へのリスペクトも感じられなければ、
必然性もなく、
その引用を通じて伝えたいこともない、
ぶっちゃけ『カッコイイから借りているだけ』にしか聞こえないんです。
こういうのは『オマージュ』とは呼べず、
単なる『借りパク』なんじゃないかと愚考するところであります。
{/netabare}
【2.音楽の扱いがザツ・オンガク論がいいかげん】
これも回が進むにつれて印象が変わっていったポイントであります。
視聴開始当初、僕は本作のことを
『ちゃんとオンガクと向き合った、ホネのあるアニメ』
だと思っていたのです。
ほんとそう思っていたのですが、回が進むにつれ、
その扱いがザツなところとか、
言ってることがいいかげんなところとか、
そういうのが鼻について、作品自体を楽しめなくなっていきました。
{netabare}
まず、とにもかくにも『演奏中の無駄なモノローグ』が多いんです。
マンガなら『音』がないから言葉で補うのは必然なんですが、
アニメでそれをする必然性はありません。
先に例示した絵美の『木枯らし(9話)』なんか、
曲の尺が4分あって、
モノローグが被さらないのはアタマの27秒とラスト15秒のみ。
全体の80%以上は『曲がきちんと聴けない』んです。
19話、武士の弾いた『革命のエチュード』なんか、
3分40秒の尺で、モノローグがないのはアタマの7秒のみ。
わざわざ子供時代の回想まで引っ張ってきて、演奏をツブしています。
さらに呆れるのは10話で、
前回(9話)で演奏が『完全に』終わっている『木枯らし』を、
もう一回、ほとんどフル尺でやっているんです。
さすがに同じ音源を二回使うのは良心が痛んだのか、
わざわざ生バンドつけたアレンジ音源をつくってゴマかしてますが、
そこには何のメッセージも必然性もありません。
『熱い、情熱的な演奏』ということを表現したいのなら
もとの音源で充分できています。
『クラシックはもっと自由なもの』ということを表現したいのなら
それを『ピアノのコンクール』の音源でやるのはおカド違い。
そんなことをするぐらいなら、
演奏中のモノローグをぜんぶ演奏前の会話劇にして9話の尺を埋め、
演奏シーンを10話一本にまとめればよかったんです。
同じような意味のないアレンジは、
13話のラフマニノフでもやってましたが、ほんと意味がありません。
つまるところ『コトバで語ること』と『オンガクで語ること』が、
ごちゃごちゃになっているんですよね。
というか『オンガクで語りたいこと』があるのかどうかも眉唾です。
キャラに「音楽は言葉を超える」なんて聞いたふうなセリフ言わせながら、
その音楽にばんばんセリフかぶせて、
言ってることとやってることが違うじゃんか、というハナシです。
ちなみに『響け! ユ-フォニアム』みたいに、
ちゃんとオンガクと向き合っている作品は、
演奏中に必要のないモノローグをいれることは、ほぼありません。
モノローグが比較的多い『のだめ』だって、
その音楽を理解・楽しむための補助的なものがほとんどです。
萌え系の『ぼざろ』や『けいおん!』だって同じこと。
イミのない言葉をできるだけ排除して、
聴かせるべきところをきっちり聴かせることに心を砕いています。
音楽で語るべきことは、音楽で語る。
そんなアタリマエができてないのは本作だけなんじゃないかしら。
演奏者に『届け、届け』なんて言わせながら、
その音楽を『きちんと視聴者の耳に届けるつもり』がないという、
国会のダブスタ発言みたいな演出になっちゃっています。
なお、幼き日の公生が楽譜に忠実に弾くことで優勝することを、
他の子どもたちが『ヒューマンメトロノーム』『譜面のしもべ』と揶揄してる、
なんてくだりもありましたが、これはもう『ふざけんなよ』です。
音楽のコンクールは、ほとんど年代別に分かれるんですが、
公生が出ていたのはおそらく小学生高学年の部。
この年代に『楽譜を自分なりに解釈』なんてスキルは求められていません。
そもそも『譜面どおり弾く』というコトバの用い方・重みが違うんです。
国立音大だってソルフェージュの授業があるんですよ?
楽譜を読み解くというのは、その曲の本質に迫っていくことなんです。
ロックバントがスコアをちょいちょいと見て、
じゃあ後はフィ-リングで、
なんていうのとは、そもそも楽譜が占めるポジションが違うんです。
コンクールって、大会によってレベル差があるんですが、
トップレベルのコンクールに出場する子どもたちやその指導者たちは、
その重みをイヤというほど理解しています。
わずか数曲を、毎日数時間、
何か月もかけて『楽譜どおり』弾けるよう仕上げていくんです。
もちろん、一曲の完成に固執することによって『独創性』や、
さまざまな曲を自分なりに楽しむ心が失われることを危惧する方もいます。
ソルフェージュ能力の発達に支障がでるとの声もあります。
ピアノ教師によっては、
子どものうちはコンクールに出すべきじゃない、という方もいるほどです。
そして、公生が出場するのはトップレベルのコンクール。
そういう場所で有馬公生というのは、
出場している方々が目指すところの『完成形』なんですね。
それを「楽譜どおりでつまんね~」とか言うのは、
ろくに楽譜も読めない、なんちゃってピアニストぐらいのものなんです。
ちなみに、本作のなかでは公生の演奏を、
「デジタル時計のようにコンマ一の誤差もなく、余韻もない」と評していますが、
そもそも、そんなものは『楽譜どおり弾いた』演奏ではありません。
それが正解なら、演奏家なんていりませんしね。打ち込みで充分です。
作品内で絵美に「つまんね~演奏」とも言わせてましたが、
それはつまり、ショパンだのモーツァルトだのは、
『指示どおり弾いたらつまんね~演奏にしかならない楽譜』
ばっか残していると言ってるのと同じです。
これはもう、わかってるわかってない以前のハナシではあるまいかと。
原作者の新川直司さんは、クラシックの経験はまるっきりなく、
高校時代はヘヴィメタばっか聞いていたんだそうです。
だからこそ、こういうめちゃくちゃなお話を書けるんだろうな、と。
このヒトって『さよなら私のクラマー』でも、
まるっきりサッカーというスポーツを理解していない、
素人のたわごとレベルの話を書いていましたよね。
知らないなら、調べろよ。
調べもしないで、
わかったふうなこと書くなよ。
本気でそれに打ち込んでいる人たちに失礼きわまりないだろうが。
{/netabare}
【3.病気と真剣に向き合っていない、デッチあげている】
宮園かをりの病気はいったいなんだったんだ、
なんていう議論じみたものがネット上に出回っています。
・白血病
・脳腫瘍
・パーキンソン病
・ALS
・SCD(脊髄小脳変性症)
・筋ジストロフィー
なんていろいろと候補が上がっていますが、
どれも「この症状はあてはまるけど、この症状や治療はあてはまらない」
ということで、結論は『わかんない』になっています。
{netabare}
そりゃあそうだろうな、と僕は思います。だって、
何かの病気を想定し、取材に基いて書いたものじゃない
というのがまるわかりなんですもの。
そういうのは、業界ではよくあるハナシなんです。
有名どころはやっぱり庵野秀明監督の『エヴァンゲリオン』ですね。
こんなアニメ、どうせ誰も真剣に見ねえや
いうことで、なんも考えず『伏線っぽいイミシンな』ものをまき散らし、
なにも回収せず(できるわけもなく)話を畳んじゃいました。
で、後から人気に火がつき、謎本まで出版される大騒ぎに。
あちこちから『謎の真相』を聞かれるんだけど、
庵野さん、ほんとに、まったく、これっぽっちも、考えてなかったんです。
「アンノのやつ、マジで頭抱えててさ。ま、自業自得だけど」
というのは、庵野さんのご友人である某漫画家さんから直接聞いた話。
まあ、結果がアレなので、禍転じてほにゃららら、なんですが。
そこから業界が得た教訓というのも、
『これからは設定をちゃんとしよう』というリッパなものではなく、
ぶっちゃけた話をすると
イザとなったら気合と口先でなんとかなるんだなあ、
みたいなアレであり、似たようなものがいまでも量産されております。
宮園かをりの病気もその一つ、ですね。
早い話「徐々に身体が弱って死に至る、手術困難な病気」であれば、
なんだってよかったんです。
だから、それっぽい症状なり病気を『デッチあげた』。
ネット上では病名を公開しないことを
『同じ病気を持つ人の希望を奪ってしまわないように』
なんて好意的に解釈してる方が多いですが、そんなわけあるかい。
かりに具体的な病名のウラ設定があったにしても、
原作者にしてみれば、
かをりが『きれいに死んでくれれば』それでよかったわけで、
正確な医学的考証なんか、ハナからやってません。
ですから、もしも具体的な病名をあげてしまえば、
「こんな症状が出る(出ない)のはおかしい」
「こういう治療をしないのはおかしい」
「このタイミングでこんな手術なんかできっこない」
などと、
同じ病気に苦しむ方々からクレームの嵐になるのが目に見えてます。
ですから、病名なんか公開できるわけがありません。
ごまかしごまかしでつなぐ以外に手はなく、
そんなわけで『誰が見ても病名が特定できない映像』になっているわけです。
ふたつ前の章の話に戻りますが、
僕が『いちご同盟』の引用を『面白半分』と称したのは
こういう理由です。
三田誠広さんがあの作品を書きあげるために、
どれほどの取材をし、
どれほどの見たくないものと向き合い、
自我の根底を揺さぶられるような思いをしたことか。
そういう取材・努力・考証を一切せず、
とりあえずきれいに死んでくれればいいやあ、でヒロインを殺すマンガ家に、
あの作品を寸借する資格なんてない、と僕は思うのですが。
{/netabare}
【4.言語表現がチンプ、言ってることが支離滅裂】
これは原作者さんのクセだと思うんですが、
ものごとを『詩人』っぽく表現しようとして、
言葉選びでコケてるところがけっこう多いんですよね。
{netabare}
「そのホイッスルは澄み切った空に乱反射した」
「壊れたシ-ソ-みたいにぎっこんばったん心臓が波打ってる」
なんて、意味わかんないですしね。
前者は『乱反射』というコトバの明らかな誤用。
比喩表現だとしても、情景がまるっきりイメ-ジできません。
後者は、ふつうに不整脈。医者行けよ医者。
{/netabare}
まあ、そういうのはただ『こっぱずかしい』だけなんですが、
それだけじゃなく、
根っこの部分で『?』となる表現も散見されます。
{netabare}
作品全体を通じて、しょっちゅうつまづいちゃうのは、
『ジブンたちは演奏家(音楽家/ピアニスト)なんだ』
という系統の表現ですね。
イシキタカイ系はけっこうなんですが、
実態は、まだ『先生について演奏を習っている』中学生です。
演奏家を名乗るにはほど遠く、
それを目指してがんばっている若者、という位置づけかと。
先のない宮園かをりが『生き急ぐ』のは仕方ないにしても、
一円も稼いだことがないスネかじり、
いくつかのコンクールで賞を取っただけの『生徒さん』が、
職業的演奏家の『生き方』を語っちゃうってどうなんでしょうか。
さらに、その前提となる演奏家論として、宮園かをりに五話で、
楽譜を投げ捨てた演奏家なんていっぱいいるよ。
それでも、また拾い上げて楽譜にむかう。
そうやって、最も美しい『嘘』が生まれる。
なんて、とんでもないセリフを言わせちゃっていますしね。
これ、言葉としてはウツクシイけれど、内容的には大問題です。
だって、その前後の公生とのやりとりも加味すると、
演奏家は、ほんとうは楽譜通りになんか演奏したくない。
だけど聴衆の喝采がきもちいいからやめられない。
で、しぶしぶやって素晴らしい演奏(美しいウソ)が生まれる。
ということを言っちゃってるわけですから。
そういう、箸にも棒にもかからない職業観をベースに、
音楽家(演奏家)とはなんぞや、ということをイシキ高く語られても、
え……まあ……そうですね、としか言いようがありません。
で、物語が進むにつれて、支離滅裂な言い草が増えてきます。
あまりにも多すぎて全部紹介できないのですが、
代表的なところを挙げるとですね、
13話 紘子(公生母の友人、ピアノニスト、公生の現先生)のセリフ
「最愛の母の死が彼に何かをもたらしたのだとしたら、
それは鬼のとおる道だ」
21話 かをりの病状にショックをうける公生のモノローグ
「音楽は、大切な人を連れ去っていく……」
まず紘子さんのセリフですが、言ってる意味がわかりません。
愛する人の死を乗り越えて開花した音楽家なんて、なんぼでもいます。
音楽的な精進のために、自らの手でその人を殺したのなら、
『鬼のとおる道』と表現してもいいでしょうが、
公生はふつうに母親の病死をのりこえてるだけ。鬼、関係ありません。
次に挙げた公生のモノローグは、もう完全に『いいがかり』です。
かをりが病気になったのって、音楽、なんにも関係ありません。
なんの脈絡もなく、
こういう理解の仕方をさせたら音楽家としてのピンチ感が増す、
そんな理由で言わせているだけのことではあるまいかと。
母親と好きな女の子がどちらも病死するって、もちろん可哀そうなことです。
だけど、その『可哀そうさ』をアピールするため、
関係ないコトバや解釈をこじつけてドラマ感をあおろうっていうのは、
僕には『とても醜いこと』に感じられます。
ヒトの『死』というのは、
そういうヨコシマな言葉で飾り立てていいものじゃない、と思うんですよね。
{/netabare}
【5.人のカタチがご都合主義で崩壊していく】
ここまでごちゃごちゃ書いてきましたが、
それでも『人のカタチがちゃんとした、ドラマとして成立している』作品なら、
僕は物語の評価に『2』なんてつけません。
ですが、その『人のカタチ』が、回を追ってぐちゃぐちゃになっていくんですよね。
これは言いたいことが山ほどあるんですが、
長くなるので(ここまででも充分長いですし)
物語の最終盤、21話と22話にしぼって言及させていただきます。
{netabare}
おさらいしておきますと、この終盤の前フリとして、
前話で宮園かをりの発作を目撃し、公生、いじけてふぬける。
→手紙をうけとり、カヌレもってお見舞いへ。
→かをりからコンクールと同じ日に手術を受けることを知らされる。
「君のせい、ぜんぶ君のせい」と指さして言われ、
わたしたちは命がけであがく演奏家じゃない、と励まされる。
→それでも「もう一週間もピアノさわってない」とダダをこねる公生。
→かをり、必死にたちあがり「奇跡なんてすぐ起こっちゃう」とさらに励ます。
→そのまま倒れ「わたしを一人にしないで」と公生の腕の中で泣くかをり。
→「僕はバカだ」と、ある程度ナットクする公生。
(「雪の中の君はウツクシイ」とか、意味ないこと考えてますが)
と、まずまずきれいなやりとりがあったわけです。
ところが、コンクール当日、
公生って、ひざを抱えて引きこもっちゃってるんですよね。
ウツクシイやりとりも、かをりの懸命な励ましも、すべて台無し、ゴミ箱へポイ。
しかも、なんでそうなったのか、一切の描写がありません。
で、コンクールの描写に移るわけですが……
→絵美や武士に気遣われても、ほぼ無反応の公生。
→舞台に上がっても、顔を覆ってうずくまる。
→椿のくしゃみを契機に、なぜか、いきなり覚醒する公生。
→ぐちゃぐちゃといろんなこと考えながら演奏開始。
→かをりのタマシイ登場。手術失敗を確信。
→最後の共演(超ウルトラス-パ-過剰演出)を経て、演奏終了。
→雪の中、お墓の前でかをりの両親から手紙をわたされる。
(火葬後、ソッコ-納骨? 四十九日までは家に置いてあげなさいよ)
→なぜか、桜が咲くまでボッケにいれたまま手紙を放置。
→ぶらぶら歩きながら読んで、びっくり。で、ふわっとした大団円。
これはもう、ツッコミどころ満載。てか、筋の通ってるところがありません。
つまるところ、演奏前に公生が引きこもっていたのって、
この『覚醒』をカンド-的に見せるためであって、
おハナシの前後のつながりも人のカタチもまるで関係ないんですよね。
しかも、その公生の覚醒・フッカツっていうのは、
みんなが支えてくれたからいまのジブンがあるんだ
という『魔法少女アニメのど定番』みたいな気づきでしかないわけです。
その気づきも、それまで親身に心配してくれた紘子さんや、
舞台袖で気遣ってくれていた絵美、武士をガン無視しておいて、
ピアノ弾いてたらなんか急にヒラメキました、
やっぱピアニストってすごいっスね。
という、ご都合主義を通り越した、シュールな展開によるものなわけでして。
桜が咲くまで手紙を放置プレイするのも意味不明。
ふつうは『すぐに読む』か『哀しくて読めず封印する』の二択ですよね。
これ、物語のはじめと終わりを四月でキレイにまとめたかった、
という作者のご都合に合わせている以外、理由がまるで考えられません。
かをりをソッコ-納骨したのも、そのカンケイかと。
二月十八日(手術日)を命日とすると、
四月八日の四十九日法要時に納骨するのが一般的。
ふつう、親族以外は法事に出ないから、公生の墓参りはその後になります。
そうなると、中学は卒業するし、ヘタすると桜、散っちゃいますし。
(ラストシーン、中学の制服のままです)
だったらお通夜の席で手紙渡しなさいよ、というハナシなんですが、
そこは絵的な原作者のこだわりがあったと思われ。
(あるいは納骨をいつやるのか知らず、調べもしなかった、とかね)
おかげでかをりのお骨は、
生まれ育った愛着ある実家に、まったく置いてもらえませんでした。
(僕的には、手紙なんかよりそっちの方が可哀そうです)
で、その『かをりの手紙』なんですが、こちらもモンダイだらけです。
まず、かをりは『君のせい』で手術を受ける気になった、
ということを、公生にはっきりと言っちゃっているわけです。
で、その手術が失敗して死んじゃった、と。
これ、あなたが公生だったら、セキニン感じませんか?
どうせ助からない病気であったとしても、
手術をしなければ、一分でも一秒でも長くご両親と一緒にいられたわけです。
そんなもん知るかい、なんてフツ-は思わないですよね。
ところが、手紙にはその件に関するフォロー、なんにもなし。
公生くんも、責任感じてたり自分責めてたりするフシ、なんにもなし。
それって人としてどうなのよ、と思うのは拙だけなんでしょうか。
で、この手紙が公生に最後に会った直後に書かれたものであること、
雪の屋上で公生を励ましつつ「一人にしないで」と泣いた、
感動シーンに続けて書かれたものであることが、さらに問題を深くしています。
もう助かりません、あなたもうすぐ死にます、
医者にそう言われて書くのなら、
こういう『雲の上から』みたいな文面になっちゃうのはわかります。
でも、かをりは『生きるために』手術を受けたんですよ?
あがくと決めた、少ない可能性に賭けて手術を決めた。
でも失敗するかも知れない、こわくてたまらない、でも、生きたい。
生きてもう一度、公生と共演したい。奇跡を起こしたい。だけどやっぱりこわい。
そういう思いがぐちゃぐちゃになって泣いたんです。
そんな気持ちのときに、こんな雲の上からみたいな手紙、書けると思いますか?
君がこの手紙を読んでるということは、手術は失敗しちゃったんだね。
残念。でも、後悔は一つもありません。
私は、最後まであきらめず頑張った私をほめてあげたいと思います。
そういう書き出しで、自分を鼓舞しながら、
万が一ダメだったときのために、
そうなったら伝えられなくなる想いを書き記すのが自然じゃないのかな、と。
ところが、かをりの手紙はぜんぜん違います。
これじゃまるで、余命宣告を受けた人の『遺書』そのまんま、
すでに天に召された気になっている、生きボトケのお手紙じゃないですか。
実は最初、種田さん(かをり役)がこの文面を語る芝居を聴いたとき、
ものすごい違和感があったんです。
彼女ほど実力のある方が、なんでこんなに中途半端なお芝居するんだろうって。
だけど、よくよく考えてみるとナットク。
手紙を書いている時の心情をトレースしたら、とても演れません。
そこにフォーカスすればするほど、
綴られたコトバと感情が乖離していってしまうんです。
ですから、いつ、どんな思いで書かれた手紙であるかはガン無視して、
(ほんとはそれが一番ダイジなんですが)
とにかくけなげに、おナミダ頂戴で演るしかなかったんだな、と。
でまあ、凛として演るのもしおしお演るのも違うと思い、
とりあえず無理やり気持ちを作って、
キャラを意識してちょい明るめに、だけど生命感を漂わせないよう、淡々と演った。
ところが、巷ではこれが『名演』っぽく語られ、
イベントで同じところ再朗読させられたりするハメに。
ほんと、役者さんって大変だなあと思います。
{/netabare}
というわけで、僕的なおすすめ度はCランクです。
映像がかなりきれいなので総合満足度が3.4になっておりますが、
心証的には2点台がいいところの作品かな、と。
内容的には、ど直球の感動ポルノ。
病気にも、
音楽にも、
人の死にもカタチにも、
ろくに向き合わず売れ線だけを追求した会心の一本です。
おそらくは、原作の抱えた問題をそのままアニメに完コピ(原作未読)。
監督のイシグロキョウヘイさんは、
内容のなさを映像でカバ-しようとしすぎかと。
これが初監督作品でいろいろ気を使ったのはわかりますが、
原作者の新川直司さんだって、
初のアニメ化作品だったわけですしね。
講談社の版権担当は最初とっつきにくいけど、
強気にいったらけっこう話聞いて親身になってくれるし、
(昔は、ですね。いまもそうなのかな?)
ちょっとこれおかしいんじゃね、と感じるところは
もっとゴリゴリいくべきだったと思います。後の祭りですが。
ただまあ、板もマンガもけっこう売れたようで、
ビジネス的には成功作品です。
カネ目当てで作った感動ポルノでお金がたくさん入ってきたんだから、
そこは「よくできました」と誉めてあげるところかと。
流れで『いちご同盟』がそこそこ売れたのも、よき。
現実論として、こういう作品の需要があることは誰にも否定できません。
ぶっちゃけたハナシ『いちご同盟』みたいな
悲しい・可哀そうという表層を超えて突きつけられるなにか
が含まれているコムズカシイ作品よりも、
うんうん、好きな人が死んじゃったらつらいよねえ。
うんうん、支えてくれる友だちや仲間はダイジだよねえ。
うんうん、打ち込めるものがあるっていいよねえ。
みたくアタリマエのことを目先を変えた言葉で語った作品の方が、
市場に受け入れられやすいのは『事実』です。
マ-ケットにおいて『感動』は『消費するモノ』なんです。
消費財としての『感動ポルノ』のどこがワルいんだ、と問われれば、
実際のところ、どっこも悪くなんかありません。
それは『良し悪し』の話ではなく『好き嫌い』の話でしかないんですよね。
僕は、あくまでも個人的にですが、
アニメが『消費財』ではなく『文化』であることを願っています。
ですから、音楽や人の生死にかかわる作品は、
きちんとそれらに向き合い、
物語に芯なり骨格をちゃんと通して届けて欲しいと思うんです。
ただ、そういうのは現場を離れたから言えることであり、
それができるんならトックにやってんだよ、
というのは、現場を預かる方の多くが声を大にして言いたいセリフだろうなと。
そんなもんは、チンプな理想論に過ぎね~よ。
こっちゃビジネス、食い扶持かせぎでやってんだよ。
みんなが「いい」と言ってるのに、なにカッコつけてんだテメエ。
というのは、ある意味『正論』なんです。
……いや、そうじゃないな、自分を正統化したがっちゃってるな。
そういうのは、ほんとうに、イタいほどの『正論』なんです。
つまるところ、世間一般からしたら『たかがアニメ』なんですよね。
ですから、僕が言っていることは、
しょうもない一個人の、しょうもない感傷論みたいなものに過ぎません。
でも……ですね、
その『たかがアニメ』に全てを賭けている人たち、
命を削るようにしてモノづくりに打ち込んでいる人たちがいることを、
ほんの少しでも考えていただけたら、
そんなふうに考えてアニメを見る方が一人でも増えたら、
僕としては、とても、とても幸せだなあと思います。