イジメで中学生なおすすめアニメランキング 3

あにこれの全ユーザーがおすすめアニメのイジメで中学生な成分を投票してランキングにしました!
ランキングはあにこれのすごいAIが自動で毎日更新!はたして2024年11月07日の時点で一番のイジメで中学生なおすすめアニメは何なのでしょうか?
早速見ていきましょう!

73.0 1 イジメで中学生なアニメランキング1位
かがみの孤城(アニメ映画)

2022年12月23日
★★★★☆ 3.7 (122)
383人が棚に入れました
学校での居場所をなくし部屋に閉じこもっていた中学生・こころ。

ある日突然部屋の鏡が光り出し、

吸い込まれるように中に入ると、そこにはおとぎ話に出てくるようなお城と見ず知らずの中学生6人が。

さらに「オオカミさま」と呼ばれる狼のお面をかぶった女の子が現れ、

「城に隠された鍵を見つければ、どんな願いでも叶えてやろう」と告げる。

期限は約1年間。

戸惑いつつも鍵を探しながら共に過ごすうち、7人には一つの共通点があることがわかる。

互いの抱える事情が少しずつ明らかになり、次第に心を通わせていくこころたち。

そしてお城が7人にとって特別な居場所に変わり始めた頃、ある出来事が彼らを襲う――――

果たして鍵は見つかるのか?なぜこの7人が集められたのか?

それぞれが胸に秘めた〈人に言えない願い〉とは?
ネタバレ

フリ-クス さんの感想・評価

★★★★☆ 3.4

大人はわかってくれない。

むかし、絶対音感のあるアメリカのジャズメンと飲んでいて、
  ワタシ、日本のブンカは尊重してるんですが、
  カラオケにはまず行きません。
  音酔いというか、
  機械のオンテイが不安定なので気持ち悪くなってしまうんですよ。
  いまは世界中どこにでもカラオケがあって困ったものです。
なんてグチっぽい話を聞かせてもらいました。

拙にはゼッタイオンカンなんて大層なものはなく、
そういうご苦労ははかりかねるのですが、
そいじゃま次は女の子のいる店にしましょうかと言うと、えらく喜んでいました。
(おかげで死ぬほど払わされましたが)

もちろんプロミュージシャンにもカラオケ好きはいますし、
そこんところは人それぞれかと。

ただ、むかしザ・バンドとボブ・ディランがセッションしてた時、
ディランのギターがあまりにも気に障るので、
アンプからプラグをロビー・ロバートソンが引っこ抜いた、
なんて話もありましたよね。
気になる方はやっぱどうしようもなく気になるようであります。

なんでこんなこと書いているかというと、
僕はオンガクに関してはけっこう許容できるんですが、
お芝居に関してはダメだからなのであります。

  ただ『それっぽく』演っているだけのお芝居
  ジブンだったらと考え『役ではなく自分』で演ってるお芝居
  気持ちばかり先行して『技術が追いついていない』お芝居

そういう『予選も通らない演劇部』レベルのお芝居って、
学園祭なんかだと微笑ましく見ていられるんですが、
商業作品になるとマジでダメで、ココロがささくれ立ってしまうんです。


で、本作『かがみの孤城』は、
辻村深月さんの同名小説を原作とした長編劇場アニメですね。
原作は未読なんですが脚本がかなりよく、
すぐれた脚本をつたない芝居でブチ壊している『よくある作品』のひとつです。
(少なくとも僕の耳にはそう聞こえます)

制作はみんな大好きA-1ピクチャーズ。
2022年12月の公開で、
興行収入10億円を突破していますから、
日本語でいうところの『スマッシュヒット』作にあたるのかしら。
{netabare}
  ちなみに『スマッシュヒット』というのが、
  いわゆる『そこそこのヒット』を意味するのはニッポンだけですね。
  英語の『smash hit』は『大ヒット』という意味になります。
  そこそこのヒットは『moderate hit』。
  いわゆる『マンション』と『mansion』の違いみたいなものであります。
{/netabare}
お話は、明確なメッセージ性のあるファンタジーかと。
さまざまな理由で不登校になっている(ひとり違うけど)7人の中学生が、
鏡の向こうにある孤城に集められ、
なんでも願いをかなえてくれる『願いの鍵』を探すという物語です。

少年少女たちは現実世界と鏡の世界をいったりきたりしながら、
ちょっとずつ、お互いに心を通わせていきます。
けっこうリアルで残酷なそれぞれの事情が少しずつ語られ、
無慈悲で理不尽な現実世界に対峙するための『心や勇気』みたいなものが、
そうした交流を通じて芽生えていく。
そんな感じの組み立てが大きな流れになっております。

そう書いてしまうとなにやらセッキョ-くさい作品っぽいですが、
エンタメらしいギミックがあちこちに施されており、
山あり谷ありで飽きさせないまま、ラストまで突っ走っていきます。

  丸尾みほさんによる脚本は、
  原作の良さ(しつこいですが未読です)もあるのだろうけれど、
  秀逸そのもの。

  不登校になった原因の『いじめ』の書き方もそうなのですが、
  そのことによってトラウマを植えつけられてしまった少年少女たちの、
   ・正論を絵空事にしか感じられなくなっている心の歪み
   ・自責・他責にすっぱり線を引けない未成熟さ
   ・自己憐憫と自己批判が渦巻き、極端に狭くなっている視野
  みたいなものが飾らない言葉で切々と描かれています。

  そこがきちんと描けているからこそ、
  彼らの抱えている問題が
    こういうファンタジーが存在しないと解決できなかった
  ということに得心できるわけでありまして。
  (もちろんそれ自体が
   いまの社会に対する強烈なメッセージになっております)

このあたり、さすが辻村深月さんがOK出した脚本だなあ、と。
ほんとこの方から承認とるのは大変なんですが、
それは本筋と外れてくるのでネタバレで。
{netabare}

辻村さんって、NHKから損害賠償の提訴をされたことがあるんですよね。

ことの経緯はこうです。
彼女の『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』という長編をドラマ化しようという話になり、
講談社がNHKに対して2011年11月、制作許諾をしました。
ところが、あがってきた脚本に辻村さんからNGが出ちゃったんですよね。
修正協議を繰り返したのですが、
NHKの『部分修正』案と辻村さんが望む『抜本的な検討』が折り合わず、
ついに2012年2月、撮影開始直前に許諾を取り消すことになったのです。

撮影直前ということでNHKは、
役者の手配はもとより美術制作まで終わっちゃっていたわけで、
キャンセル料だの実費だので大損がでました。
で「いくらなんでもきついっスよ」ということで、
NHKが損害賠償請求をしたわけです。その額、なんと約5980万円。

結論は辻村さん(講談社)側の勝訴。
というか、東京地裁でNHKの訴えが棄却されました。

  これ、拙が何度か言ってる著作権のおハナシ、
  『映像化の許諾』と『お話に手を加えることの許諾』はべつのもの、
  ということの典型事例ですよね。
  いくら「映画化してもいいですよ」と言っていたとしても、
  脚本や映像に著作権者からの承認がおりなければ公開できないんです。

  そういうのって版権ビジネスのイロハの『イ』でありまして、
  はっきり言って、NHKの大チョンボかと。
  この損失補填はコクミンから徴収した視聴料で賄われております。
  
でもまあ、法的に担保されている権利とはいえ、
天下のNHK相手に作家ダマシイを貫き通した辻村さんがリッパかと。
なんせこのときは直木賞もとっておらず、
メフィスト賞と吉川の新人賞を取っていただけ、
文壇では『期待の若手作家のひとり』に過ぎなかったわけなんですもの。
(だから「押し切れる」とNHKも思ったんでしょうね)
{/netabare}

というわけで、この『かがみの孤城』は辻村さんのお墨付き、
ふつうに作っていたらたぶん『名作』になっていた作品だと思います。

ところが、ぜんぜん『ふつう』に作ってないんです。
キャスティングがめっちゃくちゃ。
学芸会とまではいいませんが、そのへんの市民劇団レベルではあるまいかと。

実はこの原作、先にオーディオブックが発売されているんですが、
そこからのキャラ替えがハンパありません。
メインどころでいうと、以下みたいな感じですね。
(『声優』という言葉好きくないんですが、あえて使ってます)

 こころ 元:花守ゆみりさん 声優歴9年。主演アニメ30本以上。
        ↓
     當真あみさん。女優。
     (16歳。演劇経験なし。金ドラでちょい出演しただけ)

 アキ  元:伊藤かな恵さん 声優歴16年。主演アニメ30本以上。
        ↓
     吉柳咲良さん。女優。
     (18歳。子役出身。アニメは『天気の子』ヒロインの弟役だけ)

 スバル 元:西山宏太朗さん 声優歴10年。主演アニメ20本以上。
        ↓
     板垣李光人さん。
     (20歳。俳優・モデル。子役出身。アニメ・吹替経験なし)

 マサムネ 元:小林裕介さん 声優歴9年。主演アニメ40本以上。
        ↓
     ◎高山みなみさん。
     (59歳。いわずもがな、アニメ界の大御所)

 フウカ 元:大和田仁美さん 声優歴9年。主演アニメ10本以上。
        ↓
     横溝菜帆さん。
     (14歳。女優・モデル。子役出身。アニメ経験3本)

 リオン 元:島﨑信長さん 声優歴13年。主演アニメ60本以上。
        ↓
     北村匠海さん。
     (25歳。俳優・歌手・モデル。子役出身。ドラマ出演多数。アニメ経験3本)

 ウレシノ 元:堀江瞬さん 声優歴7年。主演アニメ20本以上。
        ↓
     ◎梶裕貴さん。
     (37歳。声優歴16年。主演アニメ90本以上)

 オオカミ 元:東山奈央さん 声優歴12年。主演アニメ60本以上。
        ↓
     芦田愛菜さん。
     (18歳。女優・歌手。子役出身。ドラマ出演多数。アニメ・吹替経験そこそこ)

 東条萌元:千本木彩花さん 声優歴9年。主演アニメ20本以上。
        ↓
     池端杏慈さん。
     (15歳。モデル。演劇経験なし。テレビドラマに一回出ただけ)


高山みなみさん、梶裕貴さんというスゲー方もまじってますが、
基本的には『経験豊富なプロフェッショナル』から、
10代中心で経験値の乏しいキャスティングへと変更されてるんですね。

もちろん『若いから』『経験がないから』ダメというわけではありません。

瀬戸麻沙美さんが『ちはやふる』を演ったのは高校生のときですし、
楠木ともりさんが『GGO』演ったのも18歳。
天才・沢城みゆきさんに至っては、
14歳・演劇経験ほぼゼロで新人オ-ディションに登場し、
僕の知り合いの音監が「いまだに当時のテープを聴いたら鳥肌が立つ」
というぐらい、全ての年代を完璧に演じわけてみせました。

ましてやほとんどのキャストさんが『子役出身』ということで、
花澤香菜さんや悠木碧さんを連想する方も多いかと。

  ただ、子役や舞台・実写演劇に求められる表現技術スキルと
  アフレコのそれは『似てるようでチガウ』んですよね。
  バスケットボールとハンドボールぐらい違う。
  球技大会ぐらいなら無双できても、
  インタ-ハイレベルになるとごまかせなくなっちゃうんです。
  (ここんとこ、一番うしろで『オマケ解説』しておきます)

  そこをアジャストするには、
  やっぱり『相当真剣な練習』をするしかありません。
  基礎があるので習熟は早いですが、
  そこんところもやっぱり人それぞれ違いが出てきます。

  舞台・実写俳優さんで『アジャストするのがうまい』方はおられます。
  アフレコ専業役者さんに遜色ないぐらい仕上げちゃう。
  そういう『おそろしく耳・アタマ・心がまえがいい』方ってほんと尊敬いたします。

で、本作の演技品質の話に戻りますが、
正直言って『学生さんが演劇部に頼んでアフレコした自主制作アニメ』
ぐらいの評価が妥当なところかと思います。

決して棒読みではなく、
それなりに『痛みやつらみ』的なものも伝わってきますから、
あの『竜とそばかすの姫』よりは数段マシです。

オンガクで言うなら『カラオケ上手さんの歌』ぐらいのレベルでして、
こだわりのない方ならば、
  いちいち目くじら立てなくてもよくなくない?
ぐらいに聴こえると思うんですよね。

  ただ……拙にはちょっとキビしかったです。
  元の役者さんが演っていたらどういうお芝居・音源になるのか、
  おおむねイメージできちゃうんですよね。

    そこ違う。もっとはって、背中まで鳴るように大きく。
    いまのセリフ、語尾はもっと消え入るように。
    長いセリフは『立てる』言葉、もっとはっきりメリハリつけて。

  なんてことを視聴中ずっと考えてしまっていて、
  モノガタリに集中しきれなく。
  ああ、脚本がすごくいいのにスゲーもったいない、
  大御所に「真実はいつも一つ」なんて言わせてる場合じゃね~だろこら、
  なんてぷんすか怒りながら視聴していました。

  なんでこんなキャスティングするかなあ。
  オトナってやだわ。


作品としてのおすすめ度は、それでもB+。
声優と音楽、いわゆる『音響系』の評価がひくいので平均点が3.4なんですが、
見る価値のある映画ではあるまいかと。

見る角度や足の置き場によって感じ方が変わってくる作品なんですが、
脚本にしっかりした背骨がとおっているので、
どんな方でもココロに石を投げ込まれるような気持ちになると思います。

  もちろん『いじめ』だの『大人の無理解』だのに、
  明確な解決策なんかあるはずがありません。

  あるはずがないからこそ、
  たまにこういう作品を見ることによって、
  一人一人が一歩ずつでも足を前にはこぶことがダイジなんじゃないかな。

  そんなことを拙は拙なりに愚考いたしました次第です(←日本語おかしい)。


映像は、まあ、きれいかなぐらい。
A-1ピクチャーズだからといって何でもかんでもスゲーわけではありません。
カット割りやアングルは、けっこう実写よりですね。
いいカットは間違いなくいいんだけれど、
クライマックス、言っちゃ悪いけれど、演出がふるくさいかもです。


音楽は、劇伴うるさいです。
かと思えは無伴のシ-ンもけっこうあって、バランス悪すぎ。
ちなみに、
エンディングのクレジットにすら音響監督が明記されてないんだけど、
キャスティング改悪の件といい、なんかあったのかしら?

  あと、エンディング主題歌、狙い過ぎて逆にあざといかも。
  しっかりしろ、アニプレ。


というわけで、音響系はアイタタなんですが、
何度も言うように物語・脚本がすごくよく練られているので、
作品としての価値はけっこうあるんじゃないかと愚考いたします。

ラスト、人によっては『予定調和』みたく感じるかもですが、
すでに述べたように『ファンタジー』だからこそ、
それなりの調和にもちこめたんですよね。

  じゃあ、このファンタジーがなかったら彼らはどうなっていたのか、
  それこそがこの作品のウラ主題みたいなものでありまして、
  政府だのキョーイク機関だのに押しつけてシャンシャンなテ-マじゃないわけであります。

ただまあ、アニメに『いやし』や『もえ』を求める方には不向きな作品ですし、
人によっては虎馬えぐられるかもです。
ココロに余裕があるときに、チャレンジしてみておくんなまし。

  なお、拙と同じくキャスティングにモンダイを感じる方には、
  オーディオブックという選択肢もございます。
  ただ……全部で19時間越えちゃってるんですよね、マジで。

  拙は時間もおカネも集中力もないので、
  すっごく興味あるんですが、サンプルのみ試聴しております。
  評判そのものはイイので、よろしかったら、ぜひど~ぞ♪


*************************************************************


ここからは純然たる『オマケ』です。

拙がおのれを顧みずエラそうに言っている
  『実写』『舞台』『アフレコ』
のお芝居は、具体的にどう違うのか、というおハナシですね。

本編にはほとんど関係ないので、
いつもどおりまるっとネタバレで隠しておきます。
ご興味のある方だけ、どうぞ。
(はっきり言って、スゲー『長い』です。心して読んでね♪)
{netabare}

[設定]
男子Aと女子Bは、文芸部に所属する高校二年生。
わりとなんでも言い合える仲だけれど、付き合ってはいない。
男子Aは草食系、女子Bはやや勝ち気ではっきりモノをいうタイプ。

部活の買い出しで制服のまま商店街にいってベンチで休んでいたとき、
まえを横切った女子大生風のふたりが以下のような会話をしているのが耳に入った。
 「あたし、またムネおおきくなっちゃってさ~。Cだときっついんだよね」
 「わかる~。あたしもこないだDにしたし」
それを聞いて、なにげなく女子Bの胸元に目をやる男子A。
その視線に気づいた女子Bが次のセリフを言う。

「そうよ、Aカップよ。笑えば? あたしが代わりに笑ってあげようか?
 あは、あはあはあは」

[解説]
このセリフ、特に難しいお芝居ではありませんが、
ウケをとるためには『実写』『舞台』『アフレコ』それぞれで、
ハイリョすべきポイントが変わってきます。

まず『実写』ですが、
これは(たいてい)カメラがバストアップ以上に寄ってくるので、
おおむね『顔芸』がダイジになってきます。

  露骨にいかりを顔に出して目をむくのか、
  いわゆる『ジト目』で、冷ややかに言い放つのか、
  自虐・やけくそ気味に、視線を外し正面を向いて言うのか。

セリフそのものは、自分が選んだ芝居に合致していればよし、です。
感情が自然と言葉に乗るので、
発声自体に特別な技術をほどこす必要はキホン的にありません。
(感情の乗っていない『口だけ芝居』は論外です)


次に『舞台』ですが、
これは観客との距離が遠くて細かな『顔芸』が伝わりにくいため、
カラダ全体を使って感情を表現する必要があります。
いくつかパターンをご紹介いたしますと、

  ・自分の胸に手を当てる(役者によっては立ち上がる)。
  ・セリフのまえに、ドン、と足を踏み鳴らす。
  ・「あは、あはあはあは」に合わせて肩や首をリズミカルに動かす。
  ・笑い終わったあと、ストップモーションみたく相手をにらみつける。

こういうお芝居って、
実写で演ると『オ-バ-アクション』に見えることが多いですよね。
セリフの発声には『いきおい』がダイジになってきます。
早口にならないようテンポに気をつけがら、大きく、元気よく、そして強く。
(*同じ発声を実写で演ると『うるさい』です)


最後に『アフレコ』ですが、
これは役者が顔やカラダで関与できる余地がないため、
言葉の立て方や発声に細心の注意をはらいます。

  コトバの立て方というのは、以下のような感じですね。
   「『そうよ』、Aカップよ。笑えば?」
   「そうよ、『Aカップ』よ。笑えば?」
   「そうよ、Aカップよ。『笑えば?』」
  これ、どこにセリフの『山』をもってくるかで印象がガラっと変わります。
  最初のは『ふつう』、二番目は『コミカル』、最後のは『ケンカ腰』。

  続く「あたしが代わりに笑ってあげようか?」でも、
    さいごの「か」の『a音』をはっきりと発声するかしないか、
    語尾を『スパッときる』のか『尻をあげる』のか、
    全体を『フラットにいう』のか『嚙んで含めるように』いうのか、
  そんなところで耳に届く印象がガラリと変わってきます。

  そして最後の「あは、あはあはあは」が個性の出しどころです。
    a.発声練習みたく、腹筋だけで、何の感情もこめない。
    b.「あは、アハあはAHA」みたく『音をバラけさせる』。
    c.最初かわいく、だんだん怒気をふくめる。
  もちろん『発声のスピード』によっても印象が変わりますし、
  役者さんによっては、
  最初の「あは」に小さな「っ」をつけ、間を多くとったりもします。
  
    動画などで役者(声優)さんの台本が映されたとき、
    独自のマークなどが色ペンなどでびっしり書き込まれている、
    というのを見たことがある方がおられると思います。
    それは、そういう自分で考えた指示(実際はもっと細かい)を、
    楽譜みたいに書き込んでいるからなんです。


総じて『役を読み解き、気持ちをつくる』というまでのプロセスは、
実写も舞台もアフレコも、大きく違いません。
ただ『作った気持ちを表現する』ときの力点が違うんですよね。

じゃあ、アフレコ役者さんの芝居が一番いいのか、というと、
それは一概に言えません。
アフレコ役者さんのお芝居をそのまんま実写にあてはめてしまうと、
どこかしら『作った』感じになっちゃうんですよね。
舞台のお芝居を実写でやるみたく『オ-バ-アクト』に聴こえてしまうんです。

  それってやっぱり『視覚効果』の問題なんですよね。

  舞台では、すでに述べたように、
  リアルではありえないような『大きな動きや声』の方が、しっくりきます。
  生身の人間が演じていますから、
  まあ『リアル』っちゃリアルなんですが、
  視覚・聴覚的には『セミリアル』なお芝居が求められることになるんです。
  (逆に、舞台で実写ふうにやると『芝居が小さい』と怒られます)

  これに対し、アニメは視覚的に『リアル』なものじゃないんですよね。

    顔の四分の一とか三分の一が目なんて人間はいませんし、
    ピンクとか緑色の髪の毛なんて、コスプレ以外の何なんだというハナシです。
    背景が闇になったりカミナリが走ったりするエフェクトも独自のもの。
    キャラの顔に斜線入ったり、いきなりポンチ画になったり、
    とにかく『アニメ独自の表現手法』というものがカクリツしているんです。

  そういう『非リアルな映像』だからこそ、
  アフレコ役者さん独特のお芝居が生きるというのがあります。
  ディ〇ニーランドの中を歩いていると、
  おなかの出たおじさんが大きなミミつけて歩いてても違和感ないですよね。
  あれ、区役所のカウンターに座ってたらタイヘンじゃないですか。


それじゃあ、アニメの演出やキャラデを限りなく実写に寄せたらどうなの、
というと、やっぱり『大丈夫』じゃないんですよね。
なぜかというと、
多くの人は『視覚体験』と『聴覚体験』がアタマの中で結びついている、
いわば『パブロフのわんこ』みたいな状態にあるからです。

  たとえば、グランドピアノそっくりのシンセサイザーを作ったとして、
  それでパイプオルガンの音色で演奏したら、
  見ていてめっちゃ違和感を覚える人が少なくないと思うんです。

  それって『グランドピアノ』という視覚から想起される音色が、
  体験的にアタマの中にインプットされているからなんですよね。

  同じように『実写』でアニメ声・お芝居というのも、
  または『アニメ』で実写の声・お芝居というのも、
  視覚と聴覚のギャップに違和感を覚えてしまう現象が生じてしまうんです。


つまるところ結論としては、
実写・舞台・アニメそれぞれ『求められるお芝居』が違っているため、
そこにアジャストしていく必要がある、ということになります。

もちろん作品によってその『求められ方』は違いますし、
実写の『演出』として舞台風・アニメ風のお芝居を取り入れることもあります。
僕が述べていることは、あくまでも『原則・基本論』にすぎません。

ですが『セイユウの芝居は作った感じがする』なんていって、
アニメに実写系の俳優を起用するぐらいなら、
最初っから実写で撮れよ、というおハナシにはなると思います。
視覚情報がコンポン的に違うんだもの。


  テレビ俳優さんも舞台俳優さんもアテレコ役者さんも、
  みんなお芝居の『プロ』に違いありません。
  それぞれが、それぞれのフィールドで、
  視聴・観劇者に『届ける・伝える』ためのお芝居というものを、
  日々、身を削るような精進を繰り返して追及しています。

  まず、そこにリスペクトがないと、おハナシになりません。

  少なくとも『話題作り・マーケティングのため』などと称して、
    Jリーグの選手をプロ野球の公式戦に出したり、
    アイドル歌手をまともなオペラの舞台に上げたり、
    小説家に連載マンガ描かせたり、
  そんなおバカなこと、ふつうはしないじゃないですか。

  それを『鉄火場』であるべき制作現場で実際にやっている、
  バラエティやスポットじゃなく主演級にキャスティングしてるのって、
  ほんとアニメだけなんですよね。


  こういうのって『いじめ』と同じようなもので、
  正論はなんぼでも言えるんですが、
  すべてが丸く収まる解決策なんてファンタジーでしかありえません。

    キホン『大人はわかってくれない』ので、
    いっぽいっぽ、
    地道に声をあげていくしかないんですよね。
{/netabare}

投稿 : 2024/11/02
♥ : 24
ネタバレ

nyaro さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

「テーマ」も「謎」とてもいいですが、なぜオオカミ?なぜルール?

 2回目を見られたので少し感想を整理します。以前のものもそのまま残しています。原作は既読です。

 まずこの作品の特徴として、映画館とパソコンで印象がかなり違います。映画館で見たときはかなり物語世界に入り込めました。が、パソコンで見た方がサラリとしたストーリーの印象でした。ですので、映画組とパソコン組だと評価が分かれるかなあ、という気がします。

 それともう1つ。自分が過去、この問題についてどれくらい関心があって、関連書籍を読んでいたか、考えたか、自分・身の回りで類似例があるか、で印象が変わる気がします。

 もちろん、アニメ作品ですからこんな単純な切り分け以外の評価の要素はあるでしょうが、この2点は実生活に近いテーマなだけに視聴環境による集中度合と、視聴サイドの蓄積で変わる映画=万人向けではない気がします。

 ですので、感想や評価が合わない人がいても、それがこの映画の特徴かなという気がしました。なお、2回目みて、1回目よりも理解が少し進んだ気がしたので、ちょっと評価点をあげています。3.9→4.2です。

 
で、内容です。

 いじめ、不登校というテーマをそれこそ真正面から取り扱ったのはとてもいいと思います。この点では、本当に優れていたと思います。

 決して頭がいいとも思われないグループの理屈で教室が支配される。その中心的な少女の教師への媚びと、面倒をさけクラスの自治を、カーストのトップグループに任せてしまう教師の事なかれ主義、エゴ。
 親の学校に行かないのは「おかしい」という思い込み。仮病ではく本当にどこかが痛くなる少年少女の身体と精神の密接な関係。そして、陰湿ないじめの実態。

 その一方で、どうやってその状況と向かい合うか、打破するかと言う提示もありました。特にまず子供の話を聞くということ、学校がすべてではないということ、学校の他のコミュニティーが十分に子どものコミュニケーションの場になること。

 全体としてこういうことが非常に丁寧に取り扱われており、個々の少年少女の状況も、いじめだけでなく、毒親、性的な虐待、仲間外れもリアルでした。



 やはり引っかかるのが、なぜかがみの孤城なのか?おおかみの意味は?その黒幕の思惑は?ルールはなぜ存在する?というところです。

 まあ、牽強付会なところはありますが、ちょっと考えたところです。ネタバレしないと語れないので隠します。

{netabare} 少年少女の救済の物語と、「狼と七ひきの子ヤギ」の内容です。「オオカミ」=「大人」に「騙されて食べられた子ヤギ」=「社会の犠牲になった子供」でしょうか。
「お母さんが帰って来て、狼から助けてくれる」=「カウンセラー、モノが分かっている大人、あるいは直接お母さん」

 ただ、この図式だと救済者はやはり大人だけになってしまいます。やはり自力救済としての、かがみの孤城の意味が必要になるのでしょう。

 そしてひっかかり、理解に苦しむのが、オオカミそれ自体は、本来は敵になる存在です。そしてルールの存在。

 ルールからはみ出した子供たちを、更にルールで縛ることの意味です。オオカミに食べられるという恐怖は必要か?なにより連帯責任だと不登校の子供にマイナスにならないか?そして、このルールと恐怖はかなり物語のおおきなポイントとなります。

 物語としてのルールの意味は病院の規則でそこしか面倒が見れないような意味があったり、学校に行っている時間と合わせている、という意味はありそうです。あるいは弟が日本の中学生と会える時間に設定したとよめなくはないです。

 が、そもそも病気の少女の弟が学校に行ってほしいという願いが、かがみの孤城を作ったとして、少女自身がおおかみに扮する意味がわかりません。まあ、ヒントが自分自身だよ、というオチことかもしれません。

 ですが、やはり、ルール+城主の少女と子供たちの救済の関係がよくわからないし、この童話の意味性が物語上のアイテムになっている気がします。
 まあ、普通ならそこはよく考えた話だね、でいいのかもしれませんが、そういうレベルの内容ではないので、すべてに意味性が付与されるべきだと思います。


 次に、かがみの意味です。鏡というのは、自分を映すもの。外部からの視点なのか、鏡に入る=内面に入るのか、あるいは両方の象徴なのか。

 孤城は子供だけの閉じたコミュニティは逃げ場である、ということでフリースクールとつながってくる感じです。そこに集まる子供たちはなぜ集められたのか、という意味においては納得なんですけど、孤城です。
 物語的な意味は、ある人物の関係者にまつわる話で、それは分かります。ですけど、少年少女の救済の場としての孤城ですね。


 この城内に自分の生活上で一番関心がありそうなことが設置された個室が与えられます。やはり自分自身という感じはします。自分のやりたいことを見付ける…なら、かがみと合わさって意味性はでてきます。

 ゲームにしても、恋愛マニアにしても、皆かなえたい願いを持っているということもあって、も、まあ、キャラ付けにはなっていますし、彼ららしさではあるんですけど…だったら、鏡というのはそれを見付ける話の方がふさわしい気もします。

 かがみ、そして、孤城。こちらは、物語の舞台としての、雰囲気作りはあるでしょうが、社会から孤立した場所で自分と他の同じ苦しみを背負っている人たちと話し合う場=フリースクールの意味なんだろうなあ、と思います。

 逆に言えば、あのフリースクールは「かがみの孤城でした」という事かもしれません。

 子供が自分のやりたい事、コミュニティが学校だけでない事を理解する、場所が「かがみの孤城」、大人は原因でもあり、助けてくれるパートナーでもある。それが「かがみの孤城」+「狼と七匹の子ヤギ」という意味性はおぼろげながら見えてくる気がします。

 映画館で見た第一印象でもそうでしたが、結局城主ヒロインのオオカミの仮面の意味、病気で死ぬという物語。かがみの孤城という場を提供した理由が弟を救う。そして、狼と七ひきの子ヤギのモチーフがが孤城の仕掛けになっている点で、テーマと物語が綺麗にかさなってこないなあ、という印象は残ります。
{/netabare}

 それと大学教授の娘。あの子の使い方はもったいなかった。結局重大なヒントもくれるし、救済にもなりますが、どちらも物語を回すだけの薄い存在になった気がします。


 で、総評ですが、面白いです。ダレもなく本当に面白い。テーマも深い。謎も面白い。キャラ造形も素晴らしい。作画もいいです。

 ただ、やっぱり、なんで城主は狼でルールがあのルール?そして、かがみの孤城の秘密が〇〇と重なるの?という違和感が邪魔をしてしまいます。

 言葉を変えると、この作品でモチーフ・アナロジーになっている童話は、このテーマを描くのに最適だらか?あるいはテーマやキャラ達の物語を深めるための作品だったか?
 このモチーフの童話は正直万人が知っているとも思えません。集められた子供たちの素性とも関係ないです。よって、仕掛けとしての機能の方が強い気がしました。別に邪魔になっているわけでもないんですけど、やはり城主とルールだけはちょっとノイズだった気がします。
 



以下 一回目のレビューです。


 本作は原作の辻村深月さんはミステリ出身ということもあり、内容に謎とき要素はあります。ファンタジー要素もありますが上手く使ってストーリーを構成していますし画面も良かったです。そして、さすが直木賞を取っただけあって文学的な雰囲気もあります。

 この作品がアニメとして作られたことは非常に頼もしいと思います。2016年の「君の名は」「聲の形」は決して文学的ではないですが、しかしこの両作品の存在がアニメでこういう文学的作品が作られる下地を作ったのでしょう。
 「ジョゼと虎と魚たち」「漁港の肉子ちゃん」を初め文学的なアニメ作品の流れで、本作が作成されたのはアニメファンとしては喜ばしい限りです。

 話自体もとても面白く、2時間はあっという間でした。ですが、正直言えば全体的に消化不良というか映画で描きたかったものが曖昧になっている気がします。

 本作で失敗があるとすれば、謎ときのストーリーとテーマ性が上手く融合していなかったことです。

 イジメというか不登校、親、学校の関係がリアルで、ストーリ-への落とこみやキャラ設定は良くできており、テーマ・メッセージとしては優れています。
 イジメというのは不条理で勝手です。そして教師はイジメのトップに立っている子…特に女の子の組織力を使ってクラスの自治をしようとします。いう事聞く子供がいい子だと思い込みます。
 相手の親と話しても無駄です。そのイジメの張本人と同じ考え方だからです。学校に行かなくれもいい。親が子供の言い分をまずは聞いてあげる。そして担任ではなく校長などと話す。最終的に解決しなければ逃げてもいい。好きな事をやっていればいい。学校など3年…あるいはクラスなど1年で終わる。そういう部分はちゃんと描いていました。

 その一方で、推理・謎解きというか仕掛けの部分については、考察しようと思えば半分くらいで謎が大体わかってくるし、フーダニットやホワイダニットの部分がカタルシスにもなります。そこに至る伏線も流れも設定も悪くはないです。

 ただこの2つの優れた要素である「テーマ」と「謎解き」が上手く融合していない気がしました。謎解きがテーマを補完するような関係ならいいのですが、テーマと謎解きのが上手く融合していないような、バラバラ感がありました。
 
 オオカミさんの正体と意味合いですね。肝心なそこの部分について悪く言えば感動ポルノどまりに感じられる気がするからです。要するにオオカミと7人の子どものアナロジーが、謎の設定とか仕掛け止まりになっていて、テーマを補完するものではない感じです。

 お城のルールの意味わからないですよね。特にルール違反の罰則が意味不明です。そのルールを守ることが7人の子供たちの救済の意味として何だったのかが不明です。 {netabare}不登校たちが集まれるようにという配慮はわかりますが、なぜ食べられる?
 あるいは守らないことが前提なんでしょうか?鍵は1人以外が食べられないと見つからない感じに描かれていました。{/netabare}オオカミさんにとってそのルールを設定する意味や大切さって何だったんでしょう?あるいは不登校の子たちにとってルールを守る意味など。要するにテーマである不登校とお城の謎の設定に乖離がある気がします。

 そしてそれに気が付いたきっかけの近所の女の子。彼女は逆にテーマ的な意味はわかりますが、{netabare} その彼女の家に飾ってあった絵が {/netabare}謎に絡んでくる意味です。そこのご都合主義展開が読み取れなくてポカーンとしてしまいます。

 そうなってくると、むしろオオカミさんの謎がノイズになって、不登校やいじめ問題のテーマ部分とどう重ねればいいのかがわからず、ちょっと頭が思考的になってしまい、文学として「考えるな感じろ」が無くなってしまいました。そしてテーマがある社会派の謎解きとしても、テーマと設定の分離があり、全体的に要素がバラバラな気がしました。

 画面はお城の床の反射のエフェクトがかなりすごいので、それは見どころです。逆にそれ以外はあんまり見どころはない感じです。色彩がどんどんカラフルになって行く気がしたのは、何かの演出家もしれません。
演出も良かったです。暗い部屋で食べる鳥そぼろと鮭と炒り卵の三色弁当を出すセンス。自分の気持、親の気持、少し幸せな時間から孤独な時間。いろんな感情が錯綜する感じが素晴らしかったです。

 総評すると、テーマとそのリアルさ、謎解きの面白さ、キャラ造形の水準の高さ、など非常に良くできた部分は沢山あり2時間退屈しませんでした。ただ「テーマ」「謎とき」が上手く絡んでおらず、要するに頭でっかちで「感じる」部分の文学性が不足して、下手をすればラストの方が感動ポルノに見えなくは無いです。特にエンドロールとおまけですね。ただ、キャラには感情的に乗れるのでカタルシスはありますけど。

 途中であまり盛り上がりはないです。作品の性質上それでいいと思いますが、そういうアニメが好きな人はつまらなく感じるかもしれません。

 ということで、もう1度見ようか原作読もうか迷いって、結局映画の帰りに原作買ってしまいました。読んで思うところあれば追記します。




追記 原作読み終わりました。

 映画化は良くできていた、という結論です。途中若干説明の細かさや構成の違いはありましたがほぼ映像化できていると言っていいでしょう。文字と画面の違いを考慮してうまくアニメ化できていたと思います。と言うか話の内容からいって、映像の方が見やすいしキャラが良く描けていたのでどちらかといえば映画がお勧めです。

 やはり初見レビューで上げた謎とテーマ・メッセージが合っていない感覚は、原作でも同じでした。舞台設定というか「鏡」「オオカミさまの正体の謎」「絵本」などのフレームが機能していない気がしました。

以下 映画の内容なので見る予定の方は気を付けてください。
{netabare} やはり色んな部分が「設定」というか「道具建て」でしかない印象でした。本来アナロジーやテーマ性、関連性などで物語を分厚くする部分が機能していないと思います。ということは推理小説の手法が裏目に出た感じが強いです。
「鏡」が何を表していたか?「オオカミと7匹のひつじ」を作品の舞台にした意味合いは?東条萌とミオ=オオカミ様のつながりは?ミオの学校に行きたいという気持ちがなぜイジメで学校にいけない子たちの救済になったのか?ルールを守ると食べられる意味は?

 特にやるべきだった話として、東条萌の考え方「自分は自分」というか「学校なんて大したことない」という考えが「オオカミと7匹のひつじ」の絵本を通してミオと共有されるべきだったと思います。
 また、喜多島=アキがミオという子のどんな気持ちを通じてイジメ・不登校の救済に立ち上がらせたのかが「病気」軸ではなく他の描き方は無かったのか。病気と不登校の意味はまったく違うのに無理にそこを重ねた感じです。
 そして、ルール破りが「記憶をなくす」という作用の為だけになっている気がします。

 つまり、東条萌、喜多島=アキ、ミオ=オオカミさまを大きく関連付けるものが「鏡」「オオカミと7匹のひつじ」というフレームになっている。そしてミオの悲劇が病気ではなくイジメ・不登校を乗り越える何かになっているという描き方ができれば、本当に説得力がある話になったと思います。{/netabare}

 テーマとメッセージの重さは受け取りました。こころちゃんの救済の物語は素晴らしかったです。ただ、重要キャラ3人が肝心なのにうまく機能していなかったと思います。
 若干評価下げます。ただ、映画として見た場合の満足度はまあまああると思います。

 なお、原作は分厚くて2分冊ですが、文字が大きくて文字数がそうでもないのでそんなに時間はかかりませんでした。つまり今回批判した部分は、本が読める小学生、中学生、読書の習慣がない高校生程度でも読める配慮で複雑にしなかった可能性があります。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 16
ネタバレ

テナ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.7

心に疵がある少年少女たち ~1人じゃないよ大丈夫~

キービジュアルで前々から気になって居た作品です。
私は物語って好きで、私がアニメを見始めた原点は多分そこにあるのだと思います。

その好きな物語の中に御伽噺がありまして、第1印象では御伽噺のイメージが強く湧きました。
「鏡の国」「別世界」「オオカミの被り物の少女」辺りが私の作品への興味です。

被り物の少女……昔になるんですが「Doubt」と言う漫画があって、まぁ、シリーズは「JUDGE」とか色々続くデスゲームで、犯人達が動物の被り物をしてて、そのイメージが強く少しグロいイメージもあるのですがw

さて、物語はやはり御伽噺ベースでした。
題材がオオカミであり「赤ずきん」と「七ひきのこやぎ」ですね。

そして、登場キャラクターの共通点は「心に疵を抱えた少年少女達」です。
キャラが中学生の1~3年生と言う事もあり中学生らしい心境やら悩みを表してる作品でしたね。

7人の少年少女が鏡の孤城に呼ばれ、願いか叶う小さな部屋の鍵を探し出すのが目的。
だだし、願いが叶うのは1人だけ……
日本時間17時以降に城に残ればオオカミに食われる。
1人でも残れば連帯責任でその日、城に居た人間全てがオオカミに食べられる。
願いを叶えた場合は全員が城での出来事を忘れる。

願いが叶う。
願いか……皆さんなら何を叶えますか?
彼女達の願いの多くは{netabare} 「誰かを消して欲しい」 {/netabare}
中学生なんてさ、思春期だし悩みも多い年頃よ。
好きな人と上手く行かない、友達と喧嘩した、虐め……中でも作中は{netabare}虐めや嫌がらせ {/netabare}が目立ちました。

主人公のココロは{netabare} 虐め {/netabare}で学校に行けなくなりました。
多分、恋愛の縺れかな?
上手くいかなくなって、元彼が昔好きだった女の子のココロに八つ当たりしたのが始まりかな?

先生が当人同士の話し合いをさせようとしたけど、先生って大半がこれじゃない?「当人同士の話し合い」私はこの当人同士の話し合いって何の意味があるのか、ずっと疑問です。

確かに「話す」事は大事だけど、それは当人同士じゃないでしょう?
当人同士なんて上辺だけですぐに問題が再発します。
「当人同士」とか「先生が注意した」とかさ、あんなの何にも解決しないよ!
そもそも大人達がそんなんだから誰にも相談出来ない子供達がいるんじゃないのでしょうか。

ココロの{netabare} 虐め{/netabare}は酷いですね。
{netabare}大群で家に虐めっ子が押しかけてくるのは怖いよ……
家に籠るココロを卑怯だと言うけどさ、明らかに集団の中から人を傷つけ数の暴力を振りかざすお前が卑怯だろ! {/netabare}と私は思いましたね。

でも、だから、{netabare} 「虐めっ子の主犯が居なくなればいい」って考えるのも解るんだよ。{/netabare}
「{netabare}「ソイツが居なくなれば」{/netabare}全て上手く行く気がするけど……それは多分違う……

{netabare} ソイツが居なくなったら、第2のソイツが生まれてまた新たな悩みが生まれるだけだったりする気はするけど、最終的な願いは私は素敵な願いだと思います。 {/netabare}

でも、私は主人公ココロは本当に勇気のある女の子だと思います。

1つは相談出来る勇気です。
{netabare} 「虐められてる」って一言を言葉にするのは凄く勇気が必要だと思います。
助けをもとめても拒絶されたらどうしよう。
自分が虐められてるなんて言い出せない。
もし相談しても、もっと酷い事になるかも。{/netabare}

理由は様々で私はこの3つがパッと思いつきますが、多分相談出来ない子はもっともっと不安があると思います。
私がココロの立場だと相談出来ない気がする。
だから、勇気を出してお母さんに相談出来て良かったです。
お母さんも力になってくれてたし、彼女が踏み出した勇気の結果です。

お母さんと戦う決断をした事も立ち向かう勇気が素敵ですよね。

2つ目は{netabare} マサムネがリアル世界で皆と学校で会いたいと言って、結果会えないけど、皆が学校へ向かった事です。
きっと、それぞれが簡単に決意出来る事じゃなかった。
きっと悩んだと思う。
嫌な奴に鉢合わせしたら?とか考えたら怖いけど、友達……でいいんだよね?
友達の為に皆が学校に行く、別に行かなくてもいいとは思う。 {/netabare}

でも、友達の為に行動出来る彼らの強さには関心させられました。


3つ目はリオンです。
{netabare} オオカミに食べられそうな時に、普通ならきっと……いゃ、私なら「助けて」って自分の事をお願いしたと思う。
でも、リオンは自分が食べられる直前に「アキを助けてやってくれ」って他人を優先出来る選択肢に強さとカッコ良さを感じました。 {/netabare}


ココロが{netabare} 救った人達が将来的に彼女の味方で居てくれる。{/netabare}
凄く頼もしいですよね。

{netabare} ココロとリオンの再会のシーンは記憶がないココロは誰?状態だけどさ。
大丈夫だよね。リオンがいれば、きっと仲良くなれて学校にも通えるよね。{/netabare}
彼女の未来に少し希望を感じました。

さて、作中に出てくるキャラは全て重要なキャラ達でキャラの配役には無駄がありません。
伏線もかなり良かったです。
オオカミ少女の正体や先生の正体もあきらかになります。

オオカミ少女については、うん、あれだ深くは語らない方がいいかな。
ただ、少し我が強くて私としては余り好きになれない性格でキャラのイメージと声は合わない感じだったりしました。
けど、敢えて伏せるけど○想いな女の子です。
最後まで優しかった。
大嘘つきで○想いで優しい彼の○さん
もしかしたら、{netabare} 火のオオカミ {/netabare}の正体って……

北多嶋先生は……
彼女を私は最初はあまり信用してませんでした。
けど、作中で、こころ、ウレシノ、マサムネが良い先生だと言います。
{netabare} 彼女は何故傷ついた子供に寄り添えるのか、それは最後まで見たら、関係性が解るのですが、それだけではなく、彼女の心が疵ついた事があるからです。{/netabare}

傷ついた事がない人でも勿論優しくは出来ると思う。
でも、傷ついついた事があるから傷ついた人が、どうして欲しいのか、寄り添える。
他人である以上本人の以外はその傷……心の疵を理解出来る事はないのだと思う。

何故ならその痛みも苦しみも体験した本人が1番苦しくて辛いから……だから誰しも心の疵は完璧には理解出来ない……けど誰しもが必ず寄り添う事は出来る可能性を秘めてる。

彼女がこの道を選んだのも同じ様に心の疵に寄り添いたいと思ったからかな?と思いました。

残念だけど、こうした問題は無くならない……多分人類が永遠に抱え続ける課題なんだと思います。

「人を思いやる事」は素敵な長所に入ると思うんですが、個人的に私はその長所が当たり前になって欲しいと思うんです。
誰もが「人を思いやる心をもって欲しい」それが当たり前の世界に、でも現実問題、人を傷つけたり心を疵つける人は世の中に居て、一生、人の痛みや苦しみが解らない人も居て、多分そうした人はきっと解らないままなんだろうなぁ〜って……

けど、そうした事を伝えていく事は大切で、少しでも傷つく人が少なくなればいいと思います。
無くなる事はない問題ですが、周りにそうした人が居れば手を差し伸べたりする事で心に疵を抱える人を減らす事はできるのではないかな?と私は思いました。


この作品は少し暗い部分もありますが、そうしたメッセージ性。
学校には味方が居なくても家には味方がいるんだよ?
周りに味方が居なくても世の中には味方になってくれる人がいるんだよ?
1人じゃないんだよ。抱え込まなくていいんだよ。ってそうしたメッセージ性を作品から感じ取りました。

物語は理解しやすくメッセージは深い作品だと思います。
物語は悪く言えば単調ですがメッセージ性が深いだけに面白さもしっかりあります。
一人一人が結構考えさせられる、考えるきっかけになる?作品ではないでしょうか?

投稿 : 2024/11/02
♥ : 18

56.1 2 イジメで中学生なアニメランキング2位
クリオネの灯り(TVアニメ動画)

2017年夏アニメ
★★★☆☆ 2.7 (97)
334人が棚に入れました
ずっとイジメられっ子のレッテルを貼られていた実(ミノリ)。

そんな彼女の笑顔を見たいと願う方(タカシ)と杏子(キョウコ)は、ある雨の日の午後、思い切って声をかける。

けれど結局、本当の笑顔は見られないまま、彼女は体調を崩し学校に来なくなってしまう。

それから二ヶ月・・・方と杏子の元へ一通の不思議なメールが届いた。

送り主の名前もなく返信すら出来ないそのメールは、隣町の夏祭りを知らせるものだった――

声優・キャラクター
松村沙友理、大平峻也、原奈津子、佐々木李子、飯田里穂、鈴木愛奈、影山灯、藤田勇紀、大橋岬、月野もあ、葵井歌菜

Ka-ZZ(★) さんの感想・評価

★★★★☆ 3.8

振り返ってみると、彼女はいつも独りぼっちだった…

この作品の原作は未読です。
前情報は一切ありませんでした。
クリオネの灯り…小さく透明かかったクリオネの身体に、内臓に相当する器官が仄かな灯りの印…
「流氷の天使」「氷の妖精」と呼ばれるクリオネ…
そんなタイトルにちょっぴり儚さを感じながら視聴に臨みました。

この作品の抱えるテーマ…それは1話目から明らかでした。
陰湿で、良い事か悪い事かと問われれば100人が100人悪いと答えるでしょう…
そんな良くないことだと分かっているのに世の中から無くならないのが、この作品のテーマでもある「いじめ」

この作品は2007年にYahoo! JAPAN「ネットの名作!泣けるサイト特集」に選出され、サイトのアクセス総数100万件を突破し、話題となった作品なのだそうです(wikiより)

何故泣ける作品なのか…
誰に感銘を受けたのか…

いじめを楽しんでいる人、いじめられるのが当たり前だと思っている人に感銘も共感もありません。
きっと心の奥底に仕舞っていた心の傷が疼くから、泣けるし感銘ができるのだと思います。

この物語の主人公は、両親を早くに亡くした上、身体が弱くいじめの標的とされた雨宮実ちゃん…
きっと彼女は特別に何かした、という訳ではないのだと思います。
いじめの理由なんてどうでも良い…

一度走り出したら止められないのがいじめ…
そしていじめが始まった途端、立ち位置が綺麗に3つに分かれるから不思議です。
いじめる人、いじめられる人、そして見て見ぬふりをしたり、あおったり傍観する人…
誰もが良くないことだと分かっているのに、止めようとする人が一人もいないんです。

これが社会の縮図だと痛感します。
もちろん、全部が全部社会がこうだとは思っていません。
私の勤めている会社はむしろ真逆ですし、その様な会社はたくさんあると思います。
でもそれは会社の仕組みがキチンと機能しているから…
そして残念ながら学校にその仕組みは存在しないんです。
だって生徒は学校を通り過ぎていく存在なので、何をやっても一過性にしかならないんです。

だから最初の一歩を踏み出すハードルが桁違いに高いんです。
だってややもすると、自分もいじめの標的になるかもしれないから…
いじめの標的になるのがどれだけ辛いことか、ちょっと考えれば分かることなのに…

自分の机に座って俯いている実ちゃんの表情が心に刺さります。
どんな罵声を浴びせられても、じっと耐える事しかできなくて…
誰がこんな自分の学校生活を夢見ていた事か…
絶対に違う…友達を作っておしゃべりをして…笑顔で「また明日ね」と言う
そんな当たり前の生活を夢見ていたに違いありません。

そんな実ちゃんの笑顔が見たいと思っていたのが、幼馴染同士のタカシとキョウコです。
思いはたくさんあります…けれど、いざという時に足が一歩前に出ない時ってあると思います。
実ちゃんに対して二人がそうだったように…

この二人の気持ちも痛いほど分かります。
本当は自分は全然嫌いじゃないのに、口を合わせないと違う人種の様な目で見られるのが怖いから竦んでしまう…
恥ずかしいですが、この経験は私にもあります。
決して人気者になりたい訳ではありません。
自分の存在は普通か別に目立たなくても構わない…
でもいじめられる側に行く抵抗がどうしても拭えなかったから…

だから勇気と笑顔が心底輝いていると思いました。
素敵だと思いました。

でも、その人に予め用意された体内時計ってホント人それぞれ…
まさかそれを突きつけられるとは思っていませんでしたけれど…
あぁ…こういう精一杯の形があるんだ…
奇跡って、ホントに心を救ってくれるんだ…

実ちゃんの最優先事項…
周りはどの様に受け止めるのでしょうか。
気になる方は是非本編でご確認頂ければと思います。
私はレビューを書いている途中、何度も涙で前が見えなくなりました。

オープニングテーマは「クリオネの灯り」
エンディングテーマは「空ヲ飛ブ風」
どちらもakiさんが歌っています。
オープニングアニメで見せてくれた3人の屈託の無い笑顔…大好きでした。
エンディング…歌詞も曲調もどこまでも心に染み入る曲です。

1クール12話で、1話10分枠のショート作品でした。
決して潤沢に資金が投入された作品…という訳ではないと思います。
でも、きっと色んな制約のある中、丁寧を心がけて制作されたのではないでしょうか。
私にとって見て良かったと思えた作品でした。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 9
ネタバレ

まりす さんの感想・評価

★★★☆☆ 2.2

(部分考察)タカシとキョウコは…

近い将来死亡するのではないでしょうか?
{netabare}
11話のミノリちゃんの回想(独白?)シーン。
夏祭りや灯台のシーンは色付きで描写されていたものが
突然白黒に変わります。

そのシーン。
ミノリは「自分が呼ばれたような気がして」振り返ってみると、
そこにはフグのぬいぐるみを手にした少女と、
大人になったタカシ、キョウコがいました。

この少女は誰なんでしょうか。何故ミノリは呼ばれたような気がした?
普通に捉えると、少女はタカシとキョウコの子です。
大人になった二人が結婚し、子供に「ミノリ」と名付けたのかもしれません。

しかし、単純に未来の姿を描くだけなら白黒にする必要があるんだろうか。
更に言うと、物語のあの流れで「タカシとキョウコが結婚する」
ことを暗示するシーンを差し挟む必要があったのか。
違和感があります。


そこで気になるのが、ミノリの両親が既に亡くなっているという点です。
セリフで少女とミノリの関係性が示唆されているということは、
二人が近い将来死ぬことを暗示しているのではないでしょうか。
白黒は葬式の配色です。

※12話でタカシは、「あるはずのない未来、ミノリちゃんを見た気がする」
 とも言っています。 ここでミノリと未来が結び付きます。

もしこの解釈が合ってるなら誰一人救われない胸糞アニメになってしまいます。
合ってようが いまいがどちらでも良いですが、
私は前者のほうがしっくりきます。

何故なら、本作はいじめを物語の中心に据えながらも話の方向性が
四方八方に行っていて 作者が何を伝えたいのかまるでわからないからです。

いじめっ子達もいじめを止められなかった子も。
皆最終話で心に闇を抱えました。
彼らに救いはなく、教訓じみた話もオカルト的な話でボカされました。
「それと気付かせず 全員を不幸にする」創作としての挑戦が込められて
いると想像したほうが面白いかなと思うのです。
{/netabare}
妄想か推理かわかりませんが… お目汚し失礼致しました。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 10

snow さんの感想・評価

★★★☆☆ 3.0

だわわ<44>

ケータイ小説みたいと書いてたが「2004年にホームページで発表」という、まさにケータイ小説のほぼそのジャンル・時代の作品だった。
道理で安易な重病、安易な奇跡、安易な反省と見るべきものの無い駄話なわけだ。
絵的にも中華レベルのプアさ、演出も一例上げれば「1日中ぼんやり海を見ていた」ってナレーションから浜辺を歩きながら話してるシーンに繋げるとかあんまやる気またはそれ以外のものが無さげ。
てーきゅうのついでで、昨今のコンテキストから外れてるからって切らずに最後まで見てしまった後悔。
真ん中とかで観てるアニメの棚卸ししないとなぁ。

うーむ<47>
4話まで視聴。
1話ごとに下げて上げてみたいな構成やね。
難病でケータイ小説的なオチになるんやろか。

不穏な空気<47>
3話まで視聴。
ぬるい方向に行ったらアデューだったけど、学校では不穏な空気は継続中。
絵やら棒やらの評価は低いのでボーダーな感じ。

失速った<40>
2話まで視聴。
この回は絵も話も稚拙なだけという感想。
期待は持てないけど、まあショートなので次も。

いじめだー<48>
1話視聴。
いじめられてる・それを気にしてるって状況説明だけで終わってしまった初回。
あらずじによるとアレなのであんま安易な展開じゃないといいな、と。

投稿 : 2024/11/02
♥ : 7

52.8 3 イジメで中学生なアニメランキング3位
いじめ 〜いけにえの教室〜(OAD)

2012年2月3日
★★★☆☆ 2.9 (32)
66人が棚に入れました
2012年『ちゃお』3月号・付録DVD「ちゃおちゃおTV!」に収録された。

私立星華女子学園に通う古城世良は、大会社の社長である父親の多額の寄付を背景に、生徒も先生も逆らえない女王様気取りで、ちょっと気に入らないだけで他の生徒を「生贄」と称し、全校生徒を巻き込む集団いじめを行っていた。

後輩の君島文香へのいじめを楽しんでいる最中に父親の会社が倒産したことで立場が一転。

世良はそれまでの恨みを全校生徒から買う形でいじめる側からいじめられる側へと転落してしまう。
ネタバレ

東アジア親日武装戦線 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.5

イジメ被害の経験者はトラウマ増幅のおそれあり

立て続けに本作品のレビューが上がってきましたので視聴をいたしました。
原作漫画は『ちゃお』に掲載されていますけど(今は不定期連載かな?)アニメOADが出ていたのは知りませんでした、どの話数がアニメ化されたのかも定かではありません。
作品の設定である女子だけの世界(女子中学)のイジメを男である私には実感できませんので、レビューはどうしても一般論の範疇ですけど、この作品を視聴して最初に思い出した北乃きい主演ドラマの『ライフ』が女子間イジメのイメージとして湧いてきます。

さて、本作品は読者対象年齢(小、中学生)に向けて

{netabare}【「イジメ」を傍観するのは「イジメ」に加担しているのと同じこと。勇気を出して「イジメ」と向き合い「イジメ」られている子の立場にたって考えよう。】{/netabare}

端的に言えば上記のメッセージを発しています。

{netabare}ショッキングに演出された「イジメ」の実像を通して「イジメ」の悲惨さ、立場が逆転し加害者が被害者になる得ることと、その時の視点変換で他人の身になって考える大切さ、けっして傍観者であってはならない旨を伝えているのですから、大人視点では設定の甘さは認められても、対象視聴者層に対しては概ねその目的は達成しているでしょう。{/netabare}

時間は12分28秒程度ですけど、「イジメ」の悲惨さを強調演出するためにショッキングな内容が短時間に凝縮されていますので、視聴の際にイジメに遭われた経験がある方はフラッシュバックにくれぐれも気をつけた方が良いと思います。

本作品を観た率直な感想は設定がどうあれ、内容は気分が悪かったに尽きます。
{netabare}子供向けとはいえ、実質社会派アニメですのでキャラ萌えはさして起きませんけど、主役の加害者(後に立場逆転)古城世良cv一杉佳澄と被害者の君島文香cv東山奈央のキャラはしっかり立っていましたし、制作側が意図したメッセージも伝わってきました。
元々が付録ですので作画にケチをつける意味はないでしょうけど、それ程酷くはありません
キャラデザは12歳のように少女漫画そのものですけど、10年程前のキャラデザ傾向を知っていればそれ程見苦しくはないでしょう。
脚本は限られた尺で上手にまとめられています。{/netabare}

以下から考察になりますけど、長いのでたたみます。
{netabare}本作品おそらく視聴者個人の経験、体験で評価が異なると思います。
また世代的にも「イジメ」の質が異なるために「イジメ」に対するイメージもまた偏差が生じることと思います。
では、お前はどうなんだ?と突っ込まれる前に個人的な体験を述べたおきます。
私が体験しているイジメは実行する側の動機は今も同様理不尽であっても、自殺、他殺含めて命に関わるまでに至ることはまずありませんでした。
かくいう私の小学生時代はチビでしたのでイジメられていましたけど、男子の場合イジメのターゲットとなるのは「のび太」のように体格的な劣位とイジメを受容する卑屈な態度で弄られるケースが多かったですね。
イジメる側も「ジャイアン」のように第三者から見てイジメっ子の識別が可能でしたし、イジメる側も限度を弁えていて、「イジメ」られる側もこの嵐は必ず止むとの確信がありました。
イジメの質で男子と女子で異なるのは、男子の場合は物理攻撃(ケリやプロレス技の実験台など)が主体であり多数で1人をイジメるのは「卑怯」というモラルが生きていました。
女子は仲間外れや容姿をバカにする陰口の精神攻撃が主体でしたね。
ただ、周囲はそれ程無関心ではなく限度を超えたら非難の対象となりましたし、それが「イジメ」に対する抑止力として働いていたと思います。

さて、本サイトの趣旨はアニメとしての出来の如何をレビューする場所ですので、本則に照らしたレビューは当然あって然りですし、寧ろその方向でレビューをまとめるべきかもしれませんし、個人の主観表現は公序良俗に反しない限り自由であるべきですので、たとえ背徳的であっても思ったことを自由に記述することは大切な姿勢です。
反面、本作品の内容は現在進行形で深刻な社会問題化している「イジメ」がテーマですので、実体験がある方、身内に被害者がいる方々からすると、とても他人事では割り切れない内容でもあります。
つまり、視聴側の経験値の偏差が第三者目線か当時者目線かをパーテションしてしまう性質もこの作品の特徴であることを受け容れる必要がありますね。
視点の相違はあれど、子供向けのこの作品を手を抜かず真摯にレビューする姿勢は大切ですね。

私自身さしてモラリストでもヒューマニストでもありませんけど、「イジメ」による「精神攻撃」の結果は「イジメ」た側の想定を上回るほど深い傷痕を残すであろうとの一般認識は心得ています。
これで自殺にでも至れば加害者に「未必の故意」を適用しても良いですね。
また本来不法行為の現場に居合わせて制止や通報をしなかった場合「イジメ」の傍観者に対する実効制裁を法律で担保することも抑止力として効果があります。
刑事で困難なら民事で損害賠償請求の対象となるぐらい法律を弾力的に解釈することも司法上取り組む課題ではないでしょうか。
「イジメ」の傍観者にも道義的な責任が生じることが社会的にも了承されている以上「無答責」はフェアじゃないと思いますね。

そして、本作品が訴えるように「イジメ」のない社会は確かに理想であり、可能であればそうあってほしいものです。

しかし、結論から申しますと【不可能】です。

このレビューを読まれた方も十分ご承知かと思いますけど、何故犯罪が消滅しないのかその現実を直視すれば「イジメ」も同じ構造だと理解を得られるかと思います。
また、校則、規則の規制でがんじがらめにすると表面は取り繕えても、地下に潜りより巧妙化し実態把握が困難となるジレンマに陥り、この点は「イジメ」も暴力団も似たような構図かもしれません。
集団生活では「社会的欲求」の充足感が精神の安定に寄与しますけど、良い方向では向上心効果になりますけど、悪い方向に向くと立場や序列の確認で「イジメ」を誘発します。
「イジメ」の根本の問題は集団における「序列意識」であることは既に明らかになっていますけど、これの正体は強い者が生き残る「生存本能」というDNAレベルの問題ですので「イジメ」はダメとモラルに訴えたところで容易に解決し得るレベルにはないことも知っておく必要があります。

このことは私がここで述べる以前に既に17世紀にイギリスの哲学者トマス・ホッブズが『リヴァイアサン』で似たようなことを述べ解決策も含め提示しています。
人間社会とは極めて「帰納的」な構造であってホップスのように「演繹的」な解決を求めると結果的に社会が「全体主義」になり「国家の破綻」を招きますので我が国では採ってはならない手法です。
「演繹的」な社会システムの代表こそが共産主義ですからね。

自我が確立した大人でも「欲」抑えるのに「ストレス」発散など様々な工夫が必要なのですけど、自我が未発達な子供に大人同様の理性を求めることが土台不合理な考え方なんです。

「イジメ」が蔓延し、地下に潜った理由は景気の低迷やゆとり教育の弊害とか相当数あると思いますけど、元を辿れば「部分社会論」という歪んだ法律解釈が本来の教育よりも運営管理を優先する学校側の論理に有利に働き、隠蔽を容易にして対策が後手後手に回りかつ文科省も対策の根拠を海外に真似て心理学に頼り過ぎたこと。
学校といえども社会の縮図である以上「イジメ」対策はもっと社会学的手法を取り入れて対策を練るべきですね。
個人的には自我が完成されていない子供に良いこと、悪いことを体罰で覚えさせても可と思っていますけど、小中学生ならその親も体罰を受けたことがない世代がほとんどでしょうから体罰が虐待になる危険性もあるでしょうし、ほとんどの現役教員は体罰経験がなく叱り方も低品質でしょうから推奨できかねますか。
とにかく、学校は子供の教育を丸投げするバカ親に阿る必要はなし。
学校が管理優先から教育優先の本来の機能を取り戻して教員に余裕を持たせれば、根絶は無理でも子供に余計な負荷をかけず「イジメ」を減少させることは十分に可能ですよ。

それと「イジメられる側にも原因がある」との言い分は加害者側の保身と、なるべく両成敗でケリをつけ事態を大袈裟にしたくない学校側の詭弁ですので、被害者が自虐する必要はまったくないです。
ただ「イジメ」の実務に携わる教員側の立場からすると、なるべく客観的な立場を保ちたいゆえに被害者を諭すこともあると教諭の知人から聞いたこともありますし、詭弁を吐いている側もまた辛い立場であることを理解しないとですね。
「イジメ」は当事者も傍観者もその家族も、間に挟まれる担任教諭を含めてバットエンドにしかならない、あってはならないことですから皆で知恵を絞って減らしていきたいものです。

【10月28日追記】
ここで追記を書くより、新しいレビューを書いた方が「ごち」が溜まるのでしょうけど考察は好きですので、その後に思ったことを述べていきます。

その前に「言葉」の意味をしっかりと捉えないと「攻撃」されたと勘違いを引き起こす例があり「イジメ」とも密接に関係しますのでここのとこの説明からです。
本文で「イジメ」が根絶に至らない理由として人間の本質を考察している『リヴァイアサン』を紹介しましたので「哲学」から考えていきます。
でも、そんな小難しい話しをするつもりはありませんので御安心下さい。
ただし踏まなければならないことだけ【あくまで簡潔に】いきます。

『我より哲学を学ぶべきにあらず、哲学することを学べ』(カント)

上記カントの言葉が「哲学」の本質を簡潔明瞭に表現しています。
「哲学」とは自己の中で完結されるもの(主観的考察)で「カントの哲学」はカント、「ヘーゲルの哲学」ヘーゲル、「サルトルの哲学」はサルトルのものであることです。

カントの言葉で更に重要なのは【哲学することを学べ】です。

平易にしますと
『自分の哲学を他人に教えることはできないが、哲学の学び方を教えることができる』
とカントは述べており「哲学」とはまず、そういう性質だと御理解下さい。

次に「批判」の国語的な意味と哲学的な意味について。
ドイツ古典哲学はカントからといわれていますけど、カント哲学と旧来の哲学の大きな相違は「批判」するという性質を加え「(英国)経験論」と「(フランス啓蒙)合理論」を批判的に再思考し「人間とは何か」を再定義したことです。
最近、国語辞書で哲学用語を解説する風潮があるのか知りませんけど『広辞苑』(第四版)には国語的用法、哲学的用法が一応掲載されていますので気になる方は辞書を引いてみて下さい。
おそらく哲学的用法はそう簡単に意味が理解できないと思いますし、また、それが国語辞書の限界でもあります。
「批判」のように同じ言葉でも使用するシーンで異なることを示すことが言葉の吟味で更に説明可能なまでに深化させるには咀嚼が必要です。
つまり、「批判」に限らずとも内容によっては単に国語辞書からでは窺い知れない深い意味を有し、用法から追求ないと理解に至らないことも結構あるわけです。
さて、私達は否定的な評価を「批判」と捉えるネガティブなイメージを抱いていますけど、国語的にはそれでも間違いではありませんが、言葉のイメージに関係なく単純に「批評し判定すること」これが「批判」の本来の国語的意味で、どちらの方向性に向かうかは「判定」の結果となります。{/netabare}
稀に「批評」の内容の理解に至らず、無知を隠すために「非難」だと詭弁を弄し、誤謬の指摘に心因反応でも起こしたのか、ちっぽけなプライドを守るため言葉をすり替える詐術の行使までする者は人として恥ずべき行為であり「判定」するにも値しない論外でしょう。

{netabare}ではカントに戻り「哲学」で用いられる「批判」とはどのようなこと?に移ります。
カント哲学では解答を見出すために「テーゼ(定立)」「アンチテーゼ(反定立)」と対立する命題(アンチノミー)から高次の「ジンテーゼ(統合)」を導き出します。
一つの主題(統合)に二種の対立定立(アンチノミー)のスタイルが『カントの弁証論(超越論的弁証論)』と言われるスタイル。「弁証」とは「対話技術」のことを言います。
これを国語で記述し直すと、アンチノミーの対話が「批評」に相当し、ジンテーゼが「判定」に相当します。
しかし、国語辞書だけではこのトラップですぐ引っかかるかも知れません(笑)

カントは「認識」の問題(『純粋理性批判』で取扱われている)において
・物自体が存在するとどのようにしたら説明できるのか
・認識は感性、悟性、理性で構成されているのか
の考察に取り組み、弁証で経験論と合理論のジンテーゼから「認識」とは先天的な「悟性」と後天的な「経験」の相互作用であることを導き出します。
そして、カントが認識のジンテーゼに至るまでの一連の過程(アウフヘーベン:高次見識到達極点→止揚)を「批判」と申します。
決して「批判」はネガティヴなものではありませんよね。
ここでは『純粋理性批判』の一部をかいつまみましたけど、カント哲学の概要も掴めたと思います。
カントは他に『実践理性批判』(倫理)『判断力批判』(美学)の著書がありますので御紹介だけいたします。

なお、カントは「弁証」を否定的に活用した結果、いわゆるコペルニクス的展開(アニメ的には超展開)でジンテーゼに至りましたが、ここが、以後のヘーゲル、マルクスとの決定的な違いとなります。
現在「弁証法」と言えば一般的には「ヘーゲルの弁証法」を示しますので念のために。
これで「批判」の哲学的意味はお分かり頂けたかと思います。
本来、「批判」一つの説明でも吟味と咀嚼を通しここまでの説明が必要なんです。
原典を読まない付け焼き刃的なインスタント解釈では何事も【真】が見えてきませんからね。

・次にヘーゲルをもの凄く簡単に説明。
彼は「弁証法」を用いて「美学」から「法哲学」に至る様々な分野に跨る哲学体系を作り上げプロイセンにおける哲学の一大権威となります。
カントの弁証目的「認識の限界」に対してヘーゲルは「認識活動の存在そのもの」を目指し「絶対精神」に還流する運動性(流れ)でアウフヘーベンが生じるとし、つまり弁証に運動性とその到達点が加わります。
参考:『精神現象学』(ヘーゲル)

・更に大嫌いなマルクスをもの凄く簡単に説明。
【】内は共産主義(左翼)用語
マルクスはヘーゲルの弁証法の到達点を「絶対精神(観念)」から「唯物(物質)」に置き換えた【弁証法的唯物論】を【定式化】する。
ドイツ古典哲学で有名な唯物論はフォイエルバッハが提唱していますけど、マルクスはフォイエルバッハの唯物論を元に次のように【定式化】しました。
「意識が人間の存在を【規定】するのではなく、人間の社会的存在が意識を【規定】する。」
【弁証法的唯物論】から100年近く世界を狂わせた悪名高い【史的唯物論】
「生産活動(経済)→土台」が上部(文化、教育、宗教などの経済行為を除いた社会全般)を【規定】する。
この【史的唯物論】は共産革命の理論的根拠であり、戦後の自虐史観はヘーゲルの歴史哲学を軸にした皇国史観(所謂平泉国史学の系譜)を【弁証法的唯物論】で転換した【史的唯物論】です。
【史的唯物論】で組み替えられた歴史観を【唯物史観】と言います。
ロクでもないことがよく分かりますよね。
日教組は【唯物史観】で歴史教育をしていたんですよ。
【天皇制】という言葉も【史的唯物論】の産物で、コミンテルン(共産主義インターナショナル:第3インターナショナル)における「君主制」から援用され『日本共産党1932年テーゼ』で用いられた共産主義者の造語です。
我が国の皇室は左翼のいうシステムではないことは歴史を振り返れば容易に納得できること。
「弁証法」は事実、相当の説得力がある為に悪用すれば無知につけ込め易い極めて高度な詐術にもなり得ます。
一時期世界中がマルクスの幻想に騙されたのも「弁証法」という類い稀な説得力の効果なんです。

「批判」がネガティヴな意味となったのはマルクスの【弁証法的唯物論】で【階級闘争】の正当化を【オルグ】したため資本家や富裕層【ブルジョワジー】を徹底して攻撃しました。
マルクス理論に基づいた共産主義者の所業が「批判」の名を借りた資本家のパッシングであったためにネガティヴイメージが浸透し現在に至っています。

締めに、史上最悪の詐術である弁証法は既に真実が存在しない出鱈目であることがポパーによって暴かれていますので、御紹介をします。
『推測と反駁――科学的知識の発展』
『歴史主義の貧困』

【結論】
なぜ「批判」をここまで口説く説明したかというと「精神攻撃」を受けたのか受けていないのかの分岐点がこの言葉に凝縮されているからです。
教員の知人に聞いたら「誤解」から「イジメにあった」と悩んでいる生徒が多いとのこと。
双方から個別に事情を聞くと「理由のある苦言」を受けてが「悪口」と一方的に解釈してしまうケースで受けてに言い手がなぜそういう事を言ったかを説明すると、大抵の場合は誤解が解けて大事に至らなかっとのこと現場教員の対応を「批判」の意味から考える必要はあるだろうということです。
「批判」であれば「根拠」が存在しますので「根拠」を見つけられたらまず自分から合理性のある対策を講じることが可能です。
しかし、「非難」であれば合理性のある根拠が存在しないので自己対策のしようがありませんので他力を選択するしかありません。
この峻別の早さこそが、自らに降りかかる火の粉を最小限に抑えることにもなります。

しかし、一番問題なのは「批判」から「根拠」を見つけ出せない「教養の欠除」で「批判」も「非難」も一緒くたに考えて負の感情から抜け出せなくなる無限地獄に向かうことです。
ゆえに「イジメ」から身を守る上では「教養の欠除」から脱出することも大きな手がかりの一つとなります。
子供が弁証術を駆使して攻撃することはまず考えられませんが「教養は身を助ける」とはよく言ったもので、一般教養のブラッシュアップを図るということが大切ですね。

もっと綺麗事や精神訓話的なことを書けば受けが良いのかも知れませんけど、それは偽善であろうと思い良心が邪魔をして書けません。

追記
丁度この項目で述べた「教養」の大切さについて同じことを思っていらっしゃる方がいます。
多数決原理主義に立脚するポピュリズム(価値相対な哲学欠缺の集団倒錯)が社会現象として発現すると、不特定多数が特定者をイジメる現象(数の論理)に転化しその悪影響は学校という小社会にも及んでいます。
かかる影響によるハラスメントやイジメの根本的な解決が存在しない以上「教養」の底上げこそがイジメ減少の方策として合理です。

>『教養がなければ人は善悪の判断をすることも他者を理解することもできない。ポピュリズムが台頭する世においてはますますそうである。 』

『』内は某ブログで引用されていた内容の部分引用。
このブログ主の作品はいずれレビューをいたします。{/netabare}

【反証考察】11月25日追記
本作に関するレビューを観測しつつ観点把握に問題が多い事に早い時機に気がつきましたが、最近、文科省の最新統計が公表された事に伴い反証考察を行います。

誤った情報並びに根拠が不明確な予断的イレギュラーに基づきレビューを記述する事は、そのレビュー自体が誤謬である事となります。
レビューも場合によっては一種の情報である事に鑑みて、事実の適示が誤謬レビューへの反証を通じ更正されると幸いです。

[命題1]『虐めは多いのか。本当に今が昔より悪いかと言えば、正直、疑問。』について。

★虐めの定義。「文部科学省」(児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査)

(1)昭和61年度〜平成5年度調査までの定義
この調査において、「いじめ」とは、「1.自分より弱い者に対して一方的に、2.身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、3.相手が深刻な苦痛を感じているものであって、学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの。
なお、起こった場所は学校の内外を問わないもの」とする。

(2)平成6年度〜平成17年度調査までの定義
この調査において「いじめ」とは、
(1) 自分より弱い者に対して一方的に、
(2) 身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、
(3) 相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

とする。
なお、個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式お的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと。

(3)平成18年度間の調査より
調査において個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。
「いじめ」とは、
「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」
とする。
なお、起こった場所は学校の内外を問わない。
(注1)「いじめられた児童生徒の立場に立って」とは、いじめられたとする児童生徒の気持ちを重視することである。
(注2)「一定の人間関係のある者」とは、学校の内外を問わず、例えば、同じ学校・学級や部活動の者、当該児童生徒が関わっている仲間や集団(グループ)など、当該児童生徒と何らかの人間関係のある者を指す。
(注3) 「攻撃」とは、「仲間はずれ」や「集団による無視」など直接的にかかわるものではないが、心理的な圧迫などで相手に苦痛を与えるものも含む。
(注4)「物理的な攻撃」とは、身体的な攻撃のほか、金品をたかられたり、隠されたりすることなどを意味する。
(注5)けんか等を除く。

ソース:文部科学省『いじめの定義の変遷』

★結論
下記◆1◆2◆3◆4より虐めは明確に増加している。
ゆえに「命題1」は偽である。

★証明
『平成27年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査【10月速報値】」における 「いじめ」に関する調査結果について』より。
上記は平成28年11月25日現在で確認できる最新データ。
なお、いじめ件数の統計は昭和60年度が最も古いデータであり「昔」は本データで置き換える。

◆1【実数は昭和60年度と平成27年度の長期スパンではグロスで増加している。】
昭和60年度小中高等学校いじめ件数:155,066人
平成27年度小中高等学校いじめ件数:223,266人
ただし、平成27年度は昭和60年度との比較整合のため特別支援学校の1,274人を控除した。

◆2【実数は平成26年度と平成27年度の単年度スパンでも増加している。】
平成26年度小中高等学校いじめ件数:188,072人
平成27年度小中高等学校いじめ件数:224,540人
ゆえに、約19%増加している。

◆3【昭和60年度と平成27年度の児童生徒千人当たりの件数も単純比較で約2倍の増加で、ネット値で約4倍の増加となる。】
昭和60年度児童生徒千人当たりの件数7.6件
平成27年度児童生徒千人当たりの件数16.4件
ただし、平成27年度は特別支援学校が含まれているので単純比較である。
しかし、小中高の児童生徒総数(分母)が約半減しているなかで、グロス2.16倍の増加は、特別支援学校在籍児童生徒のシェアは僅か1%と低く、加重aveは統計上の誤差の範囲で無視したネット値でも約4倍の増加となる事から、発生率は増加している。

◆4【平成26年度と平成27年度の児童生徒千人当たりの件数も20%の増加。】
平成26年度児童生徒千人当たりの件数13.7件
平成27年度児童生徒千人当たりの件数16.4件
児童生徒数総数が約2.3%減少しているにも関わらず、虐め発生率は20%も増加している。

(参考データ)
『小中高の児童生徒数(学校基本調査より)』
昭和60年:22,263,236人
平成26年:13,359,750人(特別支援学校含む13,497,644人)
平成27年:13,047,900人(特別支援学校含む13,185,839人)

投稿 : 2024/11/02
♥ : 18
ネタバレ

ブリキ男 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.8

いじめおとぎ話

本編12分くらい、いじめをテーマに据えたアニメ。YouTubeにて公式動画が無料で公開中です。

原作は五十嵐かおるさんの漫画。「ちゃおデラックス」および「ちゃお」にて不定期掲載している様です。

コミックスは既刊13巻(2016年10月現在)。以下にリストを載せておきます。(サブタイトルのみ記載)
{netabare}
1.ひとりぼっちの戦い
2.生き地獄からの脱出
3.見えない悪意
4.勇気をください
5.静かな監獄
6.叶わない望み
7.凍りついた教室
8.光と影
9.タカラサガシ
10.いびつな心
11.かりそめの教室
12.心の傷跡
13.願い叶う日まで
{/netabare}

設定や描写をそのまま受け止めると、現実味が感じられなかったり、悪くすると荒唐無稽と取られかねなかったりする物語ですが、昔話やおとぎ話の様なファンタジーとして受け止めれば、じわじわと心に這い寄る寓話性を見出せる事と思います。

作中のいじめ描写は表面的なものに限られていますが、現実のいじめがこれよりも酷いものなのか否かは私には判断しかねます。人の心を痛めつける類の陰険ないじめはあるし、暴力のレベルについても、このアニメで描かれているよりも、もっと酷いものもありますから‥。ただ、それによって受ける苦しみは当事者でなければ知りようも無い事ですので、どちらがどれだけ酷いという事など、第三者が口にして良いものではないと私は考えます。キャラの心理描写についても表情や台詞に篭った情感などから判断するしかないので、この様な描き方も含めて、本作品が寓話的あるいは暗喩的作品となっていると言えるのでは無いでしょうか?

登場人物の名前も古城世良とか‥殆どそのままだけど"小公女セーラ"をもじっているものと思われ、設定も学園の女王としてちやほやされていた立場からの、父親の会社の倒産、転落という流れがそっくりで、例え話としての印象を強めます。(原作では投資の失敗ですけど)

「小公女」に登場する主人公のセーラはお嬢様ですが、終始良い子なので、本作中の世良との人物描写に共通点はありません。ですが、ちょっと視点を外して、同じ物語に登場する、取り巻きの二人の少女を引き連れた、イジワル少女ラヴィニアに目を向けると、何でも持っているセーラを嫉み、その友人のアーメンガードとメイドのベッキーを蔑む姿が、本作の悪役である古城世良と重ならないでもないのです。なれば、最初のいじめられっ子の文香は零落したセーラ、あるいは最初から弱い立場にあったアーメンガードかメイドのベッキーという事になります。

モチーフとなった物語の話はともかく、傍観者役である文香の友人のエミというキャラは古典的な物語の範疇では珍しい立場のキャラであり、それだけに私には、作者の五十嵐さんが、このキャラにこそ多くの注意を注いで欲しいと願っている様に感ぜられました。

友人同士が結束して困難に立ち向かう姿は美しいものとして描かれる事が多いものですが、これは転じて加害者側の立場に変わり、醜くもなりかねない危うさも秘めています。この作品ではその両方が描かれている様に見受けられました。そしてそれを担うのはもちろん、私たち視聴者の分身、エミなのです。

一つ例えを用いれば、自分の家族や友人が他者から何らかの攻撃(言葉とか暴力)を受けたとします。その時無条件で庇いたくなるのが人情というものですが、事情も知らずに身内に加勢する場合、間違いを冒す危険も少なからず生じます。もしかしたら、自分の贔屓にしている家族や友人の方が悪くて、争いの原因を作ったという可能性もあり得るからです。

もう一つ例えを出すと、子供同士の喧嘩があった場合、どんな親でも自分の子供を擁護したい気持ちになるものですが、なるべくなら(出来れば徹底して)喧嘩の原因を問いただして、事情を知ってから、どちらかか、両者に謝らせるべきでしょう。もし自分の子供に非がある場合には、親としては苦渋の決断となりますが、公正さを子供に見せる為には必要な教育だと思います。

踏まえ、人を守るという事は尊い行為である一方で、人を責める危険を多く含んでいるという事を、傍観者の立場にいる者は常に意識すべきだと思います。このアニメを見て今更ながらそれを痛感させられました。

好きな人を守りたい。そんな感情は誰しも持ち合わせているものですが、それはその人の事を深く知った上で初めて輝きを持つ言葉です。一方で、力に迎合する時、弱者を守る時、敵を見る時、人の魅力に心奪われる時、私たちの心はひどく曇ります。そんな時にこそ、私たちはいじめの加害者になるのではないでしょうか?

私も学生時代にいじめを受けた事があります。いじめを受けている、あるいは受けていた人に対する慰めになるかは分かりませんが、遠い日のいじめの記憶など、大人の私にとってはもう昔話。いい思い出とは言えずとも、すでに苦痛は無く、むしろ自分の血肉になっているという感謝すら覚えます。今いじめに遭って苦しんでいる人の上にも、いつかはそんな風に思える日がやって来る事を願ってやみません。

耐える事、考える事、憎悪する事、悲観する事、抵抗する事、心を殺す事。偉そうな事‥(コレ違う)を言っておきながら、実際の所は軟弱者で感傷的なブリキ男を名乗る私が言うのもなんですが、こういった事は必ず皆さんの将来の糧になります。

心を折らず挫けず、逃げる時は逃げ、戦う時は戦う、そうして死ななければ人生は大勝利です。強くあろうとする必要は無いし、勝つ必要も無い。のらりくらり飄々と、水の様に変幻自在に生きていけば、それがその人にしか体験し得ない貴重な人生の一部となっているはず‥。

楽観や諦めを否定的な感情と捉えずに、むしろ盛んに肯定して、ねこの様にしなやかに、ねずみの様にしぶとく生きていけば、きっと楽しい事だっていくらかあるはず‥いつかは自分にしか出来ない事だって見つかるはず‥。それはとってもうれしい事だと私は思います。

願わくば、いじめを受けている者たちに祝福を、虐げられている者たちに幸あれ!



って説得力ないですね‥わたし、叩けば凹むブリキ男だし‥(笑)

投稿 : 2024/11/02
♥ : 20
ネタバレ

剣道部 さんの感想・評価

★★☆☆☆ 2.0

いじめについて、考える。

[文量→大盛り・内容→雑談系]

【総括】
昔、あにこれでこのアニメのレビューを書くのが、局地的に流行ったんですよね。

んで私も、あにこれで仲良くして頂いている(と私が勝手ながら思っている)方々がレビューしてたんで、続きたいな~と思って、視聴しました。

「いじめがダメだ」ということは大前提ながら、そこにどういう思いがあるか。今でもレビューを覗けば、各レビュアーさんの考えが見られると思いますよ。

《以下ネタバレ》

【視聴終了(レビュー)】
{netabare}
まず私が言いたいのは、「今の子供達は、ここまでバカでもないし、タチが悪くもない」ということです。

このような事案が0だとは言いません。もっと酷いこともあるでしょう。でも、それは本当に一部のことであり、総体として、今の子供達が昔の子供に達に比べ、明らかに人間性が低いとは思ってほしくないです。私感ですが、いじめは昔の方が酷かったように思います(本当に私感です)。

今は、いじめが多いんですか? 酷いんですか?

これは、少年犯罪にも言えます。今の子供達がダメ? 本当にそうですか? それは、マスコミに作られたイメージではないですか? 懐古主義ではないですか? 警視庁の統計を見ると、少年犯罪の件数は勿論、犯罪率も基本的には過去から右肩下がりです。

高度経済成長期の日本はどうだったのでしょうか。ゴミは捨てっぱなし、川の水は汚い、街角で殴り合いの喧嘩はする……例えばそんなこともあったのではないでしょうか。私、個人の見解ですが、日本人の「モラル」は、特に子供世代においては、むしろ高まってきているんじゃないかと思います。

また、本作では、教師が超無能に描かれています。

本当に今の先生が無能かと言えば、正直、疑問です。生徒は勿論、先生方(学校)も頑張っていると思っています。確かにダメな教師もいます。でも、この国の教育は先生方の献身と良心で成り立っている部分もあるように思うのです。

OECDの調査でも、日本の教員は世界の教員の中でぶっちぎりで一番働いていることは明白になっています。給料も特段に高いわけではありません。学力に関しては、GDPにおける公的教育費の割合と学力は基本的に比例していますが、日本だけが異質。日本のGDPに占める公的教育費の支出額の割合は3.2%と、OECD加盟国で最下位(2014年)なのに、学力は大体ベスト10以内で頑張っているのが日本の教育です(とはいえ、このような劣悪な環境で、しかも世間から尊敬されず、アニメでまでバカにされるような魅力のなさでは、よい人材が集まらず、先生の質は下がっていくでしょうね。学力世界一のフィンランドは、博士号をとらないと先生になれず、給料や待遇もよく、子供がなりたい職業1位が教師らしいです)。

このアニメは、現代の子供たちや教師の悪い部分や一部の例を、これでもかと誇張して描いているアニメに感じるんですよね。

と、なんか、ちょっといじめの描写が極端で、(私は基本的に、近頃の若者は的な考え方には反感をいだきがちで)やるせない気持ちになったので、感情的になってしまいました(苦笑)

とはいえ、教育アニメとして、一定の役割はあろうかと思います。ただ、そのメッセージのひとつが「あなたも誰かをいじめたら、いじめ返されるかもよ」では、ちょっと寂しい(決して教育的ではない)。まあ、痛烈ではありますが。

このアニメがうすら怖くて、胸くそ悪くなることには激しく同意なので、このアニメをみて、一人でもいじめに対しての嫌悪や恐怖を抱き、ひとつでもいじめがなくなることを切に願います。

あと、学校現場から、表面的にでもいじめがなくなるためには、以下の言葉が指針となると思います。

『いじめを無くすには、いじめ、という軽い言葉をなくせば良いと思う。いじめ、ではなく、「暴行」「虐待」「恐喝」「殺人」という言葉を使う。いじめは立派な犯罪なのだから、いじめっ子は犯罪者と言う。犯罪という言葉を使い、罪の意識を重くすれば、いじめは減ると思う。』

by 美輪明宏

……激しく同意ですな。さらに言えば、もしいじめられたら、とっとと被害届出して、警察が動く仕組みにすれば良いと思います。「いじめをしない人間に育てる」のは教育の役割ですが、「行ったこと(いじめ)に責任をとらせる」のは司法の役割です。

もしいじめで自ら命を断ってしまうくらいなら、警察の力や裁判所の力を借り、いじめっ子の人生に痛恨の一撃を加えてやればいい。遺書でリベンジなんかしなくても、十分に勝てる。今はボイスレコーダーでも隠しカメラでも何でもある。したたかに証拠を集め、出るとこ出てやればいい。

(私はあまり思わないが)もし、いじめっ子の将来まで考えたい(前科をつけたくない)なら、義務教育の間は親に責任をとらせても良い(罰金とか)。いじめを助長、隠蔽する動きがあるなら、教師や学校を訴えても良い。

勿論、いじめられている子どもが精神的に追い詰められ、そんなことが思い付けない情況もわかる。だから、親でも教師でも、周りの大人が遠慮なく訴える。また、訴えるぞと警告できる。訴えがあったら事件性の有無に関わらず警察が動いてくれる。そういうシステムを、雰囲気づくりを、国が率先して行えばやってやれないことではない。学校現場に警察が介入することをタブー視する、教師の努力放棄だとする論調を捨て、むしろ英断だと評価する世論があれば良い。

勿論、それがいきすぎれば、「弱者の強迫」や「国家統制」など、別種の問題を引き起こすかもしれない。でも、いじめによって心に深い傷を受けたり、命を失ってしまうことを考えれば、まだマシかと思う。

そのぐらい、私はいじめが嫌いです。まあ、過激な意見なので、賛否はあるだろうけれど。
{/netabare}

投稿 : 2024/11/02
♥ : 24
ページの先頭へ