蓬(Yomogi) さんの感想・評価
3.7
物語 : 3.5
作画 : 4.0
声優 : 3.5
音楽 : 4.0
キャラ : 3.5
状態:観終わった
タイトルなし
まず最初に、このアニメのクオリティは素晴らしいと思うし、演出や作画なども一流でエンターテイントとして大変面白い作品だと思っている。
その点については1期の感想で十二分に賞賛したので今回は違う視点からこの作品を語ってみたいと思う。
まず最初に、この作品はいかなる道徳をも示していない。
なぜ道徳にこだわるかと言うと、日本のアニメが他と比べて抜きん出て優れている点が、作品から導かれる道徳のあり方だと私が思っているからである。
日本のアニメは子供の見る物という枠のなかで、娯楽と道徳教育の両方を担ってきた。
その発展の過程で戦争や闘争を描き、そこに現実の問題を落とし込むことで年齢の高いファンの獲得に成功してきた。
漫画でも小説でもそうだが、優れたフィクションというのは現実から飛躍した仮定状況に置いて現実と近似のシミュレーションを展開し、多元的な状況においても現実に通じる作者の考える解を示すことだと思っている。
それは子供向けの作品でも大人向けの作品でも同じことだ。
だからこそこの作品の主人公である切嗣の到達した結論、そしてその処遇に全く共感できないのである。
この作品の構造は切嗣が正義の味方になろうともがき、その夢に挫折する話である。
しかし彼はその「正義」の定義について全く思索を巡らせない。
己の過去の経験のみから功利主義的な最大多数の最大幸福を目指しており、その限界に全く気づかないのである。
だからこそ、最終回近くでの聖杯の命の数量のみという単純化された問答にすら満足に己を弁護できない。
己を弁護できない人間が殺人を犯しているという点について、自分は非常に怒りを感じたのである。
正義の殺人をするのならば、個人の尊厳を奪い恣意的に利用する理屈はあってしかるべきではないのか。それを正当化する信条があるべきではないのか。
父親もナタリアもイリヤも本人の同意なしに生命を奪うという判断を切嗣はした。
積極的な依頼のあったシャーレイのときとは条件が異なるにもかかわらずだ。
これが自分には父権的干渉主義だと直感的に感じ、嫌悪したのである。
そして最後「失うばかりの人生が(士郎により)救われた」とモノローグで語っている。
彼は失ったのではない。
自らの意志で理性ある存在、尊厳ある存在である他人を切り捨ててきたのである。断じて失ったのではない。
この主人公を悲劇として描く点が、この作品に道徳がないと私が思う理由である。
あるいは、これに続くstay nightで士郎がその贖罪をするのかもしれない。(その場合でも切嗣の正義はそのまま継承できないはず。切嗣の信条を超越する正義の味方にならなければならない。まず正義を定義する必要がある)
それでもこの物語として主人公切嗣が道徳を示していないことには変わらないのだ。
善性を伴わないよりどころのない正義で他人の人間性を無視してきた男の末路としても、この作品の結末はやはり納得がいかなかった。
さらに一歩進んで切嗣の理想とする「正義」が現実にはあり得ないと切嗣自身にも薄々分かっていたとしよう。
それが破綻する過程を描くことで切嗣の悲劇が喜劇性を帯び、主人公の哀れさ、愚かさから人間の終わらない絶望を導こうとしたとする。
そうだとしても、切嗣の歩んだ悲劇は切嗣の主観に他ならず、彼の外からの視点(それは視聴者も含まれる)からすれば、正義の名の下に暴力を振るった者の当然の報いでしかない。
それは罪に対する罰なのだから、そこに救いを与えることが道徳的に正しい結末だと思えないのだ。
自らの罪を悲劇的に捉えることを、私は肯定できない。
<追記>
外伝的位置づけの作品なので、物語に完とつけられなかったのも道理といえば道理だったかもしれない。
ついては、虚淵さんの次期アニメであるサイコパス2期に正義の話は期待したい。
というのも現在放送中の新編集版において、本放送時にはなかった「最大多数の最大幸福」について言及したシーンが追加されているからである。
上記で自分が感じた正義の描写の矛盾、またサイコパス1期感想で不満の残った社会秩序のあり方の描写。
この2点に共通する虚淵脚本のいまだ出ていない「現実の社会正義の矛盾への回答」が今後の作品で出てきてくれることを期待している。
(といっても、サイコパス2期のシリーズ構成が冲方丁になった時点で、バシッと落としどころを狙ってくると思うが)