退会済のユーザー さんの感想・評価
4.4
物語 : 4.5
作画 : 4.0
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 4.5
状態:観終わった
アニメのような小説のようなアニメ
ひぐらしのなく頃に。強烈に脳裏には思い出せるシーンがあるし、あの得体の知れない感覚は今なお色褪せない。
選択肢の無いノベルゲームとして発売され人気を博した原作でありますが、この選択肢が無い中で人を夢中にさせる要素は物語そのものの力が凄まじいからだろう。その他美少女ノベルゲームにおいて選択肢は必須で、その選択肢こそノベルたらしめてる節もあるはずなのだが、本作は文章を読ませるだけで、動くアニメーションより、原作信者は原作を徹底的に推しているのは有名な話。
そんな背景がありつつも、私が思うことは物語の構造=吸引力。本作の過剰までの演出や、村で起こる怪奇な謎という基盤の上の、メタフィクションが物語をさらに魅力的にさせる。(あくまでも基盤が面白い上での話)
「(metafiction) とは、フィクションについてのフィクション、小説というジャンル自体を批評するような小説のこと[1][2]。メタフィクションは、それが作り話であるということを意図的に(しばしば自己言及的に)読者に気付かせることで、虚構と現実の関係について問題を提示する[3]。要するに、小説や漫画の登場人物の台詞で「これは小説(漫画だから)」などの発言を指す。メタフィクションの自己言及の方法には、例えば小説の中にもうひとつの小説について語る小説家を登場させたり、小説の内部で先行作品の引用・批評を行ったり、小説の登場人物を実在の人物や作者と対話させたり、あるいは作者自身を登場人物の一人として作品内に登場させる、といったものがある[4]」wiki引用」
物語は各編に分かれ展開されていくが、その物語はバッドエンドのパラレルワールドとして描かれる。その繰り返しが本来無い選択肢の、変わりの選択肢になっている風に感じさせる。これは原作の話になってしまっていますが、変わりにアニメの場合、徹底的な第三者視点で鑑賞するような形になる。
本来謎ときなら、トゥルーエンドに繋がる情報を視聴者にも魅せながら、物語に入り込ませるという構図は普通であるはずが、本作はむしろキャラクターの変異または村における奇異による演出で引っ張る作品だと感じる。各編の結末はどうしようもない末路でありながら、どうしようもなく不可避だと視聴者の心に叩き付ける終わり方は、本作ならでわであり、メタフィクションなのだろう。
物語後半、りかのタイムパラレルが明かされ、少しの光明が見え始める。その中で視聴者にも訴えて(救援)しているような趣旨の言葉を放っていく。そこで本来、あるはずの選択肢を錯覚させられる。先も述べたがこのような視点のズラし=第三者から>当事者:前原圭一に感情移入させる工夫が、時折用意されていることもメタフィクションであり、吸引力に繋がっていると感じる。
このようなメタフィクションが単純に楽しめる要素として、どのように役立っているかと思うと、ひたすらバッドエンドを繰り返す中での第三者的視点でありながらも、りかの理解者であり、羽生&りか=プレイヤー、前原圭一=感情移入対象という、タイムパラレルの上に更なる複数の視点として、残酷な不可避を見せつけられても、トゥルーに向かっている感を得る事が出来ているのでしょうか。アニメのような小説のようなアニメ。そんなひぐらしのなく頃が恋しくなってきた今日この頃。