yapix 塩麹塩美 さんの感想・評価
4.0
物語 : 4.0
作画 : 4.0
声優 : 4.0
音楽 : 4.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
司波達也編、一応の完成。続きは・・・?
司波達也とは何者であるのか?
{netabare} 「劣等生」を振り出しに、
風紀委員としての活動を経て、
実質的に「優等生」の仲間入りを果たす。
そして、九校戦での目覚ましい活躍により、
国家の要人から「次代を背負って立つ人物」と評され、
上官からは「戦術核に匹敵する能力を持つ逸材」と絶賛される。
実戦での活躍を目の当たりにすれば「怪物」と言うよりほかなく、
「劣等生」のレッテルが遠い過去のことと感じられる。
が、作中では半年も経過していない。
この半年の間に何があったのか?
この半年で、司波達也はあり得ないほどの急成長を見せたのか?
答えは、否、である。
もちろん、新たなスキルの習得などもありレベルアップはしている。
しかし、本質的には何も変わっていない。
変わったのは、周りの見る目である。
我々には、好むと好まざるとにかかわらず、
人を評価し、又は、人から評価されることがある。
あの人は「できる人」だとか、
あの人は「使えない人」だとか、
評価したり、評価されたりしている。
ましてや、彼らはエリート校の学生なのである。
過酷な競争にさらされ、日々評価し、評価されている。
評価という行為には「物差し」が必要である。
魔法科高校における物差しは「実技試験」と「筆記試験」である。
魔法という能力の性質上「実技試験」の結果が重視されるのは当然であろう。
しかし、試験は試験である。
ある特定の状況下における能力の発動状況を確認するもの、
それが実技「試験」である。
つまり、司波達也の能力は「試験」では測れない。
試験では測定しきれない領域にこそ彼の能力があるのである。
彼の凄味は「自分の能力の限界を知っている」ことにある。
ある意味彼は完成されているのである。
学校とは学び舎である。
知識、技術、思考、行動、処世、人生・・・
これらのものを学ぶ場所、そこにこそ学校の存在意義である。
本来であれば10代、高校生の段階で自分の限界を知る、あるいは、自分自身の能力に自分自身で上限を設定することは、あってはならないことである。
薄々自身の限界を感じることがあったにしても、である。
だが、司波達也は知っている。
もう、知ってしまっている。
自分が何をすることができ、何をすることができないかを。
戦場では、これが必要不可欠である。
それだけが要因ではないが、戦場で生き残るため、
彼は、己の限界を、ギリギリの張りつめた糸が切れるか切れないかの際の際を見極めた。
その上で、その臨界点すれすれの能力を少しでも高めるための努力を惜しんでいないのである。
そう、彼の立っている場所は、他の「生徒」が立っている場所とはあまりにも遠いのである。{/netabare}