青陽 さんの感想・評価
4.7
物語 : 5.0
作画 : 5.0
声優 : 4.0
音楽 : 5.0
キャラ : 4.5
状態:観終わった
国破れてサンがあり
鈴木Pの暗躍により今のタイトルに変わったが、もともと宮崎駿は『アシタカせっ記』というタイトルにする予定だった。
アシタカが各地を旅し見聞きしたことを記した物語、そんな意味だったはずだ。ガリバー冒険記よりはセンスよく感じる。そして物語冒頭で流れる同名の曲は久石譲の楽曲の中でも五本の指に入る名曲だと思う。
この物語はいろいろな見方ができるが、主にアシタカとサンについて書いていこうと思う。ちなみに『アシタカとサン』も素晴らしい名曲!
サンとアシタカのラブストーリー
1なぜアシタカはサンを、サンはアシタカを助けたか?
たたら場に奇襲を仕掛けたサン。命を粗末にするな!とアシタカはサンをかばい、腹に火縄銃をぶち込まれながらも彼女を助ける。まあ助けたのはサンだけでなくエボシもだが。アシタカは腕に刻まれた呪いと闘い、タタリ神の憎悪を感じるゆえにか、憎しみの心を悲しみ、すべての命を救おうとする。もののけ側の想い、人間側の事情を知った上で双方の歩み寄る道を模索しようとしたからだ。
サンを救ったことにはそれ以外にも理由が考えられる。ひとつは、やはりサンが美しいことにあるだろう。みなさんは二次元の美少女ばかり見て感覚が麻痺していないだろうか。大事なことなのでもう一度言おう、サンは美しいのだ。『風立ちぬ』の菜穂子が儚い美しさなら、サンは気高く強さを伴った美しさだろう。それだけでも命を助ける十分な理由になると思うが、もうひとつ!作中におけるサンとアシタカの境遇は非常に似ていると思う。
モロが言うように
サンは山犬にもなれぬ、人間にもなれぬ哀れな娘だ。神々の怒りを恐れた人々によって生贄として山に送られ、山犬に育てられた。現実でも狼に育てられた少女が話題になったことがあるが、あのケースと根本的に違うのは育ての親……ただの狼か、人語を用い思考し未来を憂うことのできる尊く賢い山の神か。ただの狼と生活を共にするならただ生きることに必死だろうが、モロに育てられたサンは人間との会話に何の問題もなく言語を使い、二本足で歩き、道具を用い、服も着ている。人間のようでありながらも人間と異なるのはサンの思想と価値基準。山でもののけに育てられた彼女は
手前勝手な行いで自然を傷つけるたたら場の人間が許せない。しかし、自分もそんな憎むべき人間なのだ。アイデンティティの壁、ただの狼に育てられればぶつかることもないはずの壁だったろう。
そしてアシタカ。彼もまた狭間に生きる人間だ。タタリ神からその身に呪いを受け、それにより人間離れした異常な力を得てしまっている。もののけ達の憎悪をその身で実感し、人と人ならざるものの中間のような状態で己の運命を見定めようともがいている。アシタカにとってサンは他人のように思えなかったはずだ。
「行ってしまわれた……」
たたら場を後にしたアシタカとサンだが、アシタカが受けた傷は深く、倒れてしまう。最初はアシタカを殺そうとするサンだが、最終的には山犬を宥めて彼の命をシシ神に託すことにする。アシタカのあのセリフを聞いたからだ。
先にも書いたが、サンは見た目こそ人間だが心は山犬として育った。たたら場の連中からしてみればモロとその子どもの山犬が三頭いるようなものだろう。そんな曖昧な存在だから、言葉は話せても人間と会話したことはこれまでほぼなかったことだろう。会話相手は山犬ともののけ達だけ。人間であることを嫌悪し、山犬になろうとした。山犬こそが気高く賢く美しい、目指すべき姿。山犬のように毛皮を身にまとい、山犬の牙のようにナイフを武器として。それでも、自分は山犬ではない。醜い人間である。モロもサンを愛しているものの、彼女を表現するときに「哀れで醜い可愛い我が娘」と述べている。サンは自分を美しいと思ったことは一度もなかっただろう。しかし、そんな彼女をアシタカは美しいと言った。この場面でサンの人間としての一部が目覚めたとともに、アシタカというこれまでと違う人間に興味を抱いたのだろう。
こうして互いが互いの命の恩人となったのだ
2なぜアシタカはカヤからもらった大事なお守りをサンに渡したか?
このシーンまでの物語を見てきた視聴者は、アシタカという立派な漢が軽い気持ちでサンにお守りを渡したわけないことはわかるだろう。
そもそもアシタカにとってカヤはどういう存在だったのだろうか?
見送りを禁じられていたにもかかわらず、カヤだけがアシタカの旅立ちに立ち会った。普通に考えれば、タタリ神に襲われそうなところを助けられたから。そして自分を助けたがためにアシタカは呪いを受け、村を出て行かなければならなくなったから。しかしそれだけか?感謝や罪悪感から「いつもカヤは兄様を思っております」なんてローラ姫のようなセリフがでてくるだろうか。カヤはアシタカを兄様と呼び慕っていた。村の娘のためとはいえ、タタリ神に手を出すのはよほどの覚悟が必要だったはず(そんなこと考えている余裕はなかったかもしれないが)。もしタタリ神の襲来もなく平穏に暮らしていればこの先二人は結ばれていたのではないか。
ほぼ出番が無いので気づきにくいがカヤはサンと声優が同じだ。意味なくそのようなつながりを持たせはしないだろう。もう村には戻れない、結ばれることは決してないからせめてもの代わりにカヤはあのお守りをアシタカに渡した。そしてアシタカは西へ旅を続け、行き着いた先で出会ったのがサンだ。彼にとって彼女はカヤと同じような存在になる、声がそれを示しているのではないだろうか。そう考えると川辺で遭遇した時にサンの声を聞いて、アシタカに何か思うところがあって彼女のことを気にするようになったのではないかとより納得がいく。
決戦前夜、モロとの会話からもアシタカがサンとともに生きていこうと考えていたことがわかる。そう心に決めたからこそ、今までの感謝も含めて大切なお守りをサンに渡すことにしたのだろう。ワンピース東の海編でアーロンパークに向かうルフィがナミに麦わら帽子を預けたのもけっこう似たような理由だと思う(ルフィは仲間として、だけど)
薄れゆく神々への畏怖、人の業、自然は消えゆくのか
当たり前だがもののけ姫はフィクションであり、正史ではない。しかし、人間の行いとしては間違っていない。映画を見て人間は酷いと思っても、そうやって生活を発展させ、その恩恵を受けて生きてきたのが自分も含めた人間である。はたして彼らの行いは罪だったのか。強欲は七つの大罪の一つだが、欲がなければ向上心も生まれず、そもそも文明の発展・技術の進化はなかっただろう。もしその行いが罪だったとしても悔い改めることができるのが人間のいいところだ。
いま私たちの身近にある自然は人間の手によって植え替えられてできたものであり、シシ神の森のような古代からある原生林ではない。ラストでシシ神の森が消滅し、下草と潅木だけの草原のようなはげ山になってしまったのはまさしく人間の強欲がもたらしたものである。
しかし現在において里山と呼ばれる自然は、人の手が加えられることで自然の力だけでは生まれることのない豊かな生態系が育まれている。シシ神がアシタカの呪いを消したのは、彼が自然と人の共生、その導き手となることを願ったからではないか。サンが言うようにシシ神が消え、すべてが終わってしまったのではない。全てはここから始まるのだ。たたら場が崩壊し、神々が姿を消しても、サンやアシタカ、エボシたち人間と大地は残されているのだから。
もし「呪い消えたんなら村に帰ればいいんじゃね?」なんて思った人がいたらその人は何もわかっていない。おおいに反省すべきだ。
呪いが解けようが解けまいが、もう故郷の村には戻れない。村というコミュニティを抜けること、断髪の儀はそんな単純なものではない。大相撲だって断髪式を行ったあとに「やっぱ体調よくなったんで戻りまーす」なんて人は居ないだろう。
これからアシタカは彼の地で起こりうる事柄を曇りなき眼で見定め、行動を選択し続けていくはずだ。たたら場で生きながら、そしてサンとともに生きながら
完全なる蛇足
DVDに収録されている英語吹き替え版はおすすめできない。もののけ姫の雰囲気ぶち壊しだから!日本人に生まれてよかったと改めて思った。