takarock さんの感想・評価
4.3
物語 : 4.5
作画 : 5.0
声優 : 4.0
音楽 : 4.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
叛逆の狼煙
まず、序盤はその世界観に圧倒されます。
総監督の新房昭之氏のもと、
虚淵玄氏による脚本、
蒼樹うめ先生原案のキャラクターたち、
劇団イヌカレーによるもはやアート作品とも呼べる前衛的な異空間デザイン、
そしてシャフト演出、
その他諸々が渾然一体となって奇跡的な化学反応を起こし
作り出される世界観はもはや魔法である。
その魔法空間で繰り広げられる夢にまで見た魔法少女5人組の共演。
(大仰な変身シーンと円卓を囲んでの変なケーキ連想ゲームはちょっと笑いましたがw)
まさに夢見心地のような世界なのですが、
でも何かが違う・・・
確かに感じる違和感・・・不気味さ・・不安
こういった演出はそれこそ「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー 」を始めとして
様々な作品で使われてきたものですが、その雰囲気作りはやっぱり上手いですね。
そしてその違和感の正体は?と徐々に確信に迫っていくミステリ仕立ての進行は
なんだかんだ言ってもぞっくぞくしましたw
ついでにマミさんとほむらの戦闘シーンのクオリティにもぞっくぞくしましたw
まさに圧巻でしたね。
さて、問題はここからです。
非常に難解な本作をちょっと整理しながら振り返りたいと思います。
(大雑把な理解なので細かい所は間違っているかもしれません)
「大雑把な理解」
{netabare}まず、見滝原市はキュゥべえたちインキュベーターがほむらを使って仕込んだ
円環の理の力が及ばない干渉遮断フィールド(=ほむらのソウルジェム内)であり、
その目的は「円環の理」を観測、干渉、制御するためである。
インキュベーターらが調整し、外部からは隔離できるが
魔女(になりかけ)のほむらが無意識のうちに求めた標的を
内部から招き入れ具現化することができる。
で、干渉遮断フィールド内でのほむらの記憶操作はまどか(たち)にも作用しているので、
まどかは自らが円環の理という記憶をなくしている状態なのですが、
魔女化したことを認識したほむらが救済を望めばまどかも自らが円環の理であったことを思い出し、
その力を発動し、キュゥべえたちにとっては観測の機会到来ってことなのですが、
ほむらはまどかの秘密が暴かれるくらいなら自ら呪いを募らせ
一気に魔女化してやるって決意するわけです。
干渉遮断フィールド内で魔女化することは円環の理の救済を受けられない為
まどかにも会えず未来永劫絶望のまま死に絶えるってことなのですが
ほむらの決意に迷いはありません。
ここでそうはさせないぜ!!って魔法少女たちが登場するわけです。
ここで重要なことはかつて魔女化したさやかと百江なぎさ(ベベ)と
魔女に殺されたマミさんと杏子の間には大きな違いがあります。
前者は魔女化して円環の理によって救済された存在であり、つまり円環の理の一部であり
干渉遮断フィールドに閉じ込められたまどかがその記憶をなくしていたならば
それを伝える使者としての役割を担う者たちだったわけです。
そしてついに干渉遮断フィールドの破壊→円環の理発動となるわけですが、
ここで思い出して欲しいのは公園の丘でのまどかとほむらのやり取りです。
ほむらはまどかが円環の理という概念となることはまどかにとって辛いことで
望んでいることではないと解釈して
まどかをキュゥべえと契約させて魔法少女、ひいては円環の理になんかさせちゃいけない!
と決意しています。その時に一面の花がダークな色に染まっていってますね。
その後花々が枯れていって綿毛が光の粒に・・・
(これは魔女化することが希望になったメタファーかな???)
一度は干渉遮断フィールド内で死に絶えることを決意したほむらが
公園の丘での決意を思い出し、内に秘めてた計画を決行すべきと改めて決意し直します。
(もうためらったりしない!ってことですね)
円環の理が発動し、まどかが手を差し伸べた刹那その手を掴み
ほむらは不敵な笑みを浮かべながらこう言います「この時を待ってた」と。
この時のほむらのソウルジェムは呪いよりもおぞましい色に変色します。
まどか「私が裂けちゃう」
→世界の理が変革する→新たな概念の誕生、今までの概念の改変。
呪いに染まったソウルジェムが・・消え去るはずのほむらの魂が何故・・・
ほむらのソウルジェムを濁らせたのは呪いですらなかった。それは愛!!
独善的で偏狭的なまどかへの愛であったわけです。
もはやキュゥべえも匙を投げるレベルの理解し難い感情ということですね。
奪ったのは円環の理の一部。つまり、まどかの人としての記憶の一部。
その結果、円環の理の一部であったさやかや百江なぎさは元の居場所に帰れない。
さやかたちの記憶は徐々に変わりつつあります。
だけどさやかはこう言い放ちます「これだけは忘れない。暁美ほむら、あんたが悪魔だってことは!」
そしてほむらによって改変された世界で転校生としてまどかが現れる。
円環の理であった自分を思い出そうとするもそれを必死で抑えつけるほむら。
ほむらは「欲望」と「秩序」のどちらが大切かを問う。「秩序」と答えたまどかにほむらは言う。
「いずれ私達は敵対することになるかもしれない」と。
そして続けざまにこうも言います。
「でもかまわない、それでも私はあなたが幸せになれる世界を望むから」{/netabare}
「感想」
{netabare}まーここでレビューこそ載せていませんがTVシリーズの感想は
確かに完結なのかもしれないけど何かしこりが残るエンディングだな~でした。
まどかは円環の理という概念になり
魔女がいなくなって代わりに魔獣なる存在が誕生し、暁美ほむらは戦い続けるって
それでいいの!?
今回の劇場版はそんな私にとってその解を提示するものではありました。
まぁ蛇足と言えば蛇足なのかもしれませんが切り口としては非常におもしろかったです。
大どんでん返しって言葉が一番しっくりくるのかな。
なるほど。。叛逆の物語か。。
もっと言えば暁美ほむらの逆襲って意味合いで叛逆の狼煙って方が分かりやすいかもw
こうなってくると「ベルセルク」でいうところのガッツとグリフィスのような関係に
なっていくのかななんて想像も膨らみます。
この展開なら続編があればいいなじゃなくて続編がなければ駄目でしょ。
いや~本当に良き切り口を見つけたな~
TVシリーズはあれはあれで完結した物語だったのですが
物語を再び続けられるようにこういう形で蘇らせるとは大したものです。{/netabare}
「追記あれこれ」
{netabare}この短い期間に3回も観ましたw
1回目は普通に。
2回目は「大雑把な理解」の内容を書く為に一時停止してはカタカタと台詞をタイピングしながらw
3回目はこのレビューの調整の為というのと話を理解した上で楽しむってとこですかね。
今回は自分にとっては駄目な視聴の仕方だったかもしれませんw
やっぱレビューを書くためにアニメを観たら駄目だわw
まぁ本作はすごく好きな作品だし、
非常に難解だったのではっきりと理解したいって好奇心故に苦じゃなかったですけど
こんなことは当分したくないですw(次するとしたらヱヴァンゲリヲン新劇場版ラストかなw)
非常に細かい所まで観察している質の高い考察系レビューを書く人はあにこれにもいますが、
正直しんどいと思いますよ。やっぱレビューなんて適当に書いてるくらいが丁度いいと思いますw
あにこれだけじゃなく本作は様々な考察がなされていて
見てみるとおもしろい発見がたくさんあります。
例えば本作でほむらの取った行動は独善的で偏狭的なまどかへの愛というエゴではなく、
インキュベーターらに円環の理を解明されるくらいなら自らの手でその理を改変するという
あくまでまどかの為という苦渋の決断であったなんて考察もありましたし、
ほむらはどうして悪魔になり得たのかということに関しては
希望から生まれるのが魔法少女、絶望から生まれるのが魔女ならば
魔女化すること自体が「まどかへの再会」という希望となってしまった場合は、
それはもう既存の理では説明できないまったく新しい存在であるなんて考察もありました。
こういった様々な考察がなされているのもそれは本作が難解だからです。
それに本作には多数のメタファーが存在します。
公園の丘の花の「花言葉」とか、投げるつけられた柘榴の意味とか
それはもう数え上げればきりがない程です。
でもストーリーの難解さとか多数のメタファーとか
考察大好きアニメオタク向けではあるのでしょうけど
個人的にはもうちょっと分かりやすくしてもいい気がしますね。
こういうのってエヴァからの悪しき風潮だよななんてことも思ったりします。
最後に本作は元々虚淵玄氏の脚本ではほむらがまどかに救済されるエンドであったが、
総監督の新房昭之氏らの提案により続編ありきの今回のエンディングになったようです。
救済エンドなら確かに綺麗なエンディングです。
でもこのシリーズの人気がそれを許さないんでしょうね。
グダグタになるのはどうかやめて欲しいと1ファンとして願わずにはいられません。{/netabare}