yuki24 さんの感想・評価
4.8
物語 : 5.0
作画 : 5.0
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 5.0
状態:観終わった
フウセンカズラの意味はハートの種という話
ココロコネクトは学校という閉ざされた空間の中での人間関係のせめぎ合い(スクールカーストもの)を描いた作品です。その中でも名作と言われる理由はフウセンカズラに集約されていると思います。フウセンカズラをどう捉えるかでこの作品の捉え方も変わってくるかもしれません。
この作品を見ていると、超常現象に関して見る側に丸投げしている部分が多いです。しかし、丸投げという表現は不適切です。作者はその”丸投げ”した部分に対して見る側に何かを期待しているわけではないからです。
フウセンカズラ=作者(あるいは見る人)という見方をすると、超常現象を起こしているのは作者です。超常現象を起こす理由は物語を面白くするためです。そして面白い物語を求めているのは見る人なのです。
こういったことを作中であえて明らかにするのは
・フィクションだと認めたうえで物語を真摯に語ろうとする姿勢
・心理描写に極力情報量を割く
ことができるからです。これはセカイ系の特徴に一致します。スクールカーストものはバトルロワイヤル系(価値観の衝突)に含まれ、バトルロワイヤル系がセカイ系の派生であることをふまえるとある意味当然です。
ここで少し説明を加えておきます。
社会全体に共有されるような絶対的な価値観を大きな物語といいます。これを下敷きにしたものがセカイ系やジャンプ的な物語です。いわゆる正義と悪で、両者で違うのは主人公にやる気があるかないかです。
21世紀になると、大きな物語は衰退し無数に小さな物語が散在する状況になります。(善人にも悪いところがあり、悪人にも良いところがある)
こうした中で個人が小さな物語に帰属されている必要が出てきました。
学校が社会と見なされるようになったのは小さな物語に帰属しなければコミュニケーションの隔絶(いなばん)を強いられるようになったからです。
小さな物語に帰属するために
・自分が拠り所とする小さな物語を決断的に選び取ること
・つながりの社会性(コミュニケーションのためのコミュニケーション、自分がその共同体に帰属していることを確認するための形式的なコミュニケーション)
という二つのステップが必要です。
文研の五人は文化研究部を選び取ったわけではありません。
部活を学校という社会の中の小さな物語と象徴的に捉えると部活に所属しなければならないという決まりは小さな物語に所属することを義務付けるものとも言えます。
話を戻して繰り返されるつながりの社会性を
現実認知として捉えるのがバトルロワイヤル系
消費者の欲求に合わせて理想化したのが空気系
とする見方があり、フウセンカズラ=作者のフィクションだと認めた上で、という部分はまさしく作品に現実認知を与えるものだと思います。
つながりの社会性という点で伊織はそれを一番色濃く映したキャラクターと言えます。伊織は小さい頃から場を円滑にすることを優先した結果本当の自分を見失ったと言います。個人的には時間退行によって中学生の頃の伊織になったシーンが一番印象的で、見ていて痛々しいというか、良い子だなと思う反面とても寂しい気持ちになりました。むしろ感情伝達のときの壊れた伊織の方がストレートで見ていて清々しかったです。壊れる前と後で見た目的には同じ伊織に戻るわけですが、内面的に成長があります。「勝手なイメージを押し付けないで」というのはそれを本当の自分と思えないからくる言葉で、「自分が歩いた道が自分になる」という言葉の通り、周りが自分に対してそういう期待をしてくれるというのは見方を変えれば嬉しいことだと思います。どうでもいいと思えばそうしなければいいし、理想の自分があればそこに向かって頑張れる。「てめえのやりたいようにやる」ってこういうことなんでしょうか。
またそれとは別にフウセンカズラ=作者がもたらしたものがあります。それはフウセンカズラが五人の誰かに干渉するシーンあります。フウセンカズラは面白くないと五人に対してゆさぶりをかけてきます。フウセンカズラ=作者と各々の問答は一人一人の立場を明らかにし、何を考えているかなどを表現する場でもあります。心理描写を掘り下げるためにどうしても人物関係が狭くなりがちですが、こういう工夫によってカバーしているのは面白いと思います。
色々書きましたが面白い作品でした。個人的に伊織が好きですが、あんな妹がいたらシスコンになってもしょうがないと思います。
妹がほっぺにチューきたこれ!が感情伝導したのが一番面白かったです。