遥か彼方 さんの感想・評価
3.3
物語 : 3.5
作画 : 3.0
声優 : 3.5
音楽 : 3.0
キャラ : 3.5
状態:今観てる
この作品にとって「人間の死」とは何か?(三話まで視聴)
{netabare}
一話
第一層で1000人が死ぬ
二話
パーティーのリーダーがリーダーらしく死ぬ
三話
現実では友人同士の仲間達、リーダーっぽい男子が始まりの街に用事で向かい、その間に仲間が罠にはまり次々と命を落としていく。
「死ぬのが怖い、死にたくない」
と言っていた彼女すら無情にも死に抗えなかった。
それを知った残りの男子は絶望に自殺する。
この作品のコンセプト
「ゲームオーバーは本当の死を意味するデスゲーム」
だが血も出なければ苦しみが長く続くこともなく、ゲームオーバーになった者は輝きの中でその場から消滅する。その美しさすら感じられる輝きはきっと命の輝きだろう。
この描写は今までに有った他のゲーム作品の様に普通にゲームオーバーとなってプレイヤーが消滅する時とさほど違いは無い。
だがこの作品ではそれは「現実の死」をも意味する。
それなのにプレイヤーの死に様があまりにも綺麗過ぎて、現実の残酷で恐ろしい「死」と言う概念と結びつかない。
一話の最後、ゲームをプレイしただけで現実では1000人を超える死者が出た。これは大量殺戮とも言える恐怖。
何故こんなに人を簡単に殺すのだろうか?
いや「人が簡単に死ぬ」
それこそがモンスターや怪物、万が一現実にそう言う異物が現れた時に起こる状況を表しているのかも知れない。
それだけ人間は無力で弱きものだと言う事を改めて思い知らされた気がする。
モンスターだけじゃない、もしかしたらまだ生きられる状況にありながらもそのゲームからログアウト出来ない、と言う現実に絶望して早々と自ら命を断った者も少なくは無さそうに思う。精神的にも絶望に弱い人間も少なくはなかっただろう。
明らかに太刀打ち出来ない敵と戦わなくては未来がない、と言う点ではプレイヤーは皆「進撃の巨人」と同等な程の絶望的な状況に置かれている筈。
進撃はキャラがどんなに無残な死に方をしてもそれを描ききっていた。
この作品はどれだけ過酷な敵と戦って死んでも、美しい輝きに包まれてただ消えるだけ。
ここに果たして「死への恐怖」や「キャラへの哀愁」などが生まれるのだろうか?
三話ではあれだけ「死を怖がっていた」彼女が、自分の死ぬ時に向かい合いメッセージをキリトに残した。
その姿は最も現実で死を恐れる人間味に溢れ、いつ来るか分からない、でも自分にはそう遠くないかも知れないと言う恐怖と戦った末に見せた生き様の一つだった。
一瞬にして輝きの中で消えていったが、確かに彼女の命はそのゲームの中に存在した。そして現実としての彼女の「死」もそこには描かれていたと感じた。
だが悲しい気持ちはそれ程沸いて来ない。
やはりこの作品の「死」が綺麗過ぎるからかも知れない。
まあまだ三話までなのでそれ程愛着が涌くキャラがいる訳では無いので、この後誰かがこのゲーム内で「死ぬ」時、どう感じるかは解らない。
少なくとも三話はゲーム的な「死のイメージ」を少し覆す展開だったので興味深かった。
このゲームでしか迎えられない「人間の輝かしい最期」を観て今は少しだけこう感じる。
現実では悲しみに溢れた残酷で恐ろしい「死」と言う概念を、この作品の中だけではどのキャラにも、いやゲーム内にいるどの現実に生きる人間にも平等に
「苦しむ事なく、生命を輝きとして散らばらせた綺麗な最期を迎えさせてあげたい」
「逃げられないデスゲーム」をテーマにした作品を書く様な作者がこんな事を考えているとは思えないが、私は何故だか無性に「消滅するだけの死」に対してそんな優しさを感じてしまった。
この作品にとって「死」は現実の様に恐ろしく重いものなのか、それともゲームの様にプレイヤーが最も美しい輝きを見せる瞬間で、一瞬にして消えていくだけの切ないものに過ぎないのか。
キリト自身の謎も含めて見付けていきたいと思う。{/netabare}