ピピン林檎 さんの感想・評価
5.0
物語 : 5.0
作画 : 5.0
声優 : 5.0
音楽 : 5.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
私たちは、なぜ「まどマギ」にこうも感動してしまうのか
この大ヒットアニメには5人の魔法少女が登場するのですが、そのうち、魔法少女"契約"を受け容れる動機や願いと、その結末が、本人の感情推移と共に詳しく描き出されているのは、{netabare}美樹さやか、暁美ほむら、鹿目まどか{/netabare}、の3人でしょう。
ここでは先ず、この3人について個別にその役回りを検討し、そのあと作品内容を要約します。
(※残りの2人については(※注釈)へ)
★美樹さやかへの《同情》 - 片想い少女の絶望の物語
{netabare}
美樹さやかは、主人公鹿目まどかの一番の親友なのですが、映画前編(TV版第8話まで)では、本来の主人公である鹿目まどかではなく彼女の方が、①いち早く魔法少女になる決断をし、②まもなく魔法少女の実際の姿を知って苦悶し、③そして絶望してしまう物語、と受け取る方が適切なほどの活躍ぶりを見せます。
美樹さやかは、この年代の少女に相応しく身近な恋をしており、その片想いの少年のために自分のたった一回の奇跡のチャンスを捧げてしまうのですが、少年は彼女の献身に全く気付かず、残酷にも彼女のもう一人の親友(志筑仁美※彼女もまた美樹さやかに知らず知らずに命を救われた存在です)の告白を受け容れてしまいます。
もし『魔法少女まどか☆マギカ』が、この前編(TV版第8話まで)に描かれた《美樹さやかの絶望の物語》として完結してしまったとしても、私はそれだけで、総合評価 ★ 4.0 以上を付けたことでしょう。
私たちが美樹さやかに抱く感情は、きっと、《同情》、すなわち、悲しい境遇にある他者に対する憐憫の感情(~は可哀想だ、という想い)でしょう。
良くも悪くも、美樹さやかは、その感情や行動の推移が、魔法少女というよりは等身大の中学生少女であり、その点で彼女は私達が自分と同じ目線で物語を追える存在でしょうし、男であれ女であれ、さやかと似たような片想い経験のある方は、彼女の物語にとりわけ深く共感することでしょう。
{/netabare}
★暁美ほむらへの《共鳴》 - 病弱少女の誠実の物語
{netabare}
映画前編が美樹さやかの失恋から絶望に至る感情推移を描いた物語だったのに対して、後編は、前編では殆ど謎だった暁美ほむらの感情推移と行動動機を描いた物語と見ることが出来るでしょう。
しかし、美樹さやかの物語が、おおよそ私達の想定範囲内(私たちの日常生活でも起こりそうな感情推移の範囲内)のものだったのに対して、暁美ほむらの物語は、私達の想定を超える大きな振幅で彼女の変貌を描いています。
美樹さやかは、鹿目まどかや志筑仁美という親友、そして上条恭介という身近な想い人のいる、普通に活発で明朗な女子中学生として描かれているのですが、暁美ほむらの場合は、もともとは心も体もか弱い、自分に自信が持てない臆病な少女、まどかの中学校に転校する直前まで心臓の病気で病院で寝たっきりの、これまで友達の一人も持った経験のない、まどかがいなければおそらく転校先のクラスでも浮いてしまう苛められっ子タイプの少女だったことが後編(TV版第10話)で明かされていきます。
しかし、その病弱で臆病な少女が、自分のたった一人の「友達」のために、あらん限りの気力を振り絞って何度も何度も奮闘する姿が、いつの間にか私たちの心を激しく揺さぶるに至ります。
もし『魔法少女まどか☆マギカ』が、この後編(TV版第10話まで)に描かれた《暁美ほむらの過酷な運命への抵抗の物語》として完結したとしても、私はその時点で、総合評価 ★★ 4.5 以上を付けたことでしょう。
そして、その場合、私たちが、暁美ほむらに抱く感情は、きっと、《共鳴》、すなわち、悲しい運命に懸命に立ち向かう他者に対して、心から応援する感情(~よ頑張れ、という想い)でしょう。
正直な話、私たちの多くは、『魔法少女まどか☆マギカ』を初めて鑑賞して、この暁美ほむらの誠実さに心を射抜かれて、この作品が大好きになってしまうのだと思います。
{/netabare}
★鹿目まどかへの《憧憬》 - 真打ちヒロインの降臨
{netabare}
しかし、この作品の本当の奥深さは、ここを更に超えた地点にあります。
私は、この作品を初見して、暁美ほむらの誠実さに感激して、TV版を5回以上おそらく10回近く通しで視聴し、それから劇場版が公開されると早速、前編・後編を毎週のように鑑賞しに出掛けたのですが、そうやって劇場通いをしているうちに、ふと、それまで余り深く読み取れてなかった鹿目まどかの決断に至る心情の描かれ方とその結末の見事さに魅了され始めて、改めてこの作品に感嘆の気持ちを強く持ちました。
それはきっと、ラスボス魔女(ワルプルギスの夜)を前にして、魔法少女となったまどかが、「もう良いんだよ。そんな姿になる前に、貴方の想いは全部わたしが受けとめてあげるから」と呼びかけて、劇場スクリーンいっぱいにズームアップされていく、あの神々しいシーンを目の前にした時のことだと思います。
私は別にキリスト教とか、その他何か特別な信仰をもっている、とかそういうことは別段ない人間ですが、もし神が降臨するとしたら、きっとこういう感じになるのかも知れない、と思わず《錯覚》してしまう、そんな不思議な魅力をこの作品から感じ取りました。
(※なお、ファンの間では魔法少女に変身したまどかは「まど神様」と呼ばれているそうです){/netabare}
★以上、3少女の描かれ方から見た《物語の要約》
(1) 『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 前編』(TV版では第8話まで)は、{netabare}「美樹さやかの失恋と絶望の物語」{/netabare}
(2) 『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 後編』(TV版では第9話以降)は、{netabare}「暁美ほむらの誠実と奮闘の物語」{/netabare}
・・・として、それぞれキッチリ完結していることを踏まえた上で、
(3) 作品全体としては、{netabare}「主人公・鹿目まどかによる魔法少女達の救済の物語」{/netabare}
・・・として確り成立。
☆補足説明(主人公=鹿目まどかの非凡さと、それが視聴者になかなか理解されない理由)
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一見どこにでもいる平凡でおとなしい女子中学生と受け取られがちな鹿目まどかですが、注意して観察していくと、母親や父親、あるいは他の魔法少女たちとの関わり方のうちに、その非凡さの片鱗が確りと描き出されていることが次第に気づかされます。
例えば、(劇場版では残念ながら省かれていますが)TV版での父親の言葉によれば、まどかの母親は「何かを達成することが夢なのではなくて、何かを頑張っている、そうした生き方そのものが夢である」人であり、まどかもまた母親のそうした生き方の影響を知らず知らずのうちに強く受けていて、序盤で、特別な願い事もなく、あっさりと魔法少女になることを決めた理由を、「マミさんみたいな魔法少女になれたら、それで困っている人達を助けられたら、それだけで私の夢は叶ってしまうんです」と、述べてマミさんを感激させるシーン。
そして、その母親によれば、まどかは「悪いことはしない、いつも正しくあろうと頑張っている、もう子供としては合格だ」と褒められる自慢の存在なのですが、そうした、まどかの「正しくあろうとする」姿勢は決して独り善がりのものではなくて、ちゃんと周りの人達全員の言い分や願いや想いを推し量って、「それが必要であるとしたら、躊躇わずに行動できてしまう」(続編映画『叛逆の物語』での暁美ほむらの言葉)、全体にとっての最善への志向性を兼ね備えた特別な強さと優しさを持ったものなのです。
そういう意味では、
(1) 美樹さやかが、心の強さ、という意味で一番平均的で等身大の存在、
(2) そして、暁美ほむらは、平均よりもずっと脆弱な心を隠し持ちつつ無理に無理を重ねて奮闘している健気な存在であって、
・・・それぞれ私たちの琴線に直接に響く、分かりやすいキャラクターであるのに対して、
(3) 鹿目まどかの場合は、平均よりもずっと心が強くて寛大な、特別な存在
・・・として、実は描かれていると思いますし、その特別さが、私たち視聴者に、なかなか鹿目まどかの魅力が理解されない原因となっている、と思います。
以上、先に述べたように、私たちが、美樹さやかに抱く感情が《同情》であり、暁美ほむらに抱く感情が《共鳴》という、それぞれ身近な感情であるのに対して、私たちが、鹿目まどかに抱く感情があるとしたら、それは、《憧憬》、すなわち「自分もこのように、強く優しい存在でありたい」という感情なのだろうと私は推測します。
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そして -これが肝要なのですが- この《憧憬》は、きっとこの作品の制作者が抱いた感情だったと思うのです。
結局のところ、制作者(※特に脚本家=虚淵玄氏?)の想い描いた鹿目まどかのイメージがどこから来たのか、を考えると、やはり{netabare}《聖書》に描かれたメシア(救済者)のイメージ{/netabare}・・としか答えようがないように思います。
そうした作品モチーフの考察は本レビューの末尾にひと通りまとめました。
◆作品評価《まとめ》
暁美ほむらの誠実を描いた時点(TV版の第10話まで)で、私は、既にこの作品はアニメとしては出色の「名作」と呼ばれるに相応しいものとなっていたと思うのですが、その先にさらに、鹿目まどかの決断を描き出したことによって、私は、この作品が、アニメに限らず、文芸ジャンル全体の中でも、特別に高くまた深い「傑作」となった、と個人的には評価しています。
勿論、作品の評価は人それぞれのものであり、また、この作品の大ヒットには、製作者(※制作者ではなく)側のマーケティングの巧みさも当然あったのでしょうけど、それでも、これ程までに私たちを魅了してくれる作品を、放送しばらく後、および上映当時に鑑賞できたことを私は素直に喜びたいと思いますし、この作品の成功をベンチマークとして、今後さらなる高みを目指した作品が制作されていくことを期待したいと思います。
※以上で、TV版・劇場版に共通した、私の「まどマギ」への全般的な評価・感想を終わります。
(※注釈){netabare}
序盤の華々しい活躍のあと突然退場してしまう中3の年長少女(巴マミ)と、少し遅れて登場し終盤手前で退場してしまう奔放少女(佐倉杏子)の二人の先輩格の魔法少女の感情推移については、外伝マンガ『魔法少女まどか☆マギカ ~The different story~』に詳しく描かれています。
→これも、結末部分が若干ブレてしまっていますが作画・ストーリーとも傑作だと個人的には思っており、まどマギが気に入った人には特にお勧めです。{/netabare}
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◆制作情報
{netabare}
原作 Magica Quartet(新房監督/岩上プロデューサー/キャラ原案・蒼樹/脚本・虚淵4名の共同名義)
監督 新房昭之(※劇場版では総監督)、宮本幸裕(※劇場版監督)
シリーズディレクター 宮本幸裕
脚本 虚淵玄
キャラクターデザイン 蒼樹うめ(原案)、岸田隆宏
音楽 梶浦由記
アニメーション制作 シャフト{/netabare}
◆各話タイトル&評価
★が多いほど個人的に高評価した回(最高で星3つ)
☆は並みの出来と感じた回
×は脚本に余り納得できなかった疑問回
============ 魔法少女まどか☆マギカ (2011年1-3月、4月) ==========
{netabare}
第1話 夢の中で逢った、ような・・・ ★
第2話 それはとっても嬉しいなって ★
第3話 もう何も怖くない ★★ 驚愕回1
第4話 奇跡も、魔法も、あるんだよ ☆
第5話 後悔なんて、あるわけない ☆
第6話 こんなの絶対おかしいよ ★
第7話 本当の気持ちと向き合えますか? ★
第8話 あたしって、ほんとバカ ★★ 驚愕回2
第9話 そんなの、あたしが許さない ★
第10話 もう誰にも頼らない ★★★ 神回!
第11話 最後に残った道しるべ ★★★ 連続で神回!
第12話 わたしの、最高のともだち ★★ 見る度に美味しくなるスルメ回{/netabare}
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★★★(神回)2、★★(優秀回)3、★(良回)5、☆(並回)2、×(疑問回)0 ※個人評価 ★★★ 5.0
OP 「コネクト」
ED 「Magia」
※このように「まどマギ」は、第10話がアニメ史上最高レベルの神回、続く第11話も胸熱必至の神回で、さらに最終第12話は最初はピンと来なくても視聴を繰り返す毎に美味しくなってくるスルメ回なので、第1-2話を見て「絵柄や作風が自分に合わない」等の理由で断念してしまうのは本当に勿体ないです。
====== 劇場版 魔法少女まどか☆マギカ (2012年10月、2013年12月) =====
{netabare}
前編 始まりの物語 ★ ※TV版の第1~8話をほぼ新規作画で再構成/再録
後編 永遠の物語 ★★★ ※TV版の第9~12話をほぼ新規作画で再構成/再録
新編 反逆の物語 ★★ ※暁美ほむらのその後を描いた完全新作{/netabare}
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総合 ★★ 4.9
OP 「ルミナス」(前・後編)、「カラフル」(新編)
ED 「Magia」(前編)、「ひかりふる」(後編)、「君の銀の庭」(新編)
挿入歌 「未来」(前編)、「コネクト」(後編)、「misterioso」(新編)
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※以降は、よりマニアックな作品モチーフの考察です(長文注意)。
◆《聖書》をモチーフとする契約と救済の物語
{netabare}
この大ヒットアニメからは、印象深い幾つもの名文句が生れたのですが、その中でも一番有名なのは
「僕と契約して、魔法少女になってよ」
でしょう。
白い小動物の甘い囁(ささや)きに頷(うなず)いて、たった一つの願い事と引換えに魔法少女となった中学生たちは、彼女の魂であり魔法少女の証(あかし)でもあるソウル・ジェム(soul gem 魂の宝石)が①破壊され、または②濁りきって消滅する日まで魔女と闘い続ける過酷な運命を背負わされてしまうのですが、作品の序盤から終盤までこの小動物が繰り返し少女に持ち掛けるこの「契約」というキーワードが、この作品に他の作品にはない特別な雰囲気と意味合いを与えています。
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けい-やく【契約】 (広辞苑)
<1> 約束。約定(やくじょう)。平家物語(2)「日来の-をたがへず、参りたるこそ神妙なれ」
<2> (法) 対立する複数の意思表示の合致によって成立する法律行為。贈与・売買・交換・貸借・請負・雇用・委託・寄託などがその例。
<3> (宗) キリスト教で、神が救いの業をなしとげるために、人間と結ぶ恵みの関係。イスラエル民族に対してモーセを通じて結ばれた関係を旧約(旧い契約)、後にイエス=キリストによって結ばれた関係を新約(新しい契約)とする。
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「契約」と聞くと、私たちが通常、思い浮かべるのは、上記の広辞苑にある <2> 売買・貸借・雇用・請負など、①物品やサービス(役務)の受領(または提供)と引き換えに、②何がしかの代価を提供(または受領)する法的な約束(法律行為)なのですが、この作品で語られる「契約」は、そうした主に金銭を代価として結ばれる民法・商法上の行為ではなくて、広辞苑にある <3> 神(や悪魔)と人との間に結ばれる魂(たましい soul)を代価とした絶対的・宗教的な拘束のことです(そのためにこの作品をゲーテ『ファウスト』に喩える感想・批評が沢山書かれました)。
キリスト教の《聖書》によれば、人類の祖アダムとイヴはエデンの園で、何ひとつ不自由なく、悩み・苦しみもない幸福な生活をおくっていましたが、サタンの化身である蛇がイヴを唆(そそのか)して禁断の知恵の実を食させてしまい、そのために彼らは神の怒りに触れて楽園を追われ、この地上で苦渋に満ちた人生をおくるはめに陥りました。
そしてアダムとイヴの子孫たちも、祖先が犯したこの原罪を背負って、苦しみの生涯を送ることが運命づけられました。
(※ただしイスラエル民族だけは預言者モーセを通して、救世主(メシア)の到来により救済されることが約束された(これを旧約(=旧い契約)といいます))。
しかし、やがてアダムとイヴの子孫たちの苦しみを哀れに思った神は、精霊となって聖母マリアの胎内に降り、神の子イエスとして地上に顕現し、新しい神の教えを人々に伝えたあと、彼を神の子と崇める全ての人の罪を贖(あがな)って自ら十字架にかかりました。
このように、神の子イエスは人々の原罪を贖った救世主(メシア)であり、彼によって神と人との契約が更新された(これを新約(=新しい契約)といいます)、とするのが全てのキリスト教徒の根本的信条なのですが、『魔法少女まどか☆マギカ』は、この聖書の根本ストーリーにヒントを得て、そのストーリー・ラインが構成されている、と指摘することは、決して突飛ではないでしょう。
すなわち、
(1) 白い悪魔(QB)に唆されて「契約」によって魔法少女になった少女
≒命ある限り悩み苦しまなければならない、という「原罪」を背負わされたアダムとイヴの子孫に相当
(2) 魔法少女たちの運命を哀れに思った一人の少女(鹿目まどか)が、古今東西の魔法少女達の絶望を一身に贖(あがな)う救世主(メシア)となる=古い「契約」の結末部分の改変=「円環の理(ことわり)」の挿入
≒救世主イエスによる新しい「契約」の挿入に相当
※因みに、鹿目まどかが、いよいよ魔法少女になるシーンで、QBは「君は本当に神になるつもりなのかい?」と驚きを露わにし、これに対してまどかは「神様だって何だっていい・・・」と応えており、また、この作品の続編である『魔法少女まどか☆マギカ -叛逆の物語-』では、鹿目まどかの救済の力の及ばない結界内の世界で、子供姿の使い魔たちが「Gott ist tot. 神は死んだ」と囁くシーンが繰り返し描かれています。
※※なお、「Gott ist tot.神は死んだ(=God is dead.)」は、19世紀末ドイツの哲学者ニーチェによる哲学小説『ツゥラトゥストラはかく語りき』にある有名な文句で、ニーチェはこの書物の中で、キリストによる救済を完全に否定し、「永劫回帰」という暁美ほむらの救いのないループをイメージさせる仮説(死後の救済など虚であり、私たちは同じ苦しみの人生を果てしなく繰り返すだけである、とするアイデア)を提唱しています。{/netabare}
◆バッドでもハッピーでもない、《ビター(bitter ほろ苦い)な結末》
{netabare}
「まどマギ」以前のアニメで、《聖書》(らしきもの)をモチーフとするストーリー展開で私たちを何かしら深い沈黙に誘う作品として有名なのは、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年~97年制作)でしょう。
確かにエヴァンゲリオン(旧作)には、傑作と呼ばれるだけの魅力があったのですが、ただ、今の私たちの眼から見ると、この作品は、たかだか一人のセンシティヴな(sensitive 感受性の強い)少年の煩悶という private(私秘的)な世界の描写に終始しており、残念ながらそこからの昇華を見ることはできませんでした(むしろ、出口を全く見つけられない徹底的な閉塞状況の描写が、当時は受けた、とも言えるのですが)。
これに対して、時代が下った「まどマギ」では、少女のセンシティヴでプライベートな煩悶を、ジェネラス(寛大)なより大きな存在が包み込んで昇華させる、という新たな解決策 -全ての問題が丸く収まって全員が直ちにハッピーになれるような解決策ではなく、あくまで古いシステムの最悪の結果を回避するという部分的な解決策ですが- が示されました。
バッドエンドではないけれども、ハッピーエンドとまでは言い切れない、こうしたほろ苦さの残る結末をビターエンド(bitter end)というのだそうです。
「まどマギ」が、ビターな結末となったことについては、これでは全然不十分であり、もっと根本的に魔法少女システム全般の問題が解決される、文字通りのハッピーエンドが望ましかった、とする意見も多いようです。
しかし、これについては、「まどマギ」のモチーフとなった(と思われる)、《聖書》の救済のストーリーそのものがビターエンドでしかないわけで、それを参照した「まどマギ」がビターエンドになるのはむしろ自然なことではないか、と私は考えています。
《聖書》でいえば、悩み・苦しみの生涯をおくる、という人間の背負わされた原罪の結果そのものは、イエス=キリストの降臨の前も後も、全く変わらないのです。
変わるのは、悩み・苦しみながらも義に殉じて生きた人が、その生涯の最期に、神の恩寵により原罪を贖われ(※あがなう=罪を免じられる、の意)、最後の審判の後に天国に迎え入れられる、という「新たな約束(=新約)」が救世主(メシア)から授けられたこと、の一点です。
「まどマギ」でいえば、奇跡を手に入れた代償として魔女(改変前)ないし魔獣(改変後)と闘い続けなければならない、という魔法少女の運命そのものは変わらないのです。
変わるのは、魔獣との闘いの果てに絶望に沈む寸前となった魔法少女が、その最後の希望である「円環の理」に導かれて、魔女化(=絶望)を免れて消滅する、という一点です。{/netabare}
◆心をつなぐ(connectする)《約束》
{netabare}
上に述べたように、白い小動物(QB)は、少女たちに言葉巧みに「契約」を持ちかけるのですが、実はこの作品中で、ストーリー展開のキーパーソン(暁美ほむら)が何よりも大切に思い、全身全霊を込めて果たそうとしているのは、この強制的な拘束力を持つ「契約」ではなくて、彼女と「友達」との間に private(私秘的)に交わされた、果たされる何らの保障もない只の「約束」の方です。
ここでOP「コネクト」の歌詞を確認しておきましょう。
作詞・作曲 渡辺翔
歌唱 ClariS
{netabare}
<1番>
交わした約束忘れないよ/目を閉じ確かめる/押し寄せた闇 振り払って進むよ
いつになったらなくした未来を/私ここでまた見ることできるの?
溢れ出した不安の影を何度でも裂いて/この世界歩んでこう
とめどなく刻まれた 時は今始まり告げ/変わらない思いをのせ/閉ざされた扉開けよう
目覚めた心は走り出した未来を描くため/難しい道で立ち止まっても/空はきれいな青さでいつも待っててくれる/だから怖くない/もう何があっても挫けない
<2番>
振り返れば仲間がいて/気がつけば優しく包まれてた
なにもかもが歪んだ世界で/唯一信じれるここが救いだった
喜びも悲しみもわけあえば強まる想い/この声が届くのなら/きっと奇跡はおこせるだろう
交わした約束忘れないよ/目を閉じ確かめる/押し寄せた闇 振り払って進むよ
どんなに大きな壁があっても/越えてみせるからきっと/明日信じて祈って
<3番>
壊れた世界で彷徨って私は/引き寄せられるように辿り着いた
目覚めた心は走り出した未来を描くため/難しい道で立ち止まっても/空はきれいな青さでいつも待っててくれる/だから怖くない/もうなにがあっても挫けない
ずっと明日待って{/netabare}
この「約束」は、3回目のループ時に、一つだけ残ったグリーフシードで暁美ほむらのソウルジェムを浄化した鹿目まどかが、「QBに騙される前の馬鹿な私を助けてくれないかな・・・」と尋ねて、ほむらが、「約束するわ、きっと貴方を助けてみせる。何度繰り返すことになっても」と涙ながらに返答した、その一回きりの果かない約束のことなのですが、これを果たすために、暁美ほむらは、自分のたった一人の「友達」であり自分が守る対象である鹿目まどか本人からも誤解され、まどかの「親友」美樹さやかや「憧れの先輩」巴マミかは疎んじられる羽目になっても、まどかに、もう二度と魔法少女「契約」をさせまいとして、心を鬼にして一人孤独な奮闘を繰り返すことになります。
この3回目ループ時が、暁美ほむらにとって、まどかとの「約束」が自己の行動目的となり、QBとの「契約」がその目的を達成するための手段となった瞬間であり、彼女にとって、まどかとの「約束」が交わされた(=心がつながった=CONNECTされた)この瞬間が、最大の苦しみを味わいながらも、同時に彼女が最高の幸福を感じた瞬間だったように私には見えました。
これ以降のほむらは「まどかを守るために生きる」、自分にとっての「絶対的な正義」に殉じた、良くも悪くも張りつめた時間をおくることになるのですが、しかし、こうした充実した時は長くは続きません。
暁美ほむらは、自分がループを繰り返せば繰り返すほど、自分が守ろうとしている鹿目まどかの因果が深くなり、彼女の絶望までもが深くなってしまうことを、やがて悟ります。
幾度となく繰り返された時間遡行の果てに、遂に「自分はまどかを救うことは出来ない」「自分のやって来たことは無意味だった」ことを思い知らされて絶望の淵に立たされたほむらの前に、魔法少女の全ての希望と絶望を知ったまどかが現れて・・・
「ごめんね、ほむらちゃん。私、魔法少女になる」
こうして「約束」は、提案者のまどかの方から破棄され、彼女の願いによって魔法少女の絶望は回避されることになります。{/netabare}
◆「約束」が破棄された世界と《ほむらの本当の願い》
{netabare}
まどかが「円環の理」となった後の世界に残された暁美ほむらは、「まどかが守ろうとした世界だから、私もこの世界を守る」という新たな決意のもと、魔女に代わって世界に禍いをもたらすことになった魔獣との闘いを続けるのですが、彼女のこの決意には、どことなく嘘っぽい、心ここにあらずといった投げやりな雰囲気が漂っていました。
TV版ラストの魔獣の群れへのほむらの無謀な突入は、もうこんな世界から離脱したい、消えてしまいたい、という、彼女の焼けっぱちの本音が露わになった瞬間のように、私には見えました。
ここで、私たちが改めて思い起こすべきは、ほむらがQBとの魔法少女「契約」を受諾した、その最初の願い(=ほむらの本当の願い)が何だったのか、という事でしょう。
「私は鹿目さんとの出逢いをやり直したい。鹿目さんに守られる私ではなく、鹿目さんを守る私になりたい」
・・・結局、これが、ほむらの初心であり本心だったんですね。
だとしたら、続編映画『叛逆の物語』のあの結末も、この願いの内に実は胚胎していた、と考えるのが妥当ではないでしょうか。{/netabare}
◆《まとめ》①ストーリー展開の面白さと、②登場キャラの心情推移の説得力を両立させた名作
{netabare}
以上の考察から、私は、この作品が
①単にストーリー展開が予想外で興味深いだけでなく、
②登場キャラクター全般(とくに主役の2人-鹿目まどかと暁美ほむら-)の心情推移の説得力が、このTV本編だけでなく続編『叛逆の物語』も含めて、稀に見るほど高いこと
を強く指摘しておきたいと思います。
通常は、
<1> ①ストーリー展開が予想外に面白い作品は、②登場キャラの心情推移がストーリーに振り回される格好になってどうしてもチグハグになりがちであり、
<2> 逆に、②登場キャラの心情推移が的確で説得力に富む作品は、②ストーリー自体は起伏が少なく面白みに欠けるものになりがち、
・・・なのですが、本作はこの二つを見事に両立させていると思います。
私が本作に、個人的に最高評価 ★★★ 5.0 を与える理由です。{/netabare}
*(2018年10月7日) 制作情報等を追加
*(2018年10月9日) 段落等を修正・劇場版情報等を追加