退会済のユーザー さんの感想・評価
4.4
物語 : 5.0
作画 : 3.0
声優 : 4.0
音楽 : 5.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
タイトルなし
オーバーマン同士の能力バトル、という一面だけでも充分に魅力的である本作だが、それよりも僕は、ストーリーが非常に気に入っている。
本作でゲイナーやシンシアを通して描かれているのは、【自立】の尊さだ。ドームポリス=抑圧する社会であり、エクソダスした先にあるヤーパン=自由だと考えると、理解しやすいだろう。
しかしこうして考えると、エクソダスとはシベ鉄が言うとおり、社会からの逃亡になりはしないだろうか? と疑問に思われるかもしれないけど、そうじゃない。。
何故なら、エクソダスするゲイナー達が、困難な道のりを歩んでいるからに他ならない。これがもしも、ただ単に社会からの逃避が望みであるならば、もしくは社会から逃避するだけの軟弱な奴らであるならば、そもそもエクソダスなんて断念していることだろう。実際、エクソダスを途中で諦めた連中や、エクソダスを妨害することを生業にしていたエリアルなどがいい例だ。
ドームポリスを離れ、エクソダスの旅で様々な体験をしたゲイナーだが、終盤にてオーバーデビルによって操られ、心を閉ざして仲間であるゲイン達の前に立ち塞がる。
「僕にはエクソダスなんてない」
心を閉ざしたゲイナーの台詞が印象的だ。
エクソダスとは、不満とする現状の打破を目指した行動、またはその意志だ。
つまりゲイナーは、自分にはそんな強い意志はないと諦めているんだ。
後半にてドラマの中心に立ってきたゲイナーにしてもシンシアにしても、その造形は現代の少年少女に通ずる面がある。
とくにゲイナーは、ドームポリスでの生活に不満を抱いてはいなかった。
いや、抱いていたのかもしれないが、どうにもならないものだと諦めていたんだ。少しの我慢さえすれば、そこに不自由はないのだから。
だが、社会に飼われることに抵抗さえ覚えなかった少年は、エクソダスという精力的な活動を通して着実に成長していた。
それを証明するのが、プラネッタのオーバースキルでサラとシンシアの心を取り戻した場面。
この時、二人の脳裏に浮かんだ記憶はゲイナーの想いであり、重要なのはその想いによって二人が自我を取り戻したということ。
自分の愛は届かないと知って絶望するサラには、ゲイナーの彼女に対する愛が(リュボフに言われて彼女が実行しようとしたことを図らずもゲイナーがやったというところがミソ)、孤独な自分に塞ぎ込むシンシアには、サラを含めた三人の間に結ばれた友情を。
この想いに触れ、二人はオーバーフリーズ――自分の殻から解き放たれる。大人であるゲインが子どもであった彼に対して行ったのと同じやり方で、だ。
ゲインの言葉をキッカケに、ゲイナーは自らの発言を撤回するかのように己の殻を抜け出し、そしてゲイナーがエクソダスを通してサラとシンシア――誰かの心を動かせる人間に成長したのだと魅せつける演出はとても良かった。
エクソダスの道のりは、沢山の困難があった。恥ずかしい目に遭ったし、辛いこと、嬉しいこと悔しいこともあった。それらは、ドームポリスという、抑制された社会の中では決して得られなかった経験だろう。その旅路では、虚構の世界で理想の自分に酔いしれる暇もない。
そして最後にて、遂にゲイナー達はシベリアの地の果てにヤーパンを夢見るまでに至るのだ。このラストが本当に清々しかった。確かに、オーバーデビルに捉われたあの段階では、ゲイナーにはエクソダスは無かったのかもしれない。
しかしオーバーデビルを【オーバーヒート】で打ち倒したことで、ゲイナーもヤーパンを夢見ることができたのである。
まさしく、情熱は未来を夢見る源なのだ。
シベリアという極寒の地で走り回る彼らの身体は、きっと汗まみれに違いない。そう思わせるキャラクターの熱気こそが、本作最大の美点だと僕は思う。