因果 さんの感想・評価
4.8
物語 : 5.0
作画 : 4.5
声優 : 4.5
音楽 : 5.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
比喩の霧の先に
『輪るピングドラム』は言わずもがな、1995年にオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件をモチーフとしたアニメ作品である。いや、「西暦1995年」という陰鬱さそのものがモチーフといってもいいだろう作中で陽毬が探し求めていた『かえるくん、東京を救う』という本は村上春樹が阪神・淡路大震災を受けて執筆した短編小説の一つだし、幾原邦彦と仲の良い庵野秀明が監督したセカイ系アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の初回放送もこの年である。
しかし『ピングドラム』は1995年に、地下鉄サリン事件に関連するさまざまなオブジェクトを散りばめながらも、あくまで比喩に徹し続ける。たとえば「オウム真理教」は「企鵝の会」、「サリン」は「黒いテディドラム」、「営団地下鉄丸ノ内線(サリンが撒かれた路線の一つ)」は「TSM荻窪線」にそれぞれ置換されている。
このように、作中ではさまざまな比喩が入り乱れる。物語は高度に虚構化される。すると当該の事件そのものはひどく遠く霞む。全体が見えない。それはまるで数十年という時間の中で事件のリアリティーを喪失しかけている我々の意識、あるいは突として不可視の致死毒に直面させられた当時の人々の心境を表しているようだ。
巧みに比喩化(=遠景化)された事件の真髄に至るには、ただ漫然と画面を追うだけでは到底足りない。そこでは我々一人一人による主体的なはたらきかけ、つまり考えること、連帯すること、想像を巡らせることが必要とされている。それによって劇中に漂う不可解な霧を少しずつ晴らしていく。
どれほど大きなできごとも、時間の波に晒され続ければいつかは錆びつき、やがて平板な歴史的事実へと風化していくし、歴史は恐怖や痛みや苦しみといった生の感覚までは保持しえない。だからこそ我々がそのできごとにコミットしていく以外に、できごとのアクチュアルな動態を受け継いでいく術はないのである。
本作における数々の比喩表現は、事件をわざと我々から遠ざけることで、逆説的に我々の主体性を喚起するものである、ということができるだろう。
この手法自体は他の幾原邦彦作品にも通底しているものの、本作においては殊更比喩を多用する意義があったように思う。
オウム後継団体の存在や、サリンの後遺症に苦しむ被害者とその家族など、今もなお世間の水面下で事件が続いている以上、地下鉄サリン事件は依然としてアンタッチャブルな題材だ。とはいえ無視を決め込むにはあまりにも大きすぎるできごとでもある。社会的にも精神的にも。いつかどこかで誰かが語り直さなければいけない。
さて、このアンビバレンスの合間をくぐり抜ける方策は存在するだろうか?存在する。
比喩である。それは箱だ。何かを便宜的に入れておく箱。箱自体に独立した意味はなく、それらが直接誰かを傷付けたり誤解させたりすることは、おそらくほとんどない。しかし我々は、いつ何時でもその箱の中身を知ることができる。イマジネーションという鍵を用いさえすれば、それらは容易にリアリティーとして我々の前に現前する。
最後にはなるが、本作は、フィクションならではの面白さと意義を実感するとともに、受け手としての覚悟を持つことの重要性を再認識できる傑作だった、ということができるだろう。
余談だがPingroup.incのペンギンマークが街じゅうに氾濫しているのは、トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』に着想を得てるのかな〜と思ったり。