ラ ム ネ さんの感想・評価
3.9
物語 : 4.0
作画 : 3.5
声優 : 3.5
音楽 : 4.5
キャラ : 4.0
状態:観終わった
厭世観を破って広大化する世界。
既存のシステムの外を目指そうとする構造、自分という檻のなかから出ようとする動きは、自由という人間の普遍的な課題なので、どこにでも描かれているのですが、それが人類全体、社会全体の切望的な懇願になるには、大規模な設定・工夫が必要です。「行き詰まった世界観」が必要になってきます。みんなで行き詰まらないとみんな立ち上がろうとしないからです。それを表現させる為に用意するものの、まず簡単なのが苦しみです。感情的な痛みです。そして精神的な目的となります。それらを発起させる世界観、それがSAOのバーチャルのリアル化でした。リアル化によって現実的な苦しみそしてバーチャルからの脱出が全体の目的となります。脱出という目的の実現のために戦うという流れになります。…当たり前でした。
世界の創造主である茅場(作者?) の思想がキモです。茅場は子どもの頃からSAOという別世界の空想に囚われていたと言っています。そして、その世界を観察したい。彼が見たかったのが、キリトに描かれるような既存を打ち壊す人間の意志の力。その意志の力を発揮させる情景です。その情景が、空に浮かぶ鋼鉄の城と、命を賭した戦いの運命です。茅場に現代への社会諦観があったのは事実でしょう。人は美しくあって欲しいという希望、そういった人間というものへの美意識を前提にした現代社会への諦観と、その反作用としての世界創造だったと思います。
そして自らの世界に連れ込まれたのはゲーマーの人々。現実に充分な充実感を獲得することができず、ゲームの幻惑性に囚われ、時にそれを生き甲斐にし、限定10000万本のソフトを並んで買うことのできた、時間が余っている人という主旨です。美意識があり理知深く幻想性を突きつめた茅場にとって、浅いところで同質な人たちと言えます。実に、茅場もまた団長ヒースクリフとして内界に入るわけですから。
重要だったのが、バーチャルの親密性です。 バーチャルMMOほどキャラクター同士のコミュニケーションの親密性が高ければ、もう半分現実のようなもの。関わり合いは本物です。人が協力的になってゆくというわけです。
現実的であり過ぎるから、バーチャルの人格はリアルへと帰っていくとキリトが説明しています。これによって、人間がより協力的にも猟奇的にもなるとされています。リアルなバーチャルによって、強くなったり親和が増すこともあれば可逆的に狂うこともある。この説明で殺人ギルドはわかるんですが、怪訝な顔を向けてしまうのはALO篇の須郷やGGO篇の新川で、彼らは膨張した我欲の暴走として描かれますが、あり得るのかよくわかりません、やり過ぎと思えてしまうのは、台詞が誇張されているからか、単に信じがたいのか…。彼らは、バーチャルは現実じゃないからなんでもできるのだと勘違いし、日ごろ制御している欲動の枷を外した、と説明できますけど。作中でキリトは、バーチャルは幻想、リアルは現実だと思っていたけれど、バーチャルもリアルも変わらない現実だ、バーチャルはリアルに、リアルはバーチャルに還元され、そこに意志を働かせている自分がいることに変わりはない、というようなことを説明します。この認識ができた人が協力的である、といわけです。この協調というものも、茅場が求めたものの一つでしょう。
第二期のGGO篇で、バーチャル技術が普及して世界にあふれてくるという旨をキリトが話しています。バーチャルとリアルの垣根がなくなって、親密性のある新しいコミュニケーション形態を予見していた、という流れなのかもしれません。
さて、科せられたシステムの外を目指す構造としては、”その点だけを見れば”、「進撃の巨人」と似ているように思います。攻略組がアインクラッドからの解放を目指し、調査兵団が壁からの自由を求めるのです。自由への辛い道を捨て、システムの中に価値を見つけ、いつか崩壊するシステムの中で幸せに生き長らえようとする人々がいることも共通しています。一部の人間が、バーチャル(幻想、偽装、思い込み、枠組み、囲い) から脱出に執念する。その先頭がSAO篇の攻略の鬼アスナです。進撃の巨人で言うところのエルヴィン団長でしょうか。もちろん細部は違います。そしてシステムの枠を越えようと、システムを否定し、疑い、最善の筋道を立てては意志の強さで踏破しようとするキリト。二人ともSAO以前の現実で現代的な問題を胸に抱えた者同士で、彼らが手を取って協力し、ゲームをクリアする姿は、茅場の思いに立てば良い結末だったのかもしれません。
通してみて一番よかったのはSAO篇なのですが、一話完結の短編を繋ぎ、一部完結の前には物語を連続させて、一本の映画のようにする点はよかったです。短編と短編の区切り、間のとり方は若干改善できるところがあったと思いますが、ささいなことなので。女子キャラクターに寄ってしまう点は、それ以降に描かれる人間関係の為として捨ておきました。作画の惜しい点で、もう少し視点を変えて画を広々とさせてほしかったです、ささいなことですが。
第二期のGGO篇は、SAOの置き忘れた問題へのけじめのような話しですが、台詞回しと区分がざらっとしていたかなという印象です。緊迫感があるのはよかったですが、やはり描写がいくらか誇張されすぎている場面があったと思います。
苦しみを待ちわびているような気がします。希望と絶望の混沌とした、もがき苦しむその必死さ。現代は富んでいます。富んでいるのに、空しい。僕ら若い世代の幸福そうな面に隠れたその厭世観。それが感度を求めてさまよっている。夢想家、空想家。世情の乾きを潤すような、人々を幻想に昇華させる、憧憬を抱かせるような幻惑性。そういうものがあるのではないでしょうか。時代に即した作品でしたが、魅力は物語であって、描かれている普遍性はそう深いものではないような気がします。当たり前のことを丁寧に書く、ということが称えられるでしょうか。んー、でも、どうだろう。わからないなあ。なんかいつも同じようなこと書いてる気がするし…。