みかみ(みみかき) さんの感想・評価
3.1
物語 : 3.5
作画 : 3.0
声優 : 3.0
音楽 : 3.0
キャラ : 3.0
状態:途中で断念した
あだち充とはなんだったのか
アニメの記憶はかすかに残る程度。原作の記憶のほうが強い。
H2を読んだのは、中学の時だったような気がする。
姉が、あだち充好きだったために、『タッチ』、『ラフ』、『みゆき』、『スローステップ』等も家にあり、当然のように『H2』も我が家にやってきたわけだ。
で、あだち充は、わたしも読んでたのだけれども、今思い返すとあだち充の偉大なるマンネリが、「繰り返していたもの」というのは何だったのかなぁ、と。
■1.軽薄さと情熱の間
まず、あからさまにわかることの一つとして、80年代的な「軽薄」なコミュニケーションと、スポ根の「情熱」を、並列させてしまった、ということが、まずはあだち充の際立ったところでしょう。
わたしは、反映論とか、自己承認の話をするのは、本来的にはあまり好きではない人間なのだけれども、まー、あだち充がなぜ、80年代になってヒット※1したか、というのは、時代反映論的な話をするのが、まー、やはりいちばんしっくりくるのではないか、という気がしてしまう。※2
なんていうか、やっぱり80年代というのは、何かちょっとしたことが起こっても、「あ、そっかー」「ふーん」「あれ、そうなの」みたいな感じで軽く受け流す感性が、優勢になった時代だよな、という感覚がある。
で、そういう状態になると「甲子園で勝負だ……っ!!!」みたいな暑苦しい感性は、そのままでは通用しない。『巨人の星』みたいな話は、「うっわ、暑苦しー話だなー、熱血ですね(笑)」みたいな反応を買うことになってしまう。
そのままでは生き残れない。
なら、どうすればいいのか。
答えは、あだち充だった。
「あ、そっかー」「ふーん」「だりぃ」とか普段しゃべってる、主人公の日常が、甲子園球場への戦いになだらかにつながっていくような物語を描いてみせること。
それが、「軽薄」な感性と、「情熱」的な青春の日々を両立させる唯一といってもいいような方法だったのだと思う。
そもそも、あだち充というのは、トレンディドラマ的なものの流行と、並行して出てきたようなものだという、適当な印象がある。
『みゆき』とか、見た人はわかるとは思うけれども、あれって、同時代的な流行、イカした会話とかをけっこう全力でやっている実に「気取った」話で、ロック・コンサートとか、オープンしたてのディズニーランドの話が出てきたりとか、いろいろとしてるのだよね。まあ、その他、基本、月9のテレビドラマ的な感性と接続されていた…といいますか、まあ、そんなようなところがある。
『タッチ』には、その気取った感じが、そこまでいやらし過ぎない程度に混ぜ込まれていて、『H2』の気取った感じというのは、やはりその延長線上にあると思う。
そもそも、だいたい、『タッチ』のおとなりの南さん家は、ちっちゃな喫茶店のオーナーとか、おまえどこのトレンディドラマよっつー。※3
まとめ:
「月9のドラマ」+「スポ根」+(独自の軽いノリ)=あだち充(てか、『タッチ』)
ということで。
■2.不可欠な「天才性」
「だりぃ」と口にする主人公が、甲子園に行く物語を描くためにはいくつか欠かせないものがあった。
その一つは、主人公の天才性である。
っつーか、さほど努力しないわけだ。暑苦しいスポ根じゃないから。
まったく努力しないわけじゃないけれども、少なくとも、主人公が甲子園に行くことを保証する最大のバックグラウンドは「努力」ではない。
『タッチ』の上杉達也は、天才の双子、上杉和也によって、その才能を保証されているし、
『H2』の国見比呂は、ブランクはあるものの、中学時代すでにかなり活躍しており「努力」をそれほど描写せずとも、すでにその能力の高さは、物語がはじまった時点で保証された存在になっている。
ただ、ミラクルな天才だと、それはそれでちょっと、やり過ぎなので、「プチ天才」ぐらいのなんか、中途半端なぐらいのところにいつも収まるのよね。
これは、90年代のセカイ系につながる系譜でもあると思うのだが、とにかく、「暑苦しい物語」をやめた瞬間に、「努力」ではないもの――運とか、才能とか――によってヒーローの優秀さを描くしかないということになってくる。
国見比呂や、上杉達也が、「地獄の特訓」とかしはじめたら、それはもうあだち充作品ではなくなってしまう。
■3.巨大な敵などいない
また、あだち充の偉大なるマンネリ手法の、もう一つの構造が、主人公の欲望が常に身近の他者によって喚起されるということだ(※4)
『タッチ』の上杉達也と、上杉和也が双子なわけで、『H2』でも国見比呂と、橘 英雄は中1の頃からの親友という設定になっている。
『タッチ』には一応、「新田」という、やや身近ではない敵が登場するけれども…
『H2』になると、最大のライバルである、橘英雄は、昔からの親友なんだよね。
しかも、完全なパラレル構造になっていて、
1:恋愛のパラレル
「国見―古賀」ペアの恋愛構造/「新田―雨宮」ペアの恋愛構造
2:チームのパラレル
千川高校野球部の勝利/明和第一高校の勝利
などを、双子構造として進展させていくことで、対他者意識みたいなものが成立するようになっている。
これは、雑誌とかメディアの煽る「理想の恋愛」形式みたいなものを無前提に導入するわけではなくて、「おとなりさんはこういう恋愛をしていますね」というところで、話をすすめていく。そこの中で、ある種の競争心や、見栄というか、ある種の恋愛や社会的ステータスをめぐる「基準」のようなものが形成され、物語の中に一つの宇宙が生まれてくるわけだ。
欲望が他人によって喚起される、という描写はもちろん昔からあって、たとえば、プロ野球の球場で、大勢の人が見つめる中でホームランを飛ばすとかも一つの他者の視線を通じて喚起される欲望の一つなわけですし、宮崎アニメにしばしば見られる手法として、ラストシーンでは、多くの人が見守る中でものごとが決着したりするわけですよね。劇場が大きくなることによって、物語に緊迫性が生まれるという状態。
「世間」という特定の具体名をもたない他者だとか、マスメディアによって構築された華々しい舞台の中での「観客」たちの欲望だとか、そういったものを想定し、ひたすらそういった「世間の欲望」を具現化するような存在になろうとして、突き進んでいこうするのは、たぶん、『巨人の星』時代の話になるのだと思います。
そして、身近なご近所さんの中で、成立する欲望構造をきっちりと描こうと思ったらどうするかというと、パラレル構造とか便利なんだよね。
ディスられまくっている携帯小説の名作(?)であるところの『恋空』なんかも、この構造を採用していて、DQNであっても、かなり確実に成立しやすい、ご近所欲望成立装置としては、たぶんこの手の物語構造は便利なんだろうと思います。たぶん。
■4.世間的な成功を「目指す」のはダサい。メディアは後からついてくる。
それと比べると、あだち充作品の欲望は、もっと身近な「双子の弟」、「昔からの親友」というごくごく身近な他者の欲望を借りて成立しはじめ、その中で頑張ったら、<結果的に>メディア的な注目を集めるという構造が、だいたいのパターンだったような記憶があります。
もう、あんま覚えてないけれども、昔『タッチ』だと、たっちゃんに、雑誌の取材がきて、雑誌の紹介する「いい男」ページに掲載されて、そのあと、たっちゃんが「ふーん、どうでもいいよ」的なコメントをするようなコマがありました…よね?たしか。
あれとかは、もう典型的にトレンディ・ドラマそのものっつーか。あああああぁぁぁああああ、これはwwwww とか今にしてみれば思うわけですが、欲望の成立順序が非常にはっきりしていて、すばらしい。
「世間的に立派」であるという欲望は、やっぱりなんだかんだで<結果敵には>重要なんだけれども、それは、そういうものを目指して、どーんと頑張っちゃうのはダサいわけだ。
あくまでそれは、ごく身近で、いわゆる、カギ括弧付きの「等身大の」(≒ご近所で成立する欲望)がまず先にありきで、雑誌とか、メディアとかは、その後にやってくるものなんだよね。
この構図を最初に普及させたのは、たぶんアメリカ映画とか何かで、先行する作品があるのかもしれませんが、この構図が、ぐっと受け入れられやすくなったのは、スポ根の失効後のことではないか、というように思われます。
■5.あだち充の「ノリ」は他人が真似できるのか
もうあと一点、どうして「スポ根」と「月9」を混ぜあわせている「軽い」ノリ。これは、すでに述べたように80年代の空気感とすごく合っていると思うのだけれども、じゃあ、これを他人が真似できるのか、というとなかなかそれも難しいように思う。
全体的にあだち充は何度読み返してもすごいな、と思うのは「軽いノリ」を作品全体にまぶす時のまぶし方の達者さ、ですよね。
キャラ絵がマンネリであるということも、あだち充の明確なマンネリさを伝えているのですが、やはり、あのノリを貫き通して、物語の日常空間をすべて回収していくのは「あだち充」という人格の統一性がなければ、おそらく不可能で、それはなかなか、容易には真似ができないだろうな、と思われるところです。
だってさ、『H2』にせよ『タッチ』にせよ、物語を三行要約すると、ありえないぐらい、ベタベタなんですよ。
タッチ:双子の兄弟である上杉達也・和也と幼馴染のヒロイン浅倉南の3人の物語。天才だった和也が交通事故で死に、兄の達也が甲子園を目指し、ライバル新田などと対決。甲子園への出場が決まったのち達也は、幼馴染に愛の告白をする
H2:中学野球のエースピッチャーだった国見比呂は、右ヒジの故障を宣告され、あえて野球部のない千川高校に入学する。だが、故障が実は誤診だったことがわかると、親友であり最大のライバルである橘英雄と決着をつけるため、甲子園を目指す。2人の“ヒーロー”の対決に、ヒロイン2人の想いが交錯する、青春スポーツ・ラブストーリー。
あー、そうですかー的な。
あらすじ読んでも、ぜんぜん面白そうな話だと思えねぇ…
細かいエピソード単位になると、少女漫画で使い古されているような気持ちのスレ違いだとかも入っているので、読めるだけれども、三行要約すると、まじで何が面白いのかわからねぇ…
まあ、三行要約すると、つまんなそうな話に見えるっていうのは、あだち充に限った話ではないけど、要するに「あらすじ」で勝負してる話じゃないんだよね。もっと、細かな要素の集積が、物語の面白さを支えているのが『H2』や『タッチ』で、ネタバレとかしても、マジどうでもいい。
■まとめ
あらゆる物語は、さまざまな手法や、同時代的な「気取り」を混ぜあわせたキマイラ的な要素をもっているわけですが、
あだち充の場合において、そこで持ち込まれていたパーツは、「スポ根」、「トレンディドラマ」、「軽薄さ」といったものではなかったか、と。
そして、それらの悪魔合体を可能にしたのは、
1.努力ではなく、「運と天才性」
2.巨大な目標や、巨大な敵ではなく、ご近所さんによって駆動される欲望
3.世間的な成功は「後からついてくる」
4.あだち充という統一した人格によって可能になる、独自の「軽いノリ」による日常感覚の描写
といった要素ではなかったか、と。
まとめるとそんな感じでしょうか。
もっと、ガチで、いろいろと比較文学みたいなことやりながら、話をしたら、そりゃもっと、細かくきっちりと話ができるでしょうが、わたしの適当インプレッションで、本文は成り立っておりますので、まー、こんな感じがあるよねー的な。
なお、あだち充が大好きなうちの姉は、基本的にはオタクというよりは、テレビドラマ大好きっ子でありまして、月9はわたしなどよりもゴリゴリとご覧になられておりましたし、うちの姉にいわせれば、「『踊る大捜査線』は、青島(織田裕二)の、軽いノリがいい!」ということでした。
なるほど、あだち充と、『踊る大捜査線』にそんな共通点が…っ!
姉がそういう人でなければ、とても思いつかなかった次第です。
かしこ
※1.あだち充は70年代にはデビューをしているが、まあヒットしはじめたのは、『陽だまり良好』『みゆき』あたりの80年代に入ってからの作品群ではないか、と。あだち充の、70年代の作品に遡ってチェックをするところまでやってないので、70年代の全体的な漫画状況について、何か言うほどの知見はございませんが。
※2.1970年代に「無気力・無関心・無責任」という言葉が当時の若者――つまり、現在60歳ぐらいの団塊世代末期――を指す言葉として出てきたわけだけれども、70年代というのは、まだ「無気力・無関心・無責任」というのが、ある種の違和感とともに語られたわけだ。
それが、80年代になると、その感性はもはや異物ではなく、標準に近いものになってくる。まあ、いわゆるバブル世代の人たちの話ですけれども、
※3.誰か、村上春樹/月9/あだち充 とかでパラレルな分析とかやってくれたら読みたい。
※4.一部の読者は、これを聞くと、ルネ・ジラールの「欲望の三角形」という、「ああ、なんだ、ポストモダンとか流行った頃に聞いたなー」みたいな話を思い出すかもしれません。
そして、ルネ・ジラールに従うのであれば「全ての欲望は他者の欲望」なんだから、別に、あだち充作品に限らず、欲望の話しなんだったら、同じ構造をとるんじゃねーの…?とお考えになるかもしれません。
それはたぶん、そのとおりであろうと思います。
ただ、一つ大きな違いは、繰り返しになりますが、そこで想起される「他者」は具体的に誰なのか、ということです。「世間」なのか、「友達のAくん」なのか。
「世間」という特定の具体名をもたない他者だとか、マスメディアによって構築された華々しい舞台の中での「観客」たちの欲望だとか、そういったものを想定するとそれは、たぶん、『巨人の星』時代の話になるのだと思います。それが、もっと身近な「双子の弟」、「昔からの親友」というごくごく身近な他者の欲望を借りて成立するかどうか。
あと、まあ、そもそもルネ・ジラールの話が気に入らんみたいな人は、大澤真幸の第三の審級でもなんでもいいけど…。まあ、わたしも、あんまりポストモダン系とか、もう最近すっかり読まないので、記憶うっすらなんで、ツッコまれるとアレだけど、ジラールの「欲望」で、要するに食欲とかは除外した、かなり部分が「社会的な欲望」のことなので、「社会的な欲望は、社会的に形成される」というトートロジカルなところもちょっとあるよなあ、などと思ったりしましたが、昔ポストモダン系にどっぷりだった人にここらへんはご指導いただきたく。