退会済のユーザー さんの感想・評価
4.9
物語 : 5.0
作画 : 5.0
声優 : 4.5
音楽 : 5.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
「言葉」を用いる不思議
人形とは人間が自身を似せて作りだしたモノです。
それには感情は存在せず、動きもしません。
ですが人間とは違い時空の原則をほぼ無視することが出来ます(経年劣化等を除く)
「年を老いたくない」
そんな我々人類の夢をいとも簡単に叶えています。
つまりある意味では人形は人間の理想形でもあると言えます。
ですがそこには我々の様に自身を自身として認識するゴーストと呼ばれるものは存在しません。
「じゃあそのゴーストってどこから来るの?」
我々はこの世に生を受け産まれ落ちると言葉を習得していき
自身の身体の使い方を覚えていきます。
そして気付けば自身の呼称を覚え、各々の環境に順応していきます。
よくよく考えてみたら不思議なことですよね。
ここで自我とは様々な環境に対する相互関係より生まれるものだとすれば
言語を含むコミュニケーションによる他との干渉が必須であると考えられますが
言語習得前の子供は習得後の大人の持つ「秩序」とはかけ離れた「混沌」の中に身を置いているとも言い換えることが出来ます。
作中では度々「子供」という存在が引き合いに出されます。
ラストシーンでは素子が少女の擬体に自身のゴーストをコピーし操ります。
これもまた同時に彼女の置かれている「混沌」を表すものではないのかと僕は感じます。
つまり、そもそも自我の存在に対し懐疑的姿勢を見せていた彼女は単なる電脳化による自身の自我の拡張を超越した
ネットとの融合を果した存在であり、これは秩序を持っていると言えるのでしょうか。
人は精神面、肉体面両面において同じ状態を維持することは出来ません。
何もしてなくても自身の身体は細胞分裂を繰り返し体感が長かれ短かれ時間は確実に体は老化のレールに乗って外れることはないのです。
言語というものがもたらす、精神の秩序、それを人によっては魂の働きの一つであると主張する方もいるかもしれません。
我々人間は言語を介して物事や環境を理解します。
それは人間の持つ能力の限界の一つでもありますし、特徴とも言えます。
ですが、もし自身の魂をデータ化しそれを人形に移し替えた際にそれは本当に「自分」であると言い切れるでしょうか。
その人形がどれだけ高性能で、老化すら再現出来るとしたとしても、
電脳という技術によってもたらされる「人間の限界の拡張」は曖昧な「自分」という存在を更に抽象化してしまう危険性を孕んではいないでしょうか。
個人的には全て評価を5にしてもよかったのですがセリフがどれもぼそぼそ話しているのが聞き取り辛かったので声優の欄を4.5にしました。
僕自身の好きな「攻殻機動隊」は正にこれだと感じる為、評価はどれも高いものになりました。