hiroshi5 さんの感想・評価
4.8
物語 : 5.0
作画 : 5.0
声優 : 4.5
音楽 : 5.0
キャラ : 4.5
状態:観終わった
現在、これからの中高生にもっとも見てもらいたい作品。
■何のための教育か??
最近教育関係の勉強をしている上で過去の記憶と未知の情報をコンバインすることで一つの疑問が浮かび上がってきた。
教育とはなんだろう?
日本に置ける国民の義務として、納税、勤労、そして教育の三つがある。
教育とは、それほど大事な義務であると、少なくとも日本では社会的認識がされている。
だが、その教育が具体的に何を指すのか、何のために教育をするのかは明確にされていない気がする。
広辞苑では
教育-教え育てること。人を教えて知識をつけること。人間に他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を現実する活動。
と記されている。
分かって頂けると思うが、非常に抽象的な表現だと思う。さらに、三文目の「他から意図的に望ましい姿に変化させる」というフレーズは甚だ疑問を感じる。
私は、教育とは人間の可能性を開花、または自分がなりたい理想像に一歩でも近づく為にある一種のツールとしてあるべきと考えていたからだ。
三文目のフレーズはまるでホッブスやプラトンに見られた国家有機体説(国家を一つの生命体のようにみなし、成員や諸機関を全体としての国家の器官として位置付ける理論)を前提に練られた定義にようにさえ感じる。
現在、教育を直に受けている側の人間としてしみじみと感じるのは、今まで私がしてきた勉強が殆ど役に立っていないということだ。
歴史的重要人物の名前、生きた時代、行った活動。漢検、英検を取得する為だけに勉強した日常的に殆ど使わない漢字や英単語。そして何よりも将来的(2,3年先ではなく、10年、20年先)な目標を一切立てずに行われる機械的な授業と宿題。
教育とは一体なんなのだろうか?
大人になる為に必要な一般常識を身に着けるため?安定した給料を手に入れるには高学歴が必要だから?人間の美、モラルを追求する為に必要?協調性を鍛えるため?
これらは全て現在の教育には当てはまらないと思う。一般常識といっても、サラリーマンになるのに関ヶ原の戦いが何年に行われたかを知る必要はないし、特別な役職にでもつかない限り台形の面積など求める必要はないだろう。また、自分の美的センスを極めたいなら中高などやめて、芸術に身を費やすべきだ。
私たちが本当に学習すべきは、関ヶ原の戦いがどういった経緯で生じて、その経緯が現代にどう役立つかを明確に提示することではないか?
台形にしても、問題が解ける解けないは問題ではなく、二辺の平均と高さをかければ面積が求められる、その論理的思考を養うことこそが重要に思える。
日本の民主主義は死んでいるとよく言われるが、教育がその典型的な例なのかもしれない。本来自由な意思を持つ人間を生み出す教育が、社会に忠実な人材を生み出すためだけの人間調教プログラムにさえ最近見えてくるのだから失笑だ。
日本の教育は社会主義的システムとして成り立っていると言っても過言ではないと思う。そして一番の問題は殆どの学生と親がそのことについて疑問を抱いていないことだ。
■近代的自我を歌ったカントリーロード
この作品を作った宮崎駿さんは反社会的運動が活発だった時代を過ごしてきた人だ。それは、今の教育を受けている人たちとは違った価値観や感受性を持ち合わせて育ったことを示唆していると思う。
この作品で宮崎駿さんがテーマソングとして使用した「カウントリーロード」の歌詞をじっくり読んでもらいたい。
カントリーロード
この道 ずっとゆけば
あの町に つづいてる
気がする カントリーロード
ひとりぼっち おそれずに
生きてみようと 夢見てた
さみしさ 押し込めて
強い自分を 守っていこう
歩き疲れ たたずむと
浮かんでくる 故郷の街
丘をまく 坂の道
そんな僕を 叱っている
どんな挫けそうな時だって
決して 涙は見せないで
心なしか 歩調がはやくなっていく
思い出 消すため
カントリーロード
この道 故郷へつづいても
僕は行かないさ 行けない
カントリーロード
カントリーロード
明日はいつもの僕さ
帰りたい、帰れない
さよなら カントリーロード
この映画で使用されたカントリーロードの歌詞はジョンデンバーが歌った曲とは対照的な内容だ。
ジョンデンバーが歌った[Take Me Home, Country Road]では、ウエストバージニアに帰る喜びを表現している。
しかし、鈴木麻美子さんが作詞したこの曲はほぼ創作に近い。気になる点は「僕は行かないさ、行けない」「帰りたい、帰れない」などのフレーズだ。
この歌詞には様々な批評が存在したが、一番しっくり来た説明を端的に表現すると、この歌詞は「個人主義」を表現している。
ここで出てくる「故郷の街」とは社会などの共同体を示している。そして、自分はその社会に対して反抗的、または自我の「自立」を求めて共同体からの分離を求めている。それは「一人ぼっちおそれずに生きてみようと夢みた」というフレーズから見て取れる。
近代的な個人には社会に依存しない「強い自分」を求める風潮があった。それは民主主義の本質的な性質を表現している。
■民主主義としての「耳をすませば」
「耳をすませば」は至極単純な物語だ。だが、その単純な物語を感動作品へと豹変させるのが宮崎マジックだろう。そこには男爵の存在や作画の表現技法など様々な細工が施されていて、それら全てが見事にマッチすることで「耳をすませば」というジブリ作品の中でも指折りの素晴らしいデキになっているのだろう。
そして、なぜ私が冒頭で教育の話をしたかというと、この作品が民主主義国家の子供が本来持ち合わせている筈の感受性や葛藤を描いているからだ。
雫の母、朝子や姉の汐はとても現実主義で社会の例の様な存在として表現されている中で、天沢聖司はバイオリン職人になる為に海外の学校に行きたいと行動し、月島雫は本を書くための勉学をする為に進学を選ぶ。
この作品は少年少女の恋物語ではなく、少年少女の壮絶過ぎる世間に対しての葛藤を描いている。その表現として自由な想像(男爵)、夢に向かって真っすぐな姿勢(受験勉強を放棄してまで本を書く雫)、そしてカウントリーロードの歌詞がある。
また、この作品を見ると懐かしさを覚えるという大衆の感想には、作画だけではなく近代的自我を追求する昭和の流れをテーマの一部に含めているからだろう。
もう一つ着目したいのは、物語の始まりで使われているカウントリーロードは英語の歌詞である点だ。
これは多分、単純に「懐かしさ」を表現するために(観客を作品の世界に引き込む)使われ、物語を進めていくうえで「近代的自我」、「社会からの自立」といった抽象的なテーマを表現する日本版のカウントリーロードを使用しているのだろう。
この作品は本当に現在、そしてこれからの中高生に見てもらいたい。民主主義が何たるものかを心の底から理解することができる素晴らしい作品だ。そして自分の将来の道を自分の意思で決定する支えにして貰いたい。