manabu3 さんの感想・評価
4.4
物語 : 5.0
作画 : 3.5
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 4.5
状態:観終わった
帰納的世界設定の演繹的帰結
原作未読。舞台は千年後の日本。この作品の世界設定は精巧に構築されていて娯楽として非常に楽しめた。ホラーが苦手な私としては、序盤の奇怪な世界観の演出は実に巧妙だった。人とバケネズミ、呪力と悪鬼など、様々な不識な要因が交錯する世界観は精細な故に複雑で理解に時間を要した。中盤から世界は徐々に明瞭になり物語は収斂していくが、二十五話では説明したりない程の壮大な世界設定は、良く言えば濃密であり、悪く言えば説明不足の継ぎ接ぎアニメといえる。因みに「SF」は、現代社会の延長線上に架空の世界を作り出し、そこに現代社会の問題点や不安を顕著化させることが出来る。この作品は風刺的SF作品の一つであり、新世界「より」現代への啓蒙作品といえる。この作品が伝えたかったことは何なのか。この作品は万人に推薦出来るであろう世界観とテーマ性を包含するアニメである。
■「不運なスクィーラ」と「ヒトのエゴ」
{netabare}私はスクィーラの既存の秩序に対する革命思想を理解できる。不運にも勝てなかった、それだけだ。いつの時代も裁くのは勝者だ。最終話で早季は、過去の話に花を咲かせながら彼を焼き殺し、無間地獄から彼を「救った」。初見ではそれを何だか感動的に思ってしまったが、今思えばこれは勝者の戯言だ。スクィーラが(元)人間であると知りつつも対等と見なさず殺す。人間側に犠牲が少なければスクィーラの更生は有り得たのか?早季は「私たちは変われるのか」と覚に問うたが、何をどう変わりたいのか理解に苦しむ。「理想的」な締めをするのであれば「私たちは変われるのか」と早季が言った後に、呪力でスクィーラを復活させるくらいやってのけるべきだった。現実的で帰納的な世界設定であったが故に、「想像力こそが、全てを変える」という理想的詭弁で帰結したのが残念だった。ところで想像力は、何をどう変えるのだろうか。元人間をバケネズミに変えたのも、人間の「想像力」だが。抽象的な提言は各々が都合の良い解釈をすることが出来るので便利だなと感じる。
それにしても元人間をバケネズミにする作者の狂気じみた想像力には恐れ入る。しかしそのことが動物実験などを行いその恩恵を受けている現代人への啓蒙になり得るかは些か疑問である。現代人も十分恐ろしい。(素晴らしい世界設定な故に、敢えて粗探しをするのなら)作中の人々のエゴを徹底的に描くことで現代人への啓蒙としたかったこの作品の存在とその結末とその作者にこそ、ヒトのエゴを感じてならない。{/netabare}
■自学のための、国際関係論に基づく『新世界より』の考察
□悲劇の原因は倫理委員会による「安全保障」と「情報統制」の平衡の見誤り
{netabare}物語の悲劇の原因の一つは内なる自分たちの力を恐れるあまり、外敵のバケネズミの存在を軽視してしまったことにある。所謂、国防の懈怠。人々(倫理委員会)は内と外の「安全保障」の平衡を慮るべきだった。また、管理社会に「情報統制」は付きものだが、倫理委員会が行ったバケネズミに関する情報統制は悲劇の元凶となってしまった。バケネズミが元人間であり知恵を有している事を誰もが周知していれば、また違った結末を迎えていたかもしれない。そういえば、私の知人にこのような事を言う人がいる、「軍拡を煽るから他国の軍事状況は報道すべきではない」、と。私はそうは思わないし、そのような「情報統制」は危険であると『新世界より』を見ても感じる。何はともあれ、「知らなければならない情報」と「機密情報」の平衡の難しさを思う。また、この物語の一連の結末は、一部の者(倫理委員会)が権力を握る「寡頭的政治」の限界を示しているともいえる。{/netabare}
□素晴らしき帰納的世界設定
{netabare}「攻撃抑制」と「愧死機構」という二段構えが非常に素晴らしい仕組みだと思ったので、現実世界の秩序も同じ仕組みで構成されているのかどうか比較してみた。例えば圧倒的なパワーである「呪力」を、現代社会における銃や刀剣などのメタファーとして置き換えてみる。日本においては個人が銃刀等を所持することは法律により基本的に認められていないし尚且つ理性で悪用を抑制するものだ。更にたとえ法に違反した個人が存在したとしても、その力を上回る「強制力」を持った警察が存在するため秩序は辛うじて崩壊しえない。つまり前者の法と理性を作中の「攻撃抑制」、後者の強制力を「愧死機構」と捉えることも出来る。
次に呪力を国際関係における核兵器、化学兵器、生物兵器などの「大量破壊兵器」のメタファーとして捉えてみる。例えば国家の観点から述べると、個人の集合体である国家の間では「民主的平和論」*1や「相互確証破壊」*2が成立し得るので、「呪力」、つまり「核攻撃」はまず実行され得ないと仮説されている。即ちもし「呪力」が「個人の集合」の力であるのなら、呪力が行使、悪用される可能性は低い。このことから「民主的平和論」が「攻撃抑止」で、「相互確証破壊」が「愧死機構」と考えることも出来そうだ。
*1.民主主義国家間では独裁政権国家とかより個人の自由が反映されるので戦争は起きにくい論。国民は戦争するよりアニメが見たい。
*2.一方が核兵器使ったら相手も報復で反撃するから結局皆死ぬので核兵器は使えない論
ここからは仮定の話だが、では「個々人」が呪力級の「核兵器」を持ったらどうなるのか。個人の「集合」が条件の民主的平和論は通用しない。尚且つ個人は国家以上に多様で千差万別であるが故に愚者も更に存在する、そのため上記の相互確証破壊も通用しそうにない。社会は確実に混沌とするだろう。故に個人が呪力(核兵器)を持った作中でもそうなった。そのため呪力を持った「個人」に対する「攻撃抑制」と「愧死機構」は、「秩序維持」のために非常に現実的で妥当な方策だと言える。秩序維持のためのそれらのカラクリを「管理社会の恐怖」と断定するのはいささか的外れだと思うが、死者も出てるので一理あるともいえる。
この作品の前半は、確かに上記したようにディストピア的社会を想起させるような偽りのユートピアを描いていたが、作中の歴史の流れを辿ると秩序を保つためには何もかもが必然的な流れだったのではないかと私は思う。それ故世界設定は素晴らしい。秩序を重んじれば個人の自由がなくなり、個人の自由を重んじれば秩序は不安定になるのが世の常だ。(前者は『新世界より』の世界、後者は「個人」に銃の所持の「自由」を認めたが故に銃乱射事件が頻発する米国)。つまり国家(統制機構)の役割とは「秩序」と「個人」の平衡であるわけだが、「個人」が「呪力」を獲得し、個人の力が台頭した原作においては「秩序」を維持するために「個人」の力を抑制する「愧死機構」のような仕掛けや「管理的社会体制」は不可避だった。
この作品は現実に基づいた面白い世界設定だった。ただ結末と作者の啓蒙は自分には馴染まなかった{/netabare}