玄 さんの感想・評価
4.4
物語 : 4.5
作画 : 4.0
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 4.5
状態:観終わった
腐った目、だからこそ見える世界
2 期のレビューを読んでくださった方々、ありがとうございました。引き続き、 1 期のレビューを書いていこうと思います。 1 期は比較的「わかっている」つもりなので、ご安心を。
◆この作品の独自性◆
この俺ガイルシリーズは他の作品たちと比べて、ある独特な特徴を持っていると思います。それは 2 期のレビューでも触れましたが、「とても現実的な視点」で描かれているということです。
大半の作品は、こうだったらいいなという単なる「理想」を描いています。しかし、この作品は「ボッチ」というある種の視聴者(読者)側の視点に立って、「現実から見た理想」というものを描いていると思います。
ただ、理想を追い求めるだけではない。ボッチという立場に立って現実の世界を見つめて、そこにある嘘と真実をあぶりだし、その上で本物の「理想」を探している。これが、俺ガイルという作品なんだと私は思います。
では、これを可能にしているものは何なのか。それは、主人公の「腐った目」だと思います。
本作の主人公、比企谷八幡はひねくれた性格の持ち主で、世界を斜め下から見ている。だからこそ、この世界が、人間社会が持つ嘘と真実を見極めることができる。
いっしょに青春を謳歌しているように見える友達との関係も、ただのぬるま湯でしかない
人が人を評価するのは、固定観念と印象だ
「人」という字は片方が寄りかかっているだけで、誰かを犠牲にすることを容認した概念である
私も社会を懐疑的に見ている人間なので、共感できる部分が多いです。もっとも、八幡の目は長年のボッチ生活で培われたものなので、私のそれとは少し違いますが、彼は人と人間社会の闇を捉えることができているんだなと思います。
腐った目、だからこそ見える世界がここにある。
◆この作品で伝えたかったこと◆
この作品で伝えたいと思っていることは、きっと色々とあるんだと思います。その中でも私が強く感じたのが、『ボッチでいることは、決して悪いことではない』ということです。
まず、自分の意思で一人でいる場合。これは、自分で選んでいるのだから問題ないでしょう。まわりに迷惑をかけたくないから、傷つきたくないから、人間関係を深める気がないから、必要以上に関わらない。私も似たような経験があるので、別にいいんじゃない、と思います。
次に、他人の悪意によって一人にされている場合。これはおそらく、一人にさせられてしまう側にも原因はあるかと思います。しかし、往々にして人間は弱い生き物ですから、誰かを差別して自己の優位性を確認したり、自分より優れているものを引きずり下ろそうとする。しかも、一人ではなく集団によって。これは人間社会が抱える闇であり、群れ社会に生きる人間の特徴ですから、本人のせいではないと思います。
ただ、だからこそ、どうすればいいのかという解決方法は難しい。この答えを見つけるのは、至難の業だと思います。(一応、余談のところに私なりの意見を書いたので、興味のある方はお読みください)
それともう一つ。この作品で描きたかったことは、『一人で頑張ることも決して悪くない、しかしそれは理想ではない』だと思います。
1 期では奉仕部の活動の中で、雪乃と八幡がそれぞれのやり方で依頼解決に奮闘する様子が描かれています。雪乃は強く、誰にも頼ることなく正しい方法を貫き通す。八幡は卑屈に最低に陰湿に、自分を犠牲にするやり方で。
これらの方法によって問題の解消はされているわけだから、悪いわけではない。しかし、平塚先生も言っているように、 {netabare} 『君のやり方では、本当に助けたい誰かに出会ったとき、助けることができないよ。』 {/netabare} ( 2 期ネタばれ)
じゃあ、一人の力ではなく、みんなでやればいいのかというと、そういうわけでもない。単に「みんなで」だったら、問題を解決することはできない。責任を押し付けあうことにしかならない。
理想は、「力を持った個人が集まって、協力しあって問題の解決にあたること」。そのためにも、お互いが自分と相手のことを理解して、認め合うことが大切なんだ、そう思います。
彼ら彼女らが、そして私たちが、この理想にたどり着く日は来るのでしょうかね。
◆一言、言っておきたいことがある◆
これまで、主人公のボッチ性とそこから生まれるこの作品の魅力を書いてきましたが、ここで一言言わせていただきたい。八幡、お前はもうボッチじゃない。
たしかに、奉仕部に入るまでの君は、ボッチだったのかもしれない。しかし、今の君の周りを見てみなさい。あんな美女たちに囲まれて。ほんと、こっちが爆発したくなるくらいうらやましい。
まず、雪乃とは部室で二人っきりで楽しいおしゃべり。休日デート。夏の夜には、星空の下で語り合う。(おいおい、こっちはそんな青春なかったぞ。)そして、氷のようだった彼女も、次第に心解かされていく。(なんだその信頼感)
結衣には、ヒッキーとあだ名で呼ばれる間柄。いつも近い距離でのスキンシップ。(ボディタッチとかうらましいぞ、しかも巨○)極めつけは、夏休みの花火&夏祭りデート。(いよいよそんな青春ありま・・・。)
2 期では、 {netabare} いろはというあざとかわいい後輩まで現れて。そしてまたもや、好意を寄せられて。(八幡、お前はなんなんだ) {/netabare}
ここだけは、この作品が描いている「理想」の部分だと思います。たしかに、恋愛までもが灰色だったら、だれも見ないでしょうから、いいんですけどね。そう、いいんですけどね。ね。
ああ、八幡がうらやましい。
◆まとめ◆
ギャグとラブコメと人間関係の難しさを、絶妙なバランスでカラフルに描いたこの作品。面白くって、大好きで、お気に入りの作品です。だからこそ、 2 期は残念に思うところがあるのですが、あれはあれで魅力を秘めた作品だと思います。
さてさて 3 期の決定を気長に待ちながら、また彼ら彼女らに会いにいこうかな。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
◇余談◇
『自分が変われば世界が変わる、という虚構の真実』
{netabare}
八幡は第 8 話で、『自分が変われば世界が変わるというが、そんなことはない』と言っています。
この発言について、私はある点においては正しくて、ある点においては間違っていると思います。
たしかに、自分が変わったからといって、人間の特質や人間社会の構造が変化するわけでも、改善されるわけでもない。一人の人間の力では、人間社会に覆う闇を取り払うことはできない。
しかし、自分が変われば、少なくとも「自分が見てる世界」は変えることができる。例えば「君嘘」で、かをりと公生が出会ったことによって、世界がカラフルに見えたように。そして、自分の心が変わって行動も変われば、まわりの人たちの心を動かすこともできる。例えば「 TARI TARI 」で、合唱部がみんなの心を動かして、白祭をやり遂げたように。このように、自分が変わることによって、自分のまわりの世界を変えることは十分にできると思います。
でもやはり、これには限界があって、世界のすべてを変えることはできない。仮に総理大臣になったとしても、変えることができる範囲は限られているでしょう。
ではもし、悪意によってボッチにされてしまったら。
まずは、自分を変えてみること。精一杯、自分と自分のまわりの状況を考えて、変えられるところを探すこと。そして、変える努力を行うこと。そうしたら、まわりの人たちも心動かされて、変わるかもしれない。しかし、これには限界があるから、無理な場合は自分のいる環境自体を変えること。
拙いですが、これが今の私が考えられる答えです。
八幡のようにありのままの自分を受け入れることも、雪乃のように精一杯努力することも、結衣のようにまわりの人を気遣うことも、そのどれもが大切なんだ。そう、心から思いました。
余談まで付き合っていただき、ありがとうございました。
{/netabare}