Tuna560 さんの感想・評価
4.5
物語 : 5.0
作画 : 4.5
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 4.0
状態:観終わった
『妄想代理人』作品紹介と総評+考察「共通認識化された"防衛機制”/妄想張本人」
今敏監督の最初で最後のTVアニメシリーズ。
『パーフェクトブルー』でも描かれた”現実と非現実の混同”をテーマにした作品です。
(粗筋)
そも
疲労困憊の世の中の 歩く人は皆愚痴ばかり
憩い求めて彷徨えば 金色の童がほくそ笑む
ばったばったと殴られて 謎が謎呼ぶ夢幻楼
ところで あんただーれ?
さて…
と、訳の分からないあらすじを書きましたが…これは本作の次回予告(夢告)を真似したものです。
本作を観ていない方は、公式サイトやあにこれ記載のあらすじと照らし合わせれば解読出来るかと思います。
本作の感想を一言でいえば、「とことん独特!」です。
登場人物の笑っている姿と背景とのギャップが激しいOP映像、”現実と非現実”の混同した世界観、通り魔事件の意外な真相、”全員が被害者”という主役不在のストーリー、訳の分からない次回予告…正直、こんなに”いい方向にぶっ飛んだ”作品はそうそう存在しないと思います。いかにも「今監督らしい作品だな」と、納得してしまいますね。
今監督の”作品らしさ”を代表するのはストーリーの内容や描かれたテーマといった内面的要素に目が行きがちですが、私としては”キャラデザと内容のギャップ”という外面的な要素に注目したいです。
今監督の作品のキャラデザは決して「アニメっぽい」ものではありません。むしろ、実写に近い「リアルタッチ」なキャラデザが特徴的です。その実写に近いキャラデザに対し、描かれているのは”現実と非現実”が入り交じった幻想的な内容だったりします。
実写では描きにくいテーマやストーリーを、あえて実写に近い作風で描く。にもかかわらず、”実写的表現とアニメ的表現”のギャプとバランスが非常に秀逸なんですよね。公式サイトの「カイセツ」にも書かれていますが、本当に今監督の作品は「アニメだからこそ」成り立つ表現が使われてるんだなと思います。
さてさて、ここからは作品テーマである「”現実と非現実”の混同」と、「物語のオチ」の二つの考察テーマをそれぞれ見ていきたいと思います。
考察①「共通認識化された"防衛機制”」
{netabare}・ストレス社会の中での”現実逃避”のメカニズム
現代社会は、いわゆる「ストレス社会」と呼ばれるほど精神的ストレスを感じるものです。例えば、仕事が上手くいかない、人間関係での悩み、子ども間の問題(いじめ問題)、家庭内の問題(親子の確執)、時代錯誤に悩んだりと様々な要因が並在しています。本作の登場人物は子ども大人関係なく、これらの要因に苦しんでいるということが共通した重要項目とされ、それぞれが”現実逃避”を引き起こします。
では、ここで”現実逃避のメカニズム”について図解を交えながら説明します。
現実→問題の認識→解決策の探索・選択・決定→解決
×↓ ×↓
ーーーー(追い込まれた状態)ーーーー
↓
”現実逃避”
人が”現実逃避”に陥る最大の原因は”現実での問題の発生とその解決”です。問題の発生→解決までの流れは上記の図の通りで、複数の項目をクリアにする必要があります。その項目の内一つでもクリアに出来なければ、”追い込まれた状態”に陥り、その状態から抜け出ることが出来なければ最終的に現実逃避を引き起こします。
精神分析学上ではこの事象は”防衛機制”を指し、自己が認識している否認したい欲求や不快な欲求から”身を守る手段”として用いられると理解されています。また、防衛自体は自我の安定を保つ為に行われるので、否定的な意味だけでなく健全な機能であるという側面もあります。そのため、その防衛手段(行動)は様々な種類があり、個人によって防衛方法は同じではありません。つまり、”現実逃避”の手段もまた単一ではなく、人によって様々であるということです。
・伝播する”共通認識”
誰しもが陥る可能性のある現実逃避ですが、あくまでもこれは心的被害の話です。「もしこれが”物理的に被害を与える存在”で、なおかつ共通認識化されればどうなってしまうのか?」という思考実験の結果が本作では描かれているのではないでしょうか。
”少年バット”と呼ばれる連続通り魔犯の正体は、逃げ出したくなるくらいに追いつめられた時に引き起こされた”現実逃避”が具現化したものです。最初は限られた地域、関係性のある人間の間だけで被害をもたらしていましたが、いつしか都市伝説と化し広く知れ渡るようになります。そして、”少年バット”が現実逃避のシンボルと化し、広い地域で被害が出るようになってしまった。「現実から逃げたかったら、少年バットを呼べ」といった具合です。
”現代社会に蔓延るストレス要因”という非常に現実味のある要素を起点に、”具現化した現実逃避”という非現実的な結末を描いています。この事が本作の最大のテーマとして描かれている事ではないかと思います。
ただ、この作品は思考実験によって導き出された”妄想の世界”だけを描いたものではないと思います。例えば、”現実逃避のシンボル”が”少年バット”ではなく”死”だったら? 一人では踏み切れない自殺も複数で行えばできる。いわゆる「みんなでやれば怖くない」という心情ですかね。共通認識によって一人では出来ない事も出来てしまう。8話『明るい家族計画』で描かれた”集団自殺”を観て、私はこのような思考実験をしてしまいました。
”負の感情”の共通認識ほど恐ろしいものはないかもしれませんね。{/netabare}
考察②「妄想張本人」(未視聴の方は閲覧注意)
{netabare} ・”数式”の意味
私が本作を最後まで観て解けなかった謎がありました。それは、最終話で馬庭が書いていた”数式”の意味です。
あの数式はもともと老師(夢告に登場する謎の老人)が似た様なものを書いていて、物語と関連している事が読み取れました。しかし、馬庭の数式だけがどうしても物語との関連を読み解けませんでした。その後、いろいろと考察を読ませて頂き、自分なりに考察してみました。
馬庭の数式の最後はこのように終わっています。ここまで書き、何かに気付いて書くのを止めてしまったのです。
「〜〜〜ア=」
この最後の2文字ですが、「アニ」と読む事も出来ますね。
ということは…「アニメ」と書こうとしたのではないか?数式を解いた結果、自分が”アニメの世界の住人だった”という事に気付いてしまった。『そう、これはアニメなんですよ…』というのが本当のオチだったのではないか。
・代理人と張本人
とすると、「この物語自体が馬庭の妄想だったのか?」という点ですが、個人的にはそれは違うと思います。
この物語が「アニメです」という提示をしたなら、妄想の主は製作サイドじゃないのか?つまり、原作・総監督を務めた今敏が妄想を実行した”張本人”で、馬庭は今監督の妄想を代弁した”代理人”なのではないか?
こんなところにも「”現実と非現実”の混同」が示されていたのではないか、というのが私が感じた本作のオチになります。{/netabare}