にゃんた さんの感想・評価
3.9
物語 : 4.5
作画 : 4.0
声優 : 3.5
音楽 : 4.0
キャラ : 3.5
状態:観終わった
常守の判断
※長文ゆえに主題がぼやけている、完全な自己満足レビューです。
考察内容も一面的なものに過ぎず、考察レビューとしての品質もお察しの通り。
ただ、ウンウンと考察したくなるような作品であったことは事実で、
考察好きな方は特に面白く視聴できる作品ではないでしょうか。
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●シビュラシステムの理論的背景
犯罪傾向を数値化し、それのみを根拠に身柄を拘束、場合により処断までできてしまうという、
「目的刑論」を究極的に実現した未来社会。
(目的刑論=刑罰は、犯罪を防止・抑止するためのものであり、そのような効果があるから正当化される、とする考え方)
この未来社会では、心の中が数値化できるので、
そこに殺意さえあれば、それは社会にとって有害で危険。
社会を防衛する目的のためには、
その殺意を実行に移さなくても刑罰の対象にできる。
この考え方の背後には、程度の差はあるが、
決定論(犯罪=生まれ持った遺伝子や性格と環境から来る必然現象と考える)がある。
犯罪者にはもともと犯罪を犯す性質があるため、
「目には目を。歯には歯を」という脅し(応報刑)では犯罪を防止できない。
それゆえに、社会防衛の目的のために刑罰があるのだ(目的刑)
ということになる。
この決定論に基づいて、反社会的な人格「psychopath(精神病質)」と認定された者には
刑罰を科すべきことに、理論上はなる。
(作品でいうところの、「潜在犯」)
以上をまとめると、
「意思決定論→目的刑論・犯罪者の性質を理由に処罰→シビュラシステム」
という構造となる。
●シビュラシステムの問題点
あるエピソード内でのセリフによると、この作品の世界では
「犯罪係数と遺伝的資質との因果関係が科学的に立証されたわけではない」
ということらしい。
そうすると、ここでは、
シビュラシステムの理論的前提である決定論が完全に正しいと証明されていない状況下で、
目的刑論を「究極的に」追求したシステムが構築されたことになる。
そもそも、そんな理論的欠落を抱えたまま、どうやってシステムを構築できたのか
という疑問はさておき、
これではシステムに綻びが生じてしまうのではないか。
つまり、
作品内でいうところの「犯罪係数」が100%信頼できないのに、
犯罪係数のみを理由として刑罰を科してしまう状態ということになる。
エピソードの中に、その綻びを示唆するものがいくつもある。
(そもそも、第1話のラストに、既にそれが示されていたように思う)
しかし、だからといって、
シビュラ=悪 それへの抵抗=善
という単純なメッセージだと決め付けるのは早計だと思う。
実際に、応報刑と目的刑についての論争には
「一方のみが正しく、他方が全くの誤りである」
というような完全な決着がついている訳ではないのだから。
●考察
犯罪を犯すのは、その者の性質によるもの(意思決定論→犯罪「者」を憎むべき)なのか、
それとも、その者の自由な意思決定の結果(意思自由論→「犯罪」を憎むべき)なのか。
18話の{netabare}征陸のセリフ「お前が許せないのは悪か、それとも槙島自身なのか」{/netabare}
は、これを象徴した問いかけといえる。
両理論のぶつかり合いを大きなテーマとして
各エピソードやセリフが構成されているように感じる。
果たして本作品ではどのような結論を出すのか。
決定論が正しいのか、自由論が正しいのか、
折衷的な理論が正しいのか。
理論の実現手段の点はどうだろうか。
それぞれの立場に登場人物達を分類して配置してみると
各人の行動選択の理由が見えてくる。
結局、
{netabare}
意思決定論:シビュラシステム
意思自由論:槙島
折衷的立場:常守(狡噛)
と整理できる。
※狡噛については、
18話で「許せないのは悪か槙島自身か」という問いかけに対し、「どっちも違う」と返答をしていること、及び
22話で常守の生き方が正しいと認め、自分の選択を過ちだと発言していることから、
常守が正しいと理解しつつも、己の思想とは無関係に槙島に対する個人的感情から
槙島を追ってシビュラの外側へ出たことが分かる。
槙島により引っ張り出された形になるが、
行き過ぎた意思自由論を実現しようとする槙島を止めることができたのは、
シビュラの外側へ出た狡噛だけだったのだから、その行動の意義は大きい。
以上のように、狡噛は、現実の立ち位置は槙島と同じ場所にいるものの、
思想では常守に同調している。
ただ、ラストシーンの描写を見る限り、
彼はシビュラシステムからの即時脱却を志向しているように解釈できる。
その点で、常守とは手段選択の点で意見が異なる。
常守については、22話で狡噛に対して
「法が人をまもるんじゃない、人が法をまもるんです」
「悪を憎んで正しい生き方を探し求めてきた人の想いの積み重ねが法」
「尊くあるべきはずの法を貶めるのは、悪法を作り、運用すること」
と発言している。
ここで、シビュラシステム下で現在運用されている「法」と
槙島の思想における「法」、
常守の言う「法」の意味は、3つともそれぞれ全く異なる。
・シビュラシステム下の法は、「意思決定論」の下で「与えられた法」
・槙島の思想における法は、「意思自由論」の下で「与えられた法(又は絶対不偏的な規律)」
・常守の言う法は、「意思自由論」の下で「皆で創り出す法」
というわけで、常守の思想は、
シビュラシステムの否定ではあるが、槙島のものとも異なる折衷的なもの。
(どちらかといえば、槙島の主張を進化させたもので、
現在の日本の刑罰に関する主要な考え方の基礎となった理論に近い。
また、18話で「正義の執行も秩序の維持もどちらも大切」
と発言していることからも、彼女の折衷的思想がうかがえる)
ただ、その理論を実現するには、今すぐシビュラシステムを破壊することは得策ではない
と彼女は判断したのだろう。
なぜなら、シビュラシステム下で自由な意思決定をしていない現在の人々は、
法を自ら創り出せる素養を失ってしまっており、
それゆえに、突然自由な意思決定ができる環境に放り出されたとしても
自ら法を創れないからだ。
(彼女のこの思考は、シビュラの外側にいる槙島と、それを追ってシビュラの外側へ出た狡噛を、シビュラの内側から見ていたからこそ生成できたのだと思う)
このような彼女の主張に対して、狡噛は
「いつか、誰もがそう思える時代がくれば、シビュラシステムは消えちまうだろう、だが・・・」
と返答する。
この、「だが・・・」の後に来るセリフは
おそらく
「シビュラシステムがある限り、永遠にその時代は訪れない」
というものだったのではないだろうか。
結果として生き残ったのは狡噛と常守。
共にシビュラシステムの否定という思想では一致するものの、
システムからの即時脱却を望むのが狡噛。
いずれシステムが不要になる時代が来る、と考えるのが常守。
答えは出ていない。
個人的には、常守の主張と判断を支持したい。
システムからの即時脱却という狡噛の主張ももっともだが、
一連の騒動によって、既に人々がシステムへの疑問や不安を抱いているはずで、
それは、常守が期待する人々の意識の変化が生じるきっかけとして
十分だったと思えるからだ。{/netabare}