「新世紀エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に(アニメ映画)」

総合得点
83.9
感想・評価
1448
棚に入れた
8433
ランキング
308
★★★★☆ 4.0 (1448)
物語
3.9
作画
4.0
声優
4.1
音楽
4.1
キャラ
4.1

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ネタバレ

みかみ(みみかき) さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0
物語 : 4.0 作画 : 4.5 声優 : 4.0 音楽 : 3.5 キャラ : 4.0 状態:観終わった

「聖典解釈」としての視聴行動

(エヴァの、承認欲求をめぐる物語機能としての議論は、エヴァのテレビアニメ本体のほうのレビューに載せました。)

 当時、映像的にはたいへん面白かった。
 これだけ、オタク界隈でメジャーになった作品でこれだけ冒険的な映像をがんがん流して、きちんとある程度インパクトを与えられた、というのはやはり巨大な祭りだったな、と思うわけです。

■「聖典解釈」としての視聴行動

 エヴァに関して、テレビ放映後の2,3年後に「エヴァ本」と呼ばれるものが大量に出版・流通したことも、印象的な出来事でした
 たしかにメタファーと謎かけだらけの作品ではあったわけですが、エヴァの解釈をめぐる本がこれだけ大量に流通しうるという現象自体が、やはりきわめて異様なことだと思います。
 90年代中盤というのは、もののけ姫やナウシカにしてもそうだったのですが、「作品を読み解く」「解釈する」という形での、ニーズをたくさんあったわけですね。今でもありますけれども。そういうニーズと供に本作を見る、という視聴スタイルがそれほど広く成立していたこと自体、今になってみれば驚きだったようにおもいます。「作品解釈」などということを、こんなバカ正直にやるのかよ、と。2011年現在においては、twitterで気軽に話しかけられる「作り手」の権威などというものはとうに失墜し、作品自体が解釈を要請する「聖典」的な態度での作品視聴という行為は、当時と比べるとだいぶみられなくなったと思いますが、あれはインターネット時代以前の現象だったのだよなあ、としみじみ感じます。

■そうは言っても、解釈の欲望を駆動するようには出来ていた

で、映像の快楽とは別に、物語レベルで見るとこの結末は非常に沢山のことを示していて、
1.セカイ系の欲望、のある種の典型をストレートに描いたこと:セカイはシンジくんに託される
2.終末願望の具現化:アンチATフィールド
3.現実との距離を保ち方をめぐるメッセージ
など…です。
 これらは、どこをどう解釈しても、それなりに面白い一通りの解釈が成立するように出来上がっていて、エヴァ、にはさまざまな願望や欲望がごちゃごちゃと入っていて、それらがとにかく緊張感の高い映像が続く中で入り組んでいくので、非常にさまざまな解釈や欲望をうむわけです。
 エヴァ本、だけでなく、当時から非常に多種多様な解釈がうまれ、視聴者はこの作品を「解釈する」ということ自体をゲームとして楽しんでいたところすらありました。

■解釈のブレを意図的に捏造する装置としてのエヴァ

 文芸評論の古典的な議論に「作品は語りつくせない」というはなしがあります。小学校の国語の教科書ですら扱う「作品にはひとそれぞれの感想がありますね!」というはなしがあるわけですが、エヴァの解釈があまりに多様である、というのはそういうことだけではないと思います。「それぞれの解釈がある」のはあたりまえでも、「解釈のブレ」が生まれやすい作品と生まれにくい作品はあるわけで、このエヴァという作品は、ほぼ戦略的に解釈のブレを生みやすいような仕掛けをほどこしているのだろう、ということを思うのですね。
 その解釈のブレの生みやすさというのは、もう少し細かく言うと、
A.解釈の多様性が豊穣であるほど、作品は深みをもつ!という議論(バフチンのポリフォニー)もあるわけですが、それよりも
B.「同時代的な欲望になりうるものを、どんどんとそれっぽく偽装して、大量に詰め込んで見せる」(ボードリヤール/椹木野衣、「シミュレーショニズム」)
 というふたつの議論でいえば、Bのようなものではないか、と思っています。



 すなわち、作者の側に、特定の話をきっちりとカタをつけて、落とそうというような欲望や解釈可能なきっちりとした体系だったものを提示しようということは実は、そこまではっきりとしておらず、
 「入れ物」として、高度な技法が使われたアニメーションが作られ、その中には
 i.とにかく多様な欲望を喚起させるような爆弾(ネタ)をがんがんと仕込んでいく。
 ii.どんどん爆弾を仕込むだけで爆弾が、きっちりと意図通りに爆発するかどうかは、わからない。
 iii.ただし、爆弾のしかけてある量と、火薬の量(ネタの強度)だけは巨大であるので、インパクトだけは巨大に与える

 というそういう技をかけているのか、と思います。そこに、爆弾の爆発の仕方が、本来どうあるべきだったのか、ということを議論しようとしても、それは永久に、わからない、というそういう構成になっているのかなあ、と。



 いずれにせよ、メッセージの強度、風景の同時代性etc…など非常につよいインパクトを10代後半の当時のわたしに与えた作品であったことは間違いありません。
 「これをみなさん、ぜひ観ましょう」とはほとんど思わないのですが、メディア史的にはきわめて重要な作品になったのは確かだと思います。今思えば、これは高度なサンプリング・ムービーだったと思う。
 当時の同時代的な終末願望とかも、いまみたら多分わからないだろうし。

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追記1:というか、自分が書いた上記のことは結局、東浩紀が2001年ごろに言っていた「データベース消費」というエヴァ解釈として、同じ話のようにも聞こえると思います。
 作り手の狙いとしては、確かにほぼ同じはなしで、わたしが東さんと違う観察をしているとすれば、「作り手の側としてはデータベース的(≒ポストモダン的)な制作だった、とは思うけれども、消費の側としてはほとんど既存の物語的解釈(モダン)をするような仕方が働いていた」というあたりだと思います。ネタをネタとして消費したというよりも、ネタをベタとして消費した人のほうが多かったろう、ということです。
 「データベース消費がうけた」のではなく、「データベース制作がうけた」という事態だろう、と。これは、かつてのYMOとかでも同じなんだけれども、歴史的にはけっこう繰り返されている事態ではあります。

追記2:承認欲求をめぐる議論を、別途わけて書いたら、ようするにそっち(承認欲求)は宮台さん的な問題圏だなぁ、と書き分けてみて、なんだか、われながら、宮台と東かぁー。とか思ってしまった。
 まあ、宮台と東という二人の固有名に焦点をあてずとも、要するに前者は小林秀雄的な実存論/文学論/物語論/社会論というある意味で古典的な文芸批評と社会時評をつなぐ公共的な論壇の人であって、後者はメディア論ということになる。その中で二人が目立っていたのは、まあ、やはり間違いないのだろうなぁ、としみじみと思った。
 で、こういうごく典型的なエヴァ評ぐらいしか書く気力のわかないわたしは、現時点ではアニメをそれなりに見ているとはいえ、やっぱあんまアニメに対する「愛」みたいのはないなぁ、などとも思いました。

投稿 : 2011/08/31
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サンキュー:

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