みかみ(みみかき) さんの感想・評価
3.0
物語 : 3.5
作画 : 2.5
声優 : 2.5
音楽 : 3.0
キャラ : 3.5
状態:途中で断念した
オタクとして10年以上を生きて妖怪へと化けてしまった人向けの傑作
漫画は全巻保持して、最新刊が出るたびに速攻で買う。
アニメはニ話目まで視聴。
アニメについては、クライマックスをうまく描写したりしようとしてるのは、よくわかるけれど、全体に間が長くなっていて、いささか見ていて辛かった。
短い感想としては、
「原作は、一部の読者にとっては、神作品。
アニメは、苦労の跡は見えるが、狙いすぎて失敗気味か。」
といったところ。
評点はアニメに関するものですが
下記、ほとんど、アニメ関係なくて、原作の話です。
正直スマンカッタ。
■どういう人に向いた話か
まず、最初に、同僚の衣装を見下すくだりがある。そして、衣装を内心、小馬鹿にしていた人間から、嘲笑される。
このくだりでまず、面白いと思えない人は、この作品を見る/読む必要がない。
*
『とらドラ!』や『攻殻』、あるいはそれに類する傑作を見ていたたら、家族から
「あんたも、そんなオタクっぽいもん見てないで、もっとワンピースとかさー、ああいう、いいものを見なさいよ(笑)」
とか声をかけられるみたいなこと、ないだろうか。
わたしの姉は実際にそういうことを言う人だった。
また、父のコメントはもっとひどくて、おおむね
「そんなもの見てないで、さんまの番組をみせろーい」
あるいは、
「つまらーん。なんでこんなつまらんもん、見とるんじゃい」
で、いっつも終わりだった。
『へうげもの』の描写がほんとうだとすれば、およそ500年前から、この手のやりとりは変わらずに存在している、ということだ。このやりとりを人生の半分以上の期間をかけて続けていると、心に芽生えるとのは、はっきりとした諦めだ。
我が家(実家)における、作品のヒエラルキーは、
さんまの番組>>ワンピース>>>>>>>
>>>>(超えられない壁)>>>>攻殻
となっている。
わたしとしては、「もう、…それでいいです…」という気分で、わたしは、もう、特に反論もない。
「趣味」に関するこういう経験のやるせなさ。
そういう経験をされたことはないだろうか。
そして、こういう経験をアニメのみならず、ありとあらゆる分野で何度も経験したような人間。
そういう人は、この作品を、確実に面白い、と思うに違いない。
ただし、アニメよりも、原作漫画推奨。
■
そういうわけで、この原作を、面白いと思えるかどうか、というのはわたしが、その人のオタクとしての性質を判断する一つの基準になっている。これが面白い、と思える人には、わたしは高い確率でこころを許すことができる。そういう作品だ。
「趣味」をめぐる、くだらないながらも、きわめて細やかな問題に、長年こころを砕いてきた人であれば、この作品のおもしろさはわかるはずだ、とわたしは思っている。もちろん、わからない人は、わからない人でいい。それは、そういう世界に縁がない、ということなのだろう。
「好きな作品はワンピースです!」ということを、何のてらいもなく、シレッと言えてしまう人は、わたしにとって輝かしい人だが、この作品には向いていない。
そして、「ワンピース好きな奴は、なんであれ、バカ」というように思う人も、かわいい人だと思うが、たぶん、この作品には向いていない。
別にワンピースが好きであってもいいし、嫌いであってもいい。だけれども、「好きな作品はワンピースです。」という言葉のあとに「意外に思われるかもしれませんが」という言葉を添えて※、人とコミュニケーションをしたことのある人。あるいは、「やはり」という枕詞をつけた後に「ワンピースはダメです」というコミュニケーションをする人。そういう人ならば、この作品は向いている。
そこが感覚的にピンとこないひとはそのままで、健康ですので、大丈夫です。
ピンと来た妖怪諸氏は、速攻で、原作全巻を買い揃えることをオススメします。
あと、ごく短く言えば、B級好きとかの人も間違いなくイケると思います。
※もちろん、誰それ構わず、一般人にむけて「意外に思われるかもしれませんが、ワンピース好きなんです」と言うのはいけない。それではただのTPOをわきまえないオタクであって、「なんだこいつ」反応をもれなくゲットするので、一般人に対しては「ワンピース?わたしも好きだよ。ニコッ ^^」で、むろんOKでしょう。
■原作について/その2:秋元康としての千利休~ AKB48と裏千家
で、以上は、ただの、本作のポジションを説明しただけのはなしで、
わたしが特に感動したところはあれですよ、
「利休」の描写。
こ・れ・は、ま・じ・で・ネ申・を・み・た !
みたいな気分。
すなわち、
「利休の体制構築って、要するに秋元康的なAKB48のプロデュースとかと同類のものだったんだろ」
って言っているのと等しいんですよ、これは。
秋元康、っていうのは要するに優れたコンテンツ・プロデューサーってこと。秋元康的なものに対する、賛美だと言ってもいいし、千利休的な価値の礼賛に対する挑発だと言ってもいい。
AKB48と、裏千家は一緒だって、言ってるようなもんだからね。これは、wktkせざるをえない…。
いやー、まさか、そう来ましたか、と。
だって、「利休」ですよっていう。
さらに、利休描写がネ申だって点はもう一点あって
「わたしのほうが、まちがっていたかもしれない」と述べる利休のさま。。つまり、「○○がいい!」「いや、××がいい!」という価値基準の体系自体、かたちがあるようで、ない。かたちがないわけでもない。だからこそ、これは悩ましい。
伝統的な概念を使えば「美」と「崇高」の区分けの曖昧さゆえの難しさとか、そういう話なんだけど、こういうのを、ここまできちんとした文脈つけて、シレッと描写してしまえるっていうのは、もうね。ほんとうに、すごいな、と。
うちの父親には、一生わかるまい。
■本作をきっかけにおすすめしたいものなど
『へうげもの』は、戦国話としては、個人的にはさほど興味はない、というか、
「オタク」なるものを、戦国時代の現象として再構成して、描写している、というところが最高に素晴らしいのだけれども、
とりあえず、この作品を面白い、という人向けにわたしが、おすすめしたいのは、ひとつは、美の基準自体の生成プロセスの話。
たとえば、岩波新書の高階 秀爾『芸術のパトロンたち』 (1997年)とかは、この作品を見たあとだと、けっこう面白く読めるんじゃないか、と思う。
あと、秋元康の仕事が面白く見えるのは間違いないと思うし、
村上隆の仕事も、利休的な確信犯なので、面白くみられるというか、利休的なプロセスを露骨に開示してみせる、というのが村上さんの仕事なので、彼の仕事が不快感をもって迎えられている、ということ自体を、距離をとってみられるようになるのではないでしょうか。
それと、あと、日本近代史が誇る天才的なオタクである柳宗悦の仕事にも触れるきっかけとしても。
柳宗悦というのは、20世紀前半の日本において、まさしく利休的な仕事をしようとして、未遂におわった人なので、本作の中身とおそろしくダブる。
柳宗悦は、生前から利休と並び称されていて、本人はそれを嫌がっていた。その理由は本人的には、「あいつの目指しているところと、俺の目指しているところは違う」ということらしいが、いずれにせよ仕事の性質としては酷似している。現在では、柳宗悦といえば、オワコン感うんぬん、以前に「誰それ?」って感じだと思うけれど、柳宗悦のエキセントリックさは、村上隆どころではない。大妖怪である。