みかみ(みみかき) さんの感想・評価
4.0
物語 : 4.5
作画 : 3.5
声優 : 4.0
音楽 : 4.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
子供の頃のわたしに、はじめての世界をいろいろとみせてくれた
まちがいなく小学生のときのわたしに、もっとも鮮烈な印象を残したテレビアニメだったろう。
再放送があるたびに見直し、ラスト数話分は、VHSのビデオに撮って繰り返し何度も見ていた。
そうは言っても、昔のこと。おおざっぱな記憶しか残っていないが、まあ、小学生当時のわたしが何にこころを引かれたか、ということを思い出せる限りで列挙してみる。
■1.OP曲、映像。
「今、君の目にいっぱいの未来」
というさわやかな歌声とともに、雲がきえて海があらわれ、そこを白い鳥が飛んでゆく、あの映像はいまでも鮮烈に思い出すことができる。
あおい海が、あれだけ印象的に、魅力的に描かれた絵をみたのは、おそらく人生ではじめてだったろうとおもう。
■2.最初数話で、『ラピュタ』が味わえる
最初の10話ぶんぐらいですでに、けっこうラピュタ的な雰囲気を、きれいにパクり終わって、そこらへんの手際がまず見事だし、もうすでにラピュタを一回見せられた気分。もうここで完全に、小学生のわたしのこころは捉えられてしまった気がする。そのあと、20話ぶんぐらいは楽しい楽しいとおもってみていた。
あとから知った話、NHK側から「ラピュタみたいなものをやってくれ」と頼まれてナディアははじまったらしい。なるほど、さもありなん。
しかし、ラピュタをマネているとはいえ、数多くのラピュタの模倣者のなかでも、ナディアはぬきんでている。
■3.初代ノーチラス号の沈没/無意味な死
人が死ぬグロテクスな場面をけっこうきっちりと描いていたのものを見たのは、自分史のなかではこれ以前には『AKIRA』だけだったと思う。「うぉー!」とかって言って、カタルシス満点に神風特攻隊的な死に方をする戦争ものは、何度も見ていたけれども、神風特攻隊的な死に方とは全く別の死に方である。
組織の判断によって無残に死ぬ、という無意味で理不尽な死の表現はこれがはじめてだったのではなかろうか。自分のなかでは。
■4.ラスト数話/あっけない死とグロテスクな身体
ラスト数話のクライマックスは、コテコテのクライマックスの手法がいくつも重層的に使われているという点でも、むろん、盛り上がった。
また、そういった手堅い演出とは別に、いま振り返っても第一に印象に残るのは、ジャンの死に方の異様なほどのあっけなさ。主役の一人が、これだけあっけなく、抵抗もなく、カタルシスもなく、声をあげる間もないうちに、死んでしまう。
これだけあっけない死の表現は、熱血に叫びながらの死などよりも、よほど怖かった。死に感動したり号泣する機会すら与えられず、いきなり訪れる死がある、ということを知ったのははじめてだったと思う。
あと、エレクトラさんの着ていたものがはだけるシーンが妙にエロかったのも覚えている。子供にとってみれば、日常では絶対に秘匿されているべきエロい身体というのが「あらわれてしまう」ということそれ自体が衝撃的なことでもあった。性的な興奮をももたらしているこの修羅場はなんなんだ…?という興奮もあった。人生におけるはじめてのエロい経験というのは、「わたしは、いま、異常な場にたちあっている」とともに立ち現れる。こどもにとって、エロさは性的な興奮という以上に、その場のグロテスクさを醸しだすものにもなっていた。
そして、皇帝の身体が崩れながら歩くシーンも忘れられない。もはや人体のていをなしていないものが、ぼろぼろと崩れ落ちながら動いていく、ということの怖さと感動が同居した気分は、いまだに消えない。アニメ表現の独自性、みたいなことに興味のある論者であれば、ジャンの死よりも特にこのシーンは括目すべきものだったろう。黄金のサイボーグとなった身体などという、実写にすれば、実tにちゃちになってしまいそうなものが、アニメという、「フィクションの描線」(伊藤剛がいうところの、マンガのおばけ)を可能にする装置によってはじめて成立しているシーンでもある。サイボーグという現実には(まだ)存在しないウソの人間が、描線のウソにおいてはじめてリアリティをもって立ち現れるシーンとしては、これは白眉だろう。
ネオ皇帝の部屋には、19世紀ロマン派の画家ゴヤの『わが子を食うサトゥルヌス』の絵が飾られているシーンがあるが、あそこであの絵があったのは実に象徴的だ、といまにして思う。
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思えば、エヴァ以前にこのときからガイナックスの洗礼をうけていたのか…とエヴァにハマったあとに、しみじみと思った。
そして、いま、エヴァの監督だったころの庵野監督の年齢(30歳)と同じ年齢に、もうなってしまった。いやはや。