みかみ(みみかき) さんの感想・評価
3.4
物語 : 3.0
作画 : 3.5
声優 : 3.5
音楽 : 3.5
キャラ : 3.5
状態:観終わった
選択するクライマックス/与えられたクライマックス
いい人がたくさん登場して、泣き系エピソードが大量投下されます。ある意味で、直球ドストレート演歌的な世界観が、美少女アニメ空間に転換されているような感じがします。
わたしの周囲の友人に勧めませんが、好きな人は好きなのだと思います。
わたしにはこうしたタイプのものの巧拙が正直よくわかりません。しかし、麻枝さんの何が卓越しているのかを感覚的に理解できないため、これはこれで何か不思議な気分に捕らわれます。
(下記、本作の設定などをきっかけに、つらつらと思ったことなどを書いてみましたが、結局本作についてのネガティヴなコメントとなりました。)
■キャラ表現としての成仏
ただ一方で、キャラ表現としての「成仏」というのは、なんか面白いかもしれないなぁ、などということも同時に思いました。なんていうか、『夏目友人帖』もそうですけれども、成仏、することでキャラ描写として完成する。死んでしまって、いなくなってしまうことで、そこでキャラ描写の揺らぎが出てこない、というのもあるし、描写のクライマックスをやはりそこで作りやすい。
キャラ論、として成仏みたいな表現はなんなんだろう、というのは思いました。
■映画『ワンダフルライフ』:選択される<思い出>
なお、「死後」と「成仏」の世界の間にある世界ということでいうと、っていうか、まあ設定まんまだと思うけれども、是枝裕和監督の映画『ワンダフルライフ』を思い出します。
もう見たのがだいぶ昔でかなり忘れてしまっているけれども、こちらの話は、
「あなたは昨日お亡くなりになりました。ここに居る7日間の間に、人生の中で最も大切な想い出をひとつ選んで下さい。」
という話なんですね。
Angel Beats!は、人生で遣り残したことが何なのかは本人にもわからなくて、いつの間にかそれが偶然に「与えられる」話なんだけれども、『ワンダフルライフ』は半ば強引に、その選択を迫られて、強引に「選択する」という話だったんです。
■人生とクライマックス:葬式では誰もがいい人になる
で、
『ワンダフルライフ』という映画については批判もありました。「人生におけるクライマックスなんてねぇだろ。人生なんて、日々の連続なわけだし。欺瞞じゃない?」と。
それはそのとおりなんです。「クライマックスとなる一点」を選択して、人生全体を俯瞰しよう、というのはいずれせよ欺瞞なんです。
わたしも、最近祖父母が連続して亡くなりましたが、みんな葬式のときにはいきなり、「いい人」としてのエピソードみたいなものを強引に選び取られて、その一点でその人のことを語るような。ある種強引な、<物語の儀式>みたいなものを、死に際して、制度としてつくりあげてきた、というのが実際の歴史としてあるのだろう、とそのときはしみじみと思いました。そんな、人の人生をどこか一点のクライマックスによって描くなどということができるわけがなかろう、と。
それは本当にそのとおりで、知らない人の話だとなんとなくそんなような気になるんだけれども、身近な人の話だと「おいおい、嘘じゃないけどさぁ」みたいな気分になるわけですね。
まあ、それがかなり、強引な、とても強引な語りであるということは間違いがないのだろうな、と。でも、そういうある種の嘘というのは、ある意味でとても「わかったような気」にさせるものとしては、重要で、そういう小話がずっと、何千年も繰り返されてきた。それは、たぶん消えなくて、死んだときまで人は「あの人ってああいうキャラだよね~」みたいなことを言われ続けるというか、死んだときにキャラとして完成するというか、そういうところがある。
■与えられるか、選択するか、選択されるか
で、Angel Beats!、ワンダフルライフ、葬式、というこの三つを並べてみると、それぞれ、
1.クライマックスを与えられる話
2.クライマックスを選択する話
3.クライマックスを他人に勝手に選択される話
なわけです。
並べてみると、思うのは、三番目の葬式は一番、最悪で、自分のことを一面的にしかわかっていないであろう自分の子供だとか、そういう人々によって勝手に物語を作られてしまうのだから、最悪でしょう。
で、『ワンダフルライフ』の話は、クライマックスという欺瞞そのものを扱っていて、その欺瞞を欺瞞としりつつ、強引に、制度的に与えられる。制度的に与えられた感動でしかないことを知りつつ、あえてそこにコミットしてみる、みたいな。そういう話になっているわけです。
■クライマックスは、なぜあるのか。
で、『Angel Beats!』ですが、これは成仏の条件。すなわちクライマックスの中身というのは、これは「死んだときのわたし」の欲望、によって規定されている。その「死んだときのわたし」の欲望によって規定されているわけです。
わたしとしては、それはやっぱり、「人生にもっとも重要な一点がある」ということを、あたかも生得的(?)にあたえられたような、自然性をもったものとして表現してしまっている。欺瞞を生き延びさせているのではないか、ということを、まずは思います。実際の葬式のなかで明らかに欺瞞でしかない、アレを。なんか、機能させてしまっていて、うさんくさくてやってられない。ただ、「人生を象徴する」というウソを、現代の葬式のようないびつな儀式よりも、いささか、気持ちよく見せてくれるものではあるのだろう、な、と。
そういう感想は抱きました。
■クライマックス、への熟達
あと、みなさん書いていらっしゃいますが、ガルデモの歌のところのクライマックスの作り方みたいなところだけは、ひどく手堅くできていて、
そこらへんのぐぐぐっと盛り上げる感じの演出みたいな。そういうところは、すごいな、と。
ただ、麻枝さんのシナリオでそれをやられると、わたしはいつも醒めてしまって、あまりにあざとい、ということも一方で思ってしまって、葬式のときのスピーチを聞いているようなそういう気持ちにいつもおそわれます。
そう、麻枝さんのはなしは、ほんとうに葬式のときの過剰に派手なスピーチを聞いているような、そういう気分にいつもなるんです。