みかみ(みみかき) さんの感想・評価
4.0
物語 : 3.5
作画 : 5.0
声優 : 3.5
音楽 : 4.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
メッセージ性とか、テーマ性とか、そういうものをどうして「必要」としてしまうのか
「国民的アニメ」としての地位を得た、ジブリ×宮崎駿という看板。この、スーパーヒット確実な、状況のなかで、一定の思想性・社会的メッセージをもった作品をヒットさせた、ということがもっとも大きな意味だろう。
本作の成し遂げている最大の功績はそこである。…というか、その点にしかない、とすら今現在のわたしはおもっている。あくまで、それひゃ「社会的意義」という点においてであって、作品としての魅惑や、メッセージの内実、という点について言うと、ちょっと素直に褒めるのはいろいろと難しいと感じるところがあるのだ。これは。
第一に、環境問題をめぐる構図の描写が、そもそもこの作品のようなものであって、はたして良いことなのかどうか?つまり環境思想の問題。
第二に、一〇〇歩譲って、本作のメッセージ性がたとえ支持できるものだったとしても、物語において何がしかの社会的問題を扱うというやり方が本作のようなやり方が本当に理想的なのか、どうかということだ。つまり、芸術と言説の関係の問題。
結論から言ってしまえば、第一の、環境思想の問題としても、第二に芸術と言説の関係の問題としても、本作の評価は、ちょっと素直に高評化をつけることはいささか難しい。
■環境思想:もののけ、よりもナウシカ(漫画版)という評価は不動。
まず、環境思想のほうからいこう。
ナウシカ漫画版の「血反吐を吐きながら変わる!それが生命というものだ!」という言葉をしみじみと味わったことのある人は読まなくてもいい。
{netabare}
「人と自然」を対立構図として、高度な知能をもった獣たちの自立した社会を描いてしまうというのは、思想的には評価がわかれる(後述)が、物語としてはごくわかりやすく、エンターティナーとしての宮崎駿としてはナウシカよりも、明瞭に多くの人にとどく作り方を志向しているともいえる。
■「自然」は変わらないものなのか、変わっていくものなのか?
一方で、自然思想的にいえば、本作は実は退行しているようにしか見えないところがある。それは言っておくべきだろう。その意味では、結局のところ、なんで、宮崎駿はこんなものを作りたいと思ったのか、わたしには、いまだに疑問なのである。
自然思想として言えば、94年3月までに連載されていた『風の谷のナウシカ』の漫画版のほうが、はるかに実りのある思想にたどりついている。それは、単に漫画版のほうが長いから、言葉が豊穣である、という意味のみならず、自然観そのものが、議論するに値するものになっているということだ。
「人と自然」という二分法は、先述のとおりわかりやすくはあるのだが、固定された対立としてこれをとらえてしまうと、これは罠に陥りやすい。ごく簡単に言ってしまえば「人も自然の一部」というはなしだが、「自然の一部」であるとはどういうことか。
それは、もう一歩おしすすめてみれば「人という生命体の仕組みそのものが変化可能なのかどうか」ということが、より重要な問題となる。
「自然」は昔から変化しないシステムとして描かれることが多いが実際には、数千年単位でみると、多いに変化をし続けるものだ。一方で、100年や200年の単位でみると、変化の速度は人間社会のそれよりもゆっくりとしたもので「宇宙船地球号の資源は限られているんだ」というような、「変わらない自然」「限りある自然」という話になる。
「変わらない自然」と、
「変化し続ける自然」のどちらを我々の想像力の前提とすべきなのだろうか?
■ナウシカ=自然は変わる、もののけ=悠久の自然
ナウシカ(漫画版)における、ナウシカの答えは「血反吐を吐きながら変わる!それが生命というものだ!」ということだった。人も自然も、変化するシステムの一部なのだ。ナウシカは、人間が滅びた未来の話であり、その対象とする時間感覚も数千年や数万年といった極めて雄大な自然感を土台としていた。
一方で、もののけ姫は、人間と自然の「過去の歴史」を描いた作品だ。ここでは、人間というシステムは変わらない。自然というシステムも変わらない。
その「変わらない」人間社会と、「変わらない」森の生態系という二つの短期的には硬直したシステムが相互に衝突しあい、一方を征服してしまった負の歴史の物語、それがもののけ姫だ、ということになる。
人間と、自然がどちらも「変わらない」システムだと考えてしまえば、人間と自然のどちらが「持続可能」なシステムなのか、ということは明らかだ。
人間4000年。自然46億年。「自然」こそが、もっとも持続可能なメカニズムをもっている、という議論になる。それこそが、もっとも浅薄な自然思想の想像力だろう。この思想的想像力の延長には、「アンチ人間社会」を気取るシーシェパードや、グリーピースのような迷惑な「自然原理主義者」のようなものが待ち構えている。
だが、『ナウシカ』における自然観は違う。「人は変わる、自然も変わる」だから、自然は圧倒的な勝者にはならない。自然と人間を区別する、という視点自体が、存在しない。「人をとるか、自然をとるか」「人が大事か、自然が大事か」ではない。
人のありようそのものが、いかに変わっていくか。自然のありようがいかに変わっていくか、という調整と変化をめぐる試みこそがナウシカにおける壮絶な覚悟をもった「友愛」の世界だった。命をかけて、人間社会をぶちこわすのではなく、命をかけて「変わっていく」こと。
それこそが、『ナウシカ』において示された思想的到達点だった。
■ナウシカの後にもののけ、ではなく、もののけの後にナウシカが作られていれば。
繰り返すが、もののけは「過去」の話である。
ナウシカのような未来が数千年、数万年後に変わるという話ではない。
その意味で、ナウシカが問題とする状況にとどりつく以前の、非常に初歩的すぎてわらってしまうほどの議論を「わざわざ確認」するためのものとして、本作がつくられた、ということであれば、わからないことはない。確かに問題の起源を象徴的に描いたはなしとしては理解できる。
当時の宮崎駿のインタビューやらなんやらを察するに、どうやら民俗学的な世界観に、目覚めた、ということのようだったし、中世に、日本人は、森の神を殺したんだ、と。そのことを象徴的に描きたかった、というのはわかる。それもまた、人類と自然とのかかわり方において、重要な歴史であり、重要な問題を構成しているものではある。
しかし、神殺しの後に、対立構図そのものが、機能しなくなるような世界をきっちり描くようなところのフォローみたいなところが、まったくない、というのはやはり重大な片手落ちだろう。
物語を終わるタイミングがそこっていうのは、やはりまずい。最後に、アシタカは、人の側でも、自然の側でもどちらでもない、という両義的な立場を最後に選択する。これが、せめてものフォローといったところだろう。しかし、これがアシタカの、たった一言、というのはやはり圧倒的に足りない。ほとんどの人は、自然vs人という対立構造を
「容易には変えられない対立構造があり、その問題枠組みを前提に悩んで、共存を目指すのが大事」
みたいなメッセージぐらいにしか解釈できないだろう。それでは、あまりにも残念だ。問題を2つの異質なメカニズムの「対立構図」として理解した、その瞬間に、問題の解決の仕方の想像力も限られてしまう。
わたしには、そもそも、こういう自然をめぐる想像力が普及してしまったこと自体が、不幸なことだと思う。われわれは、本当は、こういう想像力のもう一歩、先に行かなければいけない。
{/netabare}
■想定再反論とか。
{netabare}
まあ、もちろん、コレでも、まあなんとか好意的に評価することもできるっちゃできる。最後のアシタカの一言でどうにか踏みとどまっているし、全体に好意的な解釈をして「あれは対立構造じゃないんだ」とか言いだそうと思えばできないことはない。それはわかる。
別にそれはそうだと思ってます。
ただね、そういうことをいう人は、確かに一定数いて、わたしはそういう人の書いたものも読むんだけれども、いつも、感想はいっしょなんです。ひどいようだけれども、
「じゃあ、あんたは、あの映画をみた、大多数の人間が、ほんとうに、そういう素朴な対立構造以外の構造を、映画のなかに見出したのと思うのか?」
と。
パンピー馬鹿にすんな、と思うわけです。
あたま良い人が、勝手に好意的に解釈するのは可能だろうけれども、宮崎さんのような圧倒的メジャーな作家が、メジャーに通じる作り方でああいうものをやっている。
これを普段、まともに本を読むことのないような人にとどけるわけだ、ぶっちゃけ、むりぽでしょー、と個人的には思うのです。まぁ、どうやったら可能になるか、と言われるとそれはまたとっても難しいのだけれども、少なくとも、世間のステレオタイプを強化はしても、ステレオタイプを破壊はしなかったと思うぜ…。という感想です。
{/netabare}
■メッセージ性とかを、どうしてこんなにストレートにやっちゃちゃってるのか?
{netabare}
でー、あと、あれですよ。
仮に、ここまで話してきたよーな、メッセージの中身が仮に妥当だったとしてもですよ。ああいうメッセージ描写って、「社会派作品」としてどーなの…?という話がもう一点あるわけです。
メッセージ性とか、テーマ性とか、そういうものが「高尚」だとか、思っているタイプの、作品解釈って、実を言うと批評理論とか、ちょっとでもかじった人は、実はあんまりしないのですよ。あれって、なんか、中高ぐらいの国語の授業で教えたりする先生がけっこういるらしいけれども、残念ながら、テーマ性とか、メッセージ性とかは、作品解釈上、重要な問題ではないんです。
むしろ、そういうタイプの作品解釈をすると、「あ、うん、この人は、批評理論しらん人なのね。おk」 という扱いを受けるので、ご注意ください。
理由はいろいろあるんですが、
いちばん、簡単なはなしからいうと、
たとえばね、メッセージ性が露骨にあるようなタイプの映画作りとかを肯定しちゃうとしましょう。すると、映画の出来の良し悪しじゃなくて、メッセージの中身が、映画の感想を決めちゃうじゃないですか…ですか、ということです。
たとえば、北朝鮮の宣伝映画とか、某宗教団体の宣伝アニメとかあるじゃないですか。
で、あれ。
まあ、普通、観ないわけですが、仮にアレを観たとして意外と演出がよかったとか、どうとか、そういうところがあったとしても、明らかにある特定のメッセージを露骨に肯定する物語なわけですよ。究極的には。
そういうものって、どんだけ演出がどうとかなんとか言うても、けっきょく、作品が伝えようとしているメッセージの中身そのものが問題になっちゃうじゃないですか。
それって、映画とかアニメじゃなくて、「単純に、言論雑誌で仕事すればいいんじゃね?」って話があるんですわ。
これは、文学と哲学(思想)との関係とかでもあって、昔っから、文学の人って、哲学に対する一種のコンプレックスみたいなものがすごくあるんです。人間の非常にねじれた問題を描こうとすると、そういう仕事って、文学よりも、哲学のほうが「明晰」にやっていたりして、文学の人って「おれらの仕事って哲学以下なの?」って悩むことが多いのです。でも、文学の長い長い歴史のなかで「やっぱり我々の仕事は哲学の人間にはできない、固有性がある」も発見している。
何かというと、すごくざっくりと言うと、「問題を明晰に語ること」は哲学の圧勝。ただし、そうではなく「なぜ、問題が悩ましくなるのか、をまざまざと描くこと」を描くこと。この点においては、文学・映画・アニメといった物語の表現は、哲学に圧勝できるんです。
すごくざっくりと言うとね。
たぶん、この問題について、
あにこれ内だと、宗助さんとかはご存知の上で、
>監督自身、「Aがいいのだ」と言った2年後のインタビューで、Aについて怒るような人だ。しかもその矛盾だって本人はわかってるようで、単純な社会批判なんてしない。
とか書いてくださっている。
■ただ…そこにはさらに悩ましい問題が…
ただし、宮崎御大がこの問題にどう対峙しているのか、というのはかなり悩ましい問題。
宗助さんは、宮崎御大に対して、非常に好意的なことを書いていらっしゃったのだけれども、宮崎さんに対するわたしの解釈はちょっと違っている。
あの人は、そりゃまあ「単純な社会批判いくない」ぐらいの議論は、そりゃ頭の一部では理解しているとは思うが、一方で理解しつつも、単純な社会批判をやりまくってしまうことを抑えられない男…それが宮崎御大だと思っています。
宮崎さんのことは、むろん、わたしは非常に尊敬はしておりますが、偉大な人物の知性というのは、たいがいが偏りに偏りまくっているものだと思っております。ええ、まあ、だいたいあれですよ。いわゆる一つの良くも悪くも「イッちゃってる」。
手塚先生の追悼文にどうして、「あいつがアニメ界の賃金構造をダメにした」とか、なんとか、どうしてああいうことが書けてしまうのか。まあ、「あえて空気読まないで発言することの意義」はもちろん、あるんだけれども、宮崎さんは、やっぱり経営とかマジで興味ねーんだな、鈴木敏夫さんがいなかったら、絶対にジブリつぶれてんな、こりゃ…と思うわけです。
宮崎さんの知性は、いろいろな教養に支えられているとは思うけれども、そうは言ってもなんだかんだで、究極的には「良いエンタメ映画をつくる」という一点に、その知性は集約されていると、わたしは思っています。
だから、どうやってメジャーに受ける良いエンタメ映画を作るか…その問題のために宮崎さんは、たぶん、文学と政治をめぐる問題とか、たぶん、知ってはいるけれど、どうでもいいんだと思うんだよね。あの人。
ある種のメッセージ性を素直に感じてくれたほうが、オーディエンスに届くものがあるのならば、たぶん、宮崎さんは、その方法を素朴に選んでしまう。
そういう人なんじゃないか、とわたしは思っています。
で、メッセージ性とか、テーマ性ってさ、露骨な形であるとあるで、実は一般受けは、すごくよかったりするわけです。
そこらへん、決着がつかないかんじで、もよよーんとした文学のかおりのする作品よりも、明確に言い切ってくれる作品のほうが、マス受けはすることはかなり多い。それは、なんか、ほら、こうワンピースとか、見てると要するに、そういうことなんだな、って思うわけで。
まあ、ワンピースほどまで露骨なアレはさすがに躊躇われるにしても、ワンピースほどまでにされると、さすがに、宮崎アニメのオーディエンス層から馬鹿にされるんで、それを調整して「テーマ性をちょっとだけ宙吊り」にして終わらせるぐらいのバランスに留めてるのがもののけなんだろうな、と思うわけです。
でも、「かなりがっちりと、テーマを宙吊り」にすると、オーディエンスから、「は???結局なんなの?何言いたいの?意味ワカんないんだけど????」とか言う、こころない反応がくる可能性のほうがめっさ高いので、それはやらない。
それをやったとしても、宮崎さんならある程度のヒットは飛ばせるとは思うけど、たぶん、Beutiful Dremerとか、あのぐらいの作品のヒットが限界で、ミラクルヒットは、たぶん、きつい。
宮崎さんは、そこらへん、たぶん、天然なのか、計算なのかはわからないけれども、マス受けのエンタメ作品をつくる、ということについて、徹底的に彼の知性は磨かれているのだと思っています。
それが、ミスター宮崎。
わたしは、そういう、マス・エンターテイナーとしての宮崎さんを深く尊敬しています。
だから、『もののけ』は、わたし好みの作品なのか、といわれると、その点は、まったく頷けないけれども、
『もののけ』のマス作品としてのあり方自体には、一種、言いがたい感動というものがあるわけです。
つまり、文学としてはダメだけど、マーケティングやエンタメ産業と「思想」の融合の仕方としては、これ以上ないというほどに、よく洗練されたバランスであると思うのです。
だから、文学の人たちの既存の評価枠組みの作り方――「価値を宙吊りにした上で、その悩ましさを書くことのすばらしさ」――ではなく、
「いかにエンタメとして成立させつつも、その中に政治性をいれこむか」という問題に対する、コタエ方としては、やはり、これはものすごい達成であり、
むりくり文学的評価を与えるのではなく、
「エンタメ批評理論」とでもいうべき、独自の批評理論ジャンルを立ち上げるつもりで、評価するのであれば、本作ほど、すばらしいものはほかにはなく、
すげー、、、ということを思うのです。
{/netabare}
*
なので、エンターテインメントとしての『もののけ姫』にはたかく評価はするが、文学としての『もののけ姫』に対するわたしの評価はどうしても低い。でも、それでいいんです。
それこそがすばらしいんです。
■パズーの「40秒支度」に匹敵する、アシタカ「ヤックルを頼む!」
なお、まったく別の雑談だが、
本作で多くの人の記憶に残っているのは文脈すっとばしての「生きろ!」など、いきなり感のただよう台詞とかの粗忽さのようなところだろうが、わたしがなんともいえず印象に残っているのは、アシタカが「ヤックルを頼む!」と村人にヤックルを高速に託して飛び出していくシーンだ。
ここは、わたしのなかで「40秒で仕度」するパズーのクオリティと双璧をなすと思っている。
決断がはやすぎて、潔すぎて、そして相手の都合おかまいなしすぎるのだ。わたしだったら、ヤックルを頼めない気がする。
こういう主人公を描ける宮崎駿の脳内はいったいどうなっているのか、ある種のリーダー気質だとか、短気さみたいなものに支えられている人格の人でなければ、むりなのではないだろうか。