みかみ(みみかき) さんの感想・評価
3.8
物語 : 3.5
作画 : 4.5
声優 : 4.0
音楽 : 3.5
キャラ : 3.5
状態:観終わった
世界に対する、こどもの不安さ
「あんまりくっつかないでよ歩きにくいから」
と、煩わしそうに千尋を退ける母親のことば。あれこそが、わたしにとって、この作品の魅力の核だといっていい。ほかの部分はどうでもいい。そういう自分勝手な見方をしている。
なので、この一言を成立させているすばらしさだけで、わたしにとっては、ジブリ作品のなかでもかなり評価が高い。
■帰ることのできる冒険、のうそ臭さ
千尋の親の身勝手さの描写は、いままでの宮崎駿に関する印象を一八〇度変えてしまうインパクトがあった。
うちの親が、車でいろいろとまわるときに、ふと、突然、小さな道にはいって、ちょっとした探索をしようなどと言い出すことが昔からあった。
だけれども、この冒険心というのは、一見子供のような感覚から出ているようでいて、その実はまったく子供のそれとは違う。
小さな子供の行う冒険というものは、常にどこかで自分自身の存在の小ささ、無力さというものを感じている。だから、知らないところへ足を踏み入れる時には冒険心と共に常に恐怖心が心の半分を支配している。
「怖くなったら逃げ出そう」
「帰り道がわからなくなったら怖い」
「ここから先はどんな目に会うかわからない」
というそういう感覚が絶対にある。
子供にとって世界は自明なものではない。
常に未知ととなりあわせであり、そこには妖怪がひそんでいるかもしれないことも想像するし、夜の街には怖い人がいるかもしれないことに怯える。その感覚は絶対にどこかで存在している。
しかし、大人にとっての冒険はちがう。
世界は自明で、迷いこんで帰れなくなることはない。冒険の先にもどこかで管理された場所がまちかまえており、彼らは自分がその先にひろがる未知の世界に迷い込むことなど想像しない。
「絶対に帰れる」
ということを完全に思いこんでいる。その冒険の先にひろがる世界は怖いものなどでは全く無く、日が暮れるまでには絶対に帰りつくことのできる程度の冒険でしかないのだ。
その限りで「子供のような冒険心」は大人達自身の自己陶酔の領域を決して越えることは無い。「子供のような冒険心」などというノスタルジックな感覚にひたるのはとんだ自己満足なのだ。
大きなおっさんの中に潜む「子供のような冒険心」の裏では常に自明な世界感覚が、それをささえている。それは決して子供の冒険心へと同じになることは無い。
千尋をひっぱりだして奥へとすすむ両親の冒険心は、それはガキ大将の勇気ですらなく、(宮崎駿的には)「大人の現代人の身勝手」以外の何物でもないのだ。彼らの小旅行は、子供達が隣り町へゆくというような大冒険などよりもずっと傲慢で、ずっとつまらないものでしかない。
「あんまりくっつかないでよ歩きにくいから」
という言葉に象徴される、煩わしそうに千尋を退ける母親の感覚は、はっきりと恐怖の感覚などとは違う。
そういう感覚の描写があるからこそ、千尋の不安、は引き立つ。
そう、子供の頃、世界はもっと未知でおそろしいものだったのだ。
■宮崎駿の現代人への憎悪
宮崎駿というのは、ある意味で現代日本人への憎悪みたいなものを強烈にもっている。
「無反省で傲慢で、食べることにも、暮らすことにも無頓着な現代人は、なんて嘆かわしいやつらなんだ」みたいな話は常に繰り返している。だけれども、多くの場合、その憎悪はファンタジーの衣装によってある程度やわらかい表現になっている。ナウシカしかり、ラピュタしかり、もののけ姫しかり。※1
はじまりの数十分間のこうした表現は、宮崎駿のそういった現代日本人への憎悪によってこそ、可能になっているものだろう。
■後半:40秒で仕度できそうな勢い
その一方で、無反省で傲慢きわまりない現代日本人たちによって「国民的に」愛される作家である。そのことのきわめて複雑な心情は、なかなか理解しがたいものもあるが…
それはさておき、
後半については、いつもの愛されキャラとしての、宮崎駿大先生の、ご登場である。
前半は、「40秒で仕度」はとても、できなさそうな少女の描写が秀逸だった…のだが、後半では、未知で不安な世界のなかで、うろうろとする人物像は潔く否定的に扱われる。それを「成長」として描写する宮崎御大の人間観には、あきらめを通り越してもはや定番の安心感すら感じるところがある。
むろん、映像表現としての注目すべきポイントはやまほどあり、その意味では非常におもしろく見た。最後の、みんなが注目して静まりかえるなかで、事件が落着する展開とかね、もう、ほんとよく出来た職人芸。
更新情報:2011年11月23日・文を再構成