みかみ(みみかき) さんの感想・評価
4.3
物語 : 4.0
作画 : 5.0
声優 : 4.5
音楽 : 3.5
キャラ : 4.5
状態:観終わった
エヴァは何を救ったのか
(エヴァ評 その1:承認欲求編)
エヴァについて書くのは恥ずかしいことだ。
そう思っている。
間違いなく、これは90年代最大のインパクトを誇った物語だ。それゆえ、包括的に書くことは難しい。どう書いても、誰かに何か言われるだろう。「わたしにとっては、そういうものではなかった」と。
だから、とりあえず、まずは個人的な雑感を――とりわけ人の承認欲求にかかわるものとしてのエヴァについての話を――すこしまとめておきたい ※1。
■「立派になりたいとすら思わないわたし」の居場所
当時、内向的な性格だった私自身も、ご他聞にもれず、たいへんハマッた。
そのこと自体が恥ずかしいといえば、恥ずかしい過去でもある。しかしながら、それは一方で、わたしにとっての大事な過去でもある。
ハマッた当時、シンジくんに、ベタに感情移入しながら見ていた。
これは、シンジくんに感情移入できるかどうか、でまったく観方が変わる。
だから、ここからの記述は15年前にシンジくんに感情移入できた側の人間の書いたものだと思ってもらいたい。
当時のわたしにとっては、エヴァは「内気なわたし」に何か希望をあたえてくれるもの、でもあった。
その理由は主に二つある。
一つには、「どこにでもいるしょぼい私が、一足とびに世界の救済にかかわる」はなし、だったことだ(※2)。
シンジくんが世界の救済にかかわりえた要因ははっきりといえば偶然に与えられていた資質でしかない(※3)。だが、「偶然」ではなく、多くのスポーツマンガにあるような「能力もある人間が努力によって、世界をすくうヒーロー」の話よりも、偶然によって世界を救う、という話は多くの凡庸な人々に希望をあたえる。たいした能力もなければ、努力をすることもできない。そういう人間に希望を与える話だ。
もっとも、「どこにでもいる凡庸なわたし」が見出され、肯定される話は、少年少女向けの話ではよくある。
「クラス一の人気者の彼に、ワタシなんかが告白されるだなんて…!」的な少女マンガのお約束展開でもある。肯定されるべき本人の自己評価の低さ、の種類はいろいろとある。少女漫画の場合は、多くの場合「ドジなわたし」「普通のわたし」だ(※4)。だけれども、多くのマンガやアニメでは、最初はドジで凡庸なわたし、が次第に精神的に成長し、努力家になったり、こころに余裕が出てきて周囲に配慮のできる人間になっていったりする。
「努力」や「成長」によって、ヒーローになる話というのは「立派な人物」を称える話だ(※5)。
「立派で善良な人物」を褒め称える話では、わたしは救われない。
そういうことを思う人は、たくさんいただろう。全く立派ではないわたし、が生きていくしるべがあるのなら。それを見てみたい。立派ではないわたしが「いけない」ものではない、ということ。それをどうにかして肯定することができるのならば、その形を見たい。
そう思っている立派ではない少年少女。そもそも「立派になりたい」とすら思うことのできない少年少女は、全国に何万、何十万といただろう。
立派ではないわたし、が何がしか、世界にいていいのだ、と思わせてくれる。そういう物語がある。そして、その「立派ではない」わたしの、立派でなさ加減たるや、だいぶ徹底して救いがたい。そういう人間に救いがあるような世界観を提示してみせたこと。それだけで、エヴァは救いだったと思う。
■人を肯定してみせることの「闇」
「あなたは、何も恥じることはない」
そのことを強く感じさせてくれる経験は、強い力をもっている。
だからこそ、実は、この経験は危うい力としても用いられる。
うがった言い方をすれば、エヴァの熱狂は新興宗教の教義があたえる熱狂と同類のものである、というように言ってみせるひともいた。それもそうだと思う。当時で言えば、「オウム真理教にハマる若者」と、「エヴァへの熱狂」が同類のものだ、という評論家は、決して少なくなかった。
自分なんて生きていていいのだろうか、という自分への自信のなさ。
同時に、世界の役に立ちたいという底なしにピュアな善意。
その二つを同時に兼ね備えた若者というのは、そこらじゅうに転がっている。そうして、どうやって世界と関わっていけばいいのか、その関わり方がわからなくなる。それは「若い」ということのもっているそもそもの性質なのだ、とわたしは思う。※6
そういう若さ。
それは「<しょぼいわたし>が、いきなり<世界の革命>に関わることができる」というストーリーに惹かれやすい。
オウムが信者向けに用意していた話も、そういうものだった。
オウムの信者と、シンジくんとほとんど同じじゃないか。そういう批判は、実際あった。※7
こういう話は、いつしか定番のパターンとなり、二〇〇〇年代にはセカイ系、と呼ばれるようになった。
こうしたお話、が新興宗教と類似の性質をもっていること。それはそのとおりだと、わたしも思う。
だから、「エヴァなんて駄目だ」という人は、たとえば次のようなことを言う。
「こんな浮世離れした話をみていないで、仕事で成功して、自分の自信をつけなさい」
「こんなウジウジしたものを見て救われてないで、地元に親しい友達を見つけて、友達から認めてもらいなさい」
と。
それは、それで、そのとおりだということは、ある。
その説教も、意味がある、と思う。この作品のラスト自体をそういうメッセージだと見て取るひともいる。
一方で、その説教によってはやはり救われない人もいる。それもまた、もう一つの事実だ。
仕事にも、友人にも、勉強にも、どう頑張れば、自らの居場所を得ることができるのかわからない。
そういう少年少女は、溢れかえっている。そういう気分になっている人に、「あなたを肯定する物語」を与えることは、決して意味のないことではない、とわたしは思う。「新興宗教と同類の欲望を与えているのが事実だとしても、アニメという代理のもので欲望を昇華しえているのだから、問題はない」と、そう言うこともできる。
一方で、
「おまえらはみんな乱暴なんだ!おまえらは、ぼくのことなんか、ぜんぜんわかってないんだ!!」
そう言い続ける人は、いる。
そう言い続けたい人のための、免罪符として、エヴァのような物語があることにすがる人もいる。
「ダメな自分」をいつまでも肯定し続けるためだけの装置になってしまっていたことも、もちろんあっただろう。
そういうことの道具としてエヴァのような物語が使われたら、それはやっぱり不幸なことだと思う。
エヴァはその意味で、危険な物語である。
■危険であり、重要な承認でもあるということ
そういう、危険な物語。そういう未熟な人間のための物語に、ハマったということ。
それは、今の視点でどう考えるにせよ、十代中盤の中学生のときのわたしが、どハマリした事実は、恥ずかしながら、素直に書けば承認欲求の問題だ。
それは恥ずかしいとも思っているし、それは大事な「思い出」だとも思っている。
この手の、そういう承認欲求の問題は、
未熟なものとして否定してもいいし、
しかしながら普遍的な悩みとしてもちあげてもいい。
その二面性をもっている。
未熟者を釣り上げるだけの話だといえば、「コンプレックス商法乙」という批判もでてくる。センチメンタルな表現による無内容な自己肯定とも言っていい。悩める日々を美しく描くことで、未熟さにとりあえず「青春」とか「思春期」とかいう名前をつけて肯定してみせる。そいういうやり方で、それは一部の新興宗教の与える物語とも実は近しい。
普遍的な悩みなのだと言えば、「少年少女の繊細で、重要な問題の表現」になる。それは、実際、どこにでも転がっている凡庸な悩みでありながら、どこにでも転がっている凡庸んな悩みだからこそ、きちんと取り扱われることを要求する問題だ。
わたしは、ダメで苦しい自分でしかいられないのか。もっと、立派でラクな自分になれるのか。
そういうことは、人生のいつまで経ってもわからないけれども、
若ければ、若いほどにそういうことは全くわからない。
人生を少し生きていくと、「ああ、わたしはこういう自分でもありえたのか」と納得することもあれば
「ああ、わたしにはこれが限界なんだなあ」ということをしみじみと思うこともある。
若いということは、その範囲がまったくわからない。
「自分」についての不安が、とても、とても大きい。
だからこそ、「立派なわたしになる」ためのヒーローものや、成長物語が希望を与え、
同時に、エヴァのような「立派ではないわたし」の抱える不安の物語も、一種の安堵を与える。
どちらかの視点だけを強力に打ち出してくるようなタイプの考えは、わたしは非力だと思っている。
どちらかが、完全に消去されることはない。
そこのところのややこしさはある。
立派であることを諦めるばかりでは、未成熟なまますぎるし、
立派になれないことがある、ということを理解できないのも阿呆すぎる。
自分ではなく、他人に対して「おまえも、もっと立派になれよ」としか言わない人間だったりすれば、それは無神経すぎる。
何かに「立ち向かうこと」と、何かから「逃げること」との価値は紙一重だ。
そのバランスが難しい。
どうしても傷が深い人間には立ち向かえないことはあるし,
だからといって逃げてばかりいてはいけない。
そのバランスが難しいからこそ、いつまでも、人は脳天気に悩みから解放されない。
「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ!」
というシンジくんのテンプレートは、まさしく、そのバランスの難しさに直面した人間のそれだ。
エヴァは、何かから「逃げるかどうかを迷う」話である。
立ち向かってばかりいる人には「逃げる」ことの感覚を思い出す話は、それはそれで貴重なものだし、
「逃げている人」には、世の中に数少ない(※8)何かから「逃げるかどうかを迷う話」は貴重だろう。
迷っていい。
■沈黙のわからなくなってしまったわたしにとっての価値
シンジくんは、基本、とってもウジウジとしていて煮え切らない。
「凡庸」というよりも、もっといえば、自己評価が低すぎる人間、だといったほうがいいだろう。
「自分など、生まれなかった方がよかったのではないか」
そういうことを、思春期のときは何度も思った。
自己評価の低さにあえぐ日々を送る人間にとっては、この人物描写はやっぱり深刻なものがあった。
エレベータのなかで訪れる長い沈黙など、どうしようもなく、ささった。
エレベータの「沈黙」や、綾波が雑巾を絞っているのを遠くから見つめている風景や、カヲルくんをエヴァから握り締めてながく沈黙する、あの沈黙の間の表現は、ひどく印象にのこっている。
わたしは、この場にいて、何をすればいいのだろうか?
そうやって、うろたえることが、わたしの昔の日常だった。
わたしは大人になってから、
「何をやっている人間なのか」を宣言することができる何者か、になった。
何かの専門家であったり、何かの職業の人間だったり、会社の人間だったり、
そういうものになった、ということだ。
それはそれで辛いことは、もちろんあるけれども、
行く先々で、わたしが何を期待されているのかが、だいたいは、わかるようになった。
会議があれば、会議の時間で、わたしがひっそりと沈黙しなければいけないことはなくなった
そうすると、不思議とこういった少しの沈黙や、人の微妙な言葉遣いなどがほとんど気にならなくなった。
今はこういう沈黙の「重さ」がほとんど感覚的にはわからない。
だけれども、かつてのわたしにとっては、こういう「沈黙」の重みこそが、切実な日常だった。
こうした、きわめて自己評価の低い人間であっても、なにがしかの形で肯定されえたり、とんでもなく重要な問題の中心に置かれたりすることを描く。
それだけで、これは、わたしにとっては、これがとても重要な物語たりえた。
三〇を過ぎて、
今になってみると、シンジくんに感情移入ができるかどうかは不安だ。
いま、見たら、まったく違う感覚で見るしかないだろう、と思う。
エヴァを見ることは、今のわたしにとっては、そのときの感覚を思い出すことになるかもしれない。
それならば、それはそれで、今のわたしにとって貴重な物語だ。
むろん、エヴァの全体のこうしたエポックメイキングな方向性は、描写の細やかさや、作話、作画の水準などの高さに支えられているのはいうまでもない。
■■■■注■■■■■
※1 なお、別途、エヴァの「解釈論」にかかわる感想を、「新世紀エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に」のほうのレビューで書きました。「エヴァの「難解さ」ははっきり言って、ただのフェイクである」という一般に言われていることを全面的に肯定しますが、そのフェイクがどうして、機能したのか、ということのほうについての話です。
※2 いわゆる「セカイ系」
※3 シンジくんが、乗ったのは「必然」だったんじゃないか、というツッコミをいただきましたが、物語の受容のされ方によっては、そう感じられる、というのは確かにそうだと思います。なので、はじめの書き方だと、言葉遣いが適切でなかったかも…と思い、少し言い方を変えました。
わたしがここで案に前提としている対比は次のようなものですたい
A:努力によって能力を得た人が必然的に選ばれる物語
B:たまたまの才能や、ほんとにただの偶然によって選ばれる物語
との対比です。
その人の自己評価などをめぐるさる社会調査で、努力・才能・運を分けて議論している話がありましたが、この三つは、それぞれ
・努力:後天的で、コントロール・選択可能なもの
・才能:先天的で、コントロール・選択不可能
・運:後天的だが、コントロール・選択不可能
という分け方になります。(シンジ君は、デザイナーベビー的な側面がありますから、先天的にコントロールされた存在…とも言えますが)。要するに、ここでわたしが書いた「偶然」というのは、「運」という意味ではなく、本人によってコントロール・選択不可能な要因によって、エヴァにのるわけで、その意味で「偶然」と申し上げました。
まあ、「努力する才能をどう考えるか」とか突っ込まれると、話がさらに混沌としていくというか、ディフェンスをするためにもってまわった言い方が必要になってくるわけですが、そこまで配慮した書き方をしようとすると、言葉の定義や選択をゼロから述べていく学術論文みたいな記述になってくるので、この程度の説明で許してつかぁさい。
※4 さらに言えば、シンジくんと、当時のわたしは、他のマンガなどで表現されている人格なんかよりも、だいぶ性格的にも近しかった。あそこまでいじけていたかどうかは、さておき、人の多い場所が慣れなかったり、会話に入れなかったりするコミュニケーションに対する自信のなさ、というのはだいぶ似ていたように思う。
※5 こういうものは、いまや誰もが古臭いと認める高度成長期的な価値観を、再強化するものでもある。その意味で、ヒーローの話しか存在しない世界と比べれば、こういう偶然性によって個々の人間の固有性を肯定する、という話の存在は、相対的には歓迎してもいいものだろう。(このような擁護の論理自体、ふるくさい)。こうした「高度成長期」の価値観への批判というのは、もう何週もしてしまって、賞味期限切れではあるけれども、一応、定番ものとしては見田宗介の時代区分「理想」の時代→「夢」の時代→「虚構」の時代あたりは、なんのかんのいいつつ何度も参照されるので、まあ一応、前提として確認しておきます、ということで。現代においても、「理想」を前提とする価値観こそを高尚なものと考える素朴な議論はあとをたたないですし。
※6 2012年現在においては、こういう「高度成長経済のメンタリティ」とからめてセカイ系を論じるという議論設定そのものがもはやきわめて古臭いわけだ。…が、いずれにせよ、こうした「高度成長」「バブル」の物語のあとにくる承認欲求物語はまったく空白だった、ということを論じていたのが、80年代後半~90年代の論壇だった。
ある種の論壇人とかは、こういうタイプの「高度成長」「バブル」後の空白を埋める物語として、エヴァが機能した、というようなことをよく言っていて、それはまあ、確かにそうだといえばそうだろうということは、わたしも思っている。
※7 少年少女が、どのように世界と関わっていけばわからなくなる瞬間というのは、何度も訪れる
青少年にむけて、こういった公共的な物語の空白というのは、90年代においてはじめて現れたものではなく、戦後1950年代~60年ぐらいの間にも存在していたものでもある、わけで。戦争のあとの空白感たるや、それはすごいに違いない。
そういうのは繰り返す。
最近だと、いまさらハルヒがそういう欲望を代替していた、と論じる人がけっこういっぱいいるけれども、こういうのは繰り返すものだから今だと確かにハルヒなのかもね。わたしがハルヒを見たときは、もうすでに承認欲求をめぐる問題からは、ほとんど自由だったので、ハルヒの中のそういう要素に対してはまったく反応できなくなっていたのだけれども。
※8 正確には、ジュヴィナイル小説だとか、青少年向けコンテンツに数が少ないだけで、純文学系だと腐るほどあって、それはそれでうんざりするような気分になることすらあるのだけれども…