みかみ(みみかき) さんの感想・評価
4.3
物語 : 4.0
作画 : 5.0
声優 : 4.0
音楽 : 4.5
キャラ : 4.0
状態:観終わった
よかったけど…(辻斬りさんへの応答を追記@2011年10月20日)
SAC 1stシーズンよりパワーダウンした感。最後のほうとかちょっとなー、と思った部分とかあったが、まあいろいろと裏話を聞いたら製作陣もたいへんなようなことだった。
下記、散文的に書きため
・全体的なトーンはよかった。なんか、招慰難民とかよかったよ。難民問題は日本人の想像力からは完全に失われている問題なので。ヨーロッパ諸国の難民論争とか、まじで聞いても感覚的によくわっかんないからなー。すごく厄介な利益対立構造があることはわかるけど。ここはネタとしてもってきただけでよかったけど、もっとうまく描いてくれてるとベター。ここで、いきなり革命闘争/三島/テロで終始するんじゃなくて、利益対立構造の描写をきちんとやってくれてたらなぁ、と思うのだけど。
・しかし、個別の11人は正直イミフ感があった。なんか三島由紀夫的なことやりたかったらしいが…。あと、サイバーカスケード的なものとか、ネット社会のシンクロニシティがテーマだったと思うのだけど、個別の11人になっちゃうと、ちょっとデムパにしか見えなかった。三島事件的なこととか、表現できてたら、実際すごいと思うんだけど。
・「初期革命評論集」って、いかにも全共闘世代的な想像力の延長線上でネタがくくられるのは、もう少しなんとかならなかったのか。思想、のリアリティはそこなのかよ。こういうのは、神山さんじゃなくて、押井さんが口挟んでんの?押井さんが口挟んでるとしか思えない…。
・あと、あの童貞の彼は失笑。そこでDTをどーんと前面化するっていうのは、ネタなのかマジなのかわからないあたりが最強にかっこよかった。悪役の彼が、なんか全体的に笑いしか引き起こさないんだよねw。クゼもそうなんだけど、今回は敵役がえらくファンタジー。
・最後に、船で脱出するアレは、かなり意味不明。当時、不審船騒ぎがあったから、っていうことらしいけど、それはさすがにミスチョイスでは。
・なんか、よかったところもっとあったはずなんだけど、ネガティヴなところだけが記憶に残っているな…
・要するに、ネタは良かったのだけれども、ネタの消化の仕方に「押井世代の呪縛」みたいなものを濃厚に感じたのが不満、というのが短い感想か。SACの1stシーズンはそういうの、そんなになかったんだけど。マジで、押井さんが口を挟んだポイントとか、誰かリスト化してほしいよ、これ。
・Solid State Societyのほうは、こういうネタの放り込み方から、消化の仕方まで、こっちよりもずっと上手くやれてる感じがする。
で、いまんとこ、攻殻シリーズの自分評価は
Ghost in the shell > SAC1st > SSS > SAC2nd
みたいな感じ。
●追記1:辻斬りさんに対する応答
辻斬りさんから、
ゴーダは、近年の劣化コピーのヒーローものしか描けていない監督に対する痛烈な皮肉なのではないか。童貞ゴーダこそが、そうした子供じみたものしか作れないだめ監督たちの戯画なのではないか、といった趣旨のコメントをいただきました。
(わたしのとこの、メッセージ欄で。)
それはそれで、興味深い意見だな、と感じつつも、
わたしはその意見には、下記二点の理由で、ちょっと同意しかねます。
A.まず一点目。「オリジナルなヒーロー」「劣化コピーではないヒーロー」など存在しない、と思います。
すべては何らかの形で、ほかのものの何かのコピーだったりアレンジだったり、する、というものだ、という世界観でわたしは考えている人間です。
アレンジの才能や、アレンジしたものを適したタイミングや文脈のなかで大々的にリリースすることは、希少な才能だと思っています。立ち位置とかが希少である、ということは成立すると思っていますが、コンテンツがコピーであること自体がだめだ、という発想は、ちょっと世界観が違っているので受け入れがたく感じます。
ネットワーク系の世界観をもってる人はだいたい、こういう感じのこと考えがちなので、押井さんも「オリジナル」のことは考えてないんじゃないのかな、とわたしは思っています。
クゼ自身オリジナルなんじゃなくて、ただの「ハブ」なんだし。
ただし、「ハブ」というものは希少性をもっています。そういった希少性が<結果的に>オリジナルのようなものとして機能してしまう、というのはよくわかる話です。クゼ、というキャラクターはそのことをあらわしていた、というようにわたしには見えました。
(ただ「なんか、説明くさいキャラだな」というのと、妙にナルシスティックなキャラだな、という気がして、わたしは好きになれませんでした。)
B.二点目に、「童貞=世間知らずの子供」という文脈ではない、と思います。
「童貞」をめぐる文脈は、古典的には(あるいは一部の2ch的には)ネガティヴなものが多いですが、
2000年代中盤以後は、みうらじゅんとかが「DT力」とか言い出していて「童貞」をポジティヴにとらえようとしていたり、童貞というものが、エキセントリックな能力としても機能しうることを考える、というのは結構、ひろまってきていると思います。
ゴーダは、どちらかというと、こっちの文脈を意識したキャラクターかな、とわたしは思いました。
別に、童貞であることが「良い」とは言わないまでも、ある種のエキセントリックさと結びつき、「俗物臭さ」みたいなものと隔離されたところにいることを可能にする何かにもなってる、みたいな感じをうけます。
攻殻は、前にも書きましたが、「俗物の登場しないアニメ」なので、「俗物でない」ということに対する自己言及みたいなことをわざわざ、象徴的にやってみせている感じがしました。
わたしはそこに、失笑をしていたりしたわけです。
●追記2:
>辻斬りさん:では、黒いコートの英雄たちはなぜ自決したのだろう? みみかきさんからすると解釈は?
確かに、「機能不全ヒーロー」「失敗ヒーロー」みたいなものが、出てきてしまう、っていうのは面白いな、とは思いました
ただ、それをダメヒーローに対する「批判」だとは思ってませんでした。ヒーローが、機能しない、みたいなことは確かにあるので。
ネットワークで情報がびゅんびゅん行き来する社会においては、いずれにせよ、ハブとなるポジションを得た人や情報が、大きな意味をもちます。
で、その「ハブ」としての機能を自覚的に仕掛けようとする、という試みが、今後の世界では何度も何度もおこってきて、そういう試みに対してどういう風に対処していくか、ということこそが、これからの「公共性」を考えることにつながる、という話を象徴的にみせるためにこそ、ゴーダや、個別の11人といった演出はあるように思いました。
つまり、
1)情報の行き来がはやく、ネットワークが拡散的に存在している社会と、
2)情報の伝達経路が決定されており、ネットーワークが一極集中する社会(えらい人のもとに情報があつまり、えらい人が情報の価値を決め、えらい人が情報をひろめる世界)
という二つの社会を考えてみましょう。
前者は、現在おこってきている「あたらしい社会」です。後者は「すでに過去のものとなりつつ社会」です。
ふるい社会のなかでは、貴族や王様や、国会の代議士の先生や、官僚がもっともえらい人だったわけです。彼らのもとに情報はあつまるし、彼らが情報を伝える人だから。「政治」や「公共」の問題を考える、ということは、むかしは「国会のことを新聞で読む」とかいうことだったわけです。
新しい社会のなかでは、ネットでいうところの「釣り師」みたいなもののほうが重要な役割を担います。情報の「ハブ」となる機能は、国の意思決定機関の中には必ずしもありません。世界のあらゆるところの片寄りに、偶然的にあらわれるようになります。それが、新しい社会です。この世界で、公共的な問題(政治とか社会とか)を考える、ということは、この「ハブ」機能となるものを、どのようにして、つくるか、ということになります。希少性は、国会の先生ではなく、ハブ機能をもった人になるので。たとえば、Facebookをつくったマークザッカーバーグや、Googleとかはまさしくそういった「ハブ」だろうと思います。彼らこそが、現在の「公共性」の問題の中心にいます。
で、重要なのは、ゴーダが政府の中枢の人間だということです。
古い社会ならば、権力志向の人間は、政府の上のほうに上りつめることを最大の目的とするわけです。
しかし、ゴーダはそうしない。情報の「ハブ」として機能するものをどう作り出すか、のほうにこそ力をそそいでいる。「新しい権力」の創出は、それによってこそなされるのだ、という自覚が徹底した人物、なのだと思います。
政府の中枢にいながら、政府こそを権力だと思っていない人間。これが非常に、ゴーダという人物の象徴性だろうと思います。
で、ゴーダが「失敗」する理由ですが、
攻殻が、比較的にオーソドックスなネットワーク論的/複雑系的な世界観を下敷きにした作品である、ということを考慮すると、
ゴーダの作り出そうとした、ハブ機能が、作為的なものなので。作為的なものの限界、ということなのかな、という気がします。
ハイエクという経済学者は「自生的秩序」という言い方をしますが、秩序というのは、作為的にできあがるものよりも、勝手にできあがってくるもののほうが、重要だったりするよねー、ということがあるわけです。
なので、作為的なものではなく、勝手にできあがってきた「クゼ」というハブ機能のほうが、おもろいよね、ということを対照的に描いていたのかな、と。
ただ、最近では、作為的に仕掛けたものが機能することもたくさん出てきていて、作為的なものが本当にどこまで通じるか、というのは論争的なトピックです。
なので、ここは、ある種の「情報社会の公共性」をめぐるイデオロギーというか、信念の吐露、みたいな感じもしましたけど。
参照1:
「オリジナル」概念の問題については、
西村 清和『現代アートの哲学』あたりに、入門的に丁寧な説明が存在していた記憶があります。この本は、実製作に興味のある辻斬りさんなどに、「役立つ」本かどうかは、自信がありませんが、コンテンツだとか、アートだとと言われるものに対する、人類の論争の歴史を、読みやすくきちんとまとめた本、としてはすばらしい本だと思っています。
参照2:
童貞の話については、
社会学研究者の渋谷知美が書いた『日本の童貞』などの本があります。
みうらじゅんと伊集院光が書いた『D.T.』をそのまま読んだ方が面白いかもしれませんが。
あと童貞的世界観をベースにした人間の怨念批評として本田透の『電波男』も面白いかもしれません。
参照3:
ネットワーク論は、これ、という一冊だけだとちょっとむずいというか、あまり入門的な本がありませんが、、
自生的秩序論ということでは、『ハイエク』の入門書。ハイエク的な世界観と、情報社会論を結びつけているものとしては、濱野智史『アーキテクチャの生態系』などがあります。
作為的に、ハブとなる機能を動かしてしまうという話を描いたドキュメンタリーでは高木徹『戦争広告代理店』という本があります。これはすごい傑作ですのでおすすめです。
また、高木徹が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『大仏破壊―バーミアン遺跡はなぜ破壊されたのか』も、読んでみることを強くおすすめします。これは、言わばビン・ラディンというのは、大成功したゴーダなんだ、ということを言っているような内容の本です。